ひとこと

  •  本日、都会を歩いていたら、向こうから来た人とすれ違う時に、すごく汚らしいモノを見るようなガンを飛ばされた。で、その悪意を感じたので、相手を確認したら、タレントさんのような若くて美人さんだっただけに、なんかショック。ま、私は確かに美しい生物ではないけれど、そういう悪意を不躾にぶつけてくるのは、いくらなんでもヒドイと思いました。心が折れた、なんか立ち直れない(涙)。
2018年9月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

コメントについて

  • コメントは、どの記事に対して付けてくださっても結構です。歓迎します。ただし、以前書いた記事については、現在では多少考え方が変わってしまったものもあります。また、コメントをくださる場合は必ず“名前”の欄にハンドルネームをご記入ください。ココログ的には、コメントの際の名前の記入は任意となっていますが、このブログでは必須としますので、ご了解ください。また、その時に使用されるハンドルネームは、お一人様一つで統一してくださいますようにお願いします。複数ハンドルの同時使用、及び別人への成りすまし発言、捨てハンドルのご使用等は固くご遠慮願います。迷惑コメントやアラシ発言に関しては放置でお願いします。記事とは無関係のものや、プライバシーに触れたコメント、スパムコメント、エロ系コメント、商用コメント及びにネットマナーを無視したコメントに関しては、予告なしに削除する事もあることを御承知置きください。また、度重なる迷惑コメントに関しては、ニフティに「迷惑コメント」として通知し処理してもらうことにしました。

カテゴリー

メールについて

  • 記事の訂正および削除の依頼と、部外者に見られることなく、私(すとん)と連絡を取りたい方は、メールリンク(この下にある「メール送信」)をクリックしてメールでご連絡ください。その際、どの記事でもかまいませんから、コメントに「メールを送りました」と一報いただけると幸いです。私、メールを見る習慣がないので、黙っているといつまでもメールを放置してしまいますので、よろしくお願いします。メールを送ったことをお知らせいただいたコメントは、メール確認後、すみやかに削除させていただきますので、ご安心ください。

カテゴリー「音楽一般」の記事

音楽ネタだけど、ノンジャンルなものはここです

2018年7月26日 (木)

初見が出来ると…いいのになあ

 初見で歌えたり、演奏できたりする人って…いますよね。実にうらやましいです。もっとも、初見演奏ができる人って、そうなるまでにたくさんの努力と時間を費やしているわけで、私はとてもそんな事はやっていないのだから、できないのは、ある意味、当然なんですけれどね。

 まず、楽譜をきちんと読めるようになりたいです。少なくとも、オンタイムで正しく読めるようになりたいです。

 楽譜を読むのって難しいよね。まず私の場合(音感が無いので)音程が分からない。音符を見ても、音が想像できない。これはさすがに、どーにもならない(涙)。音程を確認する段階で、必ず楽器が必要になるので、初見演奏なんて出来るわけがありません。

 で、音程を横に置いたとして、ならば、リズムを正しく読めるようになりたいです。リズム読みがちゃっちゃと出来るようになりたいです。少なくとも、リズム読みがちゃっちゃとできれば、音程は楽器で音取りすればいいんだから、楽譜を読むのがだいぶ楽になるわけです。

 楽譜読みとは直接関係はないけれど、楽器演奏力が上達して、たいていの曲が楽に演奏できるようになれば、たとえ楽譜が初見であっても、楽器の初見演奏は…できるようになるかもしれません…ね。楽器での初見演奏は、まだまだ夢かもしれないけれど、実現の可能性がちょっとある夢なので、希望を持って前に進んでいこうと思います。

 問題は歌だね。音感が無い以上、どうしたって、音取りという作業が私には必要だから、永遠に初見で歌が歌えるようにはならない…のが悲しいね。ほんと、悲しい。

 結論として、私は永遠に初見で歌が歌えるようにはならない…という能力の限界があるのだけれど、たとえ妄想であっても、やっぱり初見演奏ができて、色々な曲を楽譜を見た途端に歌えるようになれたらいいのになあ…とつぶやいておきます。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 音楽ブログ 大人の音楽活動へ
にほんブログ村

2018年7月11日 (水)

努力は必ずしも報われるものではない

 「努力は報われるものだ」という信仰が、我々にはあります。

 だから親たちは自分の子たちに「勉強しなさい」と命じるわけだし、スポーツのコーチたちは選手たちに厳しい特訓を課すわけです。頑張った分だけ結果は得られる…ってわけです。

 「努力は報われるものだ」という信仰は、だいたいの場合、真理であると言っても良いと思います。例えば、百マス計算とか漢字ドリルとか、やればやっただけ効果が出てきます。鉄棒の逆上がりとかも、努力しているうちに、必要な筋力が付いてくるので、できなかった子もできるようになります。パソコン等のタッチタイプだって、努力すればできるようになります。ちなみに、私は二十代の頃に3週間でマスターしましたよん。

 その子が持っている実力のうち、まだ開花していない分を咲かせるためには努力が必要だし、そうする事で、その子は持ち前の力を十分に発揮できるようになるわけです。だから「努力は報われるものだ」という信仰は真理なのです。

 でもね、何でもかんでも努力さえすれば叶うわけじゃないんです。努力だけじゃ手の届かない事だってあるんです。

 例えば、その子の潜在能力以上の成果は努力では得られません。いくら努力を積み重ねたとしても、その子が持って生まれた潜在能力の範囲内の成果…それが最大限の成果であっても…それを越える成果は得られません。

 高い潜在能力を持っている子は、努力次第で、かなり高いところまで登っていけますが、それほど高くない平々凡々な潜在能力しか持ち合わせていなければ、いくら努力して、その程度の成果しか出せません。

 この潜在能力の事を、一般的には“才能”と呼びます。

 つまり、努力はその子が持っている才能の上限までにしか有効ではないのです。

 なので『下手の横好き』という言葉があるわけですね。いくら大好きであっても、才能がなければ、いくら努力をして、経験を積み重ねても、そんなに上達しないってのも、真理なわけです。

 例えば、音楽の演奏とか…ね。私は音感が無いから、音程がいつも甘いし、音感が無いから、すぐに他人の歌につられちゃうわけです。音感が無いから、ポピュラー音楽的なハモリ(コードの中の音程を自由に歌ってハモる)は得意だけれど、クラシック音楽的なハモリ(楽譜に書かれているフレーズを正確に歌ってハモる)は苦手です。

 なんだかんだ言って、もう30年近く歌ってますが、クラシック音楽的なハモリは、やっぱり苦手だし、合唱の才能はほとんど無い私です。

 でも合唱、全く歌えないわけでもないんです。と言うのも、合唱って、パートの中に埋もれて歌えるので、そういう中に埋もれてしまえば歌えないわけじゃないんです。問題は、パートの中に埋もれきれない時…です。なので、小さな合唱団とか、あまり上手ではない合唱団には近寄らないようにしています。だって、そんなところじゃ、私、埋もれる事できませんからね。上手くて大人数の団…そういう団ばかりを渡り歩いてきました。

 と言うわけで、好きだけれど、私には合唱の才能はかなり無くて、限定的にしか歌えません。ああ、残念。ちなみに、ハモリの多い重唱は気合入れて歌ってます。重唱なら、合唱よりも適正があると思うんだよね。

 閑話休題。才能が無いと厳しい反面、才能があれば、努力を始めるスタート地点を最初から高めに設定できるでしょうし、ゴールだって高い位置まで登ってたどり着けるわけです。才能、大切です。

 プロの演奏家たちは、最初から豊かな才能を持っていた人たちの集団であって、その豊かな才能に、子ども時代を犠牲にするほどの努力を積み重ねてきたから、プロの演奏家として立っているわけです。ハイアマチュアとして活躍されている人だって、最初からある程度の才能があり、場合によって、音大等の専門教育を受けていたりするわけだから、趣味のズブの素人とはわけが違うわけです。

 かく言う私だって、あれこれ欠けはあるけれど、声という楽器だけは、それなりの良いモノが与えられているようで、私は私で苦労はあるけれど、それでも声の無い人(失礼)と比べると、立っている場所が違うわけです。自分で言っちゃうのはアレだけれど、これも才能だろうと思います。

 なので、一般論としては「努力は報われるもの」であり、人生、真面目に努力するべきなのですが、あるレベルよりも上の世界では、努力の前に、まずは才能の有無を確認しないと、努力が何の実も結ばない事になりかねないのです。

 ま、寝床の旦那ですよ。

 結局、努力すれば秀才にはなれるかもしれません。しかし、秀才は努力する天才には絶対に勝てないのです。ガラスの仮面を読めば、それって明白でしょ? 亜弓さんってかなり天才の領域に近づいた秀才だけれど、その隣に努力する天才がいるわけで、アレじゃあ勝負にならないよね。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 音楽ブログ 大人の音楽活動へ
にほんブログ村

2018年7月 9日 (月)

ヴィブラートとは何か?

 ヴィブラートとは、ヴァイブレーションの事。略せば“バイブ”って事で『振動』を指します。

 音楽用語としては、そもそもは“声の振動”を意味し、声に輝きと潤いを与えるものだと言われています。で、声のヴィブラートがあまりに美しかったので、各楽器もそれをマネて音に振動を与えるようになったわけです。

 ちなみに、楽器はそもそもがノン・ヴィブラートの音が基本ですから、ヴィブラートを“付ける”訓練をしますが、声の場合、そもそも声が自然に振動するものですから、特にヴィブラートの練習というのはしません。音楽ジャンル(女性歌手が少年歌手のパートを歌う必要があるジャンルなど)によっては、ノン・ヴィブラートで歌う必要あるので、そのためにヴィブラートを付けずに歌う訓練をするほどです。

 横道にそれますが、少年の声(ボーイソプラノなど)には、基本的にヴィブラートはかからないんですね。でも、成人女性の声にはヴィブラートがかかってしまうので、同じ音域(ほぼ)同じ声色であっても、少年と成人女性の声には違いがあります。

 閑話休題。ヴィブラートとよく混同されるものに“こぶし”があります。ヴィブラートが無意識に付加されるモノであるならば、こぶしは意識的に付加していくモノです。そういう意味では、楽器のヴィブラートは意識的に付加していくモノですから、歌の世界(日本の歌謡曲とか演歌の世界です)の“こぶし”に近いモノなのかもしれません。

 声のヴィブラートは、音程の振動を指します。ですから、低い声はゆったりとヴィブラートがかかり、高い声は小刻みにヴィブラートがかかっていきます。音程とヴィブラートの振動感覚というのは関連があるので、これを無視して作為的にヴィブラートを掛けると、違和感が生じ、汚く聞こえます。

 作為的…とは違いますが、結果的に不自然な振動を与えてしまい不快感を与えてしまうのが、いわゆる“縮緬ヴィブラート”と呼ばれるものです。これは声の老化の一種で、声帯周りの筋力低下に伴い、発声動作に痙攣が伴うようになり、そのために不自然な振動が声にかかってしまう事が原因だと考える人がいます。作為ではないので、本人には自覚はないのですが、ヴィブラートの振動が音程とは関係なくつけられているので、聞き心地が良くないのです。こうならないためには、歌う人は、ある一定の歌うための筋力維持というのが必要になるのだろうと思います。

 で、楽器のヴィブラートですが、ヴァイオリン等の弦楽器のヴィブラートは、声と同じ音程に振動を与えるヴィブラートですが、フルート等の管楽器のヴィブラートは、声とは違って、音量の変化によるヴィブラートで、厳密に言うと(管楽器のヴィブラートは)ヴィブラートと呼ぶべきではないのですが、他に呼び名がないし(声の)ヴィブラートの効果を目指してかけているので(管楽器のヴィブラートも)ヴィブラートと呼んでいいのだろうと思います。

 ま、そもそもヴィブラートは、声に輝きと潤いを与えるための技法であり、たまたま元祖である声は音程を揺らして効果を得ていたわけですが、音量を揺らして同じ効果を得られるなら、同じものと扱ってもいいんじゃないかって考えるわけですね。

 ヴィブラートは、いわば美しい楽音を作り出すための技法の一つであって、歌の場合は、正しい発声方法が身につけば、自然と身につくものであり、特に意識するものではないと思います。

 楽器の場合は、意識的に習得しないと身につかないものなので、ヴィブラート奏法ができるようになるためには、そのための特別な努力と修練が必要になります。弦楽器の場合は、ヴィブラート奏法は、かなり古い時代に一般的になってしまったため、ヴィブラートのない弦楽器の演奏音というのは今では考えられないので、たとえアマチュア奏者であっても、頑張って習得していかないといけないと思います。

 そこへいくと管楽器のヴィブラートは、これが奏法の中に組み込まれてきたのは、割と最近(フルートなら20世紀前半のモイーズから一般的になってきた…と私は聞いています)なのだそうで、近年の流行りと言えば、言えます。なので、管楽器のヴィブラートは、歌や弦楽器のヴィブラートとは異なり“マスト”なものとはまだまだ言えないと思います。ネットでは、初心者に毛の生えたくらいの人(ごめんなさい)がヴィブラートの習得に励む様子がよくアップされていますが、私が個人的に思うに、ヴィブラートに励む時間があったら、もっと基礎的な訓練に時間をかけて、まずはきちんとフルートが吹けるようになるのが先決だと思います。ヴィブラートはあくまでも、音に輝きと潤いを与えるための技法であり、いわばオプションですから、オプションを習得する前に“きちんと普通に吹けるようになる事”が前提になってくると思います。

 オプションよりもメインを先に身につけろよ…って話です。オプションはメインを終えてからで十分だろうって…事です。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 音楽ブログ 大人の音楽活動へ
にほんブログ村

2018年7月 5日 (木)

ト音記号しか読めません

 私、ここに告白します。

 実は私、ト音記号の楽譜しか読めません。へ音記号はもちろん、ハ音記号やテノール記号で書かれた楽譜は、ほとんど読めません。どうしても読まなきゃいけない時は、やむをえないので、事前に楽譜にカナを振って対応します(てへぺろ)。

 だってね、だってね。小学校で習った楽譜って、全部、ト音記号だったじゃないですか。まあ、小学四年生でアルトリコーダーを習った時に、ヘ音記号を使っていたような気もするけれど…私は、家が貧しくてアルトリコーダーを買ってもらえなかったら、アルトリコーダーの勉強をしてなくて、ヘ音記号の学習が欠落しているんだよね。

 大学の授業にピアノの実習があった時、渡された楽譜は大譜表(ト音記号とヘ音記号の2つのタイプの楽譜が連結されているタイプです)をいただいたけれど、その時は、左手部分(つまりヘ音記号の部分)は、思いっきりコードネームを書いて、コードで弾いていたので、ヘ音記号は読めずじまいでした。

 そう、私、ヘ音記号は読めませんが、コードでピアノが弾けるんですよ。技術的には指が動かないで、とても下手くそですが…でも、珍しい人でしょ?

 さて、社会人になって、合唱を始めたのだけれど、私は最初っからテノールだったし、入団した合唱団は、かなりマジ系のところで、オーケストラ伴奏の本格的な合唱曲ばかりを歌っていた団だったので、ここでもヘ音記号を学ぶチャンスがありませんでした。ほら、オーケストラ伴奏のマジ系の合唱曲って、テノールはト音記号で書かれているんだよね。これが邦人の作曲家が作ったピアノ伴奏の合唱曲だと、歌のパートは、大譜表に全部一緒に載っていたりして、そうなるとテノールはヘ音記号だし、各パートごとに譜面が分かれていても、テノールはヘ音記号で書かれていたりするのだけれど、私はそういう場で歌わなかったので、ここでもヘ音記号を学ぶチャンスがなかったわけです。

 で、老人になってから、声楽(ってか独唱)を始めたわけだけれど、オペラとか歌曲とかだと、やっぱりテノールはト音記号で書かれちゃうので、ヘ音記号に親しむチャンスがありませんでした。

 フルートも始めたし、ヴァイオリンもちょっとかじったけれど、この2つとも、ト音記号の楽器で、全然ヘ音記号には縁がないんだよね。

 と言うわけで、私。未だにヘ音記号に馴染めませんし、読めません。

 先日、某所で歌ったメサイアのハレルヤなんて、テノールの部分がヘ音記号で書かれていたのですが(びっくりです)、ヘ音記号なんて読めないし、どうせ歌そのものは、いつものアレだろうと思って、ざっくり楽譜を斜め読みして歌っちゃいました。

 やっぱり、ヘ音記号も普通に読めた方がいいんだろうなあ…と思うものの、なんか学ぶチャンスが無いし、使うチャンスも無いんだよね。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 音楽ブログ 大人の音楽活動へ
にほんブログ村

2018年6月28日 (木)

コンクール出場についての私感です

 春~夏のこの時期、各地で音楽コンクールが開催されています。私も、公開されているコンクールは、時間と場所の折り合いが付けば、なるべく見に行くようにしています。やはり若い才能は、見ていて微笑ましいですからね。

 で、コンクールというのは、その本質は、一種の品評会であって、これから市場に出ていく商品の市場出荷価格を決めるために行われるものであります。つまり、音楽コンクールに関して言えば、これらのコンクールに出場する人たちは、これからプロとして活躍をしようと志している若いプロの卵たちであって、玉石混交な彼らの中から、有能で優秀な若手を一人ないしは二人見出して、選別して、そんな有能で優秀な彼らの前途をサポートしていくのが、コンクールなのです。文字通りの“登竜門”として機能しているのが、各種音楽コンクールなわけです。

 とは言え、音楽コンクールも営利事業なわけで、プロの卵の品評会だけでは、その運営が成り立たないものもいくつかあります。なので、プロの部門以外に、アマチュア部門とか、愛好家部門とかも併設されているコンクールも多々あるわけで、今回記事にするのは、そっちのアマチュア向けのコンクールと、その参加者についてです。

 実は私、キング先生に師事していた頃は、先生から頻繁にコンクールに出場しなさいと勧められていました。

 どこのコンクールに出場するかは先生が決めるから、是非是非出場しなさいと言われていましたが、当時はのらりくらりと言い訳をして、結局出場しないままで終わりました。

 ちなみに、Y先生に移ってからは、コンクールのコの字もありません。

 なぜ当時、先生に強く勧められていたにも関わらずコンクールに出なかったのかと言うと、理由は3つありました。

 1)予選はたいてい平日に行われ、仕事を休んでまでコンクールに出場しようという熱意がなかったから。まあ、休日にコンクールが行われていたら、ひょっとしたら出場したかもしれませんが、コンクールって、本選はさすがに土日に行われる事が多いのですが、予選って、たいてい平日なんですよね。私、これでもサラリーマンの端くれでございますから、平日は休みが取りづらいのですよ。なので、コンクール参戦には積極的になれなかったわけです。

 2)伴奏者は自分で用意しないといけないから。まあ、現在なら、伴奏を頼めるピアニストさんのアテも複数ある私ですが、当時は伴奏を頼めるピアニストさんの知り合いなんて、プロアマ問わずいなかったのです。コンクールに参加するために、ピアニストさんを探すところから始めないといけないと思うと…憂鬱になったわけなんですね。

 3)自分に自信がなかったから、…と書くのが正しいと思いますが、当時の私は、その当時の自分の力量を割と正確に把握していたと思います。で、その力量から考えるに、コンクールに出場して、格付けされるにはまだまだ力不足だと認識していました。つまり、コンクール出場なんて、場違いだなあと思っていたわけです。この件に関しては、今の力量ですら、まだまだ場違いだと思ってます。コンクールの場で歌うには、明らかに、決定的に、絶望的なほどに、力量が不足していると思っております。なのになぜ、当時のキング先生は、あんなに私にコンクール出場を勧めてきたのか…全く分かりません。

 というわけで、私自身はコンクール出場に関して、考えたことはありますが、実行に移したことはないわけです。ま、覚悟ができなかった…んですよ。でも、だからと言って、他の方(特にアマチュア)の方々がコンクールに出場することに関しては、割とオープンマインドであったりします。

 と言うのも、コンクールって、プロとアマでは、その意味合いが全然違うからです。プロにとっては、コンクールに勝ち残るってのは、ある意味、一生をかけた大勝負なわけですが、アマチュアの場合、コンクールで優勝したところで、その日のお酒が美味しくなるくらいなもので、特に大きな実利はありません。逆に言えば、予選落ちを何度もしようと、その後の人生に特に大きな影響も与えません。なので、アマチュアのコンクール出場に関しては、当人の覚悟さえ決まるなら、気楽に考えてもよいのだろうと思ってます。

 アマチュアの場合、コンクールに出場しても大きな実利はないと書きましたが、そうは言っても、小さな実利はあります。それらは以下の通りです。

 1)勝ち残ると嬉しい。ま、そうですよね。

 2)講評がいただける。自分の歌に関しての他人からの冷静な批判って、なかなか言ってもらえないのが普通ですから、ちゃんとした専門家から講評してもらえるのは、良いことかもしれません。

 3)ホールでドレスで着飾って歌える。アマチュアさんの中には、なかなかホール演奏の機会のない人もいますし、ドレスで着飾って歌う機会のない人もいます。そういう人にとっては、コンクール出場って、貴重なホール&ドレスのチャンスなんですよね。

 と言うわけで、コンクール出場と言うのは、アマチュアにとって、全く無意味というわけではなく、これら小さな実利を大切に感じている人にとっては、大切な事なんだろうと思います。

 で、コンクール出場に関して、周囲に相談せず黙って出ちゃうという人が少なからずいらっしゃると聞きますが…これは、主に(悪い結果になったら)恥ずかしいから…なんだそうです。まあ、その気持ちは分からないでもないですが、たとえお友達には黙っていても、もし先生について学んでいるなら、事前に先生だけには相談しておいた方がいいですよ。と言うのも、あなたがコンクールに出場すれば、あなたには、必ず先生のお名前がついて回るわけで、先生にしてみれば、自分が承知していないところで自分の生徒がコンクールに出場して、あれこれ言われちゃうってのは、あまりうれしくない事だからです。だから、周囲の人には黙っていても、先生にだけは事前に相談してコンクールに出場した方がいいと思います。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 音楽ブログ 大人の音楽活動へ
にほんブログ村

2018年6月21日 (木)

私には音感はないし、これからも身には付かないでしょう

 言いたいことは表題の通りで、私には音感と呼べるものは無いし、これからも身につく事はないと思われます。でも、これは絶望的な事ではなく、オトナになってから音楽を始めた人たちに共通する普遍的な事柄だろうと思われます。

 よく音楽系のブログ等を見ていると、音楽をやる人間には音感が身に付いているモノという前提で書かれている事が多いです。音感が問題になるのは、その人が持っている音感が、絶対音感なのか相対音感なのか、そのどちらですかとか、そのどちらが優れていますなどであって、よもや音感の無い人間の存在なんて、口の端にものぼりません。

 そりゃあそうですよね。絶対だー、相対だー、と声高に言っている中で「実は私には音感はありません」…なんて告白、恥ずかしくて言えませんわな。もしそんな事を言い出したら、白い目で見られ、人間扱いされなくなるかもしれないしね。それに音感を持っている人間にとっては、世の中に音感の無い人間がいるなんて、想像できない事なのかもしれませんし…ね。だから、音感の無い人間の事って、話題に上がらないのだと思います。

 でもね、音感の無い人って、たくさんいると思います。なぜ、私がそう断言できちゃうのかと言うと、音感って、別に特殊な才能でもなんでもないからです。

 実は音感ってのは、記憶力なんです。だから、音感の有無というのは、乱暴に言っちゃうと、記録力の有無であるわけです。

 絶対音感は、音の高さ(周波数で測定できるアレね)をイメージとして記憶しているだけであり、相対音感とは、音階をイメージとして記憶しているだけのことなのです。

 音の高さのイメージを記憶しているので、どんな音を聞いても、その音の高さがイメージできるわけであり、音階をイメージしていると、どんなメロディーを聞いて、そのメロディーの音階が分かるので、そのメロディーを音階唱できるというわけです。音感の有無と言うのは、音の高さなり、音階なりのイメージを記憶していて、その記憶のイメージと現実に聞いた音とのマッチングが即座にできるかどうかの話なのです。

 記憶と言うのは、子ども、それも年齢が幼いほど、圧倒的に有利です。一説には、人間の記憶力は、ローティーンの頃がピークで、後はドンドン能力が劣化していくと言われています。脳神経的には、ハイティーンの頃から、脳内のあまり使われていない脳細胞が、不可逆的にグリア細胞に置き換わってしまうので、記憶力が低下していくと…と言われています。

 ま、そんな難しい話はともかくとしても、オトナになると、子どもの頃よりも圧倒的に暗記が苦手になる事は、どなたも体験的にご理解いただけているでしょうし、そのオトナだって、まだ青年時代ならともかく、中年を越え、初老を越え、老人になってしまうと、本当に記憶力が活性化されなくなるわけです。

 そんな劣化しまくった記憶力しかない年頃から音楽を始めた人(私なんかは、ずばりそんな感じですよ)は、なかなか音の高さであったり、音階のイメージであったり…なんてものを暗記していくのは、そりゃあ無理ってもんなんです。

 なので、音楽歴はそこそこあっても、残念な事に音感なんて、全然身に付いていないんです。

 だいたい、いつも脳みそに霧がかかっていて、少し前の事を平気で忘れちゃうようなオツムの持ち主に、音のイメージを覚えられるのかと言えば、それは火を見るよりも明らかであり、無理難題なわけなんですよ。

 自分に音感が無いのは、残念だなあって思います。でも、育った家が貧しくて、子どもの頃に音楽的な環境が無かったんだから、それはしょうがないのです。

 音感を持っている人には、音感を持っていない人の世界って分からないだろうなあって思います。常に、持っている者は持たざる者の悲哀は分からないものです、どんな分野であれ…ね。

 音感を持っていなくて、音楽は楽しめますよ。音感がなくても、美しい音楽には感動しますよ。と言うのも、音感ってのは、音の高さや音階のイメージを暗記しているかどうかってだけの話であって、音感がなくても、音楽が聞こえないってわけじゃないからです。ただ、今鳴った音の音名が答えられなかったり、音階の中でどの音に相当するのかが分からないだけであって、音楽のツヤや色気は分かるんです。

 ざっくり言えば、音感が無いと音楽を全体的に、いわばグロスと言うか、固まりやサウンドとして鑑賞しているわけであり、音感があれば、その能力に応じて、音楽を固まりではなく、分析的に聞くことができるというわけです。なので、音感が無い人は、音楽を理性で知的に捉えるのは苦手であるとは言えると思います。音感が無いと、どうしても音楽を感覚的情熱的に捉えがちですが、それ自体は悪い事ではないので、別に恥じ入る必要はないと思います。

 ただ、音楽を分析的に理解できる方が、より深く音楽を味わうことでできるでしょうし、演奏という音楽の再現行為に関しては、音楽をきちんと分析的に聞ける事は、かなり大切な能力である事は言を待ちません。

 私は思うに、音感の有無って、九九の暗唱の有無に似ているのかなって思います。

 九九の暗唱ができる人は、7×8は、即座に56であると答えられるし、間違えないけれど、九九の暗唱ができていない人は、7×8という数式を見る度に、7を8回足していって答えを求めていくわけですから、即答はできないし、たまに間違えてしまう事もある…って感じだろうと思います。九九の暗唱ができれば、即座に正確な答えが得られるのに、九九の暗唱ができないばかりに、いつも手間のかかる遠回りなやり方をせざるをえないし、それが間違えることも多々あるわけで、能力不足のために、いつも不安定なやり方が強いられているわけです。

 ちなみに、楽器をやる人は、たとえオトナから始めたとしても、音感の有無って、あまり意識しないかもしれません。特に、楽器で曲の音取りをしちゃう人は、楽器自体に音程のイメージが標準装備されていますので、あまり意識せずに済むかもしれません。それに基準音だって、チューナーを使えば、暗記している必要ありませんからね。

 でも、一部の楽器…自分で音程を作っているようなヴァイオリン属の楽器とか、歌(合唱であれ声楽であれ)とかでは、音感の有無を強く意識せざるをえない場面が多々あると思います。

 音感を持っている人が、楽譜を見て、即座に理解し、歌唱できるメロディーも、音感のない人は…おそらく…メロディーそのものを丸暗記して歌うことになるでしょうから、歌えるようになるまで時間がかかるでしょうね。丸暗記って大変だもんね。特に劣化した記憶力しか持っていない人がする、メロディーの丸暗記って、そりゃあ困難だもの。おまけに、音感の無い人って、楽譜も読めなかったりするから、まずは鍵盤楽器などで音取りをしたり、あるいは音取り音源の演奏を楽譜と首っ引きで見比べながら丸暗記しないといけないから、ほんと大変なんだよ。でも、好きだから、頑張るんだよね。好きじゃなきゃ頑張れないし…ね。

 結論。子どもの頃に音楽の専門教育を受けるチャンスのあった人たちにとって、音感は当然身に付いているモノであろうが、オトナになってから音楽を始めたモノたちには、音感という名の記憶のイメージは無い事が多い。音感が無いからと言っても、音楽鑑賞には困ることはない。また、多くの器楽演奏に関しては、音感が無くても、そう大きな問題とはならないが、一部の器楽と声楽では大きなハンデと成りうる。たとえハンデがあったとしても、音楽が好きなら、音感の無さを情熱を持って越えていこうとしていくので、音感を持っている方々は、ぜひ、そういう人たちを温かく見守って欲しい。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 音楽ブログ 大人の音楽活動へ
にほんブログ村

2018年6月20日 (水)

誰でも陥るスランプについて考えてみた

 スランプとは…大辞泉によると、次のように定義されています。

>心身の調子が一時的に不振になっている状態。また、実力が発揮できず、成績などが一時的に落ち込んでいる状態。

 音楽の演奏などで言えば「ついこの前まで、これくらいの曲は簡単にミスなく弾けたのに、なぜか最近はあっちこっちでミスってばかりいて、全然弾けない。ああ、スランプだー」って感じなんでしょうね。

 そういう経験、私にも無いわけじゃないです。でもまあ、最近は、そんな感覚とは、トンとご無沙汰ですがね(笑)。

 と言うのも、スランプに陥る人って、真面目なんですよ、真面目。真面目だからスランプに陥るんです。

 私も基本的には真面目人間です。だから、以前は、音楽の練習だって、毎日毎日数時間もやっていたし、毎日毎日少しずつ上達もしていました。その頃は、たまにスランプに陥っておりました。

 でも、最近は、人間は真面目なんだけれど、仕事等が忙しくて、ほとんど音楽の練習ができていないので、上達なんてするわけないし、いやそれどころか、下手になる一方で、前回できていた事が今回できないなんて、日常茶飯事なので、スランプなんて陥るはずがないのです。今の私が陥っているのは、単純に「練習不足」なのですから。

 閑話休題。で、真面目な人が陥りやすい思考パターンに「私はこれだけ努力しているんだから、日々上達して当たり前だろう」というのがあります。ま、努力は報われるはずだ…という強い信念ですね。私にも、そういう思考パターンはもちろんあります…が、オジサンなので、そればかりとも限らないという事実は人生で学びましたので、スランプからの回復は比較的早かったと思います(それでも、やっぱり何度かはスランプに陥りました)。

 まずスランプの原因ですが、案外多いのが、疲労です。そう、疲れちゃっているのね。真面目な人って、疲れていても練習するんですよ。頑張って練習するんですよ。確かに、筋肉筋力の維持という面で考えれば、疲れていても練習する必要はあるかもしれません。でもね、神経的…と言うか、学習的には、疲れていて集中力に欠けている時に練習しても、全然身につきません。疲れている時は前進できません。せいぜい立ち止まるので精一杯。いやむしろ、疲れから無意識に悪い癖が生じて、かえって後退してしまう事だってあります。そうやって、疲れから来る集中力の無さとそこから生じた悪い癖によって、今までできた事ができなくなって…ああ、スランプだ!となるわけです。

 もちろん、ここで言う疲労には、肉体的な疲労はもちろんだけれど、精神的な疲労ってのも入ります。肉体的な疲労と言うのは自覚しやすいのだけれど、メンタル的な疲労って、案外自分じゃ分からなかったりするんだよね。

 なので、疲労が原因のスランプ脱出の方法としては、とにかく休む。肉体的に休む事は当然として、メンタル面でも休む。でも、真面目な人って、休めないんですよね。だから、どんどんスランプ沼の深みにズブズブと入っていってしまうわけです。

 根が真面目だから、スランプから脱出できないんだね。

 「私、疲れてませんよ。いつでも心身ともに元気いっぱいです。でもスランプなんです…」と言う人もいますよね。そういう人って、私に言わせると、ちょっぴり傲慢なんですよ。その傲慢さがスランプの原因となっています。

 努力は報われる…と真面目な人ほど信じていますし、そうでないと、世の中不公平ですし、実際、長い目で見れば、確かにその通りなんです。でもね、短い期間で見ると、必ずしもそうとも限らないのです。

 音楽に限らず、なんでもそうなんですが、学習と言うのは、常に1次関数的に、努力と結果が比例関係にあるわけじゃありません。ある時は、グングン上達するけれど、ある時は長らく上達しないのです。これは多くの場合、努力と結果の関係が階段状になるケースが多いからです。

 つまり、普通の学習と言うのは、毎日毎日努力をし続け、その努力がある一定以上なされた時に、一気にブレイクスルーがやってきて、ドンと上達するけれど、一度上達すると、またしばらくはその状態をキープし続けるので、次のブレイクスルーに向けて、努力を積み重ねていかないといけないのです。ポケモンGOのレベル上げと一緒です。

 なのに、努力は報われると信じて疑わない人は、努力した分だけ上達しないと気持ち悪いし、努力しているのに上達しない自分にイラついているわけですね。

 でもね、努力は必要なんだけれど、短期的に見れば、努力は必ずしも報われるものではないのです。上達しなくても、努力を積み重ねていかなければならない時だってあるんです、次のブレイクスルーに向けて努力を貯めていかないといけないのです。

 でも、貯めていくという感覚が分からず、努力した分だけすぐに上達するべきだと信じているので“スランプ”を感じるのです。つまり、世界は自分の考えどおりにならないと許せないわけで、努力は常に上達に結びついていないとイヤなのです…つまり、傲慢なんですよ。

 と言うわけで、スランプの原因は、疲労か傲慢か、そのいずれか、その両方だったりするのです。

 だいたい、音楽をやっている人って、たいてい真面目だからね。努力は報われると信じているわけです。だから、一生懸命に努力をしていくわけです。その真面目さがスランプを生むわけです。

 でもね、真面目な人に「もっといい加減にやんなよ」なんていうアドヴァイスは無力ですからね。だから、スランプに陥った人は、みんな苦しむわけです。苦しんで苦しんで、疲労回復をするか、次のブレイクスルーがやってくるまで、苦しみぬくわけです。

 ま、昔の私もそんな感じでしたが…全くご苦労な事です。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 音楽ブログ 大人の音楽活動へ
にほんブログ村

2018年6月19日 (火)

なぜアウフタクトは難しいのか!

 ごく一般的な日本人が音楽をやると、あれこれ苦手なことがたくさんあるわけです。まあ、これはある意味、仕方ないのです。と言うのも、今の音楽って、基本的に西洋音楽であって、我々日本人のDNAの中には無い音楽ですから、あれこれ大変なのは仕方ないのです。

 まあ、それでも若い世代は生まれた時から、どっぷり西洋音楽に浸かって育ってきたので、苦手と言っても、さほど深刻な問題ではありませんが、オジサンオバサン世代だと、まだまだ日本的な伝統音楽の世界の中で生まれ育っていますので、なかなか西洋音楽は大変だったりするのです。

 例えば私などは、子どもの頃のダンスミュージックと言えば、まずは夏祭りの盆踊りだったし、今では教科書で学ぶようなわらべ唄を実際に歌って手遊びなどをしていたし、テレビやラジオから流れる音楽のほとんど、民謡や演歌が多く、西洋っぽい音楽と言えば、せいぜい歌謡曲ぐらいでしたが…その歌謡曲だって、どっぷり日本の音楽だったわけです。ジャズやラテンは、一部の酔狂者の好む音楽であって、全く一般的ではなかったし、まだJ-POPと呼べる音楽はなく、ロックもまだまだテレビからは流れてきませんでした。ようやく、フォークが異端的な音楽として、オトナたちにやっかまれながらテレビから聞こえてきたくらいです。学校の音楽の時間では、まだまだ普通に文部省唱歌が歌われていました。

 歴史的な視座から考えて見るならば、時期的には、昔々の純粋邦楽から、今の西洋音楽中心への移行期間だったようで、まだまだ色濃く、伝統的な日本の音楽の中で育ちました。

 子どもの頃、同世代の若い女の子たちの多くはピアノを習っていたけれど、お姉さんたちの世代は、三味線とかお琴を習っていて、それらが得意な人がまだまだ多かったです。実際、私も、ピアノよりも先に、お琴に親しんじゃったし、今でも簡単な箏曲なら弾けないわけでもないです。

 つまり、オジサンオバサンたち世代が育った頃の音楽環境は、今の子どもたちのそれとは、全然違っていたわけです。なので、我々オジサンオバサン世代は、今の若い人から見ると、信じられないような事が苦手だったりします。

 例えば、裏拍が取れないとか、3拍子のリズムが取れないとか、6/8拍子とかだと迷ってしまうとか、どうしても三連符では歌えないとか、三連符と8分音符が混ざるとお手上げだとか…。

 だって、そんなわけの分からないリズムは、日本の伝統音楽には無いからね。日本の音楽って、そんなに複雑なリズムは使っていないんだよね。だから、この手のモノは苦手でも仕方ないのです。

 以上の話題については、いずれ記事にしていくかもしれませんが、今回は別の話をします。

 今回取り上げるのは、アウフタクト。オジサンオバサンは、本当に死ぬほどアウフタクトが苦手だったりします。

 アウフタクトと言うのは、弱起とも言いますが、フレーズの開始が強拍ではない…と言うか、強拍の一歩手前の弱拍(ま、たいてい裏拍ですが)からフレーズが始まる事、それがアウフタクトです。

 若い世代の人でも、このアウフタクトが苦手という人はたくさんいるそうですから、もう、オジサンオバサンの手に余るのはしょーがないのです。

 試してみましょうか?

 お誕生日の歌“Happy Birthday”という英語の歌があるじゃないですか? とても有名な曲で、大抵の日本人は知っているでしょうし、歌った事があるんじゃないですか? 歌詞は以下のとおりです。

Happy Birthday to you.
Happy Birthday to you.
Happy Birthday, dear ******.
Happy Birthday to you.

 こんな感じです。さあ、手を叩きながらこの歌を歌ってみましょう(さすがにこれは誰でもできると思います。)

 では次に、手を叩きながら、拍子を取ってみましょう。この曲は3拍子なので「1,2,3,1…」と数えてもいいし、強く・弱く・弱く・強く・弱く・弱く…と手を叩く強さを変えてもいいと思います。そうやって、拍子を取りながら、この歌を歌ってみるのです。

 さあ、やってみましょう。

 …で、「1」の拍は、どの単語になりましたか? “Happy” ですか、それとも “Birthday” ですか?

 「1」が “Happy” なら、小節的には“/Happy Birthday / to you./”になり、強拍は“Happy”と“to”が当たります。

 一方「1」が“Birthday”になった人は、小節的には“Happy / Birthday to / you.”となり、強拍には“Birthday”と“you”になりますか。

 どちらが正しいかは…後者ですよね。お誕生日の歌なのですから、強拍に来るのは“Birthday”と“you”じゃないとね。“Happy”と“to”が強調されても「だから何?」って感じになります。

 いかがでしたか? “Happy”を「1」にして歌っちゃった人、たくさんいるんじゃないかしら? 私の子供の頃は、みんなみんな“Happy”を「1」にして歌ってました(笑)。それくらい、オジサンオバサン世代の人って、アウフタクトが苦手なんです。

 さて、なぜアウフタクトがこんなに苦手なのかと言うと、まあ裏拍が苦手と言うのもあるけれど「メロディーを強拍から始めないと気持ち悪い」という感覚があるからだろうと思います。逆に言えば、なぜ西洋人たちはメロディーを強拍から始めなくても平気なの?って疑問にもつながります。

 さっきの Happy birthday じゃないけれど、日本語って、大切な事を“いの一番”に言っちゃいたい言語であるのに対して、あっちの言葉って、大切な言葉が文頭に来ないことって結構あります。

 「美味しい」を“Yummy”と言うのは、まあ分かります。言いたい事が文頭(ってか一語文だけどネ)に来てるものね。でも「寒い」を“It's cold”って言われちゃうと、言いたい事が、日本語だと文頭なのに対して英語だと2語目に来るわけです。さらに言うと、英語の1語目の“It's”なんて、形式的な言葉で、意味なんてほとんどないし、聞こえなくてもいいや程度の言葉じゃない。そんなどーでもいいような語が文頭に来ちゃうわけです。我々からすれば、斜め上の言葉ですわな。で、これをメロディーに載せようとしたら、強拍に置くのは…“It's”じゃなくて“cold”の方だよね。つまり小節的には“It's / cold”じゃないと困るわけで、最初の“It's”はメロディー的には、自然とアウフタクトにならざるを得ないわけです。

 かくのごとく、英語を始めとする西洋語だと、形式主語とか前置詞とか冠詞とかのおかげで、アウフタクトが自然と成り立つのに対して、そういうモノが一切ない日本語では、メロディーは強拍から始めないと気持ち悪いという感覚が育ってしまうわけです。

 実際、西洋語の歌詞だと、アウフタクトがあっても、そんなに歌いにくくないけれど、その手の歌を日本語の訳詞で歌おうとすると、なんか違和感を感じて気持ちわるいなあって思うのは、やはり西洋語と日本語の違いから来るところが大きいと思うわけです。

 つまるところ「なぜアウフタクトが難しいのか」と言えば、答えは「我々の母語が日本語だからである」ってところでしょうね。

 日本語にはアウフタクトは似合わない…ってところなんだと思います。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 音楽ブログ 大人の音楽活動へ
にほんブログ村

2018年6月18日 (月)

音楽家ってのは曲芸師なのか?

 歌でも演奏でも、上手い下手というのは、当然あって、プロは上手で、アマチュアは上手くないというのは…まあ一部の例外を除けば、当然であるわけです。で、プロの中でも、とっても上手なプロと、そこそこ上手なプロと、まあ上手な人がいるわけです。

 世間的に評価の高いプロと言うのは、みんなとっても上手なプロなのかと言うと…まあ、だいたいそうだったりします。それどころか、客である素人は、上手なプロ同士を比較して、そこそこ上手なプロよりもとっても上手なプロに好意を寄せることが多いわけです…これまた、一部の例外を除いてね。

 じゃあ、とっても上手だったり、そこそこ上手だったり、まあ上手だったり…の“上手”ランキングの評価判断基準って何よ?って考えたことありますか?

 私、そのあたりについて色々考えてみました。

 例えば、情感豊かな演奏をする人は上手なのか? 確かに上手と言われるプロはたいがい情感豊かな演奏をしますが、だからと言って、情感豊かな演奏をする人はみんな上手と思われるのかと言うと、そうではありません。「あの人の演奏は、少しクサイんだよね」とか「心を込めるのはいいけれど、ミスも目立つんだよね」とか言われる事もあるわけで、情感豊かな演奏ができる事は大切な事だけれど、上手の基準とはちょっと違うような気がします。

 ミスのない正確無比な演奏をする人は上手なのか? 確かに上手だと思いますし、それに対して異論を唱える人は、たぶん、いないだろうと思われます。でもね、聞き手がピアニストとか指揮者とかの音楽業界人ならともかく、ただのクラヲタあたりだと、細かなミスなんて分からないから、ミスのない正確無比な演奏をしている人と、小さなミスはあっても堂々と演奏しちゃってる人がいたら、その両者の違いって、なかなか分からないよね。それに私なんて、演奏家のミスが分かっても、ミスをしたからダメとか思わないんですよ。演奏の良し悪しはトータルなモノと思っているので、多少のミスは減点対象(?)にしないので、ミスのない正確無比な演奏は理想だし、そうであるべきだけれど、それが上手がどうかの基準にはしないと思います。むしろ、プロである以上、ミスはなるべく少なくあって欲しいし、ミスが無い上に、演奏にプラスアルファがあって、初めて上手って思えるんだろうなあって考えます。

 では、そこに加わるプラスアルファって何…?って考えると…ハッタリ…かな? って思わないでもないです。ハッタリと言う言葉が悪ければ、アクロバティックな演奏? 聞いていて、爽快感を感じる演奏、カタルシスが解消されるような演奏。大向うをうならせる演奏、人々の気持ちをアゲアゲにしてしまう演奏、これらができる人ほど、上手のランクが上がっていくのではないかと思うのです。

 ある意味、こういうアクロバティックな演奏って、音楽の本質とはまるで関係ない事かもしれません。だいたい、なんでもかんでもアクロバティックにすりゃあいいってもんじゃないしね。でも、アクロバティックな演奏って、分かりやすいんですよ。

 それにヴィルトゥオーソと言う言葉もあるしね。派手な演奏って、高く評価されるし、素人な聞き手にも分かりやすいし、大衆的な人気も集めやすいしね。

 もちろん「あの人の演奏は、派手で技巧的なんだけれど、中身空っぽなんだよね」という批評もあったりなかったりするけれど、それって負け惜しみっぽく聞こえちゃうんですよ。と言うのも、たとえ中身が空っぽでも、派手で技巧的な演奏である事は認めているわけだし、派手で技巧的ならば、魅力的な演奏であるって言外で言っちゃっているわけだしね。魅力的だけれど中身空っぽ…いわゆる白痴美人(差別用語じゃないよね…大丈夫だよね…?)って事なんでしょうが、白痴であろうがなかろうが、美人は美人だよね。

 そう考えると、アクロバティックな演奏を得意とすればするほど、上手のランクの高い音楽家であると…ひとまず…言えるんでしょうね。

 …って事は、音楽家ってのは、つまるところ、曲芸師なんでしょうか…ね?

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村

2018年6月14日 (木)

習い事と言っても、そもそも子どもとオトナじゃ、あれこれ違う

 子どもの習い事ってのは、子どもへの投資です。本質的には、学校教育を補完するものであって、学校では習わないけれど、その子にとって必要な教育&技術を身に着けさせるために行うものです。

 子どもの習い事で人気の高いものと言えば、水泳とか英会話が挙げられますが、水泳は頑強で健康な身体作りが第一目標で、泳げる子になってもらいたい事(学校の体育の授業だけでは泳ぎの習得はなかなか難しいです)という親の願いがあり、もしも才能があるなら水泳を特技にして欲しいし、可能ならオリンピック選手を目指してほしい(笑)とかも考えていたりします。英会話は…これからの時代は、英語ぐらい話せるようになってほしい事(学校の授業で英語が話せるようになるのは、かなり厳しいです)が第一目標で、学校の英語の成績が向上する事も密かに期待しているし、それによって有名学校に進学してほしいし、将来的に可能ならば、世界を股にかけて活躍できる人間になってほしい事などの親の願いが詰まっています。

 つまり、子どもの習い事って、親の願いがまずあって、そこには(良い意味での)損得勘定があるわけで、その子にとって、得になるであろう事を、一生懸命に習わせようとするわけです。

 ピアノだって、そうでしょ? 心豊かな優しい子に育ってほしくて、情操教育の一環として習わせているわけでしょ? で、才能があるなら、コンクールを総ナメして、プロのピアニストになって欲しいなんて、夢を見て、ピアノ教室のドアを叩いちゃうわけでしょ! 

 ピアノを習っている以上、ピアノが上達するのは当然の話で、ピアノなんて上達しなくてもいい…なんて事を親はあまり考えないわけです。だから、子どもがピアノの練習をサボるのは許せないし、あんまりサボってばかりいるとイライラして「じゃあ、ピアノ教室をやめさせるわよ」とかの暴言をついつい吐いちゃうわけです。

 だって、子どもの習い事は投資だもの。資金投入した分は身について欲しいものなのです。お金をドブに捨てるようなマネはしたくないもの。

 一方、オトナの習い事は道楽です。消費活動です。単なるお遊びだったりするケースが大半です。

 上達するなら嬉しいけれど、そのために厳しい目に合うのは勘弁で、むしろゆるゆるで楽しく学びたいのが本音だったりします。それに上達したからと言って、今からプロになれるわけでもないし、お月謝だって自分で支払っているわけだから、自分がやりたければ続け、辞めたくなったら辞めればいいわけで、そのあたりもお気楽です。自分のお財布さえ許せば、費用対効果なんて考えなくていいので、必要な道具なんかは、バンバン大人買いしちゃうし、それでもったいないなんて、ちっとも思わないわけです。

 他人から見れば、お金を湯水のようにドブに捨てていたととしても、全然平気です。

 要は、習い事をしている自分が楽しくて幸せなら、それでいいんです。習っているモノが、音楽であれ、お料理であれ、英会話であれ…ね。オトナの習い事は、投資ではなく消費なんです。

 なので、子どもの習い事なら、その習い事がその子の将来にどんなふうに役立つのか、親なら必ず考えてしまいますが、オトナの習い事は、そのあたりの将来設計とかは無しで、時間的経済的に可能なら、後は本人が楽しんでいるかどうかだけが問題になってくると思ってます。

 なので、習い事という行いは同じなのですが、子どもとオトナでは、その本質が全然違うので、考える時は、そのあたりをきちんと把握して区別しておく必要があると思います。

↓拍手の代わりにクリックしていただけたら感謝です。
にほんブログ村 音楽ブログ 大人の音楽活動へ
にほんブログ村

より以前の記事一覧

フォト

↓参加しています

  • 人気blogランキングへ にほんブログ村 クラシックブログへ

アマゾンでどうぞ

アマゾンで検索

トラックバックについて

  • 2011年12月1日以降の記事において、トラックバックの受付を止める事にしました。それ以前の記事に関しましては、トラックバックの受付自体は継続いたしますが、承認公開制にさせていただく事にしました。また今までトップページに表示していました「最近のトラックバック」という項目の表示も止めました。よろしくお願いいたします。
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想
無料ブログはココログ

このブログは2007年8月14日から始めました

  • Copyright(C) 2007-2017 すとん