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  •  急に寒くなりましたね。気候の変化に体調が追いつかず、風邪をひいてしまいました。ああ、ノドが痛い(涙)。
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2018年12月の記事

2018年12月14日 (金)

ベーレンライターは一癖ある

 久しぶりにレッスンに行きました。なにしろ、前回のレッスンは私が足の骨を折る以前の話ですから…。

 久しぶりのレッスンに行ったら、姉様と先生のレッスンが行われていました。いつもながら、お二人の二重奏は素晴らしい。これが聞けるだけでもレッスンに行く甲斐があるというものです。

 例によってロングトーンはいい感じです。ん? 長期にフルートを吹いていない時のロングトーンはあまりいい感じではない事もあるのに、不思議に調子良かったのは、なんか不思議な感じがします。

 エルステユーブンゲンは25番と26番。もはや「暗譜してきた?」とも尋ねられていくらいにグダグダな演奏をしてしまいました。

 旋律的練習曲は1番です。全然吹けません(笑)。あんまり吹けないので、先生は今回が初回のレッスンだと勘違いしていました。別に私は否定しませんでしたが、実は2回目なのでした(汗)。まあ、それくらいに吹けなかったし、譜読みもできていなかったという事です。

 で、40リトルピーセズは19番のベートーヴェンのメヌエット。正直に白状すると、この曲、事前に全然見ていなかったので、レッスンでは初見で吹いちゃいました。まあ、幸いに簡単な曲だった事もあったので、なんと、合格をいただいちゃいました。次は20番のモーツァルトのメヌエットです。次の曲は長いし、たぶん今回の曲よりも苦戦しそう…。それにしても、20番だね。この曲集には40曲入っているので、なんだかんだ言って、もう半分です。いやあ、曲集だけは消化速度が速いですね。

 今回の雑談は、先生の家のパソコンが壊れてしまった話から、データベースのデータ紛失の話になりました。あれこれ不便があるそうです。一番の不便は経理的な事で(そりゃあそうだよね)、次がなんと楽譜の問題なんだそうです。

 先生はプロのフルート奏者ですから、フルートの楽譜をたくさん持っています。それこそ、数えるのが嫌になるほど、たくさんの楽譜を持っているわけです。同じ曲でも、必要上、出版社違いで持っているんだそうです。いや、同じ出版社でも改訂版が出るたびに揃えているそうなので、本当にたくさん持っているわけです。

 先生はドイツに留学していた事もあり、レパートリーのメインはバッハなんだそうです。なので、楽譜もやはりドイツ系がたくさんあるわけです。なので、私が何気にペータースとベーレンライターの話を振ったところ、ベーレンライター版の楽譜に関する愚痴があれこれ出てきました。

 なんでも、最近のベーレンライター版の楽譜は、バッハが書いたモノからはかなり離れているんだそうです。バッハは、楽譜を極めて簡素に書く人で、それを実際に演奏する時は、演奏者が当時の慣習とかバッハの癖などを考慮して、楽譜に書かれているものを基本に、そこに若干のアレンジを加えながら演奏するのが常識なんだそうだし、それが出来るように勉強するのが、バッハを演奏する人たちの基礎教養なんだそうだけれど、昨今のベーレンライター版のバッハの楽譜は、バッハが書いたとおりではなく、現代の演奏家たちがバッハを実際に演奏する時の演奏が譜面に書かれているのだそうです。つまり、バッハ演奏の深い勉強をしなくても、ベーレンライター版の楽譜を使えば、バッハ演奏家たちと同じような演奏が出来るようになっているんだそうです。

 バッハの専門家であるH先生は、そこに憤慨してました。楽譜は楽譜として、バッハが書いたとおりに出版するべきであって、それをどう演奏するかは、個々の演奏家に任せるべきで、それを出版社が楽譜化しちゃダメだろうって言うわけです。

 ベーレンライター社の楽譜って…高いからね。それくらいの付加価値がないと売れないんじゃないの?…なんて、門外漢である私なんかは考えちゃいますけれどね。専門家であるH先生にとっては、それって許されないほどの暴挙のようなモノらしいです。

 ううむ、でもベーレンライターは非バッハ専門家には、親切とも言えるよね…って、私は一体、どっちの味方なんだいって話です。

蛇足。ベーレンライターの楽譜は高いけれど、見やすいし、紙質も良いので、実は好きだったりします。

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2018年12月13日 (木)

国内版楽譜が絶版でビックリしました

 さて声楽のレッスンの続きの続きと言うか、今やっているベッリーニの歌曲が終わったら、次に何を歌いましょうかという話です。発表会の後にY先生とテノールのA先生と私の三人で相談をして、次はドイツリート。それも大作をやっていきましょう、とまでは決まりました。では手始めに何を歌いましょうかって話になって、そこで候補に上がったのが、シューベルトの連作歌曲集「美しき水車小屋の娘」です。

 皆さん、知ってますか? 「美しき水車小屋の娘」という連作歌曲集を。

 ドイツ系のテノールさんには必須レパートリーの歌曲集で、逆に言うと、ドイツ系のテノールさん以外は、あまり歌いません。20世紀後半ならば、ドイツ系のリートは、バリトンさんの独壇場で、その頃のバリトンさんならば、この歌曲集を歌っていました(フィッシャー=ディースカウも歌ってますよ)が、最近のドイツリート界では、ドイツリートもなるべく作曲家が書いた原調で歌う風潮となり、この曲に限らず、多くのドイツリートがテノールやソプラノさんたちに歌われるようになりました。特にこの曲は、歌の主人公が若々しい青年である事もあって、まずテノールさんが独占して歌う感じなのです。

 テノールさんばかりが歌う…ってか、バリトンさんが歌わないと(たぶん)楽譜は売れません。だって、テノールさんは、そもそも数が少ない上に、あまり歌曲を歌わないのですよ。彼らは自分の高音をみせびらかせるオペラアリアをレパートリーのメインに据えがちです。ドイツリートを歌うにしても、以前ならともかく昨今は、連作歌曲集なら、シューベルトの「冬の旅」が歌われがちです。だって有名だもの。実際、プロのコンサートでも、リートのコンサートってなると、まず「冬の旅」です。ほんと「冬の旅」ばかりです。その他の歌曲集って、たまにシューマンの「詩人の恋」のコンサートがあるぐらいかな? それ以外となると“シューベルトの夕べ”とか題して、単発の有名な歌曲を並べたプログラムになりがちで、コンサートで「美しき水車小屋の娘」が歌われることって、少なくとも私は知りません。

 昔々は、テノールは「美しき水車小屋の娘」を、バリトンさんは「冬の旅」を歌うという棲み分けがあったようですが、昨今はテノールさんもガンガン「冬の旅」を歌うようになったので、その結果「美しき水車小屋の娘」は歌われなくなったのかもしれません。

 それが原因なのでしょうが、国内楽譜出版社が出していた「美しき水車小屋の娘」の楽譜が、随分前に絶版になっていました。いやあ、ビックリです。こんな有名な歌曲集なのに、国内で出版されていないなんて…!

 そう言えば、数年前に、ヘンデルの「メサイア」も国内では絶版になってしまったのですよね。あの“赤いメサイア”が入手できないなんて…当時は、本当にビックリしたんです。

 ちなみに国内の出版社からは、独唱版ではなく合唱版の「美しき水車小屋の娘」が出版されています。それも、混声版と男声版の二種類も! オリジナルの独唱版は絶版になり、合唱版が販売されている…ってのも、日本の音楽界の現実って奴が反映しているなあって思っちゃいました。日本では、なんでもかんでも合唱や吹奏楽にアレンジしちゃうんだよなあ、で、楽譜もそこそこ売れちゃう…。それが悪いとは全然思わないけれど「なんかなー」って思います。

 ちなみに合唱版の「美しき水車小屋の娘」って、こんな感じです。純粋に邦楽系合唱曲として聞いてみたなら、意外に良さげだったりします。

 さて、国内版の楽譜が無いと、どうしても輸入譜を使わざるを得ません。印刷が見づらいけれど廉価なペータースか、印刷は見やすいけれど高価なベーレンライターかという選択肢ですね。あるいは、極端に印刷が見づらいけれど無料でネットに転がっているフリースコア系の楽譜か(シューベルトの著作権は切れているので、別にフリーのものでも問題ないと言えば問題ないです)。

 でも、どちらにせよ、輸入譜となると、日本語訳がありません。ドイツリートは言葉が命だともいうし、日本語訳とか解説がないと厳しいのは本音です。まあ、訳文も語釈もネットで漁れば済むわけだけれど、なるべく手間はかけたくないのが本音だし、日本の楽譜は安くて見やすいので、輸入譜よりはなるべく日本の楽譜を入手したいのが本音です。

 で、とりあえず私的には、かつて音楽之友社から出ていた大音楽全集に頼る事にしました。困った時の大音楽全集です。この楽譜集は、比較的きれいな新古品や中古品が安価で市場に出回っているので、たまに購入しているのです。「美しき水車小屋の娘」はシューベルト歌曲集の第1巻に入っていました。「美しき水車小屋」と「冬の旅」と「白鳥の歌」が一冊にまとまっている便利な本です。ちなみに、すべて(全集ものですから当然)原調版です。シューベルトの場合、原調版=高声版なので、テノールな私には都合がいいとは言えます。

 ただ、この楽譜集、外国語の歌だと、原語詩の下にカタカナで読み方がふってあるのです。これが結構、目障りだったりします。私の場合、日本語はもちろんだけれど、英語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語は、普通に読めますので、カタカナはむしろ邪魔なんだよね…。どうせ付けるなら、歌える日本語訳詩(松本隆訳なら最高!)を付けてくれたら、それはそれで面白いと思うんだけれどなあ…。

 で、原調の「美しき水車小屋の娘」の場合、高声用と言っても、全般的な音域はさほど高くありません。ただし、第7曲目の「苛立ち/Ungeduld」で、高いAが出る事。その他の曲でも、数回高いG♯が出てきます。歌曲を学ぶのに、これくらいの音程の音が出てくるのは、教えるY先生の目的的にはどうなんでしょうね? 曲中に高い音があると、私はその音ばかりに集中してしまって、歌として学びづらくなると思っているようです(ま、確かにそういう事はあります…)。Y先生としては、一応、中声版でも検討してくるそうなので、実際には、原調版で歌うのか、中声版で歌うのかは、まだ決定ではありません。中声版で歌うことになったら、仕方がないので、ベーレンライター版でも購入するかな。

 どちらにせよ、2019年はシューベルトの「美しき水車小屋の娘」にどっぷりハマりそうです。

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2018年12月12日 (水)

いくら高い音でも中音として歌いなさい

 声楽のレッスンの続きです。曲の練習に入りました。今回から新曲になります。ベッリーニ作曲の「Per pieta, bell'idol mio/私の偶像よ」です。

 ベッリーニの「6つの歌曲」は中声版(原調よりも2~3度低い)で歌っていますので、音域的には無理がない…というよりも楽(中声版は本来はバリトン用の譜面。テノールは原調[高声版]で歌うのが普通です)なのですが、別に高い声を出すのが目的ではなく、歌に関する様々なテクニックを学ぶために歌っているので、これくらいの音域で良いみたいです。それにベッリーニはベルカント時代の作曲家なので、当時のテノール音域(これがやたらと高いんです)で作曲されているとは言え、私にはかなり高いので、中声版が適当…というのは本当の話です。

 まず、跳躍音程の歌い方について。高く飛ぶ前の音の時に、すでに「次は高音に行きますよ」と感じさせるような歌い方をしましょうって事です。つまり、音程はデジタルのように、ビシビシと歯切れよく行くのではなく、常に前の音や次の音を意識し、そこにつながっていくようにレガートに歌って音程を取っていく事が大切なわけです。

 そこで私が何となくイメージしたのが、トロンボーン。トロンボーンのスライドによる音程の取り方に、イメージ的に近いかなって思いました。あと、民族楽器になるけれど、中国の一弦琴? 女子十二楽坊で活躍していた楽器だけれど、これにも近いかなって感じました。

 この歌では“il tuo lo sa”というフレーズが何度か出てきますが、最初に出てきた時の音程が、E♭-D♭-E♭-Fなのですが、E♭とFの間で、私の発声が変わっていて、それは×なのです。Fを高音として狙って出すのではなく、あくまでも中音域の音として特別扱いせずに、4つの音のどれも同じように発声しないといけません。

 最後の“il tuo lo sa”の音程は、D-E♭-F-G♭-(下がって)A-B♭であり、G♭がこの曲での最高音になるわけですが、この音も高音として狙って出さずに、やはり中音域の音として特別扱いせずに、他の音同様に、どこも変えずに出さないといけません。具体的に言えば、Fの音から、よりクチの奥を大きく縦に開き、息を多く送り込む、それだけで全音程度は音程が上昇するので、そうやって歌えばいいのです。決してG♭を狙って、気合一発で出しちゃいけないのです。

 まあ、楽譜を見れば(中声用に低めに転調されている事もあって)このG♭は気合一発で出すように書かれているわけだけれど、それはバリトンさんなら、それもありだろうけれど(バリトンさんにはG♭はかなりの高音であって、合唱バリトンさんならまず使わない高音だしね)、でも私はテノールであって、独唱テノールにとってのG♭ってのは、本来は鼻歌でも歌える程度の高さなわけで、だからこそ、狙って出しちゃダメなんです。

 Y先生的には、すべての音を中音として私に歌わせるために、わざわざテノールの私に中音版の楽譜でレッスンしているわけですから、それを高音として歌っては、学習目的から外れてしまうって話なのです。

 でもね、自分が出せる範囲の音を、高音として狙い撃ちにして出すのって、気持ちがいいんだよねえ…(グチグチ)。

 ともかく、歌曲のレッスンでは、高音は一切使わずに、中音域の発声を充実していきましょうってノリで勉強しているので、私もY先生の方針に従って、高音を封じて歌っていきたいと思います。高音は…オペラアリアの方で頑張ればいいわけだしね。

 …ってわけで、ここまでやってタイムアウト。オペラアリアの代わりに歌う事になった、ビゼー作曲の「Agnus Dei/神の子羊」は次回まわしになりました。

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2018年12月11日 (火)

無気力ではいけない

 声楽のレッスンに行ってきました。発表会後、初めてのレッスンです。まずは先生から公式音源と写真をいただきました。写真には“冴えない汗っかきのデブ”が写ってました。ああ、ビジュアル的には難点しかないなあ…(涙)。

 発表会の講評は、Y先生とテノールのA先生に関しては、当日聞きましたが、その日、早く帰宅されたソプラノのF先生の講評を、改めてY先生から聞きました。

 F先生にしっかり歌を聞いていただくのは、昨年の発表会以来であって、1年前と比べると、私の歌唱はだいぶ良い方向に変わってきているとの事です。特に、今までは見られなかった、息を通して響きで歌おうとしている事、声帯の鳴りに頼らない歌い方をしようとしている事、それらの姿勢が見られるようになった事は大きな進歩だけれど、まだまだ不十分だとの事です。今以上に軽い声で、しっかり息を吐いて歌えるようになると、大きな進歩が見られるでしょう…との事です。

 特に高いFisとGの間で、ガラッと発声が変わってしまうのは、すぐに矯正しないといけないとの事です。別にFisとGの間にチェンジがあるわけではないし、仮にそこがチェンジ箇所であったとしても、今の発声の仕方では良くないとの事です。

 今の私の歌い方では、Gになった途端に、息の勢いが弱まり、それで声が曲がってしまうのだそうです。声が曲がってしまうと、発声的に高音はそこでどん詰まりになるわけで、それは避けないといけないのです。もちろん、ノドの器質的な制限(ノドがバリトンならば…って話です)のために、声が曲がってしまい、高音の限界に達するのは仕方のない事だけれど、息が弱まって声が曲がってしまうのは、いわば言語道断なわけで、息を曲げるのは、もっと高い音になってから、自然に曲がるのに任せるべきであって、こんな低い音で音を曲げてしまうのは、我慢が足りないのか、立派な声で歌いたいがためのカッコを付けているだけだろうとの事です。

 はい、我慢は足りないし、カッコつけて立派な声で歌いたいという願望が強くあるのは事実です。F先生は、よく見ています。

 私がやるべき事は、まずはカッコよく歌おうとする気持ちを捨てる事(極めて難しいです:汗)、Gを狙って出すのは止めて、GをFisと同じように歌う事、ただし流す息の量は増やして歌う事。もちろん、力むのは無しです。つまり、高いGを高音とは思わずに、中音として歌うようにする事…なのです。高いGを中音と感じて歌うのは…心理的に難しいなあ。

 1年後の発表会では「さらに上達しましたね」とF先生に言ってもらえるように頑張ってゆきたいと思います。

 ちなみにF先生の、私の妻に対しての講評の大半は…Hi-Fの発声法に関する事でした。Y先生はバリトンなので、ソプラノ歌手がHi-Fを出すやり方について熟知していないのは当然だし、ソプラノ歌手だからといって、みんながみんなHi-Fの出し方を知っているわけではないのですが、F先生自身はスピントなソプラノだけれど…と言うよりも、スピントなソプラノ故に、テクニックでHi-Fを出す方法を知っているわけで、それをY先生経由で妻に教えてくれました。

 で、そのF先生のやり方で妻が歌うと…Hi-Fが高確率で出ますし、妻が言うには、このやり方ならば、以前よりもHi-Fが簡単に出るそうです。テクニックって大切ですね。発表会以前に、妻がこのテクニックを学んでいたら、もっと楽に“夜の女王”を歌えたのでしょうが、まあそれは良しとしましょう。

 ちなみにY先生曰く、このやり方はテノールがHi-Cを出す時に使うテクニックにも応用が効く…との事ですが、今の私は、Hi-C以前に、高いAを安定して出したい人なので、それはいずれおいおいって感じです。

 さて、レッスンです。いつも言われている事ですが、音程があがるごとに送る息を増やしていく事、口腔内を最初っから開かずに、音程があがるごとに少しずつ確実に開いていく事、口腔内を開くとは二次元的に伸びるのではなく、三次元的に口腔内の容量を増やしていく方向で開いていく事、声はストレートに前に出すのではなく、もっと後ろにまわしてから出す事…等々です。いつも言われているのだけれど、いつも出来ない事です。まあ、言われてすぐに出来るのなら、先生について学んでいる理由もないので、仕方ないと言えば仕方ないです。

 リラックスした声で歌うべきであって、無気力な声では決して歌ってはいけません。それはどういう事かと言えば、腹筋は十分に緊張したまま、ノドをリラックスさせて歌うべきであって、ノドも腹筋もお休みして歌ってしまうと、それは無気力な声でしかないのです。

 でもね、ノドを鳴らさないように歌おうとすると、どうしても腹筋もお休みしてしまうし、腹筋にグッと力を入れて歌うと、ついついノドが鳴ってしまうんだよね。つまり、ノドと腹筋が連動している…ってか、腹筋はお留守でもノドだけ力が入っている事も多いから、まずはノドに力を入れてしまうのが私…って事なんだろうと思います。

 ノドの脱力…難しいなあ。さらに腹筋はしっかりと動かしながらノドの脱力…さらに難しいなあ。

 ノドを開いていく…つまり、口腔内の容量を確保しながら歌う件は、先生がおっしゃるには「クチの中に珠を入れて、それがだんだん大きくなっていく感覚」なんだそうですが、私的に思うに、いわゆる“オペラ声”で歌っていくイメージでいいのかもしれないなあ…と薄々思っているところです。オペラ声と言うのは、素人がオペラ歌手の発声を真似て、むやみに深い声で歌うアレです。実はあんな感じで歌っていくと、口腔内の容量を確保しながら歌えるのではないかと、なんとなく思っている私です。でも、これって正解かしら?

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2018年12月10日 (月)

メトのライブビューイングで『西部の娘』を見てきました

 はっきり書きましょう。プッチーニ作曲の『西部の娘』というオペラは名作になりそこねた駄作であると。それゆえ、物好きなオペラ好事家以外の人には、特に鑑賞する価値すらないオペラであると。

 実際、『西部の娘』には歌謡性が欠落しています。おそらくそれは、プッチーニによって意図的に欠落させられたものであると私は考えます。なぜなら、このオペラの第三幕には有名なテノールのアリアがあり、このアリアのみ優れた歌謡性、いわばプッチーニ節と呼べるモノが見受けられるからであり、このアリアは、当初、このオペラには無かった要素だったからです。

 そもそも、この『やがて来る自由の日/Ch'ella mi creda libero e lontano』というアリアは、初演した大テノール歌手のエンリコ・カルーソーが作曲家プッチーニ向かって「このオペラにはアリアがない、アリアを書き加えなきゃ俺は歌わないぜ!」とか言ったとか言わなかったとか。とにかくこのアリアは主演テノール歌手に対するサービスであり、作曲家本人にとっては妥協の産物であって、それゆえにオペラ全編で浮きまくっている場違いなアリアでしかありません。それゆえ、いかにも“後からオマケで付け加えました”って感じで、それまでの音楽と、このアリアは、全くの別ものです。このアリアは「西部の娘」の中よりも「トスカ」や「蝶々夫人」の中にあった方がしっくりする音楽になっているのも仕方のない話なのてず。

 つまり、プッチーニは、歌謡性あふれるメロディアスなアリアを書こうと思えば書けるのに、あえて「西部の娘」には歌謡性を与えなかった…と私は思うのです。

 なぜ彼はそんな事をしたのか? おそらく、彼は迷っていたのでしょう。迷って自分を見失っていたのでしょう。つまり一言で言えば、スランプだったんです。ここまで名作オペラを書き続け、直前には「蝶々夫人」という名作を書いたにも関わらず、世間にはなかなか受け入れてもらえずに苦労をして“これじゃあいけない”と思って、無意識に今までとは別のやり方を模索して、道に迷ったのだと思います。

 まあ、それ以外にも、当時のプッチーニはスキャンダルにまみれていて、心に余裕はなかったろうし、ワーグナーから始まりリヒャルト・シュトラウスにつながっていくオペラ界の潮流だって感じていただろうし…。プッチーニは色々と焦っていたんだろうと思うわけです。

 確信的に、このオペラに歌謡性を与えなかったと思う別の理由として、歌には歌謡性を与えていないのに、伴奏であるオーケストラには豊かな歌謡性を与えているからです。「西部の娘」の歌には、聞くべきものはあまりありませんが、伴奏のオーケストラはなかなかよく仕上がっています。

 でもそれはイタリアの伝統ではないし、プッチーニのスタイルでもありません。

 つまり、プッチーニは『西部の娘』というオペラを、少なくとも『蝶々夫人』レベルの名作オペラに仕上げる事が出来たにも関わらず、あえてそれをしなかったわけです。

 ほんと、聞いていて、実に残念なのです。名曲になりそうなアリアや二重唱は、そこかしこにあふれています。しかし、音楽が輝きを放つ直前、どの曲もメロディーがくすんでしまうのです。ああ、プッチーニの迷いを感じます。まるで「ここで甘美なメロディーを書いてはいけない」と心に誓っているかのようです。

 で、そんな大作曲家プッチーニの駄作である『西部の娘』だけれど、メトは、実に興味深いオペラに仕上げて上演しています。『西部の娘』というオペラは、取り立てて見る価値のあるとは思えないオペラだけれど、このメトの上演は例外であって、これは実に面白い舞台作品だと思います。

 アメリカ人って『西部の娘』が大好きなんだよね。ほんと大好き。その愛情が、駄作オペラを水準以上の出来に仕立て上げたのだと、私は思います。

 ちなみに、このオペラ、CD等で音だけで聞くと、ほんと退屈ですよ。また、メト以外の歌劇場での上演で見ると、実につまらないです。

 しかし、メトの(最近にしては珍しいぐらい)セットにお金をかけ、衣装にも力を入れ、演出にも手間ひまかけた、この上演ならば、話は別です。実に面白いのです。まるで、舞台ではなく、映画を見ているかのような演出は、おそらくメト以外ではできないでしょう。ほんと、金満物量作戦ですよ。でも、これだけの経費と物量を投入して、初めて「西部の娘」というオペラは、見るに耐えうるモノになるという事が分かりました。

 結論。『西部の娘』というオペラには見る価値はないけれど、今回のメトの上演版は、音楽以外の部分があまりに素晴らしいので、見るべきです。特に、舞台制作にかけているアメリカ人の愛情が素晴らしい…と私は思いました。

 キャスティングは最高です。カウフマン、いいですよ。ディック・ジョンソンは彼ぐらいのイケメンじゃないと説得力ありません。ミニーを演じたエヴァ=マリア・ヴェストブルックのような美人さんはオペラには必要不可欠です。とにかく、このオペラ、実質的にミニー以外はすべて男声なわで、掃き溜めに咲く花としては、これくらいの美人じゃないと物語は成立しません。

 まず、他の歌劇場では、これだけの歌えるイケメンと美女を揃えることが難しいでしょう。さすがメト…と言っておきます。

 やっぱり、オペラって、金食い虫なんだと思います。

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2018年12月 9日 (日)

日本の貧困層が全然貧困じゃない件について

 世界銀行による貧困の国際定義というのがあって、現在の定義では「1日1.9ドル以下で暮らしてる事」を“貧困”と呼びます。1.9ドルとは、日本円にして約200円で、年収に換算すると、7万2千円です。年収7万2千円…確かに少ないです。驚くほど少ないです。私なら、1週間も暮らせない…。これが世界標準の“貧困”の定義です。

 実は世界には、このレベルにすら届かない人たちが、7億人以上います。世界人口は約70億人ですから、10人に1人が年収7万2千円以下の暮らしをしています。我々日本人の感覚で“年収7万2千円”と言うと、少なすぎて、基準としては非現実的に感じますが、この基準以下の人が7億人以上もいるのですから、この貧困の国際定義というのは、妥当と言えば妥当なラインなのです。

 一方、日本で“貧困ビジネス”に携わる人々が言う貧困の定義は「国民所得の中央値の半分以下の収入で暮らしている」事なんだそうです。これを相対的貧困というそうです。これに基づくと、日本人の所得の中央値は年収250万円だから、その半分ってわけで、年収125万円以下が貧困者って事になります。

 確かに年収125万円って聞くと、とても少なく感じます。

 では具体的に考えてみましょう。例えば、夫婦に子ども二人という典型的な家庭のパターンで考えるなら、4人家族ですから、年収500万円以下の家庭が、ここに該当する事になります。

 年収が500万円しか(?)なくても、毎日3食の食事は可能だし、雨露をしのげる家で暮らせるでしょう。さらに、その家の子たちは普通に学校に通えるでしょう。義務教育はもちろん、高校にも行けるだろうし、頑張れば大学にも行けるかもしれない。でも、塾や予備校に通うのはさすがに厳しいかな? まあ、この年収の家庭なら、子どもを塾に通わせるために、お母さんがパートを始めて収入を増やして…というのが、一般的ですが、ここでは年収500万円を越えない事を前提に考えると…その年収で現実的に考えると、高校卒業後、家計を助けるために、子どもは高卒で就職…というパターンになるかもしれません。

 高卒で就職して独立して生活を営む…別に普通の事だし、特に不都合はないと思います。

 たとえその家の子が、頭が普通によくて、将来はお医者さんになろうという希望があったとしても、医学部進学にはお金がかかるわけで、この程度の収入の家の子では、家の収入だけでは医学部に進学する事は、まず無理でしょう。まさに「希望した進路先に、金銭的な理由で、進学できない」わけで、それをもって、貧困であるって、貧困ビジネス関係者は声高に言うわけだけれど…。

 でも、それって本当に貧困なの? 確かに裕福な生活…とは言えないけれど、こんなの普通じゃん。家が貧乏だから学校に行けない…なんて、別に普通じゃないの? 自分の分を知れ!って事じゃん。

 それにもしもこの子が本当に優秀で、医者になる気持ちが強いのなら、奨学金でもなんでも使えばいいのです。確かに実家が裕福な方が医者になるには有利だけれど、本当に優秀な子ならば、色々な手段があるわけです。「希望した進路先に、金銭的な理由で、進学できない」なんて理不尽な事は、現実にはありません。

 かく言う私は、義務教育期間はもちろん、高校や大学やその上でさえ、ロクに授業料を払っていません。それどころかお小遣いすらもらいながら学校に行ってました。意欲と能力があれば、給付の奨学金や授業料免除等々、貧乏だけれど優秀な子を助けるための色々な手段が日本社会にはありますので、それらを活用していけばいいのです。

 もちろん“金銭的な理由”ではなく“本人の能力的な理由”で進学できないケースは多々あるでしょうが、それは貧困とは無関係です。貧困ビジネスの方々が言う、貧困のモデルっておかしいんですよ。

 そもそも、相対的貧困とか言い出す事自体が十分におかしい事だと思います。相対的貧困の定義で行けば、日本人の約16%が貧困になるそうです。16%と言うと、大雑把に言えば、6人に1人の割合ですよ。日本人の6人に1人が貧困? そりゃあ、絶対におかしいって。

 でも、そうじゃないと貧困ビジネスをしている人たちは困るんです。なんとしても、日本にも貧困な人がいてくれないと困るのです。そこで、こんなユルユルの変な定義を持ち出してきたんだと思います。

 やはり貧困の定義には、世界銀行が定めた貧困の国際定義である「1日1.9ドル以下で暮らしてる事」が適切だと思います。

 で、日本で貧困の国際定義を持ち出したら、該当者はほぼゼロ…ってか、そんな生活をしている人がいたら、生活保護の対象になってしまいます。

 ちなみに、夫婦に子ども二人の場合、生活保護の支給額は(地域によって違うけれど)年収ベースで考えると、約360万円になります。貧困の定義ラインである“年収7万2千円”なんて、かるく越えてしまいます。

 そもそも生活保護って、最低限の文化的生活を送れる程度の収入なわけで、そんな生活保護のラインよりも、相対的貧困とかで言う貧困ラインの方が、ずっとずっと上ってのはおかしいのです。

 つまり、相対的貧困という定義が、デタラメなんですよ。

 結論、世界の1割相当の人が貧困で苦しんでいるにも関わらず、ほぼほぼ貧困者のいない日本って、とても豊かな国なんだと思います。そんな国に生まれて、生活している幸せに感謝しています。

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2018年12月 8日 (土)

タニシを150匹迎え入れました

 以前、タニシは1年に1回、真夏の時期に100匹ほど水槽に入れて、それで終わり…ってやっていました。

 真夏のタニシは、かなり大きいです。たった100匹とは言え、量的にはかなりあります。それを金魚たちが長期に渡って食べていくのですが、8月に入れて…だいたいゴールデン・ウィーク前後まで保ちました。で、その後の2~3ヶ月、タニシのいない時期があって、そこは水槽の水草がやたらと食べられてしまったり、もうどうにもならなければ石巻貝を(エサにするには高価だけれど)購入していました。

 なぜ8月にタニシを入れていたのかと言えば、知り合いの農家さんからタニシを分けてもらっていたからです。ちょうどその頃なら、私にも時間があるし、農家さんの方も余裕があったので、それができたわけです。

 でも、その農家の方も高齢のため、牛飼いと田んぼを止めてしまった(畑は今でもやっています)ので、タニシをいただく事ができなくなり、今は業者からタニシを購入するようにしています。

 で、今回、水槽の中のタニシが寂しくなったので、業者さんからタニシを150匹購入したわけです。なぜ、150匹なのかと言うと…業者さんのタニシは、田んぼのタニシと比べると、かなり小ぶりなので、業者経由の150匹でも、田んぼの100匹よりも少ない感じがするからです。かと言って、200匹のタニシを購入するってのも…なんだかなあ…って思ってますので、150匹にしています。

 150匹のタニシは、申し込みの翌々日の夕方に宅急便で届きました(早い!)ので、すぐに(米を研ぐような感じで)洗って、一晩、濃いめの塩水と抗生物質水に漬け込みました。貝殻の表面についている雑菌を排除するためです。で、一晩たったら、今度は半日ほど真水に漬け込みます。思いっきり排泄してもらって、タニシのお腹の中を空っぽにするためです。それらを終えてから、ようやく我が家の水槽に入れます。

 150匹のタニシが入って喜んだのは、ルデンとシズカの、タニシ大好きコンビです。さっそくもぐもぐ食べてました。さあ、今度のタニシはどれくらい保つかな? 一年とは言わないけれど、せめて半年は保ってほしいなあ…。

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2018年12月 7日 (金)

結局、フルートは思いで吹く楽器

 フルートの音程を決めるのは運指です。ドの運指で吹けばドの音が出るし、ミの運指で吹けばミの音が出ます。

 何を当たり前の事を言っているのか!…とお叱りを受けそうですが、厳密に言えば、運指だけではフルートの音程は決まりません。なので「フルートの音程を決めるのは運指です」と断言しちゃうのは、ちょっと違います。

 確かにミの運指で吹けばミの音は出ますが、それは低音のミですか? それとも中音のミですか? って話です。この2つの音の運指は全く同じで、それを息の違いだけで吹き分けているわけです。

 もうちょっと言えば、それらと同じ運指で、高音のミも出ますし、中音のラも出ます。もっと他の音だって、出そうと思って吹けば出ちゃいます。これらは、いわゆる倍音って奴で、フルートは倍音を巧みに利用して、広い音域を確保している楽器です。

 なので、運指はもちろん大切ですが、いくら運指が正しくても、楽器に吹き込む息が適切でないと、正しい音程では吹けないし、全く違った音を発音する事すらあるわけです。

 そのあたりの事を、意識的であれ、無意識的であれ、熟知している奏者の音程は正しいし、音色は美しいのです。そこの意識が不足して、運指のみに頼って演奏している奏者の音程は不確かであり、音色もさほど美しくないのです。

 結局、フルートって、息なんだよね。息を楽音に変えて演奏する楽器だから、なんだかんだ言っても、息が大切なんだよ。

 息って何? って言えば、もちろん、人間の呼吸活動に伴う、主に呼気の事を言うのだけれど、おそらく、そういう理解ではダメなんだと、私は思ってます。

 息って“思い”なんだと思います。フルートをどう鳴らそうか響かせようかと思う“思い”なんだと思ってます。だから、音程であれ、音色であれ、どういう音で鳴らそうかという思いがまずあって、それを息で楽器に伝える事により、楽器は奏者の思いの音で鳴ってくれる…と私は考えています。だから、息は単なる呼気ではなく、奏者の思いであり、意思であり、もっと極端に言っちゃえば、魂であり、霊であるとすら思ってます。

 だから、フルートを吹くという行為は、奏者の思いを具体的な音に変換していく行為なんだと思ってます。

 オカルト気味の話だけれど、私は結構真剣に、そう信じています。

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2018年12月 6日 (木)

元気が良いのはダメなのです

 まずは声楽の話をしましょう。声楽では、元気の良い歌声はダメな声なのです。

 よく小学校あたりの音楽の時間に、先生が児童たちに向かって「元気にハキハキと歌いましょう」とか言っているけれど、あれはダメなのね。「ハキハキ」はともかく「元気に」はダメ、絶対にダメ。

 人は元気に歌おうとすると、全身に力をみなぎらせて歌ってしまいます。結果として、軽く怒鳴ってしまうわけです。で、そんな怒鳴った声(軽く歪んだ声だったりします)を聞いて、多くの人は「元気だなあ」と思うわけで、それを良しとするのは、日本人の感覚なのかもしれないけれど、少なくとも、クラシック声楽の世界では、元気な声はダメなのです。

 「じゃあ、声は腑抜けていた方がいいのかよ」

 いえいえ、そんな力みと一緒に魂まで抜けてしまったような声はダメです。じゃあ、どんな声がいいのか言えば…純粋な声(?)。教会堂に響き渡るとかっこよい種類の声が良いのです。柔らかいけれど密度の濃い声です。日本古来の発声のパターンにはない声なので、イメージ難しいね。日本人は詩吟の声とか義太夫の声、競りの声など、歪んだ声がDNA的に好きだからねえ…。

 次にフルートの話をしましょう。フルートで、元気の良い演奏は決して悪い演奏ではありません。曲によって、元気で快活な演奏は必要です。しかし、元気の良い音で演奏してはいけません。元気の良い音とは、息を吹き込み過ぎな音になりがちです。金管楽器なら、音が厚くなって良いかもしれませんが、フルートでは過剰な息は、音が割れてしまう原因になります。破鐘のような音でフルート演奏したら興ざめだものね。

 かように「元気が良い」という言葉は、普通の生活の中ではプラスの意味を持つ言葉であっても、これが音楽関連に向かって使われた時は、その指し示す内容をきちんと吟味して考えないといけません。モノによっては「元気が良い」が必ずしもプラスな結果をもたらすとは限らないのですから…。

 少なくとも、声楽とフルートにおいては、元気はそこそこで、美しさを余力で探し求める事ができるくらいが、ちょうど良いのかもしれません。なんとも難しい話です。

 “元気が良い”事よりも“美しい”事の方が優先順位が高い…と考えていれば、間違えていないと思います。

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2018年12月 5日 (水)

いつまでレッスンに行ける? いつまで音楽で遊べる?

 ちょっぴり切なくなる話をします。

 私もいい年したオッサンです。いや、爺さんかな? 孫はいないけれど、孫がいても不思議じゃない年だしね。今はまだ元気だし、収入もあるし、忙しいと言いながらも、音楽趣味を続けて、毎日を楽しく過ごしています。

 音楽趣味が無かったら、今頃、仕事のストレスで、ズタボロになっているかもしれません。そういう意味では、音楽で遊べてよかったなあと思ってます。

 で、その音楽趣味って、いつまで続けられるかしら?

 ポイントは、収入と健康と体力ですね。

 収入は…今は現役だから、なんとかなっているけれど、音楽趣味って、基本的にお金がかかる趣味なんですよね。レッスン代は安くないし、発表会や合宿があれば、万札がふっ飛びます。衣装代や楽器のメンテ代もかかります。年金ぐらしで、そんな生活、できるのかしら?

 健康には…自信がありません、全くありません。基本、病弱だものね、脆弱の虚弱だものね。今は健康でも、時がくれば、がっくりきて、ばったりになってしまうかもしれません。あと、何年、元気でいられるか? それ以前に、あと何年、生きて音楽できるのかしら?

 体力は深刻だよね。声楽にせよフルートにせよ、私は歩いてレッスンに通ってますので、歩けなくなったらレッスンにいけません。声楽にせよフルートにせよ、演奏する時は立ったままですか、起立し続けるのが難しくなったらできません。私はおデブちゃんだから、他人よりも、歩いたり立ったりするのが、早い段階でできなくなりそう。膝が壊れたら、一巻のおしまいだしね。

 それと、声楽のY先生は年下だから問題ないとして、フルートのH先生は、かなりのお年なんだよね。時折、引退をほのめかされるけれど、そんなに遠くない将来、H先生は引退されるだろうし、先生が引退されたら、それは同時に私のフルーティストとしての引退だろうなあって思ってます。だってね、一度、H先生のようなすごい人に師事しちゃったら、趣味のオジサン的には、次は無いよ(笑)。よほどの先生についたとしても、結局物足りなるだろうし、そうなると、お互いの不幸になるのは分かるもの。だから、H先生の引退は私の引退なんだけれど、H先生の引退も、すでにカウントダウン状態だから…ねえ。

 人の寿命には限りがあり、未来永劫、今日が続くわけではありません。やがて、私も、私の周囲の人も年をとり、衰えていきます。楽しい音楽の時間にも終わりがあります。

 ああ、あと何年、音楽で遊べるのかな?

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2018年12月 4日 (火)

世界最高クラスの吹奏楽のコンサートを聞いてきた

 少し前の話になりますが、世界最高クラス…だと思われる吹奏楽のコンサートを聞いてきました。もちろん、推定世界最高クラスなのですが、おそらく同意される方も大勢いらっしゃるかと思います。

 何を聞いてきたのかと言えば『自衛隊音楽まつり』です。出演部隊は以下の通りです。

陸上自衛隊中央音楽隊
海上自衛隊東京音楽隊
航空自衛隊航空中央音楽隊
陸上自衛隊東北方面音楽隊
陸上自衛隊西部方面音楽隊
陸上自衛隊第302保安警務中隊
防衛大学儀仗隊
自衛太鼓

在日米陸軍軍楽隊
米海兵隊第3海兵機動展開部隊音楽隊
バガッド・ド・ラン=ビウエ軍楽隊(フランス海軍所属)
シンガポール軍軍楽隊

 コンサートの開催自体は(連載の都合でタイムリーに記事をアップできませんでしたが)本当に素晴らしいコンサートでした。

 自衛隊…と聞くだけで、拒否反応を示す方もいらっしゃるかと思いますが、そういう偏見を取り除いて、純粋に音楽団体として見た場合、ほんと、自衛隊と言うのは、世界最高クラス演奏団体だと思いました。なにしろ、吹奏楽嫌いな私(ごめんなさい、でも巷の吹奏楽の演奏って苦手なんです)なのに、彼らの演奏には感動して、幾度となく感動の涙を流してしまったくらいです。私が嫌いなのは、吹奏楽ではなく、下手くそな吹奏楽の演奏だったのだと、よく分かりました。とにかく、音楽のジャンルを越えて、素晴らしい演奏だったのです。

 そもそも、吹奏楽の起源は軍楽だという説もあるくらいですから、自衛隊の演奏がピカイチなのも、そりゃあ当たり前と言えば当たり前の話なのかもしれません。

 それでは、時間を追って書いていきたいと思います。

 この(あえてこう書きますが)コンサート、実は無料公演なのです。インターネットで申し込みをして、当選すると入場券代わりのはがきが送られてくるのだそうです。で、このはがきのチケットがプラチナチケットで、まあ、簡単には当選しないのだそうです。私なんかは運がない人なので、こういう抽選式のコンサートって、まず当たりません。

 ちなみに、抽選に外れたら転売屋(いわゆるダフ屋、最近はネットで販売するケースが多い)に世話になる人もいらっしゃるみたいですが、その転売価格が高いです。そもそもタダ券なのに、10万円オーバーがザラです。元手がかかっていないのに、この高価格。ダフ屋もいい商売です。

 実はこのコンサートには、出演する隊員さんが家族や知り合いに配るチケットがあります。いわゆる、関係者チケットって奴です。これははがきではなく、普通のチケットなのですが、私の知り合いに、今回のコンサートに出演される隊員さんがいましたので、その方からいただいたチケットで入場しました。別に不正は働いていないし、チケットを分けてくれた隊員さんの演奏は、一生懸命応援したしね(義務は果たしたぜ!)。

 会場は日本武道館です。全席自由席という事もあって、事前に“行列が出来る”と聞いていたので、開場時間の1時間前に現地に到着したのですが、その段階で数百メートルもの入場待ちの行列が出来ていました。ちょっと目がくらみました。足の骨折を抱えているのに、1時間も屋外でただ立って待っているだけ…と言うのも、なかなかつらい体験でした。

 やがて開場時間になり、行列もどんどん前に進み、やがて日本武道館にたどり着きました。入場直前に手荷物検査を受けました(テロ対策としては当然だね)。武道館には正面である南側から入ったのですが、私が入った段階で、正面席はすでに満席。そこから西側に移動していったのですが、私が確保できた座席は、一階の南西席と西席の境目の席で、舞台をほぼ真横から見るような感じの、観劇的にはかなり残念な座席になりましたが、代わりに舞台上部にある特大モニターがよく見える席だったので、まあ良しとしました。

 それにしても、要所要所で案内をしている人も、当然隊員さんなんですが、彼らは実に有能です。あれだけの大人数を、何の迷いもなく、極めて適切にスムーズに案内するんですよ。なので、ほんの短時間で、大きな混乱もなく、観客達はスムーズに着席できちゃうんですよね。いやあ、自衛隊って有能優秀。

 私、日本武道館に入ったのは、これで人生二度目[最初は若い時にビリー・グラハム師の集会に出演者(合唱団メンバーです)として入って、ハレルヤコーラスを歌いました]で、全く不慣れな場所で、なかなか落ち着けなかったのですが…いやあ、武道館って、施設としては古いなあ…。座席は小さいし、冷暖房はダメダメだし、客の動線も良くないし、バリアフリーからは縁遠いし…。なにしろ、ここでビートルズは歌っているわけで、音楽ホールとしては、もはや骨董品だよね(って、ここは音楽ホールじゃなくて、武道館だってば:笑)。

 演奏は、最初に書いた通り、感動&感涙ものでした。音楽には力があるから、きちんと演奏するだけで、人の魂を揺さぶるんですね。普段は、プロアマ含め、なかなかきちんとした演奏を聞くことが少ないので、感動しにくいのです。特に吹奏楽は、アマチュアの音楽ですから、稚拙な演奏も多く、感動しにくいです(ごめん)。

 それにしても、各部隊とも、本当に上手です。歩きながらのマーチング形式で演奏していたのですが、高い水準で行動も音楽も一糸乱れないのです。これを見ちゃったら、他のマーチングは見られません(ほんと、ごめん)。とにかく、すごいです。

 特に日本の部隊は、どの隊も完璧な演奏で、最初は録音を流しているんじゃないかと錯覚するくらいに、あらゆる意味でバランスの取れたスキのない演奏をしていました。あと、最近話題の自衛隊の歌姫の方々が5人も出演されて、眼福でございました。

 ゲスト出演された、外国の部隊もそれぞれに個性的でした。日本の部隊は、いわゆる吹奏楽を演奏したのですが、アメリカの部隊は…ありゃあ吹奏楽ではなく、ブラスロックだね。とにかく、どの曲でもエレキギターが唸る唸る…、アルトサクソフォーンがバリバリ吹き鳴らすわけです。あと、日本の部隊は歌姫がスタンダードナンバーでヴォーカルを取りますが、アメリカの部隊では男性歌手(テノールだね)がロックナンバーでヴォーカルを取ります。お国柄の違いが出ます。

 フランス軍は、バグパイプとチャルメラ(ってラーメンじゃないよ、小型のオーボエね)が大活躍していましたし、シンガポール軍はダンサーさんが大活躍してました(たぶん、あのダンサーさんも兵士なんだろうね)。

 中でも、私が一番感動したのは、第302保安警務中隊の皆さんの行進です(音楽じゃなくてごめん)。この方々は、いわゆる“特別儀仗隊”の方々で、音楽の演奏は一切しないで、ただただ会場を行進し、持っている銃剣を上げ下げするだけなのですが、それがとっても感動的なのです。この方々、普段は、我が国を訪問される国賓の方々を迎える役目の兵隊さんで、他国では近衛兵と呼ばれる仕事をしている方々なのです。やっている事は、ただの行進なんだけれど、それがとても美しいし感動的なのです。彼らの素晴らしさを表現する言葉を私は持ち合わせていませんが、とにかく素晴らしいのです(詳しくは、下に貼った動画を見てください)。

 防衛大学校の儀仗隊の皆さんは、ファンシードリルを見せてくれました。正直、第302保安警務中隊の後では、学生さんたちの動きは見劣りしてしまいます(ごめん)が、第302保安警務中隊の方々は、ただ行進するだけですが、防衛大学校の皆さんはダンス的なフリもあり、なかなか見応えありました。最後に空砲で一斉射撃をするのですが、その爆音に、私は耳を持っていかれました。よく、大きな音を聞いて、耳がツーンとすると言いますが、私はアイスピックで両耳を刺されたような痛みを感じました。いやあ、マジで痛かったです。もっと前の席で聞いていたら、マジ、ヤバかったかもしれません。

 自衛隊と言えども、音楽を演奏する部隊の隊員の皆さんはミュージシャンなわけで、我々一般人と比べると、かなりガタイはいいと言うものの、それでも一般人の範疇の体格なのですが“自衛太鼓”と呼ばれる和太鼓を演奏する隊員の皆さんは一般隊員なんだそうです。自衛太鼓は一般隊員の方々の“部活動”として活動されているという事で、その演者もみな一般隊員の方なわけで、ほぼ全員、レスラーのような体格をしていました。みんな、肩からふともものようなモノが生えているんですよ(笑)。そういう人が二百名前後登場して、それぞれが和太鼓を叩きまくるんです。

 これ、すごいなんてもんじゃないです。

 音って、普通は耳で聞くものですが、この自衛太鼓は耳ではなく、全身で聞きます。いや、全身で聞こえちゃいます。肘や膝で音が聞こえます。足の裏やお尻でも音が聞こえます。胸や腹や背中でも聞こえますし、指先なんて、ハミングをしている時の口腔みたいにビリビリ震えます。音は振動だ…という事が理屈抜きで体感できます。その音圧だけで感動します。『雷鳴』という曲を演奏していましたが、本物の雷鳴よりも、もっと雷鳴でした。この凄さは、録音や中継では伝わりません。実際、この下に貼った公式動画でも、自衛太鼓のパートは音声トラブル?のために大きくカットされているしね。

 休憩なしの2時間のコンサートでしたが、ほんと、あっという間に終わってしまいました。コンサート自体はネットでも中継されましたし、その動画もネットには残っていますし、ここにも貼りましたが、このコンサートの本当の素晴らしさは、やはり直接会場に行って、その目で見て、その耳で聞いて、全身で音楽を感じないと分からないと思いました。下の公式動画でも、その魅力の1/100の伝わってないもの…。いや、ほんと、実際はこんなモンじゃなかったんだよ。

 こんな音楽体験、しようと思って出来るものじゃありません。そういう意味では、よい経験ができました。チケットを分けてくれた隊員さん、ありがたやありがたや…。

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2018年12月 3日 (月)

テノールとバリトンの違いは、気持ちとテクニックの問題でしょ(クイーンの話)

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットしているそうです。私も見てきました。私の感想としては「映画としては、かなり面白いけれど、クイーンを見たけりゃ、ミュージックビデオ集を見た方が楽しめるなあ…」って感じかな? 

 私の個人的な感想はさておき、映画のヒットと一緒にクイーンとフレディ・マーキュリーが再注目されているそうです。クイーンのファンとしては、嬉しい限りです。

 で、そのフレディの声の話。最新の研究成果では、フレディの声はバリトンなんだそうです。ただし、バリトンと言っても、かなり高いバリトンで、いわゆるテノリトンとかバリノールとか呼ばれるタイプの声だったみたいです。

 私としては「だからどーなの? フレディの声はテノールでしょ?」って思ってます。

 ノド(声帯)と声って、密接な関係はあるけれど、必ずしもイコールではないわけです。もちろん、声はノドの制限を大きく受けるわけで、いくら努力しても物理的に無理な事は無理なのです。テノールのノドの人がバスは歌えないし、その逆も無理。この2つの声種の間には、広くて深い谷があるからです。

 でも、テノールとバリトンの間にある谷は深いけれど、そんなに広いわけではありません。人によっては、ぴょんと飛び越えることが可能な程度の広さだったりします。

 実際、世界的なテノール歌手たちも、そのキャリアの初めはバリトンだったと言う人は、たくさんいるし、テノールでありながらもバリトンの歌も歌っちゃう人もいます。有名なところでは、ドミンゴがそうだし、デル・モナコやベルゴンツィなんかもそうです。現役歌手で言えば、彼らはバリトン役は歌ってませんが、クーラやカウフマンなどのノドは、おそらくバリトンでしょ。

 持っているノドがバリトンであっても、テノールでありたいという強い気持ちと、発声テクニックがあれば、テノールとして活躍できます。

 だから、フレディのノドがバリトンであったとしても、彼の声はテノールなのです。だいたい、あんなエキセントリックな性格の持ち主がテノール以外の声で歌いたいとは、絶対に思わないでしょ? フレディなんて、典型的なテノール気質じゃない?

 あと、フレディの声域が4オクターブではなかったと記事に書いてあるけれど、この世に4オクターブの男声歌手って存在するの? 滅多にいないよ。

 大抵の男声歌手の声域って、いくら広くてもせいぜい2オクターブ前後です。むしろ2オクターブも出せれば、声域は広い方です。

 ちなみにバスの最低音からテノールの最高音までが、約3オクターブです。もし4オクターブの声域を獲得したいなら、バスからカウンターテナー(音域的にはアルトですね)までの声を駆使しないといけません。たまに、本業はバス歌手だけれど、たまにカウンターテナーも歌いますという歌手さんもいますが、そういう人は確かに音域が4オクターブ…って言えるかもしれませんが、そういう方って、途中の声域が中抜けだったりするんだよね。つまり、テノール音域がうまく歌えなかったりします。

 フレディの声は中抜けじゃないし、バス歌手のような低い声は出していません(し、出ないでしょう)。声的には、普通にテノールであって、声域的にも極端に広いわけではありません。実際、クイーンの多重録音されたコーラスの中でも、高いパートはフレディじゃなくて、ロジャーが歌っていますので、実はフレディって、そんなに高音が得意な歌手ではないのかもしれませんが…高音が得意ではないテノール歌手なんて、掃いて捨てるいるので、そこは問題ではないと思います。

 それにフレディは、声の高さとか声域の広さで勝負している歌手ではありません。密度の濃い声と、説得力のあるヴォーカルテクニックとで、独自の世界観を表現している唯一無二の歌手なわけです。フレディの前にフレディなし、フレディの後にフレディ無しです。私はそう信じてますです。

追伸 最近のクイーンは、三代目のヴォーカリストである、アダム・ランバートと共に活動しています(二代目は、バッド・カンパニーのヴォーカルでもあるポール・ロジャースでした)。しかし、あまりにフレディが偉大すぎて、現在のヴォーカリストさんが全く注目されないというのも、困ったものです。いつまでも過去にしがみついていても仕方ないし、死んじゃったフレディが生き返るわけじゃないし…ねえ。

 というわけで、最近のクイーンって、こんな感じのようです。

 これはこれで悪くないと私は思いますよん。

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2018年12月 2日 (日)

日本って豊かだよなあって思うとき

 私は現代日本に生まれ、そこで生活できることに幸せを感じていますし、この幸せを自分の子どもや子孫たちにも享受してもらいたいと思ってます。とにかく、平和である事、経済的に豊かである事は、とても大切でとても幸せな事だと思ってます。

 特に、豊かである事で得られる恩恵には感謝するしかないと思ってます。ほんと、日本って豊かだよね。

 で、こんな私が「日本って豊かだよな」と思う瞬間って、あれこれあるのですが、その中から、私が特に「日本って豊かだよな」と感じる事を3つばかり書いていくのが、今回の記事の趣旨です。ほら、自分たちが幸せである事を自覚し、感謝するって、大切な事だものね。

1)引きこもりが許される事

 引きこもり…いわゆる“ニート”ですが、彼らの存在が許されてしまう日本って、ほんと豊かだと思います。もちろん、家族に引きこもりがいる家庭は、本当に大変だと思いますが、大変だ大変だと言いながらも、引きこもった家族の生活(と遊興)の面倒をみられるほどに、日本の社会は豊かなんだと思います。

 貧しい社会なら「働かざるもの食うべからず」です。日本だって、バブル経済期以前なら、そうだったと思います。学校を卒業した“いい年した大人”が「働いたら負け」とか言いながら、毎日遊んで暮らせるなんて、ほんと、リッチでゴージャスな生活ですって。貧しい社会なら、そんな遊び人を養えるような余裕は社会にないし、家族だって、そんなゴク潰しを養えるような余裕はないし、そもそも貧しい社会には遊びだってあってないようなモノですから、本人も働くしかないし…。

 引きこもりって、褒められた存在ではないけれど、彼らが存在出来る社会って、極めて裕福で余裕のある社会なんだと思います。

2)子どもでもiPhoneを持っている事

 日本の一般的な家庭の場合、子どもが中学生や高校生になると、スマホを買い与えるようです。統計によれば、高校生の95%はスマホを所持しているそうですし、ウチも息子に高校生の時にスマホを買い与えたと思います。

 で、ウチの子には、iPhoneを買い与えました。別に深く考えたわけでもなく、親たちもiPhoneを使っているから、息子にもiPhoneを…程度の考えです。これまた統計によると、高校生が所持しているスマホのうち、iPhoneが占める割合は60%超であり、女子は70%ほどにもなるそうです。つまり、大半の高校生はiPhoneユーザーであると言えます。

 でもね、iPhoneって、Appleという意識高い系の会社の高級なブランド品なんですよね。

 スマホには、iPhone以外にもAndroid系のモノがたくさん販売されていますし、実際、世界では、圧倒的にほとんどの人は、iPhoneではなくAndroid系のスマホを使っています。そのシェア率は90%前後にもなるんだそうです。

 Android系のスマホは、OSがオープン規格なので、世界中のメーカーが製造していますので、高級機から廉価機までラインナップは広く、価格の幅も広く、我々日本人は滅多に見ませんが、中国製のスマホなんて、本当に安いんですよ。スマホを実用本位で考えれば、別に中華なスマホでも問題はないわけで、世界中の人たちは、そういった安いAndroid系のスマホを使っているんです。

 でも日本人は、先の高校生じゃないですけれど、国民の70%超の人たちがiPhoneを使っているんです。これって、日本だけに顕著な現象なんですって。iPhoneの本国であるアメリカですら、iPhoneユーザーは40%前後で、残りは当然Android系です。だいたい、Android系のスマホユーザーよりもiPhoneユーザーの方が多いのは、日本ぐらいなのです。

 つまり、日本人はみんな、高級ブランド品であるiPhoneを愛用している。それも大人だけでなく、子どもたちもiPhoneを持っている。それほどに、日本は豊かである…って事なんです。

 すごいよね。

3)出入国管理法が野党の反対を押し切って改正されちゃうほどに、外国人労働者が増えちゃう事

 出入国管理法については、私も言いたいことや心配することが山のようにありますが、今回はそれには触れません。ただ、法律を改正する事で、これからの日本には、多くの外国人労働者が増えるでしょう。それは日本が外国人労働者を必要としているという事実がある一方で、外国人たちも日本で働きたがっているという側面があります。

 豊かな国には、周辺諸国の貧しい国から仕事を求めて多くの人が集まってきます。ヨーロッパやアメリカは現にそうであるし、日本もそっちへ舵を切るんだろうなあって思うわけです。

 逆に貧しい国からは国民が逃げます、脱出します。あるいは避難したり、捨てられたりします。かつての日本がそうだし、隣国の半島の国がそうだし、今も昔も近所の超大国じゃあ人民が国を捨てて海外に逃げちゃうのはデフォルトです。

 貧しい国からは人々が逃げ、豊かな国には人が集まってくる…なんとわかりやすいのでしょう。

 つまり日本は、出入国管理法が改正されちゃうくらいに、豊かって事なんです。

 ああ、わかりやすい。でも、不足している労働力を補うために外国人労働者を入れるのは全然構わないけれど、日本人の職場を奪ってしまうほど外国人労働者を入れるのは、ちょっと困りモノです。

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2018年12月 1日 (土)

金魚水槽の水換えは、もう少し頻繁に…

 つい先日、ようやく金魚水槽の水換えをしました。今回の水換えは、前回の水換えから、なんと8週間も空いてしまいました。つまり、丸二ヶ月、水換えをしなかったわけです。

 とりあえず、病気などは発生せず、金魚たちは健康に過ごせましたが、本来やるべき事を溜めていたので、あれこれ大変でした。

 まずは、金魚が食べ終わったタニシの殻を回収して捨てるのですが、今回コップに二杯分のタニシの殻を捨てました。いやあ、大変。いやあ、たくさん。タニシは金魚の生き餌なので、食べるのは全然かまわないのですが、それにしても食べる量が多くて大変でした。

 実は今回の水換えをしなかった期間、一度水草が無くなってしまった事があります。ナゼ無くなったのかと言えば、金魚たちが食べちゃったからです。金魚は、普段、おやつとして水草を食べています。水草は食べやすいので、まずはここから減るわけです。で、それを食べ終わると、次にタニシが食べられます。タニシは(金魚的には)美味しいようですが、水草と比べると、食べるのが大変なので、水草を美味しく食べられる時期は、あまりタニシは減りません。水草を食べ尽くしてしまうと、面倒臭さを乗り越えて、タニシが減り始めます。まあ、そんなモンなんです。で、今回は水草が無かった時期が少々あったので、それでたくさんのタニシが食べられてしまったわけで…その片付けが溜まってしまっていたわけです。

 ポンプのフィルターの汚れがすごかったですね。ま、当然と言えば当然なのですが、本当にめちゃめちゃ汚れきっていました。

 水を替えなかったので、水槽の砂利の汚れもすごかったです。砂利の掃除にも手間がかかりました。

 というわけで、人間にとっては、水槽の水換えは、溜めてしまった分だけ手間暇がかかりましたが、金魚にとっては、水を含めて、様々な環境が激変したわけで、本当はその変化を最小限にとどめてやらなければいけないわけで、そういう意味でも、水換えはこまめにやるべきなのです。

 でもね、ここ二ヶ月は、本当に忙しかったんだよ。

 次は年末に大掃除を兼ねて、水換えをしてあげるつもりです。

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