ひとこと

  •  放送業界&家電業界では、4K、8Kのテレビ放送で盛り上がっているみたいです。皆さん、4Kのテレビって欲しいですか? 私は廉価ならば欲しいですが、高価ならばパスです。だって、ウチのテレビって42型だもの、そんなに大きくないもの。DVDとBlue-rayの画質の違いだって分からないくらいだもの、4Kや8Kの画面を見ても、たぶん、その美しさは分からないんじゃないかな? いや、それ以前に、アニメとかバラエティとかドラマとかを、そんなに美しすぎる画面で私は見たいのか…って話です。もちろん、廉価なら見たいですが、たぶん最初のうちは高価だよね。100万円以上もするようなテレビは、よう買わんですよ、私。私に買って欲しければ、まずは10万円程度にしてください。話はそれからです。

お知らせ

  • ●2018年秋の本番のお知らせです。●門下の発表会は、次の通りです。●2018年11月18日(日) 横浜市神奈川区民文化センター かなっくホール 13時開場 13時30分開演です。●こちらは一番下手っぴなのが私なので、最初から聞いても面白いと思います。全体で2時間程度の発表会です。私の出番は二回に分けてますが、最初の出番は14時前後になる予定です。●レスピーギ作曲「Invito alla danza/舞踏への誘い」●ドナウディ作曲「Amor s'apprende/ 愛は取り付いてしまう」●ヴェルディ作曲「椿姫」より「De'miei Bollenti spiriti/燃える心を」●そういうわけで、一つよろしくお願いします。
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カテゴリー「音楽一般」の記事

音楽ネタだけど、ノンジャンルなものはここです

2018年11月19日 (月)

「歌詞がいいですね」は褒め言葉なのか?

 テレビ等でよく聞くコメントとして、歌を褒めるのに「歌詞がいいですね」って言葉があります。

 歌詞がいいって何? 歌の歌詞って、そんなに大切?

 私だって、歌に歌詞は不要だとは思わないし、下手くそな歌詞でもいいとは思いません。良い歌詞に良いメロディが付いていると、良い歌だなあって思います。

 でもね、歌にとって、あくまでも歌詞は二次的なモノであり、音楽のインスパイアの源であり、状況を借りる小道具の一つであって、歌の本質は歌詞ではなく、音楽そのものであると私は考えています。

 ざっくり言えば、同じ歌詞で違うメロディーの曲(「砂山」は、山田耕筰と中山晋平がそれぞれ別のメロディーで作曲しています)は、別の曲だけれど、同じメロディーで歌詞を変えた曲(替え歌などを想像してみて)は、同じ曲だと思ってます。違いますか?

 かように、歌にとって、歌詞とは大切な要素だけれど、決して主役ではないのです。

 だから「歌詞がいいですね」というコメントは、ステーキを食べていて、ステーキの美味しさには触れず、付け合せのじゃがいもが美味しいですねって言っているようなものなのです。和食で言えば、刺し身じゃなくて、ツマを褒めちゃう感じ?

 料理なら、ステーキや刺し身の旨さを褒めましょうよ。歌なら、そのメロディやサウンドの素晴らしさを褒めましょうよ。

 なので、歌詞を褒めているコメントを聞くと「この曲、そんなにメロディがダメなのかな?」って思ったり「この人、この曲の良さが分からないんだ!」と思ってしまう私なのでした。

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2018年11月15日 (木)

科学の発達と日本の音楽家の将来

 科学が発達すると、私達の生活は少しずつだったり、大きくだったり、とにかく変わっていきます。それはどの分野においてもそうなのです。で、生活が変わると、時代に合わせて新しい商売が生まれて繁盛する一方で、今までブイブイ言わせていた職業がダメになり、失業者や廃業者が出てくるわけです。

 社会的な新陳代謝が生じるわけです。

 例えば、プラスチックの普及で竹細工が壊滅したり、給湯器の普及で銭湯が壊滅したり、アマゾン等の通販が繁盛する一方で、街の書店が潰れていったり…とまあ、我々が生きてきた時代の中でも、そういった新陳代謝が行われていったわけです。

 プラスチックの普及で竹細工は壊滅したけれど、プラスチック加工業という産業が出てきて、今や大繁盛しているし、銭湯は無くなったけれど、給湯器会社は、それこそ給湯器は一家に一台の時代ですから良い商売だし、街の書店は潰れたけれど、運送業を圧迫するほどに通信販売は大盛況だったりするわけです。

 それが進歩と調和って奴だな。

 で、翻って、我らが趣味であるクラシック音楽業界を見るならば、この音楽は“クラシック”と名乗っている事から分かる通り、古典的で古い様式で古い形態の音楽なわけです。昔々は、みんながみんな、ロッシーニだとか、ワーグナーだとかに熱狂していたわけで、そんな良い時代があったものです。

 けれど、今の時代、みんながみんな、ロッシーニに熱狂したり、ワーグナーに熱狂したりするわけ? しないよね。むしろ大衆たちはクラシック音楽にそっぽを向き、このジャンルの音楽は、もはや好事家たちが細々と悦に入って楽しんでいるに過ぎない音楽であって、そういう意味では市場としては極めて縮小してしまったわけだ。

 ただ、以前は西欧だけで楽しまれていた、単なるローカル音楽だったクラシック音楽も、今は全世界的に楽しまれるようになり、そういう意味では市場は拡大しているわけよ。広がっているわけよ。

 一方では小さくなり、一方では大きくなる。そのバランスの中で、クラシック音楽は何とか命脈を保っていたのだろうと思うけれど、私が思うに、今やクラシック音楽は、広く薄く深く楽しまれている…って感じかなって思います(笑)。広い地域で、少数の人たちが、オタク的に楽しんでいるのが、今の時代のクラシック音楽の普及具合って感じです。

 で、そうやって、広く薄く深く楽しまれているクラシック音楽界だけれど、そこに科学の進歩って奴が襲いかかっているわけです。

 最初に襲いかかってきたのは、録音技術って奴だと思います。録音技術が普及しはじめたのは、20世紀初頭です。それまでの音楽と言うのは、生演奏が基本であって、音楽を聞きたければ、音楽家に演奏してもらわないといけなかったわけです。でも、録音技術が発達し、その再生装置が普及してくると、わざわざ音楽家に演奏してもらわなくても、レコードをかければ音楽が楽しめるようになったのです。それも、一流の演奏家の演奏が…ですよ。それもノーギャラで!

 そのおかげで、街の飲食店などで演奏していた音楽家たちは失業してしまったでしょうね。だって、彼らにギャラを支払って音楽を演奏してもらわなくても、一流の演奏がいつでも無料で(もちろんレコード購入という初期投資は必要だけれど)聞けるようになってしまったのですからね。

 さらに言えば、我々極東の地の果てに棲んでいるような人間にも、レコードを通して、本場の一流の演奏家の演奏を楽しむ事ができるようになったわけで、録音技術万々歳です。

 次に襲いかかってきたのは、航空機サービスです。つまり、気軽に飛行機に乗れるようになり、海外へもラクラク出かけられるようになったわけです。これは戦後の昭和の時代に実現しました。

 それまでは、録音は軽々と海を越えて広がっていきましたが、実際の演奏家たちは、それぞれのホームグランドでの活躍がメインで、なかなか演奏旅行には行けませんでした。だって、当時の演奏旅行は遠路は船旅だもの。近いところは鉄道が使えますから、なんとでもなりましたが、遠く海外の国へは船でしかいけなかったわけです。船旅って、何ヶ月も時間がかかるんだよね。そうなると、音楽家たちもおいそれとは演奏旅行にはいけないわけで、それぞれの地域に、それぞれブイブイ言わせていたローカルな演奏家たちが頑張っていたのです。

 でも、航空機が発達して、今や一流の演奏家たちは、ジェット機を住処として、毎日、世界中を飛び回っています。おかげで、我々は極東の地に棲みながらも、世界一流の演奏家たちの生演奏を聞くことができるようになりましたが、その代わり、ローカルな演奏家たちの権威は貶められ、多くの方々が稼げなくなり、廃業せざるをえないはめになりました。

 だって、ローカルな人のつまらない演奏を10回聞くならば、超一流の素晴らしい演奏を1回でも聞ければ、うれしいと思うわけじゃない?

 次にやってきたのが、放送です。昨今の高解像度カメラによる映像やらインターネット配信なども、広い意味ではここに入ってくるかなって思います。

 それまでは、世界一流の演奏とは言え、その演奏家だけがやってくるのが普通でした。例えば、オペラで言えば、主演歌手は世界の一流だけれど、オーケストラや脇役歌手、合唱や裏方のスタッフは現地調達が原則でした。だって、全部を全部連れてくるのは無理だし、費用もかかりすぎるしね。

 でも放送ならば、現地の演奏をそのまま全世界に配給できちゃうんですよ。昔はテレビ放送で、やがてビデオ販売になり、今やインターネット配信も可能です。例えば自宅で、ベルリン・フィルの最新公演を楽しめちゃうわけです。すげーな。私がよく楽しんでいる、メトのライブビューイングなんか、歌手のアップは見れるし、楽屋話は聞けるし、字幕は付くし…生の演奏よりも楽しめたりするでしょ?

 放送が普及して、今まで起きてきた事が繰り返されます。世界の一流の演奏を気楽に楽しめるようになれば、邦人演奏家たちによるローカルでそこそこな演奏は自然と見に行かなくなります。

 こうして、世界の一流どころの演奏が世界に蔓延し、彼らはウハウハと儲かりますが、彼ら以外の音楽家たちの需要は減っていきます。仕方ないね。やむをえないので、そういう音楽家たちは、よりニッチで無名な音楽ジャンルに活路を見出すか、それも難しければ音楽家を廃業していくしかありません。

 だからどーしたと言われても困りますが、それが世の中の流れです。

 知り合いの娘さんが音大をヴァイオリンで卒業されたのだけれど、卒業後、全然演奏する場が与えられず、本人はもちろん、親もその事態を悲しんでいて、娘にどうにか演奏の場を与えられないかと、プロの音楽家として生計を立ててほしいと、あれこれ画策&暗躍している姿は実に涙ぐましいのですが、そんな事態になるのは、彼女が音大に進学する以前から分かっていた事なのに、何をいまさら…と他人の私は思うわけです。今の時代、中途半端な実力の音楽家は生き残ることはできないのです。

 大学さえ出れば何とかなる…と親子ともども思っていたようですが、世の中、そんなに甘くありません。音大も商売だから仕方ないとは言え、音大は音楽の専門家を過剰に輩出しすぎだと思います。音大なんて、卒業生を今の1/100にしても、それでもまだ卒業生多過ぎ…って感じじゃないかって思わないでもないです。

 ああ、なんともまとまらない事を、ウダウダと書き連ねてしまった。そういう日もあるって事で、ご勘弁。今日は本当に、まとまってないね。

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2018年11月14日 (水)

声は減るけれど、楽器は減らない

 私が音楽の練習をする時に、いつも頭の片隅で考えているのは「声は減るけれど、楽器は減らない」って事です。

 声って減るんですよ。無論、減ったままではなく、回復だってするんだけれど、声の減っていく速度と比べると、声が回復していく速度って、本当に遅くって「一晩寝れば回復する」ぐらいな感じなので、いつも“声の減り”についてばかり考えています。

 歌の練習をするにしても、いかに声を使わない練習をしていくか…を積極的に考えています。だって、声を使うと減っちゃうからね。

 例えば、歌詞を暗記する時は、まず歌いません。そんな事で声を使ったら、もったいないじゃない? ブツブツブツブツ言いながら、歌詞を暗記します。リズム練習の時も声は使わない。手を叩いたり、しゃべり声でラップのような感じでリズムの練習をします。メロディー練習の時は…やむなく歌いますが、全体のメロディーを覚える時などは、1オクターブ下げたり、そこまで下げなくても、何度か音程を下げて、なるべく声が減らないように工夫しています。

 バッチリ歌うのは、一日最大1時間程度に抑えています。それも休み休みね。

 そこへいくと、楽器って減らないんですよね。自宅で練習している時も、時間があればあるだけ、ずっとフルート吹いてます。最近はめっきり練習時間が減ってしまったので、なるべくフルートを吹くようにしています。フルートを吹く事で、呼吸筋や指の筋トレをしているようなつもりになっています。

 フルート合宿に行ったりすると、ほんと、朝から晩まで、結構長時間、フルートを吹いてます。歌じゃ考えられない事やってます。

 昔、合唱団に所属してした時は、よく歌っていましたね。合唱団の通常の練習って、1
回約3時間でしょ? 夏合宿とかに行くと、朝練、昼練、夜練を合わせると、1日10時間程度の練習時間じゃない? ほんと、よく歌っていました。

 「合唱団でそんなに歌っていたなら、声が減って練習になるはずないじゃん、声が減るって、嘘だろ!」

 いえいえ、声が減るのは嘘ではありません。歌うと行っても、個人で声楽の練習をしている時は、練習中、結構みっちり歌っています。だから、休み休みを心がけないと、ついつい歌いすぎてしまうくらいです。なので、1時間歌えば、もう限界です。

 合唱の練習って、歌っていると言いながら、練習中は、実は圧倒的に歌っていない時間の方が長いんですよ。3時間の練習と言いながらも、それぞれ個人に注目すると、実際には1時間も歌っていません。やはり合唱となると、他のパートの練習の時は、お休みだし、曲を歌っている時だって、案外、曲中にお休みの時間があって、案外歌っていないのです。と言う訳で、声楽と合唱では、練習時間中の歌う量が、そもそも全然違うので、合唱では、声ってあんまり減らないんだよね。

 とは言え、私の場合、合唱団の3時間の練習中の前半の90分で、声を使い切っていて、後半の練習では声が無くなることなんて、しょっちゅうだったけれどね(爆)。練習で(良い意味で)手を抜く事を知らなくて、いつもいつも全力で歌っていたから、あっという間に声が無くなっちゃったわけです。上手な合唱歌手たちは、そこのあたりの使い分けが上手なんだよなあ…。

 まあ、このように声は減ってしまうので、いかにして声を使わない練習をするかで頭を悩ましますが、楽器は減らないので、考える暇があったら、ガンガン練習するべきなんだよね。暇さえあれば、楽器に触っていて、音出していて、常に練習している…が理想なんだと思います。

 もっとも、楽器の練習は楽器がないと出来ません。道を歩きながらとか、昼食食べながらとかの練習は、まず無理です。でも歌だと、道を歩きながらでも鼻歌歌って練習できるし、昼食食べながらでも、歌詞の暗記をしたりとかはできるわけで、スキマ時間を使って練習できるのが、歌の練習だったりします。

 なので、トータルで考えると、私の場合、フルートよりも声楽の方に多くの時間を割いているような気がします。なにしろ、出勤時は、ポケGOやりながら、レコ勉しているもんなあ。ちょっと空いた時間は発声の事を考えたり、歌詞の反復練習していたり…そういうスキマ時間に行う練習だけでも、フルートと比べると、圧倒的な練習時間の違いになるわけです。

 楽器は減らないけれど、楽器が無いと練習できないし、音を出しちゃダメな時間や場所では練習できません。そういう意味では、声楽よりも器楽の方が練習しづらいモノなのかもしれません。

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2018年11月 8日 (木)

世俗曲と芸術歌曲のワケメとは?

 私はよくトスティの歌曲を歌います。私の中ではトスティの歌曲は、クラシック声楽曲であり、芸術歌曲の扱いですし、たぶんそれに異を唱える人は少ないだろうと思います。しかし実はつい最近まで、トスティは世俗曲(サロンで歌われる流行歌、当時のポピュラーソング)扱いされ、芸術歌曲としては認められていなかったという事実はご存知でしょうか? 音楽大学などで取り上げられなかったそうですが…もちろん今はそうではありません。

 考えてみれば、シューベルトの歌曲(典型的な芸術歌曲ですよね)だって、発表当時はサロンで歌われていた娯楽のための曲だったわけだし、おそらくどんな歌も、発表当時は、たいてい世俗曲であり、その中から名歌だけが時の流れの中で生き残り、芸術歌曲へと昇華するんじゃないかなって思います。

 私がそう考えるきっかけになった曲は、李香蘭の「蘇州夜曲」です。この曲は、西条八十と服部良一のコンビで、1940年と言うから戦前の映画の劇中歌として発表された歌で、それ以降も多くの歌手たちに取り上げられてきた、名曲中の名曲、いまやりっぱなスタンダードナンバーです。

 こちらは李香蘭が歌う、オリジナルの「蘇州夜曲」です。

 元々が歌謡曲ですが、やがてポピュラー系の歌手やジャズシンガーたちも取り上げるようになり、今ではクラシック歌手が歌うことも少なくありません。で、クラシック歌手の方々が歌われる「蘇州夜曲」を聞くと、私などは日本歌曲の一つとして受け取ってしまいます。もちろん、ご年配の方々は、そうではなく、自分たちや自分たちの少し上の世代の流行歌…つまり世俗曲として受け取っているようだし、かつてこの曲は中国では禁曲扱いされた時代もあったそうだけれど、それも今では開放され、普通の曲扱いされているそうです。曲の受け取り方も、時代や地域によって異なるのです。で、私にとって、この曲はすでに時の流れに生き残った芸術歌曲として聞こえてしまうのです。

 歌っているのは、ソプラノの下垣真希さんです。私は寡聞にも彼女の事を知らないのですが、良いソプラノさんだなあと思います(上から目線に感じたら、ごめんなさい)。

 で、結局、芸術歌曲ってのは、時の流れに生き残ってきた、スタンダード・ナンバーとか、古典歌曲の事を言うのではないかなって思うのです。

 最初から芸術歌曲として作曲された曲もあるでしょうし、流行歌として作曲された曲もあるでしょうが、数年数世代を経て生き残った曲は、みな芸術歌曲であると私は思うようになりました。

 流行歌のほとんどは時代とともに古びて消えて消費されてしまいます。流行歌はそういうものですから、それはそれで仕方ありません。また、芸術歌曲として作曲された歌の大半は、実は再演されずに時の流れの中に消えてしまうものです。人の手によって生み出された歌のほとんどは、時代とともに消えてしまうものなのです。

 だから、何世代にも渡って愛される芸術歌曲の条件としては、芸術歌曲として作曲されたかどうかは問題ではないのです。時の流れの中でも消えることなく、人々に愛された事が大切なんじゃないかって思うわけです。

 けたたましいロックなビートルズの音楽だって、すでにスタンダードナンバーとしての地位を固めていますし、やがて時が経つにつれ、イギリス民謡の扱いになっていくでしょう。そうなれば、やがて芸術歌曲の扱いを受けるようになると思います。音楽大学で、ビートルズの歌を学んで、オペラ歌手たちがステージで歌う時代が来るかもしれません…もっとも、そんな状況は、今の私には全然想像できませんが、でもおそらくそんな時代がやってくると思います。

 日本でも、昭和や平成の時代に流行った流行歌のうち、何曲かは時代の流れの中で生き残り、やがて日本歌曲になっていくんだろうと思います。そして、そうやって残っていく歌は、どんな歌なんでしょうね。私にはうかがい知ることもできませんが、どんな曲が残っていくのか、なんか楽しみです。

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2018年10月23日 (火)

最近(?)ネットで見かける“レスナー”って何?

 ネットで見かける、よく分からない専門用語(?)の話です。

 ピアノ系のブログを見ると“レスナー”という用語が飛び交っていたりします。まあ、すべてのピアノ系ブログではなく、ある傾向を持ったピアノブログで見られるわけですが…たぶん、それらのブログのブログ主さんたちは、きっとお友達関係にあるんだろうなあって思われます。

 ブログは閉鎖空間ではありません。閉鎖空間で友人とだけ話したければ、いわゆるフェイスブックなどの身内しか見ることができないタイプのSNSを利用するべきであって、ブログに書き込むべきではありません。ブログは、世界に発信している開かれたメディアであって、全く知らない第三者が見ることを前提とし、奨励しているメディアですから、そこで“仲良しこよし”をやるべきではありません。

 とまあ、オジサンは苦言をついつい言っちゃうわけですが…、本音では「まあ、好き好きにすればいいじゃん」程度にしか思ってなかったりします。

 それはさておき、第三者である私がそれらのブログを拝見させていただいて感じるのが“レスナー”という用語です。もちろん、ブログ内でレスナーという言葉の定義はないので、文脈から判断するのですが、どうやらレスナーという言葉は…

  lesson + er

 で、レスナーのようなのです。レッスン(lesson)に動作者を表す接尾辞(er)をくっつけているわけです。

 そこで考えるのは…まず“lesson”って何?です。

 辞書を見ると“授業”とか“お稽古”とかを指すようです。まあ、それは私にも分かります。で、それに“er”が付くと、全く分かりません。だって“lesson”って名詞だもの。名詞に“er”は付かないでしょう? 付けると気持ち悪いでしょ? 原語明瞭意味朦朧って奴になります。実際、私程度の英語力の持ち主であっても、違和感を感じるほど奇妙な言葉です。そもそも“er”ってのは、動詞に付いて落ち着くものです。

 日本語にはサ行変格動詞というのがあります。「“名詞”+“する”」という動詞ですね。例えば“授業”という言葉は名詞ですが、これに“する”を付けて“授業する”になれば、普通に動詞になります。名詞に接尾辞をつけて動詞にする事ができるわけです。

 でもね、英語にはサ行変格動詞はないから、名詞に何かをくっつけても、それは動詞にはならないわけです。

 まあ、たぶん、レスナーって、和製英語なんだと思います。つまり、一種の専門用語ね。符牒かもしれない。

 和製英語は日本語だから、それはそれで立派な言葉であって、別にそこに文句を言うつもりはありません。それでも仲間内でしか通用しない言葉を、ネットで書いちゃうのは、実は…。

 レスナーという言葉、レッスンをする人(先生)という意味で使う人もいれば、レッスンを受ける人(生徒)という意味で使う人もいるのです。実は最初のうちはここに気づかなくて、それらのブログを読む度に「???」になっていました。

 ってか、結構多くの人がレスナーを“生徒さん”の意味で使っていてビックリだったのです。

 だって、レッスンをサ変動詞的に考えれば、当然“レッスンをする”になるわけでしょ? それに行為者を表す“er”を付けるなら、その意味は“レッスンをする人”になるわけで当然“先生”の事を指しているのかと思ったら、どうやら“生徒さん”を指しているわけです。

 英語(っぽいカタカナ)で言うなら、先生はティーチャーですね。では生徒は…スチューデント? ピアノの生徒さんをスチューデントと呼ぶのはどうなの?って考えれば、ラーナー? 違うよね。スカラー? もっと違うよね。 ピューピル? なんじゃそれ?

 そんなわけで、レスナーという和製英語が登場しちゃったのかな?って推測するわけです。

 で、なんでそこでカタカナ和製英語が登場しちゃうのかな? “生徒さん”でいいじゃん。そこが分からない。

 ちなみに私が仮にピアノの先生で、英語で自分の生徒さんたちを表現するなら…ピアノ教室の生徒さんって、幼稚園からせいぜい小学生たちでしょ? だったら私は“Puppy”って言っちゃうと思います。パピー…“仔犬ちゃん”だね。恋人を“honey(はちみつちゃん)”って呼んじゃう言語だもの、自分のかわいい生徒たちを“仔犬ちゃん”って呼んでも大丈夫だよね? それともダメ?

 閑話休題。とにかく、レスナーという和製英語に、落ち着きの悪さを感じてしょうがない私でした。少なくとも、和製英語を使うにしても、意味が推測しやすい言葉にしましょう。

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2018年7月26日 (木)

初見が出来ると…いいのになあ

 初見で歌えたり、演奏できたりする人って…いますよね。実にうらやましいです。もっとも、初見演奏ができる人って、そうなるまでにたくさんの努力と時間を費やしているわけで、私はとてもそんな事はやっていないのだから、できないのは、ある意味、当然なんですけれどね。

 まず、楽譜をきちんと読めるようになりたいです。少なくとも、オンタイムで正しく読めるようになりたいです。

 楽譜を読むのって難しいよね。まず私の場合(音感が無いので)音程が分からない。音符を見ても、音が想像できない。これはさすがに、どーにもならない(涙)。音程を確認する段階で、必ず楽器が必要になるので、初見演奏なんて出来るわけがありません。

 で、音程を横に置いたとして、ならば、リズムを正しく読めるようになりたいです。リズム読みがちゃっちゃと出来るようになりたいです。少なくとも、リズム読みがちゃっちゃとできれば、音程は楽器で音取りすればいいんだから、楽譜を読むのがだいぶ楽になるわけです。

 楽譜読みとは直接関係はないけれど、楽器演奏力が上達して、たいていの曲が楽に演奏できるようになれば、たとえ楽譜が初見であっても、楽器の初見演奏は…できるようになるかもしれません…ね。楽器での初見演奏は、まだまだ夢かもしれないけれど、実現の可能性がちょっとある夢なので、希望を持って前に進んでいこうと思います。

 問題は歌だね。音感が無い以上、どうしたって、音取りという作業が私には必要だから、永遠に初見で歌が歌えるようにはならない…のが悲しいね。ほんと、悲しい。

 結論として、私は永遠に初見で歌が歌えるようにはならない…という能力の限界があるのだけれど、たとえ妄想であっても、やっぱり初見演奏ができて、色々な曲を楽譜を見た途端に歌えるようになれたらいいのになあ…とつぶやいておきます。

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2018年7月11日 (水)

努力は必ずしも報われるものではない

 「努力は報われるものだ」という信仰が、我々にはあります。

 だから親たちは自分の子たちに「勉強しなさい」と命じるわけだし、スポーツのコーチたちは選手たちに厳しい特訓を課すわけです。頑張った分だけ結果は得られる…ってわけです。

 「努力は報われるものだ」という信仰は、だいたいの場合、真理であると言っても良いと思います。例えば、百マス計算とか漢字ドリルとか、やればやっただけ効果が出てきます。鉄棒の逆上がりとかも、努力しているうちに、必要な筋力が付いてくるので、できなかった子もできるようになります。パソコン等のタッチタイプだって、努力すればできるようになります。ちなみに、私は二十代の頃に3週間でマスターしましたよん。

 その子が持っている実力のうち、まだ開花していない分を咲かせるためには努力が必要だし、そうする事で、その子は持ち前の力を十分に発揮できるようになるわけです。だから「努力は報われるものだ」という信仰は真理なのです。

 でもね、何でもかんでも努力さえすれば叶うわけじゃないんです。努力だけじゃ手の届かない事だってあるんです。

 例えば、その子の潜在能力以上の成果は努力では得られません。いくら努力を積み重ねたとしても、その子が持って生まれた潜在能力の範囲内の成果…それが最大限の成果であっても…それを越える成果は得られません。

 高い潜在能力を持っている子は、努力次第で、かなり高いところまで登っていけますが、それほど高くない平々凡々な潜在能力しか持ち合わせていなければ、いくら努力して、その程度の成果しか出せません。

 この潜在能力の事を、一般的には“才能”と呼びます。

 つまり、努力はその子が持っている才能の上限までにしか有効ではないのです。

 なので『下手の横好き』という言葉があるわけですね。いくら大好きであっても、才能がなければ、いくら努力をして、経験を積み重ねても、そんなに上達しないってのも、真理なわけです。

 例えば、音楽の演奏とか…ね。私は音感が無いから、音程がいつも甘いし、音感が無いから、すぐに他人の歌につられちゃうわけです。音感が無いから、ポピュラー音楽的なハモリ(コードの中の音程を自由に歌ってハモる)は得意だけれど、クラシック音楽的なハモリ(楽譜に書かれているフレーズを正確に歌ってハモる)は苦手です。

 なんだかんだ言って、もう30年近く歌ってますが、クラシック音楽的なハモリは、やっぱり苦手だし、合唱の才能はほとんど無い私です。

 でも合唱、全く歌えないわけでもないんです。と言うのも、合唱って、パートの中に埋もれて歌えるので、そういう中に埋もれてしまえば歌えないわけじゃないんです。問題は、パートの中に埋もれきれない時…です。なので、小さな合唱団とか、あまり上手ではない合唱団には近寄らないようにしています。だって、そんなところじゃ、私、埋もれる事できませんからね。上手くて大人数の団…そういう団ばかりを渡り歩いてきました。

 と言うわけで、好きだけれど、私には合唱の才能はかなり無くて、限定的にしか歌えません。ああ、残念。ちなみに、ハモリの多い重唱は気合入れて歌ってます。重唱なら、合唱よりも適正があると思うんだよね。

 閑話休題。才能が無いと厳しい反面、才能があれば、努力を始めるスタート地点を最初から高めに設定できるでしょうし、ゴールだって高い位置まで登ってたどり着けるわけです。才能、大切です。

 プロの演奏家たちは、最初から豊かな才能を持っていた人たちの集団であって、その豊かな才能に、子ども時代を犠牲にするほどの努力を積み重ねてきたから、プロの演奏家として立っているわけです。ハイアマチュアとして活躍されている人だって、最初からある程度の才能があり、場合によって、音大等の専門教育を受けていたりするわけだから、趣味のズブの素人とはわけが違うわけです。

 かく言う私だって、あれこれ欠けはあるけれど、声という楽器だけは、それなりの良いモノが与えられているようで、私は私で苦労はあるけれど、それでも声の無い人(失礼)と比べると、立っている場所が違うわけです。自分で言っちゃうのはアレだけれど、これも才能だろうと思います。

 なので、一般論としては「努力は報われるもの」であり、人生、真面目に努力するべきなのですが、あるレベルよりも上の世界では、努力の前に、まずは才能の有無を確認しないと、努力が何の実も結ばない事になりかねないのです。

 ま、寝床の旦那ですよ。

 結局、努力すれば秀才にはなれるかもしれません。しかし、秀才は努力する天才には絶対に勝てないのです。ガラスの仮面を読めば、それって明白でしょ? 亜弓さんってかなり天才の領域に近づいた秀才だけれど、その隣に努力する天才がいるわけで、アレじゃあ勝負にならないよね。

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2018年7月 9日 (月)

ヴィブラートとは何か?

 ヴィブラートとは、ヴァイブレーションの事。略せば“バイブ”って事で『振動』を指します。

 音楽用語としては、そもそもは“声の振動”を意味し、声に輝きと潤いを与えるものだと言われています。で、声のヴィブラートがあまりに美しかったので、各楽器もそれをマネて音に振動を与えるようになったわけです。

 ちなみに、楽器はそもそもがノン・ヴィブラートの音が基本ですから、ヴィブラートを“付ける”訓練をしますが、声の場合、そもそも声が自然に振動するものですから、特にヴィブラートの練習というのはしません。音楽ジャンル(女性歌手が少年歌手のパートを歌う必要があるジャンルなど)によっては、ノン・ヴィブラートで歌う必要あるので、そのためにヴィブラートを付けずに歌う訓練をするほどです。

 横道にそれますが、少年の声(ボーイソプラノなど)には、基本的にヴィブラートはかからないんですね。でも、成人女性の声にはヴィブラートがかかってしまうので、同じ音域(ほぼ)同じ声色であっても、少年と成人女性の声には違いがあります。

 閑話休題。ヴィブラートとよく混同されるものに“こぶし”があります。ヴィブラートが無意識に付加されるモノであるならば、こぶしは意識的に付加していくモノです。そういう意味では、楽器のヴィブラートは意識的に付加していくモノですから、歌の世界(日本の歌謡曲とか演歌の世界です)の“こぶし”に近いモノなのかもしれません。

 声のヴィブラートは、音程の振動を指します。ですから、低い声はゆったりとヴィブラートがかかり、高い声は小刻みにヴィブラートがかかっていきます。音程とヴィブラートの振動感覚というのは関連があるので、これを無視して作為的にヴィブラートを掛けると、違和感が生じ、汚く聞こえます。

 作為的…とは違いますが、結果的に不自然な振動を与えてしまい不快感を与えてしまうのが、いわゆる“縮緬ヴィブラート”と呼ばれるものです。これは声の老化の一種で、声帯周りの筋力低下に伴い、発声動作に痙攣が伴うようになり、そのために不自然な振動が声にかかってしまう事が原因だと考える人がいます。作為ではないので、本人には自覚はないのですが、ヴィブラートの振動が音程とは関係なくつけられているので、聞き心地が良くないのです。こうならないためには、歌う人は、ある一定の歌うための筋力維持というのが必要になるのだろうと思います。

 で、楽器のヴィブラートですが、ヴァイオリン等の弦楽器のヴィブラートは、声と同じ音程に振動を与えるヴィブラートですが、フルート等の管楽器のヴィブラートは、声とは違って、音量の変化によるヴィブラートで、厳密に言うと(管楽器のヴィブラートは)ヴィブラートと呼ぶべきではないのですが、他に呼び名がないし(声の)ヴィブラートの効果を目指してかけているので(管楽器のヴィブラートも)ヴィブラートと呼んでいいのだろうと思います。

 ま、そもそもヴィブラートは、声に輝きと潤いを与えるための技法であり、たまたま元祖である声は音程を揺らして効果を得ていたわけですが、音量を揺らして同じ効果を得られるなら、同じものと扱ってもいいんじゃないかって考えるわけですね。

 ヴィブラートは、いわば美しい楽音を作り出すための技法の一つであって、歌の場合は、正しい発声方法が身につけば、自然と身につくものであり、特に意識するものではないと思います。

 楽器の場合は、意識的に習得しないと身につかないものなので、ヴィブラート奏法ができるようになるためには、そのための特別な努力と修練が必要になります。弦楽器の場合は、ヴィブラート奏法は、かなり古い時代に一般的になってしまったため、ヴィブラートのない弦楽器の演奏音というのは今では考えられないので、たとえアマチュア奏者であっても、頑張って習得していかないといけないと思います。

 そこへいくと管楽器のヴィブラートは、これが奏法の中に組み込まれてきたのは、割と最近(フルートなら20世紀前半のモイーズから一般的になってきた…と私は聞いています)なのだそうで、近年の流行りと言えば、言えます。なので、管楽器のヴィブラートは、歌や弦楽器のヴィブラートとは異なり“マスト”なものとはまだまだ言えないと思います。ネットでは、初心者に毛の生えたくらいの人(ごめんなさい)がヴィブラートの習得に励む様子がよくアップされていますが、私が個人的に思うに、ヴィブラートに励む時間があったら、もっと基礎的な訓練に時間をかけて、まずはきちんとフルートが吹けるようになるのが先決だと思います。ヴィブラートはあくまでも、音に輝きと潤いを与えるための技法であり、いわばオプションですから、オプションを習得する前に“きちんと普通に吹けるようになる事”が前提になってくると思います。

 オプションよりもメインを先に身につけろよ…って話です。オプションはメインを終えてからで十分だろうって…事です。

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2018年7月 5日 (木)

ト音記号しか読めません

 私、ここに告白します。

 実は私、ト音記号の楽譜しか読めません。へ音記号はもちろん、ハ音記号やテノール記号で書かれた楽譜は、ほとんど読めません。どうしても読まなきゃいけない時は、やむをえないので、事前に楽譜にカナを振って対応します(てへぺろ)。

 だってね、だってね。小学校で習った楽譜って、全部、ト音記号だったじゃないですか。まあ、小学四年生でアルトリコーダーを習った時に、ヘ音記号を使っていたような気もするけれど…私は、家が貧しくてアルトリコーダーを買ってもらえなかったら、アルトリコーダーの勉強をしてなくて、ヘ音記号の学習が欠落しているんだよね。

 大学の授業にピアノの実習があった時、渡された楽譜は大譜表(ト音記号とヘ音記号の2つのタイプの楽譜が連結されているタイプです)をいただいたけれど、その時は、左手部分(つまりヘ音記号の部分)は、思いっきりコードネームを書いて、コードで弾いていたので、ヘ音記号は読めずじまいでした。

 そう、私、ヘ音記号は読めませんが、コードでピアノが弾けるんですよ。技術的には指が動かないで、とても下手くそですが…でも、珍しい人でしょ?

 さて、社会人になって、合唱を始めたのだけれど、私は最初っからテノールだったし、入団した合唱団は、かなりマジ系のところで、オーケストラ伴奏の本格的な合唱曲ばかりを歌っていた団だったので、ここでもヘ音記号を学ぶチャンスがありませんでした。ほら、オーケストラ伴奏のマジ系の合唱曲って、テノールはト音記号で書かれているんだよね。これが邦人の作曲家が作ったピアノ伴奏の合唱曲だと、歌のパートは、大譜表に全部一緒に載っていたりして、そうなるとテノールはヘ音記号だし、各パートごとに譜面が分かれていても、テノールはヘ音記号で書かれていたりするのだけれど、私はそういう場で歌わなかったので、ここでもヘ音記号を学ぶチャンスがなかったわけです。

 で、老人になってから、声楽(ってか独唱)を始めたわけだけれど、オペラとか歌曲とかだと、やっぱりテノールはト音記号で書かれちゃうので、ヘ音記号に親しむチャンスがありませんでした。

 フルートも始めたし、ヴァイオリンもちょっとかじったけれど、この2つとも、ト音記号の楽器で、全然ヘ音記号には縁がないんだよね。

 と言うわけで、私。未だにヘ音記号に馴染めませんし、読めません。

 先日、某所で歌ったメサイアのハレルヤなんて、テノールの部分がヘ音記号で書かれていたのですが(びっくりです)、ヘ音記号なんて読めないし、どうせ歌そのものは、いつものアレだろうと思って、ざっくり楽譜を斜め読みして歌っちゃいました。

 やっぱり、ヘ音記号も普通に読めた方がいいんだろうなあ…と思うものの、なんか学ぶチャンスが無いし、使うチャンスも無いんだよね。

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2018年6月28日 (木)

コンクール出場についての私感です

 春~夏のこの時期、各地で音楽コンクールが開催されています。私も、公開されているコンクールは、時間と場所の折り合いが付けば、なるべく見に行くようにしています。やはり若い才能は、見ていて微笑ましいですからね。

 で、コンクールというのは、その本質は、一種の品評会であって、これから市場に出ていく商品の市場出荷価格を決めるために行われるものであります。つまり、音楽コンクールに関して言えば、これらのコンクールに出場する人たちは、これからプロとして活躍をしようと志している若いプロの卵たちであって、玉石混交な彼らの中から、有能で優秀な若手を一人ないしは二人見出して、選別して、そんな有能で優秀な彼らの前途をサポートしていくのが、コンクールなのです。文字通りの“登竜門”として機能しているのが、各種音楽コンクールなわけです。

 とは言え、音楽コンクールも営利事業なわけで、プロの卵の品評会だけでは、その運営が成り立たないものもいくつかあります。なので、プロの部門以外に、アマチュア部門とか、愛好家部門とかも併設されているコンクールも多々あるわけで、今回記事にするのは、そっちのアマチュア向けのコンクールと、その参加者についてです。

 実は私、キング先生に師事していた頃は、先生から頻繁にコンクールに出場しなさいと勧められていました。

 どこのコンクールに出場するかは先生が決めるから、是非是非出場しなさいと言われていましたが、当時はのらりくらりと言い訳をして、結局出場しないままで終わりました。

 ちなみに、Y先生に移ってからは、コンクールのコの字もありません。

 なぜ当時、先生に強く勧められていたにも関わらずコンクールに出なかったのかと言うと、理由は3つありました。

 1)予選はたいてい平日に行われ、仕事を休んでまでコンクールに出場しようという熱意がなかったから。まあ、休日にコンクールが行われていたら、ひょっとしたら出場したかもしれませんが、コンクールって、本選はさすがに土日に行われる事が多いのですが、予選って、たいてい平日なんですよね。私、これでもサラリーマンの端くれでございますから、平日は休みが取りづらいのですよ。なので、コンクール参戦には積極的になれなかったわけです。

 2)伴奏者は自分で用意しないといけないから。まあ、現在なら、伴奏を頼めるピアニストさんのアテも複数ある私ですが、当時は伴奏を頼めるピアニストさんの知り合いなんて、プロアマ問わずいなかったのです。コンクールに参加するために、ピアニストさんを探すところから始めないといけないと思うと…憂鬱になったわけなんですね。

 3)自分に自信がなかったから、…と書くのが正しいと思いますが、当時の私は、その当時の自分の力量を割と正確に把握していたと思います。で、その力量から考えるに、コンクールに出場して、格付けされるにはまだまだ力不足だと認識していました。つまり、コンクール出場なんて、場違いだなあと思っていたわけです。この件に関しては、今の力量ですら、まだまだ場違いだと思ってます。コンクールの場で歌うには、明らかに、決定的に、絶望的なほどに、力量が不足していると思っております。なのになぜ、当時のキング先生は、あんなに私にコンクール出場を勧めてきたのか…全く分かりません。

 というわけで、私自身はコンクール出場に関して、考えたことはありますが、実行に移したことはないわけです。ま、覚悟ができなかった…んですよ。でも、だからと言って、他の方(特にアマチュア)の方々がコンクールに出場することに関しては、割とオープンマインドであったりします。

 と言うのも、コンクールって、プロとアマでは、その意味合いが全然違うからです。プロにとっては、コンクールに勝ち残るってのは、ある意味、一生をかけた大勝負なわけですが、アマチュアの場合、コンクールで優勝したところで、その日のお酒が美味しくなるくらいなもので、特に大きな実利はありません。逆に言えば、予選落ちを何度もしようと、その後の人生に特に大きな影響も与えません。なので、アマチュアのコンクール出場に関しては、当人の覚悟さえ決まるなら、気楽に考えてもよいのだろうと思ってます。

 アマチュアの場合、コンクールに出場しても大きな実利はないと書きましたが、そうは言っても、小さな実利はあります。それらは以下の通りです。

 1)勝ち残ると嬉しい。ま、そうですよね。

 2)講評がいただける。自分の歌に関しての他人からの冷静な批判って、なかなか言ってもらえないのが普通ですから、ちゃんとした専門家から講評してもらえるのは、良いことかもしれません。

 3)ホールでドレスで着飾って歌える。アマチュアさんの中には、なかなかホール演奏の機会のない人もいますし、ドレスで着飾って歌う機会のない人もいます。そういう人にとっては、コンクール出場って、貴重なホール&ドレスのチャンスなんですよね。

 と言うわけで、コンクール出場と言うのは、アマチュアにとって、全く無意味というわけではなく、これら小さな実利を大切に感じている人にとっては、大切な事なんだろうと思います。

 で、コンクール出場に関して、周囲に相談せず黙って出ちゃうという人が少なからずいらっしゃると聞きますが…これは、主に(悪い結果になったら)恥ずかしいから…なんだそうです。まあ、その気持ちは分からないでもないですが、たとえお友達には黙っていても、もし先生について学んでいるなら、事前に先生だけには相談しておいた方がいいですよ。と言うのも、あなたがコンクールに出場すれば、あなたには、必ず先生のお名前がついて回るわけで、先生にしてみれば、自分が承知していないところで自分の生徒がコンクールに出場して、あれこれ言われちゃうってのは、あまりうれしくない事だからです。だから、周囲の人には黙っていても、先生にだけは事前に相談してコンクールに出場した方がいいと思います。

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