ひとこと

  •  やっとネット社会に復帰します。今後は日帰りで遊びに行く事はありますが、家を空ける事はないので、ネットでの反応も普通どおりに行けるんじゃないかと思ってます。とりあえず、外泊で使ってしまった体力の復活を目標に、しばらく大人しくしているつもりです。
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2018年6月の記事

2018年6月30日 (土)

緋ドジョウがやってきました

 最近、どの金魚店に行っても、めったに緋ドジョウを見かける事が無くなりました。何があったのかは知りませんが、どうやらここ数年、緋ドジョウの流通が少なくなってきたようです。なので、我が家でも、以前いた緋ドジョウたちが星になって以来、緋ドジョウではなくマドジョウを入れています。

 ま、そのマドジョウたちも4匹いるはずなのに、どうやら現存しているのは、たった1匹のようなのです。不思議です。

 どう考えても、ドジョウパワーが不足している我が家の水槽です。できれば、次のドジョウは、愛らしくてペットとしての自覚もある緋ドジョウにしたい…と願っていました。

 しかし、緋ドジョウが欲しいけれど、入手が困難…ってわけで、ジリジリしていたのですが、先日、ひょんな事で、出先で通りかかった、よく知らない金魚店で緋ドジョウを入手してしまいました。

 それも2匹も。2匹と言っても、その店にいた全部なんですが(笑)。ちなみに、大きさは極小タイプで、緋ドジョウのくせに、一見するとメダカにしか見えないくらいに、細くて短い子たちでした。きっと、ほんのベイビーなんだろうと思います。

 で、1匹、950円。以前は、緋ドジョウって、高くても400円前後でしたから、値段が倍近くするわけで、それほど緋ドジョウは入手困難ってわけなんでしょうね。

 とにかく、小さくてかわいい緋ドジョウを2匹、我が家の水槽に入れました。で、あれから一週間経ちましたが、あれ以来、全然緋ドジョウたちの姿を見かけません。全然、見ないんですよ。

 緋ドジョウはドジョウだけれど、他のドジョウたちほど、身を隠すのに熱心ではありません。人間に姿をよく見せてくれる子たちなので、一週間も身を隠しているなんて事は、まずありません。実際、この一週間で、普通は身を隠して見せてくれないマドジョウの方は、毎日のように見かけていますからね。緋ドジョウの姿が全然見えないのは、全く不思議なのです。

 妻は、緋ドジョウを水槽に入れた、その晩、金魚たちが緋ドジョウを食べてしまったのではないか…と疑っています。まあ、今回の緋ドジョウたちは、メダカサイズだから、金魚のクチにラクラク入っちゃうんだよね。メダカを大量に水槽に入れた時は、その日の夜中に、半分近くのメダカを金魚が食べてしまったという前歴があります。

 ああ、貴重な緋ドジョウたちが、金魚の生き餌になってしまった可能性は…否定できません。それにしても、生き餌だとしたら、1匹950円だよ、二匹で1900円だよ、すっごく高価な金魚のエサって事になるわけだ(涙)。

 水槽のどこかにじっと隠れている…って事はないのかしらねえ。

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2018年6月29日 (金)

東山魁夷の作品を見るのを楽しみにしています

 フルートのレッスンに行ってきました。

 頑張りましたよ、私。この日は、具合が悪く、お昼すぎに早退して家で倒れていたのですが、ちょうどレッスンに行く時間の頃に目が覚めて、体調は激悪だったけれど、ここで目覚めたのも何かの縁だと思い、少ない元気を奮い立たせてレッスンに行ってきました。

 ここんとこ、仕事の都合でレッスンを休んでばかりいるので、体調不良くらいじゃレッスンは休めません!

 で、お教室に入って、まずは珍しくチューナー使って細かくチューニングしました。いつもは姉様のレッスンがあるのですが、今回はそれもなく、先生はお教室のロビーでコーヒータイムだったので、そのスキマ時間にチューニングです。いつも、フルートを組み立てたら、チューニングせずに、耳で音を合わせて吹いていましたが、今回は事前にチューナーを使ってチューニングできたので、ロングトーン練習が楽でした(笑)。いやあ、フルートは(演奏者に耳さえあれば)チューニングの必要のない楽器だけれど、事前にバッチリ、チューニングしてあれば、ほんと楽です。いやあ、ほんとのほんとに楽でした。

 なので、本日のロングトーンの練習は、いつも以上に良い出来でした。

 でも、よく出来たのはここまででした。なにしろ、ほとんど自宅練習してないからね。宿題なんて、全然出来てません。

 エルステユーブンゲンは、いつもどおり23番と24番。暗譜どころか、ミスブロー多発、それも吹いているうちに、運指が分からなくなるという、生まれて初めての経験をしました。それも難しい音の運指ではなく、第一オクターブのA、つまり“ラ”の運指が分からなくなり、軽くパニクりました。いやあ、なんで“ラ”の運指を忘れてしまったのだろう…。

 プチエチュードは19番。前回吹けていたところもダメになってしまいました。

 なぜ、前回吹けていたのに、今回吹けなくなったのかと考えてみると…前回は譜面がまだ読めていたのですよ。でも今回は譜面がちゃんと読めず、譜面の読み間違いを何度もしてしまったのです。譜面も、しばらく見ていないと、読めなくなるものなのですね、いやあ、ビックリしました。バッと見て、その音符が“レ”なのか“ファ”なのか分からなくなって、指が止まっちゃうなんて経験、なかなか出来るものではありません。貴重な体験をしてしまいました。

 40リトルピーセズの13番は、ようやく曲の全貌が掴みかけてきたみたいで、まあまあ形になっていましたが、細かいところがまだまだなので、不合格となりました。14番は「まだ全然吹けません」と自己申告したところ「じゃあ次ね」と先生がおっしゃってくださって吹かずに済みました。いやあ、ほんと、全然吹けないので、この曲にチャレンジしても、時間の無駄にしかならないので、先生の判断は正しいと思います。

 合宿に向けての「ヴォカリーズ」は曲の前半だけ見てもらいました。もちろん、私的には、ほぼ初見での演奏です。いやあ、フレーズが長いなあ…。ブレスコントロールがとても難しいです。あと、リズムをきちんとキープしないとね。ピアノと一緒に練習できれば、ピアノの伴奏を聞いて、自分の演奏も加減できますが、ソロで練習していると、自分できちんと数えていないと、変なリズムになってしまうのが残念です。しっかり数えていなとダメだね。

 その数え方も、曲の拍子が4/4だからと言って、4分音符で数えると、なかなかうまくいかないみたいで、途中で8分音符で数えてみたら、うまくいきました。まあ、細かい音符を一拍としてカウントした方がより正確になるのは、まあ当たり前か。

 それにしても、こんなにフルートの腕が劣化しているのに、合宿に行って…大丈夫なのかしら…ねえ?

 で、本日の雑談は、その合宿関係の話で、ぜひ長野にある東山魁夷の美術館に行くべきだという話でした。いやあ、私も行きたいのですよ。でも、前回は美術館がお休みで行けなかったし、前々回は美術館よりも善光寺さんにお参りに行くべきだろうと善光寺さんを優先してしまったので、行けなかったのです。今回こそは、東山魁夷の美術館に行って、しっかり目の保養をしてこようと思っているのです。

 というわけで、先生から東山魁夷の鑑賞ポイントなどをあれこれ教えていただいたので、今年の美術館見学が、とてもとても楽しみな私なのでした。

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2018年6月28日 (木)

コンクール出場についての私感です

 春~夏のこの時期、各地で音楽コンクールが開催されています。私も、公開されているコンクールは、時間と場所の折り合いが付けば、なるべく見に行くようにしています。やはり若い才能は、見ていて微笑ましいですからね。

 で、コンクールというのは、その本質は、一種の品評会であって、これから市場に出ていく商品の市場出荷価格を決めるために行われるものであります。つまり、音楽コンクールに関して言えば、これらのコンクールに出場する人たちは、これからプロとして活躍をしようと志している若いプロの卵たちであって、玉石混交な彼らの中から、有能で優秀な若手を一人ないしは二人見出して、選別して、そんな有能で優秀な彼らの前途をサポートしていくのが、コンクールなのです。文字通りの“登竜門”として機能しているのが、各種音楽コンクールなわけです。

 とは言え、音楽コンクールも営利事業なわけで、プロの卵の品評会だけでは、その運営が成り立たないものもいくつかあります。なので、プロの部門以外に、アマチュア部門とか、愛好家部門とかも併設されているコンクールも多々あるわけで、今回記事にするのは、そっちのアマチュア向けのコンクールと、その参加者についてです。

 実は私、キング先生に師事していた頃は、先生から頻繁にコンクールに出場しなさいと勧められていました。

 どこのコンクールに出場するかは先生が決めるから、是非是非出場しなさいと言われていましたが、当時はのらりくらりと言い訳をして、結局出場しないままで終わりました。

 ちなみに、Y先生に移ってからは、コンクールのコの字もありません。

 なぜ当時、先生に強く勧められていたにも関わらずコンクールに出なかったのかと言うと、理由は3つありました。

 1)予選はたいてい平日に行われ、仕事を休んでまでコンクールに出場しようという熱意がなかったから。まあ、休日にコンクールが行われていたら、ひょっとしたら出場したかもしれませんが、コンクールって、本選はさすがに土日に行われる事が多いのですが、予選って、たいてい平日なんですよね。私、これでもサラリーマンの端くれでございますから、平日は休みが取りづらいのですよ。なので、コンクール参戦には積極的になれなかったわけです。

 2)伴奏者は自分で用意しないといけないから。まあ、現在なら、伴奏を頼めるピアニストさんのアテも複数ある私ですが、当時は伴奏を頼めるピアニストさんの知り合いなんて、プロアマ問わずいなかったのです。コンクールに参加するために、ピアニストさんを探すところから始めないといけないと思うと…憂鬱になったわけなんですね。

 3)自分に自信がなかったから、…と書くのが正しいと思いますが、当時の私は、その当時の自分の力量を割と正確に把握していたと思います。で、その力量から考えるに、コンクールに出場して、格付けされるにはまだまだ力不足だと認識していました。つまり、コンクール出場なんて、場違いだなあと思っていたわけです。この件に関しては、今の力量ですら、まだまだ場違いだと思ってます。コンクールの場で歌うには、明らかに、決定的に、絶望的なほどに、力量が不足していると思っております。なのになぜ、当時のキング先生は、あんなに私にコンクール出場を勧めてきたのか…全く分かりません。

 というわけで、私自身はコンクール出場に関して、考えたことはありますが、実行に移したことはないわけです。ま、覚悟ができなかった…んですよ。でも、だからと言って、他の方(特にアマチュア)の方々がコンクールに出場することに関しては、割とオープンマインドであったりします。

 と言うのも、コンクールって、プロとアマでは、その意味合いが全然違うからです。プロにとっては、コンクールに勝ち残るってのは、ある意味、一生をかけた大勝負なわけですが、アマチュアの場合、コンクールで優勝したところで、その日のお酒が美味しくなるくらいなもので、特に大きな実利はありません。逆に言えば、予選落ちを何度もしようと、その後の人生に特に大きな影響も与えません。なので、アマチュアのコンクール出場に関しては、当人の覚悟さえ決まるなら、気楽に考えてもよいのだろうと思ってます。

 アマチュアの場合、コンクールに出場しても大きな実利はないと書きましたが、そうは言っても、小さな実利はあります。それらは以下の通りです。

 1)勝ち残ると嬉しい。ま、そうですよね。

 2)講評がいただける。自分の歌に関しての他人からの冷静な批判って、なかなか言ってもらえないのが普通ですから、ちゃんとした専門家から講評してもらえるのは、良いことかもしれません。

 3)ホールでドレスで着飾って歌える。アマチュアさんの中には、なかなかホール演奏の機会のない人もいますし、ドレスで着飾って歌う機会のない人もいます。そういう人にとっては、コンクール出場って、貴重なホール&ドレスのチャンスなんですよね。

 と言うわけで、コンクール出場と言うのは、アマチュアにとって、全く無意味というわけではなく、これら小さな実利を大切に感じている人にとっては、大切な事なんだろうと思います。

 で、コンクール出場に関して、周囲に相談せず黙って出ちゃうという人が少なからずいらっしゃると聞きますが…これは、主に(悪い結果になったら)恥ずかしいから…なんだそうです。まあ、その気持ちは分からないでもないですが、たとえお友達には黙っていても、もし先生について学んでいるなら、事前に先生だけには相談しておいた方がいいですよ。と言うのも、あなたがコンクールに出場すれば、あなたには、必ず先生のお名前がついて回るわけで、先生にしてみれば、自分が承知していないところで自分の生徒がコンクールに出場して、あれこれ言われちゃうってのは、あまりうれしくない事だからです。だから、周囲の人には黙っていても、先生にだけは事前に相談してコンクールに出場した方がいいと思います。

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2018年6月27日 (水)

では歌は独学で学ぶ事は可能だろうか?

 フルートは独学でも十分学ぶことが可能だと結論づけた私ですが、では歌に関してはどう言うべきか…というのが今回の記事となります。

 フルートでも“吹ける”の基準をかなり下げた私ですが、同様に歌でも“歌える”の基準をかなり下げれば、独学でも歌は学べる…と言いたい気もしますが、そこは器楽と声楽の違いもあり、なかなか言い切るのが難しいと思ってます。

 結論を言ってしまうと、歌に関しては独学は意味がないと思います。なぜなら、歌える人は学ばなくても歌えるし、歌えない人は独学したくらいじゃ歌えるようにはならないからです。

 分かりやすく言えば、フルートを独学で学ぶために必要な、楽器(フルート)と初心者向け教則本は、ちょっと立派な楽器店に行けば売っているので、それを購入して始める事ができますが、歌に関しては、楽器(歌声)も初心者向け教則本も、楽器店では売っていません。つまり、歌に関しては言えば、楽器も買えなきゃ、教則本も入手が難しいのが現実なのです。

 つまり歌に関していえば楽器(歌声)は購入できないので、必ず自分で作らないといけないわけだし、教則本も無いので、歌を上達するための決まりきった練習法もない…ということは、歌う人それぞれの得意不得意に合わせて練習メニューを考えていかないといけないわけで…そういう点を考えるならば、歌に関しては独学で学んでいくのは、ほんと、難しいと思うわけです。

 結局、歌に関して言えば、演奏法を学ぶ前に、楽器を作らないといけないし、作った楽器は一品物なので、その操作法も個別に学ばないといけないわけで、だから歌は、個人的に学ぶ以外に上達していく道はないのかもしれません。これは、クラシック声楽だけの話ではなく、合唱であれ、カラオケであれ、演歌であれ、民謡であれ、ロックやフォークであっても…です。

 歌は個人的に学ばないと、いくら経験を積んでも、決して上達しない事は、市民合唱団に行くと分かります。

 多くの市民合唱団では、個人レッスンはしません。演奏会に向けての曲の練習以外だと、せいぜい発声練習という名の準備体操をするくらいです。定期的に練習に参加すれば、歌うための筋肉が自然と鍛えられますから、入団直後と比べると、多少、地声が強くなる事はあるかもしれませんが、まあ、たいていはそれどまりです。

 合唱団では、音程の良い人は、最初っから良いですし、音程の甘い人は十年歌っていても甘いままです。よほど指導者の腕が良いわけでなければ、市民合唱団の歌などは、十年経っても二十年経っても、大きくレベルが変わるわけではありません。

 歌は、歌っているだけでは上達しないのです。

 だから、バンドのヴォーカルなどは、最初から歌える人が担当する事が多いのは、そういう事だからです。ギターを始めとする楽器たちは、最初は初心者で全然弾けなくても、練習をしていけば、やがて弾けるようになりますが、ヴォーカルに関しては、最初に全然歌えない人が担当してしまうと…いくら練習しても、たいして上達しないので、そのバンドはやがて行き詰まってしまうので、最初から歌える人がヴォーカルを担当するわけです。

 市民合唱団などは、歌えるメンバーが数名いれば、後はむしろ歌えなくて声も出ないメンバーがたくさんいると良いのだと思います。なにしろ、歌えなくて声も出ないメンバーは、演奏の邪魔になりませんし、団を(会費によって)経済的に支えてくれるし、運営も手伝ってくれるから、団としては、とても助かる存在なのです。

 むしろ市民合唱団等では、歌えないけれど声が出ちゃうメンバーというのは、大変毛嫌いされます。なぜなら、彼らは演奏の邪魔だからです。

 彼らが練習に真面目に参加していれば、やがて必ず上達するなら、誰も彼らを邪魔者扱いはしないでしょう。迷惑かけるのも一時の事であって、やがて上達して大事な戦力になる…と思えば、団だって彼らを大切に育てていくでしょうが、現実的には、彼らの歌が上達することは、まずありません。1年歌っても3年歌っても5年歌っても上達はしないのです。やがて上達しない自分に肩身の狭さを感じて彼ら自らが合唱を辞めてしまうか、そうでもなければ、団のお局さんたちが彼らをいびりまくって追い出すか…とにかく、邪魔者はやがて排除されてしまうわけです。

 なので、才能がある人はともかく、普通の人は、歌は独学ではダメで、きちんとした人の指導の元で学ばないと、残念な事に決して上達しないのです…と私は考えています。

 歌って、誰でも歌えそうな気がしますが、誰もが歌えるなら、世の中には音痴と呼ばれる人たちなんているわけないのです。でも悲しいことに、世の中には音痴と呼ばれる人たちは、少なからず存在します。彼らとて、きちんとした指導を受ければ、決して音痴のままではいないと私は思いますが、多くの音痴な人は、歌を学ぶ事はしないので、いつまで経っても音痴なままなのです。

 歌を独学で学ぶのは、とても難しい事だと思います。声楽は器楽ほど、一般人に優しくはない…って事です。

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2018年6月26日 (火)

フルートは独学で吹けるようになるのか?

 よくネットでは「◯◯(楽器名)は独学できるだろうか?」という命題が定期的にアップされます。その結果は、その楽器の特性や、その記事を書いた方の信条で、まああれこれあるわけですが、私も今回はそういう風潮に乗っかって記事を書いてみようと思いました。

 さて、表題の「フルートは独学で吹けるようになるのか?」の回答ですが、私的には 「全然OK、問題無し」となります。

 もちろん“吹ける”の想定をどのレベルに置くかによって答えが変わったり、奏者の年齢とか教育レベルをどこに置くかでも答えは変わると思いますが、ひとまず私はそれを…

 吹ける…は、ジブリ映画の主題歌のメロディーを無伴奏で吹ける程度。
 奏者に関しては…子育てを終えたばかりの、音楽の専門教育を受けたことのない主婦たち。

 …と想定しています。

 まあ、ジブリ映画うんぬんは、誰でも知っているメロディーを吹けるって事で、誰でも知っているという事は、楽譜がちゃんと読めなくても、楽譜を見て音が拾える程度の読譜力があるって事だし、無伴奏で吹けるというのは、自分の好きなテンポやタイミングで吹けるって事で、つまりアンサンブル能力に関しては問うていません。だから、そんなに高度な“吹ける”レベルを想定しているわけではないし、いわゆるアルテで言えば、一巻の中ぐらいの力量を想定しています。

 つまり、趣味で好きな曲のメロディーを吹いて楽しめる程度の演奏力を想定しているわけです。

 奏者に関しても“子育てを終えたばかり…主婦”と言うのは、若者ではなく、音大卒ではなく、普通教育を普通に受けた、比較的練習時間に恵まれた人を想定しています。もちろん、フルート大好きで熱心である事は大前提ね。

 こういう想定の元ならば、楽器と初心者向けの教則本があれば、おそらく独学で吹けるようになると思います。

 心配な点としては、音が出せるかどうか…かな? 音出しって、フルート学習の、入門期における最難関な課題ですからね。ここをクリアできるかはさすがに心配ですが、ここさえクリアできれば、おそらくフルートは独学で吹けるようになると思います。

 逆に言えば、誰であれフルートの音出しに関しては、苦労する人は苦労するわけで、先生に付いていたってダメな人は全然ダメなのが、フルートの音出しなわけです。もちろん、先生についていれば、苦労している時に多少のアドヴァイスはいただけるでしょうが、先生がいてもいなくても結局やるのは自分なのだから、独学で先生がいないと言っても、音出しの習得に関しては、極端に不利であるとも言えないだろうと思ってます。フルートの音がスムーズに出せるかどうかは、才能の有無とトライ&エラーの繰り返し…で、自分にベストなやり方を見つけられるかどうかって話なのですから。

 フルートは独学可能だという良い証拠としては…若い人の話になるけれど…中学校の吹奏楽部に未経験の新入部員が入部してフルートを初めて学んでも、きちんとした指導者もいなくて、実質的に独学状態でほぼ4ヶ月ほど学んで、それでコンクールに出ちゃったりする人もいるわけです。まあ、若さがあってこそという部分はもちろんありますが、これって独学でも全然OKって事の証拠じゃないかなって思います。

 まあ実際問題、いくら若いと言えども、コンクール出場と言ったところで、演奏中はあっちこっち落ちまくりであまり上手な演奏とは言えないかもしれないけれど、それでもその子のレベルで立派に演奏しているわけだしね。まあ、吹ける…って感じなんだろうと思います。

 オトナだと4ヶ月でコンクール出場レベルにまで上達するのは難しいかもしれませんが、そのレベルに達しなくても、ある程度の期間、真面目に学べば、そこそこのレベルならば、独学でイケちゃうのがフルート…だろうと私は考えています。

 なので「フルートは独学で吹けるようになるのか?」という問いに関しては、そこそこのレベルならば、問題なく独学で吹けるようになりますって言っちゃいます。

 だいたい皆さん、小学校~中学校でリコーダーを勉強しているじゃないですか? フルートを始めようなんて思った人は、たいていリコーダーが吹けるはずでしょ? あのリコーダーって楽器、実はフルートの親戚な楽器なわけで、リコーダーが吹ける人がフルートを吹けないはずはないのです。

 問題は、アンサンブルであったり、あるいは人前で演奏できるほどの腕前を身につけるには、独学だけで十分かと言えば、それは不十分なわけで、先生がいるに越したことはないって事です。

 アンサンブル能力を磨くには、実際にアンサンブル仲間がいて、経験を積んでいかないと上達しないし、人前で演奏できる腕前になるためには、がんがん人前で演奏していく経験を積んでいかないといけないわけで、独学ではなかなかそういう経験を積んでいくのが難しいので、ある程度以上の上達を望むなら、先生について学んだり、音楽仲間を作って活動していかないと…独学だけではきびしいだろうという事を、最後に書いておきたいと思います。

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2018年6月25日 (月)

声種の決定は…好き好きでいいんじゃないの?

 私は以前、『声種と声域』という記事で「声域で声種を決めるなよ」という趣旨の記事を書きました。で、結論としては、声種は声質に着目して判断しましょうとしました。

 この記事に書いた事は、私の主張としては揺るがないものなのだし、プロの方とか、プロ志望の方は、そうあるべきだけれど、アマチュアさんの場合は、それだけじゃ済まないかなって、あの記事を書いて以来、考えるようになりました。

 つまり、アマチュアさんには、もう一つ別の尺度があって、それで声種を決めてもいいのかなって事です。

 そのもう一つ別の尺度とは…「自分の好み」(笑)です。ざっくり言えば“歌いたいパートが自分のパート”でもいいかな?って事です。

 今、パートと書きましたが、この前提条件の一つに“市民合唱団で歌う”という暗黙の了解を設定しました。と言うのも、ソロで歌うなら、いくら自分の好みがあろうと(特にオペラアリア等は)やはり歌えないものは歌えませんから、自然と自分の声質にあった歌に落ち着くわけですし、歌曲は自分の歌える音域に移調すればいいわけだから、あまり自分の声種とかを意識しなくても良いわけです。

 アマチュアシンガーさんが、一番自分の声種を意識するのは、やはり合唱団でのパート分けではないかと思うわけで、で、そのパート分けだけれど、団の方針でオーディションなどがあったりするところもあるわけで、そういう団に所属しているのなら、団の方針に従わないといけないとは思うものの、そうでなく、割と自己申告とか周囲との相談で成り立っているような団に所属しているのなら、まずは自分の好みをクチに出して主張してみるのも良いのかなって思います。

 実際、ソプラノとアルト、テノールとバス、それぞれ両方歌えますよって人、いるじゃないですか? あるいは初心者や初学者などは両方とも歌えないじゃないですか? だったら、歌いたい方を主張するのも、アリかなって思うわけです。

 第三者的には「え? その声でそのパートを歌うの?」って思うことあるかもしれませんが、アマチュアさんなら、ますは「やりたいことを、悔いなくやってから死ぬ」というのがあるわけで、残り少ない人生、自分の歌いたいパートを思いっきり歌ってみるのが良いかな…って思うようになりました。

 もちろん、希望したパートがあまりに自分の声とは合っていない場合もあるでしょうが、そんな場合、そうそう無理は続きませんから、やっぱり自分の声とは合っていないパートを歌い続けていくのは、いくら歌いたいと思っていも、やがて歌っている事が苦痛に感じるようになりますから、そうしたら、もっと楽に歌えるパートに移動すればいいのです。

 やるだけやったら、人生、悔いは残らないでしょ?

 と言う訳で、あくまでもアマチュアさん限定だけれど、声種の決定は、まずは自己申告を優先し、やりたいパートにチャレンジしてみる…でいいかなって、個人的には思ってます。

 まあ、こんな意見、合唱団の運営サイドの人から見れば「ありえない!」って思われるかもしれませんが、団中心ではなく、歌う個人に焦点を当てて考えてみれば、私の言ってる事も、そんなに的外れではないと思っていただけるかな…なんて思ってます。

 もちろん「ウチは市民合唱団だけれど、プロのような合唱を目指しています」という団は、その限りではないでしょうね。

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2018年6月24日 (日)

電池も買うのに一苦労

 金魚水槽の温度計の電池が切れました。いや別に、昔ながらの水銀温度計(って言っても、昨今のは水銀ではなく着色済み灯油なんだそうですが)を使えばいいのだろうけれど、私、目が老眼なので、あの手の温度系は読みづらいので、だいぶ前から電池式のモノに変えていました。

 以前使っていたのは、単三電池で動くやつで、本体は水槽の外に出しておいて、温度センサー部分を水槽の中に入れるタイプのものでしたが、本体とセンターをつなぐコードが劣化してしまったって廃棄してしまい、新しい水温計を先日購入したばかりでした。

 今度購入したのは、水槽のガラスにペタっと直接貼り付けるタイプで、ガラス越しに水温を計測するタイプのものです。便利でしょ? で、これが使用し始めて、一ヶ月もしないうちに電池が切れてしまいました。残念。

 で、電池を交換しようと思ったところ、使用されている電池は…なんとボタン電池でした。それも、本当に小さいタイプなのです。どれくらい小さいかと言うと、あまり小さすぎで、私の老化した指では水温計から取り外せないくらいに小さいのです。

 竹串を使って、ようやく妻が取り出し(結局、妻もオバアチャンなので、指では取り出せませんでした)電池の型番を確かめようとしましたが、電池が小さすぎて、よく分かりませんでした。

 そこで仕方なく、電気屋に行って、店員の兄ちゃんに「これと同じものをくれ」というオトナ台詞を言って、新品を購入しました。いやあ、結局、自分ひとりじゃ、ボタン電池一つ買えなかったわけです。

 だってね、私が若かった頃は、電池ってのは、単1か単2か単3のいずれかであって、たまに単3を2本合わせたくらいの大きさで出力が9Vの電池(名称なんて知らないよ)があったくらいだし、それなりの大きさだったので、素手で取り扱えないなんて事はなかったんだよ。

 それが最近は、ボタン電池ってやつになって、小さくて薄くなって、老人の素手では取り扱えない大きさになり、種類も増え、それぞれの型番の違いもよく分からなくなってしまいました。

 ほんと、老人には暮らしづらい世の中になりました。電池一つ自分ひとりじゃ買えないなんて、ほんと、情けないです。ああ…。

 ちなみに購入したのは、この電池。

 私はパナソニックの電池を購入したのだけれど、アマゾンで見ると、ソニー、安いなあ。お値段、1/6だよ。見知らぬメーカー品だと、10個入りで79円ってのもある。一個約8円なわけで、パナの1/38の価格…なんか、私、とんでもなく高級品の電池を掴まされたのかもしれない…。

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2018年6月23日 (土)

アセビがちょっと心配

 アセビがちょっと心配なのです…と言うのも、ここ数日、いつもいつも、水槽の中で、ずっと上を向いているからなのです。ごくごくたまに、普通の格好になっている時もあるのですが、見るとたいてい、上を向いて、胸ビレをひらひらさせているのです。

 おそらく…転覆しないように頑張っているのだろうと思います。

 そう、アセビが転覆病になりかけているみたいなのです(涙)。

 私の経験上、琉金はある程度の大きさになってくると、転覆病になりやすいようなのです。おそらくこれは体型的な問題があるかな…って思ってます。と言うのも、琉金以外の金魚って(少なくとも我が家の水槽では)転覆になりづらい…というか、琉金はたいてい転覆するからです。

 だから、常々妻と「シズカはこんなに大きな琉金なのに、よく転覆しないね。エラいねえ…」とよく言ってます。で、シズカは大丈夫みたいなのすが、もう一匹いる琉金の方が転覆しかかっているわけです。

 可愛そうだな…、。これから暑い夏がやってきます。我が家の金魚にとって、鬼門となる夏がやってきます。それなのに、転覆になりかけているとは…ほんと、アセビちゃんが可愛そうです。

 だからと言って、転覆病には決まった治療法があるわけでもなく、本魚の自然治癒力に頼るしかないわけで、飼い主はただ黙って見守る事しかできないわけで…。

 でも、頑張れ。アセビ、頑張れ。転覆なんか、しちゃダメだぞ。

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2018年6月22日 (金)

プラ管フルートと総銀フルートの違いについて

 私はフルートを3本持っていますが、そのうちの1本(中国製の不明な金属で作られて、不明なメッキが施されている、あれこれ不明で激安なフルート)はほとんど吹いていませんが、残りの2本は、まあまあ吹いています。その2本が、プラ管フルートであり、総銀フルートであるわけです。

 私が吹いているプラ管フルートは、こちらのヌーボ社の Student Flute という、数あるプラ管フルートの中でも比較的廉価なやつです。

 一方、総銀フルートは、アルタス社の1307なのですが、こちらはアマゾンでは扱っていないので、山野楽器のオンライン販売のページを貼っておきます。

 この両者、プラ管は約2万円、総銀は60万円なので、そのお値段差は、約30倍も違います。ほんと、すごく違いますね。しかし本当に、この両者には、30倍の違いがあるのでしょうか?って話です。

 まず外見ですが、全然違います。プラ管フルートは、実に安っぽい外見をしています。一見して玩具ではないかと思われるほどのチープな姿です。なので、人前でのお披露目演奏には不向きであると言えますが、しかし楽器としては、十分すぎる能力を持っていますし、普通に練習用として使う分には、何の問題もないと思われます。実際私は、自宅練習では、専らこちらのプラ管フルートを使用しているくらいですから。

 吹き心地に関して言えば、どちらも大変です。他社メーカーの頭部管銀のフルートと比べると、かなりの難易度であるとは言えます。どちらも初心者向きの楽器であるとは言い難いです。

 まあ、総銀フルートが初心者の手に負えないのは当然として、プラ管フルートは、価格帯を考えると、初心者向けであって然るべきなのに、その実態は、中級~上級者向きであるのは、なんかちぐはぐな感じを受けます。

 プラ管フルートは、かなりブレスコントロールに長けていないと、その演奏は難しいと思います。ネットで、このフルートの悪口をよく見かけますが、そのほとんどは自分の演奏力の不足を棚に上げての文句だと思われます。実際、この楽器は、息をかなり多く飲んでしまうタイプの楽器です。それゆえ、ブレスコントロールがしっかりしていないと、あっという間に息切れをしてしまい、まともに吹くことができません。その息の飲み具合は、総銀フルート以上だと思われます。

 それゆえ、ブレスコントロールの鬼コーチであるとも言えますし、ほんと、このプラ管フルートを吹いていると、いやでもブレスコントロールが上達する事、間違いなしです。

 プラ管フルートは、カバードキーのオフセットモデルですが、総銀フルートの方は、リングキーのインラインモデルです。操作性がかなり違いそうな気がしますが、私は、そのあたり、全然気になりません。どちらも何も考えずに演奏できます。初心者はともかく、中級者以上なら、あまり大きな問題ではないだろうと思われます。

 プラ管フルートの良いところは、総銀フルートほど重くない事です。とは言え、決して軽い楽器の印象はありません。体感的には、木製フルートに近い感じがします。

 また、プラ製ですし、キーバッドもシリコン樹脂ですから、ほぼメンテナンスフリーです。実際私は、普段、書斎のフルートスタンドに挿しっぱなしにしています。必要な時にそこから取り出して演奏し、終わったら、すぐにスタンドに戻すだけです。磨きませんし、クロスで拭くことすらしません。楽器についた水分なんて、自然乾燥にまかせています。それで十分なのがうれしいです。

 で、30倍の価格差ですが、道具としての実用面から言えば、そこまでの差はないと思います。だいたい、どちらも普通にフルートとして使用できます。

 しかし、外見から受ける印象は全く違います。プラ管フルートの安っぽい外見は、かなりのマイナスイメージになると思いますが、それで30倍の差はあるかと言うと…そこまでは無いような気がします。なにしろ、外見だけでいえば、総銀フルートも洋銀フルートも外見はほぼ同じですから、総銀フルートはそこまで高価な楽器であるとは、外見からだけでは分かりません。これは、プラ管フルートと総銀フルートの差と言うよりも、洋銀フルートと総銀フルートの差に起因する問題だろうと思います。

 あとは所有欲などのマインドの問題があります。総銀フルートは、所持をしているだけで、それなりの満足が得られますが、プラ管フルートには、所有欲を刺激するような要素は、かなり少なめだろうと思います。

 この所有欲の満足まで考慮に入れた時に、ようやく30倍の価格差が納得できるかどうか…って話になってくるのだろうと思うのであります。

 道具としての完成度を考えると、プラ管フルートが約2万円であるというのは、破格に安いのだと思います。コストパフォーマンス良すぎます。ただ、安いのは良いのだけれど、この楽器のツンデレ具合を考慮すると、初心者には勧めがたいかなって思います。なにしろ、初心者には手強すぎる楽器だと思います。

 なので、プラ管フルートを“安価な初心者向けフルート”と考えてしまうのは間違いだと思います。これは“安価な木製フルートの代用品”と考えるのか適当かなと思います。そう考えると、初心者さんがこのフルートに手を出して痛い思いをする事が避けられるかなって思うわけなんですよ。

 初心者さんは、この廉価なプラ管フルートではなく、ヤマハなどのちゃんとしたフルートメーカーさんの、廉価なスチューデントモデル(洋銀フルートや頭部管銀のフルートあたり)で練習された方が良いと思います。

 老婆心ながら、お爺さんの忠告です(爆)。

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2018年6月21日 (木)

私には音感はないし、これからも身には付かないでしょう

 言いたいことは表題の通りで、私には音感と呼べるものは無いし、これからも身につく事はないと思われます。でも、これは絶望的な事ではなく、オトナになってから音楽を始めた人たちに共通する普遍的な事柄だろうと思われます。

 よく音楽系のブログ等を見ていると、音楽をやる人間には音感が身に付いているモノという前提で書かれている事が多いです。音感が問題になるのは、その人が持っている音感が、絶対音感なのか相対音感なのか、そのどちらですかとか、そのどちらが優れていますなどであって、よもや音感の無い人間の存在なんて、口の端にものぼりません。

 そりゃあそうですよね。絶対だー、相対だー、と声高に言っている中で「実は私には音感はありません」…なんて告白、恥ずかしくて言えませんわな。もしそんな事を言い出したら、白い目で見られ、人間扱いされなくなるかもしれないしね。それに音感を持っている人間にとっては、世の中に音感の無い人間がいるなんて、想像できない事なのかもしれませんし…ね。だから、音感の無い人間の事って、話題に上がらないのだと思います。

 でもね、音感の無い人って、たくさんいると思います。なぜ、私がそう断言できちゃうのかと言うと、音感って、別に特殊な才能でもなんでもないからです。

 実は音感ってのは、記憶力なんです。だから、音感の有無というのは、乱暴に言っちゃうと、記録力の有無であるわけです。

 絶対音感は、音の高さ(周波数で測定できるアレね)をイメージとして記憶しているだけであり、相対音感とは、音階をイメージとして記憶しているだけのことなのです。

 音の高さのイメージを記憶しているので、どんな音を聞いても、その音の高さがイメージできるわけであり、音階をイメージしていると、どんなメロディーを聞いて、そのメロディーの音階が分かるので、そのメロディーを音階唱できるというわけです。音感の有無と言うのは、音の高さなり、音階なりのイメージを記憶していて、その記憶のイメージと現実に聞いた音とのマッチングが即座にできるかどうかの話なのです。

 記憶と言うのは、子ども、それも年齢が幼いほど、圧倒的に有利です。一説には、人間の記憶力は、ローティーンの頃がピークで、後はドンドン能力が劣化していくと言われています。脳神経的には、ハイティーンの頃から、脳内のあまり使われていない脳細胞が、不可逆的にグリア細胞に置き換わってしまうので、記憶力が低下していくと…と言われています。

 ま、そんな難しい話はともかくとしても、オトナになると、子どもの頃よりも圧倒的に暗記が苦手になる事は、どなたも体験的にご理解いただけているでしょうし、そのオトナだって、まだ青年時代ならともかく、中年を越え、初老を越え、老人になってしまうと、本当に記憶力が活性化されなくなるわけです。

 そんな劣化しまくった記憶力しかない年頃から音楽を始めた人(私なんかは、ずばりそんな感じですよ)は、なかなか音の高さであったり、音階のイメージであったり…なんてものを暗記していくのは、そりゃあ無理ってもんなんです。

 なので、音楽歴はそこそこあっても、残念な事に音感なんて、全然身に付いていないんです。

 だいたい、いつも脳みそに霧がかかっていて、少し前の事を平気で忘れちゃうようなオツムの持ち主に、音のイメージを覚えられるのかと言えば、それは火を見るよりも明らかであり、無理難題なわけなんですよ。

 自分に音感が無いのは、残念だなあって思います。でも、育った家が貧しくて、子どもの頃に音楽的な環境が無かったんだから、それはしょうがないのです。

 音感を持っている人には、音感を持っていない人の世界って分からないだろうなあって思います。常に、持っている者は持たざる者の悲哀は分からないものです、どんな分野であれ…ね。

 音感を持っていなくて、音楽は楽しめますよ。音感がなくても、美しい音楽には感動しますよ。と言うのも、音感ってのは、音の高さや音階のイメージを暗記しているかどうかってだけの話であって、音感がなくても、音楽が聞こえないってわけじゃないからです。ただ、今鳴った音の音名が答えられなかったり、音階の中でどの音に相当するのかが分からないだけであって、音楽のツヤや色気は分かるんです。

 ざっくり言えば、音感が無いと音楽を全体的に、いわばグロスと言うか、固まりやサウンドとして鑑賞しているわけであり、音感があれば、その能力に応じて、音楽を固まりではなく、分析的に聞くことができるというわけです。なので、音感が無い人は、音楽を理性で知的に捉えるのは苦手であるとは言えると思います。音感が無いと、どうしても音楽を感覚的情熱的に捉えがちですが、それ自体は悪い事ではないので、別に恥じ入る必要はないと思います。

 ただ、音楽を分析的に理解できる方が、より深く音楽を味わうことでできるでしょうし、演奏という音楽の再現行為に関しては、音楽をきちんと分析的に聞ける事は、かなり大切な能力である事は言を待ちません。

 私は思うに、音感の有無って、九九の暗唱の有無に似ているのかなって思います。

 九九の暗唱ができる人は、7×8は、即座に56であると答えられるし、間違えないけれど、九九の暗唱ができていない人は、7×8という数式を見る度に、7を8回足していって答えを求めていくわけですから、即答はできないし、たまに間違えてしまう事もある…って感じだろうと思います。九九の暗唱ができれば、即座に正確な答えが得られるのに、九九の暗唱ができないばかりに、いつも手間のかかる遠回りなやり方をせざるをえないし、それが間違えることも多々あるわけで、能力不足のために、いつも不安定なやり方が強いられているわけです。

 ちなみに、楽器をやる人は、たとえオトナから始めたとしても、音感の有無って、あまり意識しないかもしれません。特に、楽器で曲の音取りをしちゃう人は、楽器自体に音程のイメージが標準装備されていますので、あまり意識せずに済むかもしれません。それに基準音だって、チューナーを使えば、暗記している必要ありませんからね。

 でも、一部の楽器…自分で音程を作っているようなヴァイオリン属の楽器とか、歌(合唱であれ声楽であれ)とかでは、音感の有無を強く意識せざるをえない場面が多々あると思います。

 音感を持っている人が、楽譜を見て、即座に理解し、歌唱できるメロディーも、音感のない人は…おそらく…メロディーそのものを丸暗記して歌うことになるでしょうから、歌えるようになるまで時間がかかるでしょうね。丸暗記って大変だもんね。特に劣化した記憶力しか持っていない人がする、メロディーの丸暗記って、そりゃあ困難だもの。おまけに、音感の無い人って、楽譜も読めなかったりするから、まずは鍵盤楽器などで音取りをしたり、あるいは音取り音源の演奏を楽譜と首っ引きで見比べながら丸暗記しないといけないから、ほんと大変なんだよ。でも、好きだから、頑張るんだよね。好きじゃなきゃ頑張れないし…ね。

 結論。子どもの頃に音楽の専門教育を受けるチャンスのあった人たちにとって、音感は当然身に付いているモノであろうが、オトナになってから音楽を始めたモノたちには、音感という名の記憶のイメージは無い事が多い。音感が無いからと言っても、音楽鑑賞には困ることはない。また、多くの器楽演奏に関しては、音感が無くても、そう大きな問題とはならないが、一部の器楽と声楽では大きなハンデと成りうる。たとえハンデがあったとしても、音楽が好きなら、音感の無さを情熱を持って越えていこうとしていくので、音感を持っている方々は、ぜひ、そういう人たちを温かく見守って欲しい。

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2018年6月20日 (水)

誰でも陥るスランプについて考えてみた

 スランプとは…大辞泉によると、次のように定義されています。

>心身の調子が一時的に不振になっている状態。また、実力が発揮できず、成績などが一時的に落ち込んでいる状態。

 音楽の演奏などで言えば「ついこの前まで、これくらいの曲は簡単にミスなく弾けたのに、なぜか最近はあっちこっちでミスってばかりいて、全然弾けない。ああ、スランプだー」って感じなんでしょうね。

 そういう経験、私にも無いわけじゃないです。でもまあ、最近は、そんな感覚とは、トンとご無沙汰ですがね(笑)。

 と言うのも、スランプに陥る人って、真面目なんですよ、真面目。真面目だからスランプに陥るんです。

 私も基本的には真面目人間です。だから、以前は、音楽の練習だって、毎日毎日数時間もやっていたし、毎日毎日少しずつ上達もしていました。その頃は、たまにスランプに陥っておりました。

 でも、最近は、人間は真面目なんだけれど、仕事等が忙しくて、ほとんど音楽の練習ができていないので、上達なんてするわけないし、いやそれどころか、下手になる一方で、前回できていた事が今回できないなんて、日常茶飯事なので、スランプなんて陥るはずがないのです。今の私が陥っているのは、単純に「練習不足」なのですから。

 閑話休題。で、真面目な人が陥りやすい思考パターンに「私はこれだけ努力しているんだから、日々上達して当たり前だろう」というのがあります。ま、努力は報われるはずだ…という強い信念ですね。私にも、そういう思考パターンはもちろんあります…が、オジサンなので、そればかりとも限らないという事実は人生で学びましたので、スランプからの回復は比較的早かったと思います(それでも、やっぱり何度かはスランプに陥りました)。

 まずスランプの原因ですが、案外多いのが、疲労です。そう、疲れちゃっているのね。真面目な人って、疲れていても練習するんですよ。頑張って練習するんですよ。確かに、筋肉筋力の維持という面で考えれば、疲れていても練習する必要はあるかもしれません。でもね、神経的…と言うか、学習的には、疲れていて集中力に欠けている時に練習しても、全然身につきません。疲れている時は前進できません。せいぜい立ち止まるので精一杯。いやむしろ、疲れから無意識に悪い癖が生じて、かえって後退してしまう事だってあります。そうやって、疲れから来る集中力の無さとそこから生じた悪い癖によって、今までできた事ができなくなって…ああ、スランプだ!となるわけです。

 もちろん、ここで言う疲労には、肉体的な疲労はもちろんだけれど、精神的な疲労ってのも入ります。肉体的な疲労と言うのは自覚しやすいのだけれど、メンタル的な疲労って、案外自分じゃ分からなかったりするんだよね。

 なので、疲労が原因のスランプ脱出の方法としては、とにかく休む。肉体的に休む事は当然として、メンタル面でも休む。でも、真面目な人って、休めないんですよね。だから、どんどんスランプ沼の深みにズブズブと入っていってしまうわけです。

 根が真面目だから、スランプから脱出できないんだね。

 「私、疲れてませんよ。いつでも心身ともに元気いっぱいです。でもスランプなんです…」と言う人もいますよね。そういう人って、私に言わせると、ちょっぴり傲慢なんですよ。その傲慢さがスランプの原因となっています。

 努力は報われる…と真面目な人ほど信じていますし、そうでないと、世の中不公平ですし、実際、長い目で見れば、確かにその通りなんです。でもね、短い期間で見ると、必ずしもそうとも限らないのです。

 音楽に限らず、なんでもそうなんですが、学習と言うのは、常に1次関数的に、努力と結果が比例関係にあるわけじゃありません。ある時は、グングン上達するけれど、ある時は長らく上達しないのです。これは多くの場合、努力と結果の関係が階段状になるケースが多いからです。

 つまり、普通の学習と言うのは、毎日毎日努力をし続け、その努力がある一定以上なされた時に、一気にブレイクスルーがやってきて、ドンと上達するけれど、一度上達すると、またしばらくはその状態をキープし続けるので、次のブレイクスルーに向けて、努力を積み重ねていかないといけないのです。ポケモンGOのレベル上げと一緒です。

 なのに、努力は報われると信じて疑わない人は、努力した分だけ上達しないと気持ち悪いし、努力しているのに上達しない自分にイラついているわけですね。

 でもね、努力は必要なんだけれど、短期的に見れば、努力は必ずしも報われるものではないのです。上達しなくても、努力を積み重ねていかなければならない時だってあるんです、次のブレイクスルーに向けて努力を貯めていかないといけないのです。

 でも、貯めていくという感覚が分からず、努力した分だけすぐに上達するべきだと信じているので“スランプ”を感じるのです。つまり、世界は自分の考えどおりにならないと許せないわけで、努力は常に上達に結びついていないとイヤなのです…つまり、傲慢なんですよ。

 と言うわけで、スランプの原因は、疲労か傲慢か、そのいずれか、その両方だったりするのです。

 だいたい、音楽をやっている人って、たいてい真面目だからね。努力は報われると信じているわけです。だから、一生懸命に努力をしていくわけです。その真面目さがスランプを生むわけです。

 でもね、真面目な人に「もっといい加減にやんなよ」なんていうアドヴァイスは無力ですからね。だから、スランプに陥った人は、みんな苦しむわけです。苦しんで苦しんで、疲労回復をするか、次のブレイクスルーがやってくるまで、苦しみぬくわけです。

 ま、昔の私もそんな感じでしたが…全くご苦労な事です。

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2018年6月19日 (火)

なぜアウフタクトは難しいのか!

 ごく一般的な日本人が音楽をやると、あれこれ苦手なことがたくさんあるわけです。まあ、これはある意味、仕方ないのです。と言うのも、今の音楽って、基本的に西洋音楽であって、我々日本人のDNAの中には無い音楽ですから、あれこれ大変なのは仕方ないのです。

 まあ、それでも若い世代は生まれた時から、どっぷり西洋音楽に浸かって育ってきたので、苦手と言っても、さほど深刻な問題ではありませんが、オジサンオバサン世代だと、まだまだ日本的な伝統音楽の世界の中で生まれ育っていますので、なかなか西洋音楽は大変だったりするのです。

 例えば私などは、子どもの頃のダンスミュージックと言えば、まずは夏祭りの盆踊りだったし、今では教科書で学ぶようなわらべ唄を実際に歌って手遊びなどをしていたし、テレビやラジオから流れる音楽のほとんど、民謡や演歌が多く、西洋っぽい音楽と言えば、せいぜい歌謡曲ぐらいでしたが…その歌謡曲だって、どっぷり日本の音楽だったわけです。ジャズやラテンは、一部の酔狂者の好む音楽であって、全く一般的ではなかったし、まだJ-POPと呼べる音楽はなく、ロックもまだまだテレビからは流れてきませんでした。ようやく、フォークが異端的な音楽として、オトナたちにやっかまれながらテレビから聞こえてきたくらいです。学校の音楽の時間では、まだまだ普通に文部省唱歌が歌われていました。

 歴史的な視座から考えて見るならば、時期的には、昔々の純粋邦楽から、今の西洋音楽中心への移行期間だったようで、まだまだ色濃く、伝統的な日本の音楽の中で育ちました。

 子どもの頃、同世代の若い女の子たちの多くはピアノを習っていたけれど、お姉さんたちの世代は、三味線とかお琴を習っていて、それらが得意な人がまだまだ多かったです。実際、私も、ピアノよりも先に、お琴に親しんじゃったし、今でも簡単な箏曲なら弾けないわけでもないです。

 つまり、オジサンオバサンたち世代が育った頃の音楽環境は、今の子どもたちのそれとは、全然違っていたわけです。なので、我々オジサンオバサン世代は、今の若い人から見ると、信じられないような事が苦手だったりします。

 例えば、裏拍が取れないとか、3拍子のリズムが取れないとか、6/8拍子とかだと迷ってしまうとか、どうしても三連符では歌えないとか、三連符と8分音符が混ざるとお手上げだとか…。

 だって、そんなわけの分からないリズムは、日本の伝統音楽には無いからね。日本の音楽って、そんなに複雑なリズムは使っていないんだよね。だから、この手のモノは苦手でも仕方ないのです。

 以上の話題については、いずれ記事にしていくかもしれませんが、今回は別の話をします。

 今回取り上げるのは、アウフタクト。オジサンオバサンは、本当に死ぬほどアウフタクトが苦手だったりします。

 アウフタクトと言うのは、弱起とも言いますが、フレーズの開始が強拍ではない…と言うか、強拍の一歩手前の弱拍(ま、たいてい裏拍ですが)からフレーズが始まる事、それがアウフタクトです。

 若い世代の人でも、このアウフタクトが苦手という人はたくさんいるそうですから、もう、オジサンオバサンの手に余るのはしょーがないのです。

 試してみましょうか?

 お誕生日の歌“Happy Birthday”という英語の歌があるじゃないですか? とても有名な曲で、大抵の日本人は知っているでしょうし、歌った事があるんじゃないですか? 歌詞は以下のとおりです。

Happy Birthday to you.
Happy Birthday to you.
Happy Birthday, dear ******.
Happy Birthday to you.

 こんな感じです。さあ、手を叩きながらこの歌を歌ってみましょう(さすがにこれは誰でもできると思います。)

 では次に、手を叩きながら、拍子を取ってみましょう。この曲は3拍子なので「1,2,3,1…」と数えてもいいし、強く・弱く・弱く・強く・弱く・弱く…と手を叩く強さを変えてもいいと思います。そうやって、拍子を取りながら、この歌を歌ってみるのです。

 さあ、やってみましょう。

 …で、「1」の拍は、どの単語になりましたか? “Happy” ですか、それとも “Birthday” ですか?

 「1」が “Happy” なら、小節的には“/Happy Birthday / to you./”になり、強拍は“Happy”と“to”が当たります。

 一方「1」が“Birthday”になった人は、小節的には“Happy / Birthday to / you.”となり、強拍には“Birthday”と“you”になりますか。

 どちらが正しいかは…後者ですよね。お誕生日の歌なのですから、強拍に来るのは“Birthday”と“you”じゃないとね。“Happy”と“to”が強調されても「だから何?」って感じになります。

 いかがでしたか? “Happy”を「1」にして歌っちゃった人、たくさんいるんじゃないかしら? 私の子供の頃は、みんなみんな“Happy”を「1」にして歌ってました(笑)。それくらい、オジサンオバサン世代の人って、アウフタクトが苦手なんです。

 さて、なぜアウフタクトがこんなに苦手なのかと言うと、まあ裏拍が苦手と言うのもあるけれど「メロディーを強拍から始めないと気持ち悪い」という感覚があるからだろうと思います。逆に言えば、なぜ西洋人たちはメロディーを強拍から始めなくても平気なの?って疑問にもつながります。

 さっきの Happy birthday じゃないけれど、日本語って、大切な事を“いの一番”に言っちゃいたい言語であるのに対して、あっちの言葉って、大切な言葉が文頭に来ないことって結構あります。

 「美味しい」を“Yummy”と言うのは、まあ分かります。言いたい事が文頭(ってか一語文だけどネ)に来てるものね。でも「寒い」を“It's cold”って言われちゃうと、言いたい事が、日本語だと文頭なのに対して英語だと2語目に来るわけです。さらに言うと、英語の1語目の“It's”なんて、形式的な言葉で、意味なんてほとんどないし、聞こえなくてもいいや程度の言葉じゃない。そんなどーでもいいような語が文頭に来ちゃうわけです。我々からすれば、斜め上の言葉ですわな。で、これをメロディーに載せようとしたら、強拍に置くのは…“It's”じゃなくて“cold”の方だよね。つまり小節的には“It's / cold”じゃないと困るわけで、最初の“It's”はメロディー的には、自然とアウフタクトにならざるを得ないわけです。

 かくのごとく、英語を始めとする西洋語だと、形式主語とか前置詞とか冠詞とかのおかげで、アウフタクトが自然と成り立つのに対して、そういうモノが一切ない日本語では、メロディーは強拍から始めないと気持ち悪いという感覚が育ってしまうわけです。

 実際、西洋語の歌詞だと、アウフタクトがあっても、そんなに歌いにくくないけれど、その手の歌を日本語の訳詞で歌おうとすると、なんか違和感を感じて気持ちわるいなあって思うのは、やはり西洋語と日本語の違いから来るところが大きいと思うわけです。

 つまるところ「なぜアウフタクトが難しいのか」と言えば、答えは「我々の母語が日本語だからである」ってところでしょうね。

 日本語にはアウフタクトは似合わない…ってところなんだと思います。

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2018年6月18日 (月)

音楽家ってのは曲芸師なのか?

 歌でも演奏でも、上手い下手というのは、当然あって、プロは上手で、アマチュアは上手くないというのは…まあ一部の例外を除けば、当然であるわけです。で、プロの中でも、とっても上手なプロと、そこそこ上手なプロと、まあ上手な人がいるわけです。

 世間的に評価の高いプロと言うのは、みんなとっても上手なプロなのかと言うと…まあ、だいたいそうだったりします。それどころか、客である素人は、上手なプロ同士を比較して、そこそこ上手なプロよりもとっても上手なプロに好意を寄せることが多いわけです…これまた、一部の例外を除いてね。

 じゃあ、とっても上手だったり、そこそこ上手だったり、まあ上手だったり…の“上手”ランキングの評価判断基準って何よ?って考えたことありますか?

 私、そのあたりについて色々考えてみました。

 例えば、情感豊かな演奏をする人は上手なのか? 確かに上手と言われるプロはたいがい情感豊かな演奏をしますが、だからと言って、情感豊かな演奏をする人はみんな上手と思われるのかと言うと、そうではありません。「あの人の演奏は、少しクサイんだよね」とか「心を込めるのはいいけれど、ミスも目立つんだよね」とか言われる事もあるわけで、情感豊かな演奏ができる事は大切な事だけれど、上手の基準とはちょっと違うような気がします。

 ミスのない正確無比な演奏をする人は上手なのか? 確かに上手だと思いますし、それに対して異論を唱える人は、たぶん、いないだろうと思われます。でもね、聞き手がピアニストとか指揮者とかの音楽業界人ならともかく、ただのクラヲタあたりだと、細かなミスなんて分からないから、ミスのない正確無比な演奏をしている人と、小さなミスはあっても堂々と演奏しちゃってる人がいたら、その両者の違いって、なかなか分からないよね。それに私なんて、演奏家のミスが分かっても、ミスをしたからダメとか思わないんですよ。演奏の良し悪しはトータルなモノと思っているので、多少のミスは減点対象(?)にしないので、ミスのない正確無比な演奏は理想だし、そうであるべきだけれど、それが上手がどうかの基準にはしないと思います。むしろ、プロである以上、ミスはなるべく少なくあって欲しいし、ミスが無い上に、演奏にプラスアルファがあって、初めて上手って思えるんだろうなあって考えます。

 では、そこに加わるプラスアルファって何…?って考えると…ハッタリ…かな? って思わないでもないです。ハッタリと言う言葉が悪ければ、アクロバティックな演奏? 聞いていて、爽快感を感じる演奏、カタルシスが解消されるような演奏。大向うをうならせる演奏、人々の気持ちをアゲアゲにしてしまう演奏、これらができる人ほど、上手のランクが上がっていくのではないかと思うのです。

 ある意味、こういうアクロバティックな演奏って、音楽の本質とはまるで関係ない事かもしれません。だいたい、なんでもかんでもアクロバティックにすりゃあいいってもんじゃないしね。でも、アクロバティックな演奏って、分かりやすいんですよ。

 それにヴィルトゥオーソと言う言葉もあるしね。派手な演奏って、高く評価されるし、素人な聞き手にも分かりやすいし、大衆的な人気も集めやすいしね。

 もちろん「あの人の演奏は、派手で技巧的なんだけれど、中身空っぽなんだよね」という批評もあったりなかったりするけれど、それって負け惜しみっぽく聞こえちゃうんですよ。と言うのも、たとえ中身が空っぽでも、派手で技巧的な演奏である事は認めているわけだし、派手で技巧的ならば、魅力的な演奏であるって言外で言っちゃっているわけだしね。魅力的だけれど中身空っぽ…いわゆる白痴美人(差別用語じゃないよね…大丈夫だよね…?)って事なんでしょうが、白痴であろうがなかろうが、美人は美人だよね。

 そう考えると、アクロバティックな演奏を得意とすればするほど、上手のランクの高い音楽家であると…ひとまず…言えるんでしょうね。

 …って事は、音楽家ってのは、つまるところ、曲芸師なんでしょうか…ね?

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2018年6月17日 (日)

大学経営も楽ではないそうです

 大学経営と言うのは、昔(20世紀の話です)は左うちわだったそうで、まあ経営が大変って事はなく、むしろ大学経営は儲かる商売だったようです。

 それが昨今、子ども人口の減少、つまり受験生の減少に伴って、まず短大経営が危なくなりました。今では多くの短大が廃校か、四年制大学の1学部として存続しています。そして短大の衰退に伴って、4年制の女子大も徐々に経営が厳しくなってきたそうです。

 じゃあ共学の大学は大丈夫かは言えば、決してそうではなく、特に地方の大学とか、偏差値がリーズナブルな大学は生徒がうまく集まらずに経営難に陥っているのだそうです。

 ある調査では、昨今の受験生は、都会の有名ブランド大学にたくさんの受験生が殺到し、その結果、非ブランド大学や地方の大学は受験生不足が起こっているのだそうです。

 今や、4年制の大学のうち4割の大学が定員割れを起こしているんだそうです。つまり、大学は(都会のブランド大学を除けば)誰でも入れる時代になったわけです。大学全入時代の到来なのです。

 受験生の数よりも、大学定員の方が多いため、各大学では、足りない定員を補うため、それぞれ特色のある教育を打ち出し、目新しい学部学科を新設して、懸命に学生募集に頑張っているわけです。

 バブルの頃は、地方に分散させていたキャンバスを徐々に都会に集約する動きが多くの大学であるけれど、それもキャンパスが地方にあったままでは学生が集まらないからであって、キャンパスを都会に集約した方が(あれこれ不便はあっても)学生募集に有利だからそうするわけで、そんなこんなであらゆる手を大学も打っているのだけれど、それでも学生の数が足りなきゃ、海外(ってか中国)から留学生を大量に迎え入れる学校すらあります。

 とにかく、学生がいなきゃ、授業料はもちろん、国からの補助金ももらえないからね。各大学とも、それこそ死に物狂いで学生募集をするわけです。

 ほんと、大変なんだよ。

 もちろん、そんな現状を、国や文科省もただ手をこまねいて見ているわけではなく、黙っていても学生が集まる、都会にある一部(有名ブランド)大学での定員増を認めずに、新入生の数に規制をかけたり、学生個人が履修できる授業数に制限を掛けたりして、学生数を抑え込んでいます。そして、都会のブランド大学から溢れてしまった学生を、地方の定員割れをしてしまった大学に振り分けようとしているわけです。

 先日などは、経団連が私立大学救済のために、国立大学の学校数や学生定員数を減らして、なるべく多くの学生を私立大学に振り分けてもらえるように提案していました。

 それくらいの荒療治をしないとダメなくらい、今や大学経営は(一部のブランド大学を除いて)大変なのです。

 「学生が集まらないのは、その大学が、世間から必要とされていないのだから、そんな大学は潰れてしまえばいいじゃないか!」という意見もあります(まっとうな意見だと個人的には思います)が、そんな感じで大学がドンドン潰れてしまうと、大学教員はもちろん、大学事務員やその関連会社の社員の皆さん方も職を失い、露頭に迷うことになります。大学って、学生も多いけれど、教職員もたくさんいます。そんな多くの(おそらくは)優秀な人材を露頭に迷わせてしまっていいのか…という事もあり、大学って、そんなに簡単には潰せないのです。

 それに、事務職員はともかく、大学教員って、研究ぐらいしかできないから、ほんと、ツブシが効かないんだよねえ(汗)。おまけに、学歴の逆差別もあるから、高学歴者の一般業種への転職も難しいしね…。そんなこんなで、多くの大学の延命(?)をせざるを得ないんだろうと思うのです。

 移民法を整備して、合法的に移民を受けいれるなどの積極的な政策を取らない限り、日本は人口が増えていかないし、人口が増えないと、教育産業はどんどんダメになってしまうと思うんだよね。杞憂かもしれないけれど…。

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2018年6月16日 (土)

モヒカンな金魚

 最近、ルデンの姿が大きく変わっています。姿というよりも、体色とか模様とかの変化なのですが…。

 おそらくルデンは、らんちゅうの出来損ないだと思います。体型の印象はらんちゅうっぽいのですが、かなり多くの琉金的な要素もあり、体型的には、なんとも中途半端な感じがしています。

 で、その中途半端な体型そのものは、取り立てて変化ありません。

 ルデンの特徴は、その体色です。私はこの体色が気に入って、ルデンを我が家に招入れたのです。

 当初のルデンの体色は、基本的に光り輝く金色(本当に金色)です。ただし、背面部は薄墨のような色をしていました。つまり金色の金魚なルデンなのですが、上から見ると、灰色な金魚だったわけです。

 それが最近、この薄墨色の部分が剥がれる…と言うか、削られる…と言うか、そんな感じで、どんどん少なくなっているのです。で、かつて薄墨色だった部分の多くが、光り輝く金色になりました。ザッと見た印象では、以前は全体の60%程度が金色だったのに、最近では、85%ほどが金色になってしまいました。また、以前は金色と薄墨色の境はなだらかな感じでごく自然だったのですが、最近はギザギザな感じでいきなり変わっているのです。おまけに、薄墨が剥がれたような感じで、ポツポツと金色の部分もあります。

 はっきり言って、ちょっと汚い印象です。

 特に顔の部分は、薄墨色の方が多い感じで、落ち着いた顔色だったのですが、最近は頭頂部とクチと目の周りにちょっとだけ墨が残り、他は光り輝いています。

 まるで、髭面のモヒカンみたいな顔になってしまいました。

 なんかなー、どーなのかなー。

 金魚の場合、まだ成長期にある子は体色の変化があるものらしいのです。つまり、ルデンはまだまだ稚魚であって、薄墨色が抜けて金色に変わっていく最中なのかもしれません。確かに、金魚の稚魚って、たいてい真っ黒だもんね。実はこの子、図体はデカイけど、本当はまだまだベイビーなのかもしれません。実際、日々の行動を見ていると、本当に子供っぽいしね。

 とにかく、今現在、ルデンはモヒカン野郎なのです。

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2018年6月15日 (金)

お酒をお酒で割って飲むのは、平気ですか?

 フルートのレッスンに行ってきました。声楽のレッスンから、そう日は離れていなかったので、当然、風邪ひきさんな私でした。まあ、フルートの場合、風邪をひいていても、歌ほど大きな影響はなく、咳き込まなければ大丈夫…ってのと、いつもよりだいぶ肺活量が落ちている…って事の2点を気をつけていれば、まあなんとかなるって感じでした。

 それよりも、全く練習していないでレッスンに行っちゃっている事の方が大問題だよなあ。

 練習をしていないので、レッスンの内容は、毎度毎度な感じにしかなりません。

 エルステユーブンゲンは、いつもの23番と24番ですが、暗譜なんて出来ているはずはないので、当然合格なんて、どこ吹く風です。

 プチエチュードは19番ですが、とにかくつまらないミスブロー多発です。ま、吹込みが全然足りてないのです。ダメっすね。

 40リトルピーセズだって、13番と14番ですが、13番はつまらないミスブロー多発だし、14番に至っては、全然指が回っていません。「顔を洗って出直して来な!」レベルの演奏になりました。だってねー。

 合宿の向けてのソロ曲、ラフマニノフのヴォカリーズは、ムラマツの“40フルート小品集”の楽譜で吹くことにしました…ってか、私がそれでしかヴォカリーズの譜面を持っていないためです。一応、H先生がチェックをして、楽譜にミスがない(輸入譜だと、結構ミスがあるんですよ)事を確認してくれました。これで安心して練習できるってもんです。

 先生から、一度に全部を練習しようとは思わない事。少しずつ少しずつきちんと吹くことを優先して練習してきなさいと言われました。この曲のキモは、アーティキュレーションとフレージング。この2つに気をつけて練習するように…と言われました。

 ちなみに、普通はこの曲を演奏するなら、一番に気をつけないといけないのは、音色なんだそうです。音色命の曲なので、いかにフルートらしい美しい音色で演奏できるかが課題になるそうだけれど、私の場合は、私が…と言うよりも、使用している楽器が美音系の楽器なので、そこはクリアしているようなのです。音色は合格なので、アーティキュレーションやフレージングに注意を払うわけです。

 頑張っていきますよ。

 さて、今回の雑談は…美味しい梅酒の飲み方についてです。H先生は飲ん兵衛の上に、梅酒を毎年たくさん作るんだそうですが、この美味しい梅酒の飲み方を某友人から教えてもらい、さっそく実践したところ、梅酒が止まらなくなって、困っているんだそうです。それくらい、美味しくて、クイクイ行っちゃうんだそうです。

 ちなみに、その美味しい梅酒の飲み方と言うのは…「梅酒と焼酎を1:1で割って飲む事」。ただのそれだけ。それだけなのに、とても美味しいんだそうです。

 しかし、酒を酒で割るって、どうなの? 梅酒だって、ベースは焼酎なわけだから、焼酎を焼酎で割って飲んでいるわけで…想像するに、とても飲みやすくなっているんだろうなあと思うものの、酒を酒で割るというのは、なかなか心理的な壁は高いような気がします。

 私の中のゴーストが「そんな事はしちゃダメだ」と囁いているんですよ。

 ちなみに、先生は35度の焼酎で梅酒をつくり、その梅酒を25度の焼酎で割っているんだそうです。なので、梅酒をストレートで飲むよりも、焼酎で割った方が、若干お酒が薄くなるんだけれど、だったら水で割っても良くない?って、私なんかは思うんですよ。

 水で薄めてしまうと、酒が薄くなりすぎるか、酒の薄まりを避けると今度は梅が濃いままか、どっちかになってしまうのだろうね。だから、焼酎で割るんだろうけれど…やっぱり、お酒をお酒で割るって、心理的ハードル、高いよ。

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2018年6月14日 (木)

習い事と言っても、そもそも子どもとオトナじゃ、あれこれ違う

 子どもの習い事ってのは、子どもへの投資です。本質的には、学校教育を補完するものであって、学校では習わないけれど、その子にとって必要な教育&技術を身に着けさせるために行うものです。

 子どもの習い事で人気の高いものと言えば、水泳とか英会話が挙げられますが、水泳は頑強で健康な身体作りが第一目標で、泳げる子になってもらいたい事(学校の体育の授業だけでは泳ぎの習得はなかなか難しいです)という親の願いがあり、もしも才能があるなら水泳を特技にして欲しいし、可能ならオリンピック選手を目指してほしい(笑)とかも考えていたりします。英会話は…これからの時代は、英語ぐらい話せるようになってほしい事(学校の授業で英語が話せるようになるのは、かなり厳しいです)が第一目標で、学校の英語の成績が向上する事も密かに期待しているし、それによって有名学校に進学してほしいし、将来的に可能ならば、世界を股にかけて活躍できる人間になってほしい事などの親の願いが詰まっています。

 つまり、子どもの習い事って、親の願いがまずあって、そこには(良い意味での)損得勘定があるわけで、その子にとって、得になるであろう事を、一生懸命に習わせようとするわけです。

 ピアノだって、そうでしょ? 心豊かな優しい子に育ってほしくて、情操教育の一環として習わせているわけでしょ? で、才能があるなら、コンクールを総ナメして、プロのピアニストになって欲しいなんて、夢を見て、ピアノ教室のドアを叩いちゃうわけでしょ! 

 ピアノを習っている以上、ピアノが上達するのは当然の話で、ピアノなんて上達しなくてもいい…なんて事を親はあまり考えないわけです。だから、子どもがピアノの練習をサボるのは許せないし、あんまりサボってばかりいるとイライラして「じゃあ、ピアノ教室をやめさせるわよ」とかの暴言をついつい吐いちゃうわけです。

 だって、子どもの習い事は投資だもの。資金投入した分は身について欲しいものなのです。お金をドブに捨てるようなマネはしたくないもの。

 一方、オトナの習い事は道楽です。消費活動です。単なるお遊びだったりするケースが大半です。

 上達するなら嬉しいけれど、そのために厳しい目に合うのは勘弁で、むしろゆるゆるで楽しく学びたいのが本音だったりします。それに上達したからと言って、今からプロになれるわけでもないし、お月謝だって自分で支払っているわけだから、自分がやりたければ続け、辞めたくなったら辞めればいいわけで、そのあたりもお気楽です。自分のお財布さえ許せば、費用対効果なんて考えなくていいので、必要な道具なんかは、バンバン大人買いしちゃうし、それでもったいないなんて、ちっとも思わないわけです。

 他人から見れば、お金を湯水のようにドブに捨てていたととしても、全然平気です。

 要は、習い事をしている自分が楽しくて幸せなら、それでいいんです。習っているモノが、音楽であれ、お料理であれ、英会話であれ…ね。オトナの習い事は、投資ではなく消費なんです。

 なので、子どもの習い事なら、その習い事がその子の将来にどんなふうに役立つのか、親なら必ず考えてしまいますが、オトナの習い事は、そのあたりの将来設計とかは無しで、時間的経済的に可能なら、後は本人が楽しんでいるかどうかだけが問題になってくると思ってます。

 なので、習い事という行いは同じなのですが、子どもとオトナでは、その本質が全然違うので、考える時は、そのあたりをきちんと把握して区別しておく必要があると思います。

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2018年6月13日 (水)

いつまでたっても、なかなか上達しません

 声楽のレッスンの続きです。曲の練習に入りました。

 最初は、ベッリーニ作曲の「Bella Nice,che d'amore/美しいニーチェよ」です。Y先生に「まだ歌っているんですか?」と言われるほどに、長期間歌っていますねえ…。とにかく、今日で終わりにするから、最後に通して歌いましょう…と促されて歌うと…あれこれ不満点が噴出しちゃうわけで、結局、次回もまだ歌う事になりました。

 終わりにならない理由として…圧倒的な練習量の不足のため、歌の細部がかなりいい加減になっているからでしょう。

 例えば、同じ歌詞だけれど、繰り返しをすると音程が違ったり、リズムが違っていたりする箇所があるのですが、そのあたりが実にアバウトになっています。自覚はありますが、ついついアバウトに歌っちゃうんだよね。ダメじゃん。

 音取りが不十分な箇所があります。特に臨時記号で半音になっている箇所がアバウト過ぎ。そういう箇所こそしっかり音を取って、ピアノに音をぶつけないといけないのに、ついつい歌いやすい和音の中の音に変えて歌っちゃいます(つまり、ちゃんと音が取れていないわけです)。これも練習不足と音感の無さが原因です。絶対であれ、相対であれ、音感があれば、こんな箇所、練習してなくても歌えるんだろうなあ…と思うと、音感不足は練習で乗り切るしかないのに、その練習が不足しているんだもの、なんの言い訳もできないよね。

 上行音型では、しっかり息で声を支えること。これは不十分ながら、なんとか形になっていますが、問題は下降音型の時です。下降音型では、ゆっくり腹圧を緩めながら歌うのだけれど、これをついつい緩めすぎてしまうのです。実際は緩めるにしても、気分的には緩めずにキープしすぎるくらいでちょうど良いのに、私は「ああ、やっと下降音型だ…」と思うと、無意識にカラダが緩むようです。ダメですね。

 とにかく、息の流れと支えさえしっかりしていれば、歌なんて簡単に歌えるもの…らしいです。でも、その息の流れとか支えとかが難しいんだよね。特に息の流れでは、1フレーズを1音であるかのように、途切れさせずにレガートに歌わないといけないのです。

 さて、次は同じベッリーニの「Almen se non poss'io/もし私ができないなら」です。

 この曲には、あっちこっちに細かい音符が連続して黒くなっている箇所があるのですが、そういう箇所こそ、きちんと音を取って歌ってほしいとの事です。私の場合、そういう黒くなっている箇所の入り口と出口の音はひとまず帳尻合わせ的に合っているのですが、その間の音が実にアバウト(汗)。そういう間の音までもきちんと音を取って歌ってくださいという、至極まっとうな要求が先生が来ました。そりゃあそうだよねー。

 で、先生がおっしゃるには、中間部の音程がいい加減なのは、声をしっかり息で支えていないからであって、声をしっかり息で支えてあげれば、自然に音程は合ってくる…という事なのです。つまり、悪いのは音感はもちろんだけれど、息の支えがダメダメって事なのです。

 支えは常に必要で、高音箇所とか上行音型だけでなく、下降音型でも中低音箇所であっても、どこであっても必要で、歌い始めから歌い終わりまで、程度の差こそあれ、しっかり支えていかないといけないのです。…が、私、どうにも無意識でお休みしちゃうみたいで、そこがまだまだなんですね。

 最後まで気合と支えは抜かない事…ってわけです。

 とりあえず、今の所、ベッリーニの歌曲を中声用で歌っているわけですが、これは各種歌唱テクニックを身につけるため、あえて楽な音域の歌を歌っているわけです。高い音があると、意識が高音にばかり行ってしまうけれど、歌にとって必要なのは、高音を見事に出す事よりも、中低音域をきちんと歌うことであって、まずはそちらのマスターを優先しましょうって事のようです。で、ある程度、中低音域を無意識レベルで無理なくテクニカルに歌えるようになってから、改めて高音にチャレンジしていけるのが良いですね…って事であって、だから今は高音の無い曲を歌っているわけです。

 まあ、確かに高音の無い曲は、歌っていて楽だし、心にも余裕ができるし、勉強のためには(若干物足りなさも感じないわけじゃないけれど)大切な事なんでしょうね。なにしろ、高音が無いからと言って、じゃあその曲を完璧に歌えているかと言えば、決してそんなわけはなく、まずは完璧(とは言わないまでも、完璧に近く)歌う事ができるようにならないといけませんからね。

 いつまでたって、なかなか歌は上達しない私です、とほほ。

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2018年6月12日 (火)

ノドの風邪をひきました

 声楽のレッスンに行ってきました。実はこの日、私は風邪をひいてノドが腫れていました。

 この日の前日。朝、目が覚めたら、ノドが腫れて痛かったのです。いきなりノド腫れです。びっくりしましたが、成ってしまったものは仕方ないです。医者に行っている余裕は無いし、医者に行っても(近所に専門医はないですから)治療にたいした期待はできないし、翌日のレッスンまでには、ノドの腫れをなんとかしなければいけないので、ちょっと私、頑張りました。

 アズレン溶液のスプレー(抗炎症作用あり)と、龍角散(もちろん粉末)と、マヌカハニーと、響声破笛丸と、多量のビタミンBとCの投与…これらのおかげで、とりあえず1日半でノドの(腫れはともかく)痛みがおさまりました。やったね。

 でも、これらの薬(?)で強制的に腫れを抑えて痛みを取ったわけで、また乱暴に扱えば、すぐに痛みがぶり返しそうだなあ…という嫌な予感を抱えたままのレッスンだったわけです。とにかく、痛くはないけれど、ちょっとノドが厚ぼったい感じがしていたわけです。

 なので、いつも以上にノドの脱力を心がけ、軽く軽く発音するように細心の注意を払っていたわけです。でないと、ノドが痛くなりそうだったしね。

 そんな注意をしながらレッスンを受けたので、ノドに不調を抱えながらも、結果的にはいつもどおりに歌えました。ま、怪我の功名だな。

 さて、ハミング練習です。息をノドで塞がずに、頭の上の方まで吹き上げます。吹き上げる息が少ないと、音程が届かず、多すぎるとノドが痛みだすという絶妙のバランスを探しながらの練習となりました。ノド痛も役にたつものです。

 発声練習では、いつも以上にノドを開けて、腹圧メインで歌いました。でないと、ノドが痛みそうですからね。いやあ、ノドを使わないと、なかなかちゃんと歌えないものです。いかに、普段からノドの力で歌っていたのかを実感します。腹圧の弱さ、息の支えのたりなさにがっかりです。おまけに腹筋の動きって、私が思っている以上に遅いし…。

 ちなみに私、“エ”の発音の時に、無意識にノドが狭くなるようです。“エ”の時は意識してノドの奥を広げないといけません。

 音程は、ノドでもアゴでもなく、腹圧とノドの奥の縦への伸縮で作らないといけません。そのためには、息を必ず頭の後ろでグルリと回して出さないといけません。難しいです。

 たかが発声ですが、あれこれ難しいです。

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2018年6月11日 (月)

映画『羊と鋼の森』を見てきました

 映画そのものは、実に穏やかで「ああ、日本映画だな…」って感じでした(って、分かる?)。そのうちテレビで放送するかもしれないけれど、この映画は日常生活の中で見ちゃうと魅力半減しそうなので、もしも興味があるなら、劇場公開中に映画館で見ておいた方がいいかもって思いました。

 あと、西郷どんが先輩調律師役なので、いつ鹿児島弁が飛び出すかハラハラしちゃう、私のようなタイプの人だと、映画へ没入するのが難しいかも…ね(笑)。それに、主人公はいわゆる“陰キャラ”傾向にあるので、そういう人を見ているとイラつく人だと、この映画は無理かも…。

 そのあたりをクリアすれば、一人の調律師さんの成長物語(の発端編って感じだけど)として楽しめると思います。

 さて、映画の内容や評価はともかくとして、私がこの映画を見ていて、終始気になったのは、どうやら主人公さんは、ピアノが全然弾けないって事です。弾けないだけでなく、ピアノ音楽そのものにも、あまり興味関心がなさそうな点です。それなのに、調律師さんとして上を目指すって…え?って感じなのですよ。

 主人公さんは、高校卒業まで音楽とは無縁な田舎の山村で暮らし、高校卒業後、東京の調律師の専門学校で学んで、その後故郷(北海道旭川あたりがモデルのようです)に戻って、地元の楽器店に就職して、毎日忙しく働いているわけです。

 彼の仕事っぷりを見ていると、彼の興味関心はピアノの調律そのものにあって、お客さんであるピアニストさんへの関心は多少はあるようだけれど、ピアノ音楽そのものへの関心は…どうもなさそうなんです。

 私のような素人考えだと、ピアノが弾けない、ピアノ音楽に興味のない調律師さんなんて、いるわけないじゃん…って考えちゃうんだけれど、こういう映画が作られて、普通に配給されてしまう現状から考えるに、日本にはピアノの弾けない調律師さんって、たくさんいるんでしょうね。ピアノ音楽に興味のない調律師さんって、大勢いらっしゃるんでしょうね。

 主人公が働く楽器店には、彼を含めて4人の調律師さんがいるんだけれど、そのうちの一人だけが「元ピアニスト」と呼ばれているって事は、他の3人は、そもそもピアニストではないってわけで、幼い時から人生かけてピアノとピアノ音楽に向き合ってきた人は、元ピアニストさんだけって…って事になるわけだよね。それって、素人的には「なんか幻滅…」ってレベルの話です。むしろ、劇中の双子のピアニストの姉妹の一人がプロへの道を目指し、もう一人が調律師を志望するって話の方が、私のような素人さんには、すっと飲み込める話なのです。

 調律の技術とピアノ演奏の技術は全くの別物だし、調律師さんは道具としてのピアノのメンテナンスをするプロであって、その道具を使って奏でられる音楽には全く責任がないわけだから、その先に関しては興味関心がなくても、無問題という理屈は、よく分かります。

 でもね、なんかね、うまく言えないけれど、それって残念だなって私は思うんですよ。調律師さんは普通にピアノが弾けて欲しいなあ…って思っちゃう私は、夢想家なんでしょうね。

 そうそう、映画を見てて、改めて感じた事。それは、ヤマハとスタンウェイって、笑っちゃうほど音色が違うね。映画の中のピアノは、ほとんどがヤマハなんだけれど、劇中で音楽ホールのシーンがあって、そのピアノだけスタンウェイなんだけれど、そのシーンになると、まるで別の楽器じゃないかってくらいに、全然違う音色が鳴り響くわけです。

 楽器の音色ってのは、ほぼ好みの問題だから、それで良し悪しを言うのは野暮だけれど、私の好みで言えば、ピアノ単体の音色ならヤマハの木っぽい音が好きだな。でも曲を奏でるとなると、鐘っぽい音のスタンウェイは捨てがたいと思います。

 あ、そうそう。念の為に書き添えておくと、私自身、ピアノはロクに弾けない人なので、私の言う事なんて、真に受けちゃダメだよ。

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2018年6月10日 (日)

孤独って結構ヤバイらしい…

 孤独ってのは“死に至る病”らしいです。孤独な人は、そうでない人と比べて、2.1倍もアルツハイマーに成りやすいし、減量や運動をしても血圧低下がしずらくなるらしいし、孤独でいるだけで、たばこ15本/日程度の害悪があるそうなのです。

 つまり、肥満・喫煙・孤独が、現代の3悪ってわけなのです。

 でも、そんなに孤独が健康に悪くても、みんなが孤独とは無縁な生活をしていれば、別になんともない話なんだけれども、実は日本の男性って、世界で一番孤独な存在なんだって。つまり、孤独はヤバイって話は、決して他人事じゃないって事なんだね。

 詳しい事は、こちらのサイトを見てみてください。

 日本のオジサンが世界で一番孤独というのは、ざっくり言えば、日本のオジサンの生活って、会社に丸抱えされているわけで、そんな彼らが定年退職やらで、会社とは無縁になった時が、世界から放逐されてしまう時であり、退職すると、一気に孤独に落ちてしまうって話なのです。

 なんか、今映画館でやっている「終わった人」みたいだなあ…。近い内に見に行ってみるかな?

 閑話休題。結局、オジサンを孤独から救うのは、会社と会社員生活なんだと思います。実際、仕事をしていれば幸せってオジサン、たくさんいるもの。

 でもそれは、あくまでも個人レベルの話であって、社会レベルとか会社レベルとかでは、常に組織の若返りは必要であり、老人が老害を撒き散らす前に消えるのが正しい組織のあり方であるのも事実です。だから、オジサンたちには適当なところでご隠居願うのが正しいわけです。孤独を回避したいなら、失ってしまった会社での人間関係の代わりに、趣味を通じた人間関係を新たに構築しろって言うわけです。

 でもね、そんな事、定年退職したばかりの人に言っても、無駄よ。ゼロから物事を構築するのって、すごくエネルギーが必要なわけで、それがホイホイできる人なら、定年を延長されて、今でも元気に働いているって。普通の老人にとって、新しい人間関係を作るってのは、ほんと大変なんだから。

 そういう意味でも、退職後の趣味は、現役時代から始めていないと大変なんだって。退職してから趣味を始めましょうでは、遅いんだって。退職した段階で、ある程度の人間関係があり、技量的にも趣味を楽しめる段階まで上達していないと、退職後の趣味生活なんて、空振りに終わっちゃうって…。

 孤独で死にたくなければ、若いうちから遊んでおけって事なんだと思います。

 そういう意味では、私は、偶然だけれど、年の取り方は間違えていないんじゃないかなって、ちょっぴりホッとしています。

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2018年6月 9日 (土)

なぜ、赤と青なのか、納得!

 先週の放送分だったかな? NHK総合で放送されている『チコちゃんに叱られる!』で「どうして葉っぱは緑色なの?」を見ていて、目からウロコが落ちました。ちなみに、チコちゃんのホームページはこちらね。

 葉っぱが緑色な理由として、葉っぱは日光のすべての光を吸収して光合成をしているわけではなく、一部の色(それが緑色)は反射して吸収しないようにしているとの事。なぜすべての光を吸収しないのかと言えば、そんな事をすると葉っぱの温度が上がりすぎて焼けてしまうからというシンプルな理由。そこで葉っぱは、赤と青の光を吸収し、緑色は反射していて、葉っぱの細胞の破壊を防いでいるって事なんです。

 知らなかったなー。

 ちなみに、葉っぱは赤い光を吸収すると、とてもよく成長し、青い光を吸収すると、とても強く成長するんだそうです。

 そこでふと気づいたのは、ウチの金魚水槽を照らしているLED電灯の光です。

 ウチのLED電灯って、三色の光源があって、それぞれスイッチでオンオフできるんですが、その三色の光源というのが、白と赤と青。普通、3つの光源となれば、光の三原色の、赤と緑と青のはずなのに、どうして緑じゃなくて白?って、ずっと思っていたのですが、ようやく、その理由が分かりました。

 白の電灯は人間のためです。だって、普通に白い色で照らしてくれないと、我々は水槽の中の金魚を見ることができないもの。そして、赤と青の電灯は水草のためです。水草の成長には、赤い光と青い光が必要なんですね。

 それなのに、さも分かったかのように、光の三原色で照らしたとしたら、大量の緑色の光が水槽を照らし続け、結果的に水草のためにならないし、おそらく、赤緑青を別々に照らして空気中で合成して作った白よりも、ダイレクトに白い光(つまりチップレベルで赤緑青で合成)で照らした方が明るいだろうし、その方が赤や青の光の成分が増えるし…ね。より合理的なわけだ。

 だから、水槽用のLED電灯は、白赤青の三色なんだな。実に納得です。

 チコちゃんに感謝です。

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2018年6月 8日 (金)

なぜ私はフルートの練習ができないのだろうか?

 …ま、言い訳ですね。今回の記事は、私の言い訳や愚痴を列挙した記事になりますので、そういうのがお好きではない方は、また明日お越しください。
 
 
 
 
 
 では、言い訳を始めます。

1)帰宅時間が遅くなった

 一番大きな理由は、これですね。以前は、一人職でしたし、結果さえ出せば割と時間は自由になるポジションでした。なので、仕事の調整をやりくりして、早めの帰宅を心がけ、帰宅後はしっかり練習していたわけです。ああ、懐かしい。

 でも今は、職場での立場やポジションが変わり、自分が仕事をする…と言うよりも、同僚や部下たちがする仕事の進捗状況を管理したり、アドヴァイスを出したり、方向性を決めたりと、全く自分のペースで仕事ができなくなりました。部下たちが働いているのに、自分ひとり先に帰るわけにもいかないし、自然と帰宅時間が遅くなりました。遅くなるだけでなく、肉体的にもヘトヘトになります。やっぱり、自分のタイミングで働けないってのは、何かとストレスになるわけだ。

 早く帰宅しないと、フルートは練習できないし、レッスンにも行けないので、こういう体たらくになってしまっているわけです。でも、仕事とフルートなら、仕事の方が優先順位が高いから、仕方ないよね。

2)休日も忙しい

 平日が無理なら休日に練習すればいいじゃんって話ですが、残念な事に休日も忙しいケースが多いんです。

 まず、休日出勤が多いので「今日は休みだ、出勤しよう」ってケースが多いし、出張もだいたい休日に入っているし…ってわけで、実質的な休日ってメッチャ少ないんですよ。で、その貴重な休日は…全力で遊び倒していて、だいたい外出して、帰宅するのが遅くなって、フルートの練習できなくなっちゃっているんですよ。遊びに行かずに練習すればいいじゃん…って言われても、遊びに行って、気分をリフレッシュしないと、元気に働けなくなってしまうので、そこはご勘弁を!って感じです。

 もちろん、休日だけれど、遊びに行かない日もあります。そういう日は、たいてい死んだように一日中寝てます。疲れているからね。で、起きると夜なので練習できないって寸法です。

 なので、本当に休日で、遊びに行く予定がなくて、元気が余っている時は、フルートでもなんでも練習してますが、そういう日は長期休暇にでもならない限り、なかなか無いので、練習不足になりがちなんだな。

3)楽器が必要

 これが結構、練習のハードルを上げています。例えば、入浴中にふと思いついたことがあって、試したい…となった時、声楽なら、その場でちょびっと歌っちゃう事ができますが、フルートなら(風呂場にフルートは持ち込まないので)楽器がなくて、何もできません。楽器が無いと何もできない…と言うのは、条件的に、かなり厳しいと思います。

4)本当のスキマ時間での練習は無理

 3)の続きになりますが、だから、スキマ時間がポンとできたとしても、その時に楽器を持っていないと練習できないわけだから、万が一のスキマ時間での練習のためにフルートを肌身離さず持ち歩くなら別だけれど、私はそういうライフスタイルではないので、スキマ時間にふと思い立っても、楽器を持っていないことが多いので、練習がちっともできないわけなのです。

 その点、声楽は楽器を肌身離さず持ち歩いている(だって声だもん)ので、案外、スキマ時間にちょこちょこ練習できるんだよね。

5)レコ勉ができない

 これは私の基本的なフルート能力の欠如かもしれないけれど、フルート音源を聞いても、そこから何かを学び取るというのが難しいので、いわゆる“レコ勉”…音源を聞いて勉強する事…ができません。フルートの勉強は、専ら楽譜をガン見して楽器を持って…というスタイルでしかできない私なのです。

 私は通勤中に音楽を聞く人なので、レコ勉ができれば、それなりの練習時間が確保できるし、実際、声楽の場合はレコ勉であれこれ学んでいます。でも、フルート音楽を聞いても、私の脳みそはそういう方向には動かないので、ダメなんですよ。

 レコ勉できれば、だいぶ違うんだろうなあ…。

 と言うわけで、そんなこんなの「なんでフルートの練習ができないのか」という言い訳をしてみました。

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2018年6月 7日 (木)

声楽的な歌い方と合唱的な歌い方の違いについて

 最近、合唱の人と、何かと歌の話をする機会の多い私です。そこで、気づいた…というか、互いに認めあった、声楽的な歌い方と合唱的な歌い方の違いについて、メモ程度に書いておこうと思いました。

1)レガートとマルカート

 おそらく、一番の違いはここかな?って合意したのですが、それがレガートとマルカートの違いです。

 レガートと言うのは、音と音をなめらかにつないで歌う事です。一方、マルカートと言うのは、音と音をはっきりと粒立てて歌う事です。

 声楽的な歌い方の基本はレガートです。メロディーラインをたっぷりと溜めてつなげて美しく歌っていくわけです。合唱的な歌い方の基本はマルカートです。マルカートで歌う事で、歌詞をクリアに発音し、縦のラインを揃えて歌っていくわけです。

2)飛ばす声と溶ける声

 声を遠くに飛ばして歌うのが声楽的な歌い方であり、自分の声を周囲の声に溶け込ませて歌っていくのが合唱的な歌い方です。もし、これを逆に行ってしまうと台無しになります。周囲の音に溶けて観客に聞こえない声楽歌手の歌なんて聞きたくないでしょ? 合唱団の中から、特定の声だけが飛び出して聞こえてくるなんて、せっかくの合唱をぶち壊しにしてしまうでしょ? つまり、そういう事なのです。

 別の言い方をすれば、目立つ声と目立たない声の違い…とも言えます。

3)美しい声と正しい声

 もちろん、声楽であれ合唱であれ、美しくて正しい声で歌う事は前提ですが、どちらがより強調されるのか言えば、声楽では美しい声が、合唱では正しい声が、より必要とされます。

 ってか、声楽では、いくら音程やリズムやアーティキュレーションが正しく理想的に歌えたとしても、声に魅力がなければ、お話になりません。全然ダメです。正しく歌えるのは前提条件であり、それに加えて、美しい声で歌えないといけません。

 合唱だって美しい声で歌える越したことはありませんが、周囲の仲間たちとの声のバランスを取ることの方が、もっと大切です。自分一人が理想的に美しい声で歌えても、周囲の仲間たちがそこまでの声でなければ、あなたの声ばかりが目立ってしまい浮いてしまいし、せっかくの合唱をぶち壊して兼ねません。合唱では美しい声である事に越したことはありませんが、それよりも周囲と息を合わせ、声を溶かしていく方が大切です。

 ですから、声の美しさに関しては、声楽ほど突き詰めていく必要はなく、むしろハモっていくために、正しい音程・リズム・アーティキュレーションで必要があるのです。

4)一人で背負って立つ声とあなたに全部おまかせの声

 これは発声というよりも歌う姿勢の違いかな? 声楽ってかソリストと言うのは、その場の音楽的な責任を背負って立って歌わないといけません。これは、プロアマ関係ありませんし、舞台の大きさも関係ありません。一度ステージに立ったならば、ピアノなりオーケストラなりをリードしつつ、自分の音楽世界を作らないといけないのです。歌手が音楽を作っていくのです。

 一方、合唱の場合は、あなたまかせ…と言うか、すべてを指揮者にゆだねて歌います。ざっくり言うならば、指揮者が演奏者であって、合唱は、指揮者の良き楽器でなければなりません。指揮者の意図を忠実に再現していくように歌わないといけません。決して自我をむき出しにしちゃいけません。あくまでも自分は抑えて、指揮者に声を捧げていくのです。

5)イタリア語とラテン語

 日本語以外の外国語と言う意味で、一番よく歌うのが、声楽ではイタリア語、合唱ではラテン語ってところでしょうか? ラテン語はほぼローマ字ですから、さほど難しくありませんし、イタリア語もほぼローマ字ですけれど…ラテン語程ローマ字っぽくないのが、たまに傷だったりします。ま、それでもドイツ語やフランス語と比べれば、どちらの言語も日本人には親しみやすい言語なんですけれど…ね。

 とまあ、こんな感じの結論を出したわけです。

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2018年6月 6日 (水)

声域と声種

 私は今でもキング先生に「君にはテノールは無理だから、バリトンに転向しなさい」と言われた事を、はっきりと覚えています。

 その時の私の気持ちは「このお方は、何をおっしゃっていらっしゃるのだろう」という困惑した気持ちでした。もちろん、こんな丁寧な言葉づかいではなく、もっとお下品な言葉遣いの方がふさわしい気持ちでしたけれど…。

 プロの音楽家ともあろうお方が、声域と声種の違いが分かっていらっしゃらない。または、教えることを放棄された…たぶん後者だろうと、今は分かりますが、その時は、前者ではないかと強く呆れてしまったのです。

 声域と声種は違うものでしょ! なぜ、それが分からない(涙)。…当時はマジで、そう思ったものです。

 閑話休題。声域と声種は違うものですが、案外、これがごっちゃになっているケースを見聞きします。それは、声域と声種がペアで考えられることが多いからです。

 例えば「高い声が出るからテノール」「低い声で歌えるからアルト」

 …んなわけないじゃん! 声域はあくまでもその人の持つノドの音域の話であって、声種は声質(つまり声の性格)で決まります。それはつまり…、

 ソプラノやテノールは、若い声です。それがソプラノやテノールの声質です。歌手の実年齢は関係なく、若々しい声で歌えるから、ソプラノやテノールなのです。メロディしか歌えないからソプラノなんてありえないし、高い音を出したいからテノールとか、もう馬鹿すぎる話です。70歳を越えて、もう高音はだいぶ無理になって、バリトンの音域でしか歌えず、バリトン役ばかり歌っているドミンゴであって、声は若々しいので、バリトン役を歌っても、声はテノールなわけで、これは声域と声種が本来的に異なるものだからです。

 メゾやバリトンと言うのは、圧倒的な美声です。それがメゾやバリトンの声質です。とにかく、美しくて耳障りの良い声で無理なく歌って人の魂を揺さぶる事ができるから、メゾやバリトンなのです。高い音も低い音も出ないから、メゾ? バリトン? それはメゾやバリトンをなめています、みくびっています。美しくて魅力的で、時にセクシーですらあるのが、メゾやバリトンなのです。なぜ、カルメンはソプラノではなくメゾなのか? つまり、そういう事なのです。

 アルトやバスと言うのは、愛情たっぷりな声なのです。母であったり、父であったり、王であったり、時には神ですら歌うのが、アルトやバスなのです。彼らの声の本質にあるのが“愛”なのです。声の中に愛があるのが、アルトやバスなのです。ただ単に、低い声を出すだけなら、ガマガエルだって出せるって話です。いかに声に愛を注げるか、それがアルトやバスってモンでしょ。

 そういう声質を考えずに、単純に声域だけで声種を判断するって、ちょっとおかしいと思います。声種を判断する際に、声域はむしろ考えなくても良いのでは…すら思います。と言うのは、声域はある程度訓練すれば、広がるものだから、最初は声域が狭かろうが、高い方や低い星に偏っていたとしても、あまり声域を考えなくても良いのだと思います。訓練を重ねていけば、やがて声は成長し、おのずとその声質にふさわしい声域になってくるものです。声域を広げていく事は、時間がかかるかもしれないし、訓練は大変かもしれないけれど、それでもなんとかなるものなのです。だから、声域よりも声質に注目して声種は判断しないといけないのです。

 声域は訓練次第でどうにでもなりますが、声質は神様から与えられたギフトですから、これは丸ごと受け入れるしかないのです。

 高い声が出ないからバリトン…? バリトンなめんなよ!って感じです。世界中のバリトンさんたちに謝れ!って言いたい気分です。

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2018年6月 5日 (火)

発表会を見ると分かること

 私の趣味は、見知らぬ人たちの発表会を見る事です。公開されているモノしか見れませんので、声楽の発表会や子どものピアノの発表会を見る事が多いです。フルートの発表会はなかなか公開されていないので、見るチャンスが少ないのが残念だし、合唱となると、発表会ではなく演奏会となり、入場料が必要となり、事前のチケット入手(これがまた困難なんだ)が必要となるので、ハードルが高くなってしまうのが残念です。もちろん、非公開とか関係者のみの発表会の見学は遠慮しています。

 アマチュアさんの発表会は、見ていて面白いです。声楽の発表会は、プロ歌手の演奏会と比べても、学ぶ事が多く、実に参考になります。子どものピアノ発表会は、ただただ可愛いです。

 発表会を見ると、個々の生徒さんの実力とか、得意な事や苦手な事などが分かると同時に、そのお教室なり、先生なりの指導方針が透けて見えるのも興味深いです。実際、今は大学生になってしまった息子くんが小学生の頃、ピアノ教室を某大手から個人教室に変更しようとした時に、たくさんのピアノ教室の発表会を見ましたが、本当にお教室なり、先生なりの指導方針の違いってのは、あるんだなあって思いました。

 とにかく、楽しくおおらかに演奏させ、細かい事よりも音楽的な楽しさを優先させているだろう先生がいたり、おそらく音大受験を念頭において緻密でミスのない演奏を目指してビシビシ鍛えているんだろうなあって先生がいたり、クラシック系ピアノ音楽をまっすぐに教えている先生もいれば、ポピュラー音楽やアニソンもあり…で教えている先生もいます。基本カリキュラムが決まっている先生もいれば、子どもに応じて指導を変えているんだろうなあ…って思わせる先生もいたり…と本当に色々でした。

 一般公開されているような声楽の発表会は、基本的に大人の生徒さんたちが歌っていますので、音大志向うんぬんはまずありません。そういう点では、子供のピアノ発表家よりもゆるめの発表会が多いのは否定できません。

 声楽発表会の場合、上達を目指している教室なのか、楽しさを目指している教室なのか、大きく2種類に分かれているかな…って思います。上達を目指している教室の発表会は、皆さん、お上手な方が多いし、無理な大曲を歌っている人も多くありません。割と身の丈に合った選曲をしている人が多いです。毎年見に行くと、年々上達しているのが、手に取るように分かります。

 一方、楽しさを目指している教室は…割と無理めの大曲を歌っている人が多いと思います。さすがに発表会で歌うわけですから、音程は許容範囲で歌いますが、合っているのは音程とリズムだけで、声質とか息の使い方とか歌い方とかアレアレアレ…って感じだったりします。何年たっても欠点が克服されずに発表会自体に停滞感が漂っていたりします。でも、歌っている人は笑顔で楽しげに歌っているわけだし、それはそれでアリなんだろうと思います。

 また大人の声楽発表会は、子どものピアノ発表会と違って、音大などを卒業し専門教育を受けた方(本来ならばプロ歌手になっているような方)が、しばしば生徒さんに混じっている事があります。なので、発表会を聞いていて、めちゃめちゃ上手な方がいらっしゃるからと言って、それはその方が、いわばセミプロな方であって、お教室の手柄ではなかったりする事もあります。なので、歌上手な生徒さんが揃っているからと言って、先生が教え上手であるとは限らなかったりします。

 また、合唱団員さんたちをベースにした声楽教室の発表会などでは、選曲が地味で無理めな曲は避ける傾向があります。だからと言って、生徒さんたちの歌が、必ずしも声楽的な魅力のある歌い方であるとは限りません。いやむしろ、合唱的な発声で歌っている事も多く、こういう人たちって、地味に上手で、見ていて、とても勉強になるんですよね。私は好きです。

 一般的に、歌って、リズムと音程が正しければ、それが正しい歌の歌い方であると思われがちですが、クラシック声楽って、その先を求められているわけで、そこを見据えた指導がしている先生と、そうでなく、そこでとどまっている先生の2種類の先生がいるような気がしないでもないです。もっとも、リズムと音程を正しく歌わせる事って、指導者として、かなり上手でないと難しいという事は、申し添えておきます。

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2018年6月 4日 (月)

なぜ、日本の声楽家さんたちは英語詩の歌曲を歌わないのか?

 日本の声楽家の皆さん、つまり、西洋クラシック声楽を生業となさる歌手の皆さんのレパートリーって、オペラがメインで、歌曲も歌うという方が大半です。で、その歌われる歌曲も、イタリア歌曲、ドイツ歌曲が中心的なレパートリーで、それに加え、歌手によって、フランス歌曲や日本歌曲が加わり、さらにロシア歌曲やスペイン歌曲などの、その他の西洋語の歌曲をレパートリーとする歌手が加わります。

 日本人にとって、もっとも親しみ深い西洋語である英語の歌曲って、多くの作曲家によってたくさんの曲が作曲されているにも関わらず、日本の声楽家の皆さんは、あまり取り上げて歌うことはありません。おそらく、ロシア歌曲やスペイン歌曲よりも少ないかも…。でも、ショパンの歌曲が大半だろうけれど、ポーランドの歌曲よりは、多く歌われているんじゃないかな…ってくらいの印象です(きちんと統計調査を調べたわけじゃありませんから、あくまで、私個人の印象です)。

 英語の歌曲って、良い歌がたくさんありますよ。音源も探せばあれこれあります。でも、なかなか日本の声楽家の皆さんは歌われません。残念ですね。

 で、私は、なぜ日本の声楽家の皆さんが英語詩の歌曲を歌われないのか…考えてみました。

1)そもそも声楽家の皆さんは、英語が苦手

 日本の声楽家の皆さんは、基本的には語学は得意な方が多いと思われますし、海外にもたくさん留学されるので、外国語が苦手という人は少ないはずですが、英語はあまり得意ではない…ってか、苦手だとおっしゃる方の話をチラホラと聞きます。まあ、彼らが留学すると言っても、留学先はイタリアとかドイツとかフランスとかの非英語圏がほとんどですから、イタリア語やドイツ語やフランス語と比べると英語は苦手なのかもしれません。なので、なんとなく、英語詩の歌曲を避けてしまうのかもしれません。

2)音大では英語詩の歌曲は教えない

 多くの音大の声楽科では、イタリア歌曲とドイツ歌曲、日本歌曲は必ず教えますし、その他の言語の歌曲も、師事する教授によっては教えてくださるようだけれど、英語詩の歌曲を音大で教えているという話は、私、寡聞にして聞きません。もしかして教えている大学があるのかもしれませんが、おそらくそれは極少数の大学で教えているかも…?ってレベルなんだろうと思います。多くの、普通に音楽大学を卒業して歌手になられた方は、学生時代に英語詩の歌曲を学んだ経験はないだろうと思われます。

 学校で教えてもらえないと…少なくとも若くてキャリアの浅いうちは、それらの曲をレパートリーにするのは難しいだろうし、キャリアを積んで一人前に成れる歌手なんて、音大卒業生の中のほんの一握りだろうし…と考えると、なかなか声楽家の皆さんが英語詩の歌曲を歌われないのも仕方ないのかもしれません。

3)英語の歌曲はミュージカル(つまりポピュラー音楽)っぽく聞こえる

 案外、この理由が最大の原因かもしれません。英語の歌曲って、ポピュラー音楽っぽく聞こえるんですよ。というのも、ポピュラー音楽って、大半が英語詩ですからね。

4)有名な英語詩の歌曲は少なく、その多くをポピュラー歌手たちが歌っている

 例えば、『ダニー・ボーイ』とか『グリーン・スリーブス』とか『アメージング・グレース』『アニー・ローリー』『庭の千草』『春の日の花と輝く』『埴生の宿』…、そしてフォスターが作曲した数々の歌曲たち…。おそらく、我々が日常生活でなんとなく耳にする英語詩の歌曲って…こんな程度です。クラシック声楽を学んでいる人だと、これにトスティが作曲した数曲の英語詩の歌曲、例えば『Good-Bye』などの曲が入るかなって程度です。おまけにこれらの曲の多くは、クラシック系の歌手ではなく、実はポピュラー系、それもジャズ歌手の皆さんの歌唱で聞くことって…多くありませんか? そう、英語詩の歌曲の一部は、スタンダード音楽としてジャズ歌手の皆さんに歌われる事が、日本では多くて、それもあって、クラシック系の歌手の皆さんがレパートリーにするのを避けている…ような気がしないでもないのです。

5)そもそも英語詩の歌曲はローカルな曲が大半だから

 英語詩の歌曲って、我々が知らないだけで、実はたくさんあります。それは輸入楽譜をちょっと調べてみると分かります。たくさんあるのだけれど、その大半が、我々の耳に届きません。そして、それらの歌曲を歌っているのは、アメリカやイギリスなどの英語を母国語としている歌手の方が大半です。

 これは、日本における日本歌曲の扱いに似た感じなのかもしれません。日本歌曲だって、良い歌曲はたくさんあるけれど、歌っているのは、ほとんど日本人歌手であり、海外の歌手さんたちが日常的なレパートリーとして取り上げる事がないようなもの…と同じで、英語詩の歌曲も、良い歌曲はたくさんあるけれど、歌っているのは、アメリカやイギリスなどの英語を母国語としている歌手が大半で、それらの国以外の歌手さんたちは、ほぼ歌わない…って感じなのかもしれません。

6)英語詩の歌曲って、バロック曲と近現代曲しかないから

 調べてみると分かりますが、英語詩の歌曲って、クラシック音楽のど真ん中である、ロマン派の曲が少ないのです。かろうじて、フォスターがロマン派の作曲と言えますが、その他の有名作曲家は、みな、バロックの時代の作曲か、近現代になってからの作曲家たちばかりです。

 これは、ロマン派の時代のイギリス貴族たちが、母国語の音楽を大切にしなかったから、こうなってしまったんだろうと思います。彼らは、自分たちが英語で生活しているにも関わらず、王宮ではフランス語を用い、音楽ホールではイタリア語で楽しみ…なんていう生活をしていたツケが、ロマン派の時代の英語詩の歌曲の少なさに繋がっているだろうと思われます。

 ま、原因が事なれど、ロマン派の時代に冷飯を食らってしまったという点においては、英語詩の歌曲って、フルート独奏曲と同じような立場なんですね。

7)英語詩の歌曲は難しく、アラが目立つから

 歌ってみると分かりますが、英語って実に歌いづらい言語なんですよ。ドイツ語ほどではないにせよ、子音が強くてレガートに歌いづらいんです。難しい歌を歌えば…当然、歌手としてのアラが見えてしまうわけで、そんな難しい言語の曲は…できれば避けたいですよね。

 以上、日本の声楽家の皆さんが英語詩の歌曲を歌わない理由を考えてみましたが、考えれば考えるほど、やっぱり日本の声楽家の皆さんが英語詩の歌曲を歌うのは、色々と難しいんだなあという結論に達してしまいました。

 仕方ないよなあ…でも、英語詩の歌曲にも、いい曲はたくさんあって、そういう音楽をたまに(笑)聞くと、私は感動しちゃったりします。日本でもっと広く紹介されていいと思うのですよ、英語詩の歌曲ってね。

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2018年6月 3日 (日)

そりゃ、慶喜さんにはなかなか回ってこないわい

 最近、NHK大河の「西郷どん」を楽しみに見ています。このドラマを見ていて思うのは、あれほど人望厚い“ひーさま(一橋慶喜)”がなぜ、なかなか将軍になれなかったのか?です。

 実際のところ“ひーさま”は、15代将軍徳川慶喜になったわけだけれど、歴史を紐解くと「西郷どん」のお話でよく出ていた、14代将軍(家定の後継者)になれなかっただけでなく、その前の13代将軍の時も、家定を将軍にしようか、慶喜を将軍にしようか…争いがあって、結局、家定に負けて将軍になれなかったという、黒歴史を持っている“ひーさま”だったわけです。

 なので、ドラマに初登場した時の“ひーさま”は、すでに将軍の跡目争いに一回負けて、やさぐれていたのです。で、再度のチャンスも負けてしまって、現在、ドラマの中では蟄居中だったりするんですが、その後に訪れる三度目のチャンスをモノにして、ようやく最終的には15代将軍になります。

 なんで“ひーさま”は、人望があって能力もあるのに、二度も待たされたのか…。歴史に詳しい方なら、あれこれ理由を言えると思いますが、私は、そんなに歴史に詳しいわけではありません。ただ、当時の将軍家って、実力とか人望とかも大切だけれど、何よりも血筋を重んじるわけでしょ? 正しい血筋の方でないと、どんなにすごい人であっても将軍様にはなれないわけです、でしょ?

 そこで、徳川宗家(つまり歴代将軍)の血筋ってやつを調べてみました。

01 家康
02 秀忠(父:家康)
03 家光(父:秀忠)
04 家綱(父:家光)
05 綱吉(父:家光)
06 家宜(祖父:家光)
07 家継(父:家宜)
08 吉宗(曽祖父:家康)
09 家重(父:吉宗)
10 家治(父:家重)
11 家斉(曽祖父:吉宗)
12 家慶(父:家斉)
13 家定(父:家慶)
14 家茂(祖父:家斉)
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15 慶喜(家康の子孫:11代孫に当たる)
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16 家達(吉宗の子孫:6代孫に当たる)
17 家正(父:家達)
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18 恒孝(曽祖父:松平容保)

 こんな感じです。基本的に全員、徳川家康の子孫で、将軍の子か孫、たまにひ孫が将軍になっています。で、これが14代家茂まで続きます。

 これを見ると“ひーさま”は血筋的に遠いなあ、薄いなあ…。11代も遡らないと将軍様が出てこないよ、それも出てきた将軍様は家康さんだよ、始祖だよ初代だよ。最後の将軍様の血筋的に直系となる将軍様が初代将軍様とは、いやあ遠い遠い。そりゃあ、なかなか将軍職が回ってこなくても、仕方ないなあ。

 いくら人望が厚く、能力が高くても、これだけ血筋的に薄ければ、もっと血の濃い人に将軍様になっていただこうという意思が働いても不思議じゃないし、当時の常識なら、そりゃあ“ひーさま”は将軍無理だって…。

 ちなみに“ひーさま”は、待ちに待たされた将軍職を約1年で引退してしまいます。あっさりしたもんです。“ひーさま”がやった仕事は、大政奉還と言う徳川幕府の店じまいだったわけです。

 で、将軍職とは無関係になった徳川宗家の家督を、次代の家達に譲るわけです。というわけで、この家達さん、世が世なら16代将軍になられたかもしれないはずの方だったりします。でも、この家達も“ひーさま”ほどではないけれど、血筋的に遠いですね。吉宗の6代後の孫だもの。

 当時の徳川宗家って、ほんと、人材不足だったわけなんですね。だから、家定のようなアレな人でも、家茂のような子どもでも、将軍にせざるをえなかったわけだし、それでも弾が尽きて、やっと“ひーさま”にお鉢が回ってきたわけです。なんかねえ…。

 でもまあ、結果として徳川幕府は滅んだわけですが、徳川宗家は続いていったわけです。

 現代の徳川宗家の当主は18代目の恒孝さんです。この方は、曽祖父が会津最後のお殿様である松平容保なんです。松平容保は水戸徳川家の血筋の方なので、直系の将軍は、これまた家康になるわけで、ありゃー本当に遠い。

 ちなみに、19代目(予定)となる家広さんは、恒孝さんのご子息なので、まあここは問題無しとして、この家広さんにはお子さんがいないそうなので、このままではお家が断絶してしまいそうなのです。まあ、一族の方から養子をもらってくれば、家は続きますが、今の所、そんな気配もないそうです。だいたい家広さんの奥様は日本人ではないそうですし、お家の継続ってあまり重視されていらっしゃらないのかもしれませんね。

 やがて徳川宗家も断絶なんだな…。

 ちなみに、吉宗や家茂を輩出した紀州徳川家も、現在の当主は女性で、独身で、お子さんもいらっしゃらないようなので、こちらも断絶の危機ですし、慶喜さんの家も、現在の当主の慶朝さんは独身でお子さんはいらっしゃらないようで、こちらも断絶の危機です。

 もっとも、尾張徳川家と水戸徳川家は、まだまだお元気だそうです(少し安心)。

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2018年6月 2日 (土)

マブタが無いのは、色々不便

 ウチの金魚たちは、広い水槽を狭く使うことで有名ですが(笑)、先日、彼女たちを観察していたところ、なぜ狭く使うのか…なんとなく分かったので、ご報告します。

 1つ目の理由は…仲がよいので、ちょっとした群れを作りたがり、それでついつい集まってしまうわけです。特に寝る時は、結構一箇所に固まって寝ていたりします。

 2つ目の理由は…まぶしいので、日陰に集まってしまうため…です。

 水槽の電灯が蛍光灯だった時代は、それほど顕著ではなかったのですが、水槽の電灯をLEDに変えてから、金魚たちは水草の下によく集るようになりました。どうやら、LEDの光って、金魚たちにはかなりまぶしいみたいで、それを避けるために、水草の下…つまり日陰に入るようになった…というわけです。

 日陰じゃないと、本当にまぶしいのだろうと思うのです。と言うのも、金魚ってマブタが無いんです。金魚の目って、常に全力で見開いたままなんです。おまけに彼女たちって、実に目がいいんですね。ほんと、よく人間の事を見ています。それほど良い視力だから、直射日光(直射電光)が本当にまぶしくて辛いのだろうと思われます。

 なにしろ、マブタが無いから、目を閉じて、目を休めるという事が一切ありません。寝ている時だって、目は開けたままなんですからね。よく我々は、夜は部屋を真っ暗にしないと眠れないとか、昼寝をするにしても薄暗い部屋じゃないと眠れない…とか言うわけですが、金魚からしてみれば、それはすごく贅沢な話なんでしょうね。

 金魚って、案外、たくさん寝ます。夜寝るのは当然ですが、昼間も昼寝します。昼夜限らず、眠くなればガンガン寝ています。水槽の中が明るかろうが暗かろうが関係ありません。関係ない…と言いながら、やはり明るいよりも暗い場所の方が眠りやすいようだし、まぶしくない方が良いみたいです。

 だから水草の陰の日陰の部分についつい集まってしまうのだろうと思います。

 マブタさえあれば、そこまで日陰にこだわらなくても済むのだろうになあ…とも思います。

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2018年6月 1日 (金)

久しぶりのレッスンでは…なかなか上達しません

 フルートのレッスンに行ってきました。何週間ぶりだろ…。

 とにかく、お教室に入るなり「夏合宿に参加します!」と宣言してきました。だって、先生と次はいつ会えるか分かりませんから、会えた時に言っておかないといけません。

 さっそく「じゃあ、何を吹きますか」という話になったので、ラフマニノフの『ヴォカリーズ』でいかがでしょうか?と申し出たら、即座にOKが出たので、今年の私は、夏合宿で『ヴォカリーズ』を吹くことになりました。頑張るよ。

 さて、久しぶりのフルートレッスンです。ロングトーン練習は、もうバッチリでした。

 エルステユーブンゲンは、もう毎度毎度の23番と24番です。当然暗記などしていません。いや、一度、GWのあたりに集中的に練習して、一度は暗譜したのですが、そこからしばらく練習していなかったら、すっかり忘れてしまいました。老人だもの、しょうがないよね。

 プチエチュードの19番は(部分的には)だいぶよく吹けるようになってきましたと言われました。結局、練習量が足りないので、つまらないミスブローや譜読みミスが目立ち、とても完成とは言えないわけです。やはり練習量が最大のネックだよね。

 40リトルピーセズは、13番と14番です。全然ダメ。両曲とも知らない曲って事もあるけれど、吹いていて、どうにも「これじゃない感」がなって、なんかしっくり来ません。おまけに、14番に関して言えば、完全に音楽に譜読み(の速度)が追いつけません。いやあ、譜面がオンタイムで読めなければ、暗譜でもしない限り、吹けないよね。で、暗譜できるような脳みそは持っていないし、暗譜はしちゃダメという先生の指導方針もあり、まあ、こんな体たらくに成っています。

 もっと、譜読みの精度と速度を上げないと…なあ。

 今回の雑談は(少し前の話題になりますが)日大アメフット部の件。詳細は省きますが、H先生、大学側の対応にかなり怒っていましたね。H先生も大学教員なわけで、日大のあれこれの対応は、とても教育者のそれではないって、怒っているわけです。私も同意見です。痩せても枯れても(大学と言えども)部活動なら、まずは勝利のためよりも、教育のために部があるわけで、そこを履き違えちゃダメでしょって話だし、自校の学生に対しても、相手側の学生に対しても、教育的配慮ってヤツが全然ないわけだし…、教職員を守るのも大切だろうけれど、その前に学生を守れよって話です。これじゃあ、怒るよね。

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