ひとこと

  •  ポケモンGOの仕様が大きく変わって戸惑ってます。たぶん改良されたのだろうと思うのだけれど、どう楽しめば良いのか、正直戸惑っています。年寄りは変化が苦手なんだよねえ。ああ、以前のゲームシステムが懐かしい…。
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2016年3月の記事

2016年3月31日 (木)

誰か私をなぐさめてください![2016年3月の落ち穂拾い]

 左欄の“ひとこと”に書かせてもらったけれど、ホント最近、なんか忙しい。忙しすぎて、色々とイヤになってます。ブログ書くのもイヤになっていたりしてね(笑)。例のハッカーさんは、すぐにおとなしくなってくれたけれど、安心だと分かると、なんか気が緩むね。気が緩むと、やっぱり人間、やさぐれるね。

 まあ、それはともかくとして“ひとこと”欄すら更新できずに放置って、やっぱり無理があるのかもしれないなあ…。

どこまで出るテノールになりたい

 最近、色々な人に言われるし、私自身もうっすらと感じているのですが「もしかすると、私って、高音が得意なテノールなんじゃね?」って事です。もちろん、今現在『高音が得意なテノール』なのではなく、そういう将来性というか、可能性を秘めた感じがする…って話です。つまり「今は色々とヘタを打っているので、高音もあまり出ないけれど、どこかで一発逆転すれば、高音なんてスイスイ出ちゃうテノールになるんじゃないの?」という希望的観測があるって話です。

 高音が、どこまでも出るようになれば、テノールとして、うれしいんですが…。

 Y先生に習う以前(つまりキング先生に習っていた時)は、私の実用音域の上限は、五線譜上部のE~Fまでで、F♯で声がつまり始め、調子が良い時だけ、Gをむりやり出せると言った程度の人間でした。それも音色的には聞き苦しい声でね。

 だからキング先生に「バリトンに転向しなさい」なんて暴言を吐かれちゃったわけだな。

 その後、Y先生に発声のあらゆる面に於いて見直しをしていただき、音域も少しずつ拡張してもらい、今は実用音域ならA♭まで、調子の良し悪しに関わらず、テクニックを駆使して何とかAまで出せると言った感じです。手順さえ間違えなければB♭やBも出せないわけじゃありません(ただ、手順はよく間違えますので、結果的にはほぼ博打状態です)。

 現在の目標としては、実用音域でAまで、テクニックを駆使してBまでは確実に出せるようになりましょうって事で頑張ってます。つまり、私の声ではHi-Cはかなり難しく、Hi-Cisに至っては「そういう楽器を持っていないでしょ」と先生に言われてます(汗)。ですから、印象とは違って“どこまでも出そう”ってわけではないみたいです。

 まあ、Bまで確実に出れば、いいんじゃないの? プロでもHi-Cは出ませんって人、たくさんいますからね。Hi-Cが出なくても、テノールとしては十分すぎますからね。うんうん。

 でも贅沢だとは分かっているけれど、ベッリーニ作曲の歌劇「清教徒」の中のテノールアリアの“A te o cara/いとしい乙女よ、あなたに愛を”を歌いたいんだよねえ。あれは、メロディーの中に普通にHi-C#が出てきて、決めのフレーズにHi-Fが出てくるんだよね。あれが歌いたい私です。

 私が“どこまでも出そう”な声を持っていたら、この曲にもチャレンジできるんだけれど…無理だろうなあ?

音楽大学を卒業すると、箔が付く?

 すべての学校がピンキリであるのと同様に、大学もピンキリで、当然、音大もピンキリです。“きちんとした音楽家を輩出している音楽大学”で教育を受けた学生さんたちは、男女問わず、頑張って職業音楽家としてのキャリアを積み、中には世界的な演奏家にまで上り詰める人もいますが、そこらのボンクラ音大(失礼)の学生さんたちでは、なかなか、そうもいかないのが現実です。

 とは言っても、男子学生の場合は、適当なところで自分の才能に見切りをつけて、平凡な社会人として、平凡な人生を歩み始め、ごく平凡な人生と、そこそこの幸せを見つけていくのだと思います。

 男子の場合は、どこの大学を出ようが、妻子を養えないようでは半人前ですからね。男の子は頑張るわけです。だから、男子の場合、音大進学って、色々と賭けなわけですし、進学する時の気持ちは、半端なものじゃないわけです。

 一方、女子の場合は、ちょっと違うかもしれません。女子の場合、“女としての箔付け”が目的で、音大進学をする場合があるからです。

 と言うのも、女子の場合、学力が低くて、ブランド力のある大学には行けず、かと言って、高卒じゃなんだし、地方の無名大学や専門学校あたりに入学されるのは、親として恥ずかしい…と思われた、お金持ちの方が娘に音大進学を薦めると言った事は、よく聞きます。音大卒なら経歴として悪くない…って勘定するんだと思います。

 実際、音大に進学するのって、家庭に経済力がないと無理ですから、音大を卒業したと聞けば「ああ、経済的に恵まれた家庭に育った人なんだな」と思ってもらえるわけです。まあ、音大を一種の“お嬢様学校”とみなしているわけです。

 また、教育現場では(ひどい話ですが)教師が「君は学力が不足気味だけれど、家庭も裕福のようだし、小さい時からピアノ習っているんだろ? だったら音大に進みなさい」という進路指導している事も、よく聞きます。

 そういう事実があるから、女としての箔付けのためだけに音大進学をする学生が跡を絶たない訳です。そして、音大卒なのにピアノも弾けない卒業生が大量発生するわけだし、「あそこは音大じゃなくて、キャバ嬢養成学校だ」とか言う悪口も、よく耳にする話です(ほんと、キャバ嬢に失礼だと思いますよ)。

 でも、昭和の時代ならともかく、世知辛い今の時代に、音大出たからと言って“女性としての箔”なんて、付くのかしらね? 音大に娘を進学させるのは、確かに経済的には厳しいけれど、今と昔では経済力のハードルも違うわけで、音大も昔ほど“お嬢様学校”扱いしてもらえるわけじゃないし、むしろ「あの娘は勉強できないから音大に行ったのよ」って言われるだけじゃないかしらね。これもまた、音大できちんと勉強した学生さんや音楽家さんたちに失礼な物言いですが、そういう事を言われているのも事実です。

音色を美しくする方法

 歌手にしても、笛吹きにしても、音色の美しい人は、普段の話し声が、だいたい、美しいものです。で、美しい話し声の人って皆さん、息の使い方が上手で、息がノドのどこにも全然ひっかかりがないんですね。それこそ「息を吐くように息を吐いている(笑)」わけで、ほんと、うらやましいです。

 さらに彼らは常に口腔内を広く保っている事もあって、息遣いだけでなく、声に良い倍音を付けて話すので、それが美しい音色につながわるわけです。普段の声が美しいから、演奏する音も美しいんだなあって、納得しちゃいます。

 吹奏楽部なんかで、楽団の音を美しくしようと思ったら、団員の話し声に気をつけさせるだけで、相当に音色が美しくなるんじゃないかしら?…なんて思う私でした。

今月のお気に入り カルト村で生まれました。

 この本で取り上げられている“カルト村”とは、ヤマギシ会のことらしいです。私自身は、ヤマギシ会について、そんなに詳しいわけじゃないですが、以前からおつきあいのあるネット友人が、このヤマギシ会の出身(今はヤマギシとは距離を置いているようです)で、彼の言動のあっちこっちに以前から気になる事も多く、ヤマギシ会で生まれ育つってのは、どういう事なのかなという興味がありました。そんな時に、この漫画と出会ったわけです。

 まあ、私の感想を簡単に言うなら「本人(親たちだね)は好き好んで入信しているのだから良いとしても、子どもたちには選択の余地がなく、親から離されて(あえて言うけど)非人道的な環境で育たざるをえないわけで、この漫画の通りならば、児童虐待も良いところだなって事です。もちろん、この漫画の通りなら…という前提条件付きですが。

 まあ、現代日本に、こんな社会があるんだなあと思った次第です。色々と勉強になります。

今月の金魚

 とりあえず元気です。最近は忙しくて、水替えもサボリ気味なんですが、それでもみんな元気です(ごめんな)。

今月のひとこと

 「偉大なるマルグリット」という映画が明日から始まる。ぜひ見たい。しかし、毎日毎日仕事が忙しくて見に行けそうもない。ああ、悲しい。(2016年2月26~29日)

 そういえば、ラ・フォル・ジュルネのチケットのフレンズ先行販売が始まっていましたね。今年のテーマは「la nature ナチュール - 自然と音楽」と言う事だけれど、なんか、ピンと来ないなあ…。(2016年2月29日~3月6日)

 花粉症がひどい。ほんとひどい。厚生労働省の調査では、国民の約四割が花粉症との事。そうならば、すでに個人の問題ではなく、国家の問題でしょう。公衆衛生の問題でしょう。だったら、国は何らかの手を打つべきだろう。これを放置するとは、無策のそしりは免れないだろう。プンプン。(2016年3月6~8日)

 『保育園落ちた、日本死ね!』の人は、匿名のまま、お仲間の方々と一緒になって反政府活動をしていて、なんか気持ち悪い。ほんとにあのブログは、保育園に落ちた女性の方が書いたのかしらね? 匿名だもの、成りすましだって可能だよね。外国の工作員の方が、あのブログを書いた可能性だって高いよ。何しろ、ハンドルすら使う必要のない“はてな匿名ダイアリー”に登録された文章だもの。ここって“ブログ”と言うよりも、誰でも書き込める一過性の掲示板みたいなサービスでしょ? 他人を侮辱するには、ちょうどいいメディアだしね。この記事を書いた人、あるいは記事を利用した人は、よっぽど次の衆参ダブル選挙に向けて自民党(&安倍政権)の人気を下げたいと思っているんだろうね。何しろ、安倍政権の支持率って約50%もあって、歴代政権の中でも支持率が高い政権だからね。まずは選挙に向けて、揚げ足とって人気潰しをやっているんだろうなあ。(2016年3月8~15日)

 今更だけれど、ネット通販の便利なところは、安価で良質な輸入盤がたやすく入手できる事。さっこん、ラ・ボエームの勉強のため、数セットの全曲盤を購入したけれど、これがほんと、安価で嬉しいです。昔のように店舗買いが基本だったら、きっと数万円の出費が覚悟された事が、ほんの数千円で済むんだもんなあ。世の中、便利になったものです。(2016年3月15~23日)

 ここのところ、三寒四温な毎日ですね。もっとも本来の三寒四温とは、真冬に三日寒い日が続くと、その後の四日間は暖かくなるという…中国や韓国特有の気候の事を言うそうですが、日本は中国でも韓国でもないので、寒さと暖かさが交互にやってくる、今時分の気候の事を、いつのまにか“三寒四温”と呼ぶようになったそうです。実にまさに、今が三寒四温なんだよなあ。(2016年3月23~30日)

 今月は以上です。よろしくお願いします。

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2016年3月30日 (水)

ここ数日、頑張ってます

 何を頑張っているのかと言うと、ボエームの譜読みです。とにかく、今まで歌ってきた歌曲やオペラアリア、二重唱などとは、かなり勝手が違うのです。

 まず、楽譜が難しい(笑)。なにしろ、プッチーニはワーグナー以降の作曲家で、クラシック音楽の最終形態のような音楽を書く作曲家ですから、音楽が理屈っぽくて、難しい難しい。

 「ラ・ボエーム」が作曲された時代、すでに世間の関心は、オペラからオペレッタに変わっている時代です。時代は、いわゆる“クラシック音楽”から“ポピュラー音楽”へ、その主役を変わろうとしていた時代です。

 時代の主役であるオペレッタが庶民的な音楽を志向していたのですから、対抗馬であるオペラは自然と庶民的ではない方向(ってのは、インテリとか金持ちとかが好む方向)へ行かざるを得なかったわけで、そりゃあ難しくて当然です。そしてプッチーニは事実上、最後のクラシック音楽作曲家だったわけで、彼の次の世代の音楽家たちは、ポピュラー音楽家(時代の主役はこっち)と現代音楽家(クラシック音楽の残滓だね)に分かれていったわけで、次に生まれたミュージカルは、ポピュラー音楽の流行とともに、前時代のオペラとオペレッタをあっという間に駆逐して、今に至るわけです。

 だからまあ「ラ・ボエーム」が音楽的に難しいのは、ある意味当然です。

 でもね、楽譜のピアノ伴奏を見てみると、右手が6/8拍子で、左手が2/4拍子の箇所なんて、どうやって弾くんだろうね?

 閑話休題。「ラ・ボエーム」の譜読みをしています。このオペラは、びっくりする事に、たった4曲の歌で、オペラ全体が成り立っています。つまり、このオペラは全四幕なので、一幕一曲で出来ているってわけです。つまり、ワーグナーのような“楽劇スタイル”で作曲されているわけです。我々がよく知っているアリア(例えば「冷たい手」とか「私の名前はミミ」)なども、独立した単独のアリアではなく、音楽の一部を切り取ってアリアとして歌えるように切り出されたり、編曲されたりしたモノなのです。驚きだね。

 さらに言うと、ボエームには、レチタティーヴォなどありませんから、物語は、いわゆるアリアと重唱だけで進められていきます。いわゆる(ワーグナー以前の)オペラの場合、物語はレチタティーヴォで進められ、アリアや重唱の時は、物語の時間が止まり、歌い手も聞き手もアリアや重唱に集中できましたが、ワーグナー以降は、アリアでも時間は動いていますので、舞台の上はアリアが歌われていようが、二重唱が歌われていようが、歌手は芝居をし続け、演技をし続けないといけません。ですから、楽譜には演技を指示するト書きがやたらと書き込まれています。このト書きの部分を、歌いながらこなさないといけないわけで…ああ、難しい。

 それぞれの幕は約30分ずつですから、常に30分一曲の扱いでは、練習もリハーサルもできません。楽譜を見ると、リハーサル番号が適当に振ってありますので、実際の練習では、そのリハーサル番号に従って練習を進めていけば良いのだと思います。

 また、作曲上は一幕一曲ですが、慣習的には、それらを適当に切り分けて一曲として扱う事が普通なので、私もその慣習に載っかって話を進める事にすると…私が歌う第一幕の冒頭部は5曲から、第四幕の終幕部では3曲から成り立っていると考えられます。

 第一幕の冒頭部はこんな感じです。

1)「Questo mar rosso mi ammollisce/この紅海の奴は俺の気力をくじいて」
 オペラの前奏曲とそれに続くマルチェッロのぼやき。ここではロドルフォは歌わないので、厳密に言えば、今回私が歌う範疇には入らないけれど、この曲が呼び水となって、次のロドルフォのアリエッタにつながっていくので、ロドルフォ的には“イントロ”的存在の箇所です。

2)「Nei Cieli Bigi/灰色の空に」
 ロドルフォが窓からパリの町並みを見ながら歌うアリエッタと、ストーブに自作の戯曲の原稿を燃やしながらマルチェッロと会話を交わすシーン(二重唱です)が続いてきます。

3)「Già Dell'Apocalisse Appariscono I Segni/すでに最後の審判のしるしが現れているぞ」
 3人目の男、コルリーネが登場。

4)「Pensier Profondo!/深遠な思想だ!」
 3人がストーブを取り囲みながら会話(三重唱)。ついにストーブに入れる原稿も無くなり、再びストーブからは火の気がなくなりました。

5)「Legna! Sigari! Bordò!/薪だ!葉巻だ!ぶどう酒だ!」
 そこに4人目の男、ショナールが大量の薪と食料と酒を持込み、一同、狂喜乱舞。さっそく、晩餐を始めようとする仲間たちを静止し、ショナールは「軍資金はたんまりとある。さあ、街に繰り出して、外でメシを食おう!」と仲間に呼びかけて、一同外出の準備を始めます。

 ここまで約10分です。今回はここまで歌います。実はこの後に、家主が家賃の取り立てにやってきて、男声五重唱となるシーンが続きますが、五人目がうまく揃わなかったので、今回は四重唱まででお終いです。ちょっぴり残念な気もしますが、仕方ないです。

 YouTubeにはちょうどよい動画無かったので、私の好きなステファン・セッコ(チビでハゲなテノールです)がロドルフォをやっているボエームが、各幕ずつ分割でアップされていたので、その中から第一幕の動画をここに貼っておきます。私が歌うのは、冒頭部から10分20秒ぐらいまでの部分で、登場人物が5人になる前までの部分です。

 ちなみに、第四幕の部分(前回動画を貼りました)は三曲に分かれます。

6)「Sono andat?/みんな出かけてしまったの?」
 いわゆる「ミミの別れ」と呼ばれる、ミミのアリアです。仲間たちが気をきかせて、死にゆくミミとロドルフォを二人きりにしたところで、ロドルフォに別れを告げるミミ。やがてアリアはロドルフォとの二重唱につながっていきます。

7)「Che avven?/どうしたんだ?」
 発作を起こすミミ。やがて仲間たちも戻ってきて、ミミは順番に仲間たちに別れを告げていきます。

8)「Che Ha Detto Il Medico?/医者はどう言ったんだ」
 意識を失うミミ。仲間たちはびっくりするが、寝ているだけだと思い、平静さを保とうとする。やがてミミの死にショナールが気づき、ロドルフォに気遣い、小声で仲間に知らせる。異様な雰囲気に気づいたロドルフォが、ミミのベッドにかけより、抱きしめながらミミの躯を胸に慟哭する。

 まあ、こんな感じですね。

 両方ともロドルフォ的には、そんなに美味しい場面ではありません。やはりロドルフォ的に美味しいのは、ミミとの愛の二重唱がある第一幕の後半部であるとか、マルチェッロ、ムゼッタ、ミミとの四重唱がある第三幕ですが、そこは私は歌いません。もちろん、その部分も今回の発表会では歌われますが、ロドルフォ役は私ではなく、プロの方にお願いする事になってます。正直、私が歌いたいのですが、やはりそういう美味しい部分は、技巧的に難しい事と、相手役のソプラノさんにとって、プロと歌うのと、私と歌うのとではモチベーションが違うでしょうから、それはまあ、仕方のない事と割り切ることにしました。ちなみに、第四幕のミミは、妻が担当しますので、相方のロドルフォが私でも問題ない…って事になってます。

 門下のソプラノさんたちと歌うためには、もっと私の歌がうまくならないとダメだよね(残念)。

 でもまあ、それはそれで良いという事にしました。もちろん、第三幕もそうだけれど、第一幕の後半のミミとの愛の二重唱は、いつか必ず歌いたいと思ってますので、そのうち、いずれ、私が技巧的に上達したら、ぜひ歌うつもりでいますので、将来の楽しみとして取っておくことにしました。

 それにしても、今回の発表会で、演奏会形式の抜粋とは言え、ボエームを歌う事は、私にとって、とても意味深い事であります。なにしろ、かつてキング門下ではバリトンに転向しなさいと命じられた私です(ちなみに、妻は「アルトですね」と決めつけられていました)。それが2人して、テノールとソプラノの代表的な役を歌わせてもらえるわけですから、とてもとてもうれしいわけです。

 それに単なるオペラアリアとか、二重唱ぐらいなら、今後も歌うチャンスがあるでしょうが、多重唱となると、なかなかチャンスはありません。ましてや、ピアノ伴奏とは言え、オペラの場面を歌うとなると、プロならともかく、アマチュアの私には、ほんとチャンスなんて無いものです。そんな千載一遇のチャンスが今回巡り回ってきたわけですから、これを逃す手はありえないのです。

 私が以前、アマチュア歌劇団を作ったのも、自分たちでオペラの主役を歌いたかったからであって、その時の夢の一部を、今回、思いがけず実現できる喜びに打ち震えているわけです。

 しかし、嬉しい嬉しいとばかりは言ってられません。歌うからには、きちんと歌いきらないといけません。準備期間も短いですが、がんばって暗譜もしないといけません。ほんと、頑張らないといけません。

 まずは気張らずに高音をきちんと発声できるようにしないとね。第一幕も第四幕も、最高音はB♭です(以前、第一幕の最高音はAだと書きましたが、それは楽譜上の話で、慣習的にはB♭なので、今回の私もB♭で歌います)。私の現在の実用音域の最高音(A♭)よりも全音高い音を出さないといけませんが…頑張るしかないです。

 とにかく、頑張っていきたいと思います。

 ちなみに、今回のパフォーマンスは、おそらく、ネットにはアップできないでしょう(全員から、ネットへのアップの許諾を貰えるとは、到底考えられない)。それでも私の勇姿を見たい方は、ぜひ会場までお越しくださいませ。2016年7月18日(祝)の横浜の関内ホールでやる事になっています(ってか、今はそのくらいまでしか決まってません)。

 私は、ボエームの他に(持ち時間的に)短い歌を一曲歌っても良い事になっています。そっちの選曲はまだまだ当分先の話ですが、そっちの方は、ネットにアップできると思います。

 歌の練習もさておき、当面の私の課題として、台本書きがあります。

 当日の舞台は、オペラを抜粋で演奏しますので、抜けた部分も含め、オペラ自体がイタリア語で歌うこともあり、オペラのストーリーはナレーションで進行する事になっています。で、そのナレーション原稿を私が書くことになっているからです。

 実はまだ着手していませんが、四月上旬には仕上げないといけないかな…って思ってますので、かなり切迫した状況に置かれている私です。

 なぜ書かないのかと言うと、実はまだ勉強中だからです。オペラ全体の台本を読み込む事もそうですし、楽譜だって一通り目を通さないといけません。また、周辺知識を仕入れるために、各種参考書やネット情報を集めている最中です。

 そうやって、色々な事をインプットした上で、どれを実際の文章に盛り込み、どの部分をバッサリとカットして、コンパクトな原稿するべきかを、ボケーっと考えているわけです。

 ある意味、今回の私は、ロドルフォを歌う以上に、原稿書きにエネルギーを使っているのかもしれません。まあ、それも良しです。

 とにかく、内容の推敲&洗練はもちろんの事、音楽の邪魔をしない簡潔な原稿を書きたいなあと思ってます。

 私の歌をアップするのは難しいと書きましたが、こっちの原稿の方は、元の台本の著作権も切れていることですか、アップする事も可能ですが…私の書いたボエームのナレーション原稿なんて、アップしても使いみちないでしょうね。

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2016年3月29日 (火)

声は消費するのか?

 よく言われること(私もかつてはよく言ってました)に「歌いすぎると声がなくなる」と言うのがあります。

 具体的には「声がなくなる」と言っても、短期と長期の二つのパターンの考え方があると思います。短期の方は“控室で熱心に歌いすぎて、本番では声が出なくなっていたオペラ歌手の例”であり、長期の方は“子どもの頃から歌っていた歌手ほど引退が早くなる”という話です。両方ともプロの話なんだけれど、いかにも“声は消耗品”であるという考え方に基づいた話です。

 “声は消耗品だから、大切に使いましょう”という意味なら、私にもよく分かります。また、歌いすぎた直後に声が出づらくなる事も、経験的に分かっています。早く歌い始めた人ほど引退が早い…かどうかは私には分かりませんが、私のような超スロースターターには関係のない話だろうと思ってます(てへっ)。

 それはともかく、声って本当に消耗品なのか、声って消費をするのか?という事について、少し考えてみたいと思います。

 まず短期の方。歌いすぎると、なぜ声が出なくなるのか?

 私、合唱をやっていた時は、そうそう簡単に声が出づらくなる事はありませんでした。と言え、さすがに1時間半とか2時間とかを連続で歌うと、声が出づらくなってましたね。独唱に移ってからは、キング先生時代だと1分ほど歌うと、もう声が出づらくなっていました。モーツァルトのアリアだと最初の4小節でもうアウトでした。

 これから言える事は「合唱よりも独唱の方が早く声がなくなる」って事でしょうが、これは、今思うに、単純に、疲労の問題ではないかと思われます。

 合唱って、長時間歌っているつもりでも、案外、休み休み歌っているモノです。一つのパートが最初から最後までずっと歌っている事って、あまりないし、練習ならば、パートごとに歌うことだってあるわけで、当然歌っていない時間がたくさんあります。また自分はロクに歌っていなくても周りがきちんと歌っていると、なんか歌っている気分にもなれます。練習時間的に2時間であっても、自分が歌っている時間は、ちょっとずつの細切れだし、その時間だって合わせてみれば、せいぜい30分とか小1時間で、合唱の練習って、思っているほど声を出しているわけじゃないんです。

 それに合唱は、休み休みの上に、あまり頑張って歌うものではないわけで、だから1時間や2時間は、割と平気で歌い続けることができるわけです。逆に言えば、いくら合唱でも、それくらい歌うと、さすがに疲れて、声が出づらくなるわけです。

 独唱の場合は、声が丸裸ですから、手を抜いて歌うわけにはいきません。特に私の場合は、常に気合を入れて全力全身で歌っていましたから、カラダじゅうのあっちこっちに力が入って、あっという間に疲れてしまっていました。発声方法のマズさもあって、1分も歌えばクタクタになってしまうので、声がそこまでしか保たなかったわけです。やっぱり短期における「声がなくなる」は、疲れて声が出づらくなる事だと思います。

 だから、休み休み歌えば、それなりの時間歌えるし、負担の少ない上手の発声方法ならば、長く歌えるわけです。

 あと、以前の私のような勢いだけの歌い方をしていると、歌う度にノドを痛める(つまり、細かな小さな怪我をする)わけで、ノドを痛めれば、そりゃあ声も出なくなるよね。

 ちなみに筋肉と言うものは、小さな筋肉ほど疲れやすく、回復しづらいものなんだそうです。発声に関わる筋肉のうち、ノド周辺の筋肉は小さい筋肉が多いので、ノド周辺に負担のかかる発声(ノド声ですね)をしていると、簡単に声が出づらくなってしまいます。

 長期の方に関しては、私には実感としては分かりません。

 しかし、長い年月歌っていると、やがて声が出づらくなってくるだろうなあとは思います。その理由の一つはノドの変質であり、もう一つの理由は加齢です。

 ノドの変質とは、どんな人でも思いっきり歌えば、多かれ少なかれ声帯を痛めるわけです。プロのオペラ歌手さんたちは、いつもたいてい(医学的な見地で言えば)ノドが腫れているものです。ノドを傷つけては治癒し、傷つけては治癒しの繰り返しをしていると、声帯はどんどん変質していきます。一般的には固くなっていき、物理的に強くなり、柔軟性を失っていきます。これがノドの変質ね。だから、長期間歌っていくと、高い声が出づらくなっていく原因の一つがこれだろうと思います。

 あとは加齢ね。単純に年を取っていくと、筋力が衰えていくし、水分不足になっていきます。これは本来、歌おうが歌わなかろうが関係のない事ですが、歌っている人にとっ、加齢で高音が出づらくなるとか、声にツヤがなくなっていくとかは、これらが原因なのではないかと思います。

 「声は消費する」のかと尋ねられると「消費する」という言葉の定義に迷ってしまいますが、短期においても長期においても、歌っていれば「声は出づらくなる」とは言えると思います。この「声が出づらくなる」ことを以って「声は消費する」というのなら、声は消費するのだと思います。

 では、声を消費せず、長い時間歌い続けるためには、どうしたらよいのでしょうか?

 答えは簡単です。ノドの健康に気をつけていればいいのです。ノドが常に健康で、無理せず、疲れずに、正しい発声(カラダに負担をかけない発声)で歌えば、さほど声を消費せずに済むと思います。

 キング先生に習っていた頃の、1分も歌えば、声が無くなっていた理由は、単純に“間違った発声”で歌っていたからです。ただ、それだけ。Y先生のところに移って、根本的に発声方法を変えた現在、1分で声が無くなるという事はありません。もっともだからと言って、無限に歌えるわけではなく、たくさんたくさん歌えば、疲れてしまうわけで、それを克服するには、筋トレと体力づくりが必要なんだと思います。

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2016年3月28日 (月)

移動ド歌唱がまだ主流なんだそうです

 先日、学校の音楽のセンセ方と話すチャンスがあったのですが、そこで出た話題の一つに「歌は、移動ドで教えないといけないのですよ」というのがありました。

 なんでも、指導要領で、そう決まっているのだそうです。確かに小学校学習指導要領には、以下の様な記載があります。

第2章 各教科 第6節 音楽
 第3 指導計画の作成と内容の取扱い
   2.第2の内容の取扱いについては,次の事項に配慮するものとする。
   (3) 歌唱の指導については,次のとおり取り扱うこと。
     ア 相対的な音程感覚を育てるために,適宜,移動ド唱法を用いること。

 うむ、確かに『歌は移動ド唱法で指導する』と書かれていますね。で、その目的は『相対音感の育成』ってわけだ。まあ、分からないでもないです。

 でも問題は色々とあって、移動ドで教えるのは“歌”であって“器楽”に関しては、どうやらその限りではないそうなんです。いや、むしろ「違う」って言えるでしょうね。

 学校で使う楽器で圧倒的にポピュラーなのは、リコーダー(縦笛)ですが、このリコーダー、入門段階ではソプラノリコーダーを、中級クラスになってくるとアルトリコーダーを使用します。

 リコーダーはフルートと同族の管楽器であって、管楽器って楽器は、通常は移調楽器として扱われるものです。ザックリ言えば「トーンホールを全部塞いだ状態の音を(実音では何であれ)ドと記載する」というルールで本来は適応されるべき楽器なのです。

 しかし、リコーダーの世界は違うのです。リコーダーは移調楽器ではなく、ピアノやオルガン、ハーモニカや鍵盤ハーモニカ、木琴及び鉄琴(これは学校で主に扱う楽器たちです)などと同じように、実音で教えます。ソプラノリコーダーはC管ですから、トーンホールを全部塞いだ状態が、たまたまドですから問題ありませんが、アルトリコーダーはF管です。トーンホールを全部塞いだ状態だとファが出ますので、これを“ファ”として楽譜に記載して教えます。移調楽器だから、たとえ“ファ”が出ても、すべてのトーンホールを塞いでいるのだから“ド”として楽譜に記載する…なんていう、管楽器界のルールには従いません。

 学校では、楽器は常に実音で教え、移調した楽譜を使用しないのです。

 なんか、矛盾を感じませんか? つまり、楽器を教える時は実音のまま固定ドで、歌の時は移調させて移動ドで教えるわけです。

 さらに困った事に、最近の音楽のセンセたちは、絶対音感を持っている方々がほとんどで、相対的な音程感覚なんて、必要ないので持ち合わせていない方が多く、自分自身は常に実音で音楽に向き合っていたようで、センセ方自身、移動ドでは歌えない…なんて事があるらしいのです。センセ自身は、歌う時は固定ド唱法でなければ歌えないのに、授業の時は、生徒に対しては(頑張って)移動ド唱法を教えている…ってわけです。とてもやりづらいんだそうです。ですから、先生によっては「私はもっぱらリコーダー演奏と鑑賞を中心で授業を進め、歌は申し訳程度にしかやらないの」という人もいらっしゃいました。

 ご自身が移動ド唱法が苦手であるなら、そんな事にあっても仕方ないかもしれませんね。あと、歌は楽器と違って“男子の変声”と言うのもありますから、女性が多い音楽教育界では、ついつい歌を避ける傾向が増えても仕方ないかなあ…なんて思うわけです。

 ダブルスタンダードは学習者の混乱を招くのでやめたほうが良いと思いますが、この場合のダブルスタンダードには、歌には歌なりの、器楽には器楽なりの理由と意味があると思うので、やむないとも言えます。

 それはさておき、移動ド唱法というのは、絶対音感のない普通の人が、普通の歌を、普通に歌うためには、良い方法だと思います。実際、移動ド唱法を訓練していくと、相対音感が身につくでしょうね。

 まあ、移動ド唱法に問題があるとすると、調性によってドの位置が変わるので、それを常に意識し、どんな調性の楽譜でもしっかりと、その調のドレミで即座に読めるように訓練する必要がある事でしょう。

 もちろん、途中で転調してしまう曲とか、現代曲に多い無調の曲などは、移動ド唱法では歌えませんので、そういう曲は最初からパスする必要がありますが、普通の曲は、ちゃんと調性があるし、途中で転調なんてしません。だいたい、普通の学校で音楽を学ぶ生徒のほとんどは音楽の道に進みません。あくまでも一般教養として音楽を学ぶわけですから、普通の曲が普通に歌えるようになる移動ド唱法で十分なのです。

 問題があるとしたら、私のように、大人になって趣味で歌うとなった場合には、移動ド唱法では対応できないって事でしょうね。無調の曲は…さすがに私も歌いませんが、オペラアリアにせよ、歌曲にせよ、曲の途中で転調してしまう曲はかなりあります。だいたい、楽譜の中で臨時記号が使われている箇所があれば、その部分は大抵、転調していると思ってよいでしょう。また、長調と短調を行き来する曲だって数多くあります。そうなると、いくら歌であっても、移動ド唱法ではなく、固定ド唱法で行くしかなくなるわけです。でもね、固定ド唱法って、結局、絶対音感がないと厳しいわけで、私のように絶対音感のない趣味人の場合は、大きくつまずく原因となるわけです。

 世の中、ままならないね。

2016年3月27日 (日)

やはり問題の裏側には悪意を感じざるを得ません

 未だに一部のマスコミでは、『保育園落ちた、日本死ね!』の人のブログの話を話題にし続けています。なんか、偏執的な感じすらします。

 確かに“待機児童問題”って大きな問題だし、保育士不足とか彼らの待遇改善とかについても考えあわせていかないといけないと思います。でも、問題の取り上げ方や盛り上げ方に違和感[SEALsの時や安全保障法案(彼らは“戦争法案”とミスリードしていました)の時と同じ違和感]を感じたので、私も保育所問題について、付け刃的にアレコレ調べてみました。

 ちょっと勉強して分かった事は、やっぱり『保育園落ちた、日本死ね!』の人、あるいは、それを利用している人たちには、現政権と言うか、日本に対して、悪意を持っているなあって事です。つまり“反日”なんです。アレって、反日キャンペーンの一つであり、情報戦の一環であったって事です。

 私も含めて、多くの人の無知につけこんだ“印象操作”であり、安倍政権&自民党政治に対するネガティブ・キャンペーンだったんだなあって事です。やはり、次の夏の選挙で、多くの反日政治家を、日本の中枢に送り込むための工作の一つなんだって事です。

 だって、彼らの主張している事。一見して正しくて真っ当な事のようだけれど、実はアレコレ間違っているし、単なる嫌がらせだし、はっきり言っちゃえば、ただの言いがかりなんだもの。で、おそらく、言っている人たちは、自分たちの行いが、嫌がらせであり、言いがかりだという事を、知っていてやっているのではないかって事なんです。

 つまり、彼らの目的は、保育園問題や待機児童問題ではなく“安倍政権がだらしない”とか“国民生活に背を向けた政治を行っている”という間違った印象を受け付ける事なのです。それって、彼らは我々に対して“情報テロ”を仕掛けているわけなんですね。

 汚いなあ…、卑怯だなあ。

 私も調べてみて始めて分かった(遅い!)のですが、待機児童問題に関しては、安倍政権と言うか、自民党は、きちんと取り組んでいるわけで、2015年4月より始まった“子ども・子育て支援新制度”で、現在、解決を図っている真っ最中なんですね。

 こいつの内容についてザックリ説明すれば、国が率先して規制緩和&予算執行を行って、市町村が主体となって、それぞれの地域の実情に合わせた、新しい形の認定保育園をバンバン作っていきましょうって事なんです。

 そう言われてみれば、昨年来、ウチの近所にやたらと保育園が開設されています。それも一つや二つなんてものじゃなくて、何か建物を作っているなあ…と思えば、それってたいてい保育園だったりするんです。それこそ、雨後の筍のように保育園建設ラッシュとなっています。また旧来からある、いわゆる無認可保育園が、最近、どんどん認可保育園に変更されています。

 保育園状況に関しては、大きな変革の真っ最中なんですよ。息子くんが幼児だった頃と今では、保育園事情って、ほんと、激変しているんですよ。でも、それって(現政権の手柄になるから?)マスコミで大きく取り上げられることもないし、自分の子どもが幼児でもない限り、興味もなくて知らない事だから、そういう人々の無知/無関心に付け込んで、間違った情報を流布している、情報テロなんですよ。

 それにだいたい保育園って(ここが肝心なんだけれど)国や県が作るものではなく、市町村レベルで作るか、民間(つまり私立保育園だね)で作るかの、どちらかなんですね。それは今も昔も変わらない事実です。

 もっとも、今までは、市町村が保育園を新規に作ろうとしても、その設置条件が厳しかったり、予算が厳しかったりして、どうしても動きが緩慢になり、その結果、待機児童を生み出していたわけです。だからこその、規制緩和であり、恒久的な予算付けなんですよ。

 とりあえず、今回の新制度によって、国は市町村の規模に応じた予算を新しく恒久的に平等につけているわけで、その予算をどう使うかは、各市町村に任されているわけです。だから、金も条件も整っているのに、保育園が足りないのだとしたら、それは国の責任である以前に、各市町村の問題である言えます。

 実際、ググってみると分かりますが、待機児童問題って、全然解決されていない地域と、ほぼ解決した地域の両極端に分かれています。解決されていない地域には、色々と事情があるんでしょうね。例えば、それらの市町村の首長さんや議会の多数派さんたちが属している政党が偏っているとか、新規の保育園が増えると困る人たちによって支えられているとか…ね(笑)。さらに言うと、世の中には、既得権益って奴があって…むにゃむにゃむにゃ…。そんなわけで、待機児童問題って奴が発生したり、解決されなかったりするわけです。

 某都では、某新宿区の某市ヶ谷商業高校跡地に、保育所ではなく、韓国人学校を作る事になったのだそうですね。ちなみに、ここのすぐ近くには防衛省がありますのでスパイ活動の拠点づくりでもするんじゃないかとは…勘ぐり過ぎでしょうね。ちなみに、某新宿区の中でも、この辺りって、某都の中でも、有数の待機児童数を誇る“保育所不足地域”なんだそうです。ですから、某区は某都に対して、この地に大規模認可保育所の設立申請をした(ま、当然だね)けれど、某都はこれを却下して、韓国人学校設立って運びになったそうなんです。

 でも、この件に関して、マスコミはロクに報道しないでしょ? 何故なんでしょうね?

 と言うわけで『保育園落ちた、日本死ね!』と言うのは、間違っているわけです。ミスリードであり、情報テロなんです。

 ひとまず、日本は待機児童問題に関して、打つべき手はすでに打っているわけで、各市町村がそれに応えているかどうか、あるいは、どう応えているのかという問題なんです。ですから、言うべきなのは『保育園落ちた、日本死ね!』ではなく『保育園落ちた、○○市町村死ね!』なんでしょうし、そんな世迷い言を叫ぶよりも、次の地方選挙で、しっかりとした政治家を、首長なり議員なりに選べばいいだけの話なんです。

 某国じゃないんだから、テロやデモもしなくても、選挙という正しい力を使って、世の中を変えていけばいいだけの話なんです。テロやデモを仕掛ける人は、正しい力を行使できない、正しくない立場にいる人だから、テロやデモを仕掛けて、あれこれ工作してくるわけです。

 ほんとのほんとに、今回の『保育園落ちた、日本死ね!』問題って、我々の無知に狡猾につけ込んだ、悪意ある情報戦だと思いました。

 この問題に声をあげている人たちは、こう言った事情がよく分かった上で、世論をミスリードしているんだと思います。ほんと、卑怯な人たちだなって思うわけです。我々は、こういう狡猾な人たちに、だまされないようにしないといけません。

 マスコミが一斉に取り上げるような事柄には、必ず“裏”があると、常に勘ぐっていた方が良いと、私は個人的に思います。

 さて、それはそうとして、保育士不足は深刻な問題ですね。しかしこの問題は、保育士の待遇が良くなれば、あっという間に改善すると思います。なにしろ保育士になりたい人、保育士として働きたい人、保育士の資格を持っていて休職している人って、たくさんいるようですからね。保育士の待遇が良くなれば、そういう人たちが保育士として働くでしょうから、人手不足は解消します。

 問題は、保育士の待遇をどうやって改善するかですが…これに関しても、まず責任があるのは、各市町村であるわけです。そのためには各市町村で、保育に関する予算を増やすなり、保育料を値上げするなりして、対処すべき問題だろうと思います。

 でもね、そうやって金銭面では何とかなっても、労働時間を含んだ労働環境的な問題は、そんなに簡単には片付かないだろう…と個人的に思ってます。

 仕事の性質上、八時間労働なんて守れるわけないし、休憩だってなかなか取れないわけです。子どもがいる間は目を離すことができないし、気を抜くこともできないし、お母さんの出勤前から退社後までの時間をカバーしていくわけですから、長時間勤務がデフォルトだし…。おまけに、ほぼ肉体労働だしねえ。厳しいねえ…。

 保育士の労働環境を改善するには、パラダイムシフトを引き起こすほどの良い知恵が出ないと、なかなかうまくはいかないです。それこそ、ブログで記事を書けるくらいならば『日本死ね!』と書く前に、保育士の労働環境を改善する提案の一つや二つぐらい、書いてほしいものです。

 私だったら『2日働いたら翌日は休みとするけれど、それで3日働いた事にみなす』とか、飲食店のようにシフト制にして働くとするか…そういう提案をするけれど、これらの提案にも欠陥があるんだよね。例えば、労働時間を考えて、受け持ちの先生をコロコロ変えたら、子どもが落ち着かなくなって、その結果、子どもたちが情緒不安定になるとかね。ほんと、難しい問題だよ。

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2016年3月26日 (土)

ミドリが“緑”じゃなくなってきた(笑)

 “緑”という字には、最近では、いわゆる緑色(グリーン)を表す意味で主に使われますが、元々は「色が濃い事」を表す字であり、緑色はもちろんですが、濃い青色の事を指す事もあれば、漆黒も“緑”と呼んでいました。いわゆる「緑の黒髪」って奴ね。

 我が家にいる、黒出目金のミドリも、その命名由来はもちろん“緑”であって、我が家に来た当初は、本当に漆黒で黒々とした良い黒出目金だったのです。

 もちろん、今でも良い出目金ですよ。形は本当に良いです。駄金のC級金魚とは思えないくらいに、良い形に育ちました。唯一、残念なのは、我が家に来た当初こそ漆黒だった体色が、今ではすっかり薄くなり、色あせてしまった事です。

 妻曰く「ほとんどフナ色(灰色っぽい茶色)」、私が見た感じでは「黒っぽい黄色」って感じです。少なくとも、もはやミドリは“黒出目金”とは呼べないほどに、黒くない体色となってしまいました。

 「なんかなー」と思う一方で「だからミドリは安く購入できたんだなあ」と思った次第です。ごくごく小さな時に「この子は、今は漆黒の良い体色をしているけれど、成長したら、色あせてしまうから、高く売れない」と目利きをした人がいて、それ故、駄金のC級金魚としてタダみたいな値段で売られていたわけです。まあ、体色は実に残念ですが、形も良く、元気で丈夫なのが何よりの子です。

 まあ、色があせても、かわいい我が子ですから、大切に育てていくつもりです。

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2016年3月25日 (金)

銀は案外柔らかい

 銀は金属です。金属って、一般的には“硬い”というイメージがあります。実際、多くの金属は硬いです。ですから、銀も硬いものというイメージが我々にあります。

 しかし、金属の中には柔らかいモノだってあります。例えば、釣具としても使う鉛などは、板状のものは簡単に曲げられますし、ちぎることだってできます。かなり柔らかい金属です。あと、あまり一般的ではないもしれませんが、マグネシウムもかなり柔らかい金属なんですね。板状のマグネシウムは、手でちぎることは難しいですが、曲げることは容易ですし、ハサミで切れます。紐状になった銅などは銅線として使われますが、これらもちぎることはできないにしても、曲げることは容易にできます。ハサミで切るのも難しいかもしれませんが、ニッパーを使えば簡単に切れます。他にも柔らかい金属って、探せばまだまだあると思います。

 で、銀ですが、たぶん柔らかい金属の部類に入るのではないかと思います。

 と言うのも、私のフルートは銀で出来ている、いわゆる“総銀フルート”なんですが、こいつが実に柔らかいんですよ。ちょっと何かにぶつかっただけで、簡単に管体が凹みますし、乱暴に扱うと、キーメカが曲がります。そりゃあ、実に簡単な話なんです。

 まあ、私のフルートは、いわゆる総銀フルートの中でも、ブリタニアンシルバー (SV958)を用いたフルートであるので、一般的スターリングシルバー (SV925)を用いた楽器とか、以前はよく見かけたコインシルバー(SV900)を用いた楽器と比べると、銀の純度が高いせいもあって、より柔らかいわけですが、それにしても柔らかすぎると思います。

 だいぶ慣れたとは言え、腫れ物を扱うような気分で、フルートを扱っているのです。

 それにしても、ちょっと乱暴に扱うと、すぐに凹んだり曲がったりするわけだし、その凹みや曲がりを修理するにしても、一箇所につき4万円程度(私実績)はかかるわけで、それを考えると簡単にへこませるわけにもいきません。それに凹みって、見かけも悪いですが、場所によって、楽器を音痴にしますから、気をつけないといけません。

 ちなみに、銀も柔らかいですが、金も柔らかいそうです。つまり、フルートって、柔らか素材で出来ている楽器であって、取り扱い注意な楽器ってわけです。

 本当にシルバーのフルートは柔らかく、手荒に扱うわけにはいかないので、吹奏楽などのフルートが、銀ではなく比較的硬い金属である洋銀(ニッケル系合金)で作られた楽器が多く使われているのは、単に値段の問題だけでな、楽器の丈夫さもあるんだと思います。

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2016年3月24日 (木)

アルタスの“25周年記念特別仕様・限定モデル”を見てきた

 そう言えば、私的にちょっと前の話だけれど、書いておかないと、記憶の彼方に消えていってしまいそうなので、そろそろアップしておきます。

 実は先日の先日の先日ぐらい、何気に銀座で楽譜を漁ってきた時の事、ふと思いついて、フルート売り場にやって来ました。もう、最近は楽器店に行っても、フルート売り場に寄りつかない私だったので、ほんと、珍しくフルート売り場に行ってみたわけです。

 なぜ、フルート売り場に行かなくなったのかと言うと

1)備品や小物は一揃い持っているので、新しく買い求める必要がないから。
2)フルートって、別に消耗品もないので、売り場に行く必要を感じないから。
3)今は自分の楽器にラブラブなので、他社製品とか新製品とかに興味がないから。
4)楽器の吹き比べをしても、結局は自分の音でしか鳴らないので、やる意味がないから。

 まあ、こんな感じでしょうか? とにかく、フルートの調整以外で、フルート売り場に行くなんて、ほんと久しぶりだったのです。

 久しぶりに行くと、やっぱり色々と見慣れないものがあるわけで、今回行った時は、売り場の中央にデデンと、アルタスの“25周年記念特別仕様・限定モデル”が鎮座ましましていたわけです。

 公式ウェブによれば、限定モデルは二種類(A25-907とA25-GP)あったようですが、私の目に止まったのは、金色のGPモデルの方でした。

 それぞれの限定モデルの特徴は“彫刻”かな? とにかく、ヘッドクラウン、リッププレート、キイカップのいずれにも細かな彫刻が入っていて、とてもゴージャスな感じです。フルートに彫刻って、注文して入れると、そこそこのお値段がしますので、この彫刻入り限定モデルは、ちょっぴりお得な感じがするわけです。

 A25-907は『アルタス(A)25周年記念の907モデル』という意味だろうと思います。A907をベースに細かい仕様をちょっと変えて彫刻を施したモデルと思ってよいでしょうね。

 問題はA25-GPの方です。これ、おもしろいですね。

 アルタスの通常ラインナップには、実は金メッキのモデルってないんですよ。あるのは、銀メッキのモデルと、GPTという管体はプラチナメッキで、メカが金メッキというモデルぐらいで、全部を金メッキで仕上げたフルートって、アルタスにはないのです。今回のA25-GPは、オール金メッキなので、アルタス的には、面白い新モデルって事になります。

 さらに言うと、基本となっているモデルはA1207のようです。このAg925のスターリングシルバー製の総銀フルートに、24Kメッキと彫刻を施したのが、A25-GPって事になります。価格的には…もちろん、素のA1207よりは高くなり、ほぼA1307(Ag958ブリタニアンシルバーの総銀フルート)と同じになります

 やっぱりお買い得なんだと思います。注文ならば、A1207に彫刻+金メッキでは、こんなお値段には収まらないでしょうからね。

 で…音色の方ですが…私は知りません。なぜって? 吹いてこなかったからです(笑)。

 なぜ、吹かなかったのか? だって、どんなフルートを吹いても、私が吹くと、私の音でしか鳴らないんだもの。試す理由がないんですよ。

 もちろん、新規にフルートを購入するとなれば、色々と試し吹きをしますが、それは音色の確認ではなく、メカの動きを確認したり、持った時のしっくり感を確認したり、音の飛び具合とか、音出しが楽かどうかの確認であって、音色の違いは…ゼロで無いし、買い換えた直後こそ、モデルごとに多少の音色の違いはあるでしょうが、やがてはどれもこれもみんな、私のフルートの音になってしまうので、音色の確認なんてやっても「意味ないなあ」と思っているからです。

 まあ、アルタスの限定モデル、おもしろいなあと思うけれど、今のフルートを買い換えるつもりはないので、わざわざ吹いて確かめる必要も感じなかったというわけです。

 しかし、買い換えるつもりはないにせよ、もしも買い換えるつもりならば、そのお得感は無視できないなあって思いました。彫刻入の金メッキフルートとしては、お安いですからね。ただ、私の場合、現実的には、今のフルートと同じランクの楽器に買い換える意味はありませんから、私が次にフルートを買い換えるなら、14Kとか18Kとかの、やたらと音が飛ぶ系のフルートになるんだろうと思ってますので、今回の限定モデルは、興味こそ湧いたものの、さほどの関心はひかなかった…という結論になります。

 でもね、これから総銀フルートを購入しようと思っているなら、A25-GPは面白いと思うし、パッと見、ゴールドフルートにも見えるので、ちょっぴり見栄もハレますしね(笑)。

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2016年3月23日 (水)

成田山新勝寺に行ってきた

 ええと、先の三連休に、なんとなく成田山に遊びに行ってきたので、備忘録として書いておきます。成田山に行った理由は…テレビの旅番組で見て、面白そうだったからです(ミーハーな理由で申し訳ない)。

 家を出た時は、雨が降っていて、花粉も飛んでなくて、気温も過ごしやすい感じでした。家から(雨が降っていたので)バスに乗って、最寄り駅から電車に乗って、大船で乗り換えて、そこから快速電車一本で成田まで行きました。いやあ、電車に乗っているだけで、約3時間超、長かったなあ…。

 そう言えば、地元の駅のホームで電車を待っていたら、反対側ホームに、草津行の直通電車が止まってました。普段は、湘南から草津まで直行できる電車なんて走っていないわけで、連休中って、色々な電車が走っているんだなあって思いました。

 切符は『休日おでかけパス』を利用したので、ほぼ片道分の運賃で往復です。ちょっとラッキーな感じになりました。

 電車に乗ると、車窓から風景を眺めるのが好きな私ですが、さすがに品川までは見慣れた風景なのでタブレットで遊んでました。品川から錦糸町までは地下なので、これまたタブレットで遊んでいたわけで、錦糸町からいよいよ車窓見物を始めましたが…錦糸町~千葉の風景って、実にカラフルと言うか、風景がエネルギッシュと言うか、ウルサイ感じがします。まあ、これがこの辺りの雰囲気なんだろうね。いわゆる“都会”なんだと思います。原色ギラギラです。ところが千葉を過ぎて、成田線に入った途端に田園風景(笑)になり、ガラっと雰囲気が変わりました。車窓的には、私の好みです。どこまでも広がる田んぼ、遠くに見える山々。いかにも旅行って感じがします。

 ほんの短時間、車窓の風景を楽しんで、成田駅に降り立った私の最初の感想が「寒い!」でした。いやあ、本当に寒かった。成田は寒い…ってか、湘南からだと、成田って、だいぶ北なんだよね。油断してました。このままでは『体調を崩す!』と思った私は、新勝寺に行く前にイオン(笑)に行って、Tシャツを買いました。もう一枚、上着の中に着たかったんですよ。

 服屋のレジのお兄ちゃんの訛りがキツかったなあ。でも、訛りを聞くと、旅行に来たんだなあって感じがして良いですね。

 イオンから、新参道を通って新勝寺に向かったのですが、お寺に近づくまでは、新参道には、特に何もありませんでした。残念。

 お寺に着いた段階で、すでに昼刻をまわっていたので「成田山と言えば“うなぎ”」と言うわけで、某老舗店でうな重を食べたのですが…ううむ、うなぎがクチに合いませんでした。おそらく、たまたま入った店がダメだったんだろうと思うけれど、ふと脳裏に「名物にうまいもの無し」というフレーズがよぎりました。せっかくの昼食なんだし(観光地価格で)すごく高価な食事なんだから、ちゃんとしたモノを食べたかったなあって思いました。ああ、残念。

 新勝寺は、実に大きくて立派なお寺さんでした。建物にせよ、仏像にせよ、絵画にせよ、彫刻にせよ、美術品としても、一級品だなあって思いました。お寺って、宗教施設であると同時に、美術館であり、博物館でもあるんだなあって思いました。

 お寺には池のある寺が多いのです。新勝寺にも大きな池がありましたが、この池が本当に大きくて良かったです。と言うのも、お寺の池って、鯉がいる事が多いのですが、たいてい池には、やたらと大きな巨大鯉ばかりがいて、小さな子どもの鯉って滅多にいないのです。おそらくは、生まれても池が小さくて成長できないのだろうと思うのです。しかし、新勝寺の池はとても大きいので、小鯉がたくさんいたんですよ。大きなオトナの鯉もいれば、小さな子どもの鯉もいて、なんか見ていてうれしくなりました。

 お寺を出てからの帰り道は、表参道を通って駅に向かいました。表参道はいいですね。特にお寺に近いところは風情があっていいです。漬物屋に行って、豆屋に行って、漢方薬屋に行って、蜂蜜屋に行って、和菓子屋に行って、アクセサリー屋に行って、せんべい屋に行って、外人向けの日本土産屋に行って…ああ、楽しかった。行きは新参道を通ってきた私達でしたが、行きも帰りもこの道の方が、絶対に楽しいと思いました。

 帰りの電車は千葉止まりだったので、せっかくだから千葉で下車して、千葉観光をしようと思ってググッてみても、千葉駅周辺ではめぼしい観光名所がヒットしませんでしたので、千葉からモノレールに乗って、ポートタワーに行きました。

 ポートタワーは高かったです。展望室からは港が一望できて、天気が良ければ、見晴らしも良くて楽しかったろうなあって思いました(タワーに登った日は、そんなに天気が良くなかったのです)。それにしても、千葉って、農業県のイメージがあるけれど、千葉市は都会なんだなあ…って思いました(政令指定都市だもんな、そりゃあ当然か)。

 ポートタワーからは千葉駅に戻らず、京葉線の千葉みなと駅に行き、そこから東京に向かい、一度上野出て、東海道線に乗って帰りました。なぜ、東京駅で東海道線に乗らなかったのかと言うと、東京から乗ると座れないから(笑)です。以前の東海道線は、東京始発だったので、東京から乗っても間違いなく座って帰れたのですが、今は上野東京ラインとかに変わって、東京から乗ったのでは座れなくなってしまったので、ひと駅戻って、上野から乗ったわけです。上野から乗っても、タイミングが悪いと座れないのですが、東京から乗るよりも、座れる確率はグンと上がるので、疲れている時は、迷わずに上野まで行って、電車に乗るようにしているからです。

 ああ、昔の東海道線が懐かしいです。

 日帰り旅行だったけれど、楽しかったです。

蛇足 成田山付近の花粉は強力でした。いやあもう、成田に着いた途端、鼻は垂れまくり、ノドは腫れ上がり、涙は流れっぱなしとなりました。花粉症の薬を飲んで、マスクをしているにも関わらずですよ。湘南地方の花粉とは、ちょっと種類が違うのかしらねえ。いやあ、キツかったキツかった。

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2016年3月22日 (火)

ここ数日、音を出していない(涙)

 実は、タイトル通り、ここんとこ数日間、自宅での音楽の練習で、全く音を出していません。声楽も、フルートもね。

 正確に言うと、声楽の練習にかまけっぱなしで、フルートの練習が出来ないので、フルートの場合は「音を出していません」ではなくて「練習していません」が正確なんだけれど、そのフルートの練習をサボっているにも関わらず、声楽の練習でも音を出していないのです。声楽はスポーツの側面があるので、あんまり声を出さないでいるのは良くないと分かっているのだけれど…。

 では、音も出さずに何をやっているのかと言うと…譜読み。もう、これに尽きます。ずっと、ボエームの譜読みばかりをやっています。

 今回の発表会でボエームを歌うのですが、私が歌うのは、オペラの冒頭部の男声二重唱~男声三重唱~男声四重唱となる部分です。実はこの四重唱から五重唱までが最初の予定に入っていたのだけれど、歌い手が足りなくて、男声四重唱の部分まででカットとなったわけです。で、この四重唱の部分までの楽譜のページ数が、なんと33ページ! なんともすごいね。さらに私はもう一箇所歌います。それがオペラのフィナーレの部分で、こっちは17ページもあります。つまり、合わせて50ページ程あるわけで、その50ページの楽譜の譜読みに追われているわけです、はい。

 とりあえず、練習をする段階で楽譜にあれこれ書き込むので、書き込みOKなコピー譜の作成から譜読みは始まります。

 元の楽譜から当該部分をコピーして、そのコピーを医療用のサージカルテープで貼り継いで簡易製本をして、その中から自分が歌う部分に蛍光ペンで印をつけて、音楽用語すべてに注を書き、歌詞やらト書きやら、とにかくイタリア語で書かれている部分に、対訳本を参考にしながら日本語訳を書き込んでいます、現在は、まだ、この段階です。ここまで十時間以上も費やしています(ふう)。

 これが終わったら、次はイタリア語の音読練習をし、イタリア語のクチを作り、メロディの音取りをしていきます。自分のパートの音取りをしながら、他の人のパートの音も同時に取っていきます。他人のパートなど、自分は歌わないのだから、音を取るどころか見る必要もないだろうと思うでしょうが、実はそれが違います。重唱の場合は、自分のパートだけでなく、他人のパートもしっかり頭に入っていないと歌えないのです。だから他の人のパートもしっかり音を取り、自分が歌えないまでも、きちんとメロディやらサウンドやらを想起できる状態で頭に入れないといけません。

 当然ですが、合わせて、レコ勉もしていきます。レコ勉も一つの録音だけでは丸コピーしてしまうので、当然複数の録音を使って勉強していきます。今回は、若手テノールのカルボの録音をメインに、名歌手たち(パヴァロッティ、カレーラス、ドミンゴ、アラーニャ)の録音も参考にして、その違いと個性の出し方を学んでいます。

 で、そこまでやってから、実際に声を出して練習をするわけで、当然最初はからっきし歌えません。なんどか自宅で歌ってみて、ある程度のカタチになってきたところで、ようやくレッスンに持っていけるわけです。

 先生からは、次回のレッスンからボエームを始めてもいいと言われています。それってつまり「次回からは(可能なら)ボエームだよ」って意味でしょ? もちろん、まだ次回のレッスンには間に合わせられないかもしれないけれど、なるべく頑張って、できるだけ早い機会でレッスンに持っていけるようにしないと…マズイでしょ。それで頑張っているわけです。

 とにかく、この合わせて50ページという分量がすごいんですよ。

 普通の歌曲だと、短ければ1ページ、せいぜい長くても1曲が4~5ページって感じでしょ。オペラアリアでも、普通はそれくらいで、長くてもせいぜいが7~8ページ。二重唱はアリアよりも長いけれど、それでも普通は10ページにはならないでしょう。今までの発表会では、アリア1~2曲と二重唱1曲の組み合わせで歌っていましたので、楽譜もせいぜい15ページ前後でした。それでも長くて多くて「歌うのが大変だー!」「暗譜が大変だー!」と、ヒーヒー言ってたわけです。それが今回は50ページですよ。二倍どころか三倍超ですよ。こりゃあ、気合を入れざるをえないわけです。頑張るしかないのです。しっかりやらないといけないのです。

 そんなわけで、気合をいれて楽譜読んでいる真っ最中なので、音も出せなきゃ声も無し。フルートも吹きたいのはやまやまだけれど、今はそんな場合ではない…と言う感じ。まあ、譜読みが一段落ついたら、フルートもガンガン吹いていきたいと思ってますが、今は譜読みに集中したいのです。

 ちなみに、ボエームのフィナーレって、こんな感じです。この歌手でのメインはミミなので、私が歌うロドルフォの分量は割合的には大した事はないのですが、割合的には少なくとも、量的には今まで歌ってきた二重唱並にあったりします。結構大変です。

 これで楽譜にすると17ページです。演奏時間的には11分です。長いねえ…。

 この音源でロドルフォを歌っているのはアラーニャです。ミミは、当時の奥様であるゲオルギューです。夫婦でボエームというのは、なかなか良いですね。この画像では、最後の最後に、ロドルフォは親友のマルチェッロの腕の中で泣いてますが、私はミミを抱きしめながら泣いてみたいなあ…なんて思ってます。そう、このシーンのロドルフォには“泣きの芝居”が要求されていますので、思いっきり泣いてやろうと思ってます。

 ちなみに、このオペラの冒頭部(まだ適当なYouTube音源が見つからないので、今回はパスね)では、メインとなるのはロドルフォなので、私が歌う分量たるや「ほんと、大丈夫?」と声をかけたくなるほどに大変です。まあ、それでもプロでもないのに、ボエームの一場面を歌うなんて、めったにないチャンスなので、大変だけれど頑張りたい思ってます。

 さあ、さっさと譜読みを終わらせないと…。

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2016年3月21日 (月)

そう言えば、むせやすい体質に変わりました(涙)

 はっきりとは思い出せないのですが、1年、あるいは2年くらい前から、何事にもむせやすい体質になりました。

 ほんのちょっとした事でも、何かがノドに当たって、ゲホゲホします。食べ物はもちろん、水やお茶でもむせますし、ちょっと強めの匂いを嗅いでもゲホゲホしますし、冷たい外気でもゲホゲホします。すきあらば、ゲホゲホなんです。

 ほんと、自分でも呆れるばかりに、始終ゲホゲホしています。

 むせる原因は…異物が気道に入るからです。気道に異物が入ったままになると、そこから窒息するとか、あるいは感染症(誤嚥性肺炎とか)を併発するおそれがあるので、異物を気管から排除するための生体防御反応として“むせる”わけです。だから、むせる事自体が悪いわけではなく、異物が気管に入りやすくなった事が不都合なわけです。

 ではなぜ異物が入りやすくなったのか…と言うと、その原因は老化であろうと、一般的には考えられます。老化…神経系の老化と、筋力系の老化の2つの老化のダブルパンチって奴ですね。この老化現象によって、異物が気管に入りやすくなったのだと。

 神経系の老化…人は誰であっても、日々トレーニングに明け暮れるスポーツ選手ですから、神経系は老化し、その結果、反射神経やら運動神経やらの反応がにぶるようになります。そして、すべての動作が緩慢になるわけです。スポーツ選手の場合は、加齢によって、その競技に必要とされる俊敏さを失うわけです。だから、多くの選手が30代前後で現役引退するわけですが、それをよく「体力の限界」と言いますが、実は“神経系の衰え”を筋力やら根性やらで補えなくなって、それを「体力の限界」と感じているだけであって、そこには大いなる勘違いが存在しているわけです。

 と言うのも、体力そのもの…ってか筋力やら持久力やらの老化って奴は、トレーニングによって阻止できるタイプのものですから、俊敏性を要さない競技なら、かなりの老人になっても一線級でいられるのですが…西欧型のスポーツの多くは俊敏性を要求されますから、若者の間でしかプロでいられないわけです。

 閑話休題。かくのごとく、神経系の老化は、万人にとって避けがたいものであって、私だって例外ではないのですから、当然、神経系の老化はあります。その結果、異物を気管に入るのを阻止する、いわば“気管の蓋”である喉頭蓋の動きが悪くなり、咀嚼嚥下のタイミングと喉頭蓋の動くタイミングが合わなくなり…って、わたしゃ、そこまで老人じゃないっすよ。

 もしも、咀嚼嚥下のタイミングと咽頭蓋の動くタイミングが悪くなってむせるって…そりゃあ、かなり老化が進んだ段階であって、もうそうならば、自分で食事をとる事自体が無理って段階じゃん。そこまでいったら、もう死んじゃうしかないじゃん。だって、呼吸と食事の両立が無理って、そういう事じゃん。さもなきゃ、点滴だけで生きるようにするしかないじゃん。

 なので、神経系の老化は、あるにしても、その影響は無視できるレベルという事にしておきます。

 となると、次は筋力系の老化ですね。確かに筋力は衰えます。普通に暮らしていると、加齢に伴って筋力はどんどん低下していきます。しかし、筋力の老化には例外があって、筋力は、老化の影響を上回るスピードでトレーニングしていくと、低下するどころか、現状維持、あるいは筋力向上も期待できる性質があります。これ、ほんと。ただし老化の影響を上回るほどのトレーニングを日々し続けていくわけですから、結構意識してトレーニングしていない限りは無理なので“一般人に関しては、老化に伴って筋力が衰えていく”というのは正しいのです。

 でもね、私ね。声楽をやっているんだよ。日々、呼吸筋とかクチやら舌やらの筋肉トレーニングをしているんだよ。だって、私のカラダは楽器だもの。メンテはきっちりやっているし、日々の練習だってやっているわさ。だから、私に関して言うと、筋力の衰えでむせるというのは、まずありえない話です。

 じゃあ、なんで、日々むせるようになったのか?

 これは自画自賛になってしまう部分もあるのだけれど、おそらく、口腔内の容量が増えてきた一方で、カラダがそれに対応しきれていなくて、それでむせてしまうのではないか…って思ってます。カラダの変化に感覚が追いついていない…とも言えます。

 どういう事かって? つまり、クチの中がより多く開いている状態がデフォルトになりつつあるって事です。それで、咽頭内のむせるポイント(その箇所を刺激されるとむせるという場所ね)がむき出しになり、その結果、頻繁にむせるようになったというわけです。

 これは声楽のレッスンの影響だと思います。声楽のレッスンに行っては「クチの奥を開きなさい」と連呼されつづけて、私自身も頑張って、クチの奥を開くようにしているうちに、だんだんクチの奥が開くようになり、それがやがて日々のデフォルトな状態となっていき、クチの中の状態が、以前よりも開いたままの状態であったり、ちょっとした動作で、クチの奥がより広く開きやすくなったのではないかと思っいてます。

 つまり、クチの奥を開くことを練習してきた結果、歌うときはもちろん、日頃からクチの奥が開いているようになり、ちょっとした動作や刺激で、以前よりもずっと大きく広くクチの奥が開くようになってきた事により、その結果、日々むせるようになったのではないかと思うわけです。

 むせ始めた時機が、Y先生のお教室に移動して、しばらくしてからの事である事とも考え合わせれば、Y先生のご指導によって、私のクチの奥が広く開くようになり、口腔内の容量が増したからと言えます。そう言えば、確かにこの頃から、私の歌声はもちろん、話し声も変わってきたような気がします。

 この変化は急激だったし、実は今でも口腔内の容量は拡大中なのです。だから、そこにカラダが追いつかなくて…むせるのではないかと思うわけです。しかし、口腔内の容量には物理的な限界というのはありますから、私のクチの奥もやがては開ききってしまうと思います。そしてその状態が一定期間続けば、やがてカラダもそれに慣れて、むせなくなるのではないかと思ってます。

 となると、まだしばらくは、日々むせながら生活しないといけないわけです。

 ううむ、それってつらいけれど、楽しみな事であるわけですな。なんか、納得です。

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2016年3月20日 (日)

年下を格下扱いするのは止めよう

 世の中には、やたらと年齢を気にする人がいます。で、どっちが年上で、どっちが年下か、すごく気にするわけです。相手が年上年下で、自分の態度が変わるばかりでなく、相手の態度にも注文をつけるわけです。相手が年上なら、自分が下手に出ればいいわけですから問題ありませんが、相手が年下で、その相手がフラットな態度であったならば、すかさず服従/隷属の態度を求めるわけです。

 人間関係を上下関係でしか取らえられない人なんだろうと思います。ある意味、学生生活の延長線上でしか、人間関係が分からない人とも言えます。ほら、学生時代って、学年が上か下か(つまり、年上から年下か)で、先輩後輩関係ができ、時にはその関係が服従/隷属関係になるからです。

 私は、そういう単純な人間関係が嫌いだったので、中学時代は部活に馴染めず、高校時代は柔道部という運動部に属しながらも、自分が先輩と呼ばれる頃には、後輩たちとはそういった服従/隷属関係を作らないように気をつけていました。

 一言で言えば、運動部の規律よりも、フランクで緩やかな人間関係を望んでいたわけです。

 年が上である事でしか、人の上に立てないのならともかく、技量や体力、人間的な魅力とオープンマインドがあれば、リーダーシップを取り、集団を導いていくことは可能だと思うし、今も昔も、その路線で私はやっています。

 だから、年齢で人間関係の上下を決めてかかるような人は苦手だし、そういう人たちの団体って、往々にして人間関係が膠着しているので、あまり付き合いを持たないようにしてました(だって、楽しくないし、役にも立たないからね)。

 年上が優れている事は…まあ経験の多さでしょうね。少なくとも学生時代の部活なんかだと、たった1年2年の違いでも、その経験の差は大きいと思います。でも、オトナになれば、1年2年の違いなんて、大した差じゃないと思ってます。まあ、10年くらい違えば、どんな人でも、それなりに経験の差ってのが生じるだろうけれど、たとえ年上であっても、それまでその人が活躍していたフィールドが異なれば、年齢が高くても経験豊富ってわけにはいかないと思います。

 つまり、何が言いたのかと言えば、年下であっても、経験が豊かな奴もいるし、たとえ経験が不足していても、能力や才能の差があるわけで、年下だからと言って、その人を格下扱いしているようなら、人を見る目がないって事になりますねって話です。

 これは逆に言えば、いくら年上であっても、ボンクラで怠け者でただミスの無いようにやってきただけの人間であれば、有能な年下の足を引っ張るだけの、有害人物にしかならないって事です。

 最近の私は、若さをまぶしく感じるようになりました。若いって事は、それだけで力になると思います。そんな力を持て余した連中の中に秘めている才能や適性を見抜き、それぞれにふさわしい場、活躍できる場に、その連中を配置してやりたいと思うようになりました。

 でもね、そうは言っても、世の中は、まだまだ年功序列なんだよね。優秀な若い者を無能な年上の下で働かせると、ほどほどに優秀な者は、年上の無能さを見習って腐っていくんだよなあ(飛び抜けて優秀な奴はそうではないのだけれど)。

 無能で有害な年上にならないために、まず最初にするべき事は「年下の者を格下扱いしない事」だと思います。たとえ年下であっても、部分的に自分よりも優れていたり適性があったりするわけです。そういう部分をしっかり見抜いて育ててあげるのが、本来の年長者の役割だと思ってます。

 いつまでも子どもの気分のまま、面倒をみてもらう事に慣れ、平社員の気持ちのままでいる、オトナが多すぎる…ような気がするんですが、それこそそんなことは私の偏見なのかな…なんてね。

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2016年3月19日 (土)

遊び? それとも求愛?

 ウチの金魚たちは、皆、女の子です(たぶん)。だから、ウチの水槽の中は“女の園”のはずで、平和なはずなんです。と言うのも、金魚のオスと言うのは、見た目と違って、気性は荒くて、動作はガサツで、おまけに好色なんですね。だから、水槽の中に一匹でもオスがいると、それだけで水槽の雰囲気が野蛮になります。

 ウチの水槽でも、何度かオスがいた事があって(っと言うか、オスがいるのが普通でした)、そういう時は、多かれ少なかれ、野蛮でヤンチャな水槽になりますが、オスがいない、メスだけの時は、おとなしくて、ゆったりとした水槽になるはずなんです。

 以前にも、水槽が“女の園”だった時代があって、そういう時は、水槽は本当に平和なものでした。

 今も“女の園”のはずなので…水槽内は平和な…はずなんですがね。

 実は今の水槽、そんなに平和でもなく、時折、誰かが誰かを追いかけっこをしているんです。それもずっと、ずっと、ずっと…ね。まるで、サカリのついたオスがメスの尻を追いかけるように、ずっとずっとずっと、追いかけっこをしているんです。

 でもね、追っている方も、追われている方も、女の子なんです。日によって、追っかけている子と追いかけられている子が入れ替わったりしてますし…。そんな様子を見ていると、この追いかけっこって、遊びなのか、それともレズっ子たちの求愛? なんか、理由が分からなくなりました。

 金魚に同性愛…なんてあるのかな? それともやっぱり、ただの遊びなのかな? いや、それ以前に、金魚に同性愛があるかどうも分かりません。また、金魚に遊びを楽しむ気持ちがあるかどうかも分かりません。

 なんとも不思議な金魚たちの世界です。

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2016年3月18日 (金)

正直言って、出世をしたいわけじゃないんだよ

 フルートのレッスンに行ってきました。

 いやあ、寒かった寒かった。お教室には暖房は入っているものの、私は冷えきった外から部屋に入ったばかりで、メガネはサ~っと曇るし、鼻は垂れるし…参った参った。一番参ったのは、組み立てたフルートが、氷のように冷たかった事。いやー、ひゃっこい。

 冷たい冷たい…と心の中ではパニクっているのに、先生がさっさと吹き出すものだから、こちらは管体を温める間もなく、吹き始めざるをえませんでした。

 最初こそは音が微妙に合いませんでしたが、やがてバッチリな感じになってきました。今回も、フルートは外向きに組み立てたのですが、先生と合わせるならば、フルートは外向きに組み立てた方が色々と良いみたいです。

 さくっとロングトーン練習を終えたら、エルステ・ユーブンゲンの16番です。楽譜をしっかり見て、音符は音価通りの長さで吹く事と、休符を無視せず、しっかりと無音を作り出す事を言われました。確かに私の演奏は、あっちこっちチャランポランでダメですよね。先生からは「しっかり楽譜を見て!」と何度も言われました。当然、不合格です。

 次の17番は…譜読みがいい加減なのがバレバレで、あっちこっち直されてしまいました。いやあ、譜読みは難しいね。当然、不合格です。

 プチエチュードは、相も変わらぬ13番です。スラーとそうでない部分の吹き分けを注意されるのはいつもの事として、今回は、三連符と八分音符の吹き分けを注意されました。三連符と八分音符なんて、リズム的には似たような感じだし(乱暴だなあ…)、見た目も似ているので、ついつい似たようなタイミングで吹きがちですが、それはダメです。音符の長さ的には微妙な感じであっても、拍の感じ方(つまりビート感)がこの両者では全く違います。しっかり、これら2つの種類の音符は吹き分けられないといけないのです。

 自宅でも地味にしっかりと練習していますので「かなりいい線まで仕上がりましたね」との話ですが、まだまだ惜しいところで凡ミスをしているので、頑張ってチャレンジしないといけません。先は案外、まだまだ遠くなのかなって思いました。

 さて、今週の雑談は、どこの現場でもある“幹部候補生と現場叩き上げ”と言いますか“天下り管理職と現場叩き上げ”のせめぎ合いの話をしました。

 つまり、長年その現場で働いてきて、一番下のペーペーから始めて、その現場のトップになった人たちと、幹部学校を卒業しているとか、関連省庁や銀行などからやってきて、いきなり管理職になっている人たちとの、色々な事に関する話をしました。まあ、キャリア組VSノンキャリア組の話です。

 いくら頑張っても昇進が頭打ちになってしまうとか、他所からやってきて何も知らないのに偉そうにしていて明らかな力不足な上司に仕えて尻拭いの毎日であるとか…そんなノンキャリア組のトップは報われないねえ…と言う話を具体例を交えながら、あれこれ話ました。先生ご自身は個人事業主ですから、そういう世界の人ではないのですが、生徒さんとかお弟子さんとかに、そういう人たちがたくさんいて、レッスンの時に色々な愚痴を聞かれるわけですね。

 ふーん、そうなんだ。大変なんだなあ…と言うのが私の感想です。まあ、私の職場にも、似たような話はあるし、私自身は現場叩き上げの人だけれど、立場的にはキャリアだからね。キャリアなのに現場叩き上げという珍しい立ち位置なので、あんまりそういう事は考えなかったけれど、世間一般では、そうなんだし、そこに悲哀があるんだなあって思ったものです。

 でもまあ、あれだけれど、出世するって、そんなに楽しいものじゃないよ。給料は増えるだろうけれど、責任も増えるし、ストレスも溜まるし、労働時間は増えるし、休日は減るし…ね。多くを与えられる者は、多くの犠牲を強いられるわけだからね。出世して、給料が増えて、肩書が付いて、ちょっぴり誇らしい気分になるだろうけれど、それに伴って、失うものだって、たくさんあるんだよね。それを考えると、出世をするのも、ほんと、良し悪しだよね。

 私的には、数年前の気楽な立場の時の方が良かったなあ。少なくとも、あの頃は趣味に没頭できる時間も余裕もあったものね。

 私が望む理想の状態と言うのは、現場でまっとうに働いて、たいした出世もしないまま、しかし年功序列とやらで、お給料はそれなりにもらえる状態だな(笑)。つまり、古い日本型の労働環境が良いです。私自身が古い昭和の人間だから、ノスタルジー込みで、オールドスタイルを好むってわけなんでしょうね。

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2016年3月17日 (木)

体験レッスンで知りたい事

 体験レッスンに関しては、先生の側からあれこれ書いてあるブログはよく見ますが、生徒の立場で書かれているものは、なかなか見ないので、私が一つ書いてみたいと思います。つまり「体験レッスンで生徒は何を知りたいのか」って話です。

 まず知りたいのは『謝礼』の事です。お金は何よりも大事ですからね。オトナの習い事だと、所詮は道楽ですから、そのあたりはユルく考えがちですが、子どもの習い事だと、教育費になるので、結構シビアな問題になる事、多いです。レッスン毎の謝礼なのか、月極なのか、年間レッスン回数の平均で来るのか、そういうところもきちんと知りたいです。また支払い方法も、その都度なのか、月謝なのか、あるいは直接手渡しなのか、銀行振込なのか…色々ありますわな。

 レッスン謝礼以外の経費もかかるようなら知りたいものです。具体的に言えば『発表会の参加費』とか、それに伴う『特別レッスン』の有無とそのお値段です。また、発表会での衣装なども、例年はどんな感じなのか知らせていただくと、生徒としては、必要経費の目算がたつので、大変助かります。

 レッスンを休む時の手続きも知りたいです。連絡方法とか、振替レッスンの有無あたりでしょうか。その他にも、何かローカルルールがあるなら、知っておきたいです。

 体験レッスンの時に、何か演奏する曲を持って行くべきなのか、それとも手ぶらでいいのか、結構生徒の立場としては悩むものです。特に、今まで他の先生に習っていた場合は、前の先生のところで使っていた教材を持って行くべきかどうかも悩みます。

 声楽の場合は、声聞きの有無も知りたいものです。

 またオトナの習い事だと、楽器の有無が結構気になるものです。レッスン前に楽器を購入しておかないといけないのか…なんて、ほんと、真剣に悩むものです。あるいは、まだ楽器を持っていないのに、習ってもいいのかと、これまた真剣に悩んだりします。楽器関係では本当に悩むものです。また、貸出用の楽器があるなら、それも知りたい所ですし、レンタル料がかかるなら、それも知りたいです。

 楽器以外に必要なものがあるなら、それも知りたいです。筆記用具程度なら良いのですが、たまに譜面台や楽器スタンドを持ってきなさいというケースもあるからです。

 おおよそのカリキュラムも知りたいところです。ピアノならば、バイエルを使うのか、バイエル以外を使うのかは、ちょっと音楽をかじった親御さんには気になるところでしょうね。そうでなくても、どんな感じの教則本を使っていくのかは、知りたいのです。

 あと、録音の可否ですか? オトナの場合は、記憶力がイマイチですから、ノートを取る感じで、レッスンの録音をしたいものですが…先生によっては、録音されるのを嫌がる人もいますから、録音不可なら不可であると、最初に教えてほしいものです。

 人によっては、レッスンの様子をブログやツイッターやインスタグラムなどのメディアにアップしたい人もいます。先生のほうからわざわざ言う必要はないかもしれませんが、生徒が尋ねてきたら、はっきりとどこまでは良くて、どこからはダメなのか、規準を示してくれると助かります。

 もちろん、生徒さんは、先生に無断でレッスンの様子をネットにあげてはいけません(当然です)。

 案外大切なのは、体験レッスンをした後でレッスンをお断りする場合の、お断りの仕方を、先生の方から教えてもらえると、生徒的には助かります。だって、生徒の方から、レッスンの断り方は尋ねづらいものですからね。人によっては、どう断ってよいのか分からずに、バックれてしまう事だってあるんですよ。

 あと、生徒の方から言いづらい事と言えば、レッスンの目標あたりでしょうね。真面目な先生ほど、生徒は上達したいものだと思いがちですが、生徒の側からすれば、必ずしもそうではなかったりするのです。真剣に音大進学を考えている生徒もいるでしょうが、単なる趣味道楽として学んでいるとか、教養の一つとして学ぶとか、情操教育の一つとして学んでいるとか、子守代わりに学ばせているのか(案外、多いんですよ)。日本人は真面目でないのは悪徳であると思っている部分もあるので、自分の気持ちを上手く言えなかったりする事も多いので、そのあたりのところを、うまく聞き出して欲しいものです。

 と言うのも、レッスンって、厳しければ良いとか、優しければ良いとか、そんな単純なものではないからです。あくまでも、生徒の側がどこまでを望んでいるのかで、レッスンの厳しさって変わると思うのです。でないと「先生は厳しすぎる」とか「もっとちゃんと教えてほしい」とかの不満が出てくるわけです。

 もっとも、そうは言っても、子どもの習い事の場合は、最初は遊びの延長であっても、本人に才能の片鱗が見えるとか、音楽の楽しさ素晴らしさに目覚めてしまうとか、逆に音楽の才能はほどほどでも勉強の才能が皆無なため結果として音大を目指すとか、色々あって、子どもの場合は、途中からシリアス路線に変更せざるをえないこともあるのは、指導者としては厄介な部分ですね。

 体験レッスンってのは、ある意味、お見合いみたいなものだと思ってます。先生と生徒の相性の問題もあると思います。生徒から見て先生の事が気に入らなければ、レッスンにつながっていきませんが、先生から見て、その生徒がパスしたいタイプの人だったら、最初の段階で「ウチとは合いそうもないので、よそにあたって下さい」と言ってもらえるといいですね。先生から断られるのは、生徒側からすればショックですが、それが結局はお互いのため…になると私は思いますので。

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2016年3月16日 (水)

アイで力まない

 さて、声楽のレッスンの続きです

 まずは、トスティ作曲の「April/四月」です。

 私の一般的な特徴として“i”で力むという癖があるようです。まあ“i”の発音が苦手とも言えるわけですが、苦手なら苦手を意識して、余計に楽に“i”を発声しないといけないわけなんです。

 例えば“O mia gentil, su prati'n fiole!”なんて箇所は、上昇音形なので、いちいち“i”を力んで歌っていたら、絶対にうまくいかないわけです。力むのは、根本的には腹筋の弱さが原因だけれど、それだけなら他の母音でも同じ事です。特に“i”がダメなのは“i”の時に息を飲み込んでしまいがちだからです。息を飲み込まずに、しっかり息を吐き出さないといけないのです。とりわけ上昇音形ならば“i”の時でも、グイグイ腹筋を使っていかないといけないわけです。そのためには、腹筋のパワーだけでなく、スピードも必要なわけです。

 つまり、腹筋に俊敏性が求められるわけです。ああ、つまり私の腹筋は、ひ弱なだけでなく、トロいってわけです。ああ、ああ。とにかく、弱くてトロい腹筋をどうにかしないと、上手く歌えるようにはならないって事ですが…これは一朝一夕でどうにかなるものではないので、時間をかけて解決していかないといけないのです。頑張ろ。

 次は、ヴェルディ作曲の歌劇「リゴレット」の中のテノールアリアの「Quests o quella/あれかこれか」です。

 「あれかこれか」どころか、あっちもこっちも上手く歌えないのです。とりわけ頻繁に出てくる“C-E♭-A♭”というフレーズが、どうにもうまく歌えないのです。しかし“E♭-A♭”というフレーズなら、なんとか歌えるわけで、フレーズの頭にCが付くか付かないかで、こんなに歌いやすさが変わるものなんですね。いやいや“C-E♭-A♭”というフレーズでも“C,E♭-A♭”という感じで、Cで一度フレーズが切れてしまえば歌えるわけなんです。

 ですから“C-E♭-A♭”を歌うためには、真ん中のE♭を意識して、この音をしっかり歌う事でA♭へのジャンプアップが可能になるわけです。実際“C-E♭-A♭”を失敗する時は、A♭を意識するあまり、E♭で息が失速しているのです。音程の跳躍があると、高音の手前で、息が失速するのは、私の悪い癖なのです。“C-E♭-A♭”のフレーズは、私にとって“C-A♭”の跳躍のように感じてしまって、無意識に間の“E♭”で息が失速するわけです。意識を変えて“E♭”をしっかり歌って“C-E♭-A♭”のフレーズを“E♭-A♭”として歌えれば良いわけです。

 そのためには、音程の跳躍にも怖れない勇気が必要なのですが…。

 “la constoro avveneze e qual dono”でのスラーの歌い方を注意されました。この箇所では、腹筋はもちろんだけれど、背筋もしっかり使って、息をたっぷりと後ろにまわして歌う事で、スラーが表現できるのだそうです。つまり、しっかり背中を使って歌おうって事です。フルートなら、息を出し続けることでスラーを表現できますが、声楽では背筋を使って歌うことで、スラーを表現するわけです。難しいね。

 でも、この背筋を使って歌う方法は、高音発声にも応用が効くそうですから、腹筋のみならず背筋も鍛えていかないといけないわけです。

 しかしA♭が、ほんと、楽に歌えるようになったなあ…。ちょっと前までは、Gが精一杯だったから、ほんとうれしいです。

 今回のレッスンでも、このアリアは一番でお終い。カデンツァは例によって後回しとなりました。カデンツァにはB♭があるんだよね(汗)。実用最高音よりも全音も高い音が待っているわけで…。ああ、頑張らないとなあ。

 さて、次回のレッスンから…ボエームに突入しても良い事になりました。つまりは、私の譜読み次第で、次回もこれらの曲をレッスンしてもらうか、さっそくボエームに突入するか…決めないといけないわけです。

 少しずつは音取りを始めないといけませんが、なにぶん、曲も大きくて長いんですよね。さて、次回のレッスンはどうしましょうか?

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2016年3月15日 (火)

毎度毎度の話ですが、腹筋を強くしないといけません

 声楽のレッスンに行ってきました。

 とりあえず、発表会で歌う『ラ・ボエーム』の概要が決まりました。どこを歌って、どこをカットするかという話です。概要が決まったので、ボチボチ台本に着手しないといけません。まあ、いわゆる春休みに台本を書いてみようと思ってます。実は春休みって、普段よりもカラダは忙しいかもしれませんが、気持ち的にはゆとりが生じるので、気持ちのゆとりがあるうちに、バババババ~っと台本を書いちゃおうと思ってます。

 台本は台本として、私が本番として歌うのは、最初と最後の部分となる予定です。つまり男声四重唱の部分と、フィナーレの部分のロドルフォね。私の実用音域での最高音はA♭ですが、四重唱ではAが、フィナーレではB♭を使います。実用音域よりも高い音なのですが…気合を入れて頑張って歌うつもりです(汗)。まあ、なるようになるでしょう。

 私が歌わない部分のロドルフォは、プロ歌手の方にお願いする事になりました。つまりロドルフォは、私とプロの方の共演って事になるわけで、当然、私はプロの方と比べられてしまうのですが…歌唱力も体型も若さも演技力も負けるわけですから、もう開き直るしかないわけです。まあ、音楽は勝ち負けじゃないからサ(汗)。

 さて、発声練習です。注意するのは、毎度の事ですが、開きと支えです。ノドを開く、ノドを開けば音程が下がる、音程が下がらないようにしっかり息を支える、息の支えが足りないとノドが閉まってしまう…という連鎖を意識しながら、ノドを開いて、息を支えて、発声するわけです。

 考えてみると、単純なメカニズムなんです。ノドを開き続けるために支えが必要。支えだ足りなければノドが閉まるか、あるいは音程がぶら下がるだけなんです。ノドが閉まれば音色が変化します。音程がぶら下がれば音痴になるだけです。だから、支えは大切。逆に言えば、支えが十分でないと、ノドを開くことはできないのです。

 今思えば、私がキング先生のところで歌を学んでいた時、散々、音程がぶら下がっていると注意されつづけ、音叉を購入させられて、常に音叉の音を聞かされていたけれど、ありは全くの無意味な行動だった事が、今となっては分かります。必要な事は、音叉の購入ではなく、腹筋の強化だったわけです。以前の私の音程がぶら下がっていたのは、単純に息の支えが弱く、その分をノドや首や肩で支えていたためだったわけで、直すべきは発声方法だったわけです。

 先生を変えて、本当に良かったと思ってます。

 今回、久しぶりに注意されたのは、チェンジの事。声のチェンジが早すぎますねと言われました。チェンジ…デッキングとかパッサージョとも言われるアレですが、私はそのチェンジのタイミングがちょっとばかり早いので、なるべく声をチェンジするのを我慢して歌いましょうって言われました。で、どこまで我慢するのかと言えば、高いAまで。そこまで声をチェンジさせないで歌うと、その上の音が楽に発声できるようになる…と言うのです。

 ううむ、以前も注意されたなあ…と思って、過去ログを漁っていたら、三年前の「チェンジ再び」という記事であれこれ書いてましたね。いやあ、過去ログも役にたつものです。

 しかし、この三年間で音域が半音しか広がっていない事実は、ちょっとばかり腰砕ける事実だねえ…。まあ、この段階では、Y先生に師事し始めて半年ですから、まだまだダメダメな私だったし、キング式の発声法から抜け出せていなかったんだよね。

 三年前に考えたやり方で、概ね正解だろうと思うけれど、ちょっと気をつけないといけないのは、息の量です。三年前は息の量に関しては無頓着だったけれど、今は息の量は少なすぎてもいけないけれど、多すぎてもいけないと思ってます。つまりは、適量を守る事が大切だという事に気づきました。

 高音を発声する時、ついつい頑張って、息を強めの多めで出すわけだけれど、これってノドを痛める原因でもあるわけです。高音発声では、息のスピードは必要だけれど、量はそんなに多くなくていいのです。それを可能にするには、腹筋の強さが必要で、腹筋が弱いと、息のスピードを速くしようとすると、それに伴って大量の息を吐いてしまうわけです。そこを我慢して、適量の息だけで、息のスピードを上げようとするなら、そこはかなり腹筋が働かないといけないわけです。

 つまり、私が高音のないテノールである理由は、腹筋が弱いから…とも言えます。ああ、腹筋を強くしないとなあ。反省、反省。

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2016年3月14日 (月)

器楽の人は楽器を持っていないと音楽はできないけれど…

 …声楽の人は、自分自身が楽器だからいいよね。

 そういう言葉を聞く事があります。この言葉は器楽の側から見れば、事実ですね。器楽の人は、自分の楽器を手にして始めて音楽ができるわけですから。

 しかし、この言葉は、声楽の人からすると、必ずしも正しいとは限りません。と言うのも、声楽を嗜んでいる人の皆がみんな、楽器を持っているわけではないからです。

 どんな人でも“話し声”は持っています。よほどの病気や障害を抱えていない限り、誰でも話し声は持っていて、自由に言葉を操ることができるものです。しかし、歌声。それも声楽で使える楽器としての歌声を持っている人って、実はそんなに多くはありません。

 もちろん、歌声と言っても、千差万別で、人それぞれです。楽器にもランクがあるように、歌声にも、正直な話、楽器としてのランクがあります。一流のプロ歌手として活躍できるほどの美声を持っている人もいれば、美しさにはやや欠けるもののホール演奏が可能なほどの音量を備えている声であるとか、音量にはやや欠けるものの、声の美しさは十分に備えているので、サロン程度ならば歌える声であるとか、美しさや音量などあれこれ不足していて独唱には向かないけれど、正しいピッチの声なので、合唱には十分適応できる声であるとか、話し声から離れられず歌うには厳しい声であるとか、声がつぶれていて歌には不向きな声であるとか…ほんと、色々な人がいるものです。

 今はP.A.システムもあるので、音量に欠けても、美しさに欠けていても、少々声がつぶれていても、電気的な処理を加えることで歌手として活躍できます(現にポピュラー歌手の中には、ほぼ話し声で歌っている人もいるくらいです)が、クラシック声楽は、基本的に電気に頼らずに歌うわけですから、ある程度の歌声を持っていないと厳しいのです。

 この場合の「声を持っていない」は「自分のカラダが楽器ではない」という意味です。もちろん、未訓練のために声が楽器として使えていないというケースもあるけれど、素質的に歌声を持っていない、あるいは貧弱な歌声しか持っていないというケースもあります。

 器楽なら、楽器を持っていなければ、店に行って、立派な楽器を買ってくればいいけれど、歌の場合は、そうはいきません。自分が生まれ持った声しか使うことができないのです。自分の持っている声で出来ることしか出来ないのです。

 さらに困った事に、自分が歌声を持っているかどうかは、実はなかなか自分自身では分からないのです。だから、周囲の人が、声の判定をして、それをきちんと本人に教えていかないといけません。特に若い人の場合は、声の有無に人生がかかっている場合もあります。ほんと、そこはきちんとしっかりと教えてあげないといけません。

 たまに話に聞くのは、一生懸命、歌の勉強をして音大に入学したら、自分がプロとして通用するような声を持っていない事に気づいてしまう人がいるって事です。大学に入ってから気づくわけです。一般的に考えれば「何をやっているんだい…」って感じですが、これが決して珍しい話ではないらしいのです。

 自分には声がない!と気づいた段階で、上手に方向転換ができれば良いのですが、未練もあるし、不器用な生き方しか出来ない人もいるわけで、そこで判断中止となって、残りの時間は流れに任せて卒業してしまうと…ほんと、どうにもならなくなります。取り返しがつかなくなります。

 声楽の人は、自分が楽器だから、自分自身を鍛えていくわけだけれど、鍛える前に、神様からどれだけのモノを与えられているか…そこも大切な要素となるわけで、そういう点では、楽器さえ買えばいい器楽の人の方がうらやましい…と思う声楽の人もいるって事です。

 器楽であれ、声楽であれ、良い楽器を持っている人は、幸運だね。

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2016年3月13日 (日)

昔は、区点コードとかJISコードとかを使ってました

 昔のFEPはあまり賢くありませんでした。FEPと言うのは…今で言うIMEのようなもので、パソコンの各種ソフトの一つで、日本語を入力可能にするための補助的なソフトの事を言います。

 たいていの場合、ワープロソフトを購入すると、そのおまけとして付いていました。例えば「新一太郎」に付いていた“ATOK”(これは今でもありますよね)とか、「新松」に付いていた“松茸”とか、「OASYS」に付いていた“OAK”とか…、そんな感じ。そう言えばパソコンのおまけではなく、当時としては珍しく単体発売されていた“VJE”なんてのもありましたね。

 Windows以前のMS-DOS時代は、これらのFEPがぶいぶい言わしていたわけですが、やがてWindows時代になって新しく登場したMS-IMEが、OS標準搭載(つまり無料ソフトって事だ)として登場し、このソフトがそこそこ使えたため、やがて多くのFEPが廃れてしまい(有料は無料には勝てないのです…)、今に至っているわけです。

 ま、そこは栄枯盛衰って奴だね。

 ちなみに、私のFEP/IME遍歴は言うと…、最初は、ワープロソフト「松」を使っていました。ですから、私の最初のFEPは“松茸”なんですね。ただ、当初はまだ“松茸”が「松」からは独立していませんでした。

 やがて「松」もワープロ本体とFEPを分けるようになり、“松茸”が単独のソフトとして独立したので、名実ともに“松茸”を使用するようになりましたが、すぐに世の中の流れに巻かれて、ワープロソフトを「松」から「新一太郎」に乗り換えたので、FEPも“ATOK”に変更しました。当時の“ATOK”は“松茸”と較べて使いづらかったなあ(慣れていなかっただけかもしれないけれど)。

 結局、なんか「一太郎」に慣れなかった私は、一度パソコンから離れて、ワープロ専用機(当時はそんなモノがあったんですね)の「Rupo」に転向しました。「Rupo」はテキスト入力は小気味良くできましたが、ちょっと複雑な事をしようとすると、メニューの中で迷子になってしまいました。どうにも、メニューの構成が私の感覚とはちょっと違っていたようです。

 それでも「Rupo」でたくさん仕事をしました。たくさん仕事をしすぎて、左小指が腱鞘炎になってしまいました(涙)。いやあ、これはマズイと悟った私は、それまでローマ字入力で日本語を入力していたわけですが、それを契機に、指に負担の少ない親指シフト入力に転向することにし、併せてワープロも「OASYS」に乗り換える事にしました。この「OASYS」は、今まで使ってきたワープロの中で、一番私の感覚に合っていたと思います。

 やがてワープロ専用機の時代も終わり、私もパソコンに戻りました。戻った当初はパソコン版の「OASYS-Win」を使っていたので、IMEも“OAK”を使い、やがて、その後継ソフトの“Japanist”へと変わりました。“Japanist”を使いながらも、ワープロソフトは「OASYS」から「Word」へと乗り換え(長いものには巻かれないとね)、しばらくは“OAK”や“Japanist”を使いながら、ワープロは「Word」を使うという時代がありました。ちなみに、今でもワープロは「Word」を使ってますよ。

 “Japanist”は良いIMEでしたが、2003年以降、新しいバージョンが登場しなくなりました。古いソフトのままでも、使えないわけではないけれど、色々と機能も古びてしまったので、最近は“Google日本語入力+やまぶき”という組み合わせで日本語入力をやっています。これは、日本語IMEそのものは“Google日本語入力”を使い、それを“やまぶき”というソフトを使うことで、親指入力可能にしているわけです。

 こうして列記していくと、私も色々なFEP/IMEを使ってきたんだなあって思います。

 さて、こうしてFEP/IME遍歴を振り返ってみると、本当にFEP/IMEも賢くなり、使いやすくなってきたなあと思います。

 とにかく、すごく進歩したのが、漢字の入力です。FEP/IMEは、基本的にかな漢字変換システムで、かなを入力し、変換ボタンを押すことで、漢字に変換していくというシステムですが、その変換候補に現れない漢字とか、そもそも読み方の分からない漢字の入力に、昔は手間取ったものです。

 今は簡単ですよ。たとえ読めない漢字でも、入力ウィンドを開いて、そこにマウスなり、指先なりで直接字を書けば、その手書き文字を認識して、求める漢字の候補を出してくれますからね。ほんと、便利ですよ。

 昔は、そんな便利なものはありませんでした。じゃあ、どうしていたのかと言うと、区点コードとかJISコードで漢字を入力していたのですよ。

 例えば“空”という漢字。まあ、この漢字の入力に手間取る事は無いけれど、仮に、この漢字の読み方が分からなくて、パソコンに漢字入力が出来なかったとします。

 今なら、入力ウィンドを開いて、そこに手書きで“空”と書いて認識させれば、OK。でも、昔はそうもいなかったのです。

 最初の最初の、本当に最初の頃は、パソコンに付いている分厚い取扱いマニュアルを持ってきて(昔のパソコンには電話帳のような分厚いマニュアルが何冊も付いてきたんですよ)、その巻末に載っている文字コード表を見て、その表の中に掲載されている文字の中(何万字もあるんですよ)から“空”という漢字を見つけて、そこから、そのJISコードを探して、JISコードをパソコンに入力して漢字を出していました。すっごい面倒だし、時間もかかるし、厄介だったんです。

 ちなみに“空”のJISコードは「8BF3」です。

 やがてもう少し賢いやり方ができるようになりました。と言うのも、一般的な漢和辞典に、JISコードとか区点コードというのが掲載されるようになりました。ですから、パソコンの取り扱いマニュアルについている文字コード表を目をサラのようにして虱潰しに探す必要はなくなり、漢和辞典で“空”をひけば、そこにコードが載っていたので、それでパソコンに入力できるようになりました。あれは、ほんと、便利になったものだと、当時はしみじみ思ったものです。

 その頃になると、JISコードよりも区点コードの方が多く利用されていたと記憶しています。ちなみに“空”の区点コードは「2285」です。

 それらの段階を経て、やがて手書き文字認識で読めない漢字が入力できるようになりました。いやあ、うれしかったなあ。これで漢字を探す労力から解放されたと思ったものです。

 あの頃は、今ほど使える漢字の種類も少なかったので、欲しい漢字を一生懸命辞典で探して、その漢字には区点コードが付いていないと知った時は、ほんとがっかりしました。趣味ならそこでお終いでしたが、仕事でどーしてもその漢字を入力しないといけない時は、どうしたかって? その頃は、外字の作成をしていましたよ。つまり、自分でフォントを作ってました(笑)。すごいですね。昔の人は、本当にすごいです。我ながらすごいです(笑)。なければ何でも手作りですよ。そういう時代だったんです。

 ほんとのほんとのほんとに、今は便利になりました。今は、パソコンで使用できる漢字の数もうーんと増えまして、外字を作る必要なんて、ほとんどないですからね。ああ、便利便利。

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2016年3月12日 (土)

やっぱり金魚はテレビを見ているようです

 金魚の唯一の楽しみはエサだ…と私は(今も)思っています。で、そのエサの入手方法は、我が家では二通りあって、一つは人間からもらう(金魚的に美味しいエサがもらえる)、もう一つは水槽内にいるエビとか巻き貝とか水草を食べる、の二つがあります。ですから金魚たちは、人間を見れば、ヒラヒラヒラヒラと自分たちの存在をアピールをして、エサの催促をしますし、そうでない時は、水槽内のエサ(主に水草、たまに巻き貝)を無心に食べていたりするわけです。

 とにかく、四六時中、食べてばかりいるのが金魚なのです。

 今までウチにいた子たちは皆そうでしたし、今いる子たちだって、最近まではそうでした。

 でもね、ここんところは、そうとばかりも言えない状況をよく見ます。

 エサを食べる以外に何をしているのか…と言うと、ただ無心にテレビを見ているんですよ、これほんと。金魚5匹がほぼ5匹とも(たまに1匹2匹エサに夢中になってますが)部屋のテレビがつくと、何気にテレビに近い水槽の壁面に集まって、みんなして同じ方向を向いて、じっとしているのです。もちろん、その視線の先にはテレビがあります。

 金魚とテレビの間を人間が通ると…以前なら、ここぞとばかりに、人間に向かってアピール活動を開始してエサねだりをしていますが、最近は違うのです。ゆっくりと人間の方を見ていると言うか、動きを目で追っているのです。全然、アピールしないのです。

 アピールしないどころか、何やら不機嫌の気分が伝わってくるのですよ。もしかすると「人間、邪魔」とか「テレビ見えないじゃん」とか思っているのかもしれません。

 とにかく、最近の金魚たちは、テレビを熱心に見ているようなのです。それも、かなり食い入るようにね。

 それが分かるのは、金魚たちがテレビの近くに集合するのは、テレビがついている時だけだからです。テレビがついていない時は集合しないし、テレビが消えると解散します。

 これって、どー考えても、テレビを見ているよね。

 しかし、金魚のかわいい脳細胞でも、テレビって楽しいものなのでしょうかね? 彼らはテレビのどんな点に惹かれるんでしょうね。

 以前書いた時は、アニメばかり見ているような印象でしたが、最近は、ニュースでもドラマでも、テレビがついていて、何かが放送されていると、それを食入るように見ているのです。この前なんかは、金魚が5匹で雁首並べて『大岡越前』を見ていましたもの。時代劇だよ! 金魚に大岡裁きが分かるのかね!

 色々と不思議な感じがします。

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2016年3月11日 (金)

たぶん私は自営業には向いていない

 フルートのレッスンに行ってきました。

 実はお教室の会員証を忘れてしまい「まずい、会員証が無いからレッスンを受けさせてもらえなかったら、どーしよう」と心臓バクバクで行ったら、あっさり顔パスでレッスンを受けられることになりました。いやあ、私って、他人を覚えるのは苦手だけれど、他人に覚えられるのは得意だよなあ(笑)。絶対に犯罪を犯せないタイプの人間かもしれません(涙)。

 さて、肝心のお教室に入ったら、姉様がレッスンをしていました。今回の課題は「ロマン派とバッハの音色の違いを吹き分ける」というのをやっていて、先生が散々「(ピュー)これがロマン派の音、(ピュー)こっちがバッハの音」ってのを何度もやって、姉様に仕込んでいました。吹き方と言うよりも、聞き分けができることが大切で、聞き分けができれば、自然と吹き分けられるようになるんだそうです。

 もっとも、ロマン派とバッハの音の違いは、私にも聞き分けられるくらいに全然違ってましたが、それを吹き分ける事ができるかと言うと、私には到底できません。タンギングとか息のつなぎ方とかが、ちょっとずつ違うんだそうです。ああ、難しいね。

 私は、ロマン派とかバッハとか以前に、楽譜通りにきちんと吹けるようになるのが、まだまだ目標でありんすよ。でも、いずれはロマン派とバッハの違いを学ぶようになれるのかしら?

 さて、ロングトーン練習ですが、今回は思うところがあって、わざとフルートを外向きに組み立て吹いてみました。意識的に外に向けて吹いたのですが、色々と納得する事がありました。外向きで吹いた方が、先生や姉様の音と合わせやすいという事。特に第3オクターブはそれが顕著でした。まあ、先生にしても姉様にしても、フルートは外向けに組み立てているからねえ…。同じように組み立てたほうが、音が合わせやすいわけだ。

 おそらく第三者的には変わりないと思うのだけれど、奏者的には、フルートを外向きにすると、フルートの音色のフルフルした部分がだいぶ減ってしまいます。ああいう、ツルツルした感じの音が好みの人には問題ないだろうけれど、私はツルツルよりもフルフルの方が好きなので、やっぱり外向きに楽器を組み立てるのは、好きになれませんが…それは単純に演奏者のエゴであって、観客的には、ツルツルでもフルフルでも同じ“フルートの音”なんだよね。

 さて、エルステ・ユーブンゲンの15番は、チャラっと合格。ふふんだい。16番は暗譜どころか、まだ指的に納得できていないので、次回まわしです。

 エルステ・ユーブンゲンは、16番まではC-durなんですが、17番からはG-durになります。別にG-durだからと言って、臆する所は無いのですが、和音進行が違うと、指の動きも全く違うだろうから、そこが心配でもあり楽しみでもありすんよ。

 プチ・エチュードは13番で、先生に「良くなった。前回とは全然違う!」というお誉めの言葉をいただきましたが、あっちこっちミスブローがあったので、不合格となりました。次回のレッスンまでにたっぷりと吹き込んで、つまらないミスブローを減らさないとね(とほほ)。

 今回の雑談は、例によって、ヤバイ話をしてしまったので、ネットにはあげません、ごめんちゃい。

 術後の先生は、お元気そうに振舞っていますが、フルートを吹くのがだいぶ辛そうです。よく咳き込むし、息が止まって、音が滑らかではないですね。まあ、まだ“病み上がり”という状態で、完全とは程遠い状態なので、仕方ないし、おそらくサラリーマンなら、まだ休養している期間だと思います。自営業は休めないし、休むと収入がなくなるから、病み上がりでもなんでも仕事をするしかないのだろうけれど、浮き沈みが激しいというか、稼ぐ時はがっぷり稼いで、そうでない時はパッタリ稼げないという、安定とは程遠い経済状況なんでしょうね…と推測します。まあ、それが自営業だからね。しかし、いくら浮き沈みがあると言っても、生涯賃金は、私なんかよりも、ずっとずっと多いんでしょうから、ちょっぴりうらやましかったりします。

 でも、収入が少なめでも、安定していて、必要に応じて休養が取れる方が、私の生き方にはあっている…かな(笑)。ま、私は自営業向きの性格とライフスタイルではないって事ですね。

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2016年3月10日 (木)

やっぱりブログを辞める事に…なるかも?

 先日「ブログを辞めてしまおうかと思う事もある」という記事を書きました。

 これは、疲れてしまったり、忙しかったりして、やさぐれてしまう事もあって、そんな時は思わず「ブログ辞めちゃおうかな…」という弱音を吐いてしまう事があります…って記事でしたが、今日の記事は、それとはちょっと違います。

 2015年3月8日から、ブログの左欄の『ひとこと』に、次の文章をアップしました。

 『保育園落ちた、日本死ね!』の人は、匿名のまま、お仲間の方々と一緒になって反政府活動をしていて、なんか気持ち悪い。ほんとにあのブログは、保育園に落ちた女性の方が書いたのかしらね? 匿名だもの、成りすましだって可能だよね。外国の工作員の方が、あのブログを書いた可能性だって高いよ。何しろ、ハンドルすら使う必要のない“はてな匿名ダイアリー”に登録された文章だもの。ここって“ブログ”と言うよりも、誰でも書き込める一過性の掲示板みたいなサービスでしょ? 他人を侮辱するには、ちょうどいいメディアだしね。この記事を書いた人、あるいは記事を利用した人は、よっぽど次の衆参ダブル選挙に向けて自民党(&安倍政権)の人気を下げたいと思っているんだろうね。何しろ、安倍政権の支持率って約50%もあって、歴代政権の中でも支持率が高い政権だからね。まずは選挙に向けて、揚げ足とって人気潰しをやっているんだろうなあ。

 この文章をアップして以来、詳しい事はぼかして書きますが、外部から私のパソコンを操作する方とか、外部から私のパソコンに何やらソフトをインストールしようとなさる方とか、ブログの一部を書き換えようとなさる方とかが、ぼっつらぼっつらと現れるようになりました。

 一応、一つ一つに対応していますが、これが結構面倒くさいです。ほんと、ちょっとイヤな気持ちになります。例えて言うと、自宅の前の道路に放置されたフンを仕方がないので片付けているような気分になります。うへ~~~って感じです。

 私の『ひとこと』の文章が、よほど目障りだったのでしょうね。

 もしかすると、これは警告なのかな?って思ってます。誰かが私のクチをふさごうとしているのかもしれません。私が書いたこの文章を、多くの人達に読まれるのは、よほど困った事なんでしょうね。

 あ、一応書いておくと、この記事は、リンクフリーですから(笑)。

 私も、別にブログに命をかけているわけじゃないので、あんまり面倒くさい事が続くなら、ブログを辞めてもいいやって思ってます。ブログなんて、そこまでのモノじゃないしね。

 いっその事、私のこの文章、はてなの“はてな匿名ダイアリー”にアップして、このブログを閉じてしまおうかと、割りと真剣に考えています。

 だってさあ、私は、ただの素人のブロガーなんだよ。デモをするわけでもないし、左翼系の議員さんに発言とりあげてもらえるわけじゃないし…。それなのに、こうも面倒くさいことに巻き込まれたら、ほんとうんざり。わたしゃ、かなわんよ。

 それに私にブログを辞める気持ちがなくても、プロの工作員さんが本気出せば、このブログなんて、あっという間に消去されちゃうだろうしね。いやマジです。

 まあ、それならそれでいいかって気もしてます。ただ、そういう事があったら、私が書いた事が事実だったという事になるわけだし、誰かが何かをしようとしているって事の証明になるわけです。だから、来るなら来いよ! ドーンと来いよ! あっさりと負けてやるから(笑)。

 それも人生。こういう幕引きもオツってもんでしょ? 書きたいことを書けないようなら、ブログなんてやっている意味、無いもんね。

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2016年3月 9日 (水)

発表会の選曲について

 ある意味、昨日の記事の続きになりますが、アマチュア音楽家である我々が、発表会などの本番で演奏する時の選曲について、少し考えてみたいと思います。

 まず、発表会の選曲を先生がしてくださる場合は、全幅の信頼を置いて任せるのがスジです。まあ、私の前の門下では、発表会の選曲は、先生がしてくだり、我々生徒はそれを唯々諾々として受け取って、ひたすら練習して本番に向かったわけですが、私はあの先生の門下にいた時、たったの一度たりとも、発表会でまともに歌えたことはありませんでした。つまり、先生の選曲は、いつでも間違っていたわけですが、そういう先生は、滅多にいないので、普通は安心して先生に任せればいいと思います。

 問題は、自分で選曲して先生と相談する場合です。

 自分で選曲して…と言うにも、パターンは二通りあるでしょう。一つは『今までレッスンで取り上げてきた曲の中から選ぶ』というパターンと『新曲を選んでチャレンジする』と言ったパターンです。

 『今までレッスンで取り上げてた曲の中から選ぶ』パターンの場合は、本番までの日数との関係があるでしょうね。本番間近で改めてきちんと練習する時間がない場合は、今までレッスンで歌ってきた曲の中から、一番出来が良くて、一番暗記の手間の少ない曲を選ぶべきです。日数が少なくて準備時間が少ない時に、あえて冒険をする必要はないからです。

 日数が多少なりとも余裕があるならば、今まで取り上げきた曲の中で、悔いが残っている曲を改めて取り上げるのが良いと思います。少なくともレッスンでやってきたのですから、その曲があなたにとって無理な曲って事はないと思います。ただ、レッスンでは満足いくまで仕上げられなかったわけですから、発表会の準備というチャンスを活かして、この際、徹底的にその曲を仕上げてみるのが良いでしょう。

 さて、問題は『新曲を選んでチャレンジする』時です。私はたいていの場合、このパターンなんですが、これは私の欲深い性格と関係しています。と言うのも、残り少ない人生を考えた時に、まだまだ歌ってみたい曲がたくさんあって、いつもいつでもレパートリーの拡充を狙っているので、発表会だからと言って、その歩みを止めたくないからです。さらに言えば「せっかくの発表会だから、大曲を歌ってみたい」という欲もあります。この2つの欲で、私は新曲を選曲をするわけです。

 でもまあ、このパターンでの選曲には危険が常に伴います。まずは、自分のテクニックとのバランス問題です。とにかく、今まで歌った事がない曲にチャレンジするのですから、自分でその曲を人前で披露できるほどに歌えるようになるのか…全く皆目検討つかないわけで、チャレンジしてみた結果「やっぱ無理」となっても、曲目変更するわけにもいかないという危険性があります。もう一つはまっさらな状態で新曲に臨むわけですから、本番までに暗譜がきちんと出来るかと言った不安もあります。

 この2つの不安を抱えなきゃいけないので、新曲というのは、ほんとチャレンジであり、冒険であります。

 さらに言うと、自分で選曲するためには、ある程度、自分が曲を知らないといけません。つまり、日頃からの勉強量と言いますか、音楽を演奏するだけでなく、しっかりと聞いておく必要があります。演奏する人の中には「自分は演奏するだけで、他人の演奏なんて興味ない」という人もいますが、そういう人では選曲はちょっと難しいと思います。ですから、自分で選曲をする人は、日頃からたくさんの曲を聞いて学んでおく必要があります。

 この2つの不安を解消するのが、先生との相談ってヤツです。つまり、自分で選曲するのは良いのだけれど、必ず先生の意見も聞いたうえで、本決まりにしないといけませんって事です。自分が演奏したい曲と、自分が演奏できる曲は違うのです。自分では、そのギャップがなかなか分からないものですが、先生はプロですから、その点は分かってます。たとえ自分で選曲したとしても、最終的には先生のご判断に任せるべきだと私は思ってます。

 だって、そのための指導者ですからね。

 先生に頼れない場合は、最終決定をする前に、何回か演奏してみて、残りの日数で行けるかどうかの感触をつかみましょう。行けそうなら行ってみる、ちょっとでも不安を感じるならヤメテみるという勇気も必要だと思います。

 で、一度決めたら、後は徹底的に練習するのみです。練習は嘘をつきませんし、裏切りません。本番でアレコレ言い訳をする人間は、大抵の場合、練習が足りていないだけの話なのです。

 それと、練習と同様に大切なのが、健康管理です。いくら練習を積み重ねて完璧に準備をしても、当日が体調不良なら、話になりませんからね。私にも経験がありますが、体調管理は、ほんと、大切です。本番が迫ってきたら、睡眠や食事に気をつけて、なるべくストレスフリーな状態で本番に臨みたいものです。

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2016年3月 8日 (火)

『偉大なるマルグリット』を見てきた

 見たい見たいと思っていた『偉大なるマルグリット』という映画を見てきて、色々と考えさせられました。ちなみに、公式ホームページはこちらです。

 この映画、もちろんフィクションなんだけれど、実話をネタにした映画です。そのネタ元は、知る人ぞ知るソプラノ歌手のフローレンス・フォスター・ジェンキンスの話です。とは言っても、ジェンキンスの生涯とか活躍とかは、映画にはほとんど反映されていません。ただ、ジェンキンスが“音痴なアマチュア歌手”であったという事が物語の発想の原点として、そこから創りだされた新しい物語が『偉大なるマルグリット』ってわけです。

 上映される映画館が極端に少ないマニア向けの映画なので、このブログを読んだからと言って、実際に映画を見に行く事のできない人がほとんどでしょうから、簡単にストーリーの説明をします(ネタばれを含みますので、それを回避したい人は、以下の部分を飛ばして読んでください)。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 マルグリットは、20世紀前半のパリ郊外に住む、音楽の好きな貴族で、有り余る程の金持ちの婦人でした。恵まれない人々のために、自宅のサロンでチャリティーコンサートを主催し、大勢の音楽家たちを出演させ、お金持ちのお友達をたくさん招待して、募金活動を熱心に行う篤心家でもありました。そして自らが主催するコンサートのトリに出演し、歌を披露するのが生き甲斐でした。

 しかし、彼女は筆舌に尽くしがたいほどの音痴でした。でも、誰もその事を彼女に告げる人はいなく、彼女自身も薄々と自分が歌が上手ではないのかも…という思いを持っていたものの、誰も真実を告げるどころか、お世辞やゴマすりばかりで、彼女自身、なんとも煮え切らない気持ちを持っていたわけです。

 ところが、ある時、自宅のサロンコンサートに紛れ込んだ新聞記者(左翼な反国家主義思想を持った若者)であるボーモンが彼女を利用しようと企み、彼女の歌声を紙上で大絶賛します。それを真に受けたマルグリットは、やはり自分の歌は他人を感動させられるんだと勘違いをし、ボーモンの誘いでパリの場末のクラブで歌を披露します。

 当然、演奏会は大失敗となり、そのおかげで彼女はそれまで彼女のサロンコンサートに来てくれていた友人たちと縁切りをされてしまうけれど、大勢の面前で歌う喜びを知ったマルグリットは、そんな事にめげず(おそらく)パリオペラ座でのリサイタルを計画します。彼女のリサイタルの実現のために、声楽教師や演出家が雇われます。各人それぞれの思惑もあって、チームは一丸となってリサイタルの準備に取り組み、ついにリサイタルは実現されます。

 リサイタル本番、調子外れのアリアを歌い始めるマルグリット。あまりの音痴っぷりに笑い出す聴衆たち。しかしやがてマルグリットの歌が徐々にまともになっていき、まるで一流歌手の歌唱のような歌声になったところで、突然、彼女は吐血しリサイタルは中止となり、マルグリットは病院に緊急搬送されます。

 病院で治療の一環として、彼女の歌声が録音され、それを聞くマルグリット。録音された自分の歌声を聞き、始めて自分が音痴である事を知り、卒倒してしまいます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 以上、ネタばれ終了。

 まあ、私はこの映画を見て、色々と考えてしまったわけです。この映画の主人公であるマルグリットは、確かに極端な例ではあるけれど、現代日本のアマチュア音楽家たちと、あまりに似ていないだろうか…という事です。

 多くのアマチュア音楽家はプロではありません(当たり前)。“多くの”と書いたのは、アマチュア音楽家の中には、音大を卒業した人もいるし、かつてプロとしてデビューをした人もいるわけだし、専門教育を受けた元プロなどの人も、それなりの数いるわけだからですが、私がここで相手にしたいのは、そういう人ではなく、ある意味、純粋なアマチュアの人…マルグリットのように、専門教育を受けるでもなく、しかしあふれるばかりの音楽への思いを持っているアマチュア音楽家たちの事です。

 彼らの心の中には、いつでも不安が伴います。自分はちゃんと演奏できるだろうか、間違った事をしていないだろうか? 観客には喜んでもらえるような演奏ができるだろうか? 思わぬ失敗をしてしまう事はないだろうか?

 私は、多くのアマチュア音楽家たちは皆、多かれ少なかれ、マルグリットなんだろうと思うのです。そして、私はこの映画を見て、彼女の中に自分の姿を見つけてしまったのです。

 音楽を趣味とするのは、ある意味、悲しい事なのかもしれません。聞くだけならともかく、実演を志すならば、そこには常に、理想の音と自分の現実の音の乖離を感じ続けなければいけません。それを乗り越えるのが熱情なのですが、その熱情を必ずしも他人が理解してくれるわけではありません。マルグリットのように、笑い飛ばされることだってあるんです。

 私は以前「アマチュアはけなさい」という記事を書きましたが、その気持ちは今でも変わりません。

 さて、少し話題を変えます。架空の世界の架空の人物であるマルグリットですが、なぜ彼女が音痴だったのかという事を、私なりに考察してみたいと思います。

 まず始めに、彼女には指導者がいなかった事があげられます。声楽の場合、歌手自身が楽器なので、自分の歌を客観的に聞くことができません。そのために、声楽の場合、録音とか優れた指導者などが必要となります。しかし、彼女には指導者がいなく、録音もまだまだ一般的ではなかったので、入院するまで、彼女は自分の歌声を聞くことができず、自分の歌が調子っぱずれであるという自覚が持てなかったのです。

 第二に、彼女は類まれなる恵まれた声を持っていたのだろうと思います。もし彼女の声が平凡であったなら、ロクな指導を受けずに、まだP.A.システムすらない時代、サロンコンサートで歌う事は出来なかったと思います。指導者がいなくて、発声方法すら知らないのに、ひとまずサロンコンサートやら場末のクラブやらで歌えたのは、彼女が天性の声を持っていた事の証明であります。そして、なまじ良い声を持っていたために、そのコントロールが難しくて、結果として音痴になっていたのだと思います。

 第三に、彼女はコロラトゥーラソプラノ系の歌を歌いたがりますが、劇中で彼女の指導をしていたテノール歌手のペッジーニが、ある時切れて「誰も言わない真実を言う。あなたはコロラトゥーラではない。あなたはメゾだ」と言い放つシーンがあります。おそらく、そうなんでしょう。自分の声に合わない曲を無理して歌おうとするから、音痴になるんです。自分の声に合った曲を無理なく歌えば、そんなにひどい事にはならないはずなんですから。でも、彼女はそこにこだわった。ペッジーニ以前にも何人もの声楽教師が彼女に付いてはは離れてしまったわけだけれど、その事を彼女自身が「私と先生では音楽の目指す方向が違っていた」と言っているわけで、おそらくは今までの音楽教師もそのあたりの事を指摘していたのだろうけれど、マルグリット自身がそれを受け入れなかったわけです。彼女の頑固さが彼女の音痴の原因の一つだったわけです。今回だって、ペッジーニの指摘にも関わらず、マルグリットはリサイタルの最初で、オペラアリア中、難曲中の難曲である歌劇「ノルマ」の「清らかな女神よ/Casta Diva」なんていう、声にも合わなければ、テクニック的にも無理無理なアリアを歌うんですから、相当に頑固なオバサンなんだと思います。

 つまり、色々と考えて見るに、マルグリットはアウトプット系の音痴だったと言えます。と言うのも、彼女は音楽を楽しむ感性を持っていたわけですから、インプット系の障害はなく、音楽心だって豊かに持っていたはずなんです。問題は、彼女が聞いて、心の中でイメージした音楽を、彼女が声として表現するための訓練が決定的に不足していたため、音痴になってしまったという事です。

 もしも…の話ですが、彼女がもっと若い時から専門家の指導をきちんと受けることができたなら、ここまでの音痴にはならなかったでしょう。あるいは、彼女が自分の現在の声質やテクニックにふさわしい曲を歌っていたならば、やはり音痴ではなかったと思いますし、なによりも準備不足のままリサイタル当日を迎えてしまったのが、一番の悲劇だったと思います。

 ほんと『偉大なるマルグリット』という映画を見て、色々と考えさせられてしまった私でした。

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2016年3月 7日 (月)

そばと邦楽とテナー

 昔々、私が子どもだった頃、父から「昼飯を作ってやるから、そばを買ってこい」と言われて、おつかいに行った事がありました。

 「そばを買ってこい」と言われたので、普通にそば粉でうった日本そばを購入して帰ったら、嫌になるほど殴られました。父が買ってこいと私に言いつけたのは“そば”は“そば”でも“日本そば”ではなく“中華そば”だったのです。私に言わせれば「だったら“そば”なんて言わずに“ラーメン”と言ってくれれば、殴られずに済んだのに…」って事です。私にとって“そば”とは日本そばの事であって、中華そばは“そば”ではなく“ラーメン”であり、百歩譲っても“中華そば”でしかないのですが、父にとっては“日本そば”も“中華そば”も“そば”であって、そのあたりの違いは空気を読んで察しろって事なんです。ひどい話ですね。

 世の中には、言葉は同じでも、使う人によって指し示す意味が異なってる事があり、それがディスコミュニケーションの原因になり、ひどい時は、私のように、理不尽な暴力を振るわれる事だってあるわけです。

 音楽業界にも、似たような話がありますね。

 例えば、邦楽。邦楽と聞いて、皆さんはどんな音楽を思い浮かべますか?

 私は“邦楽”と聞けば、三味線とか尺八などが活躍する、日本古来の伝統音楽で、まあ、だいたいは江戸時代の小唄、長唄、清元、義太夫、都々逸などの流行歌をイメージします。そしてそれに、地方地方で歌われてきた民謡も加えてもいいかもしれません。

 しかし、ある人たちはそうではなく“邦楽”と聞くと、J-POPとか歌謡曲とかアイドルソングとかジャパニーズロックなど、今の日本の流行歌をイメージするようです。まあ、“洋楽”に対しての“邦楽”というわけです。音楽ジャンルの対立概念からすれば、全くの言葉の誤用とは言えないと思いますが、私的には違和感があります。

 ですから“邦楽”という言葉を使って会話をしていても、両者の頭の中で思い浮かべる音楽が、全然違っていて、話がまったく咬み合わないなんて事もあります。

 もう一つあります。それは“テナー”という言葉です。

 皆さんはテナーと聞くと、何を思い浮かべますか? “テナー”とは“テノール”の事です。ここまでは全世界が一致すると思うのです。問題は“テナー”とか“テノール”とかが、何を指しているかという事なんです。

 私の場合“テナー”とは、私自身の事もあって、当然、男声高音歌手の事を指します。それ以外のモノではありえません。

 しかし、人によって、大型のサクソフォーンを指して“テナー”と呼びます。正式には『テナーサックス』と呼ばれる楽器であって、その略称として“テナー”と呼ぶわけです。

 確かに同属楽器の違いを、その音域によって、ソプラノ、アルト、テノール、バスなどど人声のように分ける事は、普通に行われています。フルートだって、普通のフルートの他に、アルトフルートという楽器があって、笛吹きの間では“アルト”と略して呼ぶわけで、そういう事は、様々な楽器プレイヤーの間では普通に行われている事です。

 でもテナーがテナーサックスを指す事は、ちょっと事情が違います。と言うもの、この略称が、案外、知名度が高いと言いますか、一般用語として広く流布されているからです。その証拠に“テナー”とググると、高確率で、歌手ではなく、サックスの方がヒットするくらいです。おいおい…って感じです。

 テナーサックスというのは「テノールの音域を持ったサクソフォーン」という意味であって、本家本元の“テナー”は歌手の“テナー”の方だろう…と思うのだけれど、現実の使用例としては、歌手よりもサクソフォーンを指し示す方が、多いかもしれません。

 テナー歌手としては、色々とジレンマと言うか、歯がゆい気持ちになります。本家本元の歌手よりも、器楽用語として転用された方が有名になっているなんて…日本って、よっぽど声楽人気がなく、サックス人気が高いってわけなんです。

 しかし、サックスなんて、ジャズか吹奏楽でしか使われない、本来ニッチでマイナーな楽器のはずだし、ジャズがそんなに人気高い音楽ジャンルとは思えないわけで…さすれば、それだけ吹奏楽の人気が高い…って事の裏返しになるわけです。

 こんな感じで、同じ言葉でも世界が違うと、指し示すモノや意味が変わるのです。言葉って面白いね…とも言えますが、不要な行き違いやらも生じるので、なんともかんともです。

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2016年3月 6日 (日)

ブログを辞めてしまおうかと思う事もある

 人間、生きていると色々あります。「人生、色々。ブログだって色々さぁ~」なんて、やさぐれたくなる時もないわけじゃありません。で、やさぐれてしまった時「ブログなんて、辞めちゃおうかな~」と思ったり思わなかったりするわけです。

 「ブログを辞めちゃおう…」と言っても、別にネタに困っているわけではありません。私の場合、幸いなことに“ネタ不足”で困ることはないのです。私の日常生活は、ブログのネタにあふれているので、むしろ「何を優先的に書いておこうか」と悩むくらいです。まあ、その点では幸せものなんでしょうね。

 私がやさぐれてしまう時は、忙しかったり、疲れていたりして、ブログ記事がなかなか書けない時です。「ネタはあるのに、それを書いている時間や体力がない」ってパターンの時です。そんな時でも頑張って記事を書いてアップしているわけですが、疲れていたり焦っていたりすると、文章が荒れるんですよね。「これじゃいけない(涙)」とか思いながらも、仕方なく記事を書き飛ばしまったり、推敲が不十分なままの記事をアップせざるをえない時に、色々あれこれ考えてしまい、ついつい、やさぐれてしまいます。これでもきちんとした文章をアップしたいと、常に思っているんですよん。

 あるいは、数日間ブログにコメントが全く付かない時って、あるじゃないですか? そういう時も、上記ほどではないけれど、やさぐれちゃいます。まあ、ブログというモノは、読まれたからと言って、何かレスポンスがあるものではないので、ブログにコメントが付かないぐらいで、動揺してはいけないのですが、これでも私、折り紙つきのメンタルの弱さを誇っていますので、数日間、コメントが付かないと、自分のブログなんて、誰にも読まれていないんじゃないかと、疑心暗鬼になったりするわけです。で、凹んで、やさぐれるわけです。

 結構、面倒くさいヤツなんです。

 あと、これは私の責任ですが、最近はフルートネタよりも声楽ネタの方が多いじゃないですか? これは最近の私の興味関心が、声楽方面に向いているのが原因なんですが、実は声楽ネタって、どうも評判悪いんですよね。

 声楽ネタの記事の時は、明らかにアクセス数が減りますし、コメントも少なめです。フルートネタの時は、読んでくださる方も増えるし、コメントが付く事も多いです。ですから、皆さんの応援が欲しければ、毎日毎日フルートネタの記事をアップすればいいのですが、今の私の音楽的関心が声楽に向いている事が多く、どうしてもブログの記事としては、声楽ネタが多めになってしまいますが、それが、このブログの評判を下げているんですね。

 分かってはいます。

 ブログの評判が下がり、モチベーションも下がり、気分がやさぐれても、なんとかブログが続いているのは、我が老犬ブログのブログランキングでの成績が良いからでしょうか?

 現金な話ですが“にほんブログ村”の各カテゴリーのランキングで良い結果を出し続けているのが、私にとって大きな励みとなっています。とにかく、声楽ランキングとフルートランキングでは、ここ数年、第1位を続けています。これもそれも、愛読者の皆さんのおかげです。ランキングが良いのだから、ブログが読まれていないわけではないのに、すぐにやさぐれてしまう私は、本当にメンタルが弱いんです。

 実は、私がブログを書いているのは、別にランキング上位になるためではなく、自分自身の老後の楽しみのために書いているのであって、年をとってヨイヨイになった時に、若くて元気が良かった頃の自分の文章を読んで、昔を懐かしみたい…ためなんですね。それだけです。でも、時々、それを忘れちゃうんですね。ダメだね(笑)。

 ああ、それにしても、年々、やさぐれる回数が増えてきました。年を取って、疲れやすくなったのかな…なんてね。ある日突然、ばったりブログの更新が止まったりして…。そうなったら、ごめんね。

 始めがあれば、終わりがあるのが、世の中サ、なんてね。

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2016年3月 5日 (土)

金魚は空を飛べるのか?

 飛べる! いや、飛んでいるんじゃないかしらと、最近の私は思ってます。

 もちろん『空を飛ぶ』は比喩表現であって、実際の金魚が空を飛んでいる事なんてありえません。

 でも、なぜ私は、比喩とは言え、そう思うのかと言えば、空は空気に満たされているわけですが、我々にとっての“空気”のようなモノが、金魚にとっての“水”なのではないかと思うからです。

 我々は空気の中で呼吸して、空気の中で生活しています。もしも空気のない場所に行ったら、窒息して死んでしまいます。金魚たちは、水の中で呼吸して、水の中で生活しています。もしも水のない場所に行ったら、窒息して死んでしまいます。

 ほら、金魚にとっての“水”って、我々にとっての“空気”のようなものでしょ? ならば、金魚が水の中を泳いでいるのは、鳥たちが空気の中…つまり、空を飛んでいるのと、同じようなものではないでしょうか?

 そう、思ったら、水槽の中を泳いでいる金魚たちを見て「ああ、この子たちは“水”に満たされた空を“泳ぐように”飛んでいるのだな」と思った次第なのです。

 そう思って、金魚たちを見ていると、実に優雅に水槽の中を飛び回っているんですね。
 なので、金魚も空を飛んでいる…って私は思うんですよ。

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2016年3月 4日 (金)

間違った事をカラダに教えてはいけない

 フルートのレッスンに行きました。

 いやあ、今回も…と言うか、ここのところ仕事が繁忙期に入って、毎日毎日忙しいです。とにかく、忙しいけれど、なぜかひょこっと時間があいたので、レッスンに行ったわけです。当然、練習なんてロクにしていないのです。でもまあ、レッスンを休むよりも、練習不足のままレッスンに行った方が先生も良しとしてくれるので、その言葉に甘えて、練習不足のままで堂々とレッスンに行っちゃいました。

 ロングトーン練習は…練習はしていないけれど、前回よりはマシかな? 最高音では多少乱れたけれど、音が低くなるほどにシンクロ率が良くなります。と言うことは、問題は高音だね。もっと高音を、息を少なめにして、勢いを弱めにして吹ければいいわけだね(難しいけれど)。

 さて、エルステ・ユーブンゲンは15番と16番です。前回は暗譜不十分なまま勢いで乗り切ろうとした私でしたが、今回はそんな勢いもつかないくらいに練習不足だったので、暗譜演奏にはチャレンジしませんでした。それどころか、16番は譜面通りに吹けずに、あっちこっちで指がもつれました。いやあ、だんだん難しくなってくるね。

 プチエチュードは13番です。いやあ、難しいです。先生がおっしゃるには「スラーがデタラメだね」との事。スラーに限らず、譜面通りに吹くことが難しい曲です。

 一人で吹く時は、割りとテンポを落として吹くので、なんとかなりますが、先生と一緒に吹くと、先生は標準テンポで吹くので、結構速いんです。速くて、指が追いつきません(涙)。追いつかないので、あっちこっちミスると叱られます。当然なんだけれど、自分の未熟さが恨めしいです。

 とにかく、練習では10回吹いたら10回ちゃんと吹けることが大切なんだそうです。10回中5回ミスをするなら、それは5回間違いをカラダに染み込ませることになるので、練習の時は、絶対に間違えてはいけないのだそうです。

 そうは言っても難しい曲は難しいのですが、先生がおっしゃるには「どんなに下手くそでも練習すれば、必ず指はまわるようになる」ので心配するなという事です。

 大切なのはミスらない事だそうです。テンポが速くてミスるなら、できるテンポまで落として練習をするのが良いのです。また、一曲通して吹くと、集中力が続かなくてミスるなら、一曲まるまるではなく、曲の部分部分を取り出して練習する事が大切なんだそうです。

 間違いを放置しない事…これが大切な事なんだそうですが、それって何もフルートに限らず、すべての学習に共通する事だよね。

 今回の雑談は、どこで練習してますか? という話です。

 私は、仕事が忙しくて、なかなか時間が作れないとは言え、環境的には恵まれた状態にありますので、帰宅後、歌もフルートも、自宅の書斎で練習する事でできます。書斎は簡便な防音処理がしてあるんですよ。なので、ご近所に全く聞こえないわけではないのですが、迷惑にならない程度になるので、多少時間が遅くても音楽の練習が出来ます。

 私のように、朝早くから夜遅くまで働いている上に、自宅では練習できない人などは、会社で練習する人もいるんだそうです。例えば、昼休みの昼食をお弁当にして、余った時間は会社の会議室に忍び込んで(昼休みなので会議室も空いているわけです)、そこで練習する人もいるんだそうです。

 また、練習時間はあっても、アパート住まいなどで自宅で練習できない人は、カラオケボックスに行って練習する人が多いんだそうです。だって、カラオケって安いからね。私もフルートオフをする時は、カラオケを会場に使うよ。

 「カラオケボックスは安くて便利だし、飲み物もあるので良いのだけれど、環境がデッドなのがつらいです」と言ったら「デッドな環境でもバリっと吹けなきゃダメだよ」と逆に注意されちゃいました。いやあ、デッドな環境だと音が響かないから、より強く吹いてしまうんだよね。反省。

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2016年3月 3日 (木)

合唱と重唱の違いとは

 昨今、年に数回ずつ、重唱曲を歌うチャンスに恵まれている私です。その多くは、妻との二重唱曲ですが、もしかすると7月に行われる声楽の門下発表会では、もっと多くの人数で歌う重唱曲にチャレンジできるかもしれません。

 歌を人前で歌うチャンスって、普通に暮らしていると、そうそうはありません。

 一般的に趣味で歌うとしても、人前で歌うとなると、その多くは合唱団に入って演奏会で歌うか、愛唱歌のサークルに入って発表会などでサークルのメンバーと一緒に斉唱で歌うか…そのあたりでしょうね。それはそれで楽しいと思います。

 私も本来なら、そのあたりで音楽を楽しみたかった人ですが、どうも合唱団は居心地が悪くて長続きせず、愛唱歌のサークルに入るには枯れ具合がイマイチ足りなくて、それでまあ、王道からはみ出して、声楽をやっている次第だったりします。

 趣味で声楽をやっているという事自体が、すごくマイナーな存在である事は承知しています。それも、オジサンで、テノールとなると、本当に希少な存在であるわけです。希少であるがゆえに、多少能力不足であっても、独唱はもちろんですが、重唱のチャンスも、ままあるわけです。

 それはさておき…。

 合唱と重唱。ともに複数の人間で歌っていくわけですが、かなり毛色が違っています。一番の違いは、合唱は一つのパートを複数の人間で歌っていきますが、重唱は一人ずつ自分のパートを歌います。つまり、合唱も重唱も、複数のパートから音楽が成り立っていますが、それらのパートの一つ一つを複数の人間が協力しあって歌えば合唱だし、一人の歌手が責任をもってそのパートを歌っていけば重唱となります。つまり、重唱を歌う人は合唱人ではなく、基本的に独唱者って事になります。

 昨今の合唱、とりわけバロック系の合唱には、各パート一人ずつという、実に小規模な合唱のスタイルの演奏も数が増えてきました。これらは一見、重唱のように見えますが、やはりそれでも合唱と重唱は違います。

 合唱は、基本的に“声を合わせて歌う”わけで、歌う人数の多寡に関わらず、合唱という楽器になって歌うのです。私がイメージする合唱と言うのは、パイプオルガンの人声版なのです。パイプオルガンという楽器は、演奏する際に同時に複数のパイプが鳴って、分厚い音を作りますが、それであっても、最終的にオルガンの音になるわけです。合唱も同様に、何人で歌っても、最終的には合唱という楽器になるわけです。

 対して、重唱と言うのは、単純に、独唱者がたまたま同時に歌っているだけであって、声を合わせるよりも、歌い手の個性の発露の方に重点が置かれていると思います。

 分かりやすいのが、ベートーヴェンの第九交響曲でしょうね。合唱隊にいて、よく耳にするのが「ソリストさんたちは、合わせが下手だね」という言葉。いつも一つの楽器になって歌っている合唱の人たちからすれば、ソリストさん達の重唱部分の声が、全然融け合っていなくて、それぞれの個性がぶつかりあっている状態を称して「下手だね」と言っているんだろうと思うのだけれど、それはたぶん下手とは違うんです。あの部分は、個性がぶつかっていていいんだと思います。あそこで溶け合った声が欲しければ、ベートーヴェン自身があの部分を合唱で書いたと思うからです。何故、合唱ではなく重唱にしたのかと言えば、溶け合わない声(それでいて、しっかりとハーモニーとして成り立っている声)が欲しかったからだと思うのです。

 まあ、合唱とは大勢の人間が関わっているけれど、楽器として見るなら、1つの楽器なのです。しかし重唱の場合、それが二重唱なら2つの楽器が、三重唱なら3つの楽器が、参加するソリストの数だけ楽器の数が増えてくる…というわけです。つまり、合唱と重唱は、歌い手の数のみならず、使用する楽器として考えるなら、両者は似て非なるものって事になるわけです。

 まあ、器楽で言ったら、オーケストラと弦楽四重奏団の違いみたいなものかな?

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2016年3月 2日 (水)

音程を狙ってはいけない

 声楽のレッスンの続きです。

 曲の練習に入りました。まずは、今回がレッスン初回となる、トスティ作曲の「April/四月」です。この曲は簡単そうに見えて、実はしっかり譜読みをしておかないといけない曲です。同じような歌詞に、微妙に違うメロディーや微妙に違うリズムが付いているので、耳コピをして、いい加減なノリで歌っては、あっちこっちで破綻してしまいます。なので、細部まできちんきちんと譜読みをして、音取りをきちんとしておく事が大切…ってか、そこらへんをいつもいい加減にしている私のダメさ炸裂だった曲でした。

 とにかく、譜読みをきちんとして、しっかり音を取ったうえで、何度も歌い込んでおく必要があります。はい。

 歌い方としては、あくまでも“軽やかな春の歌”なので、力んだ声で歌うのは、ご法度で、軽く軽くメロディをなでるように歌っていくの良いのです。もちろん、音程は上から取り、明るくて深めの音色で歌います。そのためには、声をきちんと奥に引っ込める事が必要です。いつも言われている事をこの曲でも言われました。

 表情記号に気をつけて歌う事も大切だし、標題にもなっている“April”の“l”をしっかりと発音しないといけません。

 “Su' prati'n fiore!”の高いF-Fis-Gという動きでは、決して音程を狙わずに歌わないといけません。音程を狙って歌うと、どうしてもクチの中が狭くなって、音が貧弱になって、音程も下がってしまうので、絶対に音程を狙ってはいけません。音程を狙って、声を当てて歌っていくと、その音程が出たり出なかったりと…いわば博打状態になってしまうので、これは避けないといけません(以前の私がこの状態でした)。それに、このやり方だと、たとえちゃんと音程正しく歌えたとしても、あまりに声の消耗が激しくて、歌が続かなくなってしまいます。それって、下手な歌手のやり方なんですよね。

 なぜ音程を狙ってしまうのかと言うと、その音程をしっかり発声できるかどうかの不安があるからだけれど、その不安に心理的に負けずに、自分を信じて発声していく事が大切です。そのためには、息をしっかり支えて、深い音色で声を後頭部から発声していく感覚が大切です。まあ“言うは易し行うは難し”ですが…。

 高い音程を歌う時は、発声に不安が生じるのは当然だけれど、その時に、しっかり息を送るとか、しっかりクチを開くなどのテクニックを使って、不安を減らしていく事が大切です。音程をノドではなく、クチの開閉で作っていく事も重要ポイントです。

 次はヴェルディ作曲の歌劇「リゴレット」のテノールアリアである「Quests o quella/あれかこれか」です。

 この曲のメロディーは山形です。つまり、フレーズの開始から始まって、徐々に息を支えていけばいいわけで、作曲家が歌手に余裕を与えているわけなのです。だからこそ、しっかり息を支えて歌わないといけません。この曲も有名な歌で、私も聞き知っている曲で、知らず知らずのうちに耳コピで歌ってしまいがちですが、全部が全部、耳コピの勢いで歌えるわけではなく、きちんと譜読みをしておかないと、いいかげんになってしまう箇所が何箇所もあって、そんな箇所の音が間違っていたり、クチが回らなかったりと…今だにそんな状態だったりです。いやあ、もっともっと歌い込みが必要です。

 やっぱりオペラアリアは、難しいよ。簡単に行かないですよ。それを考えると、ほんと、オペラ歌手と呼ばれる人たちって、歌が上手いんだなあって思います。

 さて、7月の発表会の計画も着々と決まりつつあります。ボエームの演奏会形式での上演は何とかなりそうですが、やはり出演者の都合もあって、かなりのハイライト版になってしまいそうです。まあ、全幕をきちんと演奏すると2時間かかってしまいます。発表会の中で歌うので、どっちにせよ、ボエームは1時間前後に収めないといけないのですから、ハイライト上演は、ある意味、予定通りです。

 どの曲を歌って、どれをカットするか? 誰がどの曲のどの部分を歌うのかは、これから先生方で決めます。

 発表会自体は、第1部が通常形式、第2部をボエームにする予定ですから、基本的には、出演者の皆さんは、第1部で1曲歌って、ボエームでも歌うというカタチになりますが、人によっては、ボエームだけで手一杯で、第1部はパスという方もいれば、逆に第1部だけで歌って、ボエームはパスするという人もいます。

 私はまだ未定ですが、テノールですから、ボエームを歌うとなると、どうしたって主役のロドルフォを歌わざるをえないわけだし、主役ともなれば、歌う分量も多いし、難しいし、目立つし…、今回はボエームで手一杯になる可能性もあります。もちろん、一人で歌うわけではなく、数名で分け合うことになるにせよ、それでも分量が多くて難しい事には変わりありません。

 まあ、それはそれでいいかなって思ってます。と言うのも、独唱ならばいつでも歌えるし、ソプラノとの二重唱だって、妻と歌えますが、複数の人間が関わるオペラの重唱となると、滅多に歌うチャンスはないわけですから、そのチャンスを逃すわけにはいかないじゃないですか! まずは、先生に割り振ってもらった曲の分量を見てから、第1部の独唱を歌うかどうか決めたいと思います。

 台本を書く都合もあって、ボエームの勉強をボチボチとしている私ですが、いやあ、ボエームには美しい重唱曲がたくさんありますね…と言うか、重唱曲の宝庫ですね。今回、どの曲が割り振られるかは、まだ未定ですが、私が歌わない重唱曲であっても、特にソプラノとの重唱曲ならば、後々、妻と歌うこともできますので、たとえ今回自分が歌わないことになっても、しっかり勉強しておこうと思いました。

 いやあ、夢が広がる。発表会が待ち遠しいです。

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2016年3月 1日 (火)

声の“3ナイ運動”に取り組みましょう

 声楽のレッスンに行きました。

 レッスンはいつものように、ハミング練習から始まりましたが、注意されることは毎度毎度同じ事ばかりです。いつもいつも、同じような事を注意されているという事は、時折、悲しくなりますが、自分がそれだけ学習能力が落ちている老人なわけですから、仕方ないとは言え、やっぱり悲しいです。

 発声練習で注意された事は『押さない』『鳴らさない』『力まない』の“3ナイ運動”でした。この3点、ほんと、毎度毎度の注意事項です。発声の理想は「クチを開いたら声が出ちゃいました」という状態らしいのです。つまりは、意図を感じさせない声…って言うのかな? それが理想です。まあ、それは私も分かります。

 理想の実現のために必要なのが、しっかりとした息の支えなんです。息が支えられていたら、クチさえ開けば声が出るのです。そう感じさせない発声は、息がしっかりと支えられていなくて、そのため、結果的に、押したり、鳴らしたり、力んだり、するわけです。

 先生から「ノドで歌わないでください」と言われて、脱力をすると今度は「クビの力で歌わないで!」と言われ、クビを脱力すると今度は「肩の力を抜いて!」と言われ、肩の力を抜くと今度は「胸の力で歌わないように」と言われて、胸の力を抜いて、ようやくOKが出ました。どんだけ、カラダのあっちこっちで力んでいる事か! ほんと、救いようなない私です。

 後は、例によって腹筋を使って歌うように注意されました。

 声は鳴らせないよりは、鳴らせる方が良いのだけれど、鳴らせるからと言って鳴らしてはいけないのです。世の中には、声を鳴らしたくても鳴らせない人がいるわけで、そういう人と比べると、声を鳴らせるというのは、一つの武器だし、最後の最後のあと一押し!って時に、声を鳴らせることは大切だけれど、最後の最後でもないのに、日常的に声を鳴らしていると、テクニックの無い、勢いだけで歌っている歌手だと思われるわけです(かつての私がコレでした)。

 テクニックが無いと思われるのは平気だけれど、テクニックを使わずに、勢いだけで歌っていると、声は消耗するし、ノドは壊すし、歌手寿命は縮まるし、上達するものも上達しなくなってしまうので、何事であれ、やっぱりテクニックは身に付けるべきだと思います。

 今の目的は、高いラまでは、押さず鳴らさず力まずで歌えることです。高いラまで楽に歌えれば、その上の音は、押しても鳴らしても力んでも、OKとの事です…ってか、そのあたりの音を苦しげに出すのがテノールの醍醐味だからね。大切なのは、苦しげであっても、高音を確実に出す事であって、出せなきゃ話にならないわけです。どこまでが安全圏で、どこからなら冒険をしても良いかという話で、テノールなら高いラまでは安全圏でありたいって事なんですよ。

 頑張ろ。

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