ひとこと

  •  私が愛用していた龍角散の細粒が、どうやら随分前に販売中止になっていたようです。今飲んでいるヤツが無くなったら、もうお終いです。ああ、残念。次は、粉末の龍角散にしようか、それも龍角散ダイレクトにするか悩み中…。自宅では粉末を飲んでますが、細粒は主に職場で飲んでいます。職場だと、お手軽に飲めるのが大切だからなあ…。どっちにしようかな…。
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カテゴリー「声楽のエッセイ」の記事

声楽に関する様々な事柄について書いてみました

2018年6月 7日 (木)

声楽的な歌い方と合唱的な歌い方の違いについて

 最近、合唱の人と、何かと歌の話をする機会の多い私です。そこで、気づいた…というか、互いに認めあった、声楽的な歌い方と合唱的な歌い方の違いについて、メモ程度に書いておこうと思いました。

1)レガートとマルカート

 おそらく、一番の違いはここかな?って合意したのですが、それがレガートとマルカートの違いです。

 レガートと言うのは、音と音をなめらかにつないで歌う事です。一方、マルカートと言うのは、音と音をはっきりと粒立てて歌う事です。

 声楽的な歌い方の基本はレガートです。メロディーラインをたっぷりと溜めてつなげて美しく歌っていくわけです。合唱的な歌い方の基本はマルカートです。マルカートで歌う事で、歌詞をクリアに発音し、縦のラインを揃えて歌っていくわけです。

2)飛ばす声と溶ける声

 声を遠くに飛ばして歌うのが声楽的な歌い方であり、自分の声を周囲の声に溶け込ませて歌っていくのが合唱的な歌い方です。もし、これを逆に行ってしまうと台無しになります。周囲の音に溶けて観客に聞こえない声楽歌手の歌なんて聞きたくないでしょ? 合唱団の中から、特定の声だけが飛び出して聞こえてくるなんて、せっかくの合唱をぶち壊しにしてしまうでしょ? つまり、そういう事なのです。

 別の言い方をすれば、目立つ声と目立たない声の違い…とも言えます。

3)美しい声と正しい声

 もちろん、声楽であれ合唱であれ、美しくて正しい声で歌う事は前提ですが、どちらがより強調されるのか言えば、声楽では美しい声が、合唱では正しい声が、より必要とされます。

 ってか、声楽では、いくら音程やリズムやアーティキュレーションが正しく理想的に歌えたとしても、声に魅力がなければ、お話になりません。全然ダメです。正しく歌えるのは前提条件であり、それに加えて、美しい声で歌えないといけません。

 合唱だって美しい声で歌える越したことはありませんが、周囲の仲間たちとの声のバランスを取ることの方が、もっと大切です。自分一人が理想的に美しい声で歌えても、周囲の仲間たちがそこまでの声でなければ、あなたの声ばかりが目立ってしまい浮いてしまいし、せっかくの合唱をぶち壊して兼ねません。合唱では美しい声である事に越したことはありませんが、それよりも周囲と息を合わせ、声を溶かしていく方が大切です。

 ですから、声の美しさに関しては、声楽ほど突き詰めていく必要はなく、むしろハモっていくために、正しい音程・リズム・アーティキュレーションで必要があるのです。

4)一人で背負って立つ声とあなたに全部おまかせの声

 これは発声というよりも歌う姿勢の違いかな? 声楽ってかソリストと言うのは、その場の音楽的な責任を背負って立って歌わないといけません。これは、プロアマ関係ありませんし、舞台の大きさも関係ありません。一度ステージに立ったならば、ピアノなりオーケストラなりをリードしつつ、自分の音楽世界を作らないといけないのです。歌手が音楽を作っていくのです。

 一方、合唱の場合は、あなたまかせ…と言うか、すべてを指揮者にゆだねて歌います。ざっくり言うならば、指揮者が演奏者であって、合唱は、指揮者の良き楽器でなければなりません。指揮者の意図を忠実に再現していくように歌わないといけません。決して自我をむき出しにしちゃいけません。あくまでも自分は抑えて、指揮者に声を捧げていくのです。

5)イタリア語とラテン語

 日本語以外の外国語と言う意味で、一番よく歌うのが、声楽ではイタリア語、合唱ではラテン語ってところでしょうか? ラテン語はほぼローマ字ですから、さほど難しくありませんし、イタリア語もほぼローマ字ですけれど…ラテン語程ローマ字っぽくないのが、たまに傷だったりします。ま、それでもドイツ語やフランス語と比べれば、どちらの言語も日本人には親しみやすい言語なんですけれど…ね。

 とまあ、こんな感じの結論を出したわけです。

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2018年6月 6日 (水)

声域と声種

 私は今でもキング先生に「君にはテノールは無理だから、バリトンに転向しなさい」と言われた事を、はっきりと覚えています。

 その時の私の気持ちは「このお方は、何をおっしゃっていらっしゃるのだろう」という困惑した気持ちでした。もちろん、こんな丁寧な言葉づかいではなく、もっとお下品な言葉遣いの方がふさわしい気持ちでしたけれど…。

 プロの音楽家ともあろうお方が、声域と声種の違いが分かっていらっしゃらない。または、教えることを放棄された…たぶん後者だろうと、今は分かりますが、その時は、前者ではないかと強く呆れてしまったのです。

 声域と声種は違うものでしょ! なぜ、それが分からない(涙)。…当時はマジで、そう思ったものです。

 閑話休題。声域と声種は違うものですが、案外、これがごっちゃになっているケースを見聞きします。それは、声域と声種がペアで考えられることが多いからです。

 例えば「高い声が出るからテノール」「低い声で歌えるからアルト」

 …んなわけないじゃん! 声域はあくまでもその人の持つノドの音域の話であって、声種は声質(つまり声の性格)で決まります。それはつまり…、

 ソプラノやテノールは、若い声です。それがソプラノやテノールの声質です。歌手の実年齢は関係なく、若々しい声で歌えるから、ソプラノやテノールなのです。メロディしか歌えないからソプラノなんてありえないし、高い音を出したいからテノールとか、もう馬鹿すぎる話です。70歳を越えて、もう高音はだいぶ無理になって、バリトンの音域でしか歌えず、バリトン役ばかり歌っているドミンゴであって、声は若々しいので、バリトン役を歌っても、声はテノールなわけで、これは声域と声種が本来的に異なるものだからです。

 メゾやバリトンと言うのは、圧倒的な美声です。それがメゾやバリトンの声質です。とにかく、美しくて耳障りの良い声で無理なく歌って人の魂を揺さぶる事ができるから、メゾやバリトンなのです。高い音も低い音も出ないから、メゾ? バリトン? それはメゾやバリトンをなめています、みくびっています。美しくて魅力的で、時にセクシーですらあるのが、メゾやバリトンなのです。なぜ、カルメンはソプラノではなくメゾなのか? つまり、そういう事なのです。

 アルトやバスと言うのは、愛情たっぷりな声なのです。母であったり、父であったり、王であったり、時には神ですら歌うのが、アルトやバスなのです。彼らの声の本質にあるのが“愛”なのです。声の中に愛があるのが、アルトやバスなのです。ただ単に、低い声を出すだけなら、ガマガエルだって出せるって話です。いかに声に愛を注げるか、それがアルトやバスってモンでしょ。

 そういう声質を考えずに、単純に声域だけで声種を判断するって、ちょっとおかしいと思います。声種を判断する際に、声域はむしろ考えなくても良いのでは…すら思います。と言うのは、声域はある程度訓練すれば、広がるものだから、最初は声域が狭かろうが、高い方や低い星に偏っていたとしても、あまり声域を考えなくても良いのだと思います。訓練を重ねていけば、やがて声は成長し、おのずとその声質にふさわしい声域になってくるものです。声域を広げていく事は、時間がかかるかもしれないし、訓練は大変かもしれないけれど、それでもなんとかなるものなのです。だから、声域よりも声質に注目して声種は判断しないといけないのです。

 声域は訓練次第でどうにでもなりますが、声質は神様から与えられたギフトですから、これは丸ごと受け入れるしかないのです。

 高い声が出ないからバリトン…? バリトンなめんなよ!って感じです。世界中のバリトンさんたちに謝れ!って言いたい気分です。

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2018年6月 5日 (火)

発表会を見ると分かること

 私の趣味は、見知らぬ人たちの発表会を見る事です。公開されているモノしか見れませんので、声楽の発表会や子どものピアノの発表会を見る事が多いです。フルートの発表会はなかなか公開されていないので、見るチャンスが少ないのが残念だし、合唱となると、発表会ではなく演奏会となり、入場料が必要となり、事前のチケット入手(これがまた困難なんだ)が必要となるので、ハードルが高くなってしまうのが残念です。もちろん、非公開とか関係者のみの発表会の見学は遠慮しています。

 アマチュアさんの発表会は、見ていて面白いです。声楽の発表会は、プロ歌手の演奏会と比べても、学ぶ事が多く、実に参考になります。子どものピアノ発表会は、ただただ可愛いです。

 発表会を見ると、個々の生徒さんの実力とか、得意な事や苦手な事などが分かると同時に、そのお教室なり、先生なりの指導方針が透けて見えるのも興味深いです。実際、今は大学生になってしまった息子くんが小学生の頃、ピアノ教室を某大手から個人教室に変更しようとした時に、たくさんのピアノ教室の発表会を見ましたが、本当にお教室なり、先生なりの指導方針の違いってのは、あるんだなあって思いました。

 とにかく、楽しくおおらかに演奏させ、細かい事よりも音楽的な楽しさを優先させているだろう先生がいたり、おそらく音大受験を念頭において緻密でミスのない演奏を目指してビシビシ鍛えているんだろうなあって先生がいたり、クラシック系ピアノ音楽をまっすぐに教えている先生もいれば、ポピュラー音楽やアニソンもあり…で教えている先生もいます。基本カリキュラムが決まっている先生もいれば、子どもに応じて指導を変えているんだろうなあ…って思わせる先生もいたり…と本当に色々でした。

 一般公開されているような声楽の発表会は、基本的に大人の生徒さんたちが歌っていますので、音大志向うんぬんはまずありません。そういう点では、子供のピアノ発表家よりもゆるめの発表会が多いのは否定できません。

 声楽発表会の場合、上達を目指している教室なのか、楽しさを目指している教室なのか、大きく2種類に分かれているかな…って思います。上達を目指している教室の発表会は、皆さん、お上手な方が多いし、無理な大曲を歌っている人も多くありません。割と身の丈に合った選曲をしている人が多いです。毎年見に行くと、年々上達しているのが、手に取るように分かります。

 一方、楽しさを目指している教室は…割と無理めの大曲を歌っている人が多いと思います。さすがに発表会で歌うわけですから、音程は許容範囲で歌いますが、合っているのは音程とリズムだけで、声質とか息の使い方とか歌い方とかアレアレアレ…って感じだったりします。何年たっても欠点が克服されずに発表会自体に停滞感が漂っていたりします。でも、歌っている人は笑顔で楽しげに歌っているわけだし、それはそれでアリなんだろうと思います。

 また大人の声楽発表会は、子どものピアノ発表会と違って、音大などを卒業し専門教育を受けた方(本来ならばプロ歌手になっているような方)が、しばしば生徒さんに混じっている事があります。なので、発表会を聞いていて、めちゃめちゃ上手な方がいらっしゃるからと言って、それはその方が、いわばセミプロな方であって、お教室の手柄ではなかったりする事もあります。なので、歌上手な生徒さんが揃っているからと言って、先生が教え上手であるとは限らなかったりします。

 また、合唱団員さんたちをベースにした声楽教室の発表会などでは、選曲が地味で無理めな曲は避ける傾向があります。だからと言って、生徒さんたちの歌が、必ずしも声楽的な魅力のある歌い方であるとは限りません。いやむしろ、合唱的な発声で歌っている事も多く、こういう人たちって、地味に上手で、見ていて、とても勉強になるんですよね。私は好きです。

 一般的に、歌って、リズムと音程が正しければ、それが正しい歌の歌い方であると思われがちですが、クラシック声楽って、その先を求められているわけで、そこを見据えた指導がしている先生と、そうでなく、そこでとどまっている先生の2種類の先生がいるような気がしないでもないです。もっとも、リズムと音程を正しく歌わせる事って、指導者として、かなり上手でないと難しいという事は、申し添えておきます。

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2018年6月 4日 (月)

なぜ、日本の声楽家さんたちは英語詩の歌曲を歌わないのか?

 日本の声楽家の皆さん、つまり、西洋クラシック声楽を生業となさる歌手の皆さんのレパートリーって、オペラがメインで、歌曲も歌うという方が大半です。で、その歌われる歌曲も、イタリア歌曲、ドイツ歌曲が中心的なレパートリーで、それに加え、歌手によって、フランス歌曲や日本歌曲が加わり、さらにロシア歌曲やスペイン歌曲などの、その他の西洋語の歌曲をレパートリーとする歌手が加わります。

 日本人にとって、もっとも親しみ深い西洋語である英語の歌曲って、多くの作曲家によってたくさんの曲が作曲されているにも関わらず、日本の声楽家の皆さんは、あまり取り上げて歌うことはありません。おそらく、ロシア歌曲やスペイン歌曲よりも少ないかも…。でも、ショパンの歌曲が大半だろうけれど、ポーランドの歌曲よりは、多く歌われているんじゃないかな…ってくらいの印象です(きちんと統計調査を調べたわけじゃありませんから、あくまで、私個人の印象です)。

 英語の歌曲って、良い歌がたくさんありますよ。音源も探せばあれこれあります。でも、なかなか日本の声楽家の皆さんは歌われません。残念ですね。

 で、私は、なぜ日本の声楽家の皆さんが英語詩の歌曲を歌われないのか…考えてみました。

1)そもそも声楽家の皆さんは、英語が苦手

 日本の声楽家の皆さんは、基本的には語学は得意な方が多いと思われますし、海外にもたくさん留学されるので、外国語が苦手という人は少ないはずですが、英語はあまり得意ではない…ってか、苦手だとおっしゃる方の話をチラホラと聞きます。まあ、彼らが留学すると言っても、留学先はイタリアとかドイツとかフランスとかの非英語圏がほとんどですから、イタリア語やドイツ語やフランス語と比べると英語は苦手なのかもしれません。なので、なんとなく、英語詩の歌曲を避けてしまうのかもしれません。

2)音大では英語詩の歌曲は教えない

 多くの音大の声楽科では、イタリア歌曲とドイツ歌曲、日本歌曲は必ず教えますし、その他の言語の歌曲も、師事する教授によっては教えてくださるようだけれど、英語詩の歌曲を音大で教えているという話は、私、寡聞にして聞きません。もしかして教えている大学があるのかもしれませんが、おそらくそれは極少数の大学で教えているかも…?ってレベルなんだろうと思います。多くの、普通に音楽大学を卒業して歌手になられた方は、学生時代に英語詩の歌曲を学んだ経験はないだろうと思われます。

 学校で教えてもらえないと…少なくとも若くてキャリアの浅いうちは、それらの曲をレパートリーにするのは難しいだろうし、キャリアを積んで一人前に成れる歌手なんて、音大卒業生の中のほんの一握りだろうし…と考えると、なかなか声楽家の皆さんが英語詩の歌曲を歌われないのも仕方ないのかもしれません。

3)英語の歌曲はミュージカル(つまりポピュラー音楽)っぽく聞こえる

 案外、この理由が最大の原因かもしれません。英語の歌曲って、ポピュラー音楽っぽく聞こえるんですよ。というのも、ポピュラー音楽って、大半が英語詩ですからね。

4)有名な英語詩の歌曲は少なく、その多くをポピュラー歌手たちが歌っている

 例えば、『ダニー・ボーイ』とか『グリーン・スリーブス』とか『アメージング・グレース』『アニー・ローリー』『庭の千草』『春の日の花と輝く』『埴生の宿』…、そしてフォスターが作曲した数々の歌曲たち…。おそらく、我々が日常生活でなんとなく耳にする英語詩の歌曲って…こんな程度です。クラシック声楽を学んでいる人だと、これにトスティが作曲した数曲の英語詩の歌曲、例えば『Good-Bye』などの曲が入るかなって程度です。おまけにこれらの曲の多くは、クラシック系の歌手ではなく、実はポピュラー系、それもジャズ歌手の皆さんの歌唱で聞くことって…多くありませんか? そう、英語詩の歌曲の一部は、スタンダード音楽としてジャズ歌手の皆さんに歌われる事が、日本では多くて、それもあって、クラシック系の歌手の皆さんがレパートリーにするのを避けている…ような気がしないでもないのです。

5)そもそも英語詩の歌曲はローカルな曲が大半だから

 英語詩の歌曲って、我々が知らないだけで、実はたくさんあります。それは輸入楽譜をちょっと調べてみると分かります。たくさんあるのだけれど、その大半が、我々の耳に届きません。そして、それらの歌曲を歌っているのは、アメリカやイギリスなどの英語を母国語としている歌手の方が大半です。

 これは、日本における日本歌曲の扱いに似た感じなのかもしれません。日本歌曲だって、良い歌曲はたくさんあるけれど、歌っているのは、ほとんど日本人歌手であり、海外の歌手さんたちが日常的なレパートリーとして取り上げる事がないようなもの…と同じで、英語詩の歌曲も、良い歌曲はたくさんあるけれど、歌っているのは、アメリカやイギリスなどの英語を母国語としている歌手が大半で、それらの国以外の歌手さんたちは、ほぼ歌わない…って感じなのかもしれません。

6)英語詩の歌曲って、バロック曲と近現代曲しかないから

 調べてみると分かりますが、英語詩の歌曲って、クラシック音楽のど真ん中である、ロマン派の曲が少ないのです。かろうじて、フォスターがロマン派の作曲と言えますが、その他の有名作曲家は、みな、バロックの時代の作曲か、近現代になってからの作曲家たちばかりです。

 これは、ロマン派の時代のイギリス貴族たちが、母国語の音楽を大切にしなかったから、こうなってしまったんだろうと思います。彼らは、自分たちが英語で生活しているにも関わらず、王宮ではフランス語を用い、音楽ホールではイタリア語で楽しみ…なんていう生活をしていたツケが、ロマン派の時代の英語詩の歌曲の少なさに繋がっているだろうと思われます。

 ま、原因が事なれど、ロマン派の時代に冷飯を食らってしまったという点においては、英語詩の歌曲って、フルート独奏曲と同じような立場なんですね。

7)英語詩の歌曲は難しく、アラが目立つから

 歌ってみると分かりますが、英語って実に歌いづらい言語なんですよ。ドイツ語ほどではないにせよ、子音が強くてレガートに歌いづらいんです。難しい歌を歌えば…当然、歌手としてのアラが見えてしまうわけで、そんな難しい言語の曲は…できれば避けたいですよね。

 以上、日本の声楽家の皆さんが英語詩の歌曲を歌わない理由を考えてみましたが、考えれば考えるほど、やっぱり日本の声楽家の皆さんが英語詩の歌曲を歌うのは、色々と難しいんだなあという結論に達してしまいました。

 仕方ないよなあ…でも、英語詩の歌曲にも、いい曲はたくさんあって、そういう音楽をたまに(笑)聞くと、私は感動しちゃったりします。日本でもっと広く紹介されていいと思うのですよ、英語詩の歌曲ってね。

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2018年5月28日 (月)

声楽を始めるにあたり、まず何から始めたらいいでしょうか?

 実は、先日のLFJの声楽マスタークラスで、これと似たような質疑がありました。天羽先生は「お好きな曲を練習なされたらよいでしょう」という答えをしていましたが、それはおそらく、質問者の意図や経歴、歌手としてのレベルが分からないから、そう答えざるを得なかったようです。

 実際、質問者の方は、今回始めて、クラシック系の声楽曲を聞いた…そうなんのです。つまり、本当に何も知らない全くの素人さんって事です。

 私なら、そういう全く何も知らない素人さんから、そういう質問をされたら、どう答えるか…考えてみました。

 まず、質問者の年齢と本気度を確認しないといけません。

 若い人なら、これから本格的に勉強すれば、プロに成れるかもしれませんから、そのあたりまで見通して答えてあげないといけません。いい年したオトナなら…そこまで突き詰める必要はないでしょうけれどね(笑)。

 本気度…つまりは、カラオケ上手になりたいレベルなのか、かなりガチで勉強したいのかって事です。もちろん、若い人の場合は、ガチからプロへの道があるでしょう。

 次に確認しないといけないのは、どこに住んでいるのか、どれくらいの経済的な余裕(あるいは家族の協力)があるのか…です。東京はもちろん、関東近郊なら、まあ良いです。しかし、地方在住者となると…よくよく話を聞かないといけません。実際、LFJで質問した方は、地方在住の方で、宿泊しながらLFJに参加していたようなのです。地方在住だと、本当に、学びの選択肢が狭まります。あと、声楽に限らず、ピアノ以外の音楽を勉強するってのは、お金がかかります。遊びの延長で学んだとしても、かなりかかります。ガチで勉強するとなると、本当にかかります。

 なぜ、そういう事を私があれこれ考えるのかと言うと、結局、クラシック声楽って、独学できないからですし、独学できるような教則本や練習曲集が無いからです。

 つまり、クラシック声楽を学ぶならば、まず最初にしなければいけないのは、先生を探すことなんです。それも自分の目的を理解し、自分と(人間的な)相性が良い先生を見つけないと始まらないからです。

 じゃあクラシック声楽の先生はどこにいるか…ですが、その前に、クラシック声楽の先生って、私が思うに、3タイプの方がいると思うのです。

 1)演奏家の方が副業として声楽教師をしている。
 2)元演奏家の方(現教育関係者または現指揮者)が副業/本業として声楽教師をしている。
 3)ピアニストの方(たいていコレペディさん)が副業として声楽教師をしている。

 私が見るに、まあだいたい、この3つのパターンのいずれかなんです。そして、この3パターンに共通する特徴としては、東京近郊にお住まいなんです。

 と言うのも、声楽関係の音楽家の方々って、原則的に東京近郊に多くいらっしゃいます。と言うのも、声楽関係の仕事って、日本だと東京に集中しているからです。地方だと、学校の音楽の先生以外に、音楽家の仕事って…まあないし、地方で必要とされている音楽仕事って、すでにその地方にいる少数の音楽家(たいていはポピュラー系の音楽家たち)に独占されているので、そこにクラシック系音楽家たちが移住していく事って、まあ無いし、地方の仕事は、東京から出かけていって行ってくるので、本当に地方在住のクラシック声楽家って、本当に少ないのです。

 まあ、地方にも、一応、オペラカンパニーはありますから、地方在住のクラシック声楽家の方はゼロってわけではないけれど、東京近郊の人数から見れば、限りなく少ないというのが実情なわけです。

 なので、現実的な話、クラシック声楽を学ぼうと考えると、東京近郊にお住まいの先生のところに通う…という事になる事が多いのですが、これが地理的/金銭的に難しいケースもあるわけです。

 ここなんだよね、クラシック声楽を学ぶ難しさってのは…。

 独学がある程度効けば、自分ひとりで勉強して、モノになりそうだなって思った段階で、東京に出るなりなんなりができますが、クラシック声楽の場合は、初歩の段階から先生について学ばないと難しいわけです。

 ピアノ教師のように、演奏経験がなくても、教師専業でやられている方って大勢いらっしゃるし、都会ばかりでなく、ある程度の地方都市なら先生はいらっしゃるものですが、クラシック声楽となると、演奏経験無しで先生やられている方は少ないですし、地方都市にお住まいの方も少ないのです。

 難しいんだよね。

 あと、クラシック声楽の先生って、看板出してない先生が多いしね。ウチの近所にも、声楽の先生はそこそこいますが、皆さん看板出してないので、知る人ぞ知るって状態です。

 これは声楽教師を専業でやられている方が少ないからなんだろうと思うからです。ピアノの先生なら、電話帳(って古いか?)でも探せますが、クラシック声楽教師なんて電話帳じゃあ見つけられないからね。ネットで探せないわけではないけれど、ネットで見つけても、自分の生活圏とはかけ離れた地域の先生じゃ意味ないしね。

 なので「声楽を始めるにあたり、まず何から始めたらいいでしょうか?」って質問に対しては“まずは自分に合った先生を見つけましょう”が答えになりますが、その先生を見つけるのが初心者には大変なのです。なので、本来ならば“あなたならば○○先生に習われるのがよいでしょう”とアドヴァイスしてあげる事が必要なのでしょうが、世の中、そんなに甘くないんだよね。

 生徒側に先生を探す(選ぶ)権利があるように、先生側にも生徒を引き受けない(選ばない)権利があるし…ね。

 ああ、ほんと、いろいろ難しいーわ。

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2018年4月25日 (水)

やっぱりドレスって着たいみたいのですかね

 声楽のY先生門下の発表会って、今年は6月に行われるのです。私はどうしても外せない仕事とバッティングしていますので、涙ながらに本業優先…というわけで参加できないのです。だから、今年はこのブログに発表会関連の話題があがってこないし、私も悠長にベッリーニの歌曲集に取り組んでいたりするわけです。

 で、今回の発表会って、実は開催場所が音楽ホールではないのです。なので、楽屋は無いのだそうです。つまり、舞台衣装に着替える場所が無い…ってわけで、原則、ステージ衣装で来場し、そのままの恰好で舞台で歌うという段取りのようなのです。

 「着替える場所がないなら、トイレで着替えればいいじゃん」と考えがちですが、そこは事前に先生から「トイレは一般のお客様も使うので、トイレでの着替えはNGです」と
告知されています。

 つまり、せいぜい訪問着程度のよそ行きの晴れ着を家から着てきて、その衣装のまま舞台をつとめる事になるわけです。

 私の場合、フルートの笛先生に習っていた時代の発表会って、だいたいそんな感じだったので「着替える場所ないよ、ステージ衣装でやってきて」と言われれば、はいそうしますって感じなんです。特に違和感はありません。

 でもなんかこれ、出演者的には評判悪いみたいなんです。

 で、この話を妻にしたところ「そりゃあそうでしょ! ドレスを着られない発表会なんて、ありえない!」んだそうです。

 そもそも妻も今回の発表会には出演しません。まあ、私が参加しないので、一人で参加するのもなんなんで…って感じで出ないのですが、もしも今回、私が参加したとして、妻は…と言うと、まあ結局は私が参加するなら妻も参加するでしょうが、ドレスが着られない点で、かなり悩む…んだそうです。

 やっぱりドレスって着たいらしいのです。日常生活ではドレスを着るチャンスって無いわけで、そういう意味で、発表会ってのは、年に数回しかない貴重なドレスの日なのに、そこでドレスを着られないとなると、かなりモチベーションが下ってしまうんだそうです。

 実際、今回の発表会では、ドレスが着られないという事で参加を取りやめたとか取りやめなかったとかの話も耳にします。まあ逆に、ドレスを着ずに済むから参加しますというケースもありうるだろうし…ね。

 衣装って、大きな問題なんですね。男である私には、全然理解できません。

 個人的には、ドレス着用可の発表会を年内に、もう一回、開催してもらえると(別に私はドレスはどうでもいいのだけれど)私も参加できるので、うれしいなあ…って感じです。でも、年に2回の発表会って…まあ無いよな。

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2018年3月28日 (水)

私に掛けられた呪いを解かないと…

 私には、小学3年生の時に担任の先生に掛けられた呪いがあります。今でも、その呪いに縛られたままで、あれこれ苦労をしているわけです。

 その呪いとは「歌の出だしは、元気よくはっきりと歌う事」です。

 私が小学3年生の時、音楽の授業は担任の先生が担当していました。その担任の先生は、大学出たての若い女性の先生で、専門教科は何か知りませんが、案外ピアノを器用に弾いていたので、音楽が専門の先生だったのかもしれません。

 で、音楽の時間の話。授業中、子どもたちが先生のピアノに合わせて歌うじゃないですか? その歌い方が先生はとても気に入らなかったようで、何度も何度も歌い直しをさせました…一年間に渡って。

 何が気に入らないのかと言えば、歌の出だしが合わない事です。先生がおっしゃるには「歌の出だしがぼんやりしている。もっと元気よく、はっきりと歌わないといけません!」と言うわけで、歌となると、何度も何度も出だしの部分だけをやり直させられました。

 とにかく、歌い出しは“元気よく”です。元気よく歌おうと思えば…子どもの事ですから、力を込めて、半ば怒鳴り声で歌うわけです。そして、力んだ怒鳴り声で歌えば先生は満足ですから、やがてクラス中が怒鳴り声で歌うようになるわけです。

 はい、私も、一生懸命、怒鳴り声で歌いましたよ。私は別に習い事をしていたわけではないので、私にとっては、音楽の時間が音楽教育のすべてだったわけです。それで一年間、怒鳴り声で歌うように仕込まれました。

 その後、年齢を重ねていき、色々な先生に音楽を習いましたが、小3の時の先生ほど、歌にこだわる先生はいませんでした。小学校の音楽の授業なんて、まあ、そんなモンです。私がどんなスタイルで歌っていても、誰も気にしませんでした。だからこそ、小3の時に習った「歌の出だしは、元気よくはっきりと歌う事」をずっと守っていたわけです。

 オトナになっても先生の言いつけは守っていました…ってか、守るどころか、無意識にそう歌うようになっていたわけです。

 怖いですね…。子どもの時の教えって、呪いのようにその人を縛り付けるんです。

 今の年齢になって分かるのは、歌の出だしは、常に元気よくはっきり歌えばいいというものではないって事です。元気よく歌わないといけない時もあれば、穏やかに歌い始めないといけない時もあります。むしろ、穏やかに歌う時の方が多いかな? 言葉をはっきり歌う事は大切ですが、それはあくまでも言葉を構成する子音なり母音なりを鮮明に滑舌良く歌うことが大切なわけで、怒鳴り声で歌うのは、却ってマイナスとなります。

 そこに気づくまで、何十年もかかりました。

 歌の歌い出しは、常にクレシェンドです。息の流れがあり、子音から母音へと声がつながって音になります。そのクレシェンドを極めて短時間で処理をするように歌うべきであって、いきなりガツンとノドを使って歌うのは、ノド声にしかならないわけで、どうにもならないし、そんな歌い方をするべきではないのです。

 私は小3の時に自分に掛けられた呪いの正体をようやく知ることができました。あとは、その呪いを解くだけですが…一度掛けられた呪いって、そう簡単に解けないんですね。ほんと、苦労しています。

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2018年3月 8日 (木)

声楽だとて練習をサボり続けてはいけません

 このブログでは、フルートに関しては“レッスンに行けなかった”とか“練習せずにレッスンに行った”とか“自宅練習を全く/ほとんどしなかった”とか書いてまして、私がいかにフルート練習をサボりまくっている事を書いていますが、じゃあ声楽はどうなのかと言えば、わざわざブログに書いていないだけで、状況としては似たようなものです。

 フルートと声楽のレッスンの違いは、フルートが曜日時間固定でレッスンをしていただいているのに対して、声楽は私と先生のスケジュールをすり合わせた上でレッスンの日時を決めています。

 ですから、フルートの場合、仕事やらなんやらの都合で、レッスンに行けないという事が頻発してしまいますが、声楽の場合、そもそも仕事の都合などを考慮した上でレッスン日を決めていますので、レッスンにはほぼ皆勤しているってだけの話です。

 自宅練習に関して言えば、同じくらい練習をしています…ってか、同じぐらい練習が出来ていません。ただ、フルートは毎週レッスンがありますので、前回のレッスンから一度もフルートに触らないまま次のレッスンを迎えてしまうという事も多々ありますが、声楽は月2回レッスン(ほぼ隔週)なので、レッスンとレッスンの間隔がフルートよりは長いので、その間に数回は自宅練習をするチャンスがある…って程度の違いです。

 フルートにせよ、声楽にせよ、新曲を全く譜読みもせずにレッスンに行くと言うのは、まずありません(実は最近、フルートでありました:汗)。でも、何度かレッスンした曲は、うっかり自宅で何もせずにレッスンに行っちゃうというのは、フルートでも声楽でも、たびたびあったりします。

 …と、おさぼり自慢をしても仕方がないので、この話はここで終わりにしますが、実は先日、あまりに自宅練習をサボり過ぎてしまったために、ついに実害(?)が出てしまった事を書いておきます。

 レッスン後、長らく声楽の自宅練習をしていなかったと思ってください。さすがに、あんまり練習をしないまま、レッスンに行くのは良くないだろうと思い、レッスンの数日前に、ようやく自宅練習で、ドナウディ作曲の「Vaghissima sembianza/かぎりなく美しい絵姿」を取り上げたと思ってください。

 この曲は、レッスンでやりますとだけ決めて、まだ実際はレッスンでは歌っていない曲です。なので、目下自宅で猛練習中…のはずの曲なのです。

 そもそも、なぜこの曲をレッスンで歌おうと決めたのかと言えば、武満の曲を学ぶ中で、中低音域の発声が安定し、その影響もあって、高音が出しやすくなりました。

 「Vaghissima sembianza/かぎりなく美しい絵姿」での最高音は高いAです。跳躍でピョンと出すのですが、比較的歌いやすい音であり、曲決めの時は「これはいける!」という思いもあって、決めたのですが、あれから数日経ち、自宅練習もサボりまくっていて、久しぶりにこの曲の練習を再開したら…全然Aなんて無理になっていました。

 やばいよ、やぱいよ、やばいよ。

 何がマズイのかと言えば、高音を出すためのカラダの諸器官の連携が全く取れなくなっていました。一番まずいのは、腹筋が全然動かない。サボっているうちに、脳とカラダの各部署の神経接続がぎこちなくなってしまった事と、単純な筋力低下が原因のようです。

 無理に高音を出そうとすると、ノドに力が入ってしまい逆効果だし、単純にノドから力を抜いて発音しようとすると、声がスっぽ抜けてファルセットにしかなりません。

 やばいよ、やばいよ、やばいよ。

 次のレッスンまでに、何とか調整をして、Aが出る状態にしていかないといけません。いやあ、声楽だとて練習をサボり続けてはいけません…という話でした。

蛇足 音楽趣味を再開した頃は時間がたっぷりあって、声楽もフルートも毎日、基礎練習をたっぷりしてから曲の練習が出来たものですが…ああ、あの頃が懐かしい。

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2018年2月22日 (木)

歌曲は原語で歌うべきなのか?

 歌曲と書きましたが、オペラアリアを含む、クラシック系声楽曲と考えてください。

 私は個人的にクラシック系声楽曲を学んでいます。イタリア系の歌曲やアリアを中心に学び、先日は、武満徹のソングをいくつか学びました。イタリア語の歌も難しいけれど、日本語の歌もなかなか難しいなあと思った次第です。

 先日は「歌曲は原調で歌うべきか?」という記事を書きました。色々と思う事はあるにせよ、原則的に「歌手本位で考えるならば、歌曲は移調して歌ってよし」と考えるべきだけれど、私個人の趣味で言えば「作曲家の意図をくんで、なるべく原調で歌った方が良いかな」という事にしておきました。

 音程と言葉の違いはあるにせよ、同じ風に「歌手本位で考えるならば、歌曲は翻訳して歌ってよし」ってなるんじゃないかな?って思ったわけです。

 ならば、我々日本人は、クラシック系声楽曲を、ドンドン日本語に訳して歌っていけばいいはずだけれど、現実は、ちょっと違います。

 クラシック系声楽曲って、たいてい、原語で歌うよね。歌っている人は、歌の歌詞について勉強しているのだろうから、その意味も、言葉のちょっとしたニュアンスも分かって歌っているのだろうけれど、聞いている我々は、全然分かりません。何か舞台で熱を込めて歌っているなあ…とは分かるけれど、何言っているかなんて、さっぱり分かりません。

 よく「ドイツリートは歌詞の意味が大切」なんて言う人がいらっしゃるけれど、そのドイツリートのコンサートに行っても、歌手は原語で歌うので、聞いている我々はチンプンカンプンです。大切なはずの歌詞の意味なんて、分かるわけありません。もちろん、観客には伝わりません。

 気のきいたコンサートだと、プログラムに歌詞の翻訳が挟まっていたり、字幕スーパーが出るコトもあるのだろうけれど、そんなモノを見ながら音楽を聞いていたら、気が散って仕方なりません。

 意味も音楽も…と思うなら、きちんと日本語に翻訳した歌詞で歌って欲しいと思うのだけれど、まずそういうコンサートに出会う事はありません。

 観客、置いてけぼり…です。

 たまに日本語歌詞で上演されるオペラやオペレッタ上演に出会う事はあります。喜劇作品が多いような気がしますが、歌とお芝居が一体となるので、結構楽しめます。よく知らない歌は日本語で歌ってもらった方が楽しめるのは確かです。

 実際、ミュージカルは、たいてい日本語上演ですよね。だから、楽しいんです。

 なぜ、クラシック系声楽では、現地語ではなく原語で歌うのかと言えば…それが世界の主流だからです。そして、なぜ原語で歌うのが主流になったのかと言えば…ジェット機が発達して、スター歌手たちが世界中を飛びまわるようになったから…です。

 クラシック系声楽と言えども、ジェット機が発達する前は、歌手たちの移動が大変だった事もあり、大抵の歌手(オペラ歌手)はローカルスターでした。活躍の場も地元のオペラハウスが中心です。ですから、現存しているその頃のスター歌手の録音を聞いてみると、結構な数の曲を彼らの母国語である現地語に翻訳して歌っています(もちろん、原語歌唱のものもあります)。

 やがてジェット機が普及し、スター歌手たちが世界中を飛び回るようになりました。そうなると、一つの公演に色々な言葉で歌う歌手たちが集まるようになりました。様々な言葉で歌う歌手たちが集まったからと言って、まさか、言葉をチャンポンにしてオペラを上演するわけにはいきません。そこで歌手たちが歌う歌詞を統一する必要が出てきました。そうなると、勢い、原語で歌うようになるわけです。原語歌唱なら、間違いないし、ある意味、公平ですからね。

 やがて、スター歌手たちが原語で歌うのが普通になれば、将来のスター歌手を目指す若手歌手たちも原語で歌を学ぶようになります。で、せっかく原語で歌を学んだのであれば、それを自分の弟子や生徒に教える時も原語で教えるようになり…という状況が今の状況を生み出したわけです。

 つまり、原語で歌うのは、あくまでも歌う側の都合であって、観客の事を考えているわけじゃありません。そういう意味で、歌手本位の視点で原語歌唱となっているわけで「歌曲は移調して歌ってもOK」と根は一緒です。

 なんだ、そういう事だったのか!

 つまり、クラシック系声楽曲であっても、観客に合わせて、現地語に翻訳して歌っても全然かまわないのだけれど、歌手たちは原語で歌を勉強しているので、コンサート等でも原語で歌っているだけで、別に原語で歌わないといけない…というほどのことでもなさそうです。

 勉強は原語でしても、コンサートやオペラ公演の時は、日本語歌詞で歌えばいいのだろうけれど、それでは暗譜の負担が増えてしまうので、勉強した原語で歌うという、省エネ的な動機があるし、それは分からないでもないけれど、エンタメ的な視点で考えると、どうなんだろうと思わないでもないです。

 あと、声楽に限らず、クラシック系音楽って、教養主義的と言うか、貴族的と言うか、スノッブな部分があって、あえて現地語で歌わずに原語で歌うことで、選民意識をくすぐるというか、愚民を見下す快感を得ると言うか、そんな事もないではないのかな…と思わないでもなかったりします。訳のわからない外国語で歌う事で、有り難さを演出するわけですね。

 まあ私だって「この曲、原語で歌う? それとも日本語で歌う?」と尋ねられたら「原語で歌います!」と即答しちゃうだろうし…ね。私も、なかなかな悪趣味野郎ですからサ。

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2018年2月20日 (火)

歌曲は原調で歌うべきか?

 つまり、歌曲は作曲家が作曲したオリジナルの調性のまま歌うべきか、それとも歌手の声に合わせて自由に移調して歌うべきか…という命題でございます。

 一般的な解答としては「歌曲は自由に移調して歌って良し」です。

 でも、本当にそれでいいのかな?と私は思うわけです。

 確かに、歌手本位で考えるならば、その歌手が一番良いパフォーマンスを発揮できる音域というのは、歌手毎に決まっているわけだから、どんな曲であれ、その音域の範囲に納めて歌った方が良い結果が出るに決まってます。

 だから歌曲を移調して、歌い手の得意な音域に納めて歌うのは、一見、理にかなっているように見えます。実際、歌手本位ならば、それで正解です。

 でも、何か釈然としないのです。

 まず1つ目の釈然としない理由は、これは歌曲のみに適用され、オペラアリアには適用されないって事です。

 歌曲は歌手の音域に合わせて、自由に移調されて歌われるのに対して、オペラアリアは作曲家が書いたオリジナルの調性のまま歌わないといけないのです。その理由として、歌曲は単独で歌われる事が多いけれど、オペラアリアはオペラ全体の中の一部として歌われるから、他の曲とのバランスを考えると、移調して歌うのはふさわしくない…って言うわけです。

 でも、これ、ごまかしだよね。

 確かに、オペラ上演の最中、一部の曲だけ移調して歌うと、不自然な感じがしないわけでもないから、オペラ上演の中では、アリアの移調は禁止…は分かります。でも、コンサートなどで、そのアリアだけ取り出して歌う時も、移調禁止は…分かりません。歌手本位で考えるなら、その歌手の音域に合わせて、オペラアリアも移調して歌っても、何の不都合もないからです。

 私は実際、素人さんの発表会で、オペラアリアを移調して歌われたのを聞いた事があります。有名なテノールのアリアを、低く移調してバリトンの方が歌われていました。破綻なく、見事な歌唱でしたたよ。特に、歌としての不都合はありませんでした。この歌唱を聞いて以来、歌曲が移調されて歌われるのと同様に、オペラアリアも移調して歌っても、まあ、アリかもしれないなあって思いました。

 歌としての不都合はないのに、オペラアリアの移調はダメで、歌曲の移調はアリってのが、私が釈然としない理由の1つです。

 理由はもう1つあります。やはり、その低く移調されたオペラアリアを聞いた時に感じた事です。

 オペラアリアを低く移調して歌われても、確かに歌としての不都合はありませんでした。不都合は無かったのですが…違和感はありました。移調されていても、同じ歌は歌なのですが、なんか違うんですよ。具体的に書けば「歌を聞いた後にカタルシスが解放されない」と言うと…分かるかな? なんか、聞いていて不完全燃焼だったのですよ。

 テノールのアリアって、たいてい最後に聞かせどころの高音があって、そこをアクロバチックに歌うことで、聞き手のカタルシスは解放されるように作られています。バリトン用に移調された時も、全く同じように歌われ、高音部分も移調されて歌われたのですが、テノールが原調で歌った時に感じたカタルシスの解放が、バリトンが移調して歌うと、特に感じられずに、普通の歌として聞こえちゃったんですよ。

 テノールのオペラアリアの高音って、絶妙に作曲されています。テノール歌手のギリギリの音域で、破綻直前の危うい音程で、見事に歌えるように作られています。それを低くしてバリトン歌手が歌うと、バリトン歌手にとっては、破綻寸前の危うい高音であっても聞く側からすると、テノールでの歌唱ほどのヤバさは感じられず、普通の高音にしか聞こえないのです。

 歌の音程と歌手の声質って、関係あると思うのです。で、作曲家はそこを考えて、調性を決めて作曲していると思うのです。それを考えると、オペラアリアを移調して歌っちゃダメという理屈に納得しちゃう私なんですよ。

 で、オペラアリアはダメなのに、なんで歌曲は良いの? って思ってしまうわけで、なんかモヤモヤが残るわけです。

 「君と旅立とう」という歌曲があります。オリジナルはイタリア語の曲で「Con Te Partirò」というタイトルで、アンドレア・ボチェッリというテノール歌手のために書かれ、実際、彼のシングルレコードとして発売され、ヒットしています。

 この曲は、後に、歌詞の一部を英語にして、英語のタイトル「Time To Say Goodbye」に付け替えられて、ソプラノ歌手のサラ・ブライトマンによって歌われ、大ヒット曲となりました。

 この曲は、男女の二人の歌手によって歌われています。同じ調性で歌われていて、移調されているわけではないのですが、実は歌っている歌手の男女の差もあって、実質的には1オクターブほど音程が違っています。実際の音程が違うので、同じ調性でも、歌の印象が少し違います。私が特に違和感を感じるのは、最後の聞かせどころの高音部分です。

 ボチェッリの、音域ギリギリで歌う高音に対して、ブライトマンの楽々歌う威風堂々たる高音は、曲の印象を大きく変えます。

 これは私の好みですが、ブライトマンが美しい声で楽々と歌うバージョンよりも、ボチェッリが朴訥でギリギリに歌うバージョンの方が好きですし、この曲は、そもそもがボチェッリの持ち歌という事も考えれば、作曲家はこの危うさを出したくても、この音域で曲を作曲したんだと思われます。でも、ソプラノであるブライトマンにとって、この音域は楽勝なんだと思います。楽勝すぎて、高音が安心で安定してしまうのです。

 歌手本位で考えれば、ブライトマンの歌もアリだろうけれど(だから大ヒットしたわけです)、作曲家本位で考えると、ブライトマンの歌唱は、本来の意図とは違うんじゃないかなって思うわけです。オペラアリアを違う声種の歌手が歌うと違和感を感じられるように、歌曲だって本来対象にした声種以外の歌手が歌うと、やっぱり違和感を感じる…んだと思います。

 そして、昔の作曲家の歌曲は、皆さん、結構自由に移調して歌われているけれど、現代作曲家のソングは、移調して歌われたり歌われなかったり、そもそも移調された楽譜が販売されていなかったり…。

 ああ、考えれば考えるほど、頭が混乱する。

 移調問題については、歌手本位で考えるのと、作曲家の意図を汲み取って考えるのと、結果が異なってしまいます。これは、ある意味、立場の違いだけであって、どちらも正解と言えるし、どちらも不適切とも言えます。

 ああ、分からん。私的には、作曲家の意図を最大限に尊重しつつ、時には移調された楽譜で歌うって事になるんだろうなあ。少なくとも、私が楽譜を選ぶ時は、なるべく移調譜ではなく、原調の譜面を利用したいなあって思うわけです。また女声用に作曲された曲はなるべく避けて、男性用に作曲された曲をなるべく歌うように心がけているわけです。ただし、それを他人に強要する事はしないけれどね。

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