ひとこと

  •  もうすぐ選挙ですね。選挙は、それぞれがご自分の思想信条に従って投票すれば良いことですが、その際に、枝葉の小さな問題に捕らわれて、大切な事を見失わないようにしないといけません。選挙は人気投票でもなければ、誰かを懲らしめるための手段でもありません。我々の子どもたちに、日本という国を安心安全に譲り渡すために、今何をしなければいけないのか、そしてそれを目指しているのは誰なのか、そこらへんを見極めていくことが大切なのです。問題は今ではなく、未来なのです。
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2016年4月の記事

2016年4月30日 (土)

マツモ草とメダカを投入してみた

 先日、見知らぬ人たちの発表会を聞いた後、無くなってしまったマツモ草とタニシを購入しに、金魚屋さんに行ってきました。

 タニシは…本当なら知り合いの農家さんからもらえればいいのだけれど、まだ田んぼに水を入れていないので、そこからタニシをもらうというのも、色々と面倒くさいので、だったら、少々高いけれど、金魚屋で売っている奴でいいか…と思ったわけです。

 で、金魚屋に行ってみたところ、タニシは品切れでした。それどころか、イシマキガイですら、私の目の前で最後の子が飼われてしまい、品切れになってしまったくらいです。いやあ、貝、大人気。

 そこで、タニシはあきらめ、マツモ草だけを購入しようと思って水草売り場に行ったら、マツモ草が、なんとたった2束しか売っていませんでした。無いよりはマシなので、その2束を買い占めたわけですが、たった2束ですよ。ああ、少ない少ない。本当は10束くらい購入していくつもりマンマンだったんですよ。

 ちなみに、マツモ草以外の水草は、それこそ山のように売ってました。マツモ草は人気が高いと言うか、入荷量が少ないと言うか…とにかく稀少な存在のようです。

 そこでウーンと考えた私は、メダカを買うことにしました。それも1匹2匹という単位ではなく、50匹いっぺんに購入してしまうおうと思ったわけです。

 なぜそう思ったのかと言うと、メダカって、観賞用の子もいるけれど、肉食魚のエサとしても販売されているわけで、そのエサ売り場で見つけた、50匹入のメダカの袋を一つ購入してみようと思ったからです。

 別にメダカの場合、観賞用もエサ用も違いはありません。両方ともに同じヒメダカです。ただ、観賞用は、観賞魚売り場の水槽で泳いでいて、欲しければ店員さんに「メダカ、○○匹ください」とお願いして購入するわけです。エサ用のメダカは、エサ売り場に50匹とか100匹の単位で、ビニール袋にすでに入って売られているわけです。購入する時に、水槽からすくって買うか、ビニール袋に入っている奴を直接レジに持っていくかの違いだけです。ちなみに、値段は…エサ用の子たちの方がちょっぴり安かったです。観賞用の子たちは、バラで購入するわけだけれど、エサの子たちは、ある程度まとまった数を一度に購入するわけで、その分、お安くなっているんでしょうね。

 繰り返しますが、メダカとしては、観賞用もエサ用も、全く同じメダカですし、命の価値には違いはありません。

 ちなみに、エサ売り場には、メダカ以外にも、たくさんの生き餌たちが売られています。ドジョウや金魚(小赤と呼ばれる和金。金魚すくいによくいる奴)はもちろん、ミミズのようなワームとか、青虫とかコオロギとかゴキブリも売っているので、その売り場付近には、女性の姿は見かけません。私がエサ売り場に行くと、妻はワンちゃんのコーナーに逃げていくくらいですから。

 とにかく、なんとなく、エサ用のメダカを購入する気になった私です。それも50匹入の袋を一つね。

 この50匹のメダカを金魚水槽に入れてしまえば、おそらく、何匹かは金魚たちに食べられてしまうでしょう。それは仕方のない事です。しかし、今現在、ウチにいるメダカたちは、そろそろ寿命でしょうし、ああいう小魚は、ある程度数がいてこそ、鑑賞しうるものですから、ここは我が家の水槽にメダカの群れを創りだして、それを観察するべく、50匹のメダカを水槽に投入する事にしたわけです。

 実際、メダカを50匹投入して、どうなったから…次週書きますね。あ、もちろん、マツモ草も水槽に投入しましたよ。

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2016年4月29日 (金)

ダブルシャープを見ると、混乱します

 フルートのレッスンに行ってきましたが…本当に練習不足過ぎて、一時は「練習サボったろか…」と思ってしまうほどでした。だって、あまりにも練習不足過ぎて、吹け無さ過ぎて、先生に失礼じゃない…。

 でも、ひとまずレッスン時間を30分繰り下げてもらって(申し訳ない)、その30分で取り急ぎ集中練習してから、レッスンに行ってきました。

 さすがにウォーミングアップ十分でしたから、ロングトーン練習はバッチリ。さっそく、エルステユーブンゲンに取り掛かりました。

 まずは16番です。前回「次であげましょう」と言われてましたからね、もう、頭から湯気が出るほど集中して、直前練習をしてきたおかげで…あとちょっと…というところまで仕上がりました。…あとちょっと…なんです。結局は、暗譜が完璧ではなく、要所要所で落ちてしまうんですね。ああ、へまったなあ…。とりあえず、またまた不合格となりました。もちろん、16番が出来ないのだから、17番も無理無理です。

 プチエチュードは新曲の14番です。しかし、私は、始めてダブルシャープってやつを見ました! ダブルシャープって…、つまり、元の音に対して全音高い音なんだから、ドXはつまりレでしょ? じゃあ、譜面上でもレって書きゃあいいじゃんと思ってみたら、イ長調(♯4つ)でやんの(笑)。つまりドにもレにも、元々♯がかかっているわけで“ド-ドX-レ”と書かれていると、指は“ド♯-レ-レ♯”ってことになるわけね。同じ音を出すために“ド-レ♮-レ♯”とも書けるけれど、こう書くと、元々♯のかかっているレを一度ナチュラルに戻して、すぐ次に♯付きに戻すわけで、なんか二度手間な感じなのね。だったら、二度目のドをダブルシャープにしちゃった方が、話は簡単ってわけでダブルシャープの起用なんだと思うけれど、こちらはダブルシャープに慣れていないので、こいつを見る度に「はて、この音は何だ!」となるわけです。

 タダでさえ、臨時記号に慌てふためく人なのに、ダブルシャープなんて止めて欲しいですよ。

 とにかく、14番はダブルシャープだけでなく、譜面が黒い。おまけに私の苦手なスラーとスタッカートの混合フレーズ…。いやあ、練習になりますなあ(棒読み)。

 なので、合格不合格以前に、譜面通りに吹けません…。テンポをかたつむりさんにしても、全然間に合わない。とにかく、音符が多いのですよ、この曲。こういう曲ばかりを練習していたら、上達するんだろうなあ…。あ、上達するために練習しているんだっけ(大笑)。

 雑談は「ゴールデンウィーク、どこ行くの?」って話です。私は、毎年恒例のラ・フォル・ジュルネですし、先生は山ごもりしてバッハ三昧です(前回書きましたよね)。

 しかし、H先生は、本当に山とか高原とか湖とかが好きです。登山ももちろん好きだけれど、ただ山林や高原をブラブラしているだけでも幸せなんだそうです。まあ、スマートな方だからね。

 デブにとって、高原地帯なんて、地獄だよね。空気薄いし、坂は多いし、虫は多いし…。やっぱり、山はヤセ型人間が楽しむところだよね。私は、特別な用事がない限り、高原には行かないだろうなあ…。

 空気が薄いと、それだけで元気なくなるからなあ…。

追記 だからと言って、海はデブの天国か…と言うと、醜悪な肉体を世間にさらさないといけないので、これはこれで生き地獄がったりするわけです。結局、デブは我が家が一番のインドア人間にならざるをえないわけだ。

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2016年4月28日 (木)

カラオケは微調整が必要

 私は譜読みが苦手です。全く出来ないわけじゃないし、譜面がきちんと読めるようになるための訓練を、ただ今現在、フルートのH先生の元で受けておりますが、とにかく私の譜面を読む速度ときたら、牛歩の歩みの如しで、楽譜を見ても正しい音程が頭の中に思い浮かばないのはもちろん、ちょっと複雑なリズムの曲とかになると、もうお手上げだったりします。

 まあ、今は譜面が読めなくても、YouTubeもあれば、CDとかもあるので、声楽の曲であれ、フルート曲であれ、その手の音源を聞きながら譜面をサラえば何とかはなります。しかし、音源って奴は、演奏者の解釈がすでに入り込んでいるわけで、その解釈までマネしたら、そりゃあ単なるコピーになっちゃってマズイわけです。

 また、それらの音源を伴奏に使って練習をする事も可能ですが、音源には当然、私が演奏すべきメロディが入っているわけで、いつもいつも正しいメロディに乗っかって練習していたら、自力でメロディを演奏できるようになかなかならないわけです。

 そんなわけで、私は、歌であれ、フルートであれ、音源はあくまでも参考にとどめて、実際には、自分用のカラオケを作成して音楽の練習をしています。

 ちなみに私の場合は、カワイのスコアメーカーというソフトを使ってカラオケを作成しています。なかなか便利なソフトですよ。

 この手のソフトの世界標準ソフト言えば、かの有名な“フィナーレ”ですね。なぜ、私がフィナーレを使っていないのかと言うと…私が使い始めた頃のフィナーレって、楽譜清書ソフトであって、カラオケ作成機能が貧弱で、とてもカラオケ作成の用途に使えなかったからです。今のフィナーレは、カラオケ作成の機能も強化されて、それなりに使えるそうですが、私はすっかりカワイのスコアメーカーに慣れてしまったため、いまさら引っ越しする必要も感じていないので、ずっとこれを使ってます。今でも、紙の楽譜からカラオケを作るなら、このソフトがベストなんじゃないかなって思ってます。

 さて、自分用のカラオケを作成して…と書きましたが、譜面をデジタル化する作業は、いつも妻に頼んでいます(感謝しています)。で、妻がデジタル化してくれた譜面データは、ただのスッピンデーターですから、これを実際に自分自身で微調整していくわけです。と言うのも、ただのスッピンデーターのままでは、譜面をデジタル化しただけに過ぎず、そのままではカラオケとして、全然使えないんです。

 まず…と言うか、一番キモになるのは、テンポ設定です。一応、楽譜には作曲家が指定したテンポが書かれていますが、このテンポ設定が、実際の演奏のテンポとは違っていたりする事はままあります。

 おそらく、作曲家としては、そのテンポで演奏してもらいたいのでしょうが、歴代の演奏家たちが、その曲の魅力を最大限に引き出して演奏してきた歴史があって、その歴史的なテンポを私も採用したいと思っているので、楽譜に書いたとおりのテンポでは、明らかに速すぎたり遅すぎたりする曲がたくさんあります。ですから、まずは基本テンポの設定から見直します

 次に、とりわけクラシック曲の場合は顕著ですが、演奏中に曲のテンポが変わるという事は、常にあります。よく見られるのがリタルダンドですが、これもどのタイミングでどのくらいずつ遅くしていくべきなのか…単純にデジタルデータに“rit”と書いて、パソコン任せにするのではなく、自分で細かくテンポ設定した方が使えます。

 それに、通常のクラシック曲の場合、楽譜には記載されていないけれど、慣習的にテンポを変更する箇所も多々あるし、音符の長さだって、いつも均等とは限らないわけです。そういう、演奏の揺れのような部分も、微調整してあげないと、うまくカラオケになってくれません。

 …って言うか、テンポを細かく微調整したデータは、本当に練習がしやすくなります。昔「コンピューターが演奏した音楽なんて、音楽じゃない」とか言ってた人がたくさんいましたが、それはその通りだと私も思います。微調整をしていない、機械的な、きちんとした正しい一定間隔のテンポで演奏された音楽は、楽譜を音にしただけであって、いわゆる“音楽”ではないかもしれません。音楽って、人間が演奏をする事が前提になって作曲されているわけだから、演奏には人間的な要素…今流行の言葉で言えば、“ゆらぎ”と“か“タメ”とか“ノリ”とかが必要なんだと思います。ですから、それらを細かくデジタルデータに付加してやらないと、音楽にはならないのだと思います。

 あと、フルートの練習では問題にはなりませんが、歌の練習で使う時は、歌のパートは特定の楽器に置き換えてカラオケを作成しています。

 私の場合、テノールはクラリネット、ソプラノはフルートです。バスとかバリトンはチェロとかダブルベースで、メゾやアルトはオルガンの音色を使う事が多いです。別にこれには意味は特になくて、単なる私の趣味ですが、自分の中では、割りと統一されています。

 本来、歌のカラオケを作る場合、歌のパートは初音ミクなどのボーカロイドを使って、実際に歌わせてみるのが良いかもしれませんが、私はそこまで凝っている時間がないし、私がコンピューターミュージックで遊んでいた頃は、まだボーカロイドが実用化される前だったので、今でも昔風に、歌は楽器に置き換えて使用しているわけです。

 そして練習でも、まだまだメロディが頭に入っていない段階では、メロディを再生しながら練習をし、だいたいメロディが頭に入ったら、メロディの部分を消音して、マイナスワン音源として使ってます。

 データを使ってカラオケ練習をすると、自分ができない部分だけを何度も気兼ねなく繰り返して練習できるのがいいですね。他人に伴奏を頼んで練習すると、時間の制限もあるし、あまり繰り返してしまうと、なんか遠慮してしまうからね。その点、カラオケなら気を使う必要もないです。

 あと、伴奏無しで、常に独奏とか独唱とかで練習していると、演奏中のテンポ感覚や和声感覚が掴めないので、あまりよろしくないと思います。

 今、練習しているボエームなどの場合は、他の歌手のパートもデータに入っているので、アンサンブルの練習も一人で出来るのが良いですね。

 自分用のカラオケを使い慣れてくると、楽譜に付いてくる出来合いの模範演奏とかカラオケとかが使いづらくなってきます。まあ、これは所詮、汎用品と専用品の違いって奴でしょうね。自分で微調整したカラオケに勝る練習用音源なんて、この世にはないのです。
 とにかく、カラオケを使って練習するなら、微調整が必要って話です。

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2016年4月27日 (水)

発表会について、私が思うこと

 今回の記事は、ある意味、昨日の記事の続きかもしれません。

 オトナであれ、子どもであれ、プロ志向であれ、趣味の道楽であれ、音楽を学んでいる人にとって、発表会というのは、はずせないモノであり、特別な出来事であり、一大イベントなわけです。

 さて、発表会が開催され、そこに参加すると決めたら、大抵の場合、その日から発表会準備が始まります。準備と言っても、レッスンが発表会向けのものに変わるだけですが…(笑)。ただ、普段のレッスンと、発表会に向けたレッスンは、多くの場合、曲の仕上げのレベルが変わってきます。普段のレッスンならば、その時の課題を学ぶことができれば、細部の仕上がりまでは気にせず、次の課題に移る先生も大勢いらっしゃると思いますが、発表会に向けたレッスンとなると、曲の細部にこだわって仕上げていくわけで、普段のレッスンよりも厳しくて細かいレッスンになっていきます。

 そして、生徒の方も“発表会の曲”となると、普段よりも気合を入れて練習に励むわけです。なにしろ、人前で発表するわけです。家族や知り合いを発表会に招待するなら、その人達の前で演奏するわけですから、ヘタは打てません。気合を入れて、みっちりと練習していきます。また音楽のジャンルや先生の姿勢によっては、普段は楽譜のガン見演奏でOKであっても、発表会では暗譜を強要される事もあります。暗譜演奏となれば…自然と気合を入れざるをえないわけです。

 このように、師弟ともどもに気合を入れて練習していきますので、発表会を終えると、生徒も大きく成長していくものです。百聞は一見にしかず…ではありませんが、100回の練習よりも1度の本番、ですよ。発表会は、生徒をグンと成長させてくれる良い学習の機会なのです。

 それほどに発表会というものは、特別な学習の場なのですが、その特別感をことさらに強く感じてしまって、発表会への参加をプレッシャーとして、憂鬱に感じたり、回避したがる人もいます。つまり、発表会参加を大きなストレスと感じてしまうわけです。

 その気持ち、分からないではありません。やはり発表会は日常とは異なったハレの舞台であり、ハレの場と言うのは、たいていプレッシャーがかかり、ストレスが溜まるものですからね。ストレス耐性は人によって違うので、発表会のストレスに耐えられない人がいても全く不思議ではありませんが…音楽を学んでいるならば、やはりそこは頑張って発表会に参加した方が良いと…私は個人的に思います。

 まあ、どうしても人前に出るのが嫌なら、音楽ではなく、絵画とか写真とかの作品展示系の趣味をするのが良いかもしれません。

 生徒が発表会を回避するのは、プレッシャーやストレスが原因ですが、中には先生が発表会を回避してやらないというケースもあるようです。事情は色々あるんだと思います。お教室そのものが小規模であり、とても発表会という形に持っていけない場合もあるでしょうし、副業として本業のの片手間で教えていて、とても発表会の準備まで手が回らないという事もあるでしょうし、単純に面倒くさいのでやらない…と言うケースもあるでしょう。それに世の中には「ここの教室は、発表会をやらないから入会しました」という生徒さんもいるわけで、それはそれで(割れ鍋に綴じ蓋的ですが)存在意義はあったりはします。

 それでもまあ、オトナ相手なら、発表会が無かったり、隔年実施であったとしても良いと思いますが、子どもが中心の教室ならば、子どもは成長が早いので、せめて年一回の発表会を行ってくれると、親的にはうれしいですね。できれば、春と秋の二回あれば、なおいいですね。

 ちなみに、以前習っていたキング先生の教室の発表会は、私がいた頃は隔年実施でした。寂しかったですよ。全員参加が義務付けられていたにも関わらず、生徒だけでは埋まらず、ゲスト出演もあったし、先生のミニコンサートもありましたからね。もっとも、最近では、さすがに生徒さんも増えて、発表会が毎年開催に変わり、おまけに勉強会も毎年開催するようになり、だいぶ様変わりしたと聞きます。フルートの笛先生に至っては、私が「発表会やらないのですか?」と質問するまで、発表会をやるつもりがなかったみたいだし…。まあ、色々です。

 今の先生方は、声楽が発表会を年1回、勉強会を年1回。フルートは夏合宿の時に行う演奏会が発表会の代わりという形式でやっていますので、声楽の方は参加できるのですが、フルートは夏合宿への参加自体がなかなか難しいので、自然と発表会とは縁遠くなってしまいました(でも今年はなんとか参加したい)。

 私自身は人前に出ることが好きだし、目立つことも嫌いじゃないし、発表会は良い学習のチャンスだと思ってますので、積極的に参加したい人なんですが…世の中の人がみんな、こう考えているわけでもない事も知ってます。

 合唱団とか吹奏楽団とかは、定期演奏会って奴が発表会の代わりになっていると思います。定期演奏会ってのは、アマチュア団体の場合、だいたい年3~4回やるのが通例ですが、年4回の定期演奏会ってのは、忙しいですね。前の演奏会が終わったら、すぐに次の演奏会の準備に取り掛からないと行けない感じで、いつもいつも曲の練習ばかりで、とても基礎練習とかやっている暇なんてないですね。まあ、必要な基礎練習は、曲練習の中でやる…という方針なんでしょうね、それはそれで(参加者的には楽しくて)良いですね。

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2016年4月26日 (火)

音楽は気が強くないとできない?

 私は時々、そう思うのです。もちろん、この場合は『音楽を演奏する』事を念頭においています。

 だってね、音楽の人前での演奏なんて、少なくとも、内気であったり、引っ込み思案であったり、シャイな人だったりすると、極めて困難を感じるでしょうからね。

 人前で演奏すると言うのは表現活動の一つであり、表現するという事は、ある意味、自分を他人にガンガン押し付けていく作業であり、その時に、遠慮があったり、日和ったりしたら、良い演奏にはならないわけです。

 そう考えると、演奏家ってのは、極めてエゴイストなわけで、よく都市伝説で「音楽家には変人が多い」と言いますが、これだけエゴが強烈な人たちであるならば、そりゃあ変人もかなりの確率で存在すると思います。都市伝説も、まんざらのデタラメではないわけです。

 まあ、エゴイストという言葉の響きが強いと感じるなら「メンタルがタフな人」と言い換えてもいいと思いますが…どちらにせよ、目立ちたがり屋…と言うか、スポットライトを浴びる事に快感を感じるタイプの人間でないと、演奏家は勤まらないかもしれません。

 しかし、音楽好きな人って、特に我々のような趣味で音楽を演奏する人の中には、かなりの確率で、内気な人たちがいると思います。…って言うか、活発なタイプの人は、音楽を趣味にせずに、スポーツだったり、アウトドアだったりを趣味にするわけで、元々音楽愛好家と言うのは、インドア派で物静かなタイプの人が多いわけです。私だって、インドア派だし、物静かな人なんですよ(笑)。

 ですから、音楽は好きだし、演奏するのも大好き。だけれど、人前での演奏はちょっと勘弁かな…というタイプの人、それなりにいると思うんですよね。そういう人は、可能であるならば、演奏はしても、誰にも聞かれずに、ひっそりと演奏したい…って願うわけです。極端な話、先生の前で演奏することにストレスを感じていたり、あがってしまったりする人だっているわけです。

 そういう人は、発表会などにも滅多に参加しません。

 日本の古典には、しばしば、誰もいない場所で月に向かって琴や笛を演奏する…という場面が登場しますが、演奏する人が、自分のために演奏しているのなら、確かに観客は月でもいいわけですし、本来アマチュアというモノは、自分のために演奏しているのだから、こういう姿は極めて正しく、プリミティブであります。

 となると「人前での演奏はイヤだ」というのは、一般市民でしか無いアマチュアとしては、普通の感覚なのかもしれません。

 オトナのアマチュアが楽しむ音楽演奏と言うと…クラシック系に限るならば、最大派閥は“合唱”になるでしょう。その他、数的にはかなり減りますが、吹奏楽を楽しむ人もいます。アマオケとなると…もっと少ないでしょうし、オトナのピアノもおそらくは似たような状況でしょう。それ以外となると…ホント少ないです。独唱を楽しんでいる人なんて、ほぼ皆無でしょうし、オペラを歌っている人なんて探すのに骨が折れる事でしょう(笑)。

 考えてみると、合唱にしても、吹奏楽にしても、音楽の演奏団体でありながら、その参加者たちは匿名的な存在です。演奏団体にスポットが当たっても、そこに属する個人にスポットが当たることはない演奏形態です。これならば、内気であったり、引っ込み思案な人であっても、人前での演奏は可能ですね。なにしろ、一人じゃないんだから。仲間と一緒なんだから。皆に支えられて励まされながら演奏できるんだから。

 チームっていいですよね。

 日本人って、集団になると強いのですが、一人ひとりになると脆い…と言われます。これは、日本人の基本的な性格がシャイだからという事も関係していると思います。

 そういった点では、合唱にせよ吹奏楽にせよ、日本人に向いている演奏形態なんだろうと思うし、だから、日本で特異的に普及しているんだろうと思います。

 その点、私がやっている声楽とかって、ほんと、気が強くて恥を知らない人間じゃないとできないかも。だって、見知らぬ人たちの前でオオグチ開けて奇声を発して悦に入っているんだよ。奥ゆかしい人には、想像もつかない事だよね(笑)。フルート独奏だって、自己顕示欲が強いと言った点に於いては、似たような感じだしね。

 まあ、私の場合は、気が強い…と言うよりも(実際、私は気が弱いですよ、チキンです)、恥知らずと言うか、厚顔無恥であったりするわけなんだけれどね。

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2016年4月25日 (月)

声楽と外国語

 声楽を趣味とする場合、どうしても外国語との縁はなかなか切りづらいものです。

 なにしろ、初歩の段階で歌うのが、イタリア古典歌曲であるわけで、外国語が苦手な人には、いきなりの高いハードルです。もちろん「私は外国語の歌は歌いません。日本語の歌だけしか歌いません」という方針を立ててやっている方も少なからずいるでしょうし、そのような方針でも声楽を学ぶ楽しむ事はできるでしょうが、クラシック声楽というジャンルの特性や出自等について考えあわせてみるならば、やはり美しい歌曲や素晴らしい歌の大半は、外国語の曲であるわけです。一部の曲は翻訳されて日本語の歌詞もついてますが、やはり大半の曲には日本語詩は付いていませんし、言葉の響きなども計算して作曲家は作曲している事を考えるるなら、やはりどっぷり声楽を楽しむつもりならば、どうしたって外国語歌唱からは逃れられません。

 でもね、平均的な日本人の、オトナの道楽として考えるなら、やっぱり外国語歌唱の壁は意外と高いと思います。特に声楽の場合、外国語と言っても英語じゃないからね。

 英語ならば、中学高校で勉強するし、人によっては大学でも学んだり、実社会に出てから英語を使う仕事に就いたりしている事もあって、外国語と言っても英語ならば、そこそこ親しみがある人もいるだろうけれど、声楽で使う外国語は、イタリア語をメインとして、次にドイツ語とフランス語。その次にスペイン語やロシア語などが来るわけです。一般的な日本人にとっては、馴染みの薄い外国語たちが並んでいるのです。

 それもあって外国語歌唱の場合、必ずしも歌い手がその言葉を話せるとは限らないのです。もちろん、話せないよりは話せる方がずっと良いに決まっています。日本語の例で考えてみれば分かるけれど、たどたどしい日本語しか話せない人が日本語の歌を歌っても、その歌はたどたどしくて、聞いていて何か変な感じにしか聞こえないわけです。一部の例外を除き、やはり、その言語を話せる方が歌わないと、ちゃんとは聞こえないものです。

 ですから、声楽を学ぶプロのタマゴの方々は、ヨーロッパ方面に留学をするわけだし、一線で活躍しているプロ歌手の方々に、留学経験者が多い事は、声楽には常に言語問題があるからだと思います。外国語を学ぶなら、その国で暮らすのが一番だもの。いくら日本で熱心に学んでも、現地に行って、現地で生活してきた人にはかないません。

 それもあってプロを目指す方々は留学するのだと思うし、プロ歌手として活躍するつもりがあるなら、今の時代、留学経験は必須だとも言えると思います。

 さて、プロは留学をして外国語を身につけてくるとして…アマチュアである我々はどうでしょうか?

 そりゃあ、理想はプロ同様に留学をして外国語を身につけられたら、それに越したことはないし、それがベストだと思います。留学が無理でも短期滞在をして、どっぷりその国の言語に浸かるのも良いと思います。しかし、いくら趣味とか道楽とか言っても、なかなかそこまで出来る人って少ないよね。まあ、アマチュアの場合、そのあたりは妥協せざるを得ないわけで、留学の有無にこだわらずに、外国語をしっかり学ぶ事、学ぼうとする姿勢が、大切なんだと思います。

 私の場合は…自分なりに頑張っているつもりだけれど、なかなか時間を割いて語学を学んでいる余裕は…ないなあ。せいぜいが、NHKの語学講座を視聴するくらいだけれど、なかなか続かなくてねえ…。せめて、楽譜に訳文を書き込む際に、なるべく分からない単語を辞書でひいておくぐらいしかできません。

 それもあって、私はイタリア語以外の外国語曲となると、イギリス歌曲を選びがちなんです。英語なら、その他の外国語よりは親しみがあるから…です。ただ、イギリス歌曲の残念な点は、名曲(世間に知られている曲って程度の意味です)の絶対数が、他の言語と比べると、メッチャ少ない事です。おまけに、フルート音楽同様に、クラシック音楽が一番美味しかった時代であるロマン派の作品が極端に少ないという事ですね。イギリス歌曲を探すと、どうしてもバロック曲か現代曲になってしまうわけです。もっとも現代曲と言っても、いわゆるクラシッククロスオーヴァー的な曲で、ミュージカルとかそれに近い感じの曲になってしまうし、それに英語の歌って言うと…ポピュラーのイメージも強いしね。なかなか選曲が難しいです。

 色々、頑張れ>自分

 まあ、結論めいた事を書くならば、外国語歌唱は色々とハードルが高いのだと思います。それは歌う側の困難さはもちろん、聞く側にとってもなじみの薄い言語の歌では、正直、食指は動きません。これが声楽が一般大衆に普及せず、人気が出ない最大の理由なんだろうなあって思います。

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2016年4月24日 (日)

国歌や国旗に関して、私が思うこと

 国歌、あるいは国旗とは、国の象徴の一つであり、日本ではよく『国歌国旗』として一括りにして取り扱われる事が多いし、何かと社会問題にもなっている事柄でもあります。

 例えば、もはや毎年の風物詩となってしまった感があるけれど、学校などの卒業式の時に、日の丸が掲揚されたとかされなかったとか、「君が代」が演奏されているにも関わらず、歌わなかったり、起立しなかったりする教職員がいたとか…。それで、職務命令違反で処分されて、それを不当とした教職員が裁判を起こして、それを報道が大きく取り上げる…なんて事が毎年あるわけで「公務員のくせに何やっていんだ!」と思うと同時に、国歌とか国旗とか言うと「なんか面倒くさいなあ」という印象があります。

 まあ、そんな騒動が毎年あることは承知の上で、ごく一般的と思われる市民的な意見を述べさせてもらうと『国旗にせよ、国歌にせよ、自国のものも、他国のものも、尊重し、敬意をはらい、大切に取り扱うべきモノであり、どこの国のものであっても、決して軽蔑や侮蔑の対象としてはならない』と思っています。

 実際、たいていの国では、その国民たちは、自分たちの国歌や国旗を尊重し、自信をもって自分たちを象徴するもの、団結の証として取り扱っているわけです。これがグローバル・スタンダードって奴ですね。

 ところが、我が国日本では、日本の国歌国旗を偏執的に嫌う人々がいて、数は決して多いとは思えないのだけれど、この人たちが声高に叫び、行動をし、それをマスコミが大々的に国内外に向かって報道するという、世界的に見ると、全く理解しかねる現状があるわけです。

 国歌国旗を貶める事は、世界常識に照らし合わせてみるならば、その国とその国民を貶める事と同義です。つまり、日本の国旗国歌を偏執的に嫌う人々は、日本および日本人を偏執的に嫌っていて侮蔑していると言えます。

 なんか、妙に納得しますね。そんなに日本と日本人が嫌なら、自分の大好きな国に行けばいいのに…。

 まあ実際問題として、人々には好き嫌いがあって当然だし、日の丸が嫌いな人も「君が代」が嫌いな人もいても不思議ではないけれど、一応、法的に決められた国歌国旗なわけで、法的にも公的にも、日本国と日本人を象徴するものと定められたモノなんだから、それをおおっぴらに貶したり、侮蔑したり、馬鹿にしたりするのは、法治国家で暮らす市民としては、はなはだ奇っ怪な行動であると言えましょう。

 思想信条の自由とか信教の自由とかを持ち出して、国歌国旗に反対する人もいますが、国家の存在って、思想信条やら信教やらの自由よりも前段階に存するものじゃないかしら? 国がなければ、憲法もありえず、憲法がなければ、思想信条の自由も信教の自由もありえないわけで、日本国という枠組みの中で保障された思想信条や信教の自由を持ちだして、国家の象徴である国歌国旗を侮蔑するのって、ただの屁理屈にしか思えません。

 とりわけ日本人として日本で暮らしながら、日本国の国歌国旗を侮蔑する人々は“反日”とか“売国奴”とか言われても、仕方ない…というか、そのものずばりであると認定されても、文句言えないと思います。

 とは言え、個人的には、国歌国旗に対して好き嫌いがあるのは仕方ないと思います。

 かく言う私も、国旗である「日章旗(日の丸)」は美しいデザインだし大好きですが、国歌である「君が代」の方は、ちょっといただけないと思ってます。どこが気に入らないのかと言うと、音楽の部分が気に入りません。だって、変じゃない? 奇妙なメロディでしょ? それに美しくないし、だいたい、歌いづらい。国歌であるならば、国民が口ずさみやすくて美しいメロディーを持っているべきだと個人的には思ってますが、現国歌である「君が代」のメロディーの歌いづらさときたら、歌われることを拒否っているのではないか思われるぐらいに、独特です。

 これはさすがに無しだよねえ…。個人的には、国歌を別の曲に替えてもいいんじゃないかって思ってます。個人的には「さくらさくら」が国歌にふさわしいと思ってますが、それは私の好みだよね。

 ちなみに、よく「君が代」の歌詞を問題視する人がいますが、そういう人って「君が代」の歌詞を自分の目できちんと読んだ事がないのかな?って思います。

 よく言われるのが「君が代」の“君”は天皇陛下の事であり「君が代」は天皇崇拝の歌だから国歌にふさわしくないという意見ですね。まあ、国歌が国家元首を崇拝する歌であったとしても、そこに何の違和感もないと言うか、それが普通であるんじゃないかと、私は個人的には思ってます。だって国歌って、そういうものでしょ? だって日本は、議会制民主主義を取り入れた帝国である事には間違いないのだから、国歌が国家元首である帝、つまり天皇陛下を崇拝した歌詞であっても、そりゃあ当然じゃん。

 まあ、それはそれとして置いておいても、やはり「君が代」の歌詞って、それほど問題にされるものなのかな?って思ってます。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで

 これが「君が代」の歌詞であり“君”を、よくマスコミあたりが言うように、天皇陛下を指すと読み取ることも全く不可能というわけではないけれど、それはあまりに近世~近代的な解釈であって、この歌詞を一般的な平安朝時代の古文として素直に解釈するならば、この歌詞は恋人へ贈られたラブソングであると考えるべきなんじゃないの? “君”と言うは「私の愛する人/恋人/夫/妻」であり、“代”は「人生/いのち/寿命」という意味と読み込むものじゃないの? だったら、この歌詞の意味はすごく単純で、自分の大切な愛する人に向かって「いつまでも元気で健康で長生きしてください」と歌っているだけの話じゃない。ウチの妻が言いそうな事だよ。

 ちなみにこの歌の元歌は、古今和歌集にあって、そこでの初句は「君が代は」ではなく「我が君は」だったそうです。古今和歌集の時代にあって「我が君」と言えば、女性が自分の夫に対して呼びかける言葉だったわけで、そう考えると、やっぱりこの歌詞はラブソングだと解釈するべきでしょうね。

 私は、こんなふぬけたラブソングを国歌としている日本という国が、実に微笑ましく思うわけです。あまりに微笑ましすぎるので、何事にも勇ましかった明治時代あたりに「“君”というのは天皇陛下を指しているのですよ」という解釈が後付けで出できたのではないかと思うほどです。なにしろ、日本以外の国の国歌は、血なまぐさくて勇ましいモノばかりですからね。なのに我が国の国歌がこんなに微笑ましい歌では、カッコがつかなかったんじゃないかしらね。で、日本人お得意の「本文は変えずに解釈を変える」で乗り越えてきたんじゃないかしら。

 まあ“君”が天皇陛下であれ、自分が愛する人の事であれ、そんな事は、どっちでも良いのではないかと私は思うわけです。ですから「君が代」の歌詞には何も引っかからない私です。でも、音楽はかなり気に入らないのです。もっと美しいメロディーの曲にして欲しいのですよ。だから「さくらさくら」なんですよ。あれも、相当に微笑ましくて、国歌にふさわしいと思うのです。

 他には「ふるさと」もいいし「初恋」とかでも良いと思います。いっそ、昨今のアニソンにだって良い曲はあるから、そんなモンでもいいかもね。昔のドラゴンボールZの主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA」とか元気があっていいし、、セーラームーンRのエンディングソングの「乙女のポリシー」なんて前向きな歌だよね。アニソンを国歌にしても、案外いいんじゃないの?(笑)

おまけ ちなみに近隣諸国の国歌の日本語訳です。

中国の国歌

起て!奴隷となることを望まぬ人びとよ!
我らが血肉で築こう新たな長城を!
中華民族に最大の危機せまる、
一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ。
起て!起て!起て!
我々すべてが心を一つにして、
敵の砲火をついて進め!
敵の砲火をついて進め!
進め!進め!進め!

韓国の国歌

東海が乾き果て、白頭山が磨り減る時まで
神のお護りくださる我が国よ、万年永久に
無窮花が国中全土に咲く、華麗な山河、
韓国人よ、韓国を永遠に守ろう

アメリカの国歌

おお、見えるだろうか、
夜明けの薄明かりの中
我々は誇り高く声高に叫ぶ
危難の中、城壁の上に
雄々しくひるがえる
太き縞に輝く星々を我々は目にした
砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中
我等の旗は夜通し翻っていた
ああ、星条旗はまだたなびいているか?
自由の地 勇者の故郷の上に

ロシアの国歌

鍛えられし わがつわもの
攻めくる敵 討ち破り
断乎と守る 尊き国わが祖国に栄あれ
栄光の民よ 自由の祖国
結ばれしその誉れ 旗のかげで
導けよ勝利の為 進めよや

 ほら、やっぱり日本の国歌は、微笑ましい(笑)。

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2016年4月23日 (土)

まぶたが無いのはつらい…みたいです

 ここ数日、水草がメキメキと減っています。もちろん、金魚たちが空腹に任せて水草を食べ散らかしているからです。そりゃあもう、肉食のシズカさんですら、たまに水草を食べているほどに、金魚たちみんな、水草に夢中です。

 まあ、それは水草よりも美味しいタニシを食べ尽くしてしまったからだと思います。それでタニシの次に美味しい水草を食べているわけです。きっと水草を食べ尽くしてしまうと、次は、エビやイシマキガイを食べ始めるんだと思います。かわいい姿をしてますが、金魚って、欠食で獰猛なんです。

 さて、あれほど水槽に繁茂していた水草が、見るも無残に食べ尽くされ、もはやほとんど残っていません。パッと見、水槽の様子もかなり寂しくなりました。

 で、そんなある日、ふと気づいたのです。昼間のうちは、水槽を広々と使って生活している金魚たちが、夜も遅くなると、水槽の片隅に集まるというか固まるのです。金魚が元々集団生活を好む生き物なら分かるのですが、金魚って、決して群れを作る生き物ではなし、ついこの前まで、結構バラバラで、互いの距離を適度に保ちながら水槽の中で暮らしいてたのに、今や肌を寄せ合うように固まっている事があるのです。

 「身を寄せ合うほど水温が低いのか!」とも思いましたが、連中は変温動物なので、身を寄せ合ったからと言って暖かくなるはずもなく、それはありません。それ以外に何か理由はないのか…色々と考えてみました。ちなみに、金魚が集まる場所は、毎日違います。うーむ、一体何をやっているのだろう。

 で、ふと気づいたのです。金魚たちが集まる場所は、いつも水草の真下なのです。つまり、金魚たちは夜になると、水草の真下に集まって、じっとしている事に気づいたのです。つまり、金魚たちは水草の真下で寝ていたわけなのです。

 水草がたくさん繁茂していた頃は、どこにもかしこにも水草があったので問題なかったのだと思いますが、今や水草は食べ散らかされてしまい、水草の真下なんて、あんまり無いんですよ。で、数少ない水草の真下にみんな集まってきたので、結果として身を寄せ合う形になったわけです。

 ではなぜ、水草の真下に集まったのか? それは単純な話で「まぶしいから」です。

 金魚にはまぶたがありません。つまり、いつも目を開けっ放しなんです。まぶたが無くて目を閉じる事ができないので、いつでも光が目に入るわけです。そんな彼らでも寝る時は、暗い方が良いみたいです。少なくとも、まぶしい光の中ではなかなか寝付けないようなのです。なので、夜になって就寝時間になると、電灯からの直射光線を避けるために、水草の真下の影の部分に集まるわけです。

 ですから人間が気がついて、水槽の電灯を消してやると、水草の真下に集まっていた金魚たちが、ゆっくりと解散していき、それぞれ適度な距離を保ち始めます。やっぱり水槽の電灯がまぶしかったようです。

 まあ、自分たちが水草を食べ散らかしたために日陰が無くなっただけの話なので、ある意味、自業自得なのですが、そんな事も何も考えずに生活しているのが、金魚たちなわけで、そういうところが可愛いわけです。

 それにしても、水草かタニシを水槽に入れてやらないといけないのだけれど、近くに金魚屋があるわけでもないので…さあ、どうしましょう。インターネットで水草は買えるけれど、品質に問題があるし、なによりもバカ高いんだよね。ああ、困った。

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2016年4月22日 (金)

今年は夏合宿に行こうかな?

 フルートのレッスンに行ってきました。もちろん、練習不足のままレッスンに行くのは、今やデフォルトだったりします(先生、ごめんなさい)。

 とにかく練習不足&寝不足のダブル不足でのレッスンでした。

 私がお教室に入った時は、まだ姉様がレッスンをしていました。姉様は今回からバッハに取り組むそうで、先生から「バッハは指が簡単だから、その分、表現に神経を使わないといけないよ」と言われていました。

 実は先生、今年のGWの前半は仕事が入っていますが、後半は仕事が入っていないので、山籠りをしてバッハを吹き込んでくるんだそうです。なんでも、バッハを吹く時は、必ず楽譜(先生はベーレンライター版を使っているそうです)をコピーしてから吹くんだそうです。なんでも、バッハの楽譜には、一切のアーティキュレーションが書いていないので、演奏の度ごとに先生がご自身でアーティキュレーションを考えて、それを楽譜に書き込んで練習するのだそうです。楽譜に直接アーティキューレションを書き込んでしまうと、次に演奏する機会があった時に、前に考えたアーティキュレーションにひっぱられてしまうので、それを嫌っているわけです。バッハを演奏する時は、いつでも新鮮な気持ちで吹きたいので、必ず、まっさらな楽譜をコピーするところから始めて、練習を開始するのだそうです。

 さて、私のレッスンですが、ロングトーンは3人で吹きましたが、まあ、良しです。先生は姉様に「時間がなかったら、指の練習はしなくてもいいけれど、この練習(ロングトーン練習を指します)は毎回欠かさずにやりなさいよ」と言ってましたが、姉様は「この練習の方が、曲の練習よりも時間がかかるんですよね…」とぼやいていました。

 さて、私のエルステユーブンゲンの16番ですが、たぶん、前回の方が吹けたと思います。先週は練習不足とは言え、レッスン前に3時間ほどフルートを吹いてからレッスンに行ったので、そこそこ吹けたと思いますが、今回は前回のレッスンの後、フルートケースを一度も開けないままレッスンに臨んだので、そりゃあ吹けるわけないさ(笑)。

 先生には「今回で合格すると思ったのに…次回までにはきちんと暗譜してらっしゃい」と厳命されてしまいましたが…自信がありません。当然、次の17番なんて、まだまだ先の話です。

 プチエチュードは13番です。後半の半音の羅列音階がずらずら続く箇所以外は、まあまあ吹けたと思います。この半音の羅列音階がやっかいなんですよね。ついついうっかりしてミスブローをしてしまいます。今回も惜しかったのですが、やっぱりミスっちゃいました。

 「この曲ばかりやっていても、時間がもったいなから!」という理由で、合格…と言うか、スキップされて、次回からは次の14番にチャレンジする事になりました。うれしいやら、情けないやら…です。

 さて、例年仕事の都合でパスしている、フルートの夏合宿ですが、今年はうまくいくと行けそうなんです。で、その事を先生に伝えたら喜んでくれました。

 「夏合宿って、何をやるんですか?」

 「夜は毎晩、宴会だよ」 そうなんだ、宴会なんだ(棒読み)。

 合宿の最後は、ソロとアンサンブルを一曲ずつ、披露するんだそうです。つまり、この披露が発表会代わりってわけです。ですから、合宿の申し込みをすると、その時点からレッスンは通常モードを止めて、合宿モードに突入して、合宿の時の曲の練習になるんだそうです。うむ、ならば、早めに合宿の申し込みをした方がいいね。

 ちなみに、合宿には、H先生のお弟子さんや生徒さんはもちろん、いわゆる孫弟子さんも参加されるんだそうです。そういう孫弟子さん(つまりH先生のお弟子さんを先生と仰ぐ人々)から見れば、H先生は大先生なわけで、夏合宿は、年に一回、大先生から直々にレッスンをしていただける、大切な大切な合宿なんだそうです。

 私はそんな大切なレッスンを毎週毎週、練習不足の寝不足で受けているわけで、もしかすると、すごくぜいたくな事をしているのかもしれない…なんて思ったりしました。

 とにかく、夏の予定が確定したら、さっそく合宿を申し込もうっと。

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2016年4月21日 (木)

やっぱりボエームは色々と難しい

 声楽のレッスンの続きです。

 さっそく、ボエームの第一幕の確認から始まりました。最初の最初から、先生を相手に歌っていきます。歌いながら、数カ所のイタリア語の読み方とか、歌詞とメロディの割り振りの訂正とかをしました。まあ、私、イタリア語は全く話せないわけで、そんな人がイタリア語の歌を歌っているわけですから、あっちこっち間違っているわけで、仕方ないと言えば仕方ないのですが、それで良いわけでもないので、直していくわけです。

 私のようなオトナの趣味人の歌ですから、イタリア語が訛ってしまったり片言であったりするのは仕方のない事です。であっても、細かいところまできちんとイタリア語として、ごまかさずに喋りながら歌うことは大切なんだそうです。

 客はイタリア語なんて分からないから、細かいところはいいかげんでもいいやでは困るのだそうです。誰が困るのか言うと、ピアニストさんが困るんだそうです。

 今回のように指揮者のいないアンサンブルの場合、ピアニストさんは、その時にソロを歌っている歌手の言葉を聞いて、そこにピアノを合わせていくわけです。ですから、そのソリストがでたらめなイタリア語で歌っていると、ピアニストさんは、どこを歌っているのか分からなくなってしまい、歌とピアノが合わなくなってくるので、訛っていてもいいし、片言でもいいけれど、きちんとしたイタリア語で歌わないといけないのだそうです。

 だいたい、オペラの伴奏をやるピアニストさんは、だいたいコレペティトール(オペラ歌手のコーチ)だったりするわけで、そこんところは誤魔化しが通用しないと言うか、下手に誤魔化そうとするとかえって混乱を招くわけです。実際、今回の発表会のピアニストさんは、某歌劇団のコレペティさんですし…ね。

 と言うわけで、ついつい細かいところをいい加減にしがちな私に対して、先生はあれこれ細かい修正を入れてきたわけです。

 一応、楽譜通りのリズムとテンポで歌うのが今回のルールなんだけれど、二重子音の箇所は、譜面通りと言いながらも、イタリア語特有のリズムは大切にしながら歌わないといけないので、楽譜通りでありながらもイタリア語のニュアンスを入れて歌うのだそうです。歌うのが難しければ、いっその事、喋ってしまうくらいの気持ちで歌っちゃってもいいそうです。

 私が歌うロドルフォという役は、テノール役の中でも、なかなか高音に偏ったメロディ作りがされている役(つまり比較的軽い声向きの役)なので、歌っていると、ポンポンポンポン高い音が出てきますが、その度ごとに気合を入れて歌ってはいけないのだそうです。いくら高い音であっても、メロディの中の経過音なので、サラッと通り過ぎるように歌うのが吉なのだそうです。いくら高音だから言って、張った声で歌ってはいけないのだそうです。むしろ、軽く流して歌うのです。それこそ、高音が白玉音符でない限りは、声が音程に当たっている程度で良く、どんなに高い音であっても、当てる程度ならさほど難しいはずもなく「当たった」と思ったら、その段階で、クチの奥を開けば、きちんとした声になるから、ビビる必要はないと言われました。

 また、今回は素人同士の二重唱も多く、本番では互いに出遅れたり落ちたり、色々な事故が想定されるわけだけれど、そんな時はどうしたら良いのかと質問してみました。すると答えは、実際の相手がどうであれ、自分は自分で、しっかりときちんと歌う事という返事がありました。

 なので、練習の時から、頭の中に理想の相方を想定して、その相方と常に理想の歌を歌えるようにしておく事が大切で、練習や本番で、リアルな相方と一緒に歌う場面においても、リアルな相方に合わせるのではなく、理想の相方に合わせて歌うべきなんだそうです。そうしないと、実際の舞台がしっちゃかめっちゃかになってしまうと言うのです。

 相方が出遅れたから、自分もそれに合わせて遅れて歌ったら、ピアニストさんはどこに合わせて演奏したら良いか分からなってしまうし、ピアノが迷走しはじめたら、歌手たちだってどこで歌えばよいか分からなくなるわけです。だから、相方が出遅れても、自分はきちんと(自分の)正しいタイミングで歌う事が大切で、だから、相方とカブっても、相方が落ちても気にせず歌えるようにしないといけないのだそうです。でも、そこが難しいんだよね。実際、私などは、相手の歌をキューサイン代わりに練習していたりするのですから…。

 第一幕と第四幕にある、高いB(シ♭)を歌ってみました。一幕の方は、フレーズの流れから、力まずにいければ何とかなりそうな感触を得ました。四幕の方は、それと比べると、ちょっと難しいです。感情表現的に、力が入ってしまうシーンなので、力むなと言われても、思わず力んでしまいます。ここを上手く歌うためには、その少し前にある高いAを声張らずに歌い、そこを足がかりにしてクチの中をグニャ~と開ける事で高いBに届かせるようにすると上手くいく事が分かりました。

 高いAを歌う時に、そこで力が入ってしまうと、いくらクチの中を開けても、音程は上昇しません。音程を上昇させるためには、高いAの段階で柔らかい発声が必要不可欠となってくるわけです。つまり、Bをきれいに出したければ、その前にAをキレイに出しましょうって事です。

 なんだかんだと言って、第一幕の(私が歌べき箇所の)半分ほどのチェックが終わりました。まだ、第一幕の残り半分と第四幕があります。おお、先は長いね。

 そうそう、書き上げた台本を先生に渡しました。「長いねえ…」と言われました。まあ、オペラのストーリーをダイジェストにした台本ですから、いくら短くしても限度があるわけです。これから先生方のチェックを受けて、ダメが出たら、またゴールデンウィークにでも書きなおす予定です。

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2016年4月20日 (水)

ノドはカユくて上等

 声楽のレッスンに行ってきました。

 ひとまず、ボエームは歌う事として、ソロ曲は何にしましょうかという話になりました。私は、今回はボエームに集中したいので、今から新曲に取り組むのは避けたいという旨を先生に伝えました。

 そうなると、選択肢はたったの2曲になります。モーツァルト作曲の歌劇「ドン・ジョヴァンニ」のテノールアリアの「Dalla sua pace la mia dipende/彼女こそ私の宝」と、今現在取り組んでいる、ヴェルディ作曲の歌劇「リゴレット」の「Quests o quella/あれかこれか」です。モーツァルトだと難しいし、時間もちょっと長め(約4分)だし、ヴェルディは時間的に短くて(約1分半)、カデンツァが厄介なんだよね。このどちらかから選ぶ事になると…どっちもあまり選びたくないのが本音でして…さあ、どうしましょうか。

 レッスンはいつものようにハミングがら始まります。今回は絶対に響きを落とさない事を中心にレッスンしました。

 それはハミングだけでなく、声で発声しても同じ事です。とりわけ、今回は、ハミングで得た響きを、声にした時のベストなバランスを探す練習をしました。ハミングから徐々にクチを開いていき、鼻とクチの響きのバランスの良い所を探して行ったわけです。最初は鼻中心の響きで、クチを開いていくほど、クチの響きが増えてくるのだけれど、クチを開き過ぎると、声がノドに落ちるわけです。声をノドに落としては、元も子もないので、そこに注意しながら、鼻とクチの響きのバランスを探していきます。これが自分ではなかなか分からないので、困りました。

 また、出発点がハミングなので、ノドは比較的ラクにしているわけですが、そのままの状態で声にしていくと、ノドがムズカユくてたまりません。でも、そこでノドのムズカユさを回避してはいけないのだそうです。

 実は声帯がカユくなるところで歌うのがベストなんだそうです。最初は不快な感覚だけれど、これに慣れ、むしろカユくないと変だなと思うくらいになるのが良いのだそうです。

 と言うのも、声帯がカユいと言うのは、声帯がよく振動しているからカユいのだそうです。声帯が適度に脱力して、楽に鳴っている(=楽に声が出ている)からカユいのだそうです。ですから『響きは鼻に、ノドはカユい」というのが良いのです。響きは鼻とノドで半々ぐらいにし、絶対に声をノドに落とさない事。クチを開くのは大切だけれど、くれぐれも下には開きすぎずに、クチを上に開くことを肝要とするわけです。

 つまり『美声で歌い続けろ』って事です。

 なお、ノドがカユいのは良いことだけれど、ノドが痛いのはダメなんだそうです。

 ノドが脱力してい最大限に振動していると、ノドはカユくなるわけですが、ノドに力が入って閉じてしまい、そこにむりやり息を通して歌っていると、ノドが痛くなるんだそうです。感覚としてのカユみと痛みは延長線上にありますが、その原因となる事柄は全く違うので、カユいのは奨励されますが、痛いのはダメゼッタイなんだそうです。

 響きと関連して、声のポジションの練習もしました。声のポジションというモノが、フレーズの上がり下がりに同調して移動するのは、ポピュラースタイルの歌い方であって、クラシカルな歌い方ではないそうです。クラシカルな歌い方では、声のポジションは移動せずに、音程の上下で変わるのは、声にかかるテンションなんだそうです。つまりメロディーが低音から高音に移動した時に、声のポジションが上に移動するのではなく、声を上下に引っ張るテンションが増す事で高い音程に移動するのだそうです。

 難しいね。

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2016年4月19日 (火)

生まれて初めて、韓国歌曲というものを聞いてみた

 先日、昭和音楽大学で行われた“日本と韓国の大学による声楽交流コンサート Bravissimi!! I Giovani Cantanti ~素晴らしい若き歌手~”と言うのも聞いてきました。

 楽しみだったのは、生まれて初めて聞く、韓国歌曲というモノです。

 このコンサートは、日本の昭和音楽大学と、韓国のソウル市立大学校の交流事業の一つとして行われたコンサートで、今年1月にソウルで行われたコンサートを、今月日本でも行ってみたというモノらしいのです。

 昭和音大の学生さんが5名、ソウル市大の音楽専攻の学生さんが5名ずつ出演して、第一部では、それぞれが自分の国の歌曲を歌い、第二部ではオペラアリアや二重唱を歌い、最後は教授が出てきて、相手国の歌曲を歌い、アンコールではソウルの学生たちが2曲歌ってお終い…という構成になっていました。

 楽しみにしていた韓国歌曲ですが…考えれば当然の話ですが、韓国と言うのは、つい最近出来たばかりの国であって、日本のような歴史がある国ではありません。当然、最近作られたモノがほぼ大半だったらしく、韓国歌曲と言っても、別段、韓国っぽい音楽ではありませんでした。メロディだけなら、最近の日本歌曲にも似ていて、なんか想像していたようなものとは違っていたので、勝手に期待して、勝手にガッカリしました(笑)。

 まあ、グローバル化された現代社会だものね。最近の作曲家さんたちなら、それほどローカル色の強い作曲なんてするはずないものね。韓国歌曲と言っても、単に歌詞が韓国語であるだけの、最近の歌曲って感じでした。

 いい勉強になりました。

 韓国歌曲にガッカリしたのは、私の責任ですから、仕方ないにせよ、韓国の学生の歌には大いにガッカリしました。

 うーむ、韓国の学生さんたちは、みんな美女とイケメンなんですよ。日本なら、音大生ではなく、モデルや芸能人をやっていても不思議ないレベルの方々ばかりなのですが、肝心の歌が…ちょっとねえ…。国際親善が目的であって、音楽演奏は目的ではないのかもしれないけれど、観客は歌を聞きに来たわけであって、目の保養に来たわけではないので、ちょっと残念でしたね。正直、入場料を取った上で人前で歌うのはどうなの?ってレベルの方もいらっしゃいましたしね…(ってか、心臓強いねえ)。

 まあ、韓国の音楽レベルって、どれだけのものかは知りませんが、ここが精一杯なのだ…とは、とても思えないわけで、もしかすると歌手たちを選ぶ際に、歌唱能力よりも見栄えの良さで選んできた可能性もあるなあ…と邪推してしまいました。それほど、韓国の学生たちの見栄えは美しく、歌唱は大したことなかったのです。

 逆に、日本の方は、明らかに歌唱能力で選んできたわけで、明日にでもプロの舞台に立てるんじゃないの?というレベルの方が揃っていた。その代わり、容姿とか美貌とか体型とかは……まあ、韓国の勝ちでした(仕方ないか)。

 あちらの引率(?)教授である、イ・インハク氏が日本歌曲の「宵待草」を歌われましたが、これが実に絶品でした。この日、一番の名唱でした。日本人でも、ここまで叙情的に歌う歌手は少ないので、驚きました。日本の教授は、井ノ上了吏氏でした。歌われた韓国歌曲とは相性が悪かったのかな? いつもの井上氏の感じとは違ってました。

 アンコールは学生たち総出で、2曲歌われましたが、2曲とも韓国サイドが中心で、ソロも韓国の人たちで回していました。あれなら、日本の学生さんは不要だよね。だいたい、舞台の中央には韓国の学生さんたちが立って、日本の学生さんは脇に押しやられていたので、見ていて、とてもとてもガッカリしました。1曲ずつメインを変えるなり、一緒にやるなりすれば良かったのになあ…と思いました。

 目立ちたがり屋の韓国人と控えめな日本人の、国民性の違いなのかな?

 この声楽交流コンサート、日本側にはどれだけ得るものがあったのかな? なんて事を、ついつい考えちゃいました。

蛇足 会場となった昭和音大のテアトロ・ジーリオ・ショウワという音楽ホールは、とても素晴らしいホールでした。うむ、駅からも便利がいいし、とっても素敵なホールだと思いました。こんなホールを持っている昭和音大って、なかなかGOODな学校だね。

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2016年4月18日 (月)

ショパンを弾けるようになるのは無理でも…

 おそらく、ヴェルディやプッチーニなどのオペラ・アリアは歌えるようにはなれると思います。

 何の話かと言うと、オトナの趣味人(ズブの素人がオトナになってから、ふと思い立って、真面目に趣味に取り組みだす事。昔で言う“道楽者”の事)で、音楽を始めた人の多くは、ピアノを始めるというパターンが多いのですが、そのピアノを始める最初の動機付けと言うか、モチベーションの一つに「ショパンが弾けるようになりたい」、もっと具体的に「ショパンの幻想即興曲が弾けるようになりたい」「ショパンの英雄ポロネーズが弾けるようになりたい」「ショパンの革命エチュードが弾けるようになりたい」という熱にうかされてピアノを始める方が多いそうです。

 そういう人って「ショパン、かっこいいよね。素敵だよね。いつの日かショパンを自分で弾いてみたい…だから、今からピアノを始めるのだ!」という流れなんだろうと思います。

 まあ「盲蛇に怖じず」と申しますか、素人と言うのは、プロがいかにも簡単にこなしているような事が、実はどれほど難しくて、どれほどの年月をかけてそこに到着したのかという事に、あまりに無頓着であるわけで、ショパンの難曲たちを人前で弾けるようになるまでに、何万時間の練習が必要なのかは…想像だにしないわけです。

 結論から言っちゃえば、子どもの頃に一度ピアノを習っていて、音大のピアノ科に行こうかしらどうしようかしら…と悩んでいた人がピアノを再開するのならともかく、楽譜の読み方も知らないような、ズブの素人が成人後に始めたピアノならば、ショパンなんて、ほぼ無理です。道楽者は、ショパンを弾けるようにはなれません。だいたい、ショパンとかピアノとか、なめすぎです。ショパンの難曲は本当に難曲だし、仮に簡単な曲であったとしても、ピアノという楽器そのものが演奏の難易度がむやみに高い楽器ですからね。

 オトナの趣味人がピアノを始めるというのは、かなりの茨の道なわけです。でも、それはそれで達成感のある楽しい趣味だとは思いますが、ゴールをショパンにするのは、ピアノが見果てぬ夢で終わることになってしまいます。ゴール設定は、もう少し現実味のあるものにしておいた方が、精神衛生上よろしいかと思います。

 でもまあ、ショパンにせよ、ピアノにせよ、それほど難しいモノだとは知らないので、ズブの素人は平気で「ショパンが弾けるようになりたい」って言っちゃうわけだ。

 話を私のフィールドに持ってきます。

 フルートの場合、「○○が吹けるようになりたい!」という動機でフルートを始める人って、まず、いるのかな? フルートの場合は「あのピカピカな楽器に憧れて…」とか「あの優しい音色に惹かれて…」とか「フルートを吹いている素敵な自分を夢見て…」とか、そういう動機でフルートを始める人の話は聞きますが、フルートで「○○が吹けるようになりたいです」という話は、私、トンと聞きません。まあ、フルートの場合、ズブの素人でも知っていて憧れるようなフルートの名曲が、まず、数少ないというか、存在しないという問題がありますが…。

 声楽の場合は、ピアノやフルートと比べると、趣味として、かなりマイナーで、嗜んでいる人もググっと減りますが、それでも「○○という歌が歌えるようになりたい!」という動機で歌を始めたという方の話をたくさん聞きました。まあ、歌の世界には名曲がゴチャマンと存在してますからね。

 「“椿姫”を歌ってみたい」「“カルメン”を歌ってみたい」「“夜の女王のアリア”を歌ってみたい」「“トゥーランドット”を歌ってみたい」「あのCMで流れていたバッハの曲を歌ってみたい」「“千の風になりたい”を歌ってみたい」 ああ、枚挙に暇がありません…。

 とにかく、皆さん、憧れの歌があって、その憧れの歌を歌えるようになりたくて歌を始めたという方は、たくさんいらっしゃるわけです。

 で、そんな方々が、その憧れの歌を歌えるようになったのかと言えば…なった人もいれば、なれなかった人もいると思いますが、全滅ではないと思うし、どちらかと言えば、歌えるようになった人の方、歌えなかった人よりも多いのではないかと、私は思うわけです。

 もちろん、プロのように、衣装をつけて、オーケストラと合唱団をバックに従えて歌えます…なんて事はありません。でも、たとえ伴奏はオーケストラでなくピアノで、衣装も自前のモノだったとしても、プロと同じ譜面を使って、同じように歌えるようには、たぶん、なれます。

 と言えるのも、声楽がピアノよりも簡単だという事実もありますが、それ以上に、声楽の場合は努力も必要だけれど、まずは才能の有無の影響が大きいわけで、才能の有無に関して言えば、ある/無しなので、ほんと話が簡単なんですね。つまり歌の場合、向き不向きがあるわけで、その歌に向いていない人だと歌うのは難しいけれど、向いている人が歌うのなら、簡単に歌えちゃうという現実があるわけですよ。

 そこは、才能も大切だけれど、なによりも努力が絶対条件となるピアノとは違うわけです。声楽は、努力不足を、才能やら適性やらで補える稀有な楽器なんですね。

 じゃあ、声楽における才能って、どれだけ天才性が必要なのか…と思ってしまうでしょうが、私が考える才能って、そこまで極端なモノではありません。

 例えば、声種も才能の一つだと私は思ってます。

 声楽には声種と言うのがあります。つまり、人の声にも色々あるって話です。

 この世に存在する歌は、たとえどんな難曲であっても、作曲者は、ある声種を念頭において作曲しているのであり、その声種の特性に合わせて書いているのであって、たとえ難曲であっても、声が歌に合っていれば、歌えないことはないのです。だから、憧れの曲が求めている声と自分の声が合致していれば、オトナの趣味人であっても、必ず歌えるようになれるのです。

 つまり、声楽の場合は、自分の声と同じ声種の歌を選択する限りは、全くの不可能なんて事はありえない…となります。逆に、自分の声種とは、異なる声種の歌を選択した場合、歌えるようになるまでには相当の練習が必要だし、多くの場合、歌えるようになるのはほぼ無理とも言えます。

 具体的に考えてみましょう。例えば…一般人でも知ってるオペラの曲と言えば、アイススケートでもお馴染みになった、プッチーニの『トゥーランドット』という名で呼ばれる『Nessun dorma/誰も寝てはならぬ』という曲があります。これから歌を始める人が「この歌を歌えるようになれますか?」と尋ねられたとしたら、どう答えるべきでしょうか?

 この歌は、男性の高音歌手(テノール)のために書かれた曲です。ですから、尋ねた人が女性ならば…普通の場合、1オクターブ音程を上げて歌うことになります。そうなると曲の雰囲気もかなり変わってしまいますが、それを受け入れられるかどうかが最初のハードルとなりますが、そこがOKなら、おそらくソプラノさんなら楽勝で歌えるようになると思いますし、それができるようになるまでには、そんなに時間がかからないと思います。

 日本の女性のほとんどがソプラノですから、女性なら「トゥーランドット」を歌えるようになれると言えます。ちなみに、メゾソプラノの人なら「頑張れば必ず歌えます」でしょうが、アルトの人だと「ちょっと無理」って事になります。

 「1オクターブ上げて歌うと、曲の雰囲気が壊れてしまうのでイヤだ。オリジナルの音高で歌いたい…」となると、元々男性向きの曲ですから、女声には無理って事になります。ただし、アルトよりも低い声の人(女声テノール)ならば「バッチリです」と言えるのですが…。

 では男性の場合はどうでしょうか? この歌は、元々がテノール用に作曲されたものですから、テノールにとっては、その声に合わせた素晴らしい名曲ですが、同時に難曲でもあります。ですから、きちんと手順を踏んで歌を学んでいけば、きっと歌えるようになります。

 でも、テノールの難曲ですから、バリトンやバスの人たちのような声の低い人たちは、そのままでは当然歌えません。移調してキーを低くすれば可能かもしれませんが、それでも旋律のカタチが低音歌手向きではないので、難しいかもしれません。

 別の例も出してみます。

 例えばモーツァルトの『夜の女王のアリア』という難曲があります。この歌は、プロでも歌うのが難しい歌ですが、これはこの曲を歌える声を持った人が少ないためであって、多くの場合、不向きな声の持ち主であっても、この歌にチャレンジする必要があって歌うから難しいのであって、最初っから、この歌に合う声を持っている人ならば、きちんと勉強していけば、オトナから始めても歌えるようになります。

 プロの場合、多少自分の声に合っていなくても、仕事ですから、歌わないといけないわけだし、自分の声に合わない歌でも歌えるように、日々テクニックを磨いているわけですが、我々オトナの趣味人の場合、プロのようなテクニックは持っていないし、プロの方々のように練習をたくさんする余裕もありませんので、必然的に歌える歌には限りがあります。

 いくら限りはあっても、自分の声の特性に合わせた歌を選択していく限り、声楽はオトナから始めても、プロの方々と同じ歌を歌えるようになれる…と言えるでしょう。そこがピアノとは決定的に違う点です。

 ちなみに、私の場合ですが、元々はレオンカヴァッロの歌劇『道化師』の中のテノールアリアである『Vesti la giubba/衣装をつけろ』という、名曲中の名曲を歌いたくて声楽を始めました。

 しかし、実はまだ『Vesti la giubba/衣装をつけろ』にチャレンジしていません。諦めたわけではなく、まだ自分には早過ぎると思っているからです。いつかは歌いたいし、おそらく歌えるようになるだろうけれど、それは今ではなく、もう少し未来の話である…と思っているからです。と言うのも、すでにこの曲を歌うには音域的にはOKな状態になっていると思うけれど、私の声に対して、曲の求める声が少しばかり重いので、二の足を踏んでいるわけです。

 私は以前、自分の声はもっと重いものだと思ってました。当初はキング先生にも、そんな事を言われていましたしね。でも、声楽を学び続けていくうちに、私の声はどんどん軽くなっていた…と言うよりも、本来の軽い声に戻って行きました。ですから、当初歌いたいと望んでいた『Vesti la giubba/衣装をつけろ』が、自分の声には少しばかり合わない事もわかり、今は無理ができるようになるのを待っているって感じです。まあ、多少は合わないと言えども、同じ声種向けに書かれた曲ですから、いずれは歌えるようになるだろうと、案外のんびりした気分で待っているわけです。

 で、先日、そんな話を妻に話したところ、ならば早めに取り組んだらどうだと言われました。結局、我々オトナの趣味人の場合、老化といった差し迫った問題があるわけで、これからの人生の中で、一番若くて可能性が高いのは、間違いなく今日なのだから、今日歌いたいと思ったら、迷わず今日のうちにトライしていみるのが鉄則なわけで、歌いたいと思っている歌を「やがて歌えるようになるまで…」と温めていると、温めたままで終わってしまう事だってある…ってわけで、その言葉にも一理あるようなあ…と悩んでいく私でした。

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2016年4月17日 (日)

死ぬかと思った

 先日の事、出先からバスで帰宅したと思ってください。自宅最寄りのバス停でバスから降りようとした時、バスとバス停のある歩道との、ほんのわずかの幅しかない道に自転車がツッコんできて、もう少しで、私と衝突するところでした。

 私はいつも、バスからバス停のある歩道まで、ちょっと距離と段差があるので、いつもバスから歩道まで飛び移るのを習慣としていたのですが、今回はその飛び移るためにカラダを一瞬沈めた時に、猛スピードで自転車がツッコんできたわけです。

 信じられません。自転車の運転者(高校の制服のような衣装を着て若作りしているオバサン。水商売の人なのかな?)は自転車に乗りながら、スマホをいじっていたようで、全然前を見ていなかったようです。バスと歩道の間の狭い隙間を猛スピードで通り抜けていこうとするなんて…。普通、バスが止まれば、客の乗り降りが必ずあるわけですが、そんな事も分からないのか! だいたい、止まっている車の横を猛スピードで通り過ぎるなんて、あまりにデインジャラス。

 私は一瞬の判断で飛び出さずに、とっさに身を半身に翻してバスのドアにしがみついたので、私自身は自転車と接触しなかったけれど、手荷物が自転車の運転者の顔を直撃。自転車は、そのままバスにぶつかって、柵のある歩道の方に倒れこみました(ってか、バスと歩道に挟み込まれた…って感じ)。

 いくら相手が自転車とは言え、バスから飛び降りた瞬間にぶつかっていたら…空中で自転車と激突するわけで、いくら私でもそのまま歩道の柵にでもぶつかったら、大怪我間違いないし、ぶつかる箇所が頭とかだったら、即死だよ。

 マジで、死ぬかと思いました。

 ちなみに、オバサン、一瞬で立ち直って「大丈夫ですか?」とひと言だけ言って、こちらの返事も待たずに、猛スピードで逃げて行きました。もしも、私が怪我をしていたら、ひき逃げかい! おい、せめて謝れよ。

 あのオバサン、相手が私だったから良かったわけで、これが子どもとかだったら、確実に相手を大怪我、ないしは殺しているわけだし、大人だとしたら、普通は両方とも大怪我しているでしょう。スマホをいじりながら自転車でツッコんできたんだから、100%オバサンが悪者だしね。

 こういう時に、とっさにカラダが動いて危機回避ができるのは、私が散々格闘技をやってきたからなわけで、そうでなければ、今頃、入院しているかもしれません。

 しかし、逃げ出したオバサン。絶対に、首を、痛めていると思うよ。それくらいのスピードで私の荷物にぶつかってきたし、私も荷物ごと腕を持って行かれそうになったもの。まあ、あの事故でムチウチになったとしても、自業自得だな。

 それにしても、逃げ出すのをとっ捕まえてやりゃあ良かったと後悔しています。幸い、怪我は無かったけれど、怪我なんて、事故直後は分からなくても、後からじわじわと症状が出てきて、怪我した事が分かる事だってあるわけだからね。後から怪我が分かった時に備えて、とっ捕まえて、連絡先ぐらい確認したかったよ。でも、それすら許されないくらいに、急いで逃げ出しやがったからな、あのオバサン。

 なんか、許せない。

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2016年4月16日 (土)

シズカさんは眼力が強い!

 最近、とりわけ、タニシが全滅して以来、強く感じるのですが、シズカさんが、やたらと人間をにらむんですね。それも結構眼光鋭いんですよ。いかにも視線が突き刺さるって感じで、こちらをにらんでいます。それに、どうやら人間に対して文句がある…と言うか、恨んでいる…と言うか、とにかく、そんなうらみがましい目で我々をにらみつけているのです。

 ほんと、シズカさんは、眼力(めぢから)が強い子です。

 私も今まで何尾か金魚を飼ってきましたが、これほど眼力の強い子は初めてかもしれません。それくらい、印象深く、ネトーっと、こちらを見ているのです。

 なぜ、こちらをにらんでいるのか…あくまでも推量なのですが、これはタニシの全滅と関係が深いのではないかと思ってます。

 シズカさんは、実は肉食な子です。それはフンの色を見れば分かるわけで、この子はいつも太くて長くて赤いフンしています。動物性のエサを食べると、金魚のフンは黄色~赤になります。ちなみに、ヤヨイさんは草食系ですから、フンの色はたいてい深緑です。金魚は、植物性のエサを食べると、金魚のフンは灰色~ミドリ色になります。

 と言うわけで、動物性のエサばかりを好んで食べていると思われるシズカさんです。実際、シズカさんは、やたらとタニシを食べていました。それが今、我が家の水槽にはタニシがいなくなって、毎朝あげているエサだけでは足りないシズカさんが、その怒りを視線に込めて、こちらをにらんでいるようなのです。

 つまり「タニシいないよ、美味しいエサを入れてくれよ!」って感じです。その証拠の裏付けとして、シズカさんが強い視線でこちらをにらむのは、決まって夕方以降…と言うか夜の話で、午前中は案外のんきにしているからです(エサやりは朝一回です)。

 エサが足りなくて空腹なので、エサを人間に求めている…という感じなのですが、その態度がなんともエラそうって感じなのです。

 そんなに空腹だったら、ヤヨイさんのように、水草でも食べていればいいのに…実になんともな感じだったりします。

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2016年4月15日 (金)

眠くって眠くって…

 フルートのレッスンに行ってきました…が、それにしても眠かった。いやあ、眠い眠い。春眠暁を覚えず…とも言いますが、やっぱり眠いのねんのねん。

 『仕事が忙しくてストレス溜まって眠りが浅い』+『肩痛くて眠れない』+『花粉症の薬で昼間も眠い』+『とにかく眠い』、眠たすぎて眠たすぎて…。レッスンの最中に、フルート吹きながら、何度か意識を消失しかけました(いや、何度か消失してたな)。

 ロングトーン練習では、基本的にバッチリなんだけれど、私、時々素っ頓狂な音を出してしまいました。だいたい、意識を失っている時って、わけ分からなくなっているわけで、先生に怒鳴られて、意識が覚醒するわけだけれど、いやあ、寝ている時の私は、一体どんな音を出しているんでしょうね。

 先生からは「フルート吹きながらボヤってとしない!」と言われましたが、ボヤッとしているわけでなく、寝ているだけですから(涙)。

 実は今回は、例によって、前回のレッスンからこの日まで、フルートをケースから出していなかったわけで、それではさすがに「いけない!」と思った私は、仕事を早く終えて(変則8時間勤務なので、早朝出勤をして、帰宅時間を早めたわけです)、レッスンに出かけるまで、ひたすら練習したんです。たぶん、3時間ぐらい、熱心にフルートを吹き倒しました。レッスン時間だけなら、真面目に練習している一週間よりも多いくらいですね。それだけの準備をしてレッスンに臨んだわけです。

 いやあ、眠かったなあ…。エルステユーブンゲンの課題曲である16番の暗譜はほぼ出来ていた…と言うのに、レッスンの時は半分…いや、もっと眠っていたので、ほぼ自動演奏だったので、あっちこっち、やたらと間違えました。あんまり間違ってばかりいたので、先生も私が暗譜をしてきたとは全く思わなかったらしく、いつものように「暗譜してきた?」とも尋ねませんでした。いやあ、申し訳ない。当然、17番も酷い有様でした。

 人って、あんまり眠いと、自分がどこにいるのか、分からなくなるんですね(汗)。

 プチエチュードの時は、多少は眠気が覚めていました。なので、吹き始めは冷静にできました。今回は前回の徹を踏まえて、テンポ設定を慎重にゆっくり目にしましたので、かなり良い出来だったと思います。途中で眠くなって、わけわかんなって、自動演奏しちゃって、何度も何度も先生に叱られた事は…うっすら覚えています。

 先生曰く「今回はなかなか良く吹けていたし、途中までは合格かと思ったけれど、なんだいあれは…、途中からいきなり演奏が崩れてきたぞ」 はい、崩れたのではなく眠ったのです。

 とにかく、今回のレッスンは、終始寝ていた私です。ああ「睡魔と戦っていた」と書くとカッコいいんだろうけれど、実際の私は戦っていたのではなくて、負けていました。いやあ、だって、眠い時は眠いんだよ。

 今回の雑談は…何か話したと思うけれど、眠くて覚えていないのでパスです。たしか、地域の学校の偏差値とランキングについて尋ねられたような気がします。ま、そういう話は、商売柄、得意ネタですから、寝たままでも結構熱く語れたりします(大笑)。

 そう言えば、昔々、ある私立学校が音楽教師としてH先生を雇おうとして声をかけたんだそうです。で、話を聞けば、時給3000円だったそうなんだけれど、その金額のあまりの安さに驚いて、にべもなく断ったそうです。時給3000円…教師になりたくてしょうがない若者を釣るなら十分かもしれないけれど、当時、すでにレコーディング・アーチストだったH先生を釣るには、ちょっとばかりケタが少なかったかもしれません…そんな話をうっすら聞いたような気がします。

 ああ、眠い。

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2016年4月14日 (木)

歌声と話し声

 歌声と話し声は、同じなのか違うのかと尋ねられれば、そりゃあ違うわけです。だって、この両者が同じならば『歌声』『話し声』などという言葉そのものが、作られなかったわけですからね。ですから、日本古来から、歌声と話し声は違っていたわけです。

 ただ「歌声と話し声は、どう違うの」と尋ねられた場合は、そこで想定されている音楽の種類によって返答が変わってくると思います。少なくとも、いわゆる純邦楽とポピュラー音楽と西洋古典音楽では、それぞれ大きく違うし、それらの中にも雑多な音楽があって、それらはそれぞれに違うからです。

 歌声と話し声はどう違うのかは、音楽のジャンルによって違いますが、とにかく歌声と話し声は全く違うという事だけは事実です。

 いわゆる“音痴”と呼ばれる人にも、色々なタイプがあります。音程が取れない人やリズムが取れない人は音痴ですが、世の中には音程もリズムも結構正しいのに“音痴”と呼ばれる人がいて、そういう人の歌をよくよく聞いていると、話し声で歌っているタイプの人だったりするわけです。

 閑話休題。私はクラシック声楽を学んでいるので、音楽ジャンルをクラシック声楽と、その派生音楽(唱歌とか合唱とかクラシッククロスオーヴァーとか)に限定して書きたいと思います。

 歌声と話し声の違いは…まずは発声するという意識の有無の違いかな? 話し声って、割と楽にしゃべるじゃないですか? 特に何も考えずに声を出しているわけで、別に「さあ、今から話すぞ!」と決意して話し始める事って、特別な場合だけで、普段は話し始める意識すら脳裏に浮かばないまま、話し始めるわけです。ある意味、それって、とても自然な事だと思います。

 でも歌声って、そんなに自然じゃないです。少なくとも、大きな声で歌わないといけないし、声の高さも音程という縛りがあって、その音程に合わせて歌わなきゃいけないし、もちろん、声そのものも美しくないといけません。これらを同時に満たした上で、大なり小なり「さあ、今から歌うぞ」と決意して歌い出すのが普通なわけで、それを何の決意も決心もなく、息をするように自然体に歌える人がいたら…その人は天才だと思います。

 まったくのフリーダムな状態で発声される話し声と、色々と条件を満たさないといけない歌声では、発声方法が自ずと変わってきて当たり前だと思います。

 歌声の場合、発声そのものが話し声とは違ってくるのは当たり前として、ではどうやって変えていくのか。ここに『正しい発声方法』と『間違った発声方法』があるわけです。

 たとえば、歌声は話し声よりも音量を増さないといけません。ではどうやって音量を増していくのか? 割りと簡単に実行されがちなのが『息を力強く大量に素早く送って、それを声に変換していく』というやり方。つまり、話し声における大声の出し方です。

 話し声における大声って、ある一線を超えると、怒鳴り声とか叫び声になりますが…これって歌声とは明らかに別物ですね。でも、市民合唱団などに行くと、怒鳴り声とか叫び声で歌っている方が、大勢いらっしゃいます。特に正しいと言われる発声方法を教えられずに「もっと大きな声で歌って!」と言われれば、普通はこうなりますよね。でも、この発声方法は、クラシック声楽的には間違いですね。

 ではどうやって音量を増すのかと言えば、単純な話で『口の中を大きく開いて歌う』事で対応します。つまり、声の音量と口腔内の容量が比例関係にある事を利用して音量増大に対応していくわけです。もちろん、息も力強く送る必要はありますが、それが怒鳴り声や叫び声にならない程度までしか強めに送りません。

 音程とかリズムに関しては、訓練して身に付けるしかないわけです。でも、音程やリズムを正しく歌えるのが歌声であり、話し声はそういったものに捕らわれないものです。

 美しい声で歌うのが歌声ですが…声の美しさもなかなか難しいものです。健康な声が美しいのは論を待ちません。しわがれていたり、かすんでいたり…という音声障害を持った声は、クラシック声楽では美しいと言われません(ポピュラー音楽では、個性的な歌声として重宝されますが…)。

 響きの豊かな声が美しいとされますが、響きの豊かな声…と言われても、簡単にはイメージできませんよね。私が思う“響きの豊かな声”とは、耳あたりの良い声、かな? つまり、尖った声ではなくて丸い声であり、ひらべったい声ではなくヨソ行きの声であり、日本人っぽい声でなく外人っぽい声の事です(多少の偏見はご勘弁を)。

 ですから、話し声と歌声の違いと言うなら、自然なままの声が話し声であり、歌声は、ちょっと気取ってカッコつけた声って言えるかな~って思ってます。

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2016年4月13日 (水)

クラシックの人って、ポピュラー音楽を見下しているよね

 全員じゃないけれどね。でも、そう感じる時ってありませんか? 私はネットをウロウロしていると、たまに感じますよ。

 とは言っても、演奏で食べているようなガチな音楽家の方とか、学校の音楽の先生方から、そう感じる事は稀です。

 感じるのは、街のピアノの先生や各種学校および楽器店の音楽教室あたりで教えている先生方からですね。もちろん全員…とは言いませんが、少なからぬ数の方から感じますし、ブログなどを読んでいると「この人、ポピュラー音楽を見下しているよなあ…」と思います。

 さらに顕著に感じるのが、そういう場所で音楽を学んでいると思われる、アマチュアの方々のブロクです。この人たちのブログを読んでいると、見下す…と言うよりも、ポピュラー音楽をクラシック音楽よりも、低級で通俗的でつまらない音楽であると感じている事を、アリアリと感じます。

 先生方がそういう態度だから、それが生徒の皆さんに感染るのか、生徒の皆さんがそういう態度を取るから、先生方がそんな気持ちになるのか。その因果関係は分かりませんが、そんなものを感じてしまうのです。

 まあ、確かに、クラシック音楽は名曲ばかりだよ。一方、ポピュラー音楽の中には、しょうもないツマラナイ音楽もたくさんあるし、似たような音楽ばかりだったりもするわけだけれど、だからと言ってポピュラー音楽全体を見下すのは、違うような気がします。

 クラシック音楽にだって、どうしようもない駄作はあったわけです。でも、そういう駄作は、内容がつまらないので受け継がれなかったわけで、時がたつにつれて、忘れられて消えてしまったわけで、その結果、クラシック音楽は名曲ばかりになったわけです。

 だから有名な作曲家で多作な作家であっても、演奏されるのは、その作品のごく一部であって、たまに“全曲集”のようなものが録音されて発売されると、その分量にぶったまげるのは、そんなわけだし、そういう録音を聞いてみて改めて思う事は、日頃から演奏機会に恵まれない曲は、やはり、それなりの理由があるんだなあ…って事です。

 大作曲家の作品であっても、そんな状況ですから、いくら当時流行った音楽であっても、水準以下の作品が消えてしまったのですから、残っているクラシック音楽の名曲たちは、ほんと、キラ星のような存在なわけです。

 そこへ行くと、ポピュラー音楽は同時代の音楽ですから、名曲もあれば、どうにもならない駄作も何かの間違いでヒットしていたりするわけです。まあ、大抵の場合、そういう駄作は、音楽以外の理由でヒットしていたりするわけなんだけれどね。

 だいたい、ポピュラー音楽を見下す人は、この“何かの間違いでヒットしてしまった駄作”を取り上げて、ポピュラー音楽全体を軽蔑しているわけです。

 ポピュラー音楽の定義は難しいのですが『音楽が大量消費される事を前提として生まれた音楽』と定義するなら、ポピュラー音楽の歴史はレコードの誕生と一緒なわけですから、そろそろ100年を越えているわけです。

 たしかに、ここ数年の音楽だけを見ていけば、多種多様の音楽があり、名曲もあれば、比較にならないくらいの駄作もヤマのようにあるわけです。でも、100年…と言わなくても、ほんの2~30年前(つまり一世代前)の音楽で、今でも演奏され続けているような音楽だと、駄作って、ほとんどないでしょう? クラシックと同じで、名曲だけが残されているわけです。そう思えば、クラシックもポピュラーも、音楽としては、どちらが優秀とか言えない事が分かります。

 しかし、この問題の根深いところは、さらにあるわけです。

 古いポピュラー音楽で、時間の風化に耐えて残った名曲と思われる曲を、ポピュラー界では“スタンダードナンバー”と呼ぶわけですが、このスタンダードナンバーに対しても、見下す態度を取る人が、クラシック方面の人にはいるからです。

 同時代の駄作を「つまらない音楽だ」と切って捨てて見下す…のなら、私も理解しますが、すでに一定の評価を得て残っているスタンダードナンバーに対しても、ポピュラー音楽であるという理由で見下す…となると、私もクラシック側の人間の擁護ができなくなります。

 そして、そこが問題なんだと、私は思うわけです。

 なぜ、クラシックを学んでいる人の中に、スタンダードナンバーを見下す人がいるのでしょうか?

 私が思うに、一つは「理解できないから」じゃないかと思います。自分には理解できない音楽なので「くだらない」音楽であると見下すわけです。つまりは「守りに入っている」だけの器の小さな人間にありがちな事です。

 あるいは、ポピュラー音楽愛好者たちの多くが庶民なので、自分はそんな庶民とは違うから…と言った理由で、ポピュラー音楽を見下している…という事もあるようです。

 たしかにポピュラー音楽を楽しむには、知識も教養も不要ですから、経済力に恵まれない人も、教養が不足している人も、ポピュラー音楽を聞くことで楽しめるわけです。一方、クラシック音楽を楽しむためには、ある一定の知識や教養が必要だし、経済的にも恵まれている必要があるかもしれません。その事については、私も否定しません。でもそれは単に、その音楽が同時代音楽なのか、古典音楽なのかの違いであって、古典音楽は、我々の生活からかけ離れた音楽であるために、その距離を埋めるための知識や教養がなければ楽しめないし、演奏だって限られた場所でしか行われないので、それを聞くために経済力が必要となる…だけだと思ってます。

 つまりそれは、音楽が生み出された時代の違いが求めているものであって、音楽そのもの質の違いが求めているわけではないと思うのです。

 もしくは、クラシック音楽は大学で学ぶ高級な音楽だけれど、ポピュラー音楽はロクに学校も出ていないような不良たちが作った音楽だから、軽蔑し、見下している…という事もないわけではないでしょう。特に、演奏家を見てみると、クラシック音楽は音大卒業生ばかりで高学歴な人(と言っていいんでしょうね)ばかりなのに対して、ポピュラー音楽の演奏家の学歴は様々で、きちんとした学歴の方や音大卒業生もいますが、逆にロクな学校も出ていない人もいます。まあ、少なくとも音大卒業生は非主流派です。

 私が思うに、音楽を作ったり演奏したりする人間にとって必要な条件には、卒業校とか学歴とかは、あまり関係ないと思うし、そもそも学歴とか職歴とかで人間の貴卑が生じるわけではありません。

 また、作者とその作品は別物であって、たとえ人間的にダメな奴が作曲したり演奏したからと言って、その作品までもがダメであるとは言えません。良い例がモーツァルトでしょ? あれはかなりのダメ人間だけれど、作品は素晴らしいじゃないですか?

 音楽の作り手や受け手の学歴とか職業とか経済力とかで、愛される音楽に違いがあったとしても、だからと言って、それらの音楽そのものに優劣はない…と私は思いますが、そうは思わない人もたくさんいるわけで「やっぱりクラシック音楽は高級な音楽であって、ポピュラー? あんなのは音楽じゃないよ」って思っている人もいるわけです。

 人の趣味はそれぞれだから、心の中で何を考えてもいいけれど、少なくとも、他人が愛している音楽を見下している事を、態度で示されると、愉快な気分にはなれませんよ。

 たかが音楽に、高級も低級もないもんだ…と私は思うわけですよ。あるのは「好き/嫌い」とか「愛されている/知られていない」とか「楽しめる/理解できない」という違いだと思うわけです。

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2016年4月12日 (火)

出来ない時は、拍頭を取ってみる

 自宅で譜読みをし、音取りをしている時に、困ってしまう事が多々あります。それは『目の前のフレーズがきちんと演奏できない』という事。

 フレーズが全くイメージできない…ってわけじゃないのです。かなり複雑な譜面であっても、今はレコ勉が出来ますし、参考にするべき音源だって、YouTubeに行けばゴロゴロしているわけですから、たいていの音楽は、楽譜を見ながら、実際の音源を聞いて、ある程度のイメージはつかめるんです。

 でも、イメージがつかめたからと言って、それで演奏できるわけじゃないのです。

 読譜と演奏は、全くレベルが違う話なんですね。

 とにかく、難しいフレーズ、ややこしいフレーズで、うまく演奏できない時は、まずは拍頭の音だけで演奏してみる事にしています。拍頭…つまりビートを感じてみるわけです。フレーズに付いている細かな音符は、ひとまず省略して、拍頭だけで演奏してみるのです。拍頭だけの演奏が出来ない…って事は、さすがにありませんから、これはこれでどうにかなるわけです。

 この状態から、少しずつ細かくリズムを刻んで演奏していくのです。拍頭だけで演奏と言うのは、つまりリズムをすべて4分音符に馴らして演奏するようなものなので、次は8分音符を基本にして、拍の表と裏だけの演奏してみるとか、それができたら、16分音符のリズムも付け加えていくとか…。とにかく、大雑把なリズムから細かなリズムへ徐々に付け加える…と言うか、拍を割って割って割って、演奏していくわけです。

 これを地道にやっていると、結構複雑な譜面もなんとか演奏できるようになります。

 音程がうまく取れない時も同じです。まあ、楽器の場合は、音程は楽器任せの部分があるけれど、歌は自分で音程を作っていくわけだから、歌っていて、どうしても音程が正しく取れない箇所ってあるわけです。そんな時も、ひとまずは拍頭の音だけで歌ってみると良いかも。

 拍頭の音だけをつないで歌えるようになってきたら、そこから細かな音符を加えて歌ってみるのです。だいたい、拍頭の音は和音構成音だったりするので、たいていは歌いやすいのですが、細かな音符の音は、不協和音の音だったりして、そこが案外、難しかったりするわけです。

 あるいは、母音の音色のために音程が取りづらいという事もあります。そんな時は、すべての音を“ア”の母音で歌ってみます(私は“ア”が得意です。他の母音が得意な人は、“ア”ではなく得意な別の母音でも構わないと思います)。“ア”だけで歌えるようになったら、つぎは他の母音も加えて、母音だけで歌ってみる。それができてから子音を加えてみる…というふうに段階を踏んで歌ってみると、歌えなかった箇所も歌えるようになるものです。

 あとは慣れね。楽器での「指が回る回らない」と同様に、歌でも「クチが回る回らない」はありますから、慣れに関しては、数多く演奏するしかありません。

 と、このように、難しいフレーズを練習する際には、あまり細かな部分にこだわって練習するのではなく、まずは、大きな枠組みを守って練習する事が大切だと思います。まずは枠組みを確認し、そこから不要にはみ出さない事です。その枠の中に収まっていく感覚を感じてから、細かな部分を練習していくと、大抵の場合、音楽は丸く収まるものです。
 とにかく、優先するのは、大枠であって、細かなところは、後から調整していくのです。

 この感覚は、ソロでも大切ですが、アンサンブルなら、なおさら大切かも。

 そういう点で、うまく演奏できない時の練習は、部分練習が必須です。出来ない部分だけを、取り出して、その箇所を重点的に練習をするのです。その部分の大枠をマスターし、徐々に細かくしていくのです。

 音楽を練習する時は、全曲の通し練習も必要だし、楽しいのだけれど、通し練習ばかりをやっていても、一向に上達しないのは、こういう部分の練習をしないからだと思います。

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2016年4月11日 (月)

歌劇『ドン・ジョバンニゃ』を見てきました

 先日、歌劇『ドン・ジョバンニゃ』を見てきました。

 「あれ? タイトル間違えてないかな? 見てきたのは、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』でしょ」

 いえいえ『ドン・ジョバンニ』ではなく『ドン・ジョバンニゃ』だったのです。

 ヨーロッパの歌劇場では、オペラを上演する際に、よく時代や舞台を読み替えて上演するのが、20世紀末あたりから普通になっています。その流れは世界中に広がり、最近ではアメリカのメトでも、この読み替え演出による上演が増えてきました。

 読み替えオペラが増えてきた理由には色々あります。たとえば、オペラって舞台設定が大昔だったりするわけだけれど、そんな中世とか神話時代とかの話をされても、現代人にはピンと来ないし、だいたい、そんな昔の時代設定だと、大道具にしても小道具にしても、我々の日常生活からはかけ離れすぎているので、特別に用意しないといけないわけで、オカネが掛かり過ぎるわけです。

 それを読み替えて、時代を現代とか、ほんの数年前の時代に設定すれば、衣装もそこらの洋装店で取り扱っているモノでいけちゃうし、大道具小道具もわざわざ用意しなくても、そこらの家具店やホームセンターのものが使えるわけだし、お話も現代風にアレンジすれば、お客にも分かりやすくなるわけです。

 その代わり、昔話だったものを無理やり現代劇にするわけだから、あっちこっちに無理が生じるわけだし、演技とセリフが乖離したり、本来のお話とは別物になってしまう事すらあるわけで、オペラに腐ったファンならともかく、ライトのファンとか、初心者とか、普通の音楽ファンにとっては、あまり向いているやり方とは言えません。そんなわけで、日本ではなかなか行われないし、成功もしないのが、この読み替えオペラなわけです。

 今回見に行った『ドン・ジョバンニゃ』は、実は、一種の“読み替えオペラ”でした。

 何をどう読み替えているのかと言うと、時代設定を、現代にしただけでなく、登場人物の一部をイヌネコに置き換えてしまいました。例えば、ドン・ジョバンニとドンナ・エルヴィラはネコ。騎士長(石像になってドン・ジョバンニを地獄堕ちさせるオヤジ)はトイプードルになってしまいました。これだけで、あの凄惨で血なまぐさいお話が、コメディっぽくなるわけだからオカシイです。

 人間の方も色々と設定が変更になっています。ドン・ジョバンニの従者であるレポレロは、ジョバンニゃの飼い主でネコ専門のカメラマンに。ドンナ・アンナは殺されたトイプードルの飼い主に。ツェルリーナはネコ好きの元キャバ嬢に。その夫のマゼットはネコアレルギーの社長さんに、設定が変更されています。

 だいたい、エルヴィラがジョバンニゃを追いかける理由が、ジョバンニゃによって妊娠させられて子猫を産んだら、飼い主に「これ以上ネコは飼えない」と言われて、子猫たちをよそにあげられた挙句、自分は不妊手術を受けさせられて、もう色恋もできない…という理由で、ジョパンニゃを恨んでいるという設定。

 色々と面白いでしょ? こういう読み替えなら、日本でも受け入れられるというものです(その代わり、外国じゃダメかもね)。

 セリフは日本語。歌唱は原語であるイタリア語のままだけれど字幕が出るし、その字幕もストーリーに合わせて意訳されているので、なかなか面白いです。まあストーリーに若干の無理はあるものの、全体としてはかなり楽しめました。これがたった一回の上演でお終いと言うのは、なんかもったいないですね。上演場所を変えて、再演しても面白いだろうに…と思いました。

 ちなみに、ドン・ジョバンニは地獄堕ちをしましたが、ジョバンニゃは………、とにかく、最後まで色々と読み替えられていました。

 ああ、楽しかった。

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2016年4月10日 (日)

スペクトルマンにがっかり…

 皆さんは『スペクトルマン』をご存知でしょうか?

 昔々の昭和40年代の半ばにフジテレビで『宇宙猿人ゴリ』または『宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン』そして『スペクトルマン』へと番組タイトルが(文字通り)二転三転していった、子供向け特撮番組の事です。

 私、この番組が大好きだった…みたいです。今でも主題歌歌えるし、当時、スペクトルマンの放送が楽しみで、ワクワクしていた記憶があります。

 でもね、よくよく考えてみると、ヒーローのはずのスペクトルマンの容姿についてはうろ覚えなんですよね。敵役だったゴリとラーについては、よく覚えているのに(笑)。

 それはともかく、よく覚えていないにも関わらず、スペクトルマンは私の中では、子供時代の大切な思い出になっていたわけです。最近も『決め方TV』という番組で、ゴリとラーが出演していて、心ウルウルにして見てました(ゴリとラーは、途中で降板し、番組そのものも先日終わってしまいました…:合掌)。

 そんな感じの“スペクトルマン大好きオッサン”な私だったわけです。

 で、先日、テレビをザッピングしていたら、スペクトルマンの主題歌が流れてきました。おやおや、何が起こったのかと思ってテレビを見ていたら、なんとスペクトルマンがやっているじゃあありませんか…それも結構しっかりと。

 どうやら、今度発売されるBlu-ray BOXの宣伝のための長尺CMだったようなのです。それにしても、数分に渡るCMなんて、すごいなあ…。

 まあ、それはさておき、かっこいいゴリとラーの勇姿、昔なつかしい主題歌たちはよかったのですが、それらと一緒に映しだされた、ヒーローであるスペクトルマンの姿は「…なに? これ! これがあの“スペクトルマン”なの?…嘘でしょ(涙)」って感じでした。

 「うわっ! カッコ悪い!」(スペクトルマン大好きな皆様、ごめんなさい)

 私の思い出の中のスペクトルマンは、もっと頭身のバランスが良くてスマートで洗練されたフォルムなのですが、テレビに映しだされたリアルなスペクトルマンは…なんともダサくて、カッコ悪い。それに全身茶色なヒーローなんてあり得る? 「うへー、子供の頃は、これに心を奪われていたのか!(涙)」と驚いてしまいました。

 思い出はいつでも美しいもの…だったようです。

 敵役であるゴリとラーが良い味の出ているキャラクターデザインなのに対して、ヒーローであるスペクトルマンのダサさは何? これがヒーローなの?…そう思ってしまったのでした。

 昔はビデオなどなく、BSもCSもなく地上波しかなかった、そんな時代、テレビの子供向け番組の放送なんて、限られたものでした。だいたい、夕方の7時からの一時間、たいてい、どこかのチャンネルで子供向け番組が放送されていて、当時の子どもたちは、その番組を見るのを楽しみにしていた時代。いわば、番組の選択権が事実上無かった時代。テレビ局が放送してくれる特撮番組やアニメ番組をありがたく見ていた時代だからこそ、多少かっこ悪くてもヒーローたちは受け入れられたのだなあって思いました。

 今のような多チャンネル時代なら、この番組、見ていたかどうか、ちょっと微妙な感じがします。もっとも、スペクトルマンのダサさはともかく、ゴリとラーは良いですね。いま見ても、なかなか秀逸なキャラクターだと思いました。

 あ、だから番組のタイトルも当初は「宇宙猿人ゴリ」なんだな。納得。

蛇足 スペクトルマンの次番組は「快傑ライオン丸」でした。子どもだった私ですが、さすがにライオン丸のキャラクターデザインを見て「これは無しだな、ダサすぎる」と思って見ませんでした(ライオン丸大好きな皆様、ごめんなさい)。このライオン丸は大人気だったようで「快傑ライオン丸」が1年で終了すると、その次の年は「風雲ライオン丸」が始まるほどでしたが、それでもライオン丸のキャラデはいただけませんでした。どうも私の好みと、世間一般のお子様たちの好みは違っていたようです。

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2016年4月 9日 (土)

ちょっと斜めなヤヨイさん

 心配なので、記録のために記事として書いておきますと…最近、三色琉金モドキのヤヨイさんが、水槽の中でよく斜めになって漂っています。“斜め”と言うのは、リラックスしている時に、カラダが右体側の方向に約30度ほど倒れこんでいるので“斜め”なのです。頭が上がるとか、尾が上がると言った方向の斜めではなく、右側に倒れこみ、カラダの左側が上を向いているという状態です。つまり、気を抜いている時のヤヨイさんは、水平とか垂直とかの姿勢を保てないという事です。

 なんか、イヤだなあ…。

 だいたい、今までの子の例を見ていても、カラダが斜めになった子は、そう遠くない将来、転覆病になるんですよね。それも、短期間でカラダが大きくなった子ほど、その傾向が強いんです。

 ヤヨイは、今までウチにいた巨大魚たち比べれば、三回りも四回りも小さいのですが、それでも金魚にしては大きい方だし、それもここ一年ぐらいでググンと大きくなった子です。短期間で成長した子は、中身がスカスカで病気になりやすいのだけれど、そういう点で、ヤヨイの事は常々心配していたわけですが、姿勢が斜めになった現在、なんとも言えない気分になりました。

 転覆病になってしまうのかしら? もしそうだとしても、なんとか発病させないようにできないかしらね。

 ああ、心配だ。

 たぶん、人間なら、ここらで抗生物質の注射でも一本打っておけば、翌日には元気いっぱいですぐに回復するのだろうけれど、金魚だと、注射も打てません。金魚用の薬剤は売っているけれど、まあ気休めみたいなものだからね。金魚の治療は、基本的に自然回復力頼みになるわけだけれど…ああ、心配だ、心配だ。

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2016年4月 8日 (金)

フルートのレッスンとお花見の事

 フルートのレッスンに行ってきました。

 どうせバレるとは分かっているにせよ、先生に“全く練習していない”事はさすがに黙っていました。いやあ、前回のレッスンでフルートをケースに閉まったきり、今回のレッスンまで、一度もフルートをケースから出していません…なんて言えないよね。

 そしらぬ顔をしてレッスンに臨んだ私でした。ロングトーン練習は、バッチグーでした。最近、バッチグーな事が多いので、やっぱり私もさすがにフルート上達してきたのかもしれませんね(笑)。

 エルステユーブンゲンは16番でした。暗譜どころか練習すらしていないので、ちゃんと吹けなくなっていました、残念。こんなに簡単な曲なのに、あっちこっちで引っかかるってのは、練習しなくなってヘタになったような気がします。続く17番は、ほぼ初見の曲ですか?みたいな感じになっちゃいました。

 継続は力、練習サボりは退化…ですね。

 プチエチュードは、なんとかかんとかです。前回注意された装飾音符付近の問題は解決しましたが、次はタンギングの問題が浮上。いやあ、細かい部分のタンギングがダメな事を注意されました。次までに修正してこないとねえ。

 それと、演奏テンポの問題について、注意されました。とにかく、きちんと吹けないのなら、もっとゆっくりしたテンポで練習してきなさいって事です。「いやあ、私、だいぶゆっくりのテンポで吹いているのだけれど、途中でどんどん速くなってしまって…」と愚痴ったら「多少は速くなっているけれど、言うほど速くはなっていない」と注意されました。

 つまり「速くなっている」という錯覚をしているだけで、最初からかなりの速いテンポで演奏しているんだそうです。私。

 と言うのも、この曲、冒頭部分は白玉音符なんですよ。ですから、ここでゆっくりと感じていても、続くフレーズが三連符で出来ているので、同じテンポでも、速く感じてしまうのだそうです。出だしが2分音符だからと言って、2分音符を基本にテンポ設定をしちゃあ、どうしても三連符の部分で、速くなったと感じてしまうわけです。で、そこが速くなったと勘違いして、ゆっくりしたテンポにギアチェンジをするから、テンポがぐちゃぐちゃになっちゃうわけなんですね。

 三連符の部分の演奏をもっとゆっくりにできるテンボで最初から演奏すると良いと言われましたが…そうすると、滅茶苦茶ゆっくりになります…が、たぶんそれでいいんだよね。

 難しい難しいと言っても、ゆっくり吹けば何とかなると思うのです。だから、最初のテンポ設定が大切なんだそうです。

 さて、今週の雑談は…お花見。

 先日゛東京地方はすでに満開という事らしいので、先日先生、バイクをすっ飛ばしてお花見に行ったらしいのですが、そしたら、まだサクラが三分咲きで、とてもさみしい思いをしたのだそうです。

 「東京が満開なのに、湘南が三分咲きってある? 湘南の方が東京よりも温かいだろ?」

 確かに湘南の方が、東京よりもずっとずっと温かいのですが、温かいからと言って、サクラが速く咲くわけではないみたいです。湘南って、結構サクラの花が咲くのが遅めなんですよね。おそらく、いろいろな理由があって、そうなるんでしょうが、こちらとしては、やはりサクラは3月ではなく、四月のそれも少し入ったあたりで満開になってくれるのが、うれしいので、別にいいんですよ。

 すでに花散らしの風も吹いた事だし…今年はお花見…行けなかったなあ。

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2016年4月 7日 (木)

イタリア式のレッスンに、ちょっとだけ憧れます

 さらに声楽のレッスンの続きとなります。

 次の練習曲は、ヴェルディ作曲の歌劇「リゴレット」のテノールアリア「Quests o quella/あれかこれか」となりました。

 いよいよ、最後まで歌わせてもらえました。やったねー。当然、最後は楽譜通りではなく、慣習的なカデンツァで歌ったわけですが、先生からは「そう来ましたか…」と言われました。ん?何か問題あるのかな?

 前回も注意された“C-E♭-A♭”のフレーズを再度注意されました。真ん中の“E♭”をしっかりと歌うのです。

 この曲は、しっかりとノドの奥を開いて歌う歌であり(歌の部分の)最高音はA♭だけれど、しっかりクチの奥が開けば、出せない音ではないので、自信を持って歌うことが大切です。ここでメンタルの弱さのためにくじけると、出せる音も出せなくなってしまうのです、メンタル強く行きましょう。弱気になるとノドが閉まるからね。

 このノドが閉まる現象…思えば、キング先生に習っていた時に、高音になると、ノドに蓋されるような感覚があったのだけれど、これって、ノドに力が入って声帯が閉まってしまい、それで蓋をされるような感覚になっていた事を、今なら分かります。

 まあ、キング先生に指導されていた時は、力ずくで高音を出そうと、無駄な、間違った方向の努力をしていたから、ノドが閉まってしまったわけです。あの頃、正しい高音の発声方法を習っていたら、今頃、こんなに苦労することもなかったのになあと思う一方、あの段階で先生を変えて正解だったなあ、とも思う私でした。

 キング先生はよく「高音を出すにはコツなんて無い。努力あるのみ」と言ってましたが、コツを知らなきゃ出せる高音も出せないし、努力する方向を間違えてしまえば、自分の可能性をつぶすだけって事を、私はY先生から学びました。たぶん、キング先生の元で今でも学んでいたら、まだまだ高音は出せないままだったんだなあと思うと、ぞっとします。

 さて、カデンツァです。“Ah! se”のA♭に関しては、しっかりとクチの奥が上下に開いていれば、出せるはずの音です。その際に難しいのは、クチを開ける上下のバランスなんです。上の方ばかり開いてしまうと、声が薄くなってしまうし、下の方ばかり開くと、声が落ちてしまいます。絶妙のバランスでうまく上下に開かないといけないのが難しいです。

 とにかく、A♭をバランス良く楽に歌えないと、次のB♭が歌えなくなるわけです。

 A♭からB♭はスラーで結ばれているので、改めて音を取って歌うのではなく、A♭から、さらに口蓋垂を上げて(ここでは最終手段である口角を上げても歌うのも良し)歌わないといけないので、B♭の前に、しっかりA♭を出さないといけません。逆に言えば、A♭をしっかりだければ、そこからは口角でもなんでも、とにかく口蓋垂さえ上げればB♭になるのだから、B♭が出るだろうかと不安になる必要は全く無い…って事です。そのために必要な事は、しっかり息を送ることで、つまりいつものように「腹筋を鍛えれば高音は出る」って事になりました。

 とにかく、歌を上達する事で大切な事は、いかに楽に美しくて大きな声で歌えるようになるか…って事で、そのために必要な事は、正しい発声方法を身につけることであって、そのためには、正しいやり方を自分のカラダにしっかりと染み込ませ、癖付ける事なのです。

 それもあって、歌の本場、イタリアでのレッスンでは、生徒は先生のお宅(つまりレッスン会場)に毎日通って、毎日レッスンを受けるのが、普通なんだそうです。

 「毎日毎日レッスンなんて、金銭的にも大変だけれど、自宅練習だってしなきゃいけないわけで、ほんと、歌漬けの生活になって、大変だな」って思いますが、それはちょっと違うんだそうです。

 確かに毎日レッスンを受けるわけですから、金銭的には大変です(そこは否定しません)。でも、毎日、先生と一緒にレッスンをするので、自宅練習は逆に不必要と言うか、普通は先生に「私がいない時には声を出さない事」と注意されるんだそうです。ですから、レッスンの時しか歌わないので、他の時間は歌以外の事(例えば楽譜を読むと、演奏会に行くとか)に使えるわけです。

 で、毎日毎日のレッスンって、イタリアの先生って、そんなにレッスンネタが豊富にあるのか思うと、実はそんなにネタの数は多いわけではなく、レッスンでは、来る日も来る日も同じことの繰り返しなんだそうです。例えば、今の私ならば、毎日毎日腹筋の使い方とクチの奥を開く練習、こればかりをやらされてしまうだろうとの事です。

 つまり、毎日毎日レッスンに通うのは、正しい癖を先生に付けてもらうことであり、ある意味、先生の前で筋トレをしているようなものです。ですから、ずっと同じことの繰り返しなのが、あちらでのレッスンなんだそうです。そうやって、その生徒の持っている課題を、一つ一つ潰して、良い部分を伸ばしていって、生徒を育てていっているわけなんです。

 確かに、日本のように、週に1回とか、隔週で1回とかのレッスンでは、自宅で練習する事が必要だし、そうなると監督者無しでの練習が続き、正しいやり方ではなく、間違ったやり方が癖になってしまう事もあるし、それ以前に、癖になるほど練習をしてこなかったりするわけで、当然だけれど、上達は遅くなるわけです。

 まあ、天才肌の人で、自分一人で適切な練習メソッドを開発して、ガンガンやっていける人は、日本式のレッスン間隔でも良いのだろうけれど、私のような凡人の場合は、よほど気をつけて、自宅練習をしていかないと、却って上達が遠くなってしまうので、注意しないといけませんね。

 とにかく、私の課題は…
  1)クチが横に広がらないようにする
  2)息をしっかり送る
  3)クチの奥をしっかり縦に開く

 ですね、この辺りに注意を払いつつ、間違った努力を避け、正しい方向の努力を積み重ねていけるように頑張ります。

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2016年4月 6日 (水)

メンタルの弱さには自信があります

 声楽のレッスンの続きです。

 「まずはボエームの練習からしましょう。どこまで譜読みをしてきましたか?」と言われてしまったので、正直に、ほんの少ししか音取りが出来ていない事を白状しました。

 そこで今回は、ロドルフォにとっての冒頭曲「Vei cieli bigi/灰色の空に」を歌ってみました。まずはリズムをしっかりかっちりと歌うようにしてくださいと言われました。

 それはこの曲に限らないのですが、今回の発表会では、指揮者無しでボエームを歌うので、ピアニストさんが合わせやすいように歌う事も必要なんだそうです。そのために大切なのは、リズムをしっかりかっちりにして歌う事と、きちんとピアニストさんにきっかけを与えながら歌う事なんだそうです。

 そこで注意されたのは、レコ勉のやり過ぎです。レコ勉をやり過ぎて、プロの歌い方をマネしてしまうと、ピアノと合わせづらくなってしまうのだそうです。レコードの録音では指揮者がいるわけで、だから歌手が自分の好きなペースでどれだけ歌おうと、指揮者が合わせてくれるけれど、指揮者無しで歌手が自分勝手に歌うと、ピアニストが困ってしまい、音楽が合わなくなってくる恐れもあるので、自分勝手にテンポを揺らして歌わずに、まずは楽譜通りのリズムでしっかりかっちり歌えるようにしてくる事が大切なんだそうです。

 もちろん、ピアノ伴奏無しで歌う部分(実は結構あるんです)に関しては、好きなように歌って良し、です。ただし、ピアノが入る部分では、きちんときっかけを出す事を忘れないように歌いましょうって事になりました。

 例えば、今回の「Vei cieli bigi/灰色の空に」では、曲の最後の“Signor!”がきっかけになるフレーズなので、この部分は、かなりしっかり歌ってあげると、ピアニストさんは合わせやすくなる…って事なんです。

 ボエームのようなヴェリズム系のオペラは、音楽的にはワーグナーの影響を強く受けていて、いわゆるレチタティーヴォがありません。すべての物語が歌で進行していきます。会話なら重唱、演説やひとりごとなら独唱(昔ならアリア)となります。当然、ボエームのような群像劇は、全編重唱の塊になるわけで、自分のパートだけ歌えても、オペラが歌えるようにはなりません。

 先生から、自分のパートだけでなく、他の人のパートもしっかり音取りをして、歌えるようにしておく必要があるのと言われました。そして、実際に他人が歌っている時も、それに合わせて、心の中や小さな声で一緒に歌っている事が大切で、そうでないと、自分のパートも歌えないと言われました。

 ああ、やっぱりね。そうなんじゃないかって思ってました。縫い物をしているように、しっかりとメロディライン(自分のものも、他人のものも)を縫うように追っていかないと、歌えなくなってしまうわけです。頑張ろうっと。

 とにかく、ボエームは分量が多いので、バシバシ譜読みをしていかないといけません。で、譜読みをさっさと終えて、暗譜しないとね。暗譜しないと、音楽稽古に参加できませんから、頑張らないとなあ。

 で、次は、トスティ作曲「April/四月」を歌いました。この曲は今回で終了とする事にしました。で、浮いた時間で、ボエームの譜読みを頑張る…って事になりました。ボエームの譜読みが一段落したら、またトスティの歌曲を持っていく事になりましたので、よろしくお願いしますです。

 で「April/四月」ですが、だいたいOKとなりました。だいたい…と言うのは“su prati'n fiore”の部分が残念だからです。ここは前回も注意された箇所ですねえ…。とにかく、しっかり息を吐いて歌うことが大切です。決して、息を弱めてはダメです。また、高音に移行する前に私は一端、クチの奥を閉じてしまう癖があるそうですが、ノド(ってか声帯を)一度閉じるのはOKだけれど、クチの奥は閉じるどころか、逆に大きく開かないといけないって事です。難しい。

 さらにメンタルの弱さも指摘されました。

 私の声がノド声になる時って、たいてい高音の直前で、その高音(が出せるにも関わらず)が出せないのではないかと不安にかられ、その結果、ノドに力が入ってしまい、結果としてノド声になっているんだそうです。…当たっているかも。

 メンタルが強ければ、不安になる事もなく、不安にならなければ、余裕で出せる音なのに、不安が原因で発声に失敗してしまっているんだそうです。ううむ、見に覚えがありすぎる。

 でもね、ほんと、高音は不安なんだよね。

 先生からは、テノールのノドを持っているのだから、ノドに力を入れずに、腹筋に力を入れて、息をしっかりたっぷり送り込めば、高音も容易いものだと言われました。はあ、頑張ります。

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2016年4月 5日 (火)

女声と男声は、やっぱり違う

 声楽のレッスンに行ってきました。

 まずはいつものようにハミング練習から。今回は、声を奥に入れ過ぎないように注意されました。また、下に声を落とさずに歌うように…声は鼻腔に響かせるのが良いそうです。

 ハミングで声を調整したところで、クチを開けて声を出して歌うわけですが、今度は、「息は後ろに、響きは前に」と注意されました。息は上へ奥へ、響きは上へ前へで、どちらにせよ、息も響きも上に持っていく事が大切なのです。

 毎度の事ですが、クチを広く縦開きにするように注意されました。私はクチビル周辺は大きく開くのだそうだけれど、クチの奥がきちんと開いていないので、奥をきちんと開くように言われました。そこで、クチの奥を大きく開こうとすると、それに釣られて(?)クチビルが横に開いてしまうという癖が見つかりました。

 クチを横に開くのは厳禁です。ですから、意図的にクチを縦に開こうとすると、奥がうまく開いていかないんです。

 クチを横に開いたり、口角を持ち上げて歌うのは(ソプラノは普通に使うテクニックなんですが…)テノールには禁じ手なんだそうです。その禁じ手を私は無意識に使っているので、そこを注意されました。声種の違いもあり、ソプラノのような歌い方をしていると、どんどん高音が出づらくなってくるのだそうです。

 男声は限界までは口角を持ち上げずに歌うべき…なんだそうです。で、その限界と言うのが、高音Aなんですね(奇しくも、ミュージカルでも高音Aは男声の限界です)。ですから、高音Aまではクチの奥を広げ続けて高音を出すべきなんだそうです。で、今の私は、そこに集中して取り組むべき段階である…ってわけです。

 男声の場合は、B以上で始めて口角を上げる歌い方になってくるのだそうです。いわば、男声にとっては、口角を上げる歌い方は最終手段であって、その最終手段を使ってしまうと、後はせいぜい全音程度しか音域が広がらないものなんだそうです。だから、最終手段であって、使わずに済むなら使わない方が良いテクニックなんだそう。

 実際に声が軽いテノールなら、高音A程度で口角を上げる事はしないのだそうです。

 ただし、これはあくまでも男声の話で、女声は全く別なんだそうです。と言うのも、男声と女声では、高音域での声帯の使い方が違うので、高音発声のテクニックが別になってくるのだそうです。先生は、高音発声以外にも、男声と女声のテクニックの違い的な事を教えてくれましたが、話がずれてしまうので、今回の記事ではパスしておきます。

 とにかく、なるべくクチは縦開きで、力まずに発声する事が大切なのです。

 「両手をクチビルに添えて横に開かないように歌ってみてください」と、キング先生に教えてもらった“アッチョンブリケ唱法”を命じられました。で、アッチョンブリケで歌ってみると…あら不思議。高音Aなんて、鼻歌程度の楽さで発声できちゃいました。

 今まで、何に苦労していたんだろ? 私。

 そこで手を外して歌ってみると、高音はA♭までで、Aは無理に戻りました。ううむ、クチビルを横に開かなければ、実用音域がAやもっと上まで行くことが分かりましたが、だからと言って、手を添えなきゃ出せないんじゃあ、それは実用音域とは言えませんね。残念。

 高音がうまく出ないのは、今回のようにクチの開き方(ノドの奥の開き方に通じます)にも問題はあるけれど、なぜクチの開き方で苦労するのかと言うと、息がうまく送れていない事にも原因がありそうです。腹筋が弱くて、息がうまく送れないので、ノドが少ない息での発声に対応しようとして力んで自己振動をして声を出そうとするので、ノド声になってしまうのです。

 結局は、やっぱり腹筋に話が戻ってしまいます。腹筋が弱くて、息の通りがうまくいかないので、ノドに力が入り、ノドに力が入ることで、さらに息の通りが悪くなり、ノド声になって、声帯を消耗して、声が無くなってしまう…という悪循環に陥るわけです。

 そのためにも、ノドの脱力が大切で、そのためにも、腹筋を強くしないといけない私でした。

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2016年4月 4日 (月)

メトのライブビューイングで「マノン・レスコー」を見てきました

 いやあ、これがとても良かったのです。ほんと、すごく良かったのです。まさに、演出&配役の勝利だと思いました。メトロポリタンオペラの演出は、通の方々には昔から評判が悪い演出が多いのですが、私から見れば、分かりやすく理解しやすく、ある意味、通俗的ですらありますが、私を含めた一般のオペラファンにとっては、なかなか小気味良い演出が多くて好感が持てます。

 今回の新演出、ほんと良い演出だと思いました。

 私、今までも何度も「マノン・レスコー」というオペラを(DVDなどで)見てきました。悪いオペラではない…程度にしか思っていませんでした。残念な事に“心を奪われるようなオペラではない”と思っていましたし、プッチーニの作品の中では、ちょっと小粒なオペラなんじゃないの?とすら思ってました。

 ごめんなさい、プッチーニ様。私が間違えておりました。

 考えてみれば「マノン・レスコー」というオペラは、プッチーニの名前を世界に轟かせた最初のオペラなんです。いわば、彼の実質的なデビュー曲が「マノン・レスコー」なわけで「マノン・レスコー」の大成功があったから、その余波で「ラ・ボエーム」も成功したわけで「ラ・ボエーム」の成功があったから「トスカ」も成功したわけです。

 そう言ったわけで、プッチーニの才能の鏑矢的なオペラなんですから「マノン・レスコー」が悪いはずがないのです。いや、とびっきり素晴らしくて当然なんです。それを今まで「たいしたことないオペラ」だとしか思えなかった私の目が曇っていただけなんです。

 なぜ私が今までの「マノン・レスコー」の演奏を評価できなかったのか? それは話がチンプンカンプンだったからです。プッチーニの時代、このオペラの原作小説はベストセラーだったので、誰もが物語を知っていたので、オペラではストーリーの説明をほとんどせずに、場面描写と心理描写に力をいれてオペラを作ったわけです。

 でも、21世紀の日本人である我々には「マノン・レスコー」の原作小説なんて知らないわけです。知らない物語の、抜粋された場面で構成されたオペラを見ても、そりゃあ楽しめないよね。

 おそらく、その状況はメトのお客さんたちだって同じなのかもしれません。21世紀の一般的なアメリカ人にとっては、我々同様に「マノン・レスコー」の原作小説なんて、馴染みのないものなのかもしれません。

 だから、今回の新演出では、それを我々に分かりやすく、噛み砕いてくれたんだと思います。時代設定を18世紀から20世紀中頃に変更したのは、時代劇的な余計な情報を排除して、物語に集中できるようにしたわけだし、休憩中に入る司会者が、幕と幕の間にあるストーリーを説明してくれたのも良かったし、何より、歌手たちの演技が多弁で、本当に物語を分かりやすくしてくれました。

 物語が分かれば、なぜ彼らが、そんな歌を歌っているのかが分かるわけで、そうするとスッと歌が心に入ってくるわけです。

 「マノン・レスコー」って、全編、ラブソングの塊じゃん。最初から最後まで、ロマンチックなオペラだったんじゃん。これ、オペラ好きには、たまんねーオペラじゃん。…となるわけです。

 いやあ、ほんと、良かったですよ。

 主役を歌ったソプラノのクリスティーヌ・オポライスが、めっちゃ美人なんですよ。オペラ歌手で、あれだけの美人さんはなかなかいないです。マノンって女性は、ファムファタールですから、美人じゃないといけないのですが、それを本当の美人が歌うんだから、すごく良いのです。

 ただし、オポライスさん、大女なんですね。そこがちょっと残念でした。相手役のロベルト・アラーニャの身長が173cm(ホントなのかな?)ですが、見た感じ、彼よりも大きかったですからね…。一体、どれくらいの大女なんでしょうね。

 もっとも、身長の件でオポライスに文句を言うのは筋違いなのかもしれません。と言うのも、当初のテノールはヨナス・カウフマンのはずで、アラーニャはあくまでも代役だったからです。カウフマンの身長は…分かりませんが、ステージ写真を見ると、オポライスよりも確実に背が高いので、この2人ならば、絵になるカップルになれたと思います…って、じゃあ、カウフマンの身長って、何センチなんだよって話です。

 カウフマンって、若作り(売れるのが遅かったので若いイメージがありますが、すでに40代後半です)で背が高くて、スマートで、歌も上手ときたら、大人気なのも分かります。そのカウフマンが公演を急にキャンセルしちゃったわけだから、歌劇場は困ったでしょうね。そこで代役が、アラーニャですからね。メトも大したものだと思いました。

 実は、私的には、アラーニャへの交代は、大正義でした。だって、私、カウフマンよりもアラーニャの方が好きだもん。アラーニャの知性を感じさせないバカ系テノール声(これ、褒めているつもりです)が大好きなんです。カウフマンは上手だと思うけれど、声が知的で、私の好みとはちょっと違うんです。

 演出が良くて、ソプラノが美人で、テノールがバカ系の声で…もう、たまんないっす。

 とにかく、今回のメトの「マノン・レスコー」は、なかなか良かったですよん。

おまけ 第四幕の舞台が、砂漠ではなく廃墟でしたが、これも廃墟の方がいいですね。だって、砂漠って、ちっともロマンチックじゃないでしょ?

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2016年4月 3日 (日)

人間には“否定命令文”は理解できない

 心理学的な常識として、我々人間には“否定命令文”を理解して、その命令に従うことはできない…と言われています。

 “否定命令文”とは、簡単に言えば「禁止命令」の事であり「~してはいけない」という命令文の事を言います。この否定命令文、文法的にはごくごく簡単なモノであって、我々も日常的には否定命令文を自覚なしに使っていたりするのですが、この否定命令文で命令されたことを守れる人間は、まずいないと言うわけです。

 具体的に言えば「昨日の夕食の事を思い出してはいけない」と言われたとします。この否定命令を受けた人のうち、何人の人が、昨日の夕食の事を思い出さずに済んだでしょうか? おそらく、10人中10人どころか、100人中100人までもが、この命令を受けた途端に、即座に“昨日の夕食…何を食べたっけ?”と思いを馳せたはずです。…でしょ?

 人間という生き物は、禁止されると、禁止された事に思考が集中してしまうという特性があり、その結果、禁止されたことを、禁止されたにも関わらず、実行したり、考えたりしてしまうのです。

 いや、もしかすると“禁止”自体は、本来関係ないのかもしれません。我々は単純に、命令された事を実行しようとする性質があるだけなのかもしれません。他者から「上を向け」と言われれば上を向き「前に進め」と言われれば前に進むだけの、単純な生き物なのかもしれません。それゆえに、人間という種は、社会性を獲得できたのだと思います。(逆に言えば、他者の命令に従えない人は、反社会的な存在として扱われるわけです)

 ただ、人間には社会性と同時に知性もあります。知性があるので、他者に対して命令する際に、指示的な(肯定的な)命令だけでなく、禁止的な(否定的な)命令もレトリックを駆使して、命じてしまう事があるのです。

 この禁止命令(否定命令)ってのが厄介なんです。

 我々は命令を受けた際に、その命令の肯定否定以前に、無意識に、先ず命令を実行しようとするのです。「前に進め」と「前に進むな」は、命令内容としては真逆であり、我々は知的には、その命令文の内容が真逆である理解できますが、命令を受けたカラダは、たとえ「前に進むな」という命令であっても、それを「前に進め」という指示的な命令として無意識に受け止めて、それを無意識に実行してしまおうとするわけです。

 我々は知性がありますから、前に進もうとするカラダを知性で抑えて、前に進む事を阻止しますが、それでもうっかり前に飛び出してしまう人がいるのは、そういう事です。

 バカですね、ほんと、バカですね。愛すべきバカですよ、我々は。

 でも、これが我々なんです。物事を禁止されればされるほど、心がひかれてしまうのが、我々の本質なのです。

 この事を知っていると、他人に命令/指示をする際に、有効な命令を出す事ができます。人間は否定命令には従えませんから、すべての否定命令を肯定的な指示命令に翻訳して命令すればいいのです。

 「上を向くな」ではなく「前を見ろ」とか「目をつぶれ」と命じればいいわけだし、「前に進むな」ではなく「そこで立ち止まれ」あるいは「元の場所に戻れ」と命ずればよいだけなんです。簡単でしょ?

 さて、音楽の話題に入ります。

 よく音楽を習っていると“脱力”という言葉を聞きます。声楽なら「ノドを脱力しなさい」、フルートでも「クチビルを脱力しなさい」と言う具合です。

 この“脱力”と言う言葉の意味は“力を抜く”であり、それは“力を入れない”という事なわけで、実はこの「~脱力しなさい」とは、一見、指示的な命令に見えて、実は動作としては否定命令文なのです。これが、脱力の難しさです。

 脱力をする…とは、否定命令なのです。だから、我々が脱力できないのは、何の不思議も無いことなのです。

 それを思えば、筋肉バカと思われがちな武道家のほうが、よっぽど賢いです。だって、彼らは「脱力」なんて言葉は使いませんから。彼らは脱力した状態を「自然体」と言います。「力を抜け」と命ずる代わりに「自然体になれ」と指示命令をするわけです。

 脱力はかなり難しいですが、自然体でいる事は…コツさえつかめば簡単なことです。

 でも「自然体」という言葉は、残念ながら一般用語ではありません。格闘界の専門用語で、音楽人を含めた一般人には、なかなか理解が難しいでしょうね。だから「脱力」という言葉を使うのだと思います。それに四の五の言うよりも「脱力」という言葉を使った方が簡単なんです。状態としては「脱力」で正解なんでしょうが、この状態になるために指示命令に従うのは、とても難しいのです。

 他人に上手に指示を出せる人は、良い教師なんだろうと、私は思いますよ。

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2016年4月 2日 (土)

タニシがついに全滅しました

 はい、あれだけたくさんいたタニシが全滅してしまいました。理由ですか? そりゃあ「金魚たちに食べ尽くされてしまった」だけの話です。なにしろ、今の子たちは、タニシ大好きですからね。

 タニシを水槽に入れるのは、原則的に年一回です。だいたい、真夏のあたりかな? 真夏の暑い日に、私が近所の知り合いの農家さんにお願いして、田んぼにいるタニシを100匹前後いただいてきて、それを水槽に入れているのです。

 タニシはどこの田んぼにもいるわけじゃあありません。基本的に無農薬の田んぼにしかいません。それも一軒二軒が無農薬ではなく、同じ水路を使っている田んぼ全部が無農薬(少なくとも、当該の田んぼの上流の田んぼが無農薬)でないと、タニシは死んでしまうからです。

 なので、田んぼがあればタニシが取れる…というわけではないのです。

 基本的に農家の方が自家用にやっている田んぼは、だいたい無農薬みたいなんですね。お米を農協におろす方の田んぼでは、農薬を使っている事も多いみたいです。

 農家の方がおっしゃるには、タニシがいる田んぼには、ドジョウもヤゴもいるみたいですが、タニシと違ってドジョウを田んぼで見かけた事は、私はないです(ヤゴはたまに見かけます)。田んぼって、農薬を使わないと、たくさんの生き物たちがいて、結構ワサワサしているんだそうです。もっとも、農薬を使わないと、病気や害虫にやられやすくなって、色々と面倒な事も事実なんだそうです。農薬は、収穫を増やし、農家の手間を減らすために必要なんだそうです。

 とにかく、タニシは、夏に100匹ほど水槽に入れて、それで1年過ごす…というパターンでここ数年やってきたわけです。

 でも、昨年もそうだったけれど、今年も1年、保たなかったなあ…。

 昨年、タニシが全滅した時には、水槽がかなり汚れてしまい、石巻貝を大量に導入しました。その結果、今現在、タニシは全滅しましたが、石巻貝は結構残っていますので、水槽はとりあえずキレイなままです。。金魚たちは、タニシは好物のようですが、石巻貝はあまりお好みではないみたいなんですね。

 それに、石巻貝たちは、水槽掃除を結構熱心に行いますが、タニシたちはあまり働きません。タニシは専ら金魚たちの生き餌、石巻貝は水槽のお掃除係と役割分担をしているようです。なので、タニシが全滅しても、水槽はキレイに保たれているってわけです。

 タニシが全滅すると、次に何が起こるのかと言うと…石巻貝の全滅の前に、水草の全滅です。と言うのも、タニシが食べられなくなると、金魚たちの食欲は水草に向かうからです。石巻貝よりも水草の方が美味い…って事になるのかな? よっぽど、石巻貝って金魚のクチに合わないのかもしれません。

 何はともあれ、水槽を見ていると、ここ数日、金魚たちがやたらと水草を食べているのが見られます。ああ、そろそろ次の水草の心配をしないといけないのかな…。

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2016年4月 1日 (金)

休みを欲しがる人、休みを嫌う人

 日々、色々と忙しいけれど、頑張って、フルートのレッスンに行ってきました。

 本業の方は繁忙期で忙しく、家に帰ると、毎日、ボエームの勉強ばかりしていて、フルートの練習が疎かになっておりました。でも、時間がなんとかなりそうだったので、ちゃちゃっとフルートのレッスンに行ってきました。

 一応、全く練習無しでレッスンに行くのは失礼なので、レッスンの前日は、ボエームの勉強を棚上げにして、フルートをたっぷり吹いておきました。とは言え、やはり練習の絶対量の不足はなんともしがたく、エルステユーブゲンの暗譜は最初からあきらめました。

 レッスンに行って、まずはロングトーン練習ですが、これがここ数回の中で、もっとも良い出来だったのにビックリしました。先生と、ほんとにビタっと合った音で吹けました。やるじゃん、私(練習してないけれど)。

 エルステユーブンゲンは16番です。最初から暗譜を諦めて吹いてみたら、なかなかいい感じで吹けました。先生からも「いい音で吹いてますね」と誉められました。余裕をもって上手に吹けると、音色も良くなるようです。続く17番は、ほぼ初見に近い感じなので、余裕も何もなかったので、あんまり良い音では吹けませんでした。

 プチエチュードは13番ですが、今回も(当然)不合格でした。今回、特にこっぴどく注意された事は2つあります。一つは、装飾音符の付いた音符の吹き方、もう一つは、テンポの問題です。

 装飾音符の付いた音符の吹き方だけれど、装飾音符はあくまでも“装飾”であって、そのために元の音符に影響があってはいけません。スタッカートの音符に装飾が付いても、その音符はスタッカートで吹かなければいけません。なのに、私は、装飾が付いたら、そこに一生懸命になってしまい、装飾が付いた元の音符の吹き方が雑になっているというのです。特に、スタッカートの音符に装飾が付いたら、スタッカートがどこかに行ってしまっているというわけです。うわー、そりゃあダメですね。

 テンポの問題は…難しい箇所はゆっくりと吹いて、簡単な箇所はバンバン飛ばして吹いているので、もっとテンポを一定にして吹きなさいって言われました。難しい箇所はゆっくりで、簡単な箇所は速くって…ピアノ発表会のお子様たちみたいな事をやっているってわけです。ははは、確かにそうかもね。

 難しい箇所は、難しいが故に指が回らずにゆっくりになってしまうというのはありますし、苦手な箇所だから、丁寧に吹いてゆっくりになってしまうのかもしれません。一方、簡単な箇所は、本来の指定されたテンポでガンガン行くわけです。

 ですから、先生と一緒に吹くと、先生のテンポがすごく速くて、ついていけないのですが、先生曰く「あなたと同じテンポで吹くと、こんな感じなんですよ」とおっしゃいます。つまり、この速い速度が私の演奏テンポの基準で、簡単なところはこのテンボでガンガン行っているのですが、難しい箇所になると、途端にゆっくりになるってわけですね。

 いやあ、お恥ずかしい。

 さて、今回の雑談は、音楽家はいつ忙しいのですか?という話です。

 私の仕事は、今が繁忙期で、私は毎日、雑巾のようにズタボロになりながら、働いております。ちなみに、私の場合は、比較的、夏場が暇かな? 夏は暑いけれど、仕事に余裕もあるし、精神もユルユルになれるので、夏は好きです。

 で、先生に「音楽家の皆さんは、いつが忙しくて、いつがヒマなんですか」とぶっちゃけ話を尋ねてみました。

 先生曰く、秋~春は、オーケストラのシーズンだから、基本的に忙しい。夏はオケがオフだけれど、日本各地で行われる音楽祭で吹くから、やっぱり忙しい。結局、毎日、いつでも忙しいのだそうです。

 と言うのも、音楽家は個人事業主で、自由業なわけですから、仕事があるうちが華であって、仕事がなくなれば、それで「さようなら」という職業なので、忙しいのが当然で、ヒマなんて、あってはならぬのだそうです。まあ、そこらは有給休暇のある私などとは違うわけです。

 だから、若い時は、依頼された仕事は断らずに全部引き受けていたので、目が回るくらいに忙しかったそうです。さすがに今は、仕事を選ぶようになって、以前ほど忙しくはないのだそうです。

 しかし、仕事と言うのは、一度断ると、そこからは二度と依頼が来なくなるものなのだそうです。だから、仕事を断るのは、本当に勇気が必要なんだそうです。

 H先生は家庭を持っているので、お子さんが可哀想だった…との事です。とにかく、あそこのウチは、夫婦そろって音楽家ですから、お子さんが小さい時でも、なかなか家族団らんって無かったのだそうです。特に、夏の音楽祭シーズンなんて、泊まりが常識だったそうですから、お子さんが小学校までは、学校休ませて、一緒に連れて行ったんだそうですよ。それくらい、仕事の虫だったわけだし、そこで家庭を省みているようじゃあ、音楽家として大成しないわけです。

 というわけで、若い時はバリバリ仕事をしていたH先生ですが、今はもう半分引退しているようなモノですから、バンバン仕事を断って、音楽業界からフェードアウトをしている最中なんだそうです。

 「若い時に稼ぐだけ稼いだから、これからは使わないとね」との事です。まあ、天国には稼ぎは持ち込めませんから、元気なうちに、バンバン使っていかないと、働き損なんだそうです。うむ、我々サラリーマンとは世界が違うなあ。

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