ひとこと

  •  政府から民間プロバイダーに対して、著作権侵害を行っている悪質なサイト(“漫☆村”とかね)への接続遮断が要請される事になったんだそうな。今のところは“要請”であって、法的根拠はありませんが、来年の通常国会で関連法の成立を目指して、法律で接続遮断を決めるようです。本来は接続遮断ではなくサイト削除が適当だと思うけれど、管理しているサーバーが国外にあるため、日本の法律ではどうにもできなくて、やむなく“接続遮断”なんだろうと思います。痛し痒しだね。まあ、接続遮断をすれば、日本国内からは閲覧できなくなるけれど、海外のプロバイダーからは相変わらず閲覧可能なわけで、手段はここには書かないけれど、ごくごく簡単な方法で、今までどおり日本国内からでも悪質サイトへアクセスは可能なわけだから、要請の効果の程はどーなんだろーね? まあ、これらのサイトの利用者が情弱であれば、今回のやり方でも効果があるだろうけれど…、普通の知識を持っていれば、状況は全然変わらないんだよなあ。
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カテゴリー「声楽のエッセイ」の記事

声楽に関する様々な事柄について書いてみました

2018年3月28日 (水)

私に掛けられた呪いを解かないと…

 私には、小学3年生の時に担任の先生に掛けられた呪いがあります。今でも、その呪いに縛られたままで、あれこれ苦労をしているわけです。

 その呪いとは「歌の出だしは、元気よくはっきりと歌う事」です。

 私が小学3年生の時、音楽の授業は担任の先生が担当していました。その担任の先生は、大学出たての若い女性の先生で、専門教科は何か知りませんが、案外ピアノを器用に弾いていたので、音楽が専門の先生だったのかもしれません。

 で、音楽の時間の話。授業中、子どもたちが先生のピアノに合わせて歌うじゃないですか? その歌い方が先生はとても気に入らなかったようで、何度も何度も歌い直しをさせました…一年間に渡って。

 何が気に入らないのかと言えば、歌の出だしが合わない事です。先生がおっしゃるには「歌の出だしがぼんやりしている。もっと元気よく、はっきりと歌わないといけません!」と言うわけで、歌となると、何度も何度も出だしの部分だけをやり直させられました。

 とにかく、歌い出しは“元気よく”です。元気よく歌おうと思えば…子どもの事ですから、力を込めて、半ば怒鳴り声で歌うわけです。そして、力んだ怒鳴り声で歌えば先生は満足ですから、やがてクラス中が怒鳴り声で歌うようになるわけです。

 はい、私も、一生懸命、怒鳴り声で歌いましたよ。私は別に習い事をしていたわけではないので、私にとっては、音楽の時間が音楽教育のすべてだったわけです。それで一年間、怒鳴り声で歌うように仕込まれました。

 その後、年齢を重ねていき、色々な先生に音楽を習いましたが、小3の時の先生ほど、歌にこだわる先生はいませんでした。小学校の音楽の授業なんて、まあ、そんなモンです。私がどんなスタイルで歌っていても、誰も気にしませんでした。だからこそ、小3の時に習った「歌の出だしは、元気よくはっきりと歌う事」をずっと守っていたわけです。

 オトナになっても先生の言いつけは守っていました…ってか、守るどころか、無意識にそう歌うようになっていたわけです。

 怖いですね…。子どもの時の教えって、呪いのようにその人を縛り付けるんです。

 今の年齢になって分かるのは、歌の出だしは、常に元気よくはっきり歌えばいいというものではないって事です。元気よく歌わないといけない時もあれば、穏やかに歌い始めないといけない時もあります。むしろ、穏やかに歌う時の方が多いかな? 言葉をはっきり歌う事は大切ですが、それはあくまでも言葉を構成する子音なり母音なりを鮮明に滑舌良く歌うことが大切なわけで、怒鳴り声で歌うのは、却ってマイナスとなります。

 そこに気づくまで、何十年もかかりました。

 歌の歌い出しは、常にクレシェンドです。息の流れがあり、子音から母音へと声がつながって音になります。そのクレシェンドを極めて短時間で処理をするように歌うべきであって、いきなりガツンとノドを使って歌うのは、ノド声にしかならないわけで、どうにもならないし、そんな歌い方をするべきではないのです。

 私は小3の時に自分に掛けられた呪いの正体をようやく知ることができました。あとは、その呪いを解くだけですが…一度掛けられた呪いって、そう簡単に解けないんですね。ほんと、苦労しています。

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2018年3月 8日 (木)

声楽だとて練習をサボり続けてはいけません

 このブログでは、フルートに関しては“レッスンに行けなかった”とか“練習せずにレッスンに行った”とか“自宅練習を全く/ほとんどしなかった”とか書いてまして、私がいかにフルート練習をサボりまくっている事を書いていますが、じゃあ声楽はどうなのかと言えば、わざわざブログに書いていないだけで、状況としては似たようなものです。

 フルートと声楽のレッスンの違いは、フルートが曜日時間固定でレッスンをしていただいているのに対して、声楽は私と先生のスケジュールをすり合わせた上でレッスンの日時を決めています。

 ですから、フルートの場合、仕事やらなんやらの都合で、レッスンに行けないという事が頻発してしまいますが、声楽の場合、そもそも仕事の都合などを考慮した上でレッスン日を決めていますので、レッスンにはほぼ皆勤しているってだけの話です。

 自宅練習に関して言えば、同じくらい練習をしています…ってか、同じぐらい練習が出来ていません。ただ、フルートは毎週レッスンがありますので、前回のレッスンから一度もフルートに触らないまま次のレッスンを迎えてしまうという事も多々ありますが、声楽は月2回レッスン(ほぼ隔週)なので、レッスンとレッスンの間隔がフルートよりは長いので、その間に数回は自宅練習をするチャンスがある…って程度の違いです。

 フルートにせよ、声楽にせよ、新曲を全く譜読みもせずにレッスンに行くと言うのは、まずありません(実は最近、フルートでありました:汗)。でも、何度かレッスンした曲は、うっかり自宅で何もせずにレッスンに行っちゃうというのは、フルートでも声楽でも、たびたびあったりします。

 …と、おさぼり自慢をしても仕方がないので、この話はここで終わりにしますが、実は先日、あまりに自宅練習をサボり過ぎてしまったために、ついに実害(?)が出てしまった事を書いておきます。

 レッスン後、長らく声楽の自宅練習をしていなかったと思ってください。さすがに、あんまり練習をしないまま、レッスンに行くのは良くないだろうと思い、レッスンの数日前に、ようやく自宅練習で、ドナウディ作曲の「Vaghissima sembianza/かぎりなく美しい絵姿」を取り上げたと思ってください。

 この曲は、レッスンでやりますとだけ決めて、まだ実際はレッスンでは歌っていない曲です。なので、目下自宅で猛練習中…のはずの曲なのです。

 そもそも、なぜこの曲をレッスンで歌おうと決めたのかと言えば、武満の曲を学ぶ中で、中低音域の発声が安定し、その影響もあって、高音が出しやすくなりました。

 「Vaghissima sembianza/かぎりなく美しい絵姿」での最高音は高いAです。跳躍でピョンと出すのですが、比較的歌いやすい音であり、曲決めの時は「これはいける!」という思いもあって、決めたのですが、あれから数日経ち、自宅練習もサボりまくっていて、久しぶりにこの曲の練習を再開したら…全然Aなんて無理になっていました。

 やばいよ、やぱいよ、やばいよ。

 何がマズイのかと言えば、高音を出すためのカラダの諸器官の連携が全く取れなくなっていました。一番まずいのは、腹筋が全然動かない。サボっているうちに、脳とカラダの各部署の神経接続がぎこちなくなってしまった事と、単純な筋力低下が原因のようです。

 無理に高音を出そうとすると、ノドに力が入ってしまい逆効果だし、単純にノドから力を抜いて発音しようとすると、声がスっぽ抜けてファルセットにしかなりません。

 やばいよ、やばいよ、やばいよ。

 次のレッスンまでに、何とか調整をして、Aが出る状態にしていかないといけません。いやあ、声楽だとて練習をサボり続けてはいけません…という話でした。

蛇足 音楽趣味を再開した頃は時間がたっぷりあって、声楽もフルートも毎日、基礎練習をたっぷりしてから曲の練習が出来たものですが…ああ、あの頃が懐かしい。

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2018年2月22日 (木)

歌曲は原語で歌うべきなのか?

 歌曲と書きましたが、オペラアリアを含む、クラシック系声楽曲と考えてください。

 私は個人的にクラシック系声楽曲を学んでいます。イタリア系の歌曲やアリアを中心に学び、先日は、武満徹のソングをいくつか学びました。イタリア語の歌も難しいけれど、日本語の歌もなかなか難しいなあと思った次第です。

 先日は「歌曲は原調で歌うべきか?」という記事を書きました。色々と思う事はあるにせよ、原則的に「歌手本位で考えるならば、歌曲は移調して歌ってよし」と考えるべきだけれど、私個人の趣味で言えば「作曲家の意図をくんで、なるべく原調で歌った方が良いかな」という事にしておきました。

 音程と言葉の違いはあるにせよ、同じ風に「歌手本位で考えるならば、歌曲は翻訳して歌ってよし」ってなるんじゃないかな?って思ったわけです。

 ならば、我々日本人は、クラシック系声楽曲を、ドンドン日本語に訳して歌っていけばいいはずだけれど、現実は、ちょっと違います。

 クラシック系声楽曲って、たいてい、原語で歌うよね。歌っている人は、歌の歌詞について勉強しているのだろうから、その意味も、言葉のちょっとしたニュアンスも分かって歌っているのだろうけれど、聞いている我々は、全然分かりません。何か舞台で熱を込めて歌っているなあ…とは分かるけれど、何言っているかなんて、さっぱり分かりません。

 よく「ドイツリートは歌詞の意味が大切」なんて言う人がいらっしゃるけれど、そのドイツリートのコンサートに行っても、歌手は原語で歌うので、聞いている我々はチンプンカンプンです。大切なはずの歌詞の意味なんて、分かるわけありません。もちろん、観客には伝わりません。

 気のきいたコンサートだと、プログラムに歌詞の翻訳が挟まっていたり、字幕スーパーが出るコトもあるのだろうけれど、そんなモノを見ながら音楽を聞いていたら、気が散って仕方なりません。

 意味も音楽も…と思うなら、きちんと日本語に翻訳した歌詞で歌って欲しいと思うのだけれど、まずそういうコンサートに出会う事はありません。

 観客、置いてけぼり…です。

 たまに日本語歌詞で上演されるオペラやオペレッタ上演に出会う事はあります。喜劇作品が多いような気がしますが、歌とお芝居が一体となるので、結構楽しめます。よく知らない歌は日本語で歌ってもらった方が楽しめるのは確かです。

 実際、ミュージカルは、たいてい日本語上演ですよね。だから、楽しいんです。

 なぜ、クラシック系声楽では、現地語ではなく原語で歌うのかと言えば…それが世界の主流だからです。そして、なぜ原語で歌うのが主流になったのかと言えば…ジェット機が発達して、スター歌手たちが世界中を飛びまわるようになったから…です。

 クラシック系声楽と言えども、ジェット機が発達する前は、歌手たちの移動が大変だった事もあり、大抵の歌手(オペラ歌手)はローカルスターでした。活躍の場も地元のオペラハウスが中心です。ですから、現存しているその頃のスター歌手の録音を聞いてみると、結構な数の曲を彼らの母国語である現地語に翻訳して歌っています(もちろん、原語歌唱のものもあります)。

 やがてジェット機が普及し、スター歌手たちが世界中を飛び回るようになりました。そうなると、一つの公演に色々な言葉で歌う歌手たちが集まるようになりました。様々な言葉で歌う歌手たちが集まったからと言って、まさか、言葉をチャンポンにしてオペラを上演するわけにはいきません。そこで歌手たちが歌う歌詞を統一する必要が出てきました。そうなると、勢い、原語で歌うようになるわけです。原語歌唱なら、間違いないし、ある意味、公平ですからね。

 やがて、スター歌手たちが原語で歌うのが普通になれば、将来のスター歌手を目指す若手歌手たちも原語で歌を学ぶようになります。で、せっかく原語で歌を学んだのであれば、それを自分の弟子や生徒に教える時も原語で教えるようになり…という状況が今の状況を生み出したわけです。

 つまり、原語で歌うのは、あくまでも歌う側の都合であって、観客の事を考えているわけじゃありません。そういう意味で、歌手本位の視点で原語歌唱となっているわけで「歌曲は移調して歌ってもOK」と根は一緒です。

 なんだ、そういう事だったのか!

 つまり、クラシック系声楽曲であっても、観客に合わせて、現地語に翻訳して歌っても全然かまわないのだけれど、歌手たちは原語で歌を勉強しているので、コンサート等でも原語で歌っているだけで、別に原語で歌わないといけない…というほどのことでもなさそうです。

 勉強は原語でしても、コンサートやオペラ公演の時は、日本語歌詞で歌えばいいのだろうけれど、それでは暗譜の負担が増えてしまうので、勉強した原語で歌うという、省エネ的な動機があるし、それは分からないでもないけれど、エンタメ的な視点で考えると、どうなんだろうと思わないでもないです。

 あと、声楽に限らず、クラシック系音楽って、教養主義的と言うか、貴族的と言うか、スノッブな部分があって、あえて現地語で歌わずに原語で歌うことで、選民意識をくすぐるというか、愚民を見下す快感を得ると言うか、そんな事もないではないのかな…と思わないでもなかったりします。訳のわからない外国語で歌う事で、有り難さを演出するわけですね。

 まあ私だって「この曲、原語で歌う? それとも日本語で歌う?」と尋ねられたら「原語で歌います!」と即答しちゃうだろうし…ね。私も、なかなかな悪趣味野郎ですからサ。

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2018年2月20日 (火)

歌曲は原調で歌うべきか?

 つまり、歌曲は作曲家が作曲したオリジナルの調性のまま歌うべきか、それとも歌手の声に合わせて自由に移調して歌うべきか…という命題でございます。

 一般的な解答としては「歌曲は自由に移調して歌って良し」です。

 でも、本当にそれでいいのかな?と私は思うわけです。

 確かに、歌手本位で考えるならば、その歌手が一番良いパフォーマンスを発揮できる音域というのは、歌手毎に決まっているわけだから、どんな曲であれ、その音域の範囲に納めて歌った方が良い結果が出るに決まってます。

 だから歌曲を移調して、歌い手の得意な音域に納めて歌うのは、一見、理にかなっているように見えます。実際、歌手本位ならば、それで正解です。

 でも、何か釈然としないのです。

 まず1つ目の釈然としない理由は、これは歌曲のみに適用され、オペラアリアには適用されないって事です。

 歌曲は歌手の音域に合わせて、自由に移調されて歌われるのに対して、オペラアリアは作曲家が書いたオリジナルの調性のまま歌わないといけないのです。その理由として、歌曲は単独で歌われる事が多いけれど、オペラアリアはオペラ全体の中の一部として歌われるから、他の曲とのバランスを考えると、移調して歌うのはふさわしくない…って言うわけです。

 でも、これ、ごまかしだよね。

 確かに、オペラ上演の最中、一部の曲だけ移調して歌うと、不自然な感じがしないわけでもないから、オペラ上演の中では、アリアの移調は禁止…は分かります。でも、コンサートなどで、そのアリアだけ取り出して歌う時も、移調禁止は…分かりません。歌手本位で考えるなら、その歌手の音域に合わせて、オペラアリアも移調して歌っても、何の不都合もないからです。

 私は実際、素人さんの発表会で、オペラアリアを移調して歌われたのを聞いた事があります。有名なテノールのアリアを、低く移調してバリトンの方が歌われていました。破綻なく、見事な歌唱でしたたよ。特に、歌としての不都合はありませんでした。この歌唱を聞いて以来、歌曲が移調されて歌われるのと同様に、オペラアリアも移調して歌っても、まあ、アリかもしれないなあって思いました。

 歌としての不都合はないのに、オペラアリアの移調はダメで、歌曲の移調はアリってのが、私が釈然としない理由の1つです。

 理由はもう1つあります。やはり、その低く移調されたオペラアリアを聞いた時に感じた事です。

 オペラアリアを低く移調して歌われても、確かに歌としての不都合はありませんでした。不都合は無かったのですが…違和感はありました。移調されていても、同じ歌は歌なのですが、なんか違うんですよ。具体的に書けば「歌を聞いた後にカタルシスが解放されない」と言うと…分かるかな? なんか、聞いていて不完全燃焼だったのですよ。

 テノールのアリアって、たいてい最後に聞かせどころの高音があって、そこをアクロバチックに歌うことで、聞き手のカタルシスは解放されるように作られています。バリトン用に移調された時も、全く同じように歌われ、高音部分も移調されて歌われたのですが、テノールが原調で歌った時に感じたカタルシスの解放が、バリトンが移調して歌うと、特に感じられずに、普通の歌として聞こえちゃったんですよ。

 テノールのオペラアリアの高音って、絶妙に作曲されています。テノール歌手のギリギリの音域で、破綻直前の危うい音程で、見事に歌えるように作られています。それを低くしてバリトン歌手が歌うと、バリトン歌手にとっては、破綻寸前の危うい高音であっても聞く側からすると、テノールでの歌唱ほどのヤバさは感じられず、普通の高音にしか聞こえないのです。

 歌の音程と歌手の声質って、関係あると思うのです。で、作曲家はそこを考えて、調性を決めて作曲していると思うのです。それを考えると、オペラアリアを移調して歌っちゃダメという理屈に納得しちゃう私なんですよ。

 で、オペラアリアはダメなのに、なんで歌曲は良いの? って思ってしまうわけで、なんかモヤモヤが残るわけです。

 「君と旅立とう」という歌曲があります。オリジナルはイタリア語の曲で「Con Te Partirò」というタイトルで、アンドレア・ボチェッリというテノール歌手のために書かれ、実際、彼のシングルレコードとして発売され、ヒットしています。

 この曲は、後に、歌詞の一部を英語にして、英語のタイトル「Time To Say Goodbye」に付け替えられて、ソプラノ歌手のサラ・ブライトマンによって歌われ、大ヒット曲となりました。

 この曲は、男女の二人の歌手によって歌われています。同じ調性で歌われていて、移調されているわけではないのですが、実は歌っている歌手の男女の差もあって、実質的には1オクターブほど音程が違っています。実際の音程が違うので、同じ調性でも、歌の印象が少し違います。私が特に違和感を感じるのは、最後の聞かせどころの高音部分です。

 ボチェッリの、音域ギリギリで歌う高音に対して、ブライトマンの楽々歌う威風堂々たる高音は、曲の印象を大きく変えます。

 これは私の好みですが、ブライトマンが美しい声で楽々と歌うバージョンよりも、ボチェッリが朴訥でギリギリに歌うバージョンの方が好きですし、この曲は、そもそもがボチェッリの持ち歌という事も考えれば、作曲家はこの危うさを出したくても、この音域で曲を作曲したんだと思われます。でも、ソプラノであるブライトマンにとって、この音域は楽勝なんだと思います。楽勝すぎて、高音が安心で安定してしまうのです。

 歌手本位で考えれば、ブライトマンの歌もアリだろうけれど(だから大ヒットしたわけです)、作曲家本位で考えると、ブライトマンの歌唱は、本来の意図とは違うんじゃないかなって思うわけです。オペラアリアを違う声種の歌手が歌うと違和感を感じられるように、歌曲だって本来対象にした声種以外の歌手が歌うと、やっぱり違和感を感じる…んだと思います。

 そして、昔の作曲家の歌曲は、皆さん、結構自由に移調して歌われているけれど、現代作曲家のソングは、移調して歌われたり歌われなかったり、そもそも移調された楽譜が販売されていなかったり…。

 ああ、考えれば考えるほど、頭が混乱する。

 移調問題については、歌手本位で考えるのと、作曲家の意図を汲み取って考えるのと、結果が異なってしまいます。これは、ある意味、立場の違いだけであって、どちらも正解と言えるし、どちらも不適切とも言えます。

 ああ、分からん。私的には、作曲家の意図を最大限に尊重しつつ、時には移調された楽譜で歌うって事になるんだろうなあ。少なくとも、私が楽譜を選ぶ時は、なるべく移調譜ではなく、原調の譜面を利用したいなあって思うわけです。また女声用に作曲された曲はなるべく避けて、男性用に作曲された曲をなるべく歌うように心がけているわけです。ただし、それを他人に強要する事はしないけれどね。

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2018年2月15日 (木)

あいうべ体操をやってみた

 皆さんは「あいうべ体操」というのを知っていますか? 知らない方は、こちらのページをご覧ください。クチ周りの筋肉を鍛えて、鼻呼吸が出来るカラダに鍛えて、健康になりましょうって趣旨の体操です。

 私、ある時、テレビの健康番組で、この「あいうべ体操」を紹介しているのも見て、さっそくマネてみましたが…私、この「あいうべ体操」が出来ない人だという事に気が付きました。どうやら、私だけがそうってわけではなく、その時のテレビの出演者の中にも、私同様に、うまく「あいうべ体操」ができない人がいたからです。

 「あいうべ体操」は、順に「あ」「い」「う」「べー」と発音していくだけの簡単な体操なのですが、問題は「い」なんです。

 世間一般の方は「い」の時に、クチビルを思いっきり横に引っ張るようです。横に引っ張ってから「いー」と発音するんだそうです。しかし、私は違います。むしろクチビルは前に突き出します。実はクチビルのカタチだけで言うなら「い」と「う」は、ほぼ一緒です。違いがあるとすると「う」の方が「い」よりも、幾分突き出し量が多めかなってぐらいです。結構「い」の時は、クチビルを丸めて前に突き出して発音します。なので「い」も「う」もクチビルのカタチはほぼ一緒なので「あいうべ体操」では、十分にクチ周りの筋肉が鍛えられないという事になってしまいます。

 どうやら私、普段から母音は、クチビルのカタチよりも、舌の動きで作っているようなんです。なので、意識すれば、ほとんどクチビルを動かさずに母音発音が出来ます。なので、腹話術はやらないけれど、もしもやったら、なかなかスジが良いのではないかと、勝手に思っているくらいです。

 実は、母音をクチビルのカタチではなく、舌の動きで作るのは、声楽的には望ましい事のようです。と言うのも、声楽では、クチビルはラッパの朝顔部分に当たるわけで、ここで音を拡声しているわけですから、クチビルを使わないと発音できない幾つかの子音はともかく、そうでない限りは、クチビルは構音には関わりなく、大きく開いていた方が、声楽的に有利なわけです。

 なので、自覚はないのですが、おそらく私がクチビルを使わずに母音の発音をしているのは、そもそもそういう傾向があった上に、声楽を学び始めた事でより顕著になったのではないかと思われます。

 思わぬ事で、自分の癖を見つめ直した私でした。

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2018年2月 5日 (月)

歌手から見た、クラシック声楽とポピュラーヴォーカルの違いについて

 クラシック声楽とポピュラーヴォーカルは、別に項を新たにして語る必要もないくらいに、明らかに違います。何しろ、歌う対象が違うからです。

 クラシック声楽は、クラシック音楽における声楽曲を歌い、ポピュラーヴォーカルは20世紀以降に生まれた流行歌を歌っていくわけです。あるいは、どんな広くて大きな舞台でも原則的に生声で歌っていくのがクラシック声楽ならば、本当に狭くて小さなライブハウスであっても、必ずマイクを使って電気的に声を増幅し,加工して歌うのがポピュラーヴォーカルです。

 これらは自明の事であり、今更、クラシックがどうのとかポピュラーどうのとか、今更、両者の違いをあれこれ言っても、面白くもおかしくもないわけです。

 でも、最近、ネットをウロウロしていたら、もう一つ別の視点でクラシック声楽とポピュラーヴォーカルの違いについて語る事ができる事に気づきました。それは、歌手から見た時の、両者の音楽的な違いについてです。

 クラシック声楽曲は、クラシック曲です。音楽の主役は作曲家です。演奏家は、作曲家が作り出した音楽を、残された楽譜に従って、なるべく忠実に、実際の音楽として再現していく役割を負っています。それゆえに、クラシック音楽家はしばしば“再生音楽家”と呼ばれます。

 もちろん、だからと言って、クラシック音楽家が没個性であって良いのかと言えば、それは全く違うわけで、楽譜は音楽の記録方法としては、かなりスキも隙間もある不完全な記録法であるため、より良い音楽を演奏するために、演奏家たちは、演奏に際して、彼らは彼らなりに、楽譜から逸脱しない程度で知恵と工夫を加えて、実際の演奏をしていくわけです。その際の“知恵と工夫”が演奏家の個性であり、それゆえに、クラシック音楽は、演奏家ごとに、同じ音楽であっても、味わいが異なり、そこがクラシック音楽の鑑賞ポイントの1つになるわけです。

 一方、ポピュラー音楽では、楽譜は重要ではありません。重要でないどころか、楽譜が存在しない事すらあります。

 楽譜が存在していても、それには歌詞とコードネームしか書かれていない事もしばしばありますし、五線譜にメロディーが書かれていても、四分音符と八分音符と四分休符ばかりで大雑把にしか書かれていなかったりします。また、メロディーは書かれていても、前奏も間奏も後奏も書かれていなかったりします。その上、パートごとの楽譜なんて無いのが普通ですから、どの楽器奏者も歌手用の楽譜で演奏していたりする事すらあります。

 私が以前、ジャズフルートの勉強をしていた時など、私が楽譜通りに演奏すると、よく注意されたものです。楽譜はあくまでも参考程度に見るものであり、楽譜通りに演奏しちゃダメだよと言われたものです。じゃあどうするのか言えば、楽譜に書かれた音楽に、自分の個性を加えて、音楽を再創造していくわけです。それがポピュラー音楽なんですね。つまり、ポピュラー音楽では、演奏家の個性が大切であり、作曲家は音楽の素材を提供しているだけの話なのです。それに、ポピュラー音楽では、しばしば演奏家が作曲家であるケースも多いです。これなどは、自分の個性をより際立たせて演奏するという前提で、作曲が成されていくわけです。

 つまり、クラシック音楽は、作曲家が作った曲を、より良くより素晴らしく演奏してあげるモノであり、ポピュラー音楽は、作曲家が作った音楽を材料にして、どうやって演奏家の個性を表現していくかが大切なんだと思います。

 ですから、歌手の立場で言えば、確かに音楽が作曲された年代とか、マイク使用の有無も大きな違いである事には間違いありませんが、それ以外にも、楽譜に忠実に、音楽の様式を守って、理想的で美しい音楽を奏でるのがクラシック声楽であるならば、楽譜はあくまでも参考程度で、演奏している場の時代性や地域性を考えながら、いかに歌手である自分の個性を盛り込んだ、ワン&オンリーな音楽を歌い上げていくのかがポピュラー音楽なんだろうと思います。

 規則通りに歌い、自由奔放な歌を避けるのがクラシック声楽であるならば、個性を前面に出し、枠に収まる事を嫌うのがポピュラーヴォーカルであると言えます。

 それゆえ、演奏するために、たくさんの勉強が必要なのがクラシック声楽です。常にその演奏には、正しさが求められているし、理想的な演奏が要求されています。必要なテクニックもたくさんあって、それらを一つ一つ確実に身につけていかないと、クラシック声楽の曲は歌えません。

 一方、ポピュラーヴォーカルは、感性が第一だし、正解があるわけでもないし、ある意味“ウケたら勝ち”なのです。テクニックが不必要とは言いませんが、最低限のテクニック(音程とか和声に関するテクニック)さえあれば、後は自己流で歌ってしまってもOKなのです。

 全然、違うね。

 私的には、どちらも大好きです。ポピュラーヴォーカルだからと言って、全く原曲をとどめないようなメチャメチャな演奏は当然ダメだし、クラシック声楽であっても、演奏家の個性が要求されるカデンツァというモノがあり、その部分の演奏のノリは、まるでポピュラー音楽のようであるわけです。そんな側面もあります。

 結論めいた事を書くなら「歌手の歌いたいように歌うのがポピュラーソング。様式を守って理想を求めていくのがクラシック声楽」って言えるんじゃないかしら?

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2018年1月29日 (月)

金管楽器と歌手の生歌、大音量なのは、どっち?

 …と尋ねると、圧倒的大多数の人は「それはさすがに金管楽器でしょ」と答えると思います。でもね、昔々のヨーロッパの大道芸では、トランペット対オペラ歌手という対決があって、どっちの方が、音量が大きいか、どちらが細かく動けるか、どちらの方がきらびやかな音色が出せるかなどの対決が行われていたそうですから、歌手の生歌だって、そんなに捨てたものじゃないかもしれません。

 実際、素晴らしいテノール歌手の声は、しばしばトランペットに例えられますし…ね。
 そこで、データーで調べてみました。参考にしたのは、このページです。

 参考ページによれば、金管楽器の音量は、110デシベルです。

 歌手の生歌ですが、ポピュラーのヴォーカリストなら、アマチュアで90デシベル、プロで100デシベルだそうです。ポピュラーのヴォーカリストさんたちは、普段の歌唱はマイク使用が前提となりますが、マイクが無くても、それなりの音量で歌っている事が分かります。ちなみに、アマチュアのヴォーカルの90デシベルと言うのは、フルートやヴァイオンリの音量とほぼ同じです。

 声のデカさが売りの、クラシック声楽(オペラ歌手)となると、アマチュアで110デシベル、プロになると120デシベルになるそうです。つまり、金管楽器って、アマのオペラ歌手程度って事になり、プロのオペラ歌手の方が10デシベルほど大音量となるそうです。

 「たった10デシベルでしょ? オペラ歌手の大声にはビックリしたけれど、金管楽器と大差ないじゃん」

 そうおもうでしょ? でもね、デシベルという単位が曲者なのです。

 詳しくは、こちらのページを読んでいただければ良いのですが、10デシベル違うと、音量としては、約3倍ほど違います。

 約3倍違えば、かなり違います…ってか、大違いです。

 ちなみに、ポピュラーのプロ歌手とオペラ歌手では20デシベルの音量差がありますから、比率に直せば、10倍も違います。いやあ、オペラ歌手って、本当に大声なんだなあ。

 オペラ歌手並の騒音として“ジェット機(200m)・新幹線鉄橋・F1コース〔50m〕”
とあります。並大抵の音量じゃないなあ…。

 と言う訳で「金管楽器と歌手の生歌、大音量なのは、どっち?」の答えとして、歌手がプロのオペラ歌手なら、歌手の圧勝。アマのオペラ歌手なら引き分け。ポピュラー歌手なら、余裕で金管楽器の勝ち…となります。

 意外だね。意外だったでしょ?

 ちなみに、こちらのページの情報によると、人間の声の大きさの限界値は、120デシベルなんだそうです。プロのオペラ歌手って、ほぼ限界ギリギリの大声を日常的に出しているってわけですね。ちなみに、普通の人の大声って、80~100デシベル程度なので、ポピュラー歌手って、プロアマともに、普通の人って事になります。なんか、納得。

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2018年1月25日 (木)

声は賜物、ならば平凡な声しか持たない者は歌うべきではないのか?

 時折、そんな事で悩んでいる方をネットで見かけます。私も以前は同様の悩みを持っていたものです。

 この悩みは器楽の人には分からないんだよね。だって、器楽の人なら、今の自分の楽器に不満や不足を感じたら、楽器を買い替えちゃえばいいわけです。だから、深くは悩まない。悩むとしたら、良い楽器を購入するためには財力が必要で、その部分で悩む人は…まあ、いるでしょうね。でも、声楽の人たちの悩みとは根本的に異なります。

 声は…ねえ。取り替えられないのよ。更に言えば、加齢によって劣化するのよ。更に言うと、アマの歌手の皆さんは、歌を始めるのが、割りと人生の晩年に近づいてからだったりするわけで、そうすると最初っから劣化済みの声で歌を始めないといけなかったりするわけです。

 年を取って財力をつけて、良い楽器を購入できる器楽の方々と比べ、年を取って声が劣化して、平凡な声でしか歌えない…と感じる声楽の方々は、本当に切ないね。

 実際、年を取ってしまうと、若者と較べて、筋力は衰えているし、ホルモン分泌もよろしくないし、カラダも乾き気味だし、何をどうやったって、若者のようなツヤツヤした声で歌えるわけもないし、大きな声や細かくよく動く声で歌えないのも当然です。

 ましてや、歌を始めたばかりで、テクニック的にも不足していると「私なんかが歌っていて良いのかしら」とか弱気になったりするわけです。かつての私がそうでした。

 「なに、のぼせあがっているんだい! 一体、自分を何様だと思っているんだよ」 今の私なら、かつての私に、そう言っちゃいます。

 だって、私は、素人様の趣味のオジサマだよ。そんな人に、自分は何を期待しているんだい…って話です。

 平凡な声しか持っていないから歌っちゃいけない? あんたはプロ歌手かって!

 そもそも、自分が歌いたいから歌を始めたわけで、誰かに聞かせるとかそういうのは、二の次三の次でしょ? 歌いたいから歌を始めたのなら、歌っていればいいじゃない。声がどうのこうのは問題じゃないよ。どんな声であれ、歌いたいなら歌えばいい。

 歌いたい事と、聞かせる事は別問題。そこを直結させちゃうから、問題はややこしくなるわけです。

 誰かに自分の歌を聞かせたいと思うなら、そりゃあ色々なハードルを越えていかないといけないけれど、単に歌うだけなら、遠慮は無用。自分の平凡な声で堂々と歌っていけばいいわけです。

 問題は、聞かせる事を前提にしちゃった場合だけれど…多くの人は、人前で歌うと言っても、大半は合唱でしょ? なら問題ないじゃない。合唱は、周囲の人たちと声を合わせて歌うわけで、歌っている人の一人ひとりの声が聞こえちゃダメなわけで、そんな中で歌うなら、声なんて、むしろ平凡な方が合わせやすいんじゃないの? むしろ良い声を持っている人の方が、合唱では苦労しがちだしね。

 合唱ではなく、独唱で歌う人だって、あなたは一体どこで歌うんですか?って話です。門下の発表会やおさらい会程度で歌うなら、別に気にすることないでしょ? だって、聞く方だって“その程度”って分かって聞いてくれるわけだもの。

 まあ、ボランティア活動で歌うのであったり、有料のコンサートを開くとかであったりすると、話は別で、そうなると、プロ的な歌唱水準を求められるわけで、声だって平凡なままではアウトかもしれません。その時は改めて悩めばいいわけで、歌を始めたばかりなのに、いきなりそんなコンサートを開ける人なんて、天才でないかぎりいませんから、別に今の段階で悩む必要はないわけです。

 ってわけで、自分の声の良し悪しで悩む前に、楽しく歌って、人生をほがらかに過ごしましょうって事です。

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2018年1月24日 (水)

キング先生に習っていた期間よりも、今のY先生に習っている期間の方が長くなりました

 ふと気がつくと、そんな事になっていました。

 キング先生 グループレッスン  2007年1月~2009年1月  2年1ヶ月
 キング先生 個人レッスン  2009年2月~2012年6月  3年5ヶ月
  -> キング先生に習っていた期間 5年6ヶ月

 Y先生 個人レッスン  2012年7月~現在(2018年1月) 5年7ヶ月

 レッスン期間はほぼ同じとは言え、ついにY先生に習っている期間の方が長くなりました。正直、感慨深いものがあります。

 もう少し言うと、レッスン期間はほぼ同じと言えども、レッスン時間そのものは…すでにY先生に習った時間の方が多いと思います。

 なにしろ、両先生とも、レッスンは原則、隔週 or 月2回だけれど、キング先生の場合、グループレッスンの時は、個人的に見てもらえるは、一回のレッスンではせいぜい5分程度だったし、個人レッスンになっても、レッスンの半分は休憩時間(&雑談時間)だったので、表面上の時間よりも実際にレッスンで学んでいる時間は少なかったです。だから、ブログでは、一回のレッスンの内容は、一回の記事で書き切れたわけです。

 そこへ行くと、Y先生はレッスン中に休憩時間を入れませんし、雑談もしません。レッスンは常にビッチリやりますので、正味のレッスン時間では、すでに倍以上の差が付いていると思います。ブログの記事も、かなり内容は端折っていますが、Y先生の場合、1回のレッスン内容は、記事にすると、どうしても2~3回になってしまいます。

 私自身の歌い方にしたって、キング先生時代に習った事は、だいぶ抜け、まだ悪い癖は完全に取り除けたとは言えませんが、かなりY先生が教えてくださる、オーソドックスな発声法に馴染んできたと思います。なにしろ、キング先生の教えてくださった発声法って、かなり個性的で画期的で革新的だったからなあ…。

 今はキング先生がダメと言った事を積極的に行い、キング先生が指摘されなかった事を重点的に意識して歌うようになりました。

 まあ、富士山登頂にしたって、色々な登山路があるように、おそらく、キング式発声法であれ、Y先生が教えてくださるオーソドックスな発声法であれ、山頂に到達すれば、それはそれで良いわけで、だから個性的なキング式発声法がダメだとは思わないのだけれど、私的には、誰もが登る、オーソドックスな登山路の方が性に合っているような気がします。

 習っていた期間だけでなく、習った曲数も、すでに違います。

 キング先生 グループレッスン  7曲
 キング先生 個人レッスン  29曲
  -> キング先生に習った曲  36曲

 Y先生 個人レッスン(現在まで) 71曲

 すでに倍近く違います。これは期間は同じでも、レッスン内容やレッスンの濃度の差で、これほどの違いが出たんだと思います。それにしても、思っていたよりも、大きな差だったので、私自身がびっくりしてしまいました。

 キング先生時代は、レッスンや発表会で歌う曲はすべて先生が決めていましたが、Y先生になってからは、私が曲を提案したり、Y先生が曲を推薦したりして、常に相談しながら決めているので、曲数も多いですが、内容も、それなりに幅広いです。自分セレクトの曲を歌うので、歌っていて楽しいですよ。

 あのままキング先生に習い続けていたら、絶対に歌わなかっただろう歌も、今は歌っています。いや、それ以前に、キング先生は私にはテノールは無理だから、バリトンに転向しろと散々言ってましたので、今頃は、半分腐りながらバリトンをやっていたかもしれません…私の声は明らかに軽いテノールなんですが(笑)。それを思うと、Y先生の指導の元、少しずつだけれど、テノール歌手として成長させてもらっているのは、感謝です。

 幼稚園を終えたら、小学校に進学するように、キング先生からY先生へ、師事する先生を変えた事は、偶然だったのですが、結果的に良いことだったと思います。幼稚園では学べない事も、小学校では学べますからね。実際、キング先生ご自身が、声楽の学習は複数の先生を渡り歩いて学ぶものだと教えてくださっていたし…ね。

 次の問題は、いつ小学校を卒業して中学校に進学するか…ですが、その時期はY先生と相談する事になっています(次の先生はY先生がご紹介してくださる事になってます)が、それはまだまだ先の話になりそうです。

 私的には、今しばらくはY先生の元でじっくり学んでいきたいと思ってます。

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2018年1月22日 (月)

二重唱なら二部合唱の楽譜が使える?

 これは盲点だったのですが、上手に選べば、二重唱を歌うチャンスの時に、二部合唱の楽譜が使えるなあ…と思ったわけです。

 実際、Y先生がご自分のコンサートの時に、ソプラノさんとの二重唱で、二部合唱の譜面を使って歌われたのです。二部合唱の上のパートをソプラノさんが、下のパートをY先生が歌いました。その合唱曲は、二部合唱とは言え、ハモリ中心ではなく、掛け合い中心にアレンジされた曲で、二重唱として歌っても、なかなか聴き応えがあるアレンジになっていました。

 いやあ、二重唱の楽譜って、適当なのを探すのって、案外大変なんだよね。

 今まで二重唱を歌う時、オペラとかオペレッタやミュージカルの二重唱曲を選んで歌っていましたが、それが門下の発表会ならまあ良しとして、クラシックコンサートのようなアウェーの場で歌う時は、そういう曲よりも、歌曲や、もっと言っちゃえば童謡や唱歌の二重唱の方が良いかな…と思わないでもなかったのですが…そういう曲で二重唱の楽譜って、無いわけじゃないけれど、そんなに豊富じゃないし、我々で歌えるほど簡単な曲でもなくて、どうしようかな…と悩むことも多かったのです。

 二部合唱の曲も二重唱で歌えるとなると、曲を探す範囲が広がるので嬉しいです。

 高声と低声の組み合わせなら、通常の二部合唱曲が使えます(Y先生のケースがそれね)。高声同士の組み合わせ(ソプラノとテノールの組み合わせとか)なら、同声二部の合唱曲…つまり、ソプラノとソプラノの二重唱曲(結構たくさんあります)が歌えるわけです。

 やったね。

 実際に歌うかどうかは別として、日本では合唱曲って豊富にありますからね。楽譜屋にいけば、本当にたくさんの二部合唱の楽譜があります。特に日本語の歌があるのが、うれしいです。

 日本語の曲は歌うのは難しいけれど、意味がダイレクトに分かって表現しやすいのが良いですね。

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