ひとこと

  •  ポケモンGOの仕様が大きく変わって戸惑ってます。たぶん改良されたのだろうと思うのだけれど、どう楽しめば良いのか、正直戸惑っています。年寄りは変化が苦手なんだよねえ。ああ、以前のゲームシステムが懐かしい…。
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2017年6月の記事

2017年6月26日 (月)

ノド声だって捨てたモノじゃない? その1

 声楽をやっていると“ノド声歌唱”は悪者扱いされがちですが、そんなにノド声歌唱って悪い事なのでしょうか?

 人間はノドを使って声を出します。これには例外がありません。普通の人は声帯を使って声を出し、声帯を切除した人でも下咽頭部を駆使して声を出します。つまり、あなたが人間である限り、ノド声で発声している事は、間違いのない事実です。

 そもそも、すべての人の声はノド声なのです。

 ではなぜ「ノド声で歌ってはいけない」とか「響きで歌いなさい」とか言うのでしょうか?

 仮に、音叉で考えてみましょう。音叉を叩くと音が出ます。でも、あまり大きな音ではありません。しかし、その音叉を机に付けると、机が鳴り出して、音叉の音が大きく聞こえます。ヴァイオリンとかギターなどの楽器に付けると、ビックリするほど大きな音で鳴り出します。あるいは顔面の骨の部分に付けると、顔中から大きな音で音叉が聞こえます。

 声も似たようなモノなんだろうと思います。

 ノドで作る声は、音叉を叩いただけの音のようなもので、そこから出てくる声は、本来はあまり立派でもなければ、大きくもなく、美しくもありません。歌の素人さんの歌声が、たいてい貧弱で小さくて不安定なのは、割りと生に近い声だからです。

 いわゆる、我々がよく言う“ノド声”というのは、本来小さな音量でしかない生のノドの声を、筋力と呼気圧と根性で無理やり大きな音にした声を言います。まあ、発声のメカニズム的には、怒鳴り声や叫び声と似たような感じでしょう。ですから、努力と才能次第では、大きくて立派な声にはなるけれど、あまり美しくはありませんし、無理に大きな声にしていますので、あっちこっちで破綻しています。

 一方“響きで歌う”と言うのは、音叉を顔面の骨(つまり頭蓋骨)に付けた時のような感じでしょう。音叉を頭蓋骨に付ける事で、音叉が頭蓋骨を共鳴共振させるように、声を生のまま出すのではなく、頭蓋骨の随所でノド声を共鳴共振させる事で、生のノド声に共鳴共振させた声をミックスする事で、大きな音量の声を出すのです。この方法ならば、ノドに大きな負担がかからないので、楽に声が出せますし、無理をしていないので、声の美しさもキープできます。

 つまり“ノド声歌唱”と“響きで歌う事”は、元を正せば同じ声帯からのノド声を用いて歌っているわけで、それを頭蓋骨でどの程度響かせているかで違っているくわけで、いわばこれらの二つは連続した声であると言えます。

 だから、すべての声は、ノド声なのです。

 この生のノド声を生のまま拡声したような声を“ノド声”と呼び、生のノド声を頭蓋骨で共鳴共振した声が主に聞こえる声を“響きで歌う”と呼んでいるにすぎないのです。

 我々人間は機械ではありませんから、ゼロかイチかの行動はできません。ノド声と言っても、多少なりとも頭蓋骨の共鳴共振は加わるでしょうし、響きで歌っていても、ノドの声が全く聞こえないわけじゃないのです。要は程度の問題です。

 そう考えてみると、ノド声だからと言って、そう捨てたものではないのかもしれません。

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2017年6月25日 (日)

ネトパヨの特徴と対策について

 ネトパヨとは、私が今作った造語です(笑)。ネットに大勢いらっしゃる愛国主義者の方々を、その反対陣営(反日&売国主義)の方々が“ネトウヨ”と呼んでいるので、ならばそう呼んでいる方々でネットを主戦場としている人々を、ネットパヨク、略してネトパヨと呼んじゃえばいいじゃん…という発想です。

 私は自分の事をネトウヨだとは全く思っていません。だいたい、考え方が愛国主義と言うには、あれこれヌルすぎます。それ以前に、私自身、思想的には中立でありたいといつも考えていますので、思想的には盤石とはとても言えない状況で、何事にしても足元だってグラグラな感じで、すぐに他人の影響をウケまくるし、日和るし、弱気なので、とてもネトウヨと呼べないし、仮にネトウヨだとしたら、まだまだ序の口程度の、かなり弱っちい存在であり、やはりどう考えても、私はネトウヨの範疇には入らないと思っています。あえて言えば“小市民”あるいは“雰囲気に流されるヤツ”ぐらいかなあと自覚していますが、それでも“日本大嫌い”な人々の視点で私を見ると、こんな私でもネトウヨに見えるらしく、あれこれちょっかいを出してくる人がいないわけではありません。

 私がバリバリのネトウヨなら、それはそれでバトル歓迎に思うかもしれませんが、誤解された上で噛みつかれるなんて、誤爆もいいところです。まあ、あれもこれも一種の有名税なのかな…なんて思ってます。

 そんなわけで、少なからぬネトパヨの方々に関わらせていただいたので、私なりに彼らの特徴と、そんな彼らにどう対処したら良いかって事を記事にしておきます。

 この記事が何かのお役にたてれば幸いです。

ネトパヨの特徴

 一番大きな特徴は『自分の主義主張を声高に発言するが、相手からの反論は聞かない』という点かな? 彼らが何を考えていても、それはそれで良いと思いますが、はっきり言って、この姿勢はダメです。独善的です。だから、議論にはなりません。それなのに、こちらにはしっかりイチャモンつけてきます。

 イチャモンに対して、きちんと対応して、真摯に議論を持ちかけると、話題を巧妙にはぐらかして、自分の主義主張を再度声高に発言してきます。まるで、壊れたレコードのようにね。

 また、彼らの主張って、そのベースにある事柄のすべてが事実ってわけでもなく、事実だったり事実でなかったりする事を根拠に、あれこれ言ってくるわけです。

 で、その事実でなかったりする事…はっきり言っちゃえばデマなんですが、そのデマを巧みに織り込んでくるのも彼らの特徴です。これが厄介なんですね。

 さらに言えば、デマを話の根幹の部分ではなく、周辺事実? 枝葉の部分に巧みに織り込んでくるんです。そこを軽視したり、無視して議論を進めてしまうと、そのデマが否定されなかったという事を以て事実認定し、次の議論の前提条件になってしまう事もあります。かと言って、反論すると、反論することでデマが強調されます。おそらく、これが彼の狙いなんだろうと思います。つまり、話の中にデマを混ぜて、それに触れられなければ、デマを事実化して自分たちに有利に話を進め、デマが否定されるなら、こんどはそのデマについて話しだし、話題を巧妙に自分たちに有利なモノへとすり替えていくんですね。

 ここで言い負かされてしまうと、相手の勝ち(?)になってしまいますが、そもそもデマはデマであり、虚偽ですから、きちんと筋立てて反論すれば、容易に論破できますし、論破できれば、相手も窮地に追い込まれますので、彼らのデマに関しては、一つ一つ簡潔に完璧に論破していく必要があります。

 またネトパヨの方々の発言には、マニュアルでもあるのでしょうか? よく「のび太のくせに生意気だ」的な論調でこちらを攻めてくる事があります。もちろん、本当に“のび太”と言っているわけでなく、この“のび太”の部分には、こちらが反論できないような事実を入れてくるわけです。その事実は無茶でも何でも良いし、一見、攻撃をしているの?と思われるようなへんちくりんな事でもいいのです。

 例えば「ジジイは黙ってろ」とか「ハゲのくせに生意気だ」とか「デブはデブらしく飯でも食ってろ!」とかね。この手の類の、話にもならないような暴言を浴びせてきます。「なんかもう~」と思うこともありますが、おそらくリアル場面なら、大声出して怒鳴り散らして、その場の空気を支配するという手法をネットでやっていんだろうなあって思います。

 とにかく、何でも良いんですよ。彼らにとって大切なのは、攻める事。攻め続ける事なのです。なにしろ、攻撃は最大の防御ですから。彼らは、とにかく攻撃する事で、相手を防御(つまり反論)に専念させて、話題をすり替えていくのが目的ですから、ちょっとでも自分が不利になったら「のび太のくせに生意気だ」と叫び出すんです。

 正直、彼らのこのやり方には、心理的に引いてしまう私(非論理的な人間、つまりバカが嫌いなんです)ですが、そこで一歩も引かずに、防御しつつ、チクリチクリと相手を攻めていければいいのです。ボクシングに例えて言うなら、ガードを固めながら、時折ジャブを打つわけです。ジャブも数当たれば、それなりのダメージになります。

 また、彼らは絶対に謝りません。「しまった! 失敗した!」と思っても、まず謝りません。彼ら的には、謝ったら負けなのです。謝ったら、相手方の言い分を丸呑みしなければいけないと思いこんでいるようなので、絶対に謝りません。それでも追い込んでいくと、先程の「のび太のくせに生意気だ」発言をしてきたりします。それが通用しないとわかると、今度は攻撃の矛先を変えて、周囲に悪口を撒き散らしたり、こちらの身内とか友人とかを攻撃し始めます。

 卑怯なやり方ですが、ネトパヨって、基本的に卑怯な連中なんです。ですから、卑怯な手法を取ることに、なんの躊躇もないんです。困った事です。

 またネトパヨの方々は、複数のハンドル、アカウント、IDを使用するのが常態です。たまにそれらを駆使して、自作自演をしたり、マッチポンプをやったりします。ただし、そんなに頭がよろしくない方も多いので、複数の人格を演じるのが下手くそで、すぐに馬脚を現しますので、お話になりません。

 とにかく、汚い手でも卑怯な手でも、勝てばそれで良いと思っているのが、彼らネトパヨの特徴です。

ネトパヨ対策

 彼らに対処する時の姿勢の基本の基本として、話題の変更やはぐらかしなどを許さないようにしましょう。彼らは自分たちが不利になると、簡単に話題をはぐらかして、自分たちの土俵に話を持ち込んでいきますので、それを拒絶して、最初から最後まで、何について話しているのかを明らかにして、話題をそらさせないようにします。それだけでも、かなり効果的です。

 彼らの垂れ流す小さなデマや嘘に対しても、一つ一つはっきりと「それは嘘です」と否定し、相手が嘘つきである事を周囲に印象づけるのも効果的です。さらには、彼らが無茶な事やデタラメを言い出したら、一つ一つ「それはおかしい」と否定し、相手が論理的な人間ではない事を周囲に印象づけるのも手です。

 相手が攻めてきても、こちらは最低限の防御だけをするよう心がけましょう。過剰に反応すれば、相手の思うつぼだし、相手を攻める事は同じ土俵に上がることになるので、それは避けましょう。最低限の防御をしているだけでも、そもそもがデマによる攻撃なのですから、相手は勝手に自滅します。

 よく相手に謝らせる事にこだわる人がいますが、彼らは絶対に謝りませんかから、そこにこだわるのは不毛なことです。むしろ、謝るチャンスを与えつつも、彼らが謝らない事を逆手にとって「この人間は謝ることの出来ない狭量な人間である」と周囲に印象づける方が効果的だと言えるでしょう。

 ネトパヨの方々は、すぐに相手の言質を取りたがります。ですから、彼らと議論をする際には、失言はもちろん軽口にも注意を払う必要があります。決して揚げ足を取られないように注意深くなることが肝心です。

 ネトパヨの方々は、とてもとてもメンツを大切にするので、彼らをやっつけたければ、彼らのメンツをつぶせば良いのです。嘘つき、卑怯者、愚か者と行った扱いをしてあげれば、それだけで相手は火病ります。実際に、あるネトパヨの方を卑怯者扱いをしてあげたら、それが原因で、リアルに血圧があがって入院騒動になってしまった事もあります。私には全く理解できませんが、彼らにとってメンツって、それくらいに大切なようなのです。

 なので、ネトパヨに勝ちたければ、基本的に彼らは卑怯者なのですから、彼らを卑怯者扱いをすればいいのです。彼らは卑怯者のくせに、何より卑怯者と言われることを恐れていますからね。だったら卑怯な事をしなければいいじゃん…と私は思うのですが、行動と思想信条が一致しないのも、ネトパヨの特徴ですから仕方ありません。

 つまりネトパヨ相手なら、論理的に勝てなくても問題ないのです。相手を卑怯者だと印象付ければ、それでネトパヨ対策として、十分です。

 一番良いのは、彼らに絡まれない事です。しかし、こちらがいくら気をつけていても、噛み付いてくる時は噛み付いてきます。それがネトパヨです。そうなったら、交通事故にでもあったとでも思って諦めて、ネトパヨの駆除に励んでください。

 私は思想信条の自由を信じています。他の人々が、個人的にどんな事を考えて、どんな人や団体を支持していようと、それはそれで自由です。私は何も文句言いませんし、誰にも文句を言ってほしくないです。

 でもね、自分の思想信条が尊重されるのと同様に、他人の思想信条も尊重しないといけないという市民社会における基本的合意事項を理解できないのが、ネトパヨの方々なのです。彼らネトパヨの方々は、基本的に独裁主義者のようで、自分と異なる意見の人間の存在を許しません。それこそ、言論封鎖であり、ファッショなのですが、そこに気づいていないのもネトパヨの特徴なんだと思います。

 自分と異なる意見の人間とも、一緒に笑って暮らせる社会が、成熟した市民社会だと私は信じています。まだまだ日本社会もネット社会も、成熟からは程遠い社会なんだなあって思います。

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2017年6月24日 (土)

戦々恐々の夏が来る

 皆さん、夏が好きですか? 私は大嫌いです。

 もちろん、夏は暑くて、暑いのが嫌いな私は、そもそも夏が嫌いなのですが、それ以上に、夏が嫌いな理由があります。

 それは、夏は金魚を殺すからです。

 金魚は熱帯魚じゃありません。金魚が生育する適温は、ずばり17度です。もちろん、生き物ですから、そこから多少の上下には対応します。それでも金魚にとって、水温の変化は影響が大きく、彼らは変温動物ですから、水温=体温なわけで、夏のあつい水温は、体温が熱くなり、いわば熱を持っているにも等しい状態になります。

 金魚の一般的な生息可能な水温の上限は28度だと言われています。つまり30度は、ちょっと金魚には高すぎる…って事です。高すぎる水温は、金魚を元気にさせすぎます。食欲は旺盛になり、活動的になり、一見、すごく元気に見えますが、その実態は、躁鬱の躁状態になっているようなモノなのです。無駄に心拍数が増え、血圧が上がります。それが彼らの健康と体力を奪います。

 そして、夏の終わりまでには体力を消耗しつくして、弱い子から順番に星になります。

 水槽の水温の上昇を防ぐには、二つの方法があります。一つは、水槽のある部屋のエアコンを夏の間じゅう、つけっぱなしにする事です。もう一つは、水槽を大型のモノに変える事です。どちらも経済的な理由もあって、妻からストップが言い渡されているので、我が家では実行できません。

 なので、我が家の水槽は、夏の間は、かなりの温度になります。30度はもちろん、35度を越える事もないわけじゃないです。とにかく、暑いのよ。

 夏は金魚にとって、地獄の季節です。そして、秋はお別れの季節なのです。

 だから私は夏は嫌いです。

 ちなみに、水槽の水温は、金魚にとって、低い分には特に問題ありません。彼らは水が冷たくなれば、冬眠するだけです。つまり、休息モードに入ります。たとえ水面に氷が張るような状態になって、その下の冷たい水でじっとしているだけなのです。だから、金魚にとって真冬は決して敵ではありません。

 むしろ、強制的に元気にされて、無駄に体力を消耗させられる夏こそが危険なのです。

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2017年6月23日 (金)

棒吹きを改善する方法

 アマチュア笛吹きさんたちに共通する大きな悩みの一つとして“棒吹き”というのがあります。どんなモノかと言えば、何も考えずに(あるいは、余裕なく)吹いているだけの状態です。楽譜に書かれている音符をちゃんと吹いているのだけれど、ただそれだけで、特に音楽的に感じるものはあまり無い…演奏です。初学者や若い学生さんに多く見られる演奏です。

 正しいか間違っているのかと言えば、ひとまず正しい演奏なんでしょうが、面白い演奏なのかと言われれば、極めてつまらない演奏です。

 音符をただ音にして並べているだけで、そこには奏者の感情が入っていなくて、それでは面白みってモノが感じられないのです。

 「だったら、感情を込めて演奏すればいいじゃん」と言うでしょうが、それがなかなか難しいわけです。

 では、どうすれば棒吹きから脱却し、感情豊かな演奏ができるようになるのでしょうか?

 私が思うに、歌を参考にしてみると良いと思いますよ。

 フルートを吹く前に、音符を歌ってみると良いと思いますし、その際に階名で歌うのではなく、でたらめでもいいから歌詞をつけて歌ってみると良いと思います。もちろん、原曲が歌ならば、正式な歌詞でも良いです。とにかく、歌詞をつけて歌ってみると良いです。歌詞をつけた段階で、その歌はすでに棒吹きではなくなっているはずです。それが言葉の力という奴です。

 何度か歌ってみて、歌の様子が分かったら、今度はフルートで歌ってみる。フルートを吹くのではなく、フルートで歌ってみる。そうすると、棒吹きから卒業できると思います。

 歌う歌はなんでも良いです。好きな歌が良いでしょうね。できれば感情の起伏の激しいタイプの曲が良いです。絶唱系の歌なんていいですね。演歌も捨てたものではないですよ。一般的には洋楽よりも日本語の歌の方が、歌詞の意味がダイレクトに分かるので、この練習には向いていると思います。

 そうやって歌心を手に入れれば、二度と棒吹きにはならないと思います。お試しあれ。

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2017年6月22日 (木)

最初の先生選びは大切なんだけれど…

 別に音楽に限らないのだけれど、最初に師事する先生の選択って、とても大切だと思います。だって、最初の先生からは、基礎の基礎を習うわけだし、その後に続く音楽人生の根本的な事を学ぶわけです。ここで間違った事を教わったり、方向違いの事を学んでは、無駄足どころか、才能や興味ややる気を潰されかねません。そういう意味でも、最初の先生選びって、とても大切だと思います。

 でも現実は、先生を選べるほど贅沢な環境にいる人って…そんなにいませんよね。大都会とか、高級住宅地周辺部なら音楽関係の先生もゴッチャリいるでしょう。あるいは、子どものピアノ教室ぐらいなら、かなりの地方にでも行かない限り、ご町内に数名程度はいるでしょう。また、ちょっとした繁華街がある町なら、大手楽器店主催の音楽教室だってありますから、選択肢に限りはあると言えども、なんとか先生を選ぶ事ができるでしょう。

 問題は、地方都市とか、もっと地方都市とか、もっともっと地方都市に住んでいたり、あるいは声楽を含んだマイナー楽器(フルートなんぞはここに入るでしょう)を習いたいと思った時です。特に現役世代の男性だと、時間もままならぬ事が多いので、更に輪をかけて、先生を見つけにくいという現実があります。

 いや、それ以前に、先生そのものが選ぶどころでなく、ご近所には一人もいなかったりする事だってあります。そうなると、思いっきり遠距離の先生に師事せざるをえないわけで、実際、私の知り合いでも、電車に片道1時間乗ってフルートを習いに行っている方がいたり、新幹線に乗って声楽の先生のところに通っている方もいらっしゃいます。その姿勢には頭が下がります。

 レッスン代よりも交通費の方にお金がかかるといったケースだって、稀ではないと思うのです。

 音楽の先生を見つけるのって、特に最初の先生を見つけるって、こちらにツテがない事もあるけれど、本当に難しいです。とても選ぶどころの話ではありません。

 それにだいたい、音楽関係の先生たちって、看板を出さず、電話帳にも乗せず、ネットにすら情報を出さずに営業している人もたくさんいるわけじゃないですか? その世界に数年いれば、そういう先生たちの存在も知り、連絡を取ることも可能だけれど、全くの初心者の頃は、連絡すら取れないわけで、本当に先生探しに苦労します。

 そうやって、見つけ出した先生が、良い先生ならば、その人は恵まれた人であると言えます。最初の先生が、たいした人でなかったり、自分の学習目標とは合わなかったり、人間的に合わなかったりしたら、ダメダメですもの。

 せめて、町の音楽の先生が免許制で、どの先生も最低限の演奏能力と教授能力を有している事が保証されていれば良いのですが、現実はそうではなく、演奏はできても、他人に教える事ができない人だったり、演奏能力そのものに問題があったり…なんて人も、町の音楽の先生をやっていたりするんだから、困ったものです。

 よく「音楽を学ぼうと思ったら、複数の先生に師事することが大切だよ」と言われます。これは同時に複数の先生から学ぶ…と言うのではなく、一人の先生にある程度習ったら、ドンドン積極的に先生を変えていく事が大切だという意味です。

 先生にも得手不得手があるわけだから、その先生の良い部分を学んだら、次の先生に足りない部分を補ってもらう…という事もありますが、先生を変える事を前提に考えれば、最初にハズレの先生に付いたとしても、次の先生で挽回してもらうという事も可能になります。そういう意味で、先生を変えていくのは大切ですし、いずれ先生を変えていく…という前提があれば、最初の先生選びも、それほど深刻になる必要がなくなるかもしれません。「この先生、合わないかも…」と思ったら、次の先生に移動すればいいわけです。

 でも私達は人間だもの、情がわくんだよね。ダメな先生かも…と思っていても、なかなか縁を切れないのが、普通に人の感覚ですから、そんなに簡単に先生を変えられないのも現実だったりします。

 ああ、やっぱり最初の先生選びって難しいなあ。

 私個人の話をすると…最初の声楽T先生は、はっきり言って失敗だったなあ。指導力があまりなくて、教えることもありきたりで、おまけに人間的に相性が良くなかったと思います。あれこれあって放逐されて、その後20年近く音楽から遠ざかってしまったのも、その先生のおかげですから(汗)。

 二番目のキング先生は、音楽の楽しさを教えてくれた先生で、よく遊んでくれました。その点については感謝しています。でも教える方はカラッキシで、ちゃんとした歌い方を教えてもらった覚えはなく、声楽テクニック否定派の先生で、テノールの声帯を持っている私を伸ばす事ができず、偽バリトンにしようとしていたくらいの人です。もう少し長く習っていたら、ノドを潰していた事でしょう。危ない所でした。

 三番目のY先生は、キング先生とは真逆で、あまり遊んでくれません。その代わり、みっちり教えくださる方で、声楽テクニック皆無だった私に、筋道立てて、声楽テクニックとその論理を教えてくださってます。おかげさまで、この先生について、私は始めて歌が上達している事を実感しています。

 フルートの最初の先生は、ジャズの笛先生で、この先生には、本当によくしてもらいました。基礎をきちんと教えていただきましたし、音楽は生き物である事を教えてもらいました。一方、私が未熟だったこともあるけれど、大雑把に仕上がっていれば良しとしてくださっていたので、私のフルートには緻密さが欠落していたわけです。

 今のH先生には、音楽演奏における緻密さを仕込まれている最中です。また、演奏以外にも多くのことを教えて下さいます。そういう意味では、いかにも先生先生した先生です。音大教授の前歴もあるため、お弟子さんも星の数ほどいるわけで、いかにも教え慣れている先生で、フルートを習っていても、なんか安心して学べる、安定さを感じています。ただ、最近、引退を考えているような事をおっしゃってますので、いつまでH先生に習い続けられるか、ちょっと心配だったりします。

 ヴァイオリンは、一人の先生にしか習えませんでしたが、これは私のわがまま(さすがに声楽とフルートとヴァイオリンの3つを習い続けるのは、時間的に無理でした)で辞めてしまったので、今でも申し訳無さを感じています。教え方も型どおりではなく、私の必要と実力を見極めて教えてくださっていたので、この先生にある程度習えていたら、私のヴァイオリンももいっぱしになっていたかもしれません。そういう意味ではとても残念だったりします。

 ひとまず私の場合、今習っている、声楽の先生もフルートの先生も、良い人で良かったですし、お二人に習っていて、私が上達している事を私自身が実感できている事が何よりです。

 楽しく遊んでくれるのも嬉しいのですが、やはり上達しなきゃ、何のために謝礼をお支払して学んでいるのか、分かりませんからね。

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2017年6月21日 (水)

なぜ、優勝と聴衆賞は異なるのか?

 音楽コンクールの話です。

 これから夏本番を迎えると、各地で様々な音楽コンクールが開催されます。

 音楽コンクールにも色々なレベルのものがあり、その審査対象となる音楽家にもいろいろなタイプがあり、コンテスト参加者はそれぞれに真剣で、その姿勢に関して、私は到底チャチャを入れる気持ちにはなりません。熱心さは、誰であれ、見ていて胸熱となるのです。

 で、そんな胸熱となるコンクールが大小様々開催され、そのうちのわずかなモノぐらいしか私は見るチャンスがないのですが、音楽コンクールを見させてもらって、いつも不思議に思うことがあります。

 それは『なぜ、優勝と聴衆賞は異なるのか?』って事です。

 コンクールである以上、参加者たちには順位が付けられます。その是非についても語りたいことはありますが、今回はそれはパス。それについては、いずれまた稿を改めて書くかもしれません。とにかく、コンクールですから、順位が付けられ、1位、2位、3位とか、優勝、準優勝とか、金賞、銀賞、銅賞とか、呼び方は色々あっても、順位が付けられ、格付けがされる事には違いありません。

 この順位を付ける人は、審査員と呼ばれる人で、大抵のコンクールでは、その道のプロの方々が審査員をやります。高名な演奏家たちが審査員を務める場合もあれば、(学校主催のコンクールだと)教授や先生と呼ばれる人たちが審査員を務める場合もあります。

 一方、大抵のコンクールでは、聴衆賞とかオーディエンス賞とか観客賞とか呼んで、そのコンクール本番にやってきた観客たちに「本日,一番良かった演奏者は誰ですか?」などと言った内容のアンケートを取り、それらを集計して、いわゆる聴衆賞を決めます。

 で、たいていのコンクールで、優勝者と、聴衆賞を受賞した音楽家が一致しないんですよね。まず一致しません。まあ、まれに優勝者と聴衆賞を同時に受賞する音楽家もいますが、そんな事はよっぽどの事がない限り、まあまあ、無いです。皆無です。面白いぐらいにダブりません。

 なんででしょうか?

 音楽コンクールには「優勝者は聴衆賞の対象から外す」という取り決めでもあるのでしょうか? それならば私にも理解できますが…そんな取り決めって、有るのかな? もしもそうならば、観客が人気投票をする用紙に一言「聴衆賞は優勝者以外から選ばれます」とかの文言が必要だと思うし、その文言がない以上、それは考えづらいです。

 となると、考えられる事は一つ。プロの目線で素晴らしいと思った音楽家と、観客目線で素晴らしいと思った音楽家は、異なる…って事です。

 プロの目線は(私はプロの音楽家ではないので、あくまでも推測ですが)、演奏の巧拙とか、表現力の豊かさとか、その演奏者の将来性(年齢とか美醜とか師匠筋とか…)とか、そう言ったモノで順位を付けているんじゃないかしら? いわば、その音楽家がコンクール当日までに積み上げてきたものを評価しているわけです。

 一方、聴衆賞は、その日、一番観客を喜ばせてくれた音楽家が獲得します。その音楽家がどれほど巧みな技術を持っているかとか、素晴らしい師匠たちに学んできた事とか、そういったモノではなく、当日の演奏にどれだけ熱を込めることが出来たのかとか、美しい容姿や派手なファッションに加え、オーバーアクションによる演奏をしたとか、なにはともあれ、モノによっては、あざとい部分もあるかもしれないけれど、それでも観客の心をつかんで離さなかった人を観客は評価し“この人がこの日の一番!”って書いていくわけです。

 音楽家を学生であると考え、音楽コンクールが、学校の卒業試験のようなものなら、専門家の先生方による評価で十分であると考えます。しかし、音楽家をエンターテイナーと考え、音楽コンクールをエンタメ界へ送り出す新人発掘の場であると考えるなら、むしろ聴衆に支持された音楽家を高く評価するべきであり、聴衆賞ではなく、むしろそちらを優勝にするべきではないのかしら? なんて、思ったりもするわけです(ケホケホ)。

 違うかな?

 音楽家って、狭い狭い音楽家たちの互助会的な世界の中で生きていくのではなく、我々素人の耳目を大いに集めて、我々に一時の享楽を音楽によって与えるのが生業なんじゃないのかしら? 音楽家は、芸術家であると同時に芸能の人であり、エンターティナーなんじゃないかしら?

 だから私は、コンクール等で、優勝と聴衆賞を異なる音楽家が受賞する事に、強い違和感を感じるわけなのです。

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2017年6月20日 (火)

声楽人が合唱団に入って失う5つのモノ

 昨日は「声楽人が合唱団に入って得る5つのモノ」を書きましたが、声楽人が合唱団に入って合唱を始める事で失うものだって幾つかあります。今回は、そんな“失うモノ”について書いてみたいと思います。

 1)自由に歌うこと

 声楽は自分の個性を前面に押し出して、自分を表現していきます。一方、合唱では大勢いる歌手たちがそれぞれに自分を押し出して行ったら…当然、音楽はバラバラになってしまいます。声楽では音楽は歌手のモノですが、合唱では必ずしも音楽は歌手のモノではありません。では誰のモノかと言えば…それは指揮者のモノです。合唱では指揮者が絶対的な存在なのです。

 ですから、合唱を歌うと言う事は、指揮者に従い、指揮者の楽器となって歌う事を意味します。あくまでも指揮者の意図を表現するために歌います。決して自分の個性を生かした歌い方ではダメです。そういう点では、合唱では歌手に音楽的な自由はないのです。そこを我慢できるか…と言うよりも、そこに喜びを見いだせるかどうかが問題となります。個性の強い人、自己表現をしたい人には合唱は向いていないのかもしれません。

2)自由な時間

 (いわゆるアマチュアの)合唱団の練習は、押しなべて長時間に渡ります。声楽人は、声が減る事を恐れて、長時間の練習はしないのモノですが、合唱は違います。合唱では、一回の練習時間が2時間ってのはザラで、これが3時間とか4時間とかいう団も決して少なくないです。また、回数も頻繁にあって、週に1回の練習という団が多いとは言え、週2回という団も少なからずあります。つまり、合唱団に入団すると、趣味生活の時間の大半を合唱に費やさざるをえなくなる事もありうるわけです。

 それに加えて、自宅での練習ってのもあるわけで、ほんと合唱を始めると、合唱に時間がみるみると吸い取られていくわけで、その他の事をする自由な時間って奴が無くなってしまいます。

 だからと言って、合唱はチームですから、自分だけサボったり怠けたりってわけには行かないのが辛いですね。声楽ならば、所詮は自分ごとですから、そこは自分のペースで練習できるのと較べると、ほんと雲泥の差です。

3)自由な選曲

 当然の話ですが、本番等での選曲は、指揮者と団の代表者さんたちの話し合いで決まることがほとんどです。一般団員の意見を聞いて選曲される事って…普通はありません。その合唱団に所属している限りは、次の本番で歌う曲が、たとえ自分の趣味に合わない曲であっても、選曲されれば、それを歌うしかないのです。

 気に入らない曲を歌うほどの忍耐力があなたにはありますでしょうか?って話です。

4)スポットライト

 実はここが一番切実な問題だったりします(笑)。

 声楽は歌手が主役です。しかし合唱は指揮者が主役であって、歌手たちは合唱という楽器の一部で合唱は指揮者の楽器でしかなく、合唱団員はその楽器の一部でしかありません。たとえ演奏が大成功であっても、スポットライトを浴びて賞賛を受けるのは指揮者であって、合唱団ではないわけだし、ましてや合唱団員の一人ひとりにスポットライトが当たることは、決して無いのです。

 「注目なんて浴びなくてもいいのよ」という人ならば全然問題ないだろうが、「それではイヤ」という人が…声楽人には少なからずいるような気がします。自分が歌ったのだから、きちんと注目を浴びたいし、ちやほやされたい…そう思う人もいるでしょう。実は私はそのタイプの人です。別にちやほやされたいとまでは思わないけれど、努力に見合う正当な評価と賞賛は欲しいと思ってます。そこをスルーされるのは、なんか納得いかない人です。でも、そういう人って、私以外にもいるでしょ?

5)人を信じる心

 声楽人が合唱団に入った場合、嫌な思いをする人は大勢います。ちょっとした嫌がらせから始まり、イジメにまで発展する事すらあります。人間不信になる人もいるし、合唱嫌い、音楽嫌いになる人もいます。

 原則的に、合唱人は声楽人が気になります。それが好意という形で興味を持ってくれる人がいるなら、その場合はそれはそれで良いのですが、排除という形で攻撃してくる人も大勢います。これが問題です。

 集団原理として、異物を排除するというのは、ごく自然の行いなのかもしれませんが、その結果として、声楽人が合唱を始めると、嫌がらせを受けて、イジメられて、やがて人を信じる心が失われていきます。悲しい事ですが、現実です。

 でもきっと、声楽人を快く受け入れてくれる合唱団も、きっとこの世には一つや二つあるはずだと私は信じています。ただ、そんな団体と出会った事はありません。だからでしょうね。合唱から声楽に転向してくる人はわんさかといますが、その逆はあまりいません。

 なんとも残念な話です。

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2017年6月19日 (月)

声楽人が合唱団に入って得る5つのモノ

 以前、「合唱人が声楽を学んで得られる5つの利点」「合唱人が声楽を学んで失う6つの事」という二つの記事を書きましたが、今回はその反転版、もともと声楽だけを学んでいた人が合唱団に入ったらどうだろうか…という事を考えて記事にしてみました。

 実際の話、多くのアマチュア歌手さんは、最初は合唱団に入り、色々とあって声楽に転向、あるいは合唱をしつつ並行して声楽を学ぶ…という二つの道をたどるケースが圧倒的に多く、その逆である“声楽から合唱へ”というのは、おそらく、レアケースであり、今回の記事は単なる思考実験の域からは出ないと思うけれど、考えてみることは楽しい事なので、頑張って記事を書いてみました。

 で、今回は声楽人(声楽をやっているアマチュアの人をこう表現してみました。合唱人という言葉は、たまに見かけますが、声楽人と言う言葉は…私見かけたことないですが、勘弁してください)が声楽を辞めて合唱団に入ると、声楽だけを学んでいた時と較べて、いくつかのモノを得ることができます。あ、声楽と言うのは、クラシック声楽のことであり、独唱とほぼ同義であると理解してください。

1)仲間

 …いわずもがな…ですね。何しろ声楽は基本的に一人で学ぶものです。私は妻と二人で連れだって習ってますが、これはレアケースであり、基本は一人で先生と対峙しながら学ぶものです。ある意味、孤独な学習…かもしれません。

 そこへ行くと、合唱は一人じゃできません。必ず、人の集団の中に入らないとできません。人の集団に入れば、おのずと仲間ができます。それも音楽という趣味を共通にした仲間です。楽しいですよ。

 普段の練習も楽しいけれど、夏とか本番直前とかに行われる合宿なんかは、めっちゃ楽しいよ。

2)アンサンブル経験

 声楽は独唱のみならず、二重唱なども歌うわけで、全くアンサンブルが無い…とは言えないけれど、やはり合唱とは違って、アンサンブル経験は圧倒的に少ないわけです。だって基本的に独唱だからね。それに、二重唱などのアンサンブルと、合唱はまた別モノだしね。良い経験になると思いますし、面白いと思います。

3)オーケストラとの共演

 すべての合唱団では得られるわけではないけれど、オーケストラとの共演を前提として活躍する合唱団がいくつかあります。そういう団体に入ると、オーケストラをバックに歌うことができます。声楽でオーケストラ伴奏なんて、アマチュアじゃまず無いですからね。オーケストラの伴奏で歌えるだけでも、良い経験だと思います。

4)コストパフォーマンス

 合唱は声楽と較べて、圧倒的に安価です。声楽一回分のレッスン代で、合唱団なら何ヶ月もの団費がまかなえます。本番の衣装だって、ゼロが一つ二つ違いますし、本番出演費だって違います。趣味として継続していくための必要経費が、合唱は本当に少なくて済みます。コストパフォーマンスが良いのです。コストパフォーマンスが良いなら、その分の費用を別のことに回せますし、趣味に費やす金銭が減るので、生活が多少なりとも豊かになります。

5)喜びや達成感を共有できる

 「悲しみは分け合うと半分に、喜びは分け合うと二倍に増える」という言葉がありますが、これは真実だと思います。同じ目標を掲げて頑張ってきた仲間との喜びや達成感は、声楽ではなかなか得られない事だと思います。

 …と書いていくと、合唱をやっていくと、良いことばかりのような気がしますし、実際、良いことばかりを経験する方も大勢います。合唱をやる事で、声楽では得られない楽しみや喜びが得られることは事実ですから、合唱をやった事のない声楽人の方は(っていないだろうけれど)一度合唱を経験してみるのも良いと思いますよ。

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2017年6月18日 (日)

人生の残り時間について考える

 先日、ねんきん定期便が届きました。私が将来受給できるねんきんは…まあ、暮らせないほど少なくはないけれど、趣味三昧な生活は到底できない額だという事を改めて認識しました。現役引退後は、趣味に没頭して暮らしたいと思ってましたが、世の中そんなに甘くはないってわけです。

 それよりも、年金受給開始年齢は65歳なので、いったい何年、年金生活をするのだろうかと思いたち、私は(推定で)あと何年生きていられるのかな?と平均余命を調べてみました。

 このページで、平均余命を見ることができます。平均余命とは、その年令の人が平均して、あと何年生きていられるかって統計なので、平均寿命よりも実用的な統計数値です。ちなみに、いわゆる平均寿命と言うのは、0歳時の平均余命の事で、大人はそこから数年生き延びていますから、大抵の人は、平均寿命よりも長く生きることになります。

 私の場合、すでに平均余命は30年を切っています。もうあと30年も生きられないのか。人生の中間点を折り返したどころか、復路真っ只中じゃあないっすか。

 まあ、あとせいぜい30年、悔いなく楽しく生活していきたいものです。ちなみに、年金受給開始年齢である65歳での平均余命は20年間です。つまり、年金暮らしも20年ってわけです。まあ、悪くはないよね。

 この年金暮らしが20年間とは言え、20年間ずっと健康で元気で暮らせるわけじゃあありません。健康寿命ってのがあるわけです。健康寿命と言うのは、健康的に生活できる年齢の上限を言います。それは、こちらのページで見る事ができます。

 これによると、男性は71歳までは健康らしいです。つまり、年金をもらって6年間は生活をエンジョイできるわけです。その後、こちらのページによれば、10年ばかり不健康な生活…ってか、平均余命で考えると15年前後は不健康な生活を送るようになるみたいです。で、この不健康な生活ってヤツが、場合によっては寝たきりも含む…なわけで、その寝たきり期間を終えたら、ようやくお迎えが来るわけです。不健康な生活をしたくなければ、70歳前後で死んじゃえばいいわけです…が、人生、なかなかそうはいきません。

 私の場合、平均余命は30年弱ですが、そのうち最後の10~15年は寝たきりになる予定なので、元気で遊んで暮らせるのも、あと15~20年。歌ったり、笛を吹いたりできるのも、長く見積もっても、あと20年。そう考えると、ガンガン歌って、レパートリー増やして、フルートもガンガン吹いて、あれこれ色んな曲を吹き飛ばしていきたいと切に思うようになりました。

 20年なんて、あっという間だよね。そう考えると、私の人生の残り時間も、あとわずか、あっという間の時間しか残されていないんだよね…統計的には。

 まあ、統計はあくまでも平均値で、それよりも早く死んでしまったり、不健康になる事もあるわけだから「あと20年は健康でいられる」と思うこと自体が思い上がりなんだろうけれど、それが思い上がりであっても、そんなに長くない事を改めて認識し、受け入れる私でありました。

 思えば、若い時は、時間なんて無限にあって、人生なんて永遠に続くモノだと思ってましたよ。

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2017年6月17日 (土)

そう言えば、いつの間にかタニシが絶滅していました

 ウチの金魚たちはタニシが大好きで大好物です。よくタニシを食べています。もっとも、タニシは店で買ってくるのではなく、知り合いの農家から分けてもらうので、せいぜい年に1回程度しか水槽に入りません(そんなに何度ももらいにはいけません)。毎年、100匹程度、水槽に入れるのですが、ここ数年はそれが1年もちません。で、今年もすでに6月ですが、すでにタニシが金魚に食べ尽くされておりました。

 仕方ないね。

 ウチの近所の田んぼは、今現在、田植え真っ盛りです。タニシを取るには、田んぼに水が入らないと難しいので、実はそろそろタニシ採集の時期がやってきた…とも言えます。
 で、先日、たまたま近所を散歩している時に、タニシの件を思い出したので、散歩道の周辺にある田んぼをあれこれ見てみました。もしもタニシがいたなら(どこも田植えなどの農作業をしていますので)声をかけてタニシをいただいていこうかなと思ったのですが…いないですね。大抵の田んぼはタニシどころか、何も生き物がいません。農薬でも入れているのかしらね? 別の地域の田んぼを見ると…おたまじゃくしが、うようよいる田んぼが複数ありましたが、タニシはいませんでした。残念。でも、おたまじゃくがいるという事は、おそらくタニシもいるでしょうし、ヤゴやドジョウもいる事でしょう。タニシを見つけられなかったのは残念です。

 まあ、折を見て、いつもの農家さんのところでタニシを分けてもらうつもりですが、いつもタニシをいただきにいくのは、8月なので、それまで2ヶ月、タニシ無しの金魚たちの暴食が心配な私でした。

 夏の金魚は食欲旺盛になるんだよね。

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2017年6月16日 (金)

今年はビワが大豊作だったのです

 フルートのレッスンに行ってきました。例によって先生はご自分の練習をして待っていてくださいました。それにしても、プロの練習って、やたらと難しい楽譜を吹くんだねえ…。

 ロングトーン練習は、ほぼバッチリ。書くことありません。

 エルステユーブンゲンは、いつものように20番と21番ですが…暗譜はまだできません。さすがに自分的にも、そろそろ暗譜をして20番を仕上げないといけない…と思うものの、レッスンに合わせて暗譜しないとダメなので、なかなかうまく行きません。せっかく暗譜をしても、レッスン日まで余裕があると…忘れちゃうんだよね。もう、脳みそがお祖父ちゃんだから、それも仕方ないのだけれど、なんとも情けない私です。

 さらに暗譜ができないだけでなく、ちょっと練習に間隔が開くと、指が動かなくなるのが実感できます。特に右薬指はてきめんに動かなくなりますね(涙)。いやあ、情けない。

 プチエチュードは、新曲で17番です。全然ダメでした。いやあ、テンポキープがまずダメだし、やたらとたくさん出てくる臨時記号にうまく対応できないし、あっちで引っかかり、こっちで止まってという体たらくでした。ふう。

 「オンブラ・マイ・フ」は、音符を音声化するところまでは、まあ何とかできました。合格基準が緩ければ、もうこれで合格!って感じまで仕上がっていますが、当然、今回が初回の練習なので、これで良しにはなりません。

 この曲は発表会で吹く曲なので、もっとキリキリと仕上げていきます。まずは、装飾音符を美しく演奏する事と、表情記号通りに演奏することが宿題とされました。特に難しいのは、2番のサビの部分が、第三オクターブ部分の音域を使用しながら、ppでかつdolceに吹く事ですね。うっかりすると、音になりませんよ、これ。ああ、難しい。でも頑張る。

 さて今回の雑談は…先生はビワが大好きって話です。

 実は我が家にはビワの木が生えていて、今年は大豊作だったんです。すでに収穫した果実だけで、20Kgほどあるんだけれど、残りも収穫すると、その倍ぐらいにはなりそうな感じの大豊作なのです。もちろん、家族だけで毎日大量に食べ続けても、食べきれないほどなので、ご近所や職場や知り合いやらに配りまくっているわけです。で、H先生にも激選甘々ビワをおすそわけしたわけですが、もう、なんかすごく興奮されて、とってもとっても喜んでいらっしゃたのです。とても喜んでいただけたので、なんかもっと持ってくればよかったなあと恐縮してしまうほどでした。

 なんでも、先生のご実家には、ビワとモモとイチジクの木があって、毎年毎年収穫して食べていたんだそうです。特に先生はビワが大好きで、ビワを見ると、子どもの頃を思い出すほどなんだそうです。

 まあ、ビワなんて高級果実だからね。庭に生えてでもいないと、なかなか食べられないよね。だって果物屋に行くと、桐の箱に入って売られているくらいだしね。そういう意味では、子どもの頃からビワを食べているなんて、ウチの息子君もそうだけれど、H先生も贅沢な食生活をしていたってわけです。

 今年のウチのビワは、大豊作なだけでなく、一粒一粒が大きくて甘くて…なんとも大当たりなんです。こういう年はめったにないので、私的にも珍しくて有り難いのです。

 もしも来年、ビワが豊作だったら、H先生にはたっぷりビワを差し上げる事にしましょう。しかしビワって、豊作の翌年はだいたい不作なんだよね。全力を出すのは数年に一度なので、来年は…色々厳しいかも(てへっ)。

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2017年6月15日 (木)

私が合唱を歌うのが苦手な件について

 私は合唱を歌うのは、決して嫌いではありませんが、得意とは言えません。いや、どっちかと言えば苦手の部類に属するかもしれません。

 合唱を歌うのが苦手な事については、色々と理由があります。

 1)声が周囲の声や伴奏と溶けずに、音質的に飛び出してしまう
 2)声が大きすぎて、ホールに朗々と響いてしまう
 3)他のパートにつられやすい

 1)と2)は独唱を中心に声楽を学んでいるので、ある程度は仕方のない事です。そうであっても、自分の声を抑えて歌えば問題はないはずなのですが、私は自分の声を抑えて歌うのが苦手です。いや、最初こそは小さめの声で歌うように心がけていても、やがて乗ってくれば、大声を出さないまでも、自分にとってのmf程度の音量で歌ってしまいます(だってその方が楽だし自然だし…)が、この自分にとってのmfは、他の人にとってはfffか、それ以上の音量らしく、それじゃあ合唱をぶち壊しかねないのです。

 それに音量を抑えたとしても、私の声って、よく通るし、ホールだと響き渡っちゃうんだよね。だから、音量を度外視しても、音質的な問題もあって、合唱の中で声が浮き上がっちゃうわけです。

 ほんと、困ったものです。

 ならば、音量も抑え、音質も地味にして歌えばいいじゃん…って話ですが、それがまたなかなか継続できないのです。

 さらに自分の声ばかりが響いてしまうので、合唱団的には参っちゃうし、観客的にもダメダメなんですが、自分的にも、他の人の声が自分の声で聞こえなくなっちゃうんですよ。だから、違った事をしていても、なかなか気づかなかったりします。

 全く、合唱には不向きな声なのです。

 そこで、3)なのですが…、もちろん、きちんと練習やらリハーサルやらの時間が十二分にあって、歌うべきパートの音がしっかり取れていれば、他のパートにつられる事は(あまり:汗)ありません。練習不足であったり、音取りがきちんとされていない段階で合唱を歌ってしまうと、たいてい他のパートにつられてしまいます。それはそれは、面白いくらいに釣られまくります(涙)。

 たいていは、無意識にメロディーを歌っているんです(汗)。そばで正しい音で歌っている人がいても、ダメです。私自身がしっかりと音を取っていないかぎり、どうやってもメロディー、または一番高声であるソプラノ(の1オクターブ下)を歌ってしまうのです。

 私、ハモリパートを歌うのが、超絶苦手なんです。体質的にハモリは無理なんです。常にメロディーを歌いたがる…そんな悲しい体質なんです。だからたっぷりリハーサルをして、そのハモリのメロディが自分の中でメロディーに感じられるくらいに歌い込まないと、なかなかうまく自分のパートが歌えないのですね。ああ、残念。

 実は、この1)2)と3)の問題の根が一緒であるのではないかと、最近気づいたのです。

 つまり、私の声が合唱から飛び出しやすい事と、私が他のパートにつられやすい事には、深い関係があった事に気づいたのでした。

 どうやら私は、歌う時に、自分の声を(伴奏と合わせて)聞いて、音程やリズムを常時調整しているようなのです。つまり、常に周囲の状況に自分を合わせながら、フィードバックをして歌っているわけです。だから、自分の声が聞こえない状況では、まるっきり歌えなくなってしまうのです。そこで無意識に自分の声が自分に聞こえるように歌ってしまい、結果として私の歌声が合唱から飛び出したり、ホールに響き渡たらせたりしてしまいます。

 でも実際の合唱では、そんな事をすれば、自分の声が大きくなりすぎて、うまくフィードバックができない上に、微かに聞こえるメロディーに無意識で乗っかってしまって、もうワヤクチャな歌になってしまうのです。

 合唱人からすれば、考えられないくらいの、ヘボ歌手なんですね、私。

 解決策は…合唱に参加しない事…かな?

 あとは、私並の声量の歌手たちが揃っている、オペラ系の合唱に限って参加するとか? 周りみんなが私並の声量なら、1)~3)の問題も表面化せずに済むけれど…私、合唱を歌うなら、オペラ系じゃなくて、宗教系のミサ曲とかカンタータとかを歌いたい人なんです。オペラを歌うなら、合唱ではなく、ソリストをやりたいんです。合唱を歌うなら、合唱が主役となる宗教曲が歌いたいのです。

 モーツァルトの『レクイエム』とか、バッバの『マタイ受難曲』とか歌ってみたいじゃないですか?

 とにかく今はまだ、私の歌の技量が少なすぎて、合唱に対応できないのが現実です。ああ、早く歌が上達して、独唱も合唱も両方できる歌手になりたいものです。そうなると、趣味の幅もグンと広がるんだけどなあ…。

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2017年6月14日 (水)

クチが回らないだけで、別に歌えないわけじゃないんです

 さてさて、まだまだ声楽のレッスンの続きです。

 いよいよ曲の練習です。まずは、レハール作曲「メリー・ウィドウ」より「Maxim's/マキシムの歌」です。この曲は、実は音域が広い曲です。下は五線下のAで、上は五線上のGで、約2オクターブの音域があります。これだけ広い音域の曲を無理して歌っちゃうと、発声が壊れてしまう恐れもあるので、私は一番低い音である五線下のAの部分だけ、1オクターブ上げて、五線中のAにして歌う事にしました。実はこれ、多くのテノール歌手がこの曲を歌う時に行う常套手段なのですが、これをする事で、一番低い音は五線下のC#になるわけで、五線下C#~五線上Gならば、通常のテノールの音域内に収まるわけで、実に歌いやすくなります。実際、私もこの音域で収まってくれるなら、無理なく歌えます。

 で、歌ってみたわけですが、この曲、テンポがかなり速くて、まだまだま練習不足なせいもあるのですが、十分にクチが回っていないので、歌詞を付けて歌うと、あれこれダメダメになってしまいます。そこで、まずは歌詞を外して、ヴォカリーズとして歌ってみました。ちなみに、ヴォカリーズとして歌うとは、ラララ~とかアアア~とか、歌詞を外して、適当な発音(母音が中心)で歌う事を言います。

 この曲は、このオペレッタの主役であるダニロが舞台に初登場する時の歌であり、その時のダニロは泥酔しているという設定なので、いかにも酔っ払いが歌っているかのように、多少ルーズに、かつ粘っこく歌う必要があって、先生からもそれを求められたわけだけれど、まだまだ歌詞を付けて歌うことすら無理な段階で、それをやってしまうと、歌が壊れてしまうので、試したものの、やはりしばらくは楽譜通り四角四面に歌えるようにしましょうって事で落ち着きました。インテンポで楽譜通り歌えるようになったら、酔っぱらい風に歌えるように、あれこれも入れていく方針となったわけです。

 そんなわけで、今は正規のテンポよりもだいぶ遅い速度で練習しています。無理して速いテンポで歌詞を乗せて練習してしまうと、歌詞を言うために、あれこれ音楽的にいい加減な事をしかねませんので、今は歌詞をきちんと言いつつ、音楽的にもちゃんと歌えるように、テンポを十分落として、ゆっくりゆっくり練習を続ける事にしました。で、クチが音楽に追いついてきたら、少しずつテンポアップをしていく予定です。

 まあ、無理はしない事です。

 二重唱の2曲は、妻も私も全く楽譜を見ていないので、今回はパスとなりました。いやあ、まだまだソロ曲だけで手一杯ですって。

 先生からは「発表会まで、本当にこの曲だけでやる?」と尋ねられました。おそらく、発表会用の3曲は、発表会当日を待たずに仕上がってしまうと、先生は予測しているわけです。実際、妻は、発表会では歌わない曲(ロッシーニの「約束」)のレッスンを今回から始めました。私は、どうしようかな? 発表会の準備に負担のかからない曲でも用意しておこうかな? まあ、歌いたい歌曲なら、まだまだ山積みだし、発表会があるからと言って、レパートリーの拡充を足踏みする必要もないしね。何か歌曲でも準備しておきましょうか?

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2017年6月13日 (火)

音程の作り方

 さて、声楽のレッスンの続きです。

 ハミング練習が終われば、いつもの発声練習です。いつもの…そう、ほぼ筋トレっぽい発声練習です。この練習、やっている時は辛いのですが、確実に効果は上げています。やはり一人で練習をしていても、先生の前で行うほど、自分を追い込むのって、難しいからレッスンで行うには意味があるのです。

 今回徹底的にやったのは、音程の上行に伴って、クチの奥をガンガン開けていく事。つまり、上行音型の音程をクチの奥を開けていく事で作っていく事です。

 音程を作る作業にはいくつかあります。ちょっと考えただけでも4つくらいありそうです。

1)クチの奥を開いて音程を作る
2)声帯周辺部を緊張させて(つまりノドを絞めて)音程を作る
3)腹筋前面を下に引っ張って音程を作る
4)腹圧を上げて息を強くして音程を作る

 他にも音程を作る方法はあるかもしれませんが、ひとまず、これらの4つの方法で考えてみましょう。

 1)のクチの奥を開いて音程を作るやり方は、今、私が特訓している方法です。“口蓋垂を上げる”や“頬肉を上げる”という動作とほぼ同じです。違いは“クチの奥を開く”と言うと(頬肉を上げる事で間接的に)口蓋垂を上げるだけでなく、舌根を下げる動作も加わる…って事くらいかな? この方法は、通常使用の音域よりも高い音を出す時に有効な方法です。つまり、テノールやソプラノが、決めの高音を発声する際に用いられるやり方で、音程を跳躍する時に有益なやり方です。ある意味“奥の手”的な発声方法です。と言うのも、この発声法を使ってしまった場合、このやり方で出した最後の音よりも、上の音は(行き詰まってしまうため)出せなくなってしまうので、ほんと、いよいよといった場面でしか使えない発声方法となります。そういう意味では、多用はできません。

 2)のやり方は、多くの日本人がやるやり方ですし、私もうっかりすると、このやり方で音程を作ってしまいがちですが、これは、基本的にクラシック声楽では禁忌なやり方です。しかし、邦楽では割りとよく使う手段です。こいつの極端な歌声が詩吟の声になります。

 3)クラシック声楽で、通常使用される方法です。もっとも、腹筋前面を引っ張る程度によって音程を作るのではなく、腹筋前面を引っ張っていく中で、さらに声帯筋を独立させた運動によって音程を作っていきます。とは言え、腹筋前面を下に引っ張る動作が先行しないと、ノドを絞めて音程を作ってしまうので、腹筋前面を下に引っ張る事によって、ノドを絞めることを回避している…とも言えます(うむ、研究不足だな)。

 4)のやり方も、よく使用されるやり方ですが、これは度を越すと、怒鳴り声や叫び声になってしまうので、注意が必要です。度を越さないようにコントロールしながら息を強めていく事が大切です。何事も過ぎたるは及ばざるが如しです。

 まあ、とにかく、声帯を引っ張ったり緩めたりしたり、そこを通る息の速度を変化させたりする事で、歌手は音程、つまり声帯の振動速度を変化させるわけです。楽器のように、キーを押したり、ホールを開閉することで音程を作れたら、ほんと、楽ですね。

 閑話休題。上行音型でクチの奥をガンガン開いていくためには、フレーズの出だしの最初の音は、逆にクチを開かずに出さないといけません。たとえその音がどんなに高くても…です。腹筋の前面をきっちり引っ張って、狭めの口腔で発声しないといけません。そこから、クチをガンガン開いていくわけですが、クチを開けば開くほど、ノドに力は入りませんから、その分、今度は腹筋を内部へドンドンしまっていかないといけません。表面は下へ引っ張り、内部は上へ押し上げていきます。で、クチを縦に引っ張りあげていくわけで…えらい大変な思いをしました。

 そんなわけで、現在の私は、発声練習という限られた場面においての話となりますが、高いAまでは、どうやらしっかりと音程通りに発声できるようになったそうです。問題は、そこよりも高い音ですね。Hになると、声にはなるけれど、音程がややフラット気味なのだそうです。BやCになると、音程そのものが声から無くなってしまうのだそうです。原因は…先生がおっしゃるには2つあって、1つは高音になるとカラダが無意識にあきらめてしまい緩んでしまうから。つまり高音から逃げ出しているわけです。もう1つの原因は、そこに至るまでにカラダが疲れてしまい、ちゃんとした音程が作れなくなってしまうから…です。実際、高いAを出すだけでも、無理やりカラダから音をひねり出しているわけで、それより上の音となると…そんなに気安く出せるほど簡単ではありません。

 まあ、私は幸いにも、優秀な音感を持っていませんので、今自分が出そうとしている音が何なのかは分からない人なので、高音だからカラダが無意識にあきらめているというパターンは、おそらく考えられないので、単純に筋肉筋力の問題なんだろうと思います。疲労も、確かにあります。それ以前に高音を出すための筋力不足も大いに考えられます。どちらにせよ、しっかり腹筋を絞り上げて、発声していく必要はあると思われます。

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2017年6月12日 (月)

「息を回して歌う」の正体が見えてきました

 声楽のレッスンに行ってきました。例によってハミング練習からです。

 ハミング練習の時に、声をまっすぐ前に出して発声するのではなく、クチの奥をしっかり開いて発声します。その時に、当然、腹筋もゆっくりと動かしながら発声するわけですが、そうするとカラダの中の動いている箇所が、下腹部 -> 腰 -> 背中 -> 舌根 -> 後頭部 -> 頭頂部 -> 眉間 と動いているように感じます。でも実際やっている事は、しっかり奥までゆっくりと腹筋を動かしている事と、クチの奥を縦開きにしている事と、声をまっすぐに出すのではなく、口腔内に反響させてから出す…って事をしているだけです。

 つまり「息を回して歌う」という動作と「しっかり奥までゆっくりと腹筋を動かして歌う事と、クチの奥を縦開きにして歌う事と、声をまっすぐに出すのではなく、口腔内に反響させてから歌う事を、同時に行う」という動作は、動作的にはほぼ一緒であるという事に気づいたわけです。

 自分的には、新発見であり、大発見だったわけです。

 ならば「しっかり奥までゆっくりと腹筋を動かして歌う事と、クチの奥を縦開きにして歌う事と、声をまっすぐに出すのではなく、口腔内に反響させてから歌う事を、同時に行う」という動作をするのなら、それらを一つ一つチェックしながら確実に行うよりも、「息を回して歌う」というイメージで行う動作の方が脳内メモリの使用量は少ないし、3つの動作を1回で行える「息を回して歌う」という(ちょっぴりオカルトっぽい)動作の方が楽だし、確実だなって思いました。

 そもそも息なんてものは、呼吸器の中の決まった通路しか流れないわけだし、そんなものを体内で回すのなんて、有り得ないわけだし、だから最初っからオカルト的な言い方であるとは思っていたけれど、この言い方で、何がどうなるのか、あるいは、何をどうするのかが、ちっとも分かっていなかった私なだけで、だから今まで「息を回して歌う」と言われた時に、なんとも試行錯誤をしながら息を回したつもりになっていたわけだけれど、それがようやく(今頃になって:笑)言葉と動作がつながったわけです。

 なんだ、なんだ、そういう事だったのか!

 だったら最初の段階で「しっかり奥までゆっくりと腹筋を動かして歌う事と、クチの奥を縦開きにして歌う事と、声をまっすぐに出すのではなく、口腔内に反響させてから歌う事を、同時に行う」をやって欲しいのだけれど、そういう言われ方をされても、それらをイメージして同時実行するのは大変だろうから、それらを総称して「息を回して歌う」という表現をするから、そう言われたら「しっかり奥までゆっくりと腹筋を動かして歌う事と、クチの奥を縦開きにして歌う事と、声をまっすぐに出すのではなく、口腔内に反響させてから歌う事を、同時に行う」事に留意しなさい…と言ってくれれば、よかったのに…。ああ、何とも今まで遠回りをしていた事だなあ(遠い目)。

 私のようなカタブツには、オカルト的な表現よりも、直裁的で理屈っぽい説明の方が、自分をコントロールしやすいわけです。はあ…。もっとも、そうは言っても、これに気づけたのも、腹筋が動くようになったり、クチの奥が開くようになったりと、今までできなかった事ができるようになり、それに伴って、身体感覚が拡張したからであって、腹筋も口腔内も動かせなかった時に、理屈で言われても、自分の中に無い感覚だから、どうにもならなかっただろう事は、容易に推測できます。

 そういう意味では、やっと『来るべき時が来た』って感じだし、一つのブレイクスルーを迎えられたって事になるわけだな。ひとまず、良かった。

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2017年6月11日 (日)

何歳からオジサンオバサン?

 世の中には、オジサンオバサン呼ばわりをされると、ムッと来る人がいます。まあ、確かに、いくら呼びかけているのが幼い子供であっも、女子高生を捕まえて「ねえ、オバチャン」と声をかけられるのは、少々可哀相な気がします。

 とは言え、アラサー…いやアラフォーあたりのご婦人で、他人からオバサン呼ばわりされて怒っているのは、ちょっと違うんじゃないのかな?って思わないでも無いです。

 オジサンオバサンの漢字表記は色々あります。“伯父さん伯母さん”“叔父さん叔母さん”“小父さん小母さん”あたりの表記が多く使われますでしょうか? 共通しているのは、いずれの表記にも“父”や“母”という字が入っている事です。

 また感覚的にも、オジサンオバサンと言うのは、お兄さんやお姉さんよりも年長で、お爺さんお婆さんよりも年若って感じではないでしょうか? つまり、家族内での呼称(自分の両親の兄弟姉妹は、年齢とは関係なく、オジサンオバサンです)は別として、世間一般的には『父または母である世代の人』をオジサンオバサンと呼ぶのだろうと思います。

 昔々(と言っても100年ぐらい前)ならば、人々(特に女性)は10代の後半で嫁入りをして、すぐに子を産みますから、20代はすでに母親世代となります。そこで産んだ子が、また10代後半で出産すれば、そのお母さんは40代で祖母になるわけですから、オジサンオバサンと呼ばれるのは、20代~30代となりますし、私が子供の頃は、まだまだそんな感覚が残っていたような気もしますが…それはさすがに現代の感覚とは合致しません…ね。でしょ?

 今の日本は、世界でもまれに見るほどの晩婚社会です。当然、親になる年齢も昔よりも高齢化しているわけです。現在の平均初婚年齢は、男女ともに約30歳なんだそうです(遅すぎてビックリ!)。…と、なると30代で親になり、その時生まれた子が30歳で孫を産むと考えると…なんと、30代~50代がオジサンオバサン時代となります。

 100年前、お爺さんお婆さんと呼ばれていた人たちが、100年後の現在、オジサンオバサンの世代となります。いやあ、晩婚にもほどがあります。

 ちなみに、21世紀の現代、世界の平均初婚年齢[女性]は25歳です。昔の“女性はクリスマスケーキ”と言ってた時代の方が、世界標準に近かったわけです。それを考えると、ほんと今の時代は、異常なくらいに晩婚化が進んじゃった事が分かります。

 それにしても、日本人の平均初婚年齢が30歳ってなると、アラフォーはともかく、アラサーのご婦人方が「オバサン!」と呼ばれて怒ってしまうのも、全くスジの通らない事ではないのかもしれません。でも、20歳と30歳を同じ「お姉さん」と呼ぶのも、ためらいがあります。やっぱり30歳はオバサンって呼びたいなあ(ごめん)…ってか、オバサンと呼んでも自然な世の中になってほしいなあ…と思います。

 だいたい、平均初婚年齢が30歳って、おかしな世の中だと思うよ。ちなみに、不妊治療の平均開始年齢が33歳だそうだけれど、初婚年齢と不妊治療の開始年齢が、ちょっと近すぎると思いませんか? (ちょっと乱暴な言い方だと承知していますが)結婚後の自然妊娠可能期間があまりに短いですよね。これでは日本の人口が減っても仕方ないと思います。

 日本の初婚年齢が高齢化しているのは、本人だけの責任ではなく、当然、社会の責任、政治の責任も大いにあると思いますが、それでもなんとか、もっと若い時代に結婚出産できるような世の中にしていかないと、日本もかなりマズい…と思います。

 それはさておき、30代~50代はオジサンオバサン時代です。アラサーになったら、オジサンオバサン呼ばわりされても甘受しましょう。世の中は、あなたをそう見ているって事です。

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2017年6月10日 (土)

歯型くっきり!

 先日、緋ドジョウのヨッチャンが、やたらとアピールをしていました。何を訴えたいのは分かりませんでしたが、そのおかげで、ゆっくりとヨッチャンを観察する事でできました。ヨッチャンはドジョウですから、普段は人間から隠れているので、こういうチャンスはめったにないので、うれしいです。

 で、よく見てみると…ヨッチャンはかなりボロボロでした。

 まずヨッチャンは緋ドジョウですから、全身オレンジ色のはずですが、オレンジ色なのは、頭部と尾部だけで、その間の胴部の部分は、ほぼ白でした。クレヨンの“肌色”っぽい白さなのです。

 で、その胴部ですが、肌の色が薄くて白いだけでなく、ボコボコになっています。よく見てみると…どうやら他の子たちにかじられた跡のようなのです。誰がかじったのか…クチの大きさからすれば…やっぱり金魚ですね。

 おそらく、仮死状態になっているヨッチャンを金魚たちは死んだものと思って、ついヒトクチ、かじってしまうのでしょうね。それをおそらく何度も繰り返しているものと思われます。それくらいたくさん、ヨッチャンにはかじられた跡がありました。

 ひどい話と言えば、確かにひどいのですが、水槽の中は弱肉強食の世界だし、弱って抵抗できなくなれば、他の子のエサになってしまうのが当然な世界ですから、これもまた仕方のない事です。

 金魚に食われたくなければ、元気になるしかない。それが我が家の水槽の掟だったりします。

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2017年6月 9日 (金)

オンブラ・マイ・フを吹きますよ

 フルートのレッスンに行ってきました。お教室に入ると、先生がご自分の練習をしていました。メトロノームをかなり速くして、真っ黒な楽譜を疾走するように、ずっとずっと吹いていました。「よく間違えないなあ」と思うと同時に「すごく速く指が回るなあ~」とも思いました。やっぱりプロは違うと、妙な感心をしてしまった私でした。

 レッスンが始まりました。フルートを温めずに、すぐにロングトーン練習始めてしまいました。吹き始めこそ、調子良かったものの、だんだん音が下がってきてしまいました。音曲げで調整したものの、やがて音曲げでは対処できなくなってしまいました。やっぱり管を温めておくって、大切ですね。

 エルステユーブンゲンは、例によって20番と21番です。今回もまた暗譜するほど練習できなかったので、ごめんなさいです。「暗譜はできてませんが、一応、楽譜を見れば、ちゃんと吹けるんですよ」と言って吹き始めたものの、最後の最後のスラーが重なっている箇所の吹き方が違うという事で注意されて直されてしまいました。なんか、恥ずかしいです。21番は…時々音をオクターブ間違えるくらいです(ってダメじゃん)。

 プチエチュードは16番です。まあ、だいたい吹けるようになりました。時折、つまらぬミスをしてしまいますが、ほぼやるべき事はできるようになりました…ので、完璧な演奏には仕上がりませんでしたが、まあ良し!って事で、合格をいただきました。かなり、甘い合格のようです。まあ、随分長い間、この曲を吹きましたからね。

 次回からは17番です。先生が模範演奏をしてくれましたが…ほんと、真っ黒な楽譜だね。おまけに臨時記号やら装飾音符やらがたくさんあって、目がくらみます。とにかく、次回までにきちんと譜読みをして、ゆっくりとでも吹けるようにしておきます。いやあ、大変そうだ。

 さて、夏合宿の申し込みを正式にいたしました。先生から、合宿兼発表会で吹く、ソロ曲の楽譜をいただきました。前回言っていたとおり、ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」でした。

 まあ、原曲は歌曲ですから、いわゆる編曲モノなわけです。で、編曲ものとなると、玉石混交で、良い編曲もあれば、つまらぬ編曲もあるってわけで、先生が私のために選んでくれたのは、ランパル編曲の「オンブラ・マイ・フ」でございました。

 「色々な“オンブラ・マイ・フ”があるけれど、これが一番カッコイイ」とは先生のお言葉です。実際、フルートの音域の端から端まで使っているし、先生が吹くと、とても
良い感じなのです。

 「これにピアノが加わると、さらに良いのだよ」とは先生のお言葉なのですが、いただいたのはフルートのパート譜なので、ピアノがどういう動きをするのか分からないのが、ちょっと残念です。

 先生がおっしゃるには、ランバルが編曲した楽譜って、もう手に入らないのだそうです。と言うのも、楽譜はとっくの昔に絶版になっているんだそうです。

 「そんなに良い編曲なのに、なぜ絶版になっているのですか?」
 「古いタイプの編曲だからね。それに(値段も)高いし…」なんだそうです。ちなみに、このランパル編曲の“オンブラ・マイ・フ”は、先生ご自身のアンコールピースでもあるそうです。

 先生がおっしゃるには、最近の編曲の多くは、原曲に近づける方向の編曲が大半なんだそうです。この曲も、最近の編曲では限りなく原曲に近づけているそうで、伴奏の音が薄いんだそうです。

 でもランパルの時代は、たとえ古典であっても自分たちの趣味に引き寄せて演奏していた時代ですから、たとえヘンデルの曲でもヘンデルの様式に合わせるのではなく、自分たちの趣味(ロマン派っぽい趣味?)に合わせて編曲されていたのだそうです。だから、サウンドもロマンチックで、フルートもピアノも分厚い音が必要だし、なによりカッコイイんだそうです。

 とにかく、私は原曲をよく知っているわけだし、ランパルの編曲モノなんて、かっこいい楽譜で吹けるわけだから、なんか得した気分だな。あれこれ難しい箇所はありますが、それはおいおい先生が教えてくださるそうです。

 楽しみだな。頑張ってみようっと。

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2017年6月 8日 (木)

モノマネやコピーではなく、カバー歌手を目指せ

 歌を歌うという行為は、自分のオリジナル作品を歌うわけでなければ、誰かが歌っているのを聞いて「ああ、いい歌だな」と思って、自分で歌ってみるわけです。真剣に朗々と歌うとしても、気軽に鼻歌で歌うとしても、その根本にあるのは「いい歌だな」という感動です。

 で、感動したから、自分もその歌手のように、その歌を歌いたくなるわけです。

 さて、歌いたくなったら、どうしますか? ポピュラーソングとクラシック声楽曲では、その先がちょっと違うかもしれません。

 ポピュラーソングなら、その歌を何度も繰り返して聞くでしょう。音源が入手できるのなら、入手するでしょう。何度も何度も繰り返して聞くうちに、メロディーも歌詞も覚えてしまうでしょう。そして、その覚えたメロディーと歌詞で、カラオケなどで歌う事でしょう。この手法は、いわゆる“耳コピ”であって、ポピュラー系の音楽では王道なやり方です。

 素直に耳コピをして、それで歌うのが、コピー歌手です。つまり、オリジナルの歌手そっくりに歌うわけです。いわば、モノマネのレベルですが…これはこれで、歌っていて楽しいんですよね。

 でも、それだけでは、やがてつまらなくなります。そこでオリジナルの歌手の個性から離れて、歌い手としての自分の個性を前面に出して歌うようになるのが、カバー歌手です。モノマネを脱して、いわゆる“カバーソング”として歌うわけです。元の歌と同じ歌なんだけれど、表現方法を変えて歌うわけです。場合によって、アレンジすら変えてしまうことだってあります。

 コピーとカバー。これらは、オリジナルの音源を聞いて歌を覚えるという作業があるポピュラー音楽ならではの話です。

 さて、クラシック声楽の場合ですが、クラシック音楽では声楽曲に限らず、オリジナルは楽譜であって、演奏や音源ではありません。作曲家の書いた楽譜を読み込み、忠実に音声化するのがクラシック音楽の演奏です。これは器楽曲であれ声楽曲であれ、同様です。まずは楽譜が大切なのが、クラシック音楽なのです。

 だから、感動したのが、ある有名な歌手の歌唱であったとしても、その歌を歌う時は、その歌手の歌唱ではなく、作曲家の書いた楽譜を元に、そこに自分の表現を加えて歌うのがクラシック声楽です。

 つまり、ポピュラー音楽では、コピーとカバーの2種類がありましたが、クラシック音楽では、コピーはありえないのです。すべての歌唱は(ポピュラー的に言えば)カバーなのです。

 そうは言っても、有名歌手の歌唱に感動すれば、やっぱりその歌手の歌を真似たくなりますよね。有名歌手のコピーをしたくなります、モノマネをしたくなります。でもそれはクラシック音楽ではダメなんです。なぜなら、モノマネは歌っている歌手の歌唱に基づいているのかもしれないけれど、作曲家の書いた楽譜には基づいていないからです。

 「そんな事はないでしょう。だって、有名歌手の歌は作曲家の楽譜に基いて歌っているでしょ?」

 それが困ったことに、そうでなかったりするんですよ。だから、昔から、歌手と作曲家は仲違いしやすいのです。作曲家が魂込めて作曲しても「歌いづらい」「効果的でない」「それじゃあ俺が目立たない」とかなんとか言って、勝手にメロディ替えたりしちゃうわけです。

 もちろん、そんな事ができるのは、有名な歌手たちだけです。なぜなら、昔は作曲家よりも歌手の方が偉かったからです。今では昔ほど作曲家を邪険に扱う歌手はいませんが、それでも、程度の差こそあれ、有名な歌手というのは、作品に対して傍若無人な事には変わりありません。

 100人歌手がいたら、100通りの歌い方があるのです。それがクラシック声楽なんです。だから、有名歌手の歌唱を聞いて、それをコピーすると、その歌手の歌唱そっくりになるだろうけれど、本来の作曲家の書いた楽譜に忠実なのかどうかと言えば、かなり微妙になってしまうのです。

 ポピュラー音楽を学ぶ人は、まずは音源に忠実に演奏できるようにコピーを行い、やがて自分の個性を加えていく事で、カバーをするようになります。そうやって上達していくわけです。

 一方、クラシック声楽を学ぶ人は、有名歌手の歌唱に左右される事なく、まずは楽譜を勉強し、楽譜に忠実に歌えるようになり、そこから自分の個性を加えて、自分なりの歌唱を完成させるのです。

 つまり、クラシック音楽と言えども、やはり目指すはカバー歌手なんですね。

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2017年6月 7日 (水)

ヨーロッパ人っぽく歌いましょう

 さて、声楽のレッスンの続きです。ティリンデッリ作曲の「O Primavera!.../春よ」です。この曲は(前回も書きましたが)ほぼほぼ歌えているわけですが、それは単に歌えているだけで、テクニカルに歌えているわけではないので、きちんきちんとテクニックが見えるように歌う練習をしたわけです。

 今回は私の歌い方、とりわけ高音発声のやり方が、日本国内だけで学んで活躍している日本人歌手のようだという指摘がありました。つまり“一昔前の日本人歌手っぽい歌い方”って奴になっているという指摘なわけです。

 今の若い歌手たちは、日本人であっても、日本国内だけで学びを終えず、大抵はヨーロッパに留学して、本場の(いわゆる)ベルカント(唱法)を学んでくるわけで、今や日本人歌手であって、発声そのものは外国人歌手たちと遜色ないレベルになっているわけです。

 でも、一昔前の日本人歌手までは、留学する人も少なく、外国から入ってくる書籍などの情報を元に研究を重ね、たまに来日する外国人歌手たちのコンサートで刺激を受けて切磋琢磨し、理想の発声方法を求めて、自分たち流にあれこれ創意工夫をしながら、ベストな発声を模索していたわけで、当然、本場のものとは、ちょっと違う、適度にローカライズされた発声で歌っていたりするわけです。

 で、私の発声が、そういう日本人っぽい発声をしているって言うわけです。

 で、それはある意味、当然の話なんだよ。だって私、世代的には“一昔前の日本人”だし、若い時から聞いてきた日本人歌手の皆さんは、当然、日本人っぽい発声をしていたわけで、そういう発声が骨身に沁みているわけです。なにしろ私、昭和のオヤジですから(笑)。

 でももう今は、例え日本人であっても、本場流の発声が当たり前になりつつあるわけだから、そういう昭和まるだしの日本人っぽい歌い方は止めましょうって事なのです。

 日本人っぽい発声と、そうでないヨーロッパっぽい発声が、具体的に大きく違う点は、二つあります。一つは声の深さであり、もう1つは声の方向です。

 声の深さは…よく「日本語を話していると、声の響きが浅くなる」と言われますが、その話です。確かに日本語は、ヨーロッパの諸言語と較べると、声の響きが浅いです。面白い事に、来日していたり在日していたりする、日本語ペラペラのヨーロッパ系の人たちと話していると、彼らの日本語も結構響きが浅いんですよね。でも、その彼らが一転して英語などのヨーロッパ語で会話を始めると、途端に声のトーンが変わって、声の響きがいきなり深くなるんです。不思議ですね。同一人物なのに、使用言語で言葉の響きが変わるんです。

 いかに日本語が、声を浅くしてしゃべる言語なのかが如実に分かるとともに、日常生活で日本語ばかりを使う日本人のデフォルトの発声では、声の響きが浅くなってしまうのも容易に想像できます。

 で、Y先生がおっしゃるには、私の声が一番美しく聞こえる深さは、私が日常的に話している響きよりも、だいぶ深いんだそうです。だから、声の響きをもう少し深めにし、もう少し太めの声で歌えるのが良いわけです。

 先生がおっしゃるに、私の声はまだ完成されていなくて、テノールである事は確定だけれど、まだレッジェーロになる声なのか、リリコになる声なのは分からないのだけれど、どちらであっても、今使っている声の響きでは浅すぎてダメで、もっと深めの太い声で歌えるようにしなさいって話なのです。

 次に声の方向だけれど、日本人はクチから声を直接前にスパーンと出す発声をしがちですが、ヨーロッパの人って、そういう発声をしないんだそうです。確かに、来日&在日ヨーロッパ人たちの発声って、我々日本人とは、ちょっと違ってますよね。一度口腔内で声を響かせてから、クチから出ていく感じです。音と光の違いもあるし、その方向性は真逆だけれど、レンズ式の望遠鏡と、反射式の望遠鏡のような違いが、日本人の発声と、ヨーロッパ人の発声の違いにあるのかなって思いました。

 いずれも先生が、日本人っぽい発声とベルカントの発声とを、目の前で実演してくれたので、どう違うのかはよく分かりました…ってか、だいぶ違いますね。まあ、違いが分かったからと言って、即座に真似できるわけではないのですが…。

 いわゆるベルカントの発声と言うのは(私も詳しくは理解していませんが)ヨーロッパ人の発声を元にして作られているわけだから、我々がヨーロッパの歌を歌うのなら、彼らと同じストラテジーを用いて発声するべきだし、そうでないと色々と壁にぶつかると思います(特に高音発声はね)。

 それにしても、本格的なベルカントは、今の私のやり方とは、そもそもカラダの使い方があれこれ違います。つまり、これからそういう動きができるカラダを作っていかないといけないわけで…たかが歌の発声とは言え、まだまだ道は遠くて長いようです。

 そうそう、あとね、日本人はマスケラを使いすぎるけれど、それは真似しちゃダメとも言われました。もちろん、マスケラを使って歌う事自体は必要なことだし大切な事なのだけれど、マスケラ発声に偏ってしまってはダメなのです。

 と、あれこれテクニック談義をして、実際の歌の中で声楽テクニックをどう使っていくかを練習して、今回で「O Primavera!.../春よ」をお終いとする事にしました。

 次回からは、そろそろ発表会に向けてレッスンを進めようと思います。まずは「Maxim's/マキシムの歌」を重点的に練習し、「A Dutiful Wife/従順な妻」の譜読みを始めようと思ってます。レハール作曲の「メリー・ウィドウ」は決して簡単な曲ではありませんが、昨年の事を考えれば、難易度も歌う分量も暗譜する楽譜のページ数も比較になりませんから、私、なんかのんびり構えちゃっているわけです。

 そんなにキリキリしなくも、発表会に十分間に合う…よね(汗)。

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2017年6月 6日 (火)

最近は低音歌手が不足しているんだそうです

 声楽のレッスンに行ってきました。

 実は前回のレッスンと今回までの間に、先生から「某プロ歌劇団の皆さんと一緒に舞台で歌いませんか?」というお誘いがありました。練習日が平日だった事もあり、仕事を含めて色々と調整しているうちに、テノールが定員に達したようで参加しない事になってしまいました。

 まあ、元々、私には無理めな日程だったので、それでよかったのですが、プロの方々と同じ舞台で歌うというチャンスを棒に振ってしまったのは、ちょっぴり心残りでした。

 なんでもそのコンサートは、某自治体主催の文化事業で、市民の合唱愛好家の方々と某プロ歌劇団の共演コンサート(よくある話です)として企画されたのだそうです。もちろん独唱の部分はプロの方が、合唱部分を市民の皆さんが担当する事になっていたそうです。

 私も以前、地元で(クラシックではなく、ポピュラー音楽でしたが)プロ歌手のバックコーラスを市民代表として担当した事があります。なんか、懐かしいなあ…。

 で、話を戻すと、なんでもそのコンサートですが、どうにも地元の合唱愛好者の集まりが悪かったのだそうです。とは言え、女声はソプラノもアルトも、あっという間に定員に達したそうですが、男声が何とも足りず、自治体の方も、プロ方の事務所も動いて、メンバー集めをしたそうですが、それでも足りず、ついに出演者の方々に「誰か歌える人は知らない?」って声がけがあって、出演歌手が自分の知り合いのアマチュアさんたちに声をかけた…という経過があったそうです。

 で、私にもY先生経由で声がかかったわけですが、他にも合唱団の指導をしているようなプロの方は、当然、合唱団の人たちに声をかけたわけで(なにしろ、今回の企画は合唱の企画ですからね)、おそらくはそちらから希望者が出たので、たくさんの応募があったようなのです。

 それでテノールは定員に達したそうですが、バスは最後まで定員に達することなく、締め切りとなってしまったんだそうです。

 「テノールが定員になって、バスが足りないって…珍しいですね」と言ったら、何でも最近は、そういう事が多いんだそうです。どうも、若い男性の高声化が進んでいるそうで、かつてはテノールが希少種扱いだったのですが、今の若い世代ではテノールが増えて、逆に低音歌手であるバスやバリトンの方が不足気味なんだそうです。

 ふーん。世間の常識も時代とともに変わっていくものなんですね。確かに、テレビで見かけた昭和の歌謡曲や演歌の歌手たちって、低音歌手ばかりだったよね。でも平成のJ-POPの歌手たちって、大半が高音歌手だね。そういう事も影響あるんだろうね。

 さて、レッスンの話に戻ります。例によってハミング練習から始まりましたが、今回も私の弱点である“クチの奥を縦に開く”を重点的に指導されました。

 発声練習では、これまた例によって腹筋の筋トレ中心に行いました。ただし今回は、腹筋の動かし方をちょっと見直してみました。なんでも先日、Y先生はイタリア留学時代のお師匠さんと会って、あれこれ発声について見直したり思い出したりしたんだそうです。そんな事もあって、指導内容がちょびっと変更になったわけです。

 具体的には、腹筋を動かすベクトルを変更してみました。今までは“1)ヘソから腰へ 2)横隔膜を肺の中へ”という二つの動きを手順に従ってやっていたわけですが、それを変えたわけです。今度のやつは…言語化するのが難しいのですが、足元から脳天へ腹筋を動かします。ただし、足元と言っても、カラダの直下ではなく、かなり前方の位置から、また脳天と言っても本当の頭部ではなく、かなり後方の位置へと連なって、カラダの真ん中を貫きます。つまり、下前方から上後方というちょっと長めのベクトルで腹筋を動かすわけです。

 難しいでしょ?

 先生からは「焼き鳥になったつもりで!」と言われましたが、私、焼き鳥になって串刺しにされた経験がないので、うまく理解できたかどうか不安です。ただ、焼き鳥ですから、串が肉を貫く時の抵抗感ってのは理解したつもりで発声をしました。

 あと、クチを開けっ放しにして(アホ面で)歌う発声練習をしました。これも腹筋を鍛える練習であるわけですが…つくづく発声は、十四松君のような感じが良いのだなあと思ったわけです。

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2017年6月 5日 (月)

2017年6月現在の私が考える、高音発声のポイントについて

 クラシック声楽って、案外音域が広いものです。高音歌手はもちろん、低音歌手だって、自分なりの高音へのチャレンジをし続けて歌うのですが、チャレンジ…つまり苦労をして、それを乗り越えて歌うわけです。

 それではなぜ歌手は高音発声に苦労するのでしょうか?

 その人の持っている音域以上の高音を出そうとしているケースは、ちょっと横に置いておくことにして、大抵の場合、ノド声発声のために高音発声に苦労をしているのが、アマチュア歌手の現状だと思います。

 ではなぜ、ノド声だと高音発声に苦労するのか? それはノド声って、往々にして声帯を取り巻く周辺に力が入りすぎて、肝心の声帯の振動を邪魔するからです。

 「声帯の振動を邪魔するって、何?」

 声帯を含む周辺部に力が入りすぎると、その周辺部位が硬直します。ザックリ言うと「筋肉は力が入ると硬くなる」って奴ですね。筋肉が硬くなると、筋肉の動きって悪くなります。声帯とその周辺も筋肉ですから、力が入りすぎて、硬くなると、動きが悪くなって、声帯がうまく伸展しなくなるわけです。

 さらに、力こぶ…じゃないけれど、筋肉って力が入ると、膨らんで硬くなるんですね。ですから声帯とその周辺部が硬くなると言うのは、同時に膨らむってわけで、気管は文字通り“管”ですから、膨らめば、内部の空洞部分が狭くなって、息の流れが悪くなるし、また気管の蓋である声帯が膨らめば、さらに余計に息の流れが悪くなるし、最悪、気管が閉じてしまうことだってあるわけです。そうなると、高音発声どころか、自分で首を絞める事になり、声すら出なくなります。

 ノド声、怖いですね。

 ではなぜ、ノド声になってしまうのでしょうか!

 原因は色々ありますが、一番大きな理由は「その人が“ノドに力の入った声が好き”だから」と言うのは、絶対にあると思います。

 “ノドに力の入った声”とは…感情むき出しの声です。人が興奮している時に出す声って、大抵、ノドに力が入っているものです。そういう、怒鳴り声、怒り声、叫び声、泣き声等、みなノドに力が入っています。人によっては、笑う時すら、グフグフ…とノドを締め上げて、笑ったりするでしょ? 強い感情を歌に載せようとすると、多かれ少なかれノドに力が入ってしまうものなのです。そういう、ある意味、演劇っぽい声(舞台演劇での発声はノドに力を入れる事は必要最低限でしかしないので“演劇っぽい”声と言っておきます)を好きな方って…私も含めて…たくさんいるでしょ? で、自分もそういう声を出そうとすれば…そりゃあノド声になるしかないじゃないですか?

 また、それとは別に、声を出すための息の発動を、ノド周辺で行っている人も多くいますが、そういう人が歌うと、ノド声になってしまう事があります。まあ、それは声を聞いてみると、息が常に浅いので、それと分かります。ちなみに、息が浅すぎる人だと、ノド声どころか、歌声が出なくなってしまうようです。

 では、それらを回避するためにはどうするべきでしょうか?

 まずは、リラックス。脱力です。声帯周辺部に過度な力を加えないようにしましょう。そのために、歌う時は深い息(腹式呼吸)で歌うようにしましょう。これだけで、ノド声リスクはだいぶ下がります。

 次に、クチの奥を縦開きにして、ノドが十分に伸展できるようにしましょう。最後に、声帯を常に(適度に)開けたままでいられるようにしましょう。そのためには、ノドの奥を開くという意識づけが大切でしょう。これらによって、ノド声はだいぶ回避できる…はず…です(笑)。

 で、私自身が気をつけている事を最後に書くなら…、最初は変な声でも、正しい手順を踏んで出た声なら出し続けるようにしています。最初っから立派な声で歌えるわけはないのですから、自分の声が変な声でも良しとしています。要は、そこから鍛え上げて、最終的に立派な声にすればいいのですから。

 あと、音程を強く意識しすぎないようにしています。音程を強く意識すると、発声は二の次で、音程を置きに行くような発声になります。音程を置きにいく歌い方では、発声はいい加減になってしまいがちですからね。発声をきちんとしないと、結局、高音は出ないままになってしまいますからね。

 2017年6月現在の私は、高音発声に関して、こんなふうに考えているわけでした。

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2017年6月 4日 (日)

そう言えば、新聞販売店って、バンバン潰れてませんか?

 新聞販売店って、事件を取材して記事を書いて新聞を実際に作って印刷している新聞社の事ではなく、新聞社から届けられた新聞を、地域に宅配をしている地元密着の新聞屋さんの事です。

 その新聞販売店が、数年前からバンバン潰れていませんか?

 と言うのも、ウチのすぐ近所にあった朝日新聞系の大きな新聞販売店が先日潰れて…ってか、地域から撤退してしまいました。それで思ったのですが、その少し前に、読売新聞系の別の新聞販売店も、毎日新聞系の別の新聞販売店も、ウチの近所から撤退していました。産経新聞系は、本当にウチの近所にあったのですが、そのもっと前に撤退しちゃっていた事も思い出しました。

 どうやらもう、ウチの近所には新聞販売店って奴が無くなってしまったようです(驚)。

 まあ、ウチは新聞をだいぶ前(20年ぐらい前からかな?)から取っていないので、新聞販売店が潰れても、全然困らないのですが、近所で新聞を取っている家は、近所の販売店が無くなってしまったために、遠方の新聞販売店から届けてもらっているようです。まあ、顧客側からすれば、どこから届けられているにせよ、きちんきちんと毎朝新聞が届けば文句はないでしょうが、配達する側からすれば、他店の販売エリアを受け入れるというのは、労せず契約数が増えるわけで、増収になるけれど、その分、販売エリアが広がって、労力が余計に増えることになります。単純計算で言えば、距離で2倍広がったなら、それって広さでは4倍になるわけだから、仕事量は格段に増えるわけです。とは言え、採算割れを起こすような地域だから元の店が潰れちゃったわけで、そこを引き継いでも、あんまた旨味はないかもしれないし、だいたい地域が広がった分だけ(配達員を増やして)人件費も増えるし…どうなんでしょうね。

 潰れた販売店も大変だけれど、その仕事を引き継いだ新聞販売店も楽じゃないね。

 私がまだ学生だった頃、友人の一人が新聞奨学生でした。早朝…と言うよりも、深夜に出勤して、折り込み広告を新聞にはさんで、それを小脇に抱えて、スクーターに乗って、一軒一軒配達していくわけです。冬などは、夜明け前に配達を含めたすべての仕事を終えるわけで、当時の私は朝が苦手だったので、そんな重労働を淡々と毎日こなしていた友人を心の中から尊敬していたものです。

 新聞販売店って、新聞社から送られてきた新聞を配達&集金する事と、配達する新聞に折込広告を入れて広告代を得る事の、2つの仕事で収入を得ているそうですが…新聞そのものが契約してもらえない時代になってきたので、配達する新聞数も減ってきたでしょうし、配達する新聞が減れば、そこに挟む折込広告も減ってしまうわけで、新聞販売店的には、かなり大変な事なんだろうと思います。

 でも新聞が契約してもらえないのも…無理はないと思います。事実、ウチは新聞、取ってないしね。

 今更、新聞の時代じゃ無いでしょ! だって新聞って…情報遅いからね。今やニュースは、速報ならネットで、一通りのニュースなら、テレビで知ることができます。ニュース解説だって、ネットをググれば、それなりに深く知ることができますし、テレビにも池上彰氏のようにニュース解説専門のタレントさんだっているわけだし…ね。

 有料で遅れた情報を届ける新聞よりも、無料で最新の情報を画像や動画付きで見ることの出来るテレビやネットに人々が流れるのは…そりゃあ当然だよね。その上、昔ならともかく、今や新聞にも嘘やデタラメが掲載されている事は、万民が知る所だしね。そういう点では、新聞ってオワコンだなって思います。

 そんなオワコンな新聞に頼り切っている新聞販売店って、切ないなあ…って思うわけです。

 そう言えば、新聞販売員って人がいますよね。山のように、洗剤とか食用油とか野球のチケットを持ってきて「一ヶ月でいいので、契約してください!」としつこく迫る人ね。新聞の契約費よりも明らかに高額なおまけを持ってきてますが、あれって商売になるのかしらねえ? ウチは洗剤も食用油も、自分セレクトがあるので、販売員が持ってきたモノなど欲しくもないし、野球も興味ないし、それ以前に、モノで釣られるというのが、なんとも情けなくて、それで新聞を取らなかったのです。

 もっとも、手ぶらで契約にきても契約したとしても、結局、新聞って、取っていると新聞紙が溜まるんだよね。あれって始末に困るじゃない! だから、なんだかんだと言って、やっぱり新聞は取らないんだね。

 で、新聞を取らない生活をしていて、困ることって…あまりないです。折込広告がないので、近所のスーパーの安売りがどうなっているかが分からない事と、折込広告と一緒に配られる、地域のミニコミ紙が読めない事が困ることかな。でもまあ、スーパーに安売り目当てで行くことはまず無いし、ミニコミ紙が読めないのは…実は結構困るけれど、まあそれは諦めるしかないと思ってます。

 時は流れ、時代は移り、社会の仕組みも人々の生活も変わっていきます。それにともない、商売にも流行り廃りはあります。新聞販売店って、昔は景気が良かった業種(なにしろ地域独占だし再販制度で守られているし…ね)のようですが、今や未来のない仕事の一つだと思います。やがて新聞の宅配は廃れ、人々は必要に応じて、コンビニで新聞購入するようになると思います。

 そうだ、新聞販売店がつぶれないためには…副業でコンビニをすればいいんじゃないの? コンビニも新聞も深夜営業が当たり前だし、地域密着という点でも同じだし、労働力として若者をたくさん抱えているって店も同じでしょ? 案外、新聞販売店とコンビニって、親和性が高いんじゃないの?

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2017年6月 3日 (土)

部屋を片付けるのは誰?

 最近、金魚水槽へ入れる水草はガボンバにしています。以前の子たちにはガボンバではなくマツモグサを入れていました。マツモグサは日本産の水草で、柔らかくて金魚にとっては食べやすく、また繁殖力も強いので、いつでも新芽を食べられる水草でした。欠点は、少々お高い事と、限られたお店でしか入手できないという事です。でも、この水草しか食べなかったので、仕方なくマツモグサを入れていたわけです。

 ところが今の子たちは、マツモのような高級食材ではなく、ガボンバで全然構わないようなので、金魚水槽に入れる水草は、今はガボンバにしています。

 ガボンバは安くて、どこでも売っているので入手が容易なのが特徴です。ただし、外国産の水草なので、金魚水槽の中では、ほぼ繁殖しません。ですから、金魚に食べられたら、それでオシマイなのです。定期的に新しいモノを水槽に入れてあげないといけません。
 ここのところのルーチンでは、月に一度、近所のスーパー(もはや金魚屋や熱帯魚屋ですらない:笑)で、ガボンバを3束購入し、それを金魚水槽に入れると、ほぼ一ヶ月で食べつくすので、また新しいモノを入れる…ってカタチを取っています。

 ガボンバ3束って…結構な分量です。ですから水槽に入れると、しばらくは水槽の中が水草だらけになってしまいます。

 最初のうちこそ、水槽の大半を水草に取られて、金魚たちは隅っこの方でひっそりと暮らしていたのですが、いつの頃からか、金魚たちは水草を大量に投入されると、自分たちで水草を片付けるようになりました。

 具体的に言えば、水槽の水面一面に広がっている水草を水槽の一箇所にかき集めて、自分たちのスペースを作っているのです。これは偶然ではありません。その証拠に、水草が集まる場所は、一定していないのです。もし水草が集まる原因が水槽の水流のせいなら、いつも同じ場所に水草が溜まりますからね。時にポンプの吸い込み口付近だったり、逆にポンプの吐出口のそばとか、エアの出口付近とか…。毎回毎回、水草を集める場所が違うのです。言える事は、エサの投入口とか、人間が良く見える水草の前面からは、早々に水草を撤去してスペースを作るって事なのです。

 どう考えても、金魚の意思を感じます。

 問題は、水草を片付けている姿を我々には見せないので、誰がこんな事をやっているのが、未だに不明なのです。誰がやっているんでしょうね? それと水草を動かして部屋(水槽)を片付けられるほどの知恵者な金魚って、誰なのでしょうね? 私、今の子たちは、おバカちゃんばかりだと思っていますので、実は隠れた賢い子がいるのかもしれない…と思って興味津々なので、いつか解明したいと思ってますが…まあ気楽に観察していくことにします。

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2017年6月 2日 (金)

合宿に参加するよぉー!

 フルートのレッスンに行ってきました。例によって、仕事が忙しいので、ほぼ練習はしないで、先生の前で練習を兼ねたレッスンを行うという体たらく状態が続いています。

 エルステユーブンゲンは、20番はほぼ余裕で吹けます。先生からも「いい音出しているねえ…」と誉められる程だけれど、暗譜は全々できてません。そりゃあそうだよね。21番は、ところどころ、1オクターブほど音程を間違える(笑)くらいです。どっちにしても、練習が足りないなあ…。

 プチエチュードの16番は、ほぼ余裕で吹けるんだけれど、ところどころ、つまらないミスをしてしまいます。きちんと練習して、こういうケアレスミスを無くしていかないといけないんだよなあ…。当然「あと少しだね」って事です。

 それにしても、レッスン中に、皆さんは目がショボショボしませんか? 私はショボショボします。で、ショボショボして段々前が見えなくなるし、涙で目の前が滲んできて、楽譜の読み間違いが発生します。

 先生に相談したら「みんな、そうだよ」と簡単に言われちゃいました。年を取ると、誰でも目がショボショボするようになるんだそうです。で、その対抗策は…いっぱい練習して暗譜する事…なんだそうです。ううむ、それじゃあ、ちっとも解決できないじゃない。

 そうそう、私、今年の夏合宿に参加する事にしました。で、その表明を先生にしたところ「じゃあ、オンブラ・マイ・フを吹きましょう」と言ってくれました。なんでも、私が夏合宿に参加するなら、この曲を吹かせたいと温めておいてくれたのだそうです。私にちょうど良い感じの曲なんだそうです。

 まあ、アレンジモノなので、先生から楽譜をいただかないと、実際はどんな感じに仕上がっているのかは分かりませんが…原曲の歌曲の方はレパートリーなので、まあ大体の曲の感じは分かってます。楽しみと言えば…楽しみですね。

 去年がハイドンで、今年がヘンデルか。バロックづいているなあ…私。まだ、参加メンバーが決定していないので、アンサンブルの方は、もう少し先になるそうですが…まあ、それはそれで楽しみにして待っているつもりです。

 ああ、合宿楽しみだなあ。

 先生との雑談は、そのまま、合宿の昔話を聞かせていただきました。いやあ、40年もやっていると、あれこれ色々とあるものです。

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2017年6月 1日 (木)

メサイアが無くなった!

 先日、連絡があったのですが、ウチの近所(と言っても、ちょっと離れた他市)で行なわれている、某メサイアの会が解散?してしまったようなのです。

 そこは毎年、趣味でメサイアを歌う人たちを集めて、会場を借りて、伴奏ピアノや独唱歌手を用意して、合唱の部分をいわゆるシンガロングの形式にして、みんなでメサイアを歌うという主旨の会でした。私も過去に一度だけ参加した事があります。なかなか楽しい会でした。

 メサイアと言うのは、合唱曲と思われがちですが、実はオラトリオなんですね。つまり、オペラの親戚のような音楽ジャンルですから、演奏時間が長いんです。メサイアの場合、慣習的なカットをしても2時間オーバー、カットしなけりゃ3時間を越える大作です。なにしろ、途中に休憩を1~2回入れるのが普通なくらいの規模の曲なのです。それほどの大作ですから、なかなか市民合唱団あたりでは取り上げるのが難しく、でも曲自体は有名ですから、多くの人が歌いたいわけで、そんなわけで、色々な形で、練習少なめですぐに本番で、メサイアだけを歌う“メサイアを歌おう”的な会が日本の各地にあるわけです。

 で、そんなわけでウチの近所にも“メサイアを歌おう”の会があったわけですが、それがこの度解散してしまったのです。

 解散してしまった理由は…私は知りません。がしかし、私が勝手に邪推するならば、おそらく原因は2つぐらい有りそうだなって思いました。

 一つは金銭的な問題。以前から、会の会計が赤字続きだと聞いていました。諸経費が増えていくのに、参加人数が減っていった…んではないかなって思います。つまり、金銭的なバランスシートが崩れてきたんじゃないかしら?

 長年やっていて諸経費が増えるのは、世の常だから仕方ないです。参加人数が減ってきったのは、新人の新規参入に較べて、今まで参加してきた人たちの参加取りやめの方が多くなってきたから…でしょうね。今まで熱心に参加していた人たちは、諸般の事情で参加できなくなってきたって事だろうと思います。はっきり言っちゃえば、今までお元気だった人がお元気でなくなったり、天に召されたりして、参加人数が減ってしまったんだろうと思います。

 収入が減った分は…広告などで補ったり、スポンサーを探して資金援助をしてもらうという手はありますが…でもそれって、運営陣にとっては、かなりエネルギーの必要な事で、運営を行っている人たち(は、どこでもご老人たちが中心)では担っていけないという現実的な側面もあると思います。

 金銭問題はバカにできないよね。これは結構深刻な問題です。

 さらに1つの問題が考えられます。それは、今まで会を支えていた人たちの高齢化…でしょうね。皆さん、若い時からこの会を支えてきたわけですが、そんな昔若かった人も、やがて年を取り、皆さん老人になってしまったわけです。老人になり、体力も気力も衰え、昔は何の苦労もなかった事がしんどくなり、その上、仲間たちも一人減り二人減り…ってなってしまったんだろうと思います。

 うまく若い世代に引き継げればよかったのでしょうか、世の中、そうは簡単に世代交代ができるわけでもなく、力尽きてしまった…と私は見ています。

 以上、私の勝手な邪推です。全然的はずれかもしれないけれど、案外良いところを突いているんじゃないかと思ってます。

 と言うのも、合唱団体の高齢化ってのは、日本中で同時多発的に起こっている問題であり、今や単に“高齢化”が問題なのではなく、高齢化と世代交代失敗のために、色々な団体が活動停止に追い込まれているのも問題になっているわけです。

 メサイアの会が無くなってしまうのは、とても残念だけれど、他所の市町村の市民団体の話なので、私にどうこうできる問題ではありません。むしろ今、私が心配しているのは、ウチの地元で活動していて、私もたまに参加している、第九の会です。ここも高齢化が激しい上に、世代交代がうまく行ってないんですよ。参加人数自体は毎年多くて盛況だから、今後の継続は不可能ではないと思われるのだけれど、運営している人たちがそろそろバテてしまいそうなのが心配です。

 (運営人以外の人たちの会への加入)継続を前提とせず、毎年リブートしていくカタチで運営されているため、運営していく人たちの世代交代がうまくできなかった…んじゃないかな? なんて思うわけです。

 人間には寿命があるわけだから、どんな団体も世代交代がうまくいかなきゃ、いずれ行き詰まり活動停止に追い込まれていくわけです。

 私が合唱メインに活動していたら、それらの仕事を引き継ぎたいと思うけれど、現在の私にとって、合唱はあくまでも趣味の余暇であって、独唱がメインで勝負どころだから、あまり合唱関係にエネルギーを割けないわけで、あれこれ合唱団体が活動停止に追い込まれていく様子を傍で見て、心配するくらいしかできないんです。

 でも、あの第九の会が無くなったら、とっても残念だな。

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