ひとこと

  •  サクラ…終わっちゃいましたね。で、サクラが終わると同時に、私の花粉症も治まってしまいました。サクラが終わるのは残念だけれど、花粉症が終わるのは嬉しい私でした。
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カテゴリー「音楽一般」の記事

音楽ネタだけど、ノンジャンルなものはここです

2017年3月22日 (水)

楽譜が読めない…?

 ネットを読んでいると「楽譜が読めない」という悩みをお持ちの方が大勢いらっしゃいます。まあ、私だって程度の差こそあれ、読める部類には入らないかな…?って思ってます。単旋律の簡単な楽譜を見て初見で歌うくらいはできますが(つまり、声楽やフルートの譜なら、かろうじて読めるって程度ね)、それだってちょっと込み入ってくると初見では厳しいし、楽器やメトロノームの助けが必要になってくる事もあります。また、ピアノやオルガンのような二段譜とか、合唱とか弦楽四重奏とかオーケストラなどの多段譜は全く手が出ません。だいたいヘ音記号なんて全然読めないし…。

 で、それで困っているかと言えば、特に今のところ困っていません。だから、とりあえず、今の程度楽譜が読めれば、まあいいかと思ってます。

 要するに、私の場合、その程度、楽譜が読めれば困らないし、逆に言えば、その程度の楽譜が読めないと困るのです。困るので、そこまでの読譜力が身についた…とも言えます。

 なので、楽譜が読めないとお悩みの方は、今、楽譜が読めない事で何が困っているのかを考えてみる必要があります。

 と言うのも、音楽の種類によっては、必ずしも楽譜が読めないとダメなんて事は無いからです。楽譜が読めないと困る音楽もあれば、楽譜不要の音楽だってあるわけで、自分がやっている音楽ばどちらなのか? また読めなきゃいけないにしても、全員オーケストラ譜が読める必要は無いのですから、どんな楽譜をどの程度まで読めなきゃいけないのか、そこの見極めが肝心です。

 ざっくり言っちゃえば、楽譜が読めないと困るのは、クラシック系の器楽曲と、学校の音楽の授業ぐらいでしょ? クラシック音楽でも歌系だと(プロでも)口移しで勉強している人は(特に海外だと)たくさんいるようです。国内国外問わず、アマチュアだと、相当多数の人は音楽を耳で覚えるんじゃないかしら。ならば、楽譜はそんなに読めなくても困りません。ポピュラー音楽の人は、原則、楽譜は使わないので、読める必要はありません(読めないよりは読めた方が便利とは言えます)。

 何はともあれ、読めなければいけない楽譜は読めるようにしましょう。でも、読めなくても良い難しい楽譜を読めるようなるために時間をかけて勉強する必要があるなら、人生は有限なのだから、その分の時間を別の事に使う方が良い…と私は考えます。

 できなきゃいけない事をきちんとできるようにする。楽譜を読むことだって同様です。必要ならば、きちんと勉強して楽譜を読めるようにする。読めなくても困らないなら、別に焦る必要はありません。それでいいじゃん。

 実際、ポピュラー音楽だと、一流のプロでも楽譜が読めない人ってたくさんいます。だって、読める必要がないもの。

 有名な話ですが、ビートルズの元メンバーであるポール・マッカートニーは、楽譜の読み書きが出来ないので、オーケストラから依頼があって、オラトリオを作曲した時に、彼は音楽を作る事はできるけれど、それをオーケストラの人たちが演奏できるような楽譜に書くことは出来ませんでした。なぜなら、彼は作曲した曲を、クチ三味線でメンバーに伝えてバンドサウンドを作っていたからです(ポピュラー音楽ではごく普通の事です)。

 ですから、ポールが作った音楽をオーケストラの人に分かるように楽譜に書き起こす必要がありました。そこでポールは、自分の音楽を楽譜に書く係として、クラシック系の作曲家であるカール・デイヴィスにお願いして作業を始めたら、完成した時には、いつのまにか共作者になっていたんだそうです。ポール曰く「彼は私の音楽を書き留めただけ」なのに、共作者として分前の半分を持っていってしまったわけで「ビジネストラブルが生じた」んだそうです。

 それに懲りたポールが、次作以降のクラシック作品の作曲では、他人と一緒に仕事をしない事にしたんだそうです。じゃあ、ポールは楽譜の読み書きを勉強したのかと言えば、答えはNOで、彼はその後は、ピアノとコンピューターを繋いで、彼がピアノで弾いたフレーズをコンピューターが楽譜に起こして、出来上がった楽譜を、コンピューターが音にしたものを聞いて修正するという手法でクラシック系の曲を作曲するようにしたのだそうです。そんなやり方で、ポール・マッカートニーは、数曲のクラシック系のピアノ曲やオーケストラ曲を作曲しているわけです。

 今では、クラシック系の音楽も普通に作曲しちゃうポール・マッカートニーだけれど、彼はいまだに楽譜の読み書きはできないんだそうです。だって、出来る必要がないんだからね。

 彼のような例もあるわけだから、必要最低限の楽譜が読めることは必要だろうけれど、それ以上は不要であると私は考えるわけです。

 実際、私が簡単な単旋律の楽譜が読めるようになったのは、必要にかられてです。

 歌しか歌っていなかった頃は、ほとんど楽譜は読めませんでした。だって、歌は耳コピーで勉強できるからね。きちんと楽譜が読めなくてもなんとかなりました。しかし、フルートは違います。フルートを耳コピーで演奏するのは、私には難しいです。やはり楽譜を頼りに演奏するしかないわけで、そうなってくると、必然的に楽譜が読めるようになってくるわけです。

 また、今やっているフルートのレッスンのうち、エルステユーブンゲンの学習は、このテキストを学ぶ事で自然と楽譜が読めるようになるので、それで私の読譜力が上がってきたというのもあります。

 なので、楽譜が読めないとお嘆きの方は、本当に楽譜が読めないと困るのか、もし困っているのなら、困っているのに読めないのはなぜか?…と考える必要があるわけです。

 実は楽譜が読めない事がコンプレックスであるけれど、でも読めない事で困っていないのなら…おそらく楽譜が読めるようにはならないと思います。楽譜が読めないと困る人…例えば、吹奏楽とかアマオケとかをやっている人は、すでに楽譜は読めるだろうから、楽譜が読めない事で悩む事なんて、ありえないと思うわけです。

 つまり楽譜が読めないと悩んでいる段階で…まあ、楽譜は読めないよりは読めた方が良いに決まってますが…楽譜が読めなくても、何とかなっているんだと思います。

 特に歌関係は、音源を聞いたり、音取りCDなどの世話になれば、楽譜はちゃんと読めなくても何とかなりますからね。何とかなっているなら、それでいいじゃんと私は考えます。また、ポピュラー音楽系の人は、基本(プロでも)耳コピーですから、楽譜が読めないと悩む時間があったら、耳コピーの精度を上げる方が大切だろうと大切だと思うわけです。

 結論 楽譜が読めないと悩むのはやめよう。読めないのは、読めなくても困っていないからです。もし本当に楽譜が読めないと困るのなら、とっくの昔に、楽譜は読めるようになっているはずだからです。

 でしょ?

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2017年3月21日 (火)

私は『カラオケ★バトル』が大好き!

 最近、な~んとなくハマっているテレビ番組があります。それはテレビ東京系列で放送されている『カラオケ★バトル』でございます。もっとも“ハマっている”と言っても、レギュラー放送を毎週おっかける程のファンではなく、たまに放送されるスペシャルだけを見ているという、なんとも中途半端なファンでございました。

 …と言うのも、私が好きなのは、いわゆる色々なジャンルのプロの方々がカラオケという同じ土俵同じルールで競い合うのが好きなのであって、別に子どもののど自慢やカラオケ自慢のアマチュアの歌は、どちらかと言うと苦手だからです。まあ、偏見なんだけれどね。

 同じ歌と言っても、クラシック声楽やポピュラーソング、ジャズや民謡や演歌じゃあ、それぞれ発声方法も違えば、歌のテクニックも違うわけです。本来は同じ土俵に上げちゃいけないくらいに違う歌なんだけれど、それらを無理やり同じ土俵に乗せて、統一したルールで格付けしちゃうわけだから、これが面白くないわけないです。

 いわば、格闘技で言えば、何でもありの総合格闘技みたいなものだからね。これが面白くないわけないんです。元関取対キックボクサーとか、空手家対プロレスラーとかね。ほら、ワクワクするでしょ?

 だから私は上手なプロたちが競う『カラオケ★バトル』が好きなのであって、子どもやアマチュアの歌を好まないのは、彼らはいわば“カラオケ”という同じ競技の中で戦っているからです。彼らの歌にはバックボーンの違いもなければ、テクニックのバリエーションも無いからね。ただただ、カラオケの上手さを競っているだけでしょ? それは私の好みとは違うのです。

 で、ジャンルの違う、本来ならば交わるはずのないプロ歌手たちを判定する統一ルールってのが、カラオケの精密判定ってヤツです。つまり、機械判定ね。人間の好みや感情やしがらみなどが一切加わらない、極めてフェアな判定方法です。だからこそ、ジャンルの違う歌手たちの判定ができるわけです。

 この機械による判定って、フェアと言えばフェアだし、極めて公平なんだろうけれど、聞いていて、かなり不満が生じるのも事実です。と言うのも、人間が判定していたら、低評価になってしまうだろう歌が高評価となり、逆に人間が聞いていたら、つい高い点を付けてしまいそうな歌に低評価(と言っても、番組に出てくる人たちは皆、超人的な高得点を取るので、その中での低評価であって、世間的には十分高評価なんだけれど…ね)を平気で付けてしまう事が解せないと同時に「機械で判定すると、こうなるんだなあ」と妙な納得をしてしまうわけです。

 機械は、音程とかリズムなどの正しさとか、適度の抑揚や歌唱テクニックの有無などをうまく聞き分けて採点しているようです。まあ、測定して数値化できるモノを採点しているわけです。でも、歌の要素には測定できない要素も結構あって、そういう要素はカラオケの精密判定からは除外されてしまうのですね。

 それは声の美しさであったり、滑舌の良さであって、エモーショナルな歌い方であったりする部分です。これらの要素は、人間が歌の上手さを判定する際には、かなり重要視される部分だけれど、機械で測定できない要素ですから、カラオケ★バトルでは、すっぽり抜け落ちてしまっていると思います。

 だから、聞いていて聞き苦しい声であっても高評価だし、感情のあまり入らない棒歌いであっても高評価を受けるわけです。そこらヘンは機械判定の限界かなって思います。でもまあ、すべてのジャンルの歌に通用する万全なルールなんて有り得ないのだから、今のカラオケの精密判定で、とりあえずは十分ではないかとも思っています。

 後、テレ東のマイクのシステムが、あまりに放送局ぽくって残念だなあと感じる時があります。特に、クラシック系の歌手の歌声がほとんど拾えていないのが残念。過入力で声が歪んでつまらない音色になっていたり、声の中に含まれている高い倍音(いわゆる、シンギング・フォルマントってヤツね)がほとんど拾えていなかったり、スタジオで生で聞いたら素晴らしいだろうと思われる歌声が、テレビだとやせ細った声でしか聞けないのは、放送だからだろうけれど、せっかくのハイビジョンなんだし、音声だって、もう少し高品位なモノで放送してくれたら感謝だよね。まあ、カラオケ★バトルはバラエティ番組だからね。マジな音楽番組、とりわけクラシック音楽番組レベルのものを要求してはいけないのだけれど、でも何とかならないからなあ…とは思うわけで、ちょっぴり残念です。

 でも、この番組、大好きですよ。ほんと、面白いです。

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2017年3月15日 (水)

ピアノはなるべく早めに辞めさせた方が良い

 ピアノは、子どもの習い事としては、代表的な存在だと思います。水泳、英語・英会話に続いての、堂々第3位にランキングされる(こちらのサイトを参照しました)くらい、ポピュラーな習い事だと思いますし、実際に多くの子どもたちが、街のピアノ教室でピアノを学んでいると思います。

 4位や5位の体操や学習塾(つまり勉強だね)まで含めて考えても、ピアノって、ちょっと異質な存在だと思います。

 ピアノって、異様にハードルが高くないですか?

 水泳にせよ、英会話にせよ、体操にせよ、達成感を得るというか、ひとまずのゴールにたどり着くと言うか、ざっくり言えば「泳げるようになった!」とか「(その年令なりに)英語が話せるようになった!」とか「体操得意になった!」と言えるまでにかかる期間と、「ピアノが弾けるようになりました!」と言えるようになるまでの期間が違いすぎるような気がするのです。

 一例を上げれば、水泳なら、子どもが息継ぎを上手にして25mを泳げるようになったら、ひとまず「ボク、泳げるようになったよ!」と本人も思うし、親だって喜べるわけです。

 で、この25m泳げるようになる期間を考えるなら、個人差はあるにせよ、小学生くらいならば、早い子で数日から1~2週間ぐらい、普通の子で1ヶ月ぐらい、遅くとも3ヶ月も水泳を習っていれば、大抵の子は25m泳げるようになるようです。3ヶ月を過ぎてもまだ25m泳げるようにならない子は…泳げないまま水泳を辞めてしまうか、数年間頑張ってやっと泳げるようになるようです。そう、たった25mであっても、泳げるようになるまでに数年かかってしまうわけです。

 つまり、水泳ならば、3ヶ月とか半年習えば、その子が泳ぎに向いているかどうかが分かるわけで、そこから先は、本人の意思や家庭の経済事情で決めればいいのです。場合によっては、方向転換だってありです。人間、泳げなくても死にません。才能、あるいは適性が無いのに、時間とエネルギーを費やして、何も得られないよりは、その子の才能が発揮できる別分野のモノに時間とお金を使えばいいのです。

 これは水泳に限らず、英会話だって、体操だって、3ヶ月とか半年とか習えば、だいたいその子の適性は分かるものです。適性が無いのなら、もっとその子を活かせる道を親子で探すべきです。

 たかが3ヶ月と考えてしまうでしょう。たった3ヶ月で何が分かるんだってね。

 確かに、オトナにとっての3ヶ月とか半年なんてのは、ごく短い時間ですが、子どもにとっての3ヶ月とか半年って、実はかなり長い年月なんですよ。

 例えば、8歳の子(小学校3年生)にとっての3ヶ月と言うのは、人生の1/32の期間にあたるわけです。これを50歳のオトナの人生に換算すれば、約19ヶ月…1年半強の時間に相当するわけです。1年半って、そんなに短い期間じゃないし、適性を判断するには十分な時間でしょ?

 ここで問題なのは、水泳や英会話や体操なら3ヶ月とかせいぜい半年とかで、その子の適性が判断できるとしても、ピアノは3ヶ月とか半年とかで適性が分かるものなのか…って話です。

 ピアノって、ある程度弾けるようになるまで…、つまり、本人も親も「ピアノ? はい、弾けますよ」と即答できるようになるまで…って、たぶん時間がかかるんじゃないかな? 小学校入学と同時にピアノを始めて「部活が忙しい」とか「勉強が大変」などの理由で中学に入る頃にピアノを辞める子が多いと聞きますが、この子たちが、ピアノを弾けるようになってから辞めたのか?…と言えば、かなり厳しいんじゃないかな? 6歳から始めて12歳までのピアノを習っていたと言う事は、12歳の子にとっては、人生の半分の時間を費やしてピアノを学んでいたわけだけれど、人生の半分を捧げたにも関わらず、ピアノから、それにふさわしいだけの見返りを受け取ったのかと言えば…バッチリピアノが弾けるようになった子もいるだろうけれど、いやいや全然弾けるようにはならなかった子だって、たくさんいるわけで、そんな子にとっては、ピアノに費やした時間を、もっと適性のある別の事に使って、本来持っている才能を開花するチャンスが逃してしまったとしたら、それは不幸でしかないわけです。

 ピアノは習得に時間がかかります。ほんと、ピアノはある程度弾けるようになるまで時間がかかる、ある意味、厄介な芸事です。その子に才能や向上心があるなら、多少時間がかかろうが、最終的にはモノにするでしょうから良いとしても、そうでないのなら…例えば、明らかに適性も才能もないのに、親の見栄のためとか、子守代わりにピアノをやらせているのなら、なるべく早めに辞めさせた方が良いと思います。特に子どもがピアノに大した興味もなく、ただ惰性で習っているだけなら、今すぐにでもピアノは辞めさせた方が良いと思います。

 習い事なら他にもたくさんあるわけだし、ピアノ以外に、その子の適性や興味にあったモノがあるはずです。

 ピアノを長い間習って、でも結局ロクに弾けるようにならなかった子なんて、掃いて捨てるほどいます。

 実はウチの息子君がそう。小学校入学から中学校卒業まで9年間、まあ、そこそこ真面目にピアノをやったけれど、全く弾けるようにはなりませんでした。小学生の頃は、音楽大学に行きたいみたいな事を言ってた子だし、歌は人並み以上に歌えるから、音楽の才能が無いわけでは無いと思うのだけれど、ピアノの才能が無かったんだと思います。

 しかし、15歳でピアノを辞めるまで、人生の半分以上の時間をかけてピアノを彼なりに頑張ったわけだけれど、結局、ピアノは弾けるようになりませんでしたし、本人に「お前、ピアノ弾けるだろ?」って尋ねると「弾けるわけないじゃん!」と強く否定するほど、何の達成感もピアノからは得られなかったわけです。

 ほんと、息子にとって、ピアノを習ったていた事は、人生の浪費だったかもしれないし、親のフトコロ的には明らかに大きな損失でした。

 まあ、親としては、息子を見ていて、3~4年生あたりで「こいつ、ピアノの才能、無いな」と見切ったのですが、本人がぜひピアノを習い続けたいと言い張ったので、中学卒業までヤラせたのだけれど、やっぱりモノになりませんでした。才能がないヤツは、いくら頑張ってもモノにはならないね。

 まあつまり、私が息子のピアノの才能を見限るまで、3~4年かかったというわけです。息子は水泳も習っていたし、こっちも全然才能が無かったのだけれど、まあ半年ほどで見限って、1年習って、やっと25m泳げるようになった所で辞めてもらったけれどね。ほんと、ピアノは水泳と違って、習得にも見限るに時間がかかる厄介な芸事だと思います。

 だから「ああ、こりゃダメだ」と思ったら、できるだけ早期にピアノを辞めさせて、次に駒を進めるのが、子どものためだと私は思います。ウチの場合、ピアノを切り捨てるのに、ちょっと時間がかかってしまって、それで次に進めさせてあげられなかったのが、親として心残りです。他にも試すべき事は色々あったのにね。まあ、救いは、歌の才能を見つけてあげられた事…かな。歌は今でも歌ってますし、コンスタントに舞台もやってます。プロにはなって欲しくないけれど、人生の彩りとして歌えることは彼にとって幸せだろうと思います。

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2017年3月14日 (火)

練習は無理強いするべきなのか?

 よく話題になるのが『ピアノを習っている子が全く練習しない』ってのがあります。これはある意味、自然な姿であって、自分から率先してピアノの練習をする子は、本当にピアノが大好きなのか、ピアノしか楽しみがない子なのか、あるいは親の顔色をうかがえるだけの知恵のある子なのか、ただの変人なのか…まあ、そんなところでしょう。

 今の世には娯楽がたくさんあります。一方、時間には限りがあるわけで、今時の子どもたちは結構忙しい毎日を過ごしているわけで、自由に過ごせる時間なんて、案外少ないわけです。その少ない時間に、ピアノの練習をしないといけないと分かっていても、ついついテレビ見たり、マンガを読んだり、友達と無駄話をしたり…なんて、しょーもない事に時間を使ってしまうのが、普通の健全な子どもなんです。だから、ピアノを習っているのに練習しない子がいても、それはピアノがキライというわけではなくて、ただ優先順位的にどうしてもピアノの練習が後回しになってしまい、練習がなおざりになってしまうというだけの話で、これは普通にあるわけです。

 でも、親としては、それはダメですよね。月謝払ってピアノ習わせているのに、練習をちっともしなかったら、なんか月謝がもったいないような気がするし、第一、母親ってのは子育てに真面目な方も多くて、そんな我が子のちゃらんぽらんな姿を見ていると、言い知れない怒りがフツフツと湧いてくるようです。

 で、怒り心頭し、子に練習を無理強いしてしまうわけです。

 子どもにも色々なタイプの子がいます。言われて始めて気がついて「ああ、そうだ。私はピアノの練習をしなければいけないんだっけ」と思い出して、いそいそと練習を始めるタイプの子もいるでしょう。そういう子に練習をしなければいけないと伝える事は必要な事です。でもね、単純に、優先順位の問題でピアノが後回しになっている子に対して、練習を無理強いすると言うのは、要するに、その子の優先順位を強制的に変更させる事であって、そんな事が度重なれば、子どもの中に不満やストレスが溜まっていきます。

 直接的に反抗的な態度に出る子もいるでしょうし、面従腹背な子もいるでしょう。どちらにせよ、ピアノを習っているために嫌な思いをするわけですから、強制的に練習をさせ続けていたら、やがてピアノ嫌いな子になるだけです。それじゃあ、本末転倒です。

 要は“強制”とか“強いる”とかがダメなわけで、練習そのものを子にさせる事は、ピアノを学んでいる以上、必要だし大切だと思います。

 ではどうするべきか? 待っているだけじゃ、子どもって絶対に練習を始めません。

 一つの方法として、生活の中に練習を組み込むのは、いかがでしょうか? 例えば、学校から帰ってきたら、まずはピアノの練習をして、次に宿題をして、それから遊びの時間が始まるとか…、ピアノの練習をしてからオヤツにするとか…、毎日午後5時になったら必ずピアノの練習をするとか…。ピアノの練習をそういう生活習慣の中に組み込むというのはいかがでしょうか?

 あるいは、子どもが遊びで夢中になっていてピアノの練習を始めないなら、親が楽しくピアノを弾き始めてしまうというのはいかがでしょうか? 特に幼い子どもは、オトナが楽しげにしていると、それ自体に興味を持ってやってきますから、やってきたところでピアノの練習を始めるという手もあります。

 それでもピアノの練習をしてくれない子もいるでしょう。そんな子を見ると、親もイライラしますが、ピアノの練習って、毎日しないといけないのでしょうか? 別に職業ピアニストになるわけじゃないのなら、毎日練習しなくても大丈夫でしょ? もちろん、練習しなければ上達しません。これは仕方がないです。ピアノのレッスンは、その子のペースで行うしかないと思いますよ。

 普通の子なら、ずっとずっと練習をしないままって事は、たぶん無いと思います。子どもにも良心がありますから、あまり練習をサボっていると、なんか悪い気がしてきて、そのうちに練習を始めるものです。それでも一向に練習をしないのなら…ピアノが向いていない子なのかもしれません。それはそれでまた別の問題ですね。

 とにかく、子どもに練習を無理強いしても、良い事は一つもありませんから、無理強いはするべきではないと思います。

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2017年3月13日 (月)

習い事の先生に求めるモノを明確にしましょう

 今週は、オトナも子どもも含めて、習い事について考えてみたいと思ってます。で、まず最初のお題は「習い事の先生に求めるモノを明確にしましょう」です。

 子どもにピアノを習わせたいとします。もちろん、子ども自身が「アタシ、ピアノを習いたい」と言ってくる場合もあるでしょうし、そんな気配は微塵もなく、単純に親が我が子にピアノを習わせたいと思って始めさせる事もあるでしょう。

 とにかく、始めるとなったら、先生探しをするわけです。で、先生が見つかれば、そこに子どもを預けるわけですが…実はそこでミスマッチが起こることって、たびたびあるんですよ。

 教室の方針と言うか、先生のピアノに関する考え方に、親として同意できているでしょうか? 子どもの教育って、教室だけでは完結しないし、親だけでも成り立たないし、両者の協力体制があって始めて成り立つわけです。その点で合意してますでしょうか? 教室側の方針に徹底的に従っていく覚悟が親側にあるんでしょうか?

 もちろん、習い事を始めるに際して一番大切なのは、ピアノを習う本人の意思ですが、今回はこれを横に置いておくことにします。すると、次に大切なのは、親が習い事に対して何を求めているか…となります。教室の意向だとか先生のピアノに関する考え方なんて、その次の次です。この順序を間違えると、互いの不幸になります。

 で、我が子をピアノ教室に通わせるとします。その時に親は、何を一番に求めていますか? 『我が子を将来世界的なピアニスト…いやいや、そこまでは求めないけれど、少なくとも職業ピアニストにしたい』ですか? 『ピアノ教室は結婚して家庭に入ってもできるから、手に職を付けるという意味で、将来はピアノ教室でも開ける程度になって欲しい』とか考えてますか? あるいは『私たちの子どもだから、勉強が得意にはたぶんならないだろうけれど、でも大学には行って欲しいから、将来の進路の一つに音楽大学を加えるために、今のうちからピアノぐらいは弾けるようになって欲しい』ですか? さもなければ『夕方の忙しい時間、テレビばかりに子守をさせるのも不憫だから、ピアノを習ってピアノの練習をして時間を潰してくれると親として助かる』ですか? 『将来、特技の一つとしてピアノがあってもいいし、楽しみとして音楽に関われる子にしたい』でしょうか? もっと簡単に『近所の子たちもみんなピアノ習っているし、ウチの子もそろそろかな?』ですか? 案外『私、子どもの頃、ピアノを習いたかったのに、習えなかったから、ウチの子にはピアノを習わせたい』でしょうか?

 どれも子どもをピアノ教室に通わせるには、必要にして十分な理由だと思います。

 でもね、ならばその願いを叶えてくれる先生の所に子どもを通わせないとダメですよ。親の願いと先生の教育方針が合っていないと、ほんと不幸になりますって。

 最初の『子どもを職業ピアニストにしたい』と言うのなら、習い始める前に、その事を先生に伝えないといけません。と言うのも、すべての街のピアノ教室の先生が、教え子をプロとして鍛えることができるわけではないからです。先生本人の力量の問題もあるし、その先生が次に紹介できる先生(職業ピアニストにするのなら、子どもの上達に応じて、先生をグレードアップしていく必要があります)にだって限度があります。

 ですから『ウチの子は将来プロのピアニストにしたいのです』と最初に先生に伝える必要はあります。親として、その先生の反応を見て、子どもを預けるべきか否かを考えないといけません。ある意味、子どもの人生を預けるわけですからね。そこは妥協してはいけないと思いますよ。

 『ピアノ教室を開けるといいな』とか『音大進学への選択肢を子どもに与えたい』は、音大進学を目指すという点において同じ事だと思います。

 こういう事を考える親御さんって、自分やその周辺に音大卒業生がいない事が多いのだと思います。と言うのも、音大出身者を身近に見ていたら、こんな事を思うはずないもの(笑)。

 まずはピアノ教室の職業としての可能性とか、音大卒業生たちの大学卒業後の進路とか、音大進学にかかる経費などを、ザックリでいいですから、調べてみるといいですよ。きっと驚きますよ(笑)。世の中、そんなに甘くないし、音大なんて庶民の子が行ったら、大変な事になるって事が分かりますよ。まあ、そんな現実(茨の道ですよぉ~)を知って、それでも我が子に音大進学をさせたいと願っているなら、ピアノの先生に『ウチの子は将来音大に行かせたいのです』と伝えてください。で、その先生の反応を見てくださいね。

 『子守としてピアノ教室に通わせたい』と『ピアノを将来の特技の一つにできたらいいな』の二つは、ピアノを教養の一つとして学ばせたいという点において同じ事です。これらの願いで子どもをピアノ教室に通わせようと思っているのに、教室の方針がスパルタだったら…ダメですよね。だからと行って「子守代わりにピアノを習わせようと思ってます」なんてことを先生に言っちゃダメですよ。ピアノの先生なんて、たいてい真面目人間ですから、そんな事を言ったら、たぶん怒り出します。

 でも教室を見学させてもらったり、体験レッスンを受けたり、その先生に習っている先輩の子たちを見ていると、だいたい分かるものです。大切なのは、その先生に母性(あるいは保育者としての適性)があるか、円満な人格の持ち主であるか、一般的な社会常識を持っているか…です。はっきり言っちゃえば、ピアノの腕なんて二の次三の次で十分です。子どもに優しく寄り添ったレッスンができ、親とも普通にコミュニケーションが取れる先生なのかどうかが大切ですよ。案外、そこらへんがダメな人がピアノ教室をやっている事って…たまに?…ありますからね。つまり、親としてその先生に安心して子どもを預けられるかどうかです。そこの見極めは親として大切ですよ。

 『近所の子が習っている』 …良いきっかけだと思います。出来るならば、その近所の子たちが習っている先生のところで習えるといいですね。生徒が集まる教室には“何か”があるんです。その“何か”は教室ごとに違うでしょうが、その“何か”が魅力的だから生徒が集まるのですから、その“何か”のために自分の子を通わせるのは、ありだと思います。

 『親である自分がやりたくてもできなかったからピアノを習わせたい』 理由としてはダメではありませんが、習わせる前に必ず子ども本人の意思確認は必要でしょう。あなたがピアノを習いたかったように、子どもも実はピアノが習いたいのかもしれません。それならば渡りに船です。しかし、子どもはあなたではありません。あなたが子ども時代にピアノを習いたかったからと言って、あなたの子どもがピアノを習いたいとは限りません。もしかすると、水泳をしたいのかもしれないし、英会話を習いたいのかもしれません。あなたが習いたくても習えなかったのだから、あなたのお子さんも本当に習いたいものをやらせるべきであって、それがピアノとは限りません。そこは注意しましょう。

 それにあなた、子ども時代にピアノが習いたかったんでしょ? 今はどうなんですか? その夢、子どもに託す前に、自分で叶えてしまうのは…ダメですか?

 今の時代、オトナの習い事も珍しくありませんよ。そんなにピアノが習いたかったのなら、いっそ、オトナになった今、誰の遠慮もいらないじゃないですが? ご自身がピアノを習うのはありですよ。子どもではなく、自分がピアノを学んでしまえばいいのです。ぜひ、そうしましょう。

 という訳で、ピアノを題材に話を進めてみました。これはピアノでなく、他の習い事でも同じことです。習い事に何を求めるかで、先生選びは変わります。これは大切な事ですから、決して軽んじてはいけません。求めるモノが変われば、求める先が変わるのは当然です。ですから、習い事の先生に求めるモノを明確にしましょう。

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2017年3月 6日 (月)

クラシック音楽って、そんなに高尚なもんかい?

 クラシック音楽とは、高尚な音楽であり、知的な芸術であり、高い教養の持ち主だけが楽しむ音楽であって、無知蒙昧な一般庶民には、とても難解で理解できないシロモノであって、ある意味、高級な人間とそうではない人間とを分ける試金石のような芸術である。

 …なんて思っている人、いませんか?

 無論、今の私はそんな事を思っていませんが、実は子どもの頃は、これに似た考えを持っていました。で、子どもの私が、なぜそんな考え方をしていたのかといえば、周りのオトナたちがそんなふうに考えていたからです。

 「お金持ちはベートーヴェンを聞いて、貧乏人は美空ひばりを聞く」とか「良家の子女はピアノを楽しみ、貧乏なオヤジは飲み屋で流しのギターを聞きながら、安酒をチビチビ飲む」とか…そんな感じ。実際、クラシックファンの家庭には、大仰なオーディオシステムが必ずあったわけだし、その家にはアップライトピアノがあって娘は必ずピアノを習っていたし、いやいや、ピアノどころかヴァイオリンを習っていたりもするわけです。もちろん、貧乏人の家には、オーディオシステムもピアノもヴァイオリンも、それらを習っている娘もいないわけです。

 クラシック音楽を権威づけたもの。それは舶来品信仰と学校教育だと思います。

 今では信じられないかもしれないけれど、私が子どもだった時代は、まだまだ舶来品信仰がありました。舶来品とは輸入品の昔の言い方で、舶来品信仰とは“海外からの輸入品は何でも素晴らしいと思い込み、それらを理屈抜きで信じていた”事を言います。実際、みんなそんな感じで、舶来品を意味なく有難がっていました。

 なにしろ、あの頃は1ドル360円だし、物品税も関税も高かった時代ですから、海外からの輸入品は、どれもこれも価格的には超高級品扱いされたわけだし、手にできるのは、ほんの一握りのお金持ちだけで、貧乏人の手になど届くはずもなく、当時の人の舶来品信仰は、ある意味、仕方のない事だったのかもしれません。

 例えば、当時の海外旅行の土産の一つに洋酒があり、それらを飲み終えると、カラ瓶を応接室のガラスケースの中に飾るという、今では考えられない風習すらありました。いや、もったいなさすぎて、飲まずに封も切らずに、そのまま応接室に飾られていたりもしていました。今じゃ、スーパーで普通に売られているような洋酒なんですが…ね。当時のオトナたちにとって、たまに海外に行った人が持ち帰る洋酒が、本当に有難かったんだと思いますよ。

 それくらい、舶来品って、入手困難な超高級品扱いだったわけで、クラシック音楽とそれにまつわるものって、これら同様に、超高級品だったわけです。だから、金持ちじゃないと、なかなか楽しめなかったのは事実です。

 さらに学校の音楽の時間で教えるのは…クラシック音楽でした。今と違って、民族音楽やら邦楽やらなんて、てんで相手にせず、徹頭徹尾クラシック音楽至上主義であって、その素晴らしさを子どもたちに刷り込んでいったわけです。特に、ベートーヴェンの聖人扱いぷりったら、今じゃ想像できないほどです。

 そんなわけで、クラシック音楽は、高尚な音楽であり、知的な芸術であり、高い教養の持ち主だけが楽しむ音楽であって、無知蒙昧な一般庶民には、とても難解で理解できないシロモノであって、ある意味、高級な人間とそうではない人間とを分ける試金石のような芸術であったわけです。

 ふう、だいたい20世紀においては、それらは正解扱いされていました。

 でも、時は流れて、今や21世紀です。日本人の生活レベルも教養レベルも格段に上がり、誰も応接室に洋酒のカラ瓶なんて飾らなくなりました。舶来品という言葉が死語になって、随分経ちました。昔々は電気街だった秋葉原の大型店舗の中の、良い場所に、広々としたオーディオコーナーがあったものですが、今じゃ売り場の片隅とか、下手すると取り寄せオンリーで、オーディオコーナーそのものが無くなってしまった店舗すらあります。オーディオマニアなんて…失礼を承知で言っちゃうけれど…今の時代、どれくらいいるんでしょう? 自宅にオーディオ専用ルームを作って、高級機器で音楽聞いている人って、どれくらいいるんだろ?

 学校教育では、今やクラシック音楽は、西洋の昔の民族音楽の一種としての扱いで、教えないわけではないけれど、その他の地域や時代の音楽、ポピュラー音楽を含む現在の音楽などと、並立されて学びます。

 真っ当な扱いだと私は思います。

 好き嫌いと良し悪しは違います。私はクラシック音楽、とりわけオペラや声楽を好みます。でも、これが最高の音楽であるとは全く思ってません。数ある音楽の中の一つのジャンルであって、他にも良い音楽がたくさんあります。私にとって、好きな音楽だけれど、高尚な音楽だとも高級な音楽だとも思ってないし、今の時代、クラシック音楽を楽しむ人が、お金持ちやエリートばかりでない事も知ってます。

 でも、未だに「クラシック音楽は高尚な音楽であり…」と思って、ちょっと斜めに構えている人…いるんだよなあ。たいてい、お爺さんなんだけれど、自分の『好き』を『正義』と勘違いして、若者に押し付けちゃダメだよ。

 それじゃあ老害だよ。で、心配なのは、そんな老害老人に支えられている、日本のクラシック音楽に明日はあるのか…って事だけれど、まあ、客が減れば規模を縮小せざるをえなくなるわけで、規模が縮小されれば希少性が生まれるわけで、そうなると「クラシック音楽は高尚な音楽で…」と言った価値観が復活するかもしれませんね。

 うふっ。

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2017年2月22日 (水)

波に乗っかって歌う…私の考える和音感

 先日、音感の記事を書いた時、コメントで音感にからめて和音感についての話も出てきました。確かに、音感を持っている人にとっては、和音って音の集まりだから音感の話になるのだろうけれど、私のように音感が全滅している人にとっては、和音感ってのは、音感とは、また別のモノなんだよね。また(これもどなたかのコメントにありましたが)絶対音感を持っているからと言って、必ずしも和音を分析的に聞けるわけでもないようです。そうなると、やっぱり和音感は音感とは別物…って事になるんだろうと思います。

 和音は“音の塊”なのか、それとも“音の集合体”なのか? 人それぞれ感じ方が違うのかもしれませんが、ここから先は、和音を“音の塊”として感じる私の主観に基いて書きます(失礼)。

 私が和音を音の塊として感じるのは、もちろん、和音を「分析的に聞けないから」というのが一番大きな理由ですが、それ以外にも、単音と和音に大きな違いを感じないからです。

 例えばドソという和音(パワーコードと言って、一番単純な形の和音です)と、単音のド。ピアノの鍵盤を叩いてみて感じる印象は(私にとっては)ほぼ同じなんです(笑)。特にドソの和音のドを強く、ソを添えるように鳴らすと、私の中では“瓜二つ”になるんです。もちろん、全く同じじゃないです(そこまで耳が悪いわけじゃないです)。あえて言うと、単音のドは痩せていて、ドソの和音は太っているんです。そう感じるんです。そして、単音のドもドソの和音も体格に違いはあっても、同じ音に感じます。

 このように、和音ってのは、単音を太らせたもの…と私は感じるんです。だから、単なる音の集合体とは違うのね。“足し算”と言うよりも“掛け算”みたいに感じるわけです。で、元となる音に加えていく音の組み合わせ方を変えることで、音の太り方を変えていく…それが和音なんだと思うのです。

 和音の話をすると、協和音と不協和音の話がよく出ます。協和音ってのは、音階の中の任意の音に対して、三度と五度の音を重ねたものを言います。ドミソとかファラドとかソシレとかね。クラシック音楽で主に使うのは、この協和音です。時代が下がるにつれ、不協和音も使うようになりますが、日本人の多くがイメージするクラシック音楽だと、この協和音を機能的に使った曲が大半だったりします(ここでするべき和音進行については割愛します)。

 不協和音と言うのは、この協和音に対して、余計な音を足したものを言います。例えば、ドミソにシを足してドミソシとか、さらにレを足してドミソシレとか、さらにファを足してドミソシレファとか、あるいはラを足してドミソラとかね。それぞれ、コードネームで書けば、C7であったり、C9であったり、C11であったり、Am7であったりします。

 また、協和音のある音をちょっと動かしたものも、不協和音って呼びます。ドミソのソを半音上げてドミソ#にしたり、逆に半音下げてドミソ♭にしたり、ミを半音あげてドファソにしたりね。それぞれコードネームで書けば、Caugだったり、C♭5だったり、Csus4だったりするわけなんだけれどね。

 これら不協和音は、ポピュラー音楽では普通に使う(だからコードネームが存在するわけだ)けれど、クラシック音楽では近現代曲(日本人が好まないクラシック音楽です)ぐらいしか使わなかったりします。

 そもそも、協和音不協和音という言葉自体、クラシック系の用語であって、和音を『協』と『不協』に分けちゃう発想自体がすごいと思います。私に言わせれば、それぞれ音の太らせ方が違うだけで、みんな美しい和音であって、決して不協な和音じゃないんだけれどなあ…。

 おそらくクラシック音楽って、美の基準が“高い”と言うか“狭い”と言うか、とにかく一本スジが通っているんだと思います。一方、ポピュラー音楽は、基本的に“なんでもアリ”と言うか、間口が広いと言うか、美の基準がユルイのかもしれません。それは、和音に関する美意識の違いにも現れているんだろうなあ。

 じゃあ、和音の美しい美しくないは、どこで分けるのか? それは和音をどう捉えるかで変わるのかもしれません。

 私にとって、音は波なんです。つまり、音波ね。だから和音も波です。波動だね。その波動のうねりが心地よければ、美しい和音であり、うねりがなっちゃないのがダメな和音なんです。

 だから、ハモるってのは、どういう事なのかと言えば、ある波に別の波をかぶせた時に、最初の波と次の波が互いに呼応しあうのがハモるって事であって、互いに打ち消し合ってしまうのがハモっていない状態だと感じています。

 で、色々な音が混ざって波がグチャグチャになっているのがノイズです。すべての音域でグチャグチャになっているのがホワイトノイズで、中低音域がグチャグチャなのがピンクノイズね。

 ちなみに、音色も波動の違いだと感じています。きれいな音色は波も美しく、汚い音は波がグチャグチャなんです。そこは単音であっても和音であっても同じ事です。

 ええと、ここで使っている“波”という言葉は比喩表現ではなくて、本当に音波の“波”を表しています。だって私には、音というのは“波”なんだもの。

 以前「すとんさんはピアノに合わせて歌えるから音感がある」とのコメントをいただきましたが、別に私には音感はありませんが、ピアノが出す波に対して、自分の声がうまく呼応するように歌っているから、ピアノと声が合っているだけで、別に音感があるわけじゃないのです。

 だから、私にとって、歌とか合奏とかって、波乗りみたいなモノなんだよね。

 その証拠に私、アカペラで歌うとヒドイですよ。もう、なんじゃソレ?ってくらいに、フリーダムな音楽になってしまいますが、伴奏があれば、その伴奏音の波に乗せて声を出していくので、まあまあな歌になるわけです。音感があれば、伴奏の有無に関わらず、正しい音程で歌えるはずだものね。

 まあ、サーファーは波があってナンボでしょ。波がなければ、ただの丘サーファーってわけで…かっこ悪いじゃん。ですから、私には音感はないけれど、和音感はあるんだろうなあって思ってます。

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2017年2月21日 (火)

リズム感は複合的で統合的な感覚でありんす

 昨日は音感について考えました。結局、音感とは記憶力の事であると結論づけた私ですが、今回はリズム感について考えてみたいと思います。

 私は、そんなにリズム感は悪くないつもりです。まあ、普通? いつもいつも正確無比とは言い難いけれど、そんなにデタラメじゃないつもりです。少なくとも、音楽にノッてダンスを踊れるくらいのリズム感はあります。四拍子だけでなく、三拍子や六拍子だって平気です。これが九拍子とか七拍子とか五拍子とかになると、ちょっと苦労します。つまり、ポリリズムはちょっと苦手って感じかな? でもまあ、普通の人はそんなモンでしょう。でも、音楽をやる人としては…もう少しきっちりしていた方が良いかな…とは思います。

 まあ、私のリズム感については、それくらいにして、リズム感の実態について考えてみたいと思います。

 リズム感ってのは、音感とは違って、それほど単純ではないかな…って思います。と言うのも、音感って基本的にインプットの問題だと思うのです。今聞いた音は何の音なのか?…という感覚です。アウトプットの話は、歌唱力とか演奏力とかの別の話になります。

 しかし、リズム感って奴は、インプットとアウトプットの両方にまたがる問題でしょ? 聞いて分かる事と、うまく表現できる事。この2つが揃ってのリズム感覚なわけで、その分、話は簡単には進まないのです。

 まず、インプット方面で考えるならば、必要なのは時間感覚かなって思います。結局リズムって、時間の長短でしょ? この時間の長短がきちんと分かる能力がリズム感なのかなって思います。

 アウトプット的に必要なのは…運動神経? いわゆる『自分が意図したとおりの動きをし続けられる事』ですね。例えば、手を叩くでも、ちょっとの時間だけ手を叩くのは、、誰でも出来ますが、これをある程度の時間(一曲分だとしたら3分程度?)やり続けるのは大変です。また、動く速度にしても、タラタラしか動けないのではダメで、ある程度はシャープな動きができないと細かいリズムを表現できません。お手本に合わせて手を叩くだけにしたって、運動神経が必要です。

 そしてインプットとアウトプットの間にある、いわば情報処理の部分もリズム感と関係します。具体的に言えば、楽譜を見てリズムを自分で生成するって部分です。これが音感ならば、楽譜に書かれた音程を思い浮かべればいいので簡単ですが、リズムはそんなに簡単じゃあないのです。

 リズムの生成方法には、大きく分けて2つあると、私は考えます。一つはクラシック的なリズム。もう一つはポピュラー音楽的なリズムです。

 クラシック音楽的なリズムとは、足し算のリズムです。つまり、楽譜にかかれている音符(この場合、音符の時間的な長さにだけ注目ですね)を次々に表現していくリズムです。具体的に言えば「タンタンタタタン」というリズムを手拍子で表現するなら、まず一発手を叩いた後、四分音符(に相当する時間)をあけて、次の手を叩き、また四分音符あけたら、次を叩く。今度は八分音符あけて、叩いて、また八分音符あける。で最後の音を叩いて四分音符あいたら音を止める。これで「タンタンタタタン」というリズムができるわけです。

 クラシックの場合は、音楽の横の流れを大切にするので「タンタンタタタン」なら“四分音符-四分音符-八分音符-八分音符-四分音符”と順に、それぞれの音符の長さに応じて、手を叩けばいいのです。

 細かい話をすると、これらの音符、四分音符なら四分音符で、八分音符なら八分音符で、だいたい同じ長さだけれど、厳密に同じでなくて良いわけです。音楽の流れによっては、ちょっと長めにしたり、ちょっと短めでも良い…ってか、そういう緩急をつけて演奏するのがクラシック音楽の特徴なので、合奏などの場合は、微妙に異なる長さの音符をピシっと合わせるために、指揮者が必要になってくるわけです。

 もう1つのポピュラー音楽的なリズムは、割り算だと私は考えています。ポピュラー音楽には指揮者はいません。その代わり、ビート(強拍)という基準音が存在します。音楽がどんな流れであっても、ビートは全員で合わせます。逆に言えば、ビートからズレている音は割といい加減なのです。譜面上は等間隔に指定されているリズムも奏者の気分や個性で符点っぽく演奏されたり、連符のように演奏されたりと色々です。細かいところは自由に、ビートの部分はパシッと合わせるわけです。

 例えば「タンタンタタタン」というリズムを一般的な4ビートで手拍子するなら3つある「タン」と「タタ」の最初の「タ」はビートに合わせて、きっちりと手を叩かないといけませんが、「タタ」の後ろの「タ」は、少々ルーズでも可なのです。8ビートで手拍子するなら、すべての音符をきちっと叩かないといけませんが、2ビートで手拍子するなら、最初の「タン」と「タタ」の最初の「タ」だけ、ばっちり叩けば、後はノリでどうぞって感じになります。

 こういうバラついた感じがポピュラー音楽の特徴であり、これをビートに関係なく、リズムのバラつきを抑えて、すべてを正確に表現する(つまり、32ビートとか、64ビートとか、128ビートにすればいいわけです)と、いわゆるハウスとかテクノというジャンルになります(これはこれでポピュラー音楽なんですけれどね)。

 ああ、リズムについて考え始めると、アタマがワヤワヤになってしまいます。ほんと、リズム感って、複雑な感覚なんだなあって思います。

 「音程の音痴は訓練次第で治るけれど、リズムの音痴はなかなか治らない」と言いますが、それはリズム感ってのが、複合的で統合的な感覚だからなのだと思います。

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2017年2月20日 (月)

音感とは記憶力の事である

 私には音感がありません。絶対音感はもちろん、相対音感ですら危ないです。だからと言って、音楽が楽しめないわけではないし、フルートが吹けないわけでも、歌が歌えないわけでもありません。でも、音感はほぼ全くと言って良いほどありません。

 ポーンとピアノのキイを叩いて出た音が、何の音なのか分からないし、ポンポーンと二つのキイを叩いて出た音が、どれくらい離れているかも分かりません。

 しかし、どれくらい離れているは分からなくても、音が上がったのか下がったのかは、2度以上なら、さすがに分かりますが、1度の違い(って事は実質半音だね)だと(だらし無い話だけれど)だと、たまに間違えます。

 でもね、音の違いは分からなくても、ポンと叩かれた音と同じ音を発声する事はできます。でも、同じ音をフルートでは吹けません。だって、何の音なのかが分からないんたもの。だから、知らないメロディーであっても、聞けば歌えますが、何度聞いても聞くだけではフルートは吹けません。フルートは楽譜がないと、お手上げなのです。つまり歌だと耳コピできますが、笛だと耳コピできません。そんな程度の人間なのです。

 では、なぜ、私はその程度の人間なのかと考えてみました。

 まあ『才能が無いから』とか『幼少時にまともの音楽教育を受けなかったから』とか『人間としての程度が知れてるから』とか『馬鹿だから』とか…そういうのは、ちょっと横に置いてみました。でないと話が進まないからね。

 自分の無能力さに関する事柄を抜きにして考えてみました。一体、何が原因となって、私には音感が無いのだろうか? そもそも音感っで何なんだろう?

 うーん、うーん、うーんと唸って出た答えは、音感って、実は記憶力じゃないのかな?って思いました。音程に関する記憶力の事を“音感”って言うんじゃないのかな?

 そうであるならば、よく「絶対音感は幼少時でなければ身につかない」と言われるのも解せます。幼児の記憶力って、爆発的にすごいんだよね。彼らはなんでもかんでも暗記できちゃうんだもの、あの記憶力があって始めて絶対音感という、音の印象を個別に暗記する事ができるわけです。

 記憶力は年を取るに従って衰えていきます。一説には小学校高学年を境に、後はズルズルズルズルと能力が低下していくだけなんだそうですね。記憶力が衰えてくれば、個々の音の印象を覚えることができなくなっても当然です。個々の音についての記憶は無理であっても、音と音の関係性の印象は覚える事ができるようです。これが相対音感って奴でしょう。この相対音感は、一般的には、大人になっても身につけることができるんだそうです。

 一般的には…ですね(涙)。

 実は私、子どもの頃から、記憶力ってダメなんですよ。特に言語的な記憶力と言うか、分析的な記憶力って奴が壊滅的にダメなんですよ。

 私が得意なのは、目で見た風景をまるまる覚える事。いわゆる“フォトメモリ”って奴で、例えば英単語を暗記するなら、普通の人は、英単語をブツブツ言いながら覚えたり(聴覚的に言葉として覚えるわけです)、何度も何度も書きながら覚えたり(運動をしてカラダに覚えさせるわけです)しますが、私は全然違っていて、ただぼーっと単語帳を眺めて、単語帳のページを丸々暗記します。そこに何が書かれているとかは、全く関係ありません。ただただ単語帳のページを風景として暗記します。テストの時などは、頭の中にある単語帳をめくって該当箇所を読んで答えるわけです。全く理解せずに暗記しちゃう人なんですね。

 実は今でもそうで、エルステユーブンゲンの暗譜は、音とか指とかでなく、楽譜を丸々暗譜して、頭の中でその楽譜をガン見して吹いているんですよん(笑)。

 楽譜は見えるので暗譜できますが、音は…見えません。私、見えないものって、なかなか覚えられないんです。

 でも時間をかければ、丸暗記はできますので、曲としての音楽は覚えられるし楽しめるのですが、あくまでも全体を丸暗記ですから「途中から…」とか「部分的に…」とかだと、かなり苦戦します。

 まあ、私の事はさておいて、音感って奴は『音に関する印象の記憶力』の事だと思います。それが個々の音に関する情報まで記憶できれば『絶対音感』となり、個々は無理でも、音と音の相互関係に関して記憶できれば『相対音感』になるのだと思います。

 となると、私の場合は、絶対音感も相対音感も、身につけるのは、まずは無理だな。私にできるのは丸暗記だけなので、音楽も丸暗記するしかないわけです。で、問題は、私はすでに若くないって事です。昨日食べた食事すら思い出せないほどに、記憶力が低下している現在、音楽を丸暗記するのも、結構苦労しているわけです。

 まあ、出来ない事を恨んでも仕方ないし、衰えてしまった事は受け入れるしかありません。ただ、今できる事を全力で行う…それだけです。

 でもね、やっぱり、音感を持っている人って、羨ましいです。

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2017年2月16日 (木)

生演奏と録音

 本来、生演奏と録音された演奏では、その音も雰囲気も感動も段違いですが、その事を現代で暮らす我々は忘れてしまったフシが見受けられます。

 まあ、現代人である我々にとって“音楽を聞く”という行為は、その大半が録音された演奏を聞く…と言っても過言じゃないですからね。CDで音楽を聞く、iPodやiPhoneで音楽を聞く、配信された音楽を携帯で聞く、YouTubeにアップされた音楽を聞く、テレビで放送された音楽を聞く、車の中でラジオから音楽を聞く、商店街でBGMとして流されている音楽を聞く…ほら、我々の日常生活で耳にする音楽って、ほぼ録音された演奏を聞いているわけです。

 むしろ、現代人にとって、音楽を生演奏で聞く…というチャンスは、どれぐらいあるものでしょうか? 積極的にコンサートやリサイタルに行く人は別として、普通に暮らす人々が生演奏に接する機会と言えば、子どものピアノの発表会? 中学校の文化祭で演奏する吹奏楽部? 街角で歌うストリートミュージシャンたちの演奏? こんなものだよね。

 さらにこの生演奏を『生楽器による生演奏』に限ってしまうと、ポップス系のコンサートやストリートミュージシャンの生演奏すら除外されてしまいます。おそらく、普通に暮らす現代人が『生楽器による生演奏』を聞く機会なんて、ほとんど無いのかもしれません。

 録音が今ほど普及する前の人たちは、当然、音楽を生演奏で聞いていたわけです。当時はポピュラー音楽ですら、ジャズやラテン音楽の時代ですから、当然、生楽器による生演奏だったわけです。だって電気がさほど普及していなかったから、電子楽器やP.A.がまだまだだったからです。それゆえに『生楽器による生演奏』ばかりを聞いていました。

 人々が耳にする音楽が“生楽器による生演奏”から“録音された演奏”へと変わっていったのは、つい先日の話であり、それは唐突にガラっと切り替わったようです。

 その切り替わりの時代の代表的な音楽家である、指揮者のフルトヴェングラーは録音された音楽を「音楽の缶詰」と言って嫌っていたのは有名ですが、録音された音楽を「音楽の缶詰」と評したのは、蓋し名言だと私は思います。

 生演奏も録音された音楽も、その両方を聞いていた世代の人たちは、その違いが分かるが故でしょうか? 録音された音楽の再生音を、いかに生演奏に近づけられるものかと苦心したものです。これをオーディオ趣味と呼び、その人たちをオーディオ・マニアと呼んだわけです。

 そもそも録音された音楽には、あれこれ“欠け”があります。マイクロフォンはすべての音情報を拾えるわけではありません。レコーディング機材…大昔はSP盤、そこからアナログテープ、デジタルテープ、現代のハードディスクへと変わりましたが、それでもすべての音情報が記録できるわけではありません。またそれを再生するスピーカーも、すべての情報を音として再現できるわけではありません。そうやって、生演奏と録音された演奏がかけ離れていってしまうのです。

 昔の人は、その違いを知っていたからこそ、オーディオ趣味に走る人々がいたのですが、今の時代、どれくらいの人がオーディオ趣味に走るのでしょうか? 以前は電気店でも大きな面積を占めていたオーディオコーナーは、いまや規模縮小が当たり前、オーディオコーナーそのものが無くなってしまった店すらあります。

 生まれた時から録音された演奏ばかりを聞いて育った人たちは、生楽器による生演奏が、録音された演奏とは、かなり違うモノであることを知らないままでオトナになってしまったのではないでしょうか? それゆえ、録音された演奏を生演奏に近づけて聞きたい…という欲求が薄いのかもしれません。

 音楽が録音され、人々がそれを楽しめるようになった事は、大変良いことだと思います。自宅にいながら、世界中の音楽を楽しめるわけだし、同時代の演奏はもとより、昔の名演奏すら聞けるわけですからね。その代償として、生演奏から見れば劣化した音楽で我慢せざるをえないわけです。

 私はこれって、音楽をラーメンに例えて考えると分かりやすいのかなって思っています。

 ラーメンって、本来は中華料理の一つのメニューであり、本物を食するには、本場中国に行って食するとか、あるいは日本各地にある中華街などで中国人シェフたちが調理したものを食するとかしないと、本来はダメなわけです。

 これは、クラシック音楽ならばヨーロッパで、ジャズならアメリカで聞く、本場の本物の演奏に相当します。また彼らが来日して演奏するのは、中華街で中国人シェフのラーメンを食べるようなものかもしれません。

 やがて、日本人シェフが本場に渡って料理修行をしたり、それらの本場で修行してきた人に次の世代の人たちが弟子入りをして、日本の街のあちこちにラーメン屋が開店しはじめました。これら街のラーメン屋さんのラーメンは、本場の味を踏まえながらも、日本人の好みに合わせて、ラーメンの味を調整し、より美味しいものに仕上げてきます。

 留学帰りの演奏家や、留学帰りの演奏家に弟子入りをした演奏家さんたちは、街のラーメン屋みたいなもので、本物のテイストを残しながらも、我々日本人の好みに応じた演目をチョイスし、我々に分かりやすく、解説をしたり説明をしたり工夫をしながら演奏してくれるわけです。

 一方、袋入のインスタントラーメンやカップラーメン、スーパーで売っている生ラーメン等は、録音された音楽に相当するのかな?って思います。

 名店の店主が監修したカップラーメンって、あるでしょ? あれって実に美味しいけれど、やっぱり実際にお店で提供されるラーメンとは、どこか違うわけで、その違いが、店屋物とインスタントの違いかなって思うわけです。

 生演奏と録音の演奏の違いは、ざっと聞いた分はほぼ同じなんだけれど、細かな魅力や輝きや響きって部分が違うわけで、そのちょっとの違い(しかし大きな魅力の差)は、ラーメンにおける店屋物とインスタントとの違いみたいなものかなって思うわけです。

 で、ラーメンと言えば、現代では、お店だけでなく、家庭でも普通に食べる料理であり、家庭で食べるラーメンは、当然、スーパーなどで入手できるモノであるので、インスタントが主流となるわけです。子どもの時代に食べるラーメンなんて、それこそ、カップ麺だったり、母親が作る袋入りのインスタントラーメンか、スーパーの生ラーメンを母親が調理してくれるものであって、子どもたちは、それがラーメンだと思い込むわけです。

 実は私がそうでした。だから、オトナになって、お店でラーメンを食べた時は「これはラーメンみたいだけれど、ラーメンじゃない!」って思ったものです(笑)。

 まあ、録音が普及したことで、我々の音楽鑑賞ライフは充実したわけだけれど、やはり録音は生演奏とは違うわけで、ある意味、生演奏にはかなわないわけで、生を聴かずに、その音楽なり、演奏家なりを判断しては、かわいそうだなって思う私なのでありました。

 それって、一度もその名店に足を運んだこともないのに、その店が監修したカップラーメンを食べて、それでその店の味を批評したら…おかしいでしょ? それと同じ事ね。

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