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  •  急に寒くなりましたね。気候の変化に体調が追いつかず、風邪をひいてしまいました。ああ、ノドが痛い(涙)。
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カテゴリー「歌劇」の記事

オペラおよび歌劇団に関するエッセイです。オペラ鑑賞記録もここです。

2018年12月10日 (月)

メトのライブビューイングで『西部の娘』を見てきました

 はっきり書きましょう。プッチーニ作曲の『西部の娘』というオペラは名作になりそこねた駄作であると。それゆえ、物好きなオペラ好事家以外の人には、特に鑑賞する価値すらないオペラであると。

 実際、『西部の娘』には歌謡性が欠落しています。おそらくそれは、プッチーニによって意図的に欠落させられたものであると私は考えます。なぜなら、このオペラの第三幕には有名なテノールのアリアがあり、このアリアのみ優れた歌謡性、いわばプッチーニ節と呼べるモノが見受けられるからであり、このアリアは、当初、このオペラには無かった要素だったからです。

 そもそも、この『やがて来る自由の日/Ch'ella mi creda libero e lontano』というアリアは、初演した大テノール歌手のエンリコ・カルーソーが作曲家プッチーニ向かって「このオペラにはアリアがない、アリアを書き加えなきゃ俺は歌わないぜ!」とか言ったとか言わなかったとか。とにかくこのアリアは主演テノール歌手に対するサービスであり、作曲家本人にとっては妥協の産物であって、それゆえにオペラ全編で浮きまくっている場違いなアリアでしかありません。それゆえ、いかにも“後からオマケで付け加えました”って感じで、それまでの音楽と、このアリアは、全くの別ものです。このアリアは「西部の娘」の中よりも「トスカ」や「蝶々夫人」の中にあった方がしっくりする音楽になっているのも仕方のない話なのてず。

 つまり、プッチーニは、歌謡性あふれるメロディアスなアリアを書こうと思えば書けるのに、あえて「西部の娘」には歌謡性を与えなかった…と私は思うのです。

 なぜ彼はそんな事をしたのか? おそらく、彼は迷っていたのでしょう。迷って自分を見失っていたのでしょう。つまり一言で言えば、スランプだったんです。ここまで名作オペラを書き続け、直前には「蝶々夫人」という名作を書いたにも関わらず、世間にはなかなか受け入れてもらえずに苦労をして“これじゃあいけない”と思って、無意識に今までとは別のやり方を模索して、道に迷ったのだと思います。

 まあ、それ以外にも、当時のプッチーニはスキャンダルにまみれていて、心に余裕はなかったろうし、ワーグナーから始まりリヒャルト・シュトラウスにつながっていくオペラ界の潮流だって感じていただろうし…。プッチーニは色々と焦っていたんだろうと思うわけです。

 確信的に、このオペラに歌謡性を与えなかったと思う別の理由として、歌には歌謡性を与えていないのに、伴奏であるオーケストラには豊かな歌謡性を与えているからです。「西部の娘」の歌には、聞くべきものはあまりありませんが、伴奏のオーケストラはなかなかよく仕上がっています。

 でもそれはイタリアの伝統ではないし、プッチーニのスタイルでもありません。

 つまり、プッチーニは『西部の娘』というオペラを、少なくとも『蝶々夫人』レベルの名作オペラに仕上げる事が出来たにも関わらず、あえてそれをしなかったわけです。

 ほんと、聞いていて、実に残念なのです。名曲になりそうなアリアや二重唱は、そこかしこにあふれています。しかし、音楽が輝きを放つ直前、どの曲もメロディーがくすんでしまうのです。ああ、プッチーニの迷いを感じます。まるで「ここで甘美なメロディーを書いてはいけない」と心に誓っているかのようです。

 で、そんな大作曲家プッチーニの駄作である『西部の娘』だけれど、メトは、実に興味深いオペラに仕上げて上演しています。『西部の娘』というオペラは、取り立てて見る価値のあるとは思えないオペラだけれど、このメトの上演は例外であって、これは実に面白い舞台作品だと思います。

 アメリカ人って『西部の娘』が大好きなんだよね。ほんと大好き。その愛情が、駄作オペラを水準以上の出来に仕立て上げたのだと、私は思います。

 ちなみに、このオペラ、CD等で音だけで聞くと、ほんと退屈ですよ。また、メト以外の歌劇場での上演で見ると、実につまらないです。

 しかし、メトの(最近にしては珍しいぐらい)セットにお金をかけ、衣装にも力を入れ、演出にも手間ひまかけた、この上演ならば、話は別です。実に面白いのです。まるで、舞台ではなく、映画を見ているかのような演出は、おそらくメト以外ではできないでしょう。ほんと、金満物量作戦ですよ。でも、これだけの経費と物量を投入して、初めて「西部の娘」というオペラは、見るに耐えうるモノになるという事が分かりました。

 結論。『西部の娘』というオペラには見る価値はないけれど、今回のメトの上演版は、音楽以外の部分があまりに素晴らしいので、見るべきです。特に、舞台制作にかけているアメリカ人の愛情が素晴らしい…と私は思いました。

 キャスティングは最高です。カウフマン、いいですよ。ディック・ジョンソンは彼ぐらいのイケメンじゃないと説得力ありません。ミニーを演じたエヴァ=マリア・ヴェストブルックのような美人さんはオペラには必要不可欠です。とにかく、このオペラ、実質的にミニー以外はすべて男声なわで、掃き溜めに咲く花としては、これくらいの美人じゃないと物語は成立しません。

 まず、他の歌劇場では、これだけの歌えるイケメンと美女を揃えることが難しいでしょう。さすがメト…と言っておきます。

 やっぱり、オペラって、金食い虫なんだと思います。

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2018年10月15日 (月)

一週間に3度行く

 何の話かと言うと、オペラ鑑賞の話です。

 実は私、この秋、ほぼ一週間(正確には8日)で3度、生のオペラを見るチャンスがありました。普段はオペラ鑑賞を始めとした、音楽鑑賞の話は、ブログには書かない(一々書いていたら、音楽鑑賞ブログになってしまいますからね)のですが、一週間に3度も生オペラを見るという体験は、私的にも極めて稀なので、記録として書いておきたいと思った次第なのです。

 まず最初が、東京芸術大学の奏楽堂で行われた『魔笛』です。いわゆる大学オペラという奴です。

 大学オペラと言うのは、大学のオペラ専攻科が主催して行う、授業の一環として行うオペラ公演です。入場料は極めて安価で、舞台装置や衣装は豪華、演出はオーソドックス、出演者は、ソリストは大学院生か卒業生(もちろん若手)、合唱や黙役、舞踏、各種裏方スタッフは学部生という布陣で行うモノです。オーケストラは先生方や外部のオーケストラを使う場合もあれば、大学の学生たちや卒業生を使う場合もあります。芸大の場合は、ソリストはほぼほぼ大学院生のようですし、オーケストラは先生方のようでした。

 学生および卒業生たちの学びの場としてのオペラ公演ですから、出演者たちは皆熱心ですが、その出来具合には多少のばらつきがあります。これは仕方がありません。観客サイドも教育の場としてのオペラ公演であると認識していますので、皆さん、暖かい目で見守るわけですし、親御さんたちは何はともあれ、感激しちゃうし、受験生たちは憧れの眼差しで舞台を見つめるわけです。そういう暖かさに包まれているのが、大学オペラなんです。

 で、『魔笛』の話ですが、よかったですよ。押しなべて女声が良かったです。水準高いですね、さすが芸大。合唱も分厚くて良し良しです。演出は、実にオーソドックスすぎるほどで、私は気に入りました。チケット代のお手軽さを考えると、見る側にとっても、初心者向けのオペラ公演と言えるかもしれません。妻は今度の発表会で夜女を歌うのですが、とても参考になったそうです。

 芸大で一つ気になったのは、奏楽堂のすぐそばの池の鯉たちです。ここの鯉は、どうも人間が嫌いみたいなのです。ここの鯉は、人影の無い方無い方に動くんですよ。鯉と言うのは、基本的に人懐っこい魚で、普通は人のいる方いる方に寄ってくるものなんですが、それがここの鯉たちは違うんです。そこが(オペラとは関係ないけれど)気になりました。

 その翌日に『ファルスタッフ』を昭和音大で見ました。こちらも大学オペラです。こちらのソリストやオーケストラは卒業生たちが中心でした。この卒業生たちが、普通に上手だったのにはびっくりしました。昭和音大、立派に人材を育ててます。

 こちらのオペラは演出が面白かったです。基本的にはオーソドックなんだけれど、第一幕では舞台を左右2つに割って小さな舞台で演じ、第二幕では全面を使うものの、あまり奥行きを強調しない舞台とし、第三幕の第1場では、舞台の手前に大道具無しの狭い狭い舞台で演じ、最後の第三幕の第2場で、舞台を広々と使った迫力のある場面を作り出しました。で、最後の場面は、舞台が広いだけでなく、出演者たちも合唱および黙役を含めて、大勢の出演者たちで舞台を作って、本当に迫力のある面白い芝居になっていました。

 演出がよかったんですよ。

 そんな面白かった『ファルスタッフ』ですが、実は私、第二幕の記憶があまり定かではないのです。オペラが始まったばかりの頃は元気いっぱいだったのですが、オペラを見ているうちに徐々に弱っていき、第二幕、特に第2場のあたりでは気持ち悪いし、気持ちは集中できないし、だいぶ参っていました。

 第二幕後の休憩で、ペットボトル2本ほどの水を飲んで正気を取り戻しましたので、第三幕はとても楽しめたのですが、第二幕の私は、後から思うに、熱中症になっていたみたいです。オペラを見ていて熱中症になるなんて、人生始めての体験でした。

 会場のテアトロ・ジーリオ・ショウワの館内が、むやみに熱くて熱くて…それが原因で熱中症になってしまったと思います。いやあ、ほんと、とにかく熱かったんですよ。なにしろ、汗が流れるままに観劇していたんだもの。

 この日の暑さがまた特別だった事に加え、観客たちから発せられる熱が結構強烈でした。特に私の真後ろにいたお兄さん(には罪はありませんが)が放出する熱はかなりなもので、まるでストーブの前で観劇しているような気分でした。あのホール、冷房は入っていたのかな? とにかく、デブには辛い熱い熱いオペラだったのです(涙)。

 三つ目は隣町の市民オペラ主催の藤原歌劇団の『椿姫』を見に行きました。これは普通のオペラ公演です。なので、大学オペラと比べてしまうと、大道具が最低限で貧弱と言えば貧弱だし、こんな舞台装置でもオペラはきちんとできると言えばできるのです。ちなみに、オーケストラは昭和音大のテアトロ・ジーリオ・ショウワのオーケストラでした。合唱も(大学オペラと比べると)そんなに多くはないし、バレーダンサーは最低限の二人だし…とまあ、経費的に節約できるところは大胆に節約しつつも、歌手の皆さんは一線級を揃え、それは実に聴き応えのあるオペラでございました。私は次の発表会でアルフレードを歌うので、今回の公演を勉強目線で見ていたのですが、正直に申し上げて、これはちっとも勉強になりません。あれを真似したり参考にしたら、私、ノド壊すって(笑)。

 アマチュアとか若手歌手の歌は、勉強になったり参考になったりしますが、一線級のオペラ歌手の歌唱は、あまりに私と違いすぎて、参考にもなりません。あれを参考にするには、まだまだ多くを学ばないといけないなあって思いました。うむ、残念。

 ま、とにかく、生のオペラ公演を見に行くのは、これで一段落です。世間では毎日のようにオペラ公演が行われているのかもしれませんが、私は、しばらく聞きにいけません。その変わり、この秋は、オペラ以外の各種演奏会が目白押しで、私、毎週のように、あれやこれやと出かける予定です。ほんと、秋は忙しいのよ(涙)。

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2018年9月11日 (火)

メトのライブビューイングで『オリー伯爵』を見てきました

 今回もメトのアンコール上映を見てきました。これで今年のアンコール鑑賞はお終いです。で、今回見てきたのは、ロッシーニ作曲の『オリー伯爵』でした。

 指揮:マウリツィオ・ベニーニ
 演出:バートレット・シャー

 オリー伯爵:ファン・ディエゴ・フローレス(テノール)
 女伯爵アデル:ディアナ・ダムラウ(ソプラノ)
 イゾリエ:ジョイス・ディドナート(メゾソプラノ)
 ランボー:ステファン・デグー(バリトン)
 養育係:ミケーレ・ペルトゥージ(バス)
 ラゴンド夫人:スサネ・レーズマーク(メゾソプラノ)

 なかなか上演機会に恵まれない珍品オペラです。今回のものは2011年の上演ですが、この時がメトでの初上演だったそうです。まあ、ロッシーニには他にたくさん有名作品があるから、この作品が初上演でも無理はないよなあ…。

 このオペラは、イタリア人ロッシーニの作品ですが、フランス語で書かれています。ロッシーニって、晩年(って若くして引退しているので、めっちゃ若い年齢ですが)にイタリアからフランスに移住して、それ以降はフランス語で作品を書いているわけで、ただでさえ上演機会の少ないロッシーニ作品の中でも、フランス語作品の上演は色々とハードルが厳しいわけで、それもあって、上演の機会に恵まれないでしょうね。

 もっとも、上演の機会が少ないのは、フランス語歌唱以前に、歌唱そのものがメッチャ難しいってのもあるかもしれません。とにかく、どの役も、やたらと高音やら細かいパッセージやらが連発され、これを歌いこなせる人を揃えるのって、大変だろうなあって思うわけです。現実問題として、稀代の名テノール、フローレスがいるから上演できる作品とも言えます。フローレスはテノールと呼ばれてますが、実際は、普通のテノールよりも高い声を持っている歌手だからね。そういう特殊な歌手がいないと上演できない作品なのです。なにしろフローレスは一般的なテノールよりも、声域がだいぶ高くて、仮に、彼が標準的なテノールだとしたら、世間一般のテノールはみんなバリトンになっちゃうくらい、飛び抜けて声が高いのです(って意味分かりますか?)。

 というわけで、このオペラは出てくる歌手たちの見事な歌唱を味わうオペラであって、それ以上でもそれ以下でもありません。後の要素はすべてオマケ扱いでいいでしょう。それくらいに歌唱が高度で派手だし、この上演はその部分を大いに満たしてくれています。ほんと、すごいよ、皆さん。歌好きなら、見逃す手は無いと思います。

 さて、歌以外の話をすると、演出は面白かったですよ。このオペラ、ストーリーがメッチャメチャで、じっくり見ていると、あっちこっちで破綻しているのですが、それを演出で分かりやすく表現し、破綻しているところをうまくやり過ごしています。一番良かったのは、このオペラを作曲当時のオペラ劇場で上演しています…という設定で演出しちゃった事かな? だから、メトの舞台の上に、もう一つ小さな舞台を作って、そこが今回の舞台になってます。で、その小さな舞台の周辺に当時の舞台裏とか舞台袖とかが作ってあって、我々はメタ的な視点で当時のオペラ上演を見ている…という事になるわけです。

 つまり、オペラ全体を別の芝居でくるんじゃう…という演出なんです。

 そうすると、分かりづらいストーリーも、歌手たちの通常ではできないくらいにオーバーアクションな演技によって分かりやすくなるんです。なにしろ、このオペラ、真面目に演出しちゃうと、実にバカバカしくて見るに耐えないお話だから、こういうやり方を見つけた演出家さんは、凄腕だなって思うわけです。

 歌好きな方にはお薦めですよ。

 ちなみに、この日のフローレスは、オペラの開演が午後1時だったそうだけれど、12時20分まで自宅にいて、ギリギリに会場入りして舞台に立ったのだそうです。何をグズグズしていたのかと言うと、奥方の自宅出産に立ち会っていたんだそうです。だから、ライブビューイングの中継が始まった時点では、まだ主役のフローレスは楽屋入りしていない…という状況だったのです。いやあ、なんか色々とすごいね。なので、これは演出なのかどうか分からないのだけれど、フローレスが演じるオリー伯爵の登場シーンでは、オリー伯爵を演じる歌手が舞台裏からなかなか出てこなくて、周囲があたふたして歌手を探しに行く…という演技(?)をしていましたが、あれ、本当に演技だったのかな? 実はフローレスの準備がギリギリになってしまって、本当に周囲があたふたしていたのか…なんて邪推をしちゃったりします。

 さて、おまけ。実は私、今まで東劇には銀座方面から行って、その活動範囲も銀座~東劇までの範囲で動いてたのですが、今回始めて、東劇の奥の方…つまり築地方面に行ってみました。いやあ、東劇と築地の場外って、ほんとすぐ近くなんですね。なので、場外でちょっぴり遊んじゃいました。楽しい楽しい。外人さんがたくさんいて、それもおもしろかったです。すしざんまいの店内を覗いた時に、満席だったんだけれど、その客がみんなヨーロッパ系の外国人だけだったのには、びっくりしました。いやあ、築地場外はワンダーランド、世界の観光地なんだなって思いました。

 東劇のオペラ鑑賞とは別に、今度はゆっくり築地観光をしてみたくなりました。

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2018年8月29日 (水)

メトのライブビューイングで「ロメオとジュリエット」を見てきた

 えっと、アンコール上映で、2007年上演の「ロメオとジュリエット」を見てきました。もう、10年以上も前の上演です。

指揮:プラシド・ドミンゴ
演出:ギイ・ヨーステン

ジュリエット:アンナ・ネトレプコ(ソプラノ)
ロメオ:ロベルト・アラーニャ(テノール)
マキューシオ:ネイサン・ガン(バリトン)
ステファーノ:イザベル・レナード(メゾソプラノ)

 グノー作曲のフランスオペラなので“ロミオ”ではなく“ロメオ”ね。ジュリエットは英語でもフランス語でも“ジュリエット”なので変化しません…ってのは、どうでもいい話か(笑)。

 この演出での上演は、すでにメトでは行われていません。2016年にバートレット・シャーの演出に変更されてしまったからです。

 で、この上演なのですが、あれこれいわく付きの上演のようですが、私は気に入りました…が、そこは賛否両論かもしれませんね。

 まず、そもそも、ロメオはアラーニャではなく、本来はローランド・ヴィラゾンだったそうです。それが、ヴィラゾンのキャンセルで、アラーニャに代わったのだそうです。当時、ネトレプコもヴィラゾンも30代半ばですから、ロメオとジュリエットは…多少トウが立っているとは言え、まあ、やれない年齢ではありません(ロメオもジュリエットも十代半ばという設定)が、アラーニャはすでに40代半ば。ちょっと年齢的に厳しいかもしれません。なにしろもう十分、親の年齢だしね。

 第二に、この演出は、そもそもがナタリー・デセイのために考えられた演出で、デセイが演じるという前提があっての演出であって、デセイほど演技ができるわけでもないネトレプコには、そもそも厳しい演出を無理に無理を重ねてなんとかしている(ようで、結構物足りない)わけです。

 第三に、指揮者が、当時はまだテノール歌手だったプラシド・ドミンゴが担当している事。つまり、素人…と言うと言いすぎかもしれませんが、テノール歌手としてはリビング・レジェンドであったとしても、まだ指揮者修行中のペーペーがメトの大舞台で指揮台に上がっちゃったって事です。

 というわけで、あれこれあったわけですね。

 まずテノールがアラーニャに変更した点ですが、私は賛成です。別にヴィラゾンよりもアラーニャが素晴らしいというつもりはありません。ヴィラゾンにはヴィラゾンの、アラーニャにはアラーニャの素晴らしさがあるって話です。

 確かにアラーニャは、すでにロメオを歌うには、当時、年を取りすぎていたのかもしれませんが、ロメオは彼にとっては十八番の役であって、若い時に散々歌ってきた役の一つであって、歌に関して言えば、悪いはずはありません。実際、すごく良かったし…。そういうベテランのワザを見るのも、素敵な経験です。

 まあ、残念と言えば、これはアラーニャのせいではなく、メトの技術スタッフの失敗なんだけれど、今回のライブビューイングでは、アラーニャの高音がすべて割れて収録されてしまっていた事です。いわゆる“過入力”ってやつで、声にディストーションがかかっちゃっているんですよ。これ、ロックならいいんだけれど、オペラではダメだよね。声がジャリジャリしちゃうんだよね。この過入力は、別にアラーニャの歌だけでなく、オーケストラのトゥッティにも、ソプラノのffでも聞こるんだけれど、一番目立ったのがアラーニャの歌声の過入力でした。まあ、テノールの歌声ってオーディオ機器には負担で、テノールばっかり再生していると、スピーカーが早くヘタるとも言うしね。それだけ力強くアラーニャは歌っていたって話です。

 メトのライブビューイングって2006年スタートだから、このロミジュリの段階では、まだ2年目で、今と比べると、あれこれノウハウ不足だったわけで、それでこんな音声収録になっちゃったんだと思います。ちなみに、カメラワークの方も結構ガタガタしていたし、インタビューのやり方とか幕間の見せ方とかも今とは全然違います。黎明期のライブビューイングは色々まだまだだったわけですね。

 ネトレプコの演技は…とても頑張っていたと思います。でも、この演出はやっぱりデセイで見たかったな。ネトレプコが演じるなら、もっと棒立ち演技でもよかったと思います。ネトレプコもプロのオペラ歌手だから、全然演技ができないわけじゃないけれど、そこは最初っから歌手であるネトレプコと、舞台女優あがりのデセイでは比較にならないわけで、それなのに同じ演出でやっちゃダメでしょって話です。当時のネトレプコはまだ若くて美しかったわけだから、そんなに難しい事させなくても、十分、ジュリエットを演じられたと思うんだよね。なんか、中途半端な感じがしました。

 ドミンゴの指揮は…オケが素晴らしかったと思います。メトほどのオーケストラになったら、指揮者は誰であれ水準以上の演奏はしちゃうでしょ? だからドミンゴの指揮でも問題はなかった…と私は思うし、あくまでも指揮やオーケストラは歌手たちを支える側なんだから、まああんなもんでいいんじゃないの? ただ、テノールのキャリアの終わりに、あれだけ頑張って指揮活動をしていたドミンゴが、今では指揮はやらずにバリトンに転向したという事実を見ても、指揮者ドミンゴは…あまり需要がなかったんだろうね。そんな気がします。

 で、今では上演されなくなったヨーステンの演出だけれど、これ、ロミジュリでなかったら通用しないかもしれませんね。なにしろ、舞台装置が象徴的で、舞台だけを見ていると、時間と場所の特定が全然できません。舞台中央に回り舞台があるんだけれど、なんかこれが意味不明なんです。でも、ロミジュリだからね。ストーリーは世界中の誰もが知っているわけだから、こういう象徴的な演出でもいいのかもしれません。

 それに衣装は、現代風ではなく、なんちゃって中世風だったのは、私的には良かったかなって思います。なんちゃって中世風というのは、男女の衣装とも、一見、中世っぽいんだけれど、現代人の目から見て「これ、どーなの?」的な部分は、一部現代的にしている衣装デザインが“なんちゃって”だなあって思いました。

 簡単に一例を上げて言うと、当時の男性貴族の衣装って、特に下半身は“タイツ+ちょうちんブルマ”でしょ? でも、そんな格好をしているヤツはほとんどいなくて、大半は、ジャージ地のジーンズっぽい作業ズボンでした。そんな生地、中世にねーよ。でも、カッコいいかな? すべてがこんな感じでした。

 それにしても、ロミジュリって、良いオペラだな。美しいメロディにあふれるオペラです。これで歌詞がフランス語でなければ、ぜひ私も歌ってみたいオペラです。いやあ、眼福ならぬ、耳福でしたよ。

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2018年8月21日 (火)

メトのライブビューイングで「トリスタンとイゾルデ」を見てきた

 メトのアンコール上映に再び行ってきました。今回は、2016年の当時、新演出で、シーズンのオープニングアクトとして話題になったワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を見てきました。

指揮 サイモン・ラトル
演出 エリウシュ・トレリンスキ

トリスタン スチュアート・スケルトン(テノール)
イゾルデ ニーナ・ステンメ(ソプラノ)
マルケ王 ルネ・パーペ(バス)
ブランゲーネ エカテナーナ・グバノヴァ(メゾソプラノ)

 まず歌に関して言うと…どうなんだろ? 映画館で見ている分には良かったけれど、実際の劇場ではどうだったろうとは思わないでもなかったです。と言うのも、テノールのストルトンの声は、あんまりワーグナーテナーっぽくなくて、役と声が合ってないんじゃないかな…と少々心配しました。無理していなければいいのだけれど…。逆にソプラノのステンメはパワフルなんだけれど、終始パワフルで…まあ聞いていて飽きちゃいます。それ以外の歌手の皆さんは、歌う箇所が少ないという事もあるけれど、まあ水準以上って感じかな?

 とにかく、このオペラは主役の二人がずっと歌っているというイメージです。実際、常にどちらかが舞台で歌っていますし、この二人の二重唱もすごく多い。ずっとずっと歌っているわけで、体力勝負だよなあ…って思います。二人の主役にばかり負担がかかるように作曲されているオペラなわけで、それゆえにこの二人に良い歌手が当てられれば素晴らしい上演になるんだろうと思います。今回の二人は…まあ、こんなモンでしょう、ご苦労さまって感じです。実際、最後まで歌い切る事が、そんちょそこらのプロ歌手じゃ難しいって事は私にも分かります。なので、最後まで破綻なく歌いきった二人の歌手に脱帽です。

 で、肝心の演技とか演出とかの話になるわけだけれど、この上演は、いわゆる、現代的な演出でした。時代は…20世紀後半? 設定はアメリカ海軍? 舞台は、第一幕が軍艦の船室。第二幕の前半が管制塔、後半が格納庫。第三幕が病室。トリスタンと男たちは軍服着用。イゾルデはコート着用(下にパーティードレス)、侍女のブランゲーネはおしゃれじゃない外出着…って感じで、全体的に地味でした。

 台本と演出にはかなりの乖離があります。はっきり言って、あっちこっちに無理があります。それでも第一幕と第二幕の前半の演出は、私の中では、我慢できる程度の読み替えだったと思いますし、そもそも伝統的な演出だと、このオペラは登場人物が突っ立っているだけで、ロクな演技をしないので、それと比べると、まあ説明的で、今日的で、これはこれでアリかも…って思ってましたが…第二幕の格納庫のシーンは演出の意図が全然分からないし、説明も放棄しているし、第三幕の病室のシーンになると、台本と演技が全くの別物で、見ていて意味不明でした。

 なぜ、子供のトリスタンが病室に舞台にいるわけ? 血まみれのマルケ王の生霊が全編通してたびたび出てくるのはなぜ? トリスタンは第二幕の最後に、裏切り者として仲間たちに胸を拳銃で撃ち抜かれて即死しているはずなのに、なぜ三幕では病室にいるの?

 いやいや、それ以前に、この演出ではマルケ王は、トリスタンの上司でしょ? おそらくは元帥あたりの地位だろうけれど、上司の女を寝取ったからと言って、射殺は無いんじゃないの? 現代なら、軍を首になってお終い…後は慰謝料の支払いでてんてこ舞いって程度でしょ(もちろん女も元帥から捨てられるだろうし)。それ以前に、第一幕で、上司の土産に女性を届けるって…人身売買? 女性の人権ってあるの? とか、ほんと、この演出には無理しかありません。

 だいたい、好きだ惚れたとか言っている二人が、実際にはキスをする程度で、それって現代劇じゃありえないでしょ? この程度は、現代では、たぶん問題にすらならない。それに媚薬って…現実に媚薬に近い覚醒剤はあるけれど、その効き目はせいぜい半日程度でしょ? 設定を現代にした事って、大失敗だと思うわけです。

 イゾルデは、本来はアイルランドの王女だから、凛々しくて当然なはずだけれど、この演出では、ただの街の女でしょ? ブランゲーネだって侍女じゃなくて、ただの友達でしょ? トリスタンに至っては、真面目男が薬盛られて、女に心を奪われたってだけなのに、それで射殺よ? ありえない。

 そもそもワーグナーの諸作品は、彼の中二病的素質が根本にあるんだから、あまり現実的に、現代的にする事自体が間違いだと、私は思うんだよね。ワーグナー自らが指定しているように、大昔に時代設定するとか、あるいは神話にしちゃうとか、いっそSFにしちゃうとか…そういうありえない設定にしないと、話そのものがありえないんだから、話が収まっていかないんだと思うわけです。

 と言う訳で、今回の上演は、見て後悔しました。歌唱と演奏は水準以上だから、金返せとは言いません(それにアンコールなので、ちょっと安価で見ているわけだし…)が、皆さんにはお薦めしません。この演出は、ほんとダメだと思います。

 実際、メトでも激しいブーイングがありましたね。特に第二幕終了直後は、すごいブーイングが聞かれましたが…私は、そのブーに同意しますよ。

 …ってか、「トリスタンとイゾルデ」って、そもそも楽しく舞台で見れる作品なのかな? ストーリーなんて、あって無いようなものだし、トリスタンとイゾルデの二人が終始グズグズしているだけだし、音楽はおおげさで飽和しまくっているし…。「ワルキューレ」と「マイスタージンガー」の間に作曲された作品だけれど、難解で退屈なだけで、エンタメとして成立していないような気がします。「ワルキューレ」や「マイスタージンガー」が良質なエンタメであるのに、「トリスタンとイゾルデ」って退屈過ぎるんだよね。

 と言う訳で、個人的には、今回の上演はお薦めしません。この上演を見るお金があったら、別の演目を見た方が、絶対に楽しめると思います。お金は貴重だから、大切に使わないといけないよね。

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2018年8月16日 (木)

メトのライブビューイングで『エルナーニ』を見てきた

 連載を中断して、この記事をぶっこみます。

 今、東劇ではメトのライブビューイングのアンコール上映を行っています。アンコール上映とは、以前の上演目の中から、見逃した上演や、もう一度見たい上演を連日上映してくれる、有り難い企画です。私は毎年アンコール上映に行ってるくらいです。

 で、今年も何回かアンコール上映に行くつもりなのですが、まず今年最初に見てきたのが、ヴェルディ作曲の『エルナーニ』です。

 この上演は、2011-12年のシーズンのものなので、もう7年前のモノになります。目玉は、まだ元気なホヴォロストフスキーを見れる事かな?

 ディミトリー・ホヴォロストフスキー。昨年(2017年)の11月に55歳で亡くなった、ロシアのバリトンです。銀髪で、とにかくイケメンなバリトンです。たいていのテノールが容姿では彼に勝てません。声も芝居も水準以上ですから、長生きしたならばレジェンド歌手になれたはずの逸材です。惜しい人を亡くしました。

 その彼がまだ50歳になったばかりの上演を見てきたわけです。

 指揮 マルコ・アルミアート
 演出 ピエール・ルイジ・サマリターニ
 
 エルナーニ マルチェッロ・ジョルダーニ(テノール)
 エルヴィーラ アンジェラ・ミード(ソプラノ)
 国王カルロ ディミトリー・ホヴォロストフスキー(バリトン)
 シルヴァ フェルッチオ・フルラネット(バス)

 まず『エルナーニ』という作品の感想から。このオペラは実に無名なオペラで、ほぼ上演されるチャンスのない珍しい作品です。実際、日本でも21世紀になるまで上演される事の無かったというくらいに不遇な作品なのです。

 巨匠ヴェルディの作品なのに…ね。

 巨匠の作品なのに、なぜ上演されないのか? よほどの駄作なのか? …いいえ、違います。むしろ良作です。ただ、ヴェルディの他の作品と比べてしまうと、見劣りするというだけでの話で、これが他の一発屋オペラ作曲家の作品だったら、もっと上演されるチャンスもあったろうになあ…と思われるくらいの良作です。

 実際、ヴェルディが30歳の頃の、まだ駆け出しの頃の作品で、名作『ナブッコ』の次々回作として作曲された作品で、『ナブッコ』がイタリア国内でヴェルディの名前を知らしめた作品であるならば、『エルナーニ』はヴェルディにとって、最初に各国で翻訳版が上演されたオペラであって、いわば彼を国際的なオペラ作曲家として認知せしめた作品なのです。そんな作品が、悪いはずはありません。

 ストーリー的には少々複雑で分かりづらいオペラですが、とにかく、全編、歌いまくりです。メロディアスなオペラアリアはもちろん、パワフルな重唱や合唱がオペラ全体を導いていきます。悪いはずがありません。ただし、上演に際しては、歌手を選ぶことは必定でしょう。とにかく、歌いまくりですから、歌える歌手を揃える必要があります。

 ある意味、同じヴェルディ作品である『トロヴァトーレ』に似た作りのオペラと言えるかもしれません。

 さて、今回のメトの上演は、歌手たちを揃えた…という点では合格と言えるでしょう。特に主役のテノールのジョルダーニが素晴らしいと私は思います。そもそもジョルダーニは、この上演の三ヶ月前に交通事故死をしたサルヴァトーレ・リチートラの代役だったそうです。確かに、他のメンバーと比べて、実力はともかく、スター性に欠ける彼がここに入っているのには違和感がありますが、それはそういう理由だったからです。それにしても、ジョルダーニの声も歌も(バカっぽい)芝居も、実に良かったと思います。

 お目当てのホヴォロストフスキーは、例によってイケメン過ぎます。バリトンって、一部の役を除いて、そんなにカッコよくてはいけないのです。少なくとも、テノールの引き立て役じゃないと説得力がないのです。今回の『エルナーニ』においてもそうです。エルナーニ役のジョルダーニも(肥満体だけれど)まあカッコいい人ですが、ホヴォロストフスキーとは比較になりません。バリトンの方が、数段イケメンって、なんですか、これ? そのイケメンなバリトンが劇中で“王様 -> 皇帝様”に大出世しちゃうんだよ。そんなスーパーなバリトンを振って、ソプラノがお馬鹿なテノール(皇帝様のお慈悲で、山賊の頭から貴族に昇格)に走る必然性が分かりません。エルヴィーラって、ダメンズなの? まさか…。

 カッコ良すぎるホヴォロストフスキーには、トロヴァトーレのルーナ伯爵か、カルメンのエスカミーリョがお似合いですって。それ以外の役には、彼はイケメン過ぎるって。

 シルヴァを演じたフルラネットは、素晴らしすぎます。ラストシーンでの彼の演技は…演出家の意図だろうが、納得いきませんが、それ以外は素晴らしいです。

 問題のラストシーンでは、エルナーニのみならずエルヴィーラも自殺してしまうのが、この演出のキモなんだけれど、エルナーニはともかく、エルヴィーラの自殺も冷ややかに眺め「これでワシの復讐が終わりだ…」ってシルヴァが言うのは、絶対におかしいです。エルヴィーラが自殺した段階で、シルヴァは取り乱さないといけないし、彼女の救命に走るはずです。彼にとって、エルナーニはクソ生意気な小僧かもしれないけれど、エルヴィーラは最愛の姪にして、自分の元婚約者にして、今だって妻にしたい女性ナンバーワンなんだから、その死を冷静に受け入れられるはずはないのです。だから、演出がオカシイと思うわけですよ。最後にエルヴィーラを殺しちゃった演出家は、そこが甘いんですよ。エルヴィーラは、生き残って、シルヴァの嫁になって、悲劇が完成するんですって。

 そのエルヴィーラを演じたソプラノのミードは、容姿以外は及第点です。容姿は…3人の男を狂わせるほどの美貌もセクシーさも彼女には無いので、説得力に大いに欠けます。今の時代、オペラには役にふさわしい容姿も大切だからね。少なくとも、もう少し痩せてないと、この役を演じるには不足だし、もっと痩せていて歌の上手い、若手ソプラノなんて掃いて捨てるほどいるわけだから、そういう意味でも、ちょっと残念かな?

 マイナーオペラだから、レパートリーに入っている美人ソプラノがたまたまいなかっただけなのかもしれませんが…。ああ、残念。

 演出の一部には疑問がありますが、今回の上演は、概ね良い出来だと思います。1983年にオリジナル演出が作られたそうだけれど、やはり70~80年代のメトの演出はいいですね。ゴージャスで分かりやすいです。最近のメトの新演出はダメな演出が多いですから、たまに行われる、昔の演出での上演って、本当に楽しみです

 メトにも色々な都合はあるのだろうけれど、20世紀後半のようなテイストの演出を復活させてほしいなあって思います。そういう豪華さとわかり易さがメトのウリだと思うんだよね。

 とにかく、今回の『エルナーニ』の上演は、良かったですよ。

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2018年7月19日 (木)

シアターオーブで『エヴィータ』を見てきた

 東京渋谷にできた、ミュージカル専用劇場である東急系のシアターオーブに行ってきました。場所的には、ヒカリエのビルの上の方。渋谷は現在、再開発中で、あっちこっち工事中で、ヒカリエはいち早く完成した新しい渋谷の一部って感じです。ビルのデザインもなんかカッコいいです。

 で、そのヒカリエにあるシアターオーブでやっている『エヴィータ』を見てきたわけです。

 まずはシアターオーブの感想から。一言で言うと、立派な劇場でした。広々とした空間を贅沢に使っています。同じミュージカル劇場と言っても、帝国劇場の伝統的な立派さとは全く別ベクトルの今っぽい贅沢さだし、劇団四季の各劇場とかシアタークリエなどの機能的な劇場の作りとも違います。機能的に作られている部分は機能的なんだろうけれど、とにかく空間を贅沢に使っているんです。東京で、空間を贅沢に使うってのは、一番の贅沢なんだと思います。とにかく、高級感を感じてしまう劇場なんです。

 ホワイエがめっちゃ広いのよ。ちなみに、飲食は劇場内はもちろん、ロビーやホワイエでもアウトです。飲み食いしたければ、劇場内のバーとかレストランとかを利用しないといけない決まりです。つまり、持ち込み不可なんです。実際(レストランは行かなかったけれど)バーは大盛況でしたよ。

 肝心の劇場内は、すごく天井が高くて、バルコニー席も桟敷席もあって、一瞬、オペラ劇場かな?と錯覚してしまったくらいです。実際、規模的にもオペラ劇場サイズなんですが…たぶん、吸音等はちゃんとしているだろうから、生歌唱生演奏のオペラには向いていないだろうなあ…。座席もゆったりしていて、デブな私でもラクラクでしたよ。

 演目の『エヴィータ』ですが、なかなか感動モノでした。

 カンパニーはロンドンの団体のようです。作詞家のティム・ライス、作曲家のアンドリュー・ロイド=ウェバー、演出家のハロルド・プリンス(この人は『エヴィータ』のオリジナル演出家でもあります)の3人が歌手たちのオーディションから関わったカンパニーのようで、とてもきちんとしたカンパニーによる上演でした。

 原語上演(英語)で、字幕サービスが付いてました。原語上演は良いですね。言葉と音楽がピタっと合っていて、聞いていて気持ちいいです。日本語上演だと、言葉がいつもあまり気味で、内容的に言葉が足りないと思う事もあるのですが、原語上演の場合、歌詞が最初にあって、それに音楽を付けていくのだから、聞いていて気持ちいいです。

 あと、シアターオーブのオケピは広く、オケは生でした。もっとも、オケと言ってもミュージカル用のオーケストラですから、オペラのオケとは全然違います。シンセサイザーとギターとパーカッションがほとんどで、後はほんの少しの管弦楽器があるくらいです。

 で、今回の上演は、何と言っても、チェ役のラミン・カリムルーが絶品でした。さすがは、ミュージカルテノールの当代トップの一人です。彼を聞くための公演であると言っても過言ではないくらいに素晴らしかったです。エヴィータ役のエマ・キングストンも度肝を抜かれるくらいに素晴らしかったです。

 とにかく、主役の二人の声と歌が凄すぎて…改めてミュージカルの素晴らしさを感じてしまいました。

 ミュージカルって、現代エンタメという事もあって、基本的にはローカライズされて上演されるものです。具体的に言えば、台本を日本語に訳して、日本人俳優が日本語で上演するのです。実際『エヴィータ』も日本では劇団四季がレパートリーとして定期的に上演しています。私、劇団四季の『エヴィータ』はまだ見ていませんが、劇団四季の他のミュージカルは何度か見ていますし、ここは日本のトップクラスのミュージカル劇団だと思っているし、ここが上演している『エヴィータ』ならき素晴らしいだろう事は容易に想像できますが、でも、たぶん、私は劇団四季の『エヴィータ』を当分の間は見に行かないと思います。理由ですか? それは劇団四季にがっかりしたくないからです。

 いやあ、ラミン・カリムルーとエマ・キングストンの歌を聞いたら…申し訳ないけれど「日本のミュージカル俳優さんたちとは次元が違う」と思っちゃいました。上手いとか下手とかではなく、全くの別物なんですよ。それくらい、声と歌が違いました。劇団四季を始めとする日本のカンパニーだと、曲の素晴らしさとかダンスの素晴らしさとか舞台の華やかさとかで感動する事はあっても、俳優たちの声で感動するとか、歌で感動するとかは…正直、無いもの。日本のミュージカルって、やっぱり“歌える俳優”たちの仕事なんです。でも、ラミン・カリムルーとエマ・キングストンは“演じられる歌手”なんですよ、それも一級品の歌手なんです。そりゃあ、同じような事をやっても、全然印象は変わるよね。

 で、主役の二人も素晴らしかったのですが、脇役の方々も当然素晴らしかったです。アンサンブルの人たち(つまりコーラス担当のモブ役の方々)も歌は絶品でした。歌は…とわざわざ書いたのは、歌は良いのにダンスはかなり残念だったからです。特に男声のダンスは…本当に残念でした。群舞なのにバラバラだし、ソロで踊ればポーズが全然決まらないし…女声のダンスは、まあ水準程度はできていたと思うけれど、ほんと男声のダンス(これが結構たくさんあるんだな)は残念過ぎます。ダンスに関して言うと、日本のカンパニーの方が数段上です。日本のミュージカルのアンサンブルの人たちって、すごいんだなあって改めて思いました。

 あと、残念だなって思ったのは…演出です。これ、とても分かりづらいです。

 そもそも『エヴィータ』って、ロンドンのウエストエンドで上演されるために作られたミュージカルで、それが大ヒットして世界的規模で上演されるようになったわけです。だから、オリジナル演出(今回の演出はオリジナル演出です)は、当時(1970年代)のロンドンっ子を念頭に置いて演出されているわけで、おそらく初演当時のロンドンっ子にとって、エヴァ・ペロンという人物は旧知の人物(だって、ほんの20年くらい前に、国賓としてイギリスを訪れた人気者ですよ)だったから、こういう演出でも良かったのかもしれないけれど、日本とアルゼンチンは遠すぎますって。当時の日本人にとっても、エヴァ・ペロンって誰?って話でしょうが、21世紀の現代日本人にとっては、エヴァ・ペロンなんて、全然馴染みのない人ですって。この演出では、ストーリー、分かんないよ。

 私は事前に、マドンナ主演の映画版『エヴィータ』を見ておいて、ストーリーとかを頭に入れておいたのでよかったけれど、ほんと、この演出は日本人には不親切だと思いました。日本人が見るなら、予習が必要だね。

 で、話はずれるけれど、マドンナの映画版の『エヴィータ』って良いですよ。意外なくらいに、マドンナがはまり役です。ただ、映画の『エヴィータ』はマドンナを見る映画であって、他の役は、あれこれカットされたり改変されたりしているし、もうひとり主役であるチェ役は、舞台版ではチェ・ゲバラなんだけれど、映画版では完全に名も無き大衆の一人ぐらいの扱いになっているし、あと音楽も…と言うか、オーケストレーションがかなり違うような気がします。もしかするとオーケストレーションそのものは同じだけれどミキシングが違うのかもしれませんが、聞いた感じはかなり違います…まあそんなわけで、舞台版と映画版は別作品だと考えたほうが良いと思います。それくらい違うのですが、日本人には映画版の方があれこれ親切で良いかも…。ただ、マドンナの映画版のDVDって、今、日本語盤は廃盤中で入手困難みたいなんですよ。残念です。お高い中古品しかないみたいです。

 それにしても、シアターオーブ、気に入りました。また行きたいなあ。ちなみに『エヴィータ』は7月29日までだそうです。あと少しで終わっちゃいます。チケットはまだまだラクラク入手可能っぽいですよ。それもいい席がある感じです。大丈夫かな? 最終的に黒字になるのかしら?

 『エヴィータ』が終わると、次が8月1日~12日でオリジナル演出版の『レント』を、8月15日~26日で『コーラス・ライン』をやるそうです。ああ、どれも海外カンパニーの上演で面白そう(でも私、夏はメトのアンコールに行くので我慢我慢)。シアターオーブは、海外カンパニーの上演だけでなく、日本のカンパニーの上演も行うので、お好きな方はそちらも楽しめます。実際、私は、神田沙也加主演の『マイ・フェア・レディー』は見たいかもしれません。

 しかし、東京ではミュージカルがあっちこっちでひっきりなしに上演されていますね。私は首都圏に住んでいるとは言え、首都圏の端っこの方なので、東京で観劇できるのは、休日だけなのです。東京の人がほんと羨ましいです…が、私が東京に住んでいたら、あっちこっちのコンサートに出向いて、確実に破産しちゃうだろうから、東京に住んでいなくてよかった…とも言えます。

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2018年7月10日 (火)

日本語に訳されたオペラ上演は…

 先日、オペラ魔女こと翠千賀氏の『カルメン』を見ました…と書くと、ちょっと誤解されそうなので、補足すると、テノールの上原正敏氏が毎年某所で行っている、初心者向けのクラシックコンサートに、翠千賀氏が今年もゲストとして出演してくれて、そこで日本語&ハイライトで『カルメン』をやったのを見た…という話です。

 翠氏のカルメン…すごくいいです。これ、マジでいいです。某カラオケ番組でポップスを歌っているよりも一万倍ぐらい良いです。声といい、容姿といい、全体にまとわりつく雰囲気といい、明らかにカルメンははまり役です。今回は、日本語&ハイライトだったので、かなり物足りなかったのですが、次はぜひ彼女のカルメンを、フランス語の全曲版で聞いてみたいですよ。

 それはともかく、上原氏企画のコンサートに二年連続で翠氏が出演したのは…彼女、上原氏の妹弟子なんだそうです。門下の兄貴が企画するコンサートなら…よほどの事が無い限り、出演するしかないだろうね(そういう世界だからね、声楽の世界って)。おかげさまで、売れっ子の翠を二年連続で直接拝見できたわけですからね、眼福眼福。

 さて本題。久しぶりに見た日本語訳のオペラですが…なんか違和感だよね。もちろん、言葉が聞き取れないわけではないし、日本語だからストーリーは分かりやすい。でも、なんか…ねえ。

 オペラの日本語訳って…訳している方には申し訳ないのだけれど、昔っから、あまり日本語としてこなれていない…って感じがします。ミュージカルの日本語訳とか、ディズニー映画の日本語訳ってのは、日本語として自然に歌に載っていると思うのだけれど、オペラの日本語歌詞って、なんか無理があるような気がするんですよ。日本語とオペラのメロディーの相性が悪いのか、日本語訳が古いのか、あるいは完成度が低いのか…まあ、そのあたりは私には分かりかねるのですが、聞き取れないわけじゃないけれど、聞きづらい…というか、言葉が胸にすっと入ってこないんです。

 なので、私的には、原語のフランス語で歌っていただいて、日本語訳は字幕スーパーで出していただく…という最近のやり方の方がいいかなって思ってます。もちろん、歌はフランス語だけれど、芝居部分は日本語でいいんですよ。

 あと、配役の都合もあって、今回は、テノール1人、ソプラノ2人、女優1人、ピアニスト1人という配置で『カルメン』のハイライトをやったわけです。そうなのですよ、つまりバリトン不在だったんですね。エスカミーリョ無しの『カルメン』って、結構物足りないよ。ミカエラかエスカミーリョが、どちらか一人をカットすると言われれば、私なら迷わずミカエラをカットしちゃいますが…まあ、今回はそうもいかず、エスカミーリョをカットしてしまったのだろうと思います。ああ、残念。

 演出は…大道具なし、衣装とちょっとした小道具だけでしたが、芝居は出演者が常に観客側を向いて演じるという、なかなかおもしろい演出でした。舞台右端でカルメンが客席に向かって花を投げると、それが舞台左袖にいるホセの足元に現れるなんて、なかなか目の錯覚を利用した興味深い演出でした。こういうやり方もあるんだなって思いました。

 演出で面白かったのは、女優さんがラウラというオリジナルの役になって、いわば狂言回しとして、舞台の進行を説明していった事です。ハイライト上演の場合、ストーリーをどうやって説明していくかが工夫されるところですが、こういうやり方もアリなんだなって思いました。

 オペラ上演って、フルで行うと、時間も経費もかかるけれど、こんな具合に工夫してハイライトで上演するのも、オペラへのハードルが下がって良いなあと思いました。

 コンサートそのものはとてもよかったのだけれど、一点疑問が残りました。それは物販です。

 今どきって、どこのコンサートでも物販があるわけで、今回のコンサートでも物販がありました。で、私はそこで売っていた青薔薇海賊団(上原氏が所属している、テノール三人組のグループです)の最新CDとDVDのセットを開演前に買いに行ったら、物販コーナーはすでにオープンしていたのにも関わらず、売ってくれなかったのですよ。コンサート終了後に買いに来いと言うので、これはコンサート後にサイン会でもあるのかなと思い、素直に引き下がり、コンサート終了後に買いに行ったら、特に何もなく、普通に販売してくれました。

 一体、あれはなんだったの? 普通、コンサートに行ったら、開演前から物販ってするものじゃないの? わざわざコンサート終了後じゃなきゃ売らないよ…ってなら、何かあるって思うじゃない? でも、何も無し。ああ、なんか納得いかない。まあ、勝手に期待しちゃったこちらの責任かもしれないけれど、なんかガッカリ。でも、最新盤が大幅ディスカウントで買えたから、まあ良しとしておきます。

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2018年5月21日 (月)

メトのライブビューイングで「ルイザ・ミラー」を見てきました

 LFJの連載もそろそろ終わりなのですが、今回はそれをお休みして、こちらの記事をアップしたいと思います。

 まあ、標題の通りです。出かけてきました。本当は、忙しいし、疲れているし、パスしようかと一瞬頭をかすめましたが、頑張って行ってきました。

 結論を言うと、頑張って見てきてよかったです。これはとてもお薦めの上演でした。

 指揮:ベルトラン・ド・ビリー
 演出:エライジャ・モシンスキー

 ルイザ:ソニア・ヨンチェヴァ(ソプラノ)
 ロドルフォ:ピョートル・ベチャワ(テノール)
 ミラー:プラシド・ドミンゴ(バリトン)
 ヴルム:ディミトリ・ベロセルスキー(バス)
 ヴァルター伯爵:アレクサンダー・ヴィノグラドフ(バス)

 まず「ルイザ・ミラー」というオペラ。ヴェルディの作品であるけれど、あまり有名な作品ではありません。ソプラノとテノールに有名なアリアがあるので、アリア集などの楽譜集には掲載される事はありますが、全曲演奏のCDやDVDも少なく、上演機会も多くありません。私も今回見るのが始めてだったのですが、捨て曲が無い音楽的に優れたオペラでした。まあ、ストーリー的には、オペラにはよくある陳腐な話(バカなテノールが事態を悪化させて悲劇に向かう)なので、ストーリー重視の方には呆れられるかもしれませんが、音楽はなかなかのものでした。「マクベス」と「リゴレット」の間の時期のオペラ…と言うと分かるかもしれませんが、彼が爆発的な人気を得る直前の、いわゆる初期~中期頃のオペラで、後のヴェルディを彷彿させるような音楽があっちこっちにたくさんあって、ほんと楽しめました。これはもっと有名になっても良いオペラだなあと思いました。

 で、作品自体もよかったのですが、それを演じる歌手たちが素晴らしかったです。

 ルイザを演じたヨンチェヴァは、トスカの時にも感じましたが、彼女は若い小娘を演じるのが上手いのかもしれません。彼女の歌も演技も、しっかりとルイザの若さ(小娘感)が出ていて、よかったです。ルイザという役は、かなり歌唱が難しそうですが、それを感じさせないほどに巧みに歌っていました。これは初役だそうですが、なかなかハマっていたと思います。

 もう一人の主役である、文字通りの王子様役であるロドルフォを演じたベチャワは、この役の愚かさを十分に演じきっていたと思います。ほんと、見ていて、イライラするほどの若さとバカさをうまく表現していたと思います。もちろん、歌唱も合格点。第三幕の重々しい箇所の歌唱も私的には満足です。

 で、役的には単なる脇役にすぎない、ドミンゴ演じるミラー(ルイザの父)はすごかった。何しろ、彼が舞台にいる時は、ほぼ彼が主役になってしまうのだから(笑)。そのカリスマ性は理屈じゃないです。共演しているソプラノやテノール(本来の主役たち)はやりづらくないのかしら? あと、いつもながらの事ですが、ミラー役はバリトンの役なのですが、ドミンゴはバリトン役をテノール声で演じています。実際、メトの(日本語版)ホームページにも、劇場で配られレジュメにもドミンゴはテノールと記載されています。彼はバリトンに転向したはずですが…今回はテノールとして開き直って歌っているのかしら? それはともかく、本来バリトン役であるミラーをテノール声で演じる事の是非はあるとは思うものの、それを横に置いても、ドミンゴの歌唱と演技は素晴らしかったと思います。ミラーという役が、そもそもテノールを念頭に置いて書かれたんじゃないかしら?と錯覚してしまうほどです(そんなはずは無い!)。

 今回の「ルイザ・ミラー」は、ドミンゴを見るため上演である…と言い切っても良いかもしれません。少なくとも、彼が座長だよなあ(笑)。

 ヴルムとヴァルター伯爵(ロドルフォ父)のバス二人も水準以上だったと思います。まあ、二役とも、もっと重鎮な歌手が歌っても良い役ですが、これはこれでアリだと思いますし、バス同士による二重唱も、なかなか良かったですよ。

 指揮は、本来はレヴァインの予定でしたが、変更してド・ビリーになりました。私はこの指揮者については何も知りませんが、特に問題はありませんでした…ってか、レヴァインがいれば、音楽作りは彼に任せるのだろうけれど、彼がいなくても、今回は指揮者も普通にやっている“生ける伝説”のドミンゴが座長だから、当然と言うか、彼の意見が反映されているのだろうから、問題がないのは、当然と言えば当然でしょう。

 それにしても、公演のキャンセルがあったり、来年からはいよいよ音楽監督も交代だし、レヴァイン、大丈夫なのかな? もっとも、彼の場合、健康問題もさりながら、セクハラ問題もあるわけで…昨今のアメリカのエンタメ界はセクハラにウルサイからね…。レヴァインは、このまま引退…って事になるのかな? レヴァインは大指揮者だけれど、晩節を汚しちゃったねえ…。

 演出は…時代設定をオリジナル設定よりもだいぶこちら側に引き寄せた、いわゆる現代演出なわけだけれど、見ていて全然違和感ありませんでした。いやむしろ、そもそもの設定どおりに男性たちがチョーチンブルマを履いて出てくる方が、今や違和感が生じるでしょうから、これはこれでアリでしょうね。

 という訳で、メトの「ルイザ・ミラー」は、かなりお薦めだと、私は思います。

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2018年5月14日 (月)

ロイヤル・オペラのライブビューイングで「カルメン」を見てきました

 さて、話の流れ的には、今回は池袋でのLFJの話を書かないといけないのですが…こちらを優先したいと思います。

 標題の通り「カルメン」を見てきました…が、今回はこの上演を見る事について警告したいと思います。ってか、ザックリ言っちゃえば「見るなら、自己責任で。私は薦めないよ」って事です。

 正直言って、今回のロイヤル・オペラの「カルメン」はゲテモノです。なので、ゲテモノ好きか、あるいは「カルメン」は飽きるほど見て、とにかく変わったモノなら、なんでも歓迎!という人ぐらいにしか薦められません。

 薦められない理由を5つ書きます。

1)音楽が薄い

 歌劇「カルメン」の良いところは、捨て曲がない事。どの瞬間にも美しい音楽があふれている稀代の名オペラである事。しかし、今回の上演では、音楽は軽い扱いを受けています。

 まず、レチタティーヴォがありません。レチタティーヴォにあたる部分は、アナウンスで説明されて終わりです。まあ、そもそも「カルメン」のレチタティーヴォは、ビゼーの作曲ではなく、補作したギローの手になる部分ではあるけれど、今となっては、あれはあれで大切な「カルメン」の一部なのです。そこを大胆にカットしちゃった事は…どうなんでしょうね。

 そもそも「カルメン」って未完成なオペラなんです。ビゼーが書いたのは、たくさんの音楽の断片であって、それを放り出したまま、作曲家であるビゼーは死んでしまったわけです。未完成だけれど、美しい音楽がたくさんあったこのオペラを整理して、良い部分は効果的に配置して、ダメな部分は捨てて、足りない部分は補って、現在我々が知っているカタチの「カルメン」にしたのが、友人の作曲家であるギローってわけです。

 ギローって、一流の作曲家ではありません。彼のオリジナルの作品は、現在残っていないしね。でも、音楽家として全く無能だったのかと言えば、そんなわけはなく、彼はビゼーの「カルメン」だけでなく、オッフェンバックの「ホフマン物語」も未完成のまま作者が死んでしまったので、何とか上演できるカタチに仕上げた人でもあります。まあ、作曲家としては一流ではなかったのでしょうが、残された断片を使って、素晴らしいオペラを作り出すのは得意…って事は、編曲家としてはまずまずの腕前だったと思われます。

 でもまあ「ホフマン物語」では、オッフェンバックの音楽をカットしすぎてしまい、後に別の編曲家の方々が、ギローが捨てた部分も拾い出して、今の「ホフマン物語」にしたわけです。まあ、確かにジュリエッタのシーンを丸々捨ててしまったのは、さすがにギローもやりすぎたと私も思います(笑)。

 閑話休題。で、今回の「カルメン」では、ギローが書いた音楽は捨てて、ギローが捨てたビゼーの音楽を復活させたわけだけれど、これがまあ、ギローが捨てたのが正解だと思われるような陳腐な音楽ばかりを拾ってきたわけです。おまけに、ストーリーの進行を優先させたためか、音楽の繰り返しが少なくて、我々が知っている音楽も、かなりショートバージョンにされて演奏されました。結果、美しいメロディーにあふれていた旧来の「カルメン」が、アナウンスと陳腐なメロディーの中にたまに美しいメロディーが混ざっているという、まさに音楽的に“混ぜものいり”の魅力の少ない音楽に仕上がっています。

 こんな薄い「カルメン」を「カルメン」とは思って欲しくない…というのが、一人のオペラファンである私の正直な気持ちです。

2)芝居とストーリーがちゃんとつながっていない

 芝居…つまり、演出の話になります。この上演の演出は、実に刹那的です。一曲ごとの演出は、まあ目新しいし面白いと思います。でも(現代的演出だと大抵そうなるけれど)歌詞と演出は少々乖離していると思うし、曲と曲の演出は決して繋がっていません。まるで「カルメン」の音楽で作られた、ビデオクリップ集を見ているような気分になります。一見すると、とても演劇的な演出だけれど、全体のストーリーがうまくつながっていないと思うわけです。だから演劇的な演出ですらないと思います。

 だから「カルメン」を見慣れた人だと、そこを面白く感じると思う(私も面白かったです)わけだけれど、「カルメン」はもちろん、オペラそのものに不慣れな人(人類の大半がそうでしょうね)たちにとっては、あれこれ誤解を招くし、誤った理解をさせてしまう、罪深い演出だと思います。

 この演出では、ストーリーも音楽も、いわゆる「カルメン」から、遠く離れすぎている…と私は思うのです。

3)歌手たちは精一杯やっているけれど、結果的に残念

 ここで今回の主要スタッフを書いておきます。

 指揮:ヤクブ・フルシャ
 演出:バリー・コスキー(この人が今回の戦犯です)

 カルメン(メゾソプラノ):アンナ・ゴリャチョーヴァ
 ドン・ホセ(テノール):フランチェスコ・メリ
 エスカミーリョ(バリトン):コスタス・スモリギナス
 ミカエラ(ソプラノ):クリスティナ・ムヒタリアン

 まず、カルメンのゴリャチョーヴァから。彼女は、本当に美人です。こんなに美しいカルメンを見たのは、私、たぶん始めてです。実際、ヴォーグの表紙を飾っても不思議じゃないくらいに美人なんです。おまけに、よく動きます。ダンスも良い感じです。

 でもね、歌がね…。たぶん、この人、ちゃんと歌える人なんだと思うけれど、情念が足りないのよ。こういう演出だからそうなんだろうけれど、どのアリアも薄味。カルメンがなぜ、ソプラノ歌手ではなくメゾソプラノ歌手に割り振られているのかと言えば、そこはもう過剰なまでの情念を歌に込めるためだと私は思ってますが、いかがでしょうね。

 ドン・ホセを歌ったメリは…ごめんなさい、劣化版カレーラスにしか思えなかった! 私には彼自身の魅力を感じられませんした。特に「花のワルツ」の最高音を含むフレーズは、晩年のカレーラスが歌ったように、ファルセットで軽く歌ったのですが、ファルセットの扱い方が、カレーラスほど上手ではなく、その前後と声色が極端に違ってしまったのです。ああ、残念。とても残念なのです。そこ以外は、悪くなかったです。イライラするくらい、しっかりダメ人間を演じていたし(これ、褒め言葉です)。

 エスカミーリョを歌ったスモリギナスの歌唱も、カルメンを歌ったゴリャチョーヴぁ同様に、なんか物足りないのです。そういうふうに歌えという指示が演出家からあったんだろうなあと想像しますが、これはお客さんが見たいエスカミーリョじゃないよ。僕らの知っている、カッコいいエスカミーリョを返してくれ!と言いたい気分です。

 ミカエラに関しては、歌の印象がありません(ごめん)。彼女に関しては、その演技力に圧倒されて(だって、本当にハイティーンの女の子に見えるんだよ)、芝居ばかりに注意が行ってしまい、肝心の歌を聞けませんでした。芝居的にはOKなんだろうけれど、それってオペラ的にはどうなの?って感じがします。

 少しは褒めましょう。音楽的に良かったのは、なんと言っても合唱団の皆さんたちです。オトナの合唱団も良かったし、子どもたちの合唱団も良かったです。合唱団の人たちの、メイクとか衣装とかは、ちょっとなあ…と思うし、歌いながらの演技も大変だろうと思うけれど、歌唱は良かったです。コーラスマスターさんは頑張ったんだろうなあって思います。

4)歌手たち以上にダンサーたちの舞台なんだよ

 この上演で、一番目立つのは、ダンサーたちです。誰よりも目立ってましたね。とにかく、強烈なんですよ。このオペラは、ダンサーのためのオペラなんじゃないの?と思ってしまうくらいに、ダンサーたちが目立っていました。実際、時折、歌が邪魔に感じる事すらありましたよ。それくらいに、ダンスが大きな比重を占める演出となっていました。

 ダンス好きならば、大いに楽しめると思うし、ダンサーさんたち、大活躍ですよ。

5)多くの演出が意味不明

 衣装にせよ、メイクにせよ、やたらと派手で目を引きますが、なぜそうなのかは、結局分かりません。ダンサーさんたちの振り付けも(バレエの振り付けのように)意味があるようで、意味を感じられないし、歌手さんたちもアリアを歌いながら芝居をしますが、なぜそういう演技をするのか、意味が分からないし、刹那的に面白い瞬間もたくさんありましたが、ちょっと考えてみると、なぜそんな演出をするのか、分かりません。

 だいたい、最後。カルメンはホセのナイフには刺されますが、死なないで、ケロッとしてますしね。ほんと、意味不明。

 何度も何度もこの上演を繰り返して見れば、その演出意図ってヤツが分かるのかもしれませんが、この上演は二度見る必要はないと思うので、結局、演出家の演出意図は分からずじまいです。観客に分からないモノなんて、エンタメとしてはダメなんじゃないかな?

 まあ、そんなわけで、この上演は、本当にお薦めできません。この5つの理由の前には、舞台上の大道具は、大きな階段一つで、舞台装置らしい舞台装置がない事なんて、全然問題になりません。時代や場所が不明であったり、現代演出であったりする事も、全然問題になりません。

 とにかく、演出家さんの「オレってすごいだろ?」臭がプンプンとした、ゲテモノな「カルメン」に仕上がっております。ってか、この演出ならば、別に音楽は「カルメン」じゃなくても、よかったんじゃないのってすら、思います。それくらい、音楽なんて、どうでもいいって扱いの上演でした。

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