ひとこと

  •  お相撲さんは格闘家であり、その素手は強力な武器であるわけだから、土俵以外の場所では、たとえ素手であったとしても他人を殴ってはいけないわけだし、ましてやその手に器物を掴んで凶器を使用してしまったら、言い訳はできないし、そもそもやり過ぎだし、卑怯ですらあると、私は思う。今回の件は、日馬富士にも同情すべき点は多々あると思うし、魔が差したのかもしれないが、鉄拳制裁はアウトだと思う。武道や格闘技は、暴力とは違うわけだが、角界の範たる横綱が暴力を行使しちゃあ言い訳できないよなあ。
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2016年2月の記事

2016年2月29日 (月)

道具へのこだわりが無くなりつつある私…なのかも?[2016年2月の落ち穂拾い]

 最近、フルートのレッスンでは、相変わらず総銀フルートのアゲハを吹いてますが、自宅の練習では、アゲハではなく、案外プラ管フルートを吹いていたりします。シルバーとプラスチックはもちろん、インラインとオフセット、リングとカバードなど、数々の違いがある二本のフルートですが、最近はその違いが全然気にならなくなってきました。別に総銀じゃないとダメとか、プラ管の方が良いとか、そんなこだわりもなく、単純に「フルートはフルート。それ以上でもなければそれ以下でもない」って感じなんです。

 道具にこだわらなくなってきたと言うのは、良いことなのか悪いことなのか、自分でもよく分からなくなってきました。

カウンターテナー

 昔々、教会では女性が目立ってはいけなかったのです。

 ですから劇場などでは、合唱曲は現代同様に、混声四部合唱なら、女性が高音パート(ソプラノやアルト)を歌うのが普通でしたが、教会ではそういうわけにもいかず、劇場ならば女性が歌っている高音パートも男性が歌わないといけなかったのです。

 そのため、女性が歌うような高音パートを歌う、特別な男性歌手が教会にはいました。それがカストラートです。バロックから古典派の時代にかけて、カストラートは大人気となり、教会だけではなく、劇場でも歌うようになりました。役柄的にはヒーローの役が多く、現在のテノール歌手のような存在だったようです。

 しかし時代も移り変わり、ロマン派の時代になると、カストラートはどんどん衰退していきました。ま、基本的に不自然な存在ですからね。衰退していくカストラートに代わっていったのが、少年合唱とかカウンターテナーでした。しかし、少年合唱は短い期間しか歌えないし、カウンターテナーはそもそも稀少な声なので、やがて先細りになってしまい、現代では、教会でも劇場と同じように、女性が合唱の高音パートを歌うようになりました。

 そんな経過があるので、本来、宗教的な合唱曲の場合、現在は女性が歌っているソプラノやアルトのパートって、男性の声で歌うのが本来の形であり、それが作曲家が思い描いていた音なのです。カストラートは無理としても、少年合唱やカウンターテナーが歌う方が、女性が歌うよりも、本来の曲の姿に近い事は言えます。

 と言うのも、いくら音域が同じでも、男声と女声は違うので、カストラートが絶滅したからと言って、女声が歌うよりも、カウンターテナーが歌った方が良いのです。

 でも、カウンターテナーは稀少な存在です。最近は、声楽テクニックも上がってきたので、昔よりもカウンターテナーの人数も増えてきましたが、それでもまだまだ十分とは言えませんし、合唱ともなると、すべてをカウンターテナーでまかなうわけには参りません。

 だからと言って、女声とカウンターテナーを混ぜてしまうのは合唱曲的には難しいのです。と言うのも、男声と女声ではたとえ音域を同じに揃えても音色がかなり違うので、この両者を合唱としてまとめるのは、難しいと思います。なので、最近のパターンとして、独唱はカウンターテナーが担って、合唱は女声が行うというのが多いですね。

 そんな事もあって、カウンターテナーの声はよく響く…と思われがちですが、別にカウンターテナーだから声が響くのではなく、声のよく響くカウンターテナーだけが生き残っているだけの話です。だって現在のカウンターテナーって、原則、みんなソリストですから、声が響かなきゃ仕事に差し支えるわけです。

 声が響かなくても良いなら、私だってカウンターテナーやれますよ。私の声でも、合唱程度なら十分ですが、独唱としては、私の発声では、あまりに声量がなさすぎて、実用的ではないので、カウンターテナーをやらずに、テノールをやっています。だって、テノールなら、独唱として、声量バッチリだからね。

 結局、カウンターテナーが出来る人がいたとしても、その人にはカウンターテナー以外の声の可能性もあるわけで、むしろそっちの方が有望だったりするので、なかなかカウンターテナーの数が増えていかないんだと思います。

 と言うのも、カウンターテナーって、男声としては発声が独特なので、他の声種との両立が難しいんですよ。テノールもバリトンもバスも、男声ならば、声種によって響きの場所を変えているけれど、基本的には胸声中心の発声方法です。しかし、カウンターテナーは、女性と同じ頭声中心の発声をします。

 これは性別と言うよりも、使う音域が違うために、発声方法が違うだけです。その証拠に、女性にもごくわずかだけれど、テノールとかバリトンとかがいますが、それらの方は男性と同じ胸声中心の発声方法になります。でも、いくら音域が同じでも、性別で音色が違うので、いくら低くても、女性のテノールやバリトンは、やはり女声にしか聞こえません。

 有名な人では、和田アキ子さんがそうですが、あの人ってバリトンなんだよね。でも、彼女の声は、低い女声であって、男声とは違うでしょ? つまり、そういう事なんです。

国産オペラに未来はない?

 国産オペラって…ほぼ全曲、現代音楽です。ストーリーも難解だし、メロディーも難解だし、和音進行も難解な上に、美しいメロディーが皆無と来ては、とても聞きたいとは思えません。さらに言えば、歌いたいとも思いません。

 私の認識では、洋の東西問わず、現代音楽の手法で作曲された現代オペラというのは、あまりに芝居寄り過ぎて、音楽的に難しいばかりで、その魅力は圧倒的に少ないと思ってます。つまり“作曲者と演奏者だけが楽しい音楽”であって、観客は置いてけぼりになっていると思ってますし、その傾向は決して変わっていかないと思います。だって、エンタメ要素が限りなくゼロ…というよりもマイナスなんだもの。ありゃあ“一般人お断り”って言っているようなものだし、一般人を無視したモノは現代社会では、廃れていくものだよ。

 私はむしろ、国産オペラよりも、日本のオリジナルミュージカルの方に期待しています。

 今、特に熱いのが“2.5次元ミュージカル”ってヤツでしょうね。流石に今はまだ“腐女子の楽しみ”という側面が強くて、オジサンは楽しめないし、歌や演技を横に置いても、音楽作品としてみた場合も「???」な感じがしないでもないけれど、それは今現在の話であって、少なくともエンタメとしては成立しているので、やがて作品としてもレベルの高い曲が生まれてくる可能性は否定できません。将来は、ロンドンやブロードウェイにも勝るとも劣らない作品が出てこないとは言えないでしょ?

 今はまだ、2.5次元を含め、日本のミュージカルのソングで、特に歌いたいという曲とは出会っていませんが、やがてそのうち、名曲と出会い「ああ、歌ってみたい」と思えるような日がやってくるような気がしています。

 と言うわけで、現代日本音楽なら、オペラよりもミュージカルの方が未来がありそうな気がしています。

良い声とは?

 音楽ジャンルによって“良い声”と言うのは、明らかに違います。だって、オペラ歌手の美声と、義太夫の美声は、どこをどう聞いても、違う声でしょ?

 クラシックの中ではどうなの?って話になると、どうなんでしょうね。古楽とドイツ歌曲とイタリアオペラでは、求める美声は同じでしょうか、違うのでしょうか?

 たぶん、究極の完成形は同じだろうけれど、そこに至る途中過程で求められる美声は、使用言語の違いもあって、たぶん違うような気がします。それこそ、ちょっと前までは「ドイツ式発声」とか「イタリア式発声」とかという用語があって、リートとオペラでは全く違う発声をしないといけない…とか思われていたようですからね。でも、今は究極的には同じって事で落ち着いているようです。

 つまり学習過程、あるいは成長過程の途中で、リートにふさわしい(けれどオペラには向かない)声であったり、オペラにふさわしい(けれどリートに向かない)声である状態の時があるかもしれないけれど、さらに学び成長していけば、リートにもオペラにも対応できる声になっていく…と思っていますし、実際、上手なプロの歌手を見れば、そうなっているしね。

 でも、そこに行くのにどれくらいの時間がかかるのかと言うと“?”ですね。

 よく器楽の世界では「一万時間練習するとプロになれる」とか言いますが、声楽の世界では、それは通用しないのです。

 と言うのも、声楽の世界では、努力も必要だけれど、努力以上に才能がモノ申す世界だからです。才能という言葉が曖昧なら、持っている楽器(ノド)の違いによる…と断言しても良いと思います。

 声楽の場合、皆さん、持っている楽器が違うから、当然スタートが違うわけで、スタートが違えば、同じような努力をしても、ゴールにたどり着くまでの年月は当然違うわけですしね。声楽って、結構、後から入ってきて追い越される事ありますが、それって単純に、スタートしている場所が違うからです。極端な話、他の人にとってゴール地点からスタートする人だっているわけだし、そういう人じゃないとプロにはなれないって事です。

今月のお気に入り きよし盛り

 たぶん“きよし盛り”と書いても、誰に通じないと思います。なにしろネットで“きよし盛り”とググっても、何もヒットしないし…。

 ウチの近所のスーパーで毎日売っている、日替わりお薦め刺し身セットの名前が“きよし盛り”なんです。まあ“盛り”は“盛り合わせ”って意味だろうけれど“きよし”の意味が全然分かりませんが…別にそんな事、どーでもいーです。

 だいたい、ひと船に4~5種類の刺し身が乗ってます。載っているモノは毎日違いますが、最近はだいたい、アジとイカとカツオとキンメダイが常連さんで、それにマグロやら貝やらがよく乗ってます。それで通常価格が500円前後で、それを遅い時間帯に買うので、だいたい半額です(笑)。

 安くて美味しいので、だいたい毎日食べてます(笑)。お気に入りなんです。

今月の金魚

 みんな元気でした。真冬にも関わらずヒーターを入れなかったけれど、なんとか頑張ってくれたようです。

今月のひとこと

 学校の社会の授業では「りんごは北国で、ミカンは南国で生産され、この二つの果物が同時に出来る地域はありません」って習います。でもね、私が住んでいる湘南地方では、りんごもみかんも両方とも生産されています。つまり、りんごの南限であり、みかんの北限なんだろうと思います。ふと近所を見れば、春先はスズランが生えていた所に、夏はハイビスカスが咲いていたりする、不思議な地域なんだよなあ、湘南って。(2016年1月29日~2月2日)

 最近、やたらとCM等で和田アキ子を見かける。別に私はこの人に対して何か言うほど気になっているわけではないけれど、それでもやたらと見かけるので、ちょっと違和感を感じてます。旬の若い女優さんやバラドルさん、売出し中のお笑いコンビをCMで見かけることはよくあるけれど、なぜ、今、和田アキ子? 私の知らないところで、和田アキ子ブームが起きているのかしら? なんとも落ち着きません。(2016年2月2~3日)

 本日は節分だけれど、ニュースでは「健康被害が生じるので、子どもにマメを食べさせてはいけません(つまり『子どものいる家では豆まきするな』)と報道した直後のCMで恵方巻きの宣伝をしています。十年前は、恵方巻きの“え”の字も言ってなかったのに、いつのまにか、節分はマメをまく日ではなく、巻きずしやロールケーキなどを食べる日になったのでしょうか? なんか、日本伝統文化が変化…ってか、心情的には、壊れていくよう気がして、イヤです。恵方巻きって、よほど儲かるんでしょうね。(2016年2月3~4日)

 立春です。春がやってきました…という事は、花粉の季節がやってきたわけです。春になって、暖かくなるのはうれしいのですが、花粉が飛び回って、あっちこっち苦しくなるのは、ちょっとごめんです。(2016年2月4~9日)

 職場のおトイレがウォシュレットになった。ちょっぴりうれしい(笑顔)。(2016年2月9~12日)

 ああ、ついに関東地方が花粉シーズンに突入してしまったそうです。道理で、ここんとこ、理由もなく鼻が垂れると思ったわ! ここからゴールデン・ウィークが終わるまでの三ヶ月、抗アレルギー剤とマスクと目薬と点鼻薬の日々に突入だあ! ああ、春なんて、大嫌いだー!(2016年2月9~16日)

 私は、@niftyの@homepageでブログを書いているわけだけれど、この@homepageが2016年の9月29日でサービス終了となるそうです。この日を境に、ブログをアップできなくなるばかりか、読めなくもなるんだそうです。さあ、どうしよう。ブログを引っ越せば良いという単純な問題じゃないんだよね。このブログのこのアドレスで、今まで築き上げてきた信用と信頼があるわけだけれど、それが一挙に失われてしまうわけだ。さあ、どうしよう。ほんと、どうしよう。とにかく、色々と考えないとなあ。(2016年2月16~17日)

 うむうむ、どうやら勘違いのようでした。昨日のひとことで“@niftyの@homepage”で、このブログを書いていると書きましたが、これは間違いです。このブログは“@niftyのココログ”で書いていました。同じ会社のサービスだったので、勘違いしてしまったようです。ココログはサービス停止という話を聞いていないので、たぶん、もう少し続くんじゃないかなって思ってます。お騒がせしました。(2016年2月17~18日)

 やっぱりビックリするのは、テレビをつけた時に、近所から生中継が行われている事。画面越しに近所の風景を見るのも落ち着かないが、今そこに行けば、自分もテレビに見切れるんじゃないかというミーハー心を抑えるの必死になってしまう自分がいる事にもビックリ。生中継じゃなくて、ドラマとか映画とかCMとかで近所の風景が出てきても、ビックリしないけれど、やっぱり生だと落ち着きません。(2016年2月18~26日)

 今月は以上です。よろしくお願いします。

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2016年2月28日 (日)

老人ホームに入りたくない

  老人ホームには入りたくない私です。もちろん、私がヨイヨイのヨボヨボのジジイになってからの話です。別に老人ホームに足を踏み入れたくないとか、慰問に行きたくないとかいう類の話ではありません。あくまでも、老人ホームに入居して生活したくない…という事です。

 なんて事を言いながら、自分がどれだけ老人ホームの事について知っているかと言うと、実はそんなにたくさんの事は知りませんが、それでも大雑把にアレコレと知っています。その大雑把な知識で考えても、老人ホームには入りたくないと思ってます。

 老人ホームと言っても、色々あるわけですが、私がここで言っているのは、いわゆる“介護付き有料老人ホーム”って奴ね。だって、元気でピンピンしているうちはもちろん、多少不便があっても介護してくれる人がいるなら、自宅で暮らしたいじゃん。

 なので、老人ホームに入りくないと言うのは、あくまでも、私が要介護者となり、その介護の面倒を見てくれる人もいなくなった場合の話です。

 そうは言っても、介護が必要となり、自分ひとりでは自分の面倒も見れなくなり、介護の必要が生じてきたら、あまり贅沢な事は言ってられません。別に有り余る財産があって使用人を雇えるわけでもないし、21世紀の核家族の時代となり、子どもが親の老後の面倒を見るという習慣が廃れてしまった現在、息子に頼るのも良くないし、都会じゃあ地域にも頼れないし…。そうなると、不便や不満があっても、公的な老人ホームに入居するしかないのは、理性では分かってます。さもなきゃ、自殺するしかないもんね(だから日本は、世界でも有数の自殺者が多い国なんだよね…と言うのは言い過ぎか?)。

 それでも、なるべくなら、老人ホームには入りたくないなあ…。できれば、ヨイヨイになっても自宅で暮らして、本当にいよいよになったら短期間だけ入院して、妻に看取られながら死にたいのよ。つまりは『ピンピンコロリ』ね。それが私の願い。

 でもね、世の中どう転ぶか分からないからね。妻が私よりも元気で長生きしてくれる保障はないし、私だって、さっさとボケて、家族では面倒見切れない厄介なジジイになっている可能性だってあるわけだし、そうなれば介護付き有料老人ホームに暮らすようになっても仕方ないけれど、それでもやっぱりイヤだなあ。

 なぜかと言うと…私の事だから、きっと年を取っても、ボケてしまっても、カラダが動かなくなっても“歌う人”のままだと思うからです。フルートは、さすがに老いてカラダが動かなくなると吹けなくなるかもしれないし、だいたいボケてしまったら、フルートは吹けないでしょう(笑)し、自分が笛吹きであった事も忘れてしまうかもしれません。でも、カラダは動かなくても歌は歌えるし、ボケてしまっても歌えるからね。いや、生きて息をしている限りは、私のことだから、歌い続けるだろうし、ボケたら声量のコントロールが出来なくなって、四六時中大声で歌う迷惑ジジイになりかねないなあ。

 そんな、大声で騒ぐボケ老人って、老人ホームに入って幸せになれると思う? 老人ホームって集団生活だから、基本的に大騒ぎする人間はダメでしょ? そうなると、老人ホームに入ったら、ボケていてもボケていなくても、歌を辞めざるを得ないでしょう。でも、歌わない人生なんて、私にはありえないから、すごくストレスが溜まって、きっとイヤなジジイになると思うんだよね。暴れちゃうかもしれない。ホームの問題ジジイになるかもしれない。

 それって、私も周りの人々も不幸になるわな。

 でも「自由に歌っていいですよ」なんて言う老人ホームは…たぶんない。

 おそらく念入りに探せば、老人ホーム内に合唱部があったり、唱歌を歌うようなサークルがあるようなホームだってあるかもしれない。そこに入居して、そこで歌えばいいじゃん…って言われるかもしれないけれど、私、合唱できないから(笑)。老人ホームの合唱部で歌っている人たち100人合わせたって、私の方が声大きいから、老人の合唱部になんて入ったら、絶対に合唱をぶち壊すからねえ。だから私は合唱部には入れません。合唱だと、ほんと、ストレスが溜まるからね。同様の理由で唱歌のサークルも無理だろうなあ…。

 それに部活やサークルがあったとしても、自由に歌えて練習できなきゃ、意味無いじゃん。

 だから、死ぬまで自宅がいいのです。自宅なら、大声で歌う事ができるからね。そんな恵まれた環境なんて、老人ホームにあるわけないもの。だから、私は死ぬまで歌い続けたいので、老人ホームには入りたくないのです。

 ま、わがままな理由なんだけれど、本人的には切実な話なんですよ。

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2016年2月27日 (土)

やっぱり金魚はテレビが好き?

 金魚は視力が良いのです。それは連中の日々の行動を見ていれば、よく分かる事です。いつも水槽のガラス越しに、こちらの世界を見ていて、我々人間の行動にいちいち反応しているのですから、彼らの視力はかなり良いのだと思います。まあ、金魚って、カラダの割には、大きな目玉ですからね。かなりの高性能眼球なんだろうと思います。

 金魚ってカラフルな体色をしています。一般的に、カラフルな体色の動物は色識別能力が高く、地味な体色の動物は暗視能力に優れていると言います。ちなみに、人間は体色そのものは地味ですが、服装が派手で、色使いを楽しめるわけで、色識別能力が高いタイプの生き物なんだそうです。

 金魚もカラフルな体色な事もあって、どうやら色識別能力は高そうですが、暗視能力はあまり良くないかもしれません。部屋が薄暗くなるだけで、活動が鈍くなります。たぶん寝てしまうのだと思います。我々以上に暗さには弱そうです。また、その一方で、まぶしさにも弱そうです。今は慣れたようですが、LED電灯に替えた直後は、みんな水草のかげに隠れて、電灯の直射を避けていましたからね。

 金魚は、光に関しては、たくさんの色を感じる事でできそうですが、暗すぎたり明るすぎたりするのは、苦手なようです。もっとも、それは高性能眼球なのにマブタが無いためかもしれません。

 そんな事も合わせて考えて観察してみた結果、金魚の視力のタイプって、割と人間に近い感じなんじゃないかなって思ってます。

 で、そんな人間の視力に近い金魚たちの行動をさらに観察してみると、一つの事に気づいたわけです。どうやら、金魚って、テレビが好きみたいです。もちろん、みんな全員テレビが好きってわけではなさそうですが、金魚の中には、テレビが好きな子がいるって思うようになりました。

 今のウチの子だと、たぶん、ヤヨイとミカンの二匹はテレビが好きだと思います。特にアニメが好きみたいですね。テレビがアニメを映していると、この子らは水槽のテレビ側に移動して、テレビの方に顔を向けてじっとしている事が多いのです。寝ているわけじゃないので、テレビを見ているんだと思います。アニメは実写と違って、色使いが派手で刺激的だから、楽しいんでしょうね。だって、連中がストーリーを楽しんでいるとは思えませんもの。

 ちなみに、ニュース番組はあまり好きではないようです。アニメが好きでニュースが嫌いなんて、どこかのお子ちゃまみたいな趣味ですね。それにしても、金魚のくせに、番組に好き嫌いがあるなんて、なんか、愉快です。

 そう言えば、以前家にいた、ブニョもテレビが大好きだったよなあ。ブニョ、懐かしいなあ。

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2016年2月26日 (金)

先生に「お久しぶり」と言われる私です(涙)

 フルートのレッスンに行ってきました。

 教室に入った途端に、先生から「お久しぶり」と声をかけられてしまいました。いやはや、なんとも、申し訳ない気分でいっぱいです。

 最初のロングトーン練習は姉様も加えての3人で行いましたが、なんとも美しくなかったのです。どうやら、レッスンをさぼると、一番最初に影響が出るのが、このロングトーン練習のようです。それほどに、美音と言うのは、日々の積み重ねが必要だし、そこを怠ると、すぐに目に見えるカタチで影響が出る…ようです。

 毎日毎日、たっぷり練習したいし、レッスンもサボらずに通いたいものです。

 さて、エルステ・ユーブンゲンの14番ですが、合格しました。さすがに3週間ぶりのレッスンだし、その間だって、単に怠けていたわけじゃないわけですから、ある意味、出来て当然でしょう(えっへん)。

 で、次の15番も先生からいつものように「暗譜できてる?」と尋ねられました。いつもは「まさか…そんなわけないじゃないですか」と返事するのがお約束ですが、今回は「まだ、不完全ですが、チャレンジしてみます!」と言って、暗譜演奏に臨んだところ、思っていた以上にグダグダになってしまい、当然のごとく、次回まわしになりました。ははは…。

 プチ・エチュードの13番ですが…やっぱり難しいですねえ。

 実は私、いつもレッスンに向かう直前に、自宅でその日の曲を軽くさらってから出かけるんです(いわゆる“直前練習”をしてからレッスンに行くんです)が、今回は、そのおさらいの時に、自分が前打音の処理を間違えていた事に気づきました。

 この13番で使われている前打音は単打音でして、つまり具体的に言えば、ソの前に小さなラが付いていて、一瞬ラを吹いたら、すかさずソに移行する…というものですが、それを私はなぜかすべて複打音と勘違いして、ソの前に小さなソラをつけてしまい、一瞬ソラと吹いてからソを吹くというのをやっていました。

 当然、これは間違いなわけで、そこに気づいたので、すぐに修正をかけたのですが、そんな修正、すぐに身につくわけはなく、元々前打音が苦手な私は、レッスン本番で、グダグタな前打音になってしまったわけです。

 「(前打音は)付いていても、付いていない時と全く同じように演奏しなさい」とご注意を受けてしまったわけです。前回のレッスンの時も同じような事を言われてしたので、ここ三週間全く進歩なしってわけです、とほほ。

 雑談は…かなりヤバイ話をしました。かつては一流音楽大学と言われていた、あの学校が、なぜ今、三流大学に落ちぶれてしまったのかという話…と言っても、何かスキャンダラスな裏話があるわけではなくて、単純に学校経営の難しさと、経営戦略の失敗を無責任に2人して批判しただけであって、関係者に聞かれたら怒られそうな話をしました。

 会社を経営するのって、色々と難しいと推測します。学校と言っても、私立学校は会社のようなもので、うまく経営が進めば事業拡大も可能ですが、下手を打つと色々とうまくいかなくなります。一般企業と私立学校の違いは、取り扱い商品の違いにあって、どうしても“教育”が絡んでくると、上品な商売しかできなくなるわけで、営利追求を第一とした、えげつない商売はできなくなります。

 国もかつてほど私立学校に補助を出さなくなった現在、どこの学校も品位を保った営業が難しくなって来ましたが、それでも矜持を持ってやせ我慢しているわけですが、やせ我慢にも限度があり、どうしてもコストカットせざるをえないわけで、そのコストカットの方向を間違えてしまうと、一挙に生徒のレベルが下がり、教職員のレベルも下がり、企業としての体力も低下し、負のスパイラルに陥ってしまうわけです。

 本来、教育というのは、儲からない事業なんだと思います。儲からないけれど、その国家国民にとっては必要な事業だから、国の事業とは別に、志の高い先人たちが私立学校を立ち上げてきたわけですが、それもなんか、ゆきづまりを見せ始めてきたのが、21世紀の今の日本なんじゃないかな?

 別に私立学校が儲かる必要はないと思いますが、経営の苦しさのために迷走を始めるようになったら、その国の教育政策としては、どうなんだろうと思います。ま、国も、音大を始め、私立学校なんて、つぶれてしまっても構わないと思っているのかもしれませんが、公立学校しかない社会なんて、社会への人材育成という面で考えるならば、多種多用な人材の供給ができなくなるわけで、決して誉められたことではないと思います。

 

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2016年2月25日 (木)

昨今は団体戦が好まれなくなってきたようです

 最近の老人界(?)では、ゲートボールの人気が凋落し、代わりにグラウンドゴルフという新しい競技の人気が勃興してきたのだそうです。この2つのスポーツは、ある部分で似ていて、ある部分では大きく異なっています。どちらも、ゴルフがベースとなる競技ですが、ゲートボールが団体競技であるのに対して、グラウンドゴルフは個人競技を基本とし、団体戦もできる競技であるという事です。

 つまり、簡単に言っちゃうと、団体競技の人気が凋落し、代わって個人競技が人気を集めるようになってきた…と言えるのです。

 これを音楽の世界に当てはめて考えてみようとしたら、器楽の方はダメでした。だって、アマチュアの器楽の人って、ピアノを除けば、やはり最終的にはオーケストラとか吹奏楽とかやりたいわけじゃないですか? 目指すは団体競技!なのが、器楽なんです。

 アマチュアフルーティストさんだって、ピアノと二人っきりのソロを目指すよりも、アマオケとか吹奏楽、それが叶わなくても、フルートオーケストラとかに入って活躍したいですものね。私だって、可能なら、アマオケに入ってフルート吹きたいですもん。

 ある意味、器楽の世界では、今だに、ゲートボールが大人気なわけです。

 一方、歌の世界を見てみると、まさに団体競技から個人競技に人気がスライドしているわけです。あれほど盛んだった合唱は、今や廃れる一方で、代わりにカラオケが大人気でしょ?

 なぜ、ゲートボールの人気が凋落してきたのかと言うと、どうやら、団体競技にありがちな、チーム内の人間関係のドタバタとかギスギスがイヤになっている人が増えてきて、それで、自由に楽しくやれる個人競技であるグラウンドゴルフに人々が移動しているようなのです。

 確かに人間が複数集まってチームを作れば、どうしたって人間関係ってヤツが生じます。誰が威張っているとか、誰が偉くて、誰が下っ端であるとか、誰のせいで勝てたとか、負けたとか、誰が一番お金を使っているとか、裏方の世話をしている人が報われないとか…まあ、そりゃあ色々ありますわな。挙げ句の果てに、アイツなんて気に食わないだとか、アレは目立つからダメだとか、そういう事で争いごとが起こるんだそうです。

 私が今書いたのは、ゲートボールのチームでの話ですが、同じような話は合唱団でもよく耳にします。

 たとえイヤな事があっても、それが仕事ならば我慢もしましょう。しかし、趣味の世界で我慢をしたり、気に食わない人にへーコラする必要は全くありません。イヤなら辞めちゃえばいいわけだし、別のことを始めればいいんです。

 ゲートボールチームで嫌な目にあったら、別のチームに移ってもいいわけだし、いっそ、別の競技を始めても、別の趣味を始めてもいいわけです。合唱団で嫌な事があったら、別の合唱団に移ってもいいわけだし、カラオケに通ってもいいわけだし、いっそ声楽を始めて、独唱を楽しんだっていいんです。そういう事です。

 結局は、ゲートボールにせよ、合唱にせよ、競技の内容がつまらなくて人気が無くなったわけではなく、単純に団体競技のために人間関係が煩わしいので、嫌われ始めてきたというだけなのです。かつては団体競技って根強い人気があったのに、今や団体競技ゆえに人気がなくなる…と言うのも面白いですね。

 ちなみに、私は、ゲートボールの経験があります。昔、老人会のお世話をした時に、ご老人たちと一緒にゲートボールを楽しんだんですよ。ゲートボールって、楽しいですよ。ただ、私などは、どうしてもゴルフの感覚が抜けないので、ゲートで球が止まってしまうので、ダメなんですよ。ゲートをくぐり抜けないといけないのにね。ほんと、私にはゲートボールは難しい競技でした。グラウンドゴルフをやったことはないけれど、あれってパターゴルフの親戚でしょ? たぶん、私はそっちの方が楽しめそうな気がします。

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2016年2月24日 (水)

歌いたい歌が歌えない! 吹きたい曲が吹けない!

 アマチュア音楽家の最大の悩みが、これですね。「歌いたい歌は山のようにあるのに、自分が歌える歌は、ほとんど無い」とか「あこがれの曲なら星の数ほどあるけれど、何一つちゃんと演奏できる曲が無い」って事です。

 自分の理想を現実化できるほどの演奏力がない…と言うか、自分の演奏力では好きな曲のほとんどが演奏不可能である…とか、まあそういった感じ。

 だいたい初歩に毛の生えた程度の演奏力では、演奏できる曲に限りがあって当然です。演奏力に合わせて比較的容易な曲の演奏をすれば…と思ったところで、それがまだ、演奏者が子どもさんなら、なんとかカッコが付くだろうけれど、同じような曲をオトナが演奏するのは勇気がいる…というパターンがあります。例えば「キラキラ星」とか「ねこふんじゃった」とかね。これらの曲を子どもが演奏するなら、たとえ人前でも大丈夫ですが、オトナの場合は、そうはなかなか行きませんよね。オトナって、プライドだけは高いからね。特にオジサンは相当のものだからね。

 そこでオトナの場合は、フルートなどの器楽曲ならば、いわゆる“優しく編曲されたバージョン”で名曲を演奏する事が考えられます。オリジナルの曲から、難しい部分を削除し、その他の部分もリズムを丸くし、音数を減らして、調性も平易な調に移調して、初心者に吹きやすくした楽譜で演奏します。

 これで満足できる人はそれでいいし、これでは満足できない人は、くすぶりながら練習に励んで演奏力を磨いていくしかありません。

 まあ、でも世の中には、基礎力うんぬんをふっ飛ばして「この曲さえ演奏できればOK」と言う人もいるので、そんな時は、優しくアレンジされた楽譜ではなく、ガチな楽譜を使って、その任意の曲だけを練習して、その曲だけ演奏できるようにするという荒業もあります。

 まあ、それはそれでアリだよね。

 歌の場合は、多くは低く移調する事で、この問題は解決できると思います。歌って、低い調に移調することで、驚くほどに歌いやすくなりますからね。もちろん、音域が広い曲の場合、あまり低く移調してしまうと、今度は低い音が歌えなくなってしまうという問題が発生しますが、そうなったら、適当なところでメロディーを1オクターブほど上げ下げして歌えばいいのです。

 歌曲などでは、たまにそういうアクロバティックな歌い方をしている人を見かけますよ。

 歌曲では歌手に合わせて、曲を移調することは当たり前ですが、一般的には、オペラ・アリアは移調して歌うものではありませんが、私、バリトンの方がテノールアリアを低く移調して歌っているのを聞いたことあります。すごく驚きましたが、それもアマチュアならではですので、良しと思うことにしました。

 でもやはり、フルートにせよ、歌にせよ、作曲家が作曲したそのままの音で演奏できるようになりたいものです。そういう事が安々とできるようになりたいものです。

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2016年2月23日 (火)

最近の発声練習について

 そう言えば、以前はちょくちょく書いていたけれど、最近はさっぱり書いていなかったのが、自宅練習の現状と言うか、どんな練習をやっているのかという話。別に隠しているつもりもなければ、口止めされているわけでもなく、何となく書いていなかった事に気づいたので、久しぶりに書いてみる事にしました。

 あくまでも自分のため、記録のため、ですけれどね。

 フルートの練習については、特筆するような事はありませんねえ。C-durの音階練習と半音進行の全音階練習をしたら、すぐさま曲練習。最初にプチ・エチュードをやって、それからエルステ・ユーブンゲンをやって…って感じです。これだけでも、真面目にやると1時間かかるから、他のことは何もできません。

 歌の方は、発声練習のやり方が、以前とは変わってきました。

 最初の発声練習は、以前はハミング練習から始めていましたが、今はハミングをやめて、ファルセット練習に切り替えました。理由は…ハミングもファルセットも、腹式で息を送らないと出せない声なので、だったら苦手なファルセットで練習した方がいいかなって考えるようになったからです。

 ほんと、私、ファルセットが苦手なんですよ。この練習を始めるまでは、ファルセットって、全然出せませんでした。でも、塵も積もればなんとやら…で、最近はそれなりに出せるようになりました。まだ弱々しい声ですが、練習していけば、やがて強い声になっていくでしょうから、気長に頑張ります。

 で、そのファルセットの発声練習のやり方ですが、以前なら、キーボードを叩きながら、キーボードに合わせて発声していたと思いますが、今の私はちょっと違います。キーボードを使用せずに、チューナーをオンにして、それを見ながら発声するようにしています。つまり、音をキーボードで確かめながら発声するのではなく、まずは自分の記憶で発声して、チューナーを見ながら修正をかけていくやり方に変えたわけです。

 その具体的なやり方ですが、チューナーをオンにしたら、まずは基準音であるAを「アー」と発声します。当然、正しいAを一発で発声するのは困難ですから、チューナーを見ながら修正していきます。毎日これをやっていると、だんだん最初の発声がAに近づいてくるものです。最終目標は、無意識に「アー」と発声すると、それがAの音である…というところに行けたら、いいなあと思ってます。

 で、Aの音が取れたら、そこから「ラー、シー、ドー」と上がって、Cの音を発声します。もちろん、チューナーだけを頼りにしてね。最初のAの音は苦労しますが、一度Aを取ってしまうと、後はだいぶ楽に音が取れるようになりました。

 基準音さえ取れれば、後は楽に音が取れるようになっていないと、このチューナーだけを使った発声練習は無理なんですね。ですので、以前から思い立っていても、なかなかこの練習方法に踏み出せず、やむなくキーボードを頼りに発声練習をしていたわけです。

 で、Cの音が取れたら、そこからハ長調の音階練習です。Cから下降音階で下っていきます。目標は1オクターブ下のCまでファルセットで発声できる事ですが、それはなかなか難しいです。かなりきちんと息を送らないとCまでファルセットで行くのは難しいです…が、頑張っていますよ。

 CからCまでの1オクターブの音をファルセットで発声したら、次は高いCより上の音にチャレンジです。これもまたきちんと息を送っていかないと難しいです。現状としてはFまでかな? ここまでファルセットで発声できるようになりました。このFの音って、実音で言えば、合唱ソプラノさんのほぼ上限ですから、テノールの私がファルセットとは言え、ここまで出せれば立派なモンです。このままファルセットを鍛えていけば、メールアルトになれるかも…なんちてね。

 ファルセット練習が終わったら、次は実声での発音練習です。やり方はファルセットの時と同じで、まずは無伴奏で基準音Aを発声し、チューナーで音程を確認です。確認できたら、そこから「ラー、シー、ドー」と上がってCの音を発声します。そこから下降音形で1オクターブの音を何度か上下します。ここはいわば中音域ですから、丁寧に丁寧に発声していきます。

 そうやって中音域の発声練習を終えたら、次は低音域の発声練習です。低いCから下がっていきますが…下の音はせいぜいFまで出せれば御の字としています。だって、私はテノールだから、下はA、あるいはGまで出れば、問題ないですからね。Fまで出れば、余裕余裕。

 低音域の発声練習が終わったら、再び中音域を経て、今度は高音域の発声練習に移ります。

 高音域は、脱力だとか音色を変えないとか、声を後ろに引っ張るとか色々な事に気をつけながら行います。まずはハ長調の音階で練習します。Gまでは楽に発声できますので、ポイントになるのがAですね。Aの音を頑張らずに出せるように練習するわけです。

 で、その次に高音域だけ半音階でも練習します。この時に、体調が良いと、Aまで発声できますが、体調が悪くなると、A♭でも声が詰まるし、風邪をひいたりすると、それすらあやうくなって、声って体調の影響をモロに受けるものだなあって感じます。

 Aよりも高い音は、今のところはチャレンジしていません。自分的には、A♭がGのように安定してきたら、B♭へのチャレンジを開始しようと思ってます。つまり、高音へのチャレンジは、安定して出せる音の全音上までにして、あまり無理はしないように心がけているからです。あまりに無理をしすぎて、変な癖をつけてもイヤですからね。

 まあ、最近はこんな感じで発声練習をしています。

 ちなみに、使うチューナーは何を使ってもいいし、フルートで使っているチューナーと兼用したり、iPhoneのチューナーソフトを使ってもいいのだけれど、今はローランド社のVT-12を使っています。

 これ、チューナーとしては高価ですが、実に見やすくて使いやすいんです。“ボーカル専用チューナー”と銘打ってますが、どのあたりがボーカルに特化しているのか、正直私には分かりませんが、他のチューナーよりもなんかいいです。このチューナーだと音が取りやすいんですね。まあ、気のせいかもしれませんが。

 で、発声練習が終わると、歌の練習をしていますが、こちらは歌詞だけを朗読してみたり、リズム読みをしてみたり、全体を通して歌ったり、部分的に取り出して歌ったりと、特筆するような練習はしていないなあ。

 こんな感じで、歌の練習はきちんとやると、2時間ぐらいかかります。

 ですから、歌とフルート、毎日きちんと練習しようと思うと3時間かかる事になります。以前は、頑張って毎日3時間練習していましたが、最近は仕事が忙しくて、3時間どころか30分の練習時間を確保するのがやっとだったりします。

 基本的には、筋肉を作らないといけないので、発声練習はできるだけ毎日行うようにしています。残りの時間で声楽をチャチャッと、その残りの時間でフルートを…という感じにしていますが、それでも週のうち3日は声楽を、2日はフルートを優先して自宅練習をするようにしています。残りの2日は…ブログを始め、その他の事を優先してます(笑)。でないと、何も前に進みませんからね。

 時間って限られているから、何を優先していくか、その都度その都度考えていかないといけないのです。

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2016年2月22日 (月)

あなたは中身がカラッポな歌でも楽しめますか?

 あなたは歌を聞く時、歌のどの要素を中心に聞きますか? メロディーの流れですか? 和音の響きですか? リズムの切れですか?

 これは私の偏見かもしれませんが、J-POPのファンの多くは、歌詞を聞いているのではないでしょうか? 歌詞を聞いて「ああ、いい歌だな」「感動的な歌だな」と判断されていらっしゃるのではないでしょうか? たとえその歌のメロディーがどんなに陳腐であっても、和音の響きがよく聞く定形なパターンであっても、リズム自体が他の曲と同じであっても、歌詞が素晴らしければ良い歌なのです。

 誤解してほしくないのだけれど、私はJ-POPおよびそのファンをバカにしているわけじゃありません。ただ、J-POPを聞く人は、音楽を聞く時に左脳を中心に、言語野をフル活動して聞いているんだろうなあって思っているだけです。

 そういう歌の楽しみ方もアリだし、良いと思うし、歌の楽しみ方なんて人それぞれで、他人の楽しみ方に文句をいうべきではないのです。実際、私自身もJ-POPを聞く時は、歌詞を聞き取ろうと頑張っていますもの。

 で、話を戻します。歌を聞く際に、歌詞を中心に聞くのは、何もJ-POPのファンだけではありません。それはアイドルソングだって、歌謡曲だって、演歌だって同じ事です。これらの音楽を好む人の多くは、私のように、歌詞を中心に歌を聞いていると思います。

 つまり、これは音楽ジャンルの問題というよりも、日本人の歌に対する一つのスタイルなのかもしれません。歌詞を中心に歌を聞くのが、多くの日本人の歌の楽しみ方なのではないでしょうか?

 だいたい、日本古来の歌と言うものに思いをはせれば、古くは古事記の短歌・長歌から始まり、平安時代の和歌を経由し、江戸時代の常磐津、義太夫、清元、長唄、小唄などなど、どれもこれも歌詞に工夫がこらされ、文芸的にも深い趣をもったものばかりです。こういう流れで見ていけば、今の日本の流行歌も歌詞を味わいながら聞かれるのは、当然と言えば当然なのです。

 そういうスタイルを持っている日本人だからこそ、明治になって、ヨーロッパからクラシック音楽系の歌が入ってきた時に、みんなが飛びついたのが、ドイツの歌、つまりリートだったんだろうと思います。リートも詩を大切にした音楽ですからね。やがて、リートをお手本に、日本歌曲が作られていったのだと思います。

 なぜ、そんな事を書いたのかと言うと、海外には、リート以外の歌だって当然存在しているわけだし、中には詩をなおざりにした歌も多数ある事に気づいたからです。つまり、メロディーとかサウンドとかは素晴らしいのに、歌詞ときたら、ほとんど中身カラッポだったりする歌がたくさんあるんです。

 特に昔の洋楽の歌詞ときたら、中身カラッポな曲がたくさんありました。いわゆる、オールディーズと言われるジャンルの音楽の歌詞を丁寧に日本語に訳してみると、その中身カラッポな事がよく分かります。だから、1960年代のボブ・ディランの登場が、当時の音楽シーンにおいて、衝撃的だったわけです。

 ボブ・ディランが洋楽界に知性や芸術性をもたらせた事は一種の革命的な出来事だったようですが、日本人の感覚で言えば、歌詞に知性や芸術性があるのは当たり前なので、ボブ・ディランの功績って分かりづらいのです。最初から歌に知性や芸術性を求めていた日本人と、歌は歌であって、知性や芸術性とは無縁であった洋楽の世界では、ボブ・ディランの評価が全く違っていても不思議ないのです。

 ボブ・ディランが歌に知性や芸術性をぶち込んだと聞いても「だから、なんじゃい?」というのが、普通の日本人の感覚ですが、ボブ・ディラン登場以前のポピュラー・ソング、あるいは登場以降であっても、洋楽には本当の本当に、目がくらむばかりに、中身のカラッポな曲がわんさか存在しています。

 おそらくなぜそうなったのかと言えば、我彼で、歌に求めているモノの違いがあるのではないでしょうか?

 たとえ中身がカラッポな曲であっても、メロディは素晴らしいし、サウンドはいけてるし、歌っている歌手たちがかっこいいんです。それらの歌は、聞き手に良い気分や雰囲気を与えてくれるのです。だから、ヒットソングになったわけです。

 一方、日本人にとって、洋楽は外国語で歌われているからカッコいいのです。これをきちんと翻訳して歌ったたら、どれもこれも日本人には、魅力半減かもしれません。だって日本人は、歌詞の中身で感動するわけですから、その歌詞がスカスカだったら、色々と厳しいと思います。でも、どんなバカで中身スカスカな歌詞であっても、何を言っているのか分からなければ、そのバカっぽさも伝わりませんからね。

 と言うわけで、実例を一つ(笑)。1990年代に日本語直訳ロックで一世を風靡した王様の画像を貼っておきます。

 いやあ、ディープバープルってカッコいいロックバンドなんだけれど、こうやって歌詞を日本語に直訳してカバーすると…バカですねえ。そして、歌詞がバカでも、サウンドはすごくいいですね。あと、これを演奏している王様って、見かけはコミックだけれど、すごい実力のギタリストだね。ある意味、これはこれでカッコいいと思いました。

 「あなたは中身がカラッポな歌でも楽しめますか?」

 あれ? 中身がカラッポなだけの歌はダメだけれど、それ以外がカッコいい歌なら、それはそれで楽しめるかも(笑)。

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2016年2月21日 (日)

時間が流れる速度は、人皆それぞれに違うものだ

 以前読んだ本川達雄氏の著作『ゾウの時間ネズミの時間』には、次のような事が書かれていた記憶があります。

 動物は種ごとにカラダの大きさが違い、寿命も違うし、行動のスピードが違う。一般的に、カラダの大きな種は、寿命が長いし、行動のスピードはスローモーである。一方、カラダの小さな種は、寿命が短く、行動はスピーディーである。しかし、調べてみると、カラダの大きな種も小さな種も、一生の間に打つ心臓の鼓動の総数は同じであって、どんな動物であっても、心臓をある一定数打ち終えれば、心臓が止まり、死んでしまうようにできているんだそうです。で、それが、いわゆる“寿命”なのではないかと。そして、なぜそうなるのかと言えば、それぞれの種ごとに流れている時間の速さが違うのではないのか?

 つまり、カラダの大きなゾウは、長生きな動物なのではなく、ゆっくりと進む時間の中で生きているだけで、ゾウから見れば、世間はあまりにせわしいモノなのかもしれません。一方、カラダの小さなネズミは、短命な動物なのではなく、足早に過ぎ去る時間の中で生きているだけで、ネズミからみれば、世間はゆったりとした緩慢なモノにすぎないのかもしれません。つまり、第三者である我々から見れば、ゾウは長生きで、ネズミは短命だけれど、ゾウもネズミも、それぞれにとっては、十分な長さの時の中で生きているのではないかと…そんな事が書かれていたような気がします。

 なにしろ、すごく前に読んだきりだし、現物は本棚の奥深くのどこかにしまいこんでしまって、取り出して読み返すことも、ちょっとむずかしく、記憶があっちこっち曖昧なのは勘弁してください(笑)。

 なぜ、曖昧なままとは言え、この本の主旨を割と覚えているかと言うと、私はこれを読んだ時に「これって、なんか相対性理論に似た話だな」と思ったからなんです。

 ここでは相対性理論についての解説はしませんが“光の速度と質量”というパラメーターを“心臓の総鼓動数と体重”に置き換えた時、相対性理論とゾウネズミの話が、私の中で何となくリンクしちゃったわけです。

 つまり、時間の流れる速度は、物理的には一定かもしれないけれど、心理的には種ごとに異なり、個体的にはみな等しい分量の時が与えられている…と思ったのです。

 で、私はそこから妄想を始めました。ゾウとネズミは、見かけ上の寿命が違っていても、(心理的には)同じだけの時を生きてから死ぬのであれば、人間に関しても、同じことが言えるのではないかしら…ってね。

 具体的には、天才と呼ばれる人々は、おしなべて短命だけれど、あれはもしかすると、天才って短命なのではなく、単に我々よりも速く流れる時間の中で暮らしているのではないかって思った次第なんです。

 例えば、モーツァルトは35歳で死んでますが、もしも彼の時間が我々から見て、倍の速さで流れていたら、彼は短命であるとは言い切れないかなと思うわけです。時間の流れが速いと言う事は、彼の思考速度も速いわけで、その速い思考速度を以って作曲活動をしたから、あれだけの作品を生み出せたのだ…とね。いわば、脳みそがクロックアップされているのが天才じゃないかって思ったわけです。

 ま、妄想ですが(笑)。

 でも、確かに言える事は、天才と呼ばれる人は、短い時間で実に多くの仕事を成し遂げるものです。我々がボケっとしている間に、次々と偉業を成していくわけです。その事実を見た時、天才と呼ばれる人たちって、どう考えても脳みそがクロックアップされているとしか思えないわけです。

 さらに別の妄想もしました(笑)。

 時間の速度は、鼓動の速度に関係しそうです。心臓を打つ速度が速ければ、時の流れを速く感じ、心臓を打つ速度が遅ければ、時の流れを遅く感じるのなら、敏捷な人って、心臓の鼓動が他人よりも速いのかな?とか、うれしい時とか楽しい時なんて、当然興奮しているわけで、心臓の鼓動も普段よりも速いわけだから、それで時間があっという間に過ぎてしまうのかな?とか、若い時にスポーツとかして、たくさん心臓の鼓動を打ってしまった人は短命なのかな?とか。ならば、長生きの秘訣は、ぐーたら生活して、なるべく心臓の鼓動を少なめに生活する事なのかな?とか、まあ、色々と妄想するわけです。

 さらに言えば、子どもはオトナよりも鼓動が速いです。赤ちゃんと老人では2倍程違います。だから、子ども時代は自分自身の中を流れる時が速いために、周りの世界がゆっくりに感じられ、オトナになると時が経つのが段々と速く感じられるようになり、それにあわせて、周りの世界が足早に遠ざかり、老人になると、光陰矢のごとしになってしまうのかな?とかね。

 時間とか速度とか距離とか言うものは、相対的なものであり、条件次第で長くも感じられれば短くも感じられるわけで、だからゾウは長寿ではないし、ネズミは短命ではないのでしょうね。

 もしも人間も、個人個人でそれぞれ違う速さの時間の中で暮らしているのなら、それはそれで面白いなあって思ったわけです。ならば、客観的で定量的な時間の流れから見た場合、人生ってヤツは、楽しく過ごせば過ごすほど長くなり、つまらなく過ごせばあっという間に終わってしまうと思います。いや、この場合は、長い短いで考えるのではなく、濃い薄いで考えるべきかな? 楽しく生きていくことは、時間を濃く使っていくことであり、つまらなく生きていく事は、時間を薄くしか使えない事なのかもしれません。

 つまり、人生、楽しく暮らさなきゃ、損だねって結論になります。

 いやあ、なんか、面白い。

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2016年2月20日 (土)

今年の冬も、やっぱりヒーターは使わない

 当然ですが、金魚水槽の話です。

 金魚に限らず、魚類は変温動物です。水温が高ければ行動的になり、水温が低ければ活動が不活発になります。それぞれの魚にはそれぞれに適した水温があり、そこから外れれば外れるほど、生きるのが大変になり、飼育が困難になります。

 金魚の適温は、一般的には17度だと言われています。日本で言えば、春や秋の水温が、その程度です。しかし問題は、日本には四季がある事です。夏になれば、水温は30度近くになり、冬になれば、水温がどうのこうのではなく、池に氷が張ってしまうほどの寒さになります。

 それほど寒暖の差が激しい我が国ですが、それも金魚は、さすがに日本国内でも普通に繁殖されて販売されているくらいですから、日本の厳しい自然環境にも十分適応しているし、実際に屋外飼育の金魚は、それらの環境の中でも頑張りますが、室内飼いの子たちには、真夏と真冬の水温は、やっぱりきびしいです。

 普段から、たっぷりと甘やかされているからね~。

 私も以前は、真冬になると、水槽に金魚用のヒーターを入れて、水温の維持を心がけていましたが、最近はヒーターの使用をやめています。理由は、室内飼いなので、戸外ほどは室温が下がらない事と、老朽化したヒーターの水槽への投入は漏電が怖くてできない…のです。

 まあ、実際問題としては、ヒーターを入れなくても、そんなに水温が下がらなかったから入れなかった…とも言えます。

 ところが、今年は暖冬にも関わらず、結構水温が下がるんですね。で、あんまり下がって、金魚たちが冬眠よろしく、水底でゴロンと活動停止してしまうという状況が何回か見られました。

 「いよいよ、水槽にヒーターを入れないといけないかな?」

 そう悩みだした時に、ふと思いついて、LED電灯をやめて、以前使っていた旧式の蛍光灯に変えてみたら…みるみる水温が上がり始め、真冬でも適切な水温を維持できるようになりました。いやあ、蛍光灯って、思ったよりも放熱していて、簡便なヒーター代わりになるんですね。

 なので、冬は発熱する蛍光灯、夏は熱の無いLEDにしようと思った次第です。

 ちなみに、水槽の電灯を蛍光灯に戻したら、金魚たちがより可愛く見えるようになりました。蛍光灯とLEDでは、電灯から出てくる光の質が違うので、蛍光灯(特に観賞魚用の蛍光灯)では、本当に金魚が美しく見えるんです。そこへいくと、LEDの光ってつまらないんですよ。一応、観賞魚用のLEDを使っているんですが、金魚の色が浅くて、つまらなくしか見えないんです。

 その違いは、化粧顔とスッピンの違いぐらい、極端に違うんですね。

 発熱しない蛍光灯があったら、いいのになあ…。

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2016年2月19日 (金)

テオバルト・ベームさんには、足を向けて寝られない

 私達笛吹きが今日、こんなにフルートで楽しませてもらっているのも、みんなみんな、テオバルト・ベームさんのおかげじゃないかって、私は思ってます。

 普段の私は、ブログに書く際、外国人の場合は名前を呼び捨てにするのが常ですが、今回は敬愛の念を込めて『ベームさん』と呼ぶことにします。

 で、そのベームさんは何をした人なのかと言うと、今日私達が手にしているフルートを完成させた人であります。

 ベームさんは19世紀の人です。彼は当時の神童で、ドイツを代表する天才フルート奏者でした。彼は元々金属加工業者の家に生まれ、フルートを始める前は、金属加工職人としての修業をし、腕の良い職人として将来を嘱望されていたそうですが、フルートを始めたところ、その才能を一気に開花させ、昼は金属加工業者として働き、夜はプロフルート奏者として活躍していたのだそうです。

 そんな二足のわらじを履いていたベームさんでしたが、やがて自分が吹いている楽器に不満を感じるようになり、自分の工房でフルートの改良&製作に着手するようになりました。そこで生まれたのが、ベーム式フルートであって、我々が現在手にしているフルートそのものだったりします。

 当時の一流奏者の意見が基に、当時の一流職人が改良を加えて完成させたんだから、悪いはずないのです。で、フルートという楽器が、その段階で、一挙に完成してしまったわけです。

 つまり、19世紀半ばに生まれたベーム式フルートを、我々は現在、吹いているわけです。

 もちろん、ベーム以前にもフルートはありました。例えば、バロック時代に活躍した、フルート・トラヴェルソであったり、古典派の時代に重宝されたクラシカル・フルートなど、フルートはその時代時代の音楽趣味や観客の好みに合わせて、少しずつ改良されてきました。それが19世紀になりベームさんによって、一気に完成されたわけです。

 まあ、ベーム以前のフルートがダメだとは言えないと思いますが、ベーム以前の時代の音楽も、今ではベームさんが完成させた現代フルートで演奏するのが常ですから、やはりベームさんの功績は大きかったと言えると思います。

 ベームさんがフルートに与えた改良点は、以下のとおりです。

1)トーンホールを巨大化し、音量を増し増しにした。
2)管体を円柱形にして半音階もクリアに出せるようにした。
3)メカの改良により運指を簡単にした
4)リングキーを採用して、複雑な演奏テクニックを可能とした
5)管体を銀製とし、メンテを楽にした
6)フルートを明るめの均一した音色で演奏できるようにした

 まあ、ざっとこんなところでしょうか? もしも、ベームさんがこの世になく、フルートが19世紀に完成されることなく、モーツァルト時代のクラシカル・フルートを今でも吹いているとしたら、たぶん、私達はフルートを楽しむことは難しかったと思います。

 フルートという楽器そのものは、バロック時代の名曲たちがレパートリーとして残っていますし、ベームさん以前に、すでにオーケストラの中の楽器として定着していたので、ベームさんがこの世に生まれなかったとしても、フルートという楽器そのものが無くなっていた事はないでしょうが、ベームさんがいなければ、近代フランス音楽におけるフルートの偏愛は生まれなかったろうと思います。つまり、ドビュシーもラベルもフォーレもサン・サーンスもプーランクも、フルートの曲を書くことは無かったでしょうし、フルートの運指も難しいままで演奏は難しく、音量は小さいままで、音色も均一でなくて凸凹していて、なんとも霞んだ音しかしない楽器になっていたと思います。

 そんな寂しい楽器を、趣味の人たちが喜んで吹くでしょうか? たぶん私は吹かないと思います。だって、つまんないもん。

 ベームさんが19世紀にフルートを完成させてくれたおかげで、フルートが楽しくなった…と私は思ってます。だから、私が今フルートを吹いているのだって、それはきっと、ベームさんのおかげなんです。

 だから、ベームさんには足を向けて眠れないなあって思ってます。

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2016年2月18日 (木)

今年の声楽の発表会の概要が決まりました

 標題の通り、今年の発表会の概要が決まりました。ま、あくまでも概要であって、細かいところは色々と未定なわけですが…。

 とりあえず、2016年7月18日(祝)に、横浜の関内ホールで行います。祝日ですし、場所的にも良い場所なので、興味と関心のある方は、ぜひご覧になってくださいませ。

 現在は、誰が発表会に参加するかの申し込みと調整をしています。と言うのも、Y門下の発表会は、希望制ですから、当然参加する人もいれば、参加しない/できない人もいるわけです。私は…ひとまず参加する事にしてますが、まだ当日の仕事の調整がつかないので、参加は確約できない事を先生に伝えています。まあ、それでも、なんとかスケジュール調整をして参加したいと思ってます。

 で、発表会では何をやるか…という話ですが、ま、当然、声楽の発表会ですから、普通に門下生たちが代わる代わる交代に舞台にあらわれて、歌を披露するという、普通のスタイルの発表会もあります。それは、前半…というか、第一部の予定です。出演者の生徒さんたちは、第一部で1~2曲ずつ歌を披露する事になります。

 で、休憩を入れて第二部です。第二部では、演奏会形式でオペラをやる予定です。もちろん、これは参加者さん次第ではボツになってしまうかもしれませんが、とりあえず行う方向で話が進んでいます。

 演奏会形式でオペラ…と言っても、アマチュアの声楽発表会ですから、字幕を用意できるわけでもありませんし、聞きに来てくださるお客様も、必ずしもオペラに精通しているとは限りませんし、出演者次第では、オペラのすべてのアリアや重唱を歌えるかどうかも分かりません。そこで、ナレーター用の日本語の台本を新たに作ることにしました。いわゆる“影ナレ”ですね。この影ナレで、オペラのあらすじや歌の説明(歌唱は原語で行うわけだし、字幕サービスも用意できないので、歌の意味を説明する必要があるわけです)、歌と歌の間のストーリーの動きや“オペラあるある”などの豆知識の披露などを行うわけです。

 つまり、歌と歌とをナレーションでつないだ演奏会形式のオペラをみんなで上演しようというわけです。で、このナレーター台本を、私が書くことになりました。頑張りますよ。私は台本を書くだけでなく、当日は歌います。歌とナレーションの兼任は難しいので、当然、ナレーションは別の人が担当します。

 ここまでは決まってます。どなたがナレーションをする事になるかは…まだ未定です。

 で、何をやるかですが…プッチーニの「ラ・ボエーム」の方向で先生方は考えているようです。ま、演目も参加者次第で変更する可能性がないわけではありませんが、ひとまず、台本担当者としては、ボエームのナレーション台本を書くための勉強を始めたところです。

 で、歌…ですが、私はテノールですから、当然、主役のロドルフォを歌うわけです(パルピニュールも捨てがたいが、おそらく彼の歌はカットされてしまうでしょうからね)が、我が門下のテノールは私一人ではありませんので、他の2人との配分を考えないといけません。そうです、我が門下にはテノールが3人いるんですね。ま、つまり、一人でロドルフォの全歌唱を担当するのではなく、3人でロドルフォの歌唱を分担して歌うことになります…いや、ロドルフォは難しい役なので、プロの客演の方も入れて4人で分担して歌うという事すら先生方は考えていらっしゃるようです。

 ま、それはある意味仕方のない事ですよね。だってロドルフォは、ホントに難しいです。アマチュアテノールで「冷たい手を/Che gelida manina」のアリアを歌える人なんて、そうそういないし、当然私にも無理だしね。ボエームには重唱曲も多いので、私はどこかの重唱の中でロドルフォを担当できたら、それだけで嬉しいです。ま、今回歌えなかった曲は、いずれ機会を見つけてトライすればいいわけだしね。

 でもでも『ラ・ボエーム』の一部とは言え、歌うわけだし、私の書いた台本で上演してもらえるわけだから、なんかもう、やる気がみなぎってくるわけですよ。ああ、頑張る頑張る頑張る~、やるよやるよやるよやるよ~~~。

 ああ、発表会が楽しみだ。そのためにも、仕事のスケジュール調整をなんとかしないとね。

 今日から私の事は“詩人のすとんさん”とお呼びください(笑)。

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2016年2月17日 (水)

実用音域は「高音はA♭まで」と言ってもいいでしょうか?

 声楽のレッスンの続きです。曲のレッスンです。

 まず最初に歌ったのが、レオンカヴァッロ作曲の「Mattinata/マッティナータ(朝の歌)」です。とりあえず、楽譜通り…と言うか、多少のアドリブも加えながら、普通に歌えるようにはなりましたが、改めてレッスンの録音を聞いてみると…いやあ、実につまらない出来です。歌っている時は必死ですから、あまりそんな事は感じませんが、後で録音を聞いてみると、声の張りも良くないし、声に無駄な力は入っているし、なんか表現的にも面白くないし、まあ、色々と残念な出来ですが、普通に歌えないまま終了してしまった曲だってあるわけですから、普通に歌えるようになった事自体は、良しとしないといけないのかもしれません。

 ただ、普通に歌えるものの、テクニック的には、まだまだだなって思いました。声を真っ直ぐに出して歌うだけなら、誰にでもできるわけで、歌手ならそこは、しっかり息をグルングルンと回して出さないと、つまんないんだよねえ…。

 息をグルングルンと回せないのは…やっぱり腹筋が弱いからだな、反省だー!

 表現に関しては、一朝一夕には、なかなかうまくはできません。ま、そこまで突き詰めたレッスンをするならともかく、今回はそこまでは考えずに、この曲は今回でひとまず終了とする事にしました。

 で、次に歌ったのは、ヴェルディ作曲「リゴレット」のテノールアリアより「Quests o quella/あれかこれか」です。テノールのアリアとしては、定番中の定番のアリアで、いかにも「テノールの歌」って感じの歌です。

 これが聞いている分には、脳天気なお馬鹿ソングで、そんなに難しそうに思えないのですが、歌ってみると、あれこれと難しくって、正直、どうにもなりません。

 この曲でも私の腹筋の弱さが露呈してしまいました。とにかく、息をつなげて、レガートに歌わないといけません。また音程が上昇するスラーの箇所は、歌い直しをするのではなく、腹筋をグイっと入れて、同じ発声フォームのまま息の力で音程を上昇させないといけません。これは、腹筋が強くないとできないわけで、私には結構な難行苦行だったりするわけです。

 私のような腹筋弱めの人は、長いフレーズを支えきって歌うのは難しいので、少しテンポを速めて歌った方が良いというので、先生がかなりテンポを上げて伴奏してくださったのですが、あまりに速くて辛かったです。特に、まだまだ歌い込みが足りないので、クチが回らないのです。ああ、情けない。

 まずは、フレーズの歌い出しから、きちんと息を支えることを注意されました。私は昔から、歌い出しが無頓着なのが悪い癖ですが、歌い出しからきちんと覚悟を決めて、息を支えて、しっかり歌わないといけません。

 上手く出来ないので、テンポをすごくゆっくりにして、何度も練習させてもらいました。いやあ、息を支えながら歌うのって、ほんと、難しいです。

 歌が始まるからと、直前で息を吸うのではなく、少し前の段階で息を吸って、息を止めてスタンバイして歌うくらいの気持ちでないといけません。また、歌っている最中も、常に音楽の先読みをして、当該の音になる前に腹筋を動かしていかないといけません。ああ、難しい。

 あれこれ難しくって、今回は1番の部分だけレッスンをして、2番とか最後のカデンツのところはやりませんでした。後半部分は次回まわしとなりましたが、それまでしっかり練習してこないとね。

 そうそう、この曲の最高音はB♭ですが、B♭のロングトーンはカデンツまでは出てきません。カデンツまでの実質的な最高音はA♭で、B♭は前打音として使うくらいなのですが、その数回登場するA♭のロングトーンですが、今回は支障なく歌えました。たぶん、今後も大丈夫かな? そんな気がしました。これで私の実用音域を「Gまで」ではなく「A♭」までと言える自信が湧きました。テノールなんだもん、実用音域は、たとえ半音でも、高くなって欲しいですね。次回のレッスンではカデンツまで歌うことになりますが、そこではB♭のロングトーンが待っています。そこを常に自信をもって歌えるならば「実用音域はB♭まで」と言えるのでしょうが、今はまだそこまでの自信はありません。

 次回のレッスンから「Mattinata/マッティナータ(朝の歌)」の代わりに取り組む事になった曲は、トスティ作曲の「April/四月」です。この曲は、二年前にも取り上げて歌い始めたものの、発表会間近だったので、1回だけレッスンで歌ってお終いにした曲で、なんとなく心残りがあった曲です。そこで、今回、もう一度取り上げて、きちんと歌いきってみようと思ったわけです。例によって、この曲を知らない方のためにYouTubeの画像を貼っておきます。

 ホアキン・ピクサーンというテノール歌手さんですが、どんな方なのか私はよく知りません。ググってみたところ、少し前まで現役で活躍されていたスペインのテノール歌手さんなだそうです。なかなかいい歌を歌いますね。YouTubeの良いところは、今まで全く知らなかった音楽家の演奏を聞けるところです。

 うむ、色々と頑張っていこうっと。

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2016年2月16日 (火)

フルートで出来る事が、なぜ歌では出来ない!

 声楽のレッスンに行きました。

 まず最初にやった事は、息を吐き続ける事です。ハミングにせよ、発声をするにせよ、まずは息を吐き続ける事です。まあ、当たり前っちゃあ当たり前だけれど、どうにも私はそれが出来ていなかったわけで、声を出している最中に息が切れてしまい、声が切れ切れになってしまうのだそうです。

 つまり、そこが弱点ってわけです。

 そして、その息も「ぴゃー」って強い息じゃなくて「ほう…」という感じの暖かめの息で出し続けるべきなのです。ま、そのあたりの息遣いに関しては、フルートとも通じるわけです(笑)。フルートで出来ている事が、なぜ歌だと出来ないのか…って事になります。

 まず考えられる原因の一つは、やっぱりノドに力が入っているからでしょうね。ノドに力が入った瞬間、息が途切れたり、弱まったりするわけです。息を吐き続ける事ができるというのは、ノドに力が入っていない、あるいは入っていても許容範囲内であるという事になるわけです。だから、息を吐き続けて発声する事は大切です。

 それに、息を吐き続けるには、やはり腹筋の力が必要になってきます。腹筋で常に圧をかけ続けているから、息が吐き続けられるわけです。これはフルートでも全く同じ事です。フルートでスラーを演奏するような感じで歌えば、レガートに歌えるわけです。

 フルートで出来る事が、なぜ歌では出来ない!

 おそらく、フルートでは、フルートを持つ事で腹筋のスイッチが入ってスラーが演奏できるのだけれど、歌では腹筋のスイッチがうまく入らない…のかもしれません。そこは意識の問題だよね。

 もちろん、スイッチ以前に「腹筋そのものが弱い」というのもあるでしょう。そこでY先生から、普段の会話の時から腹筋のスイッチを入れてしゃべってみてはどうでしょうかと、やさしく命令されました(笑)。

 つまり、私、普段のしゃべくりでは、腹筋をほとんど使わずに、実に省エネな発声をしているわけですが、それを止めて、もう少し普段のしゃべくりからエネルギーを使って、腹筋を使ってみてはどうですか、って話なんです。

 なにしろ、私、普段の会話では、最小限の息の吐き出しだけで、結構な声を出しています。ま、私の声は、そんな省エネな発声であっても、よく通る声だし、よく響く声だし、楽にしゃべっていても、特に困ることはない…と言うか、これだけ省エネでしゃべっているから、長時間べらべらとしゃべっていても、全然平気だったりするわけなんです。たぶん、普段の話し声の発声は、極めて上手で楽なしゃべり方をしている私なんだと思います。

 でも、そんな話し声は歌声とは違うわけで、歌を歌うからと言って、普段の発声とは全く違うことをしようとしても、そりゃあ、なかなかカラダも追いついてこれないわけです。なので、歌声の要素を、普段の話し声の中にも混ぜていけば、歌う時に、もう少し腹筋のスイッチが入りやすくなるのではないか…というわけです。

 まあ、だいたいが私の声は、元々ナイショ話ができないくらいの大きな声なんです。いやあ、ほんと、これはこれで困っているわけですが、そんな私に、腹筋のスイッチを入れてしゃべれと、先生はおっしゃるわけです。“歩く人間拡声器になれ”…と先生はおっしゃるわけですが…よいでしょう、受けて立ちましょう。毎日、腹筋のスイッチを入れて、会話してやる!

 これは、腹筋を鍛えると同時に、腹筋のスイッチを入りやすくするための日常的なトレーニングであると心得ることにしました。それに、年中腹筋のスイッチを入れていたら…腹回りの脂肪も落ちて、ダイエットになるんじゃないかしら…そう思ったら、なんか俄然やる気が湧いてきましたわ。

 後は、私の決心がいつまで続くかだ…自信はないけれど、頑張らないとね。

 そうそう、高音を発声する練習をしている時に、アドヴァイスをいただきました。高音を発声する時は、高くなればなるほど、発声しづらくなるわけで、私の場合は、ある所まで発声していくと、壁にぶちあたって、そこから先が出なくなるという発声をしてきたのですが、この発声法はあまり良くないと言われました。何が良くないのかというと、ノドに負担がかかりすぎて、ノドを壊す発声だと言われました。

 では、どうするべきか。

 高音を発声する時は、高くなればなるほど、発声しづらくなる…ところまではいいのだけれど、ある所まで発声していったら、そこで壁にぶち当たるのではなく、そこで声が裏返ってしまって高音を発声してしまう…のが良いのだそうです。つまり、どんどん音が高くなって来た時に、あるところから発声できなくなるのではなく、あるところから声が裏返って発声してしまう方が良いというのです。

 極論で言えば、下の音から音階を駆け上って発声していった時「Hi-Cなんて発声できません」じゃなくて「Hi-Cだと声が裏返ってしまうんです」の方がいいって事なんです。

 もちろん理想は、壁にぶち当たらず、声も裏返らない事なんだけれど、壁にぶち当たってしまうくらいなら、声を裏返してしまえ!というわけです。

 つまり、高音は、声が裏返るか裏返らないかの線で綱渡りするべきであって、声が出るか出ないかで博打を打つのはアウトって事なんです。

 声を裏返るか裏返らないかの線で発声するために、極めて軽く薄く声を出さないといけません。ファルセットの一歩手前で踏みとどまって歌えることが、高音発声の入り口なんだそうです。当然だけれど、高音に音量を求めてはいけません。最初は、発声は裏返るかもしれないところを、なんとか裏返さずに発声する事が肝心であって、それ以外の要素である音量とか迫力とか機敏な運動性とかは後回しで良いのです。

 まずは高音を発声する事。二兎を追うものは一兎も得ず、です。

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2016年2月15日 (月)

プロは誉めない、アマチュアはけなさない

 私がブログを書く時の姿勢の一つとして『プロは誉めない』『アマチュアはけなさない』と言うのがあります。

 プロの方々を誉めないのは、プロの方々を誉める事は失礼な事だと思っているからです。だって、プロの方々ってのは、誉めるべき対象ではなく、憧れたり、感謝したり、目標にするべき対象であると私は思っているからです。

 それに、プロの方々が上手なのは当然です、当たり前です。だって、元々才能豊かな人が、自分の人生を捧げて技を磨いてきたわけだから、下手なわけないんです。プロってのは、ある意味“超人”なんです。だから上手くて当然なんです。その当然な事を誉めるって、失礼でしょ?

 でも感謝はするべきだと思ってます。だって、人生かけて磨いてきたモノを私たちに披露してくれ、感動をくれたわけですからね。そこに関する感謝は忘れてはいけないと思ってます。

 一方、アマチュアの方々をけなさないのは、それは大人げない事だと思っているからです。アマチュアの方は、いわば“愛好家”なわけで、そこに愛情はあっても、上手さが伴うとは限らないわけだからです。たとえ下手くそであったとしても、愛さえあれば、けなすのは野暮というものです。

 確かに、アマチュアであっても、下手くそよりも上手な方がいいに決まっているし、その方がより深く楽しめるし、音楽のように客に披露するモノならば、上手い方がお客さんだって喜ぶわけだし…だから、私は、アマチュアが上手である事は目指すべき事だと思うけれど、必ずしも上手でなければならないとまでは思ってません。だって、アマチュアと言うのは、所詮は“凡人”なんですよ。その凡人に何を求めるのですか?って話です。

 それに『下手の横好き』って言葉だってあるじゃない(笑)。アマチュアの場合、上手い下手を問う前に、愛情の深さを問うべきだと私は思ってます。好きという気持ちが深ければ、アマチュアはそれでいいじゃない。たとえ稚拙であっても、そこに愛があれば、ほほえましいものですよ。

 故に私は、プロとアマチュアを同じ土俵に上げて比較することはしないのです。だって、住んでいる世界が違うんだもの、超人と凡人を同じ土俵に上げて競わせてはいけないのです。

おまけ  時折、プロであっても、アマチュアの方々に負けないほどの愛情を持っている人がいます。そんな人こそは、プロの中のプロだと私は思います。また、アマチュアであっても、プロに負けないほどの技巧を持っている人もいます。本当に素晴らしい事です。だから、そういう方々には、私は惜しみない賞賛を与えてしまうわけです。

おまけ2  プロになろうと努力したけれど、プロになれずに、アマチュアとして活躍しているという人も世の中にはいます。こういう人の扱いって難しいなあって思います。と言うのも、プロになれなくても、それは“演奏で食えなかった”だけであって、プロとしての技巧は持っているわけですからね。決して、アマチュアのような『下手の横好き』ってわけじゃないし、アマチュアの我々とは技術的に一線を画しているわけです。いわば、言葉は悪いのですが『プロ崩れ』であって「プロじゃないからアマチュアだ」と言われても、やっぱり我々アマチュアとは出自が違うわけで「あなたはプロとして食えなかっただけで、やっぱりプロなんじゃないの?」って、私としては思わざるをえないのです。だって、アマチュア側から見れば、その人がプロとしての腕前を持っているかどうかは気になっても、食えるか食えないかなんて、関係ないもの。他人の生活に興味を持つほど、こちらも暇じゃないんです。だから、なんとも納得いかないです。上手な演奏をすれば、アマチュアなら「上手いですねえ、素晴らしいですね」と誉めますが、こういうプロ崩れの人に対して誉めるのも、私としては、なんか違う気がします。ああ、扱いが難しい。

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2016年2月14日 (日)

たぶん問題は、労働時間が長いことなんだと思う

 我々が暮らす現代日本は、数多くの問題を抱えているけれど、おそらく、将来に渡ってボディブローのように効いてくるのが、少子化問題であり、その原因となる出生率の低下現象と未婚率の上昇現象がかなりの大問題であると、個人的に思ってます。

 いつまでも右肩上がりではいられないのは分かっているけれど“国力”と言うのは、単純に言っちゃえば“人口”の事です。人口の多い国は国力が豊かになります。もちろん、人口さえ多ければ良いのかと言うと、それは違うわけで、例えば、国民の質(教育レベルとか、規範性とか、堅実性とかを合わせた総合力のようなもの)も高くないといけませんし、例えば、いくら人口が多くても老人ばかりが多い状態では却って逆効果となります。人口と言いつつ、本当に必要なのは労働人口です。質の高い労働者の人口が多いほど、経済的にも(当面は必要ないだろうけれど、軍事的にも)強くなれるわけですからね。

 労働者とは…改めて言う事でもありませんが、日々生業に従事して汗を流して働き、収入を得ている人たちの事です。子どもや学生、病人、老人がその数に入らないのは当然として、いわゆるニートや引きこもりの人も入りません。専業主婦は働いていないわけではありませんが、一般的には労働人口から外す事が多いです。つまり、実際に社会に出て働いている人、いわゆる“社会人”の数の事を言います。

 そして労働者は生産するばかりではなく、収入を得ることで消費活動も行います。生産と消費が高度にバランスを保っている状態が豊かな状態であって、これが生産ばかりで消費が少なければ、消費を海外に依存した経済的に危うい状態になるわけだし、消費ばかりで生産が追いつかなければ、国内の財産を食いつぶして、生活レベルがドンドン下がっていくだけの話です。

 日本は、国民の質は優秀だけれど、人口そのものは減っているし、老人ばかりが多くて、労働人口に関しては激減とも言える状況で、生産と消費のバランスが悪く、消費ばかりが拡大しているのが現状です。つまり、日本の国力は、みるみると衰え、だだ下がりになっているわけで、それを手をこまねいているだけでは、もはやどうにもならない状況になっている事は、誰の目にも明らかな事実です。

 つまり、そんなに遠くない将来において、日本は貧しい国に落ちぶれてしまうのです。悲しいけれど、人口が減るってのは、そういう事です。

 現在の日本がまだ豊かなのは、不足してきた労働力を、機械を導入することで補い、それでも不足している部分は、安く海外に外注して(いわゆる、経済奴隷を使用しているわけです)それらを輸入する事で不足を補っているわけで、それらによって、からくも生産活動と消費活動とのバランスを保っているからに過ぎません。今はそれで持ちこたえていますが、このやり方がいつまでも通用するわけでもなく、少しずつ生産活動の衰えが補えなくなってきているのです。その証拠に、以前は日本経済を牽引していた家電業界が凋落の一途をたどっていることからも分かることです。

 日本は、消費ばかりが膨らみ、生産活動が目に見えて衰え始めたのです。

 生産能力を取り戻し、国力を回復するためには、古典的なやり方ですが、やはり人口を増やして労働人口を増やして、生産力を上げていくしかないと思います。

 人口を増やすには、方法は二つしかありません。一つは、出生率を上げて、リアルに日本人の数を増やしていく方法です。もう一つは、移民政策を取り入れて、インスタントに人口を増やしていく方法です。そして、どちらの方法にも問題はあります。

 先ず最初の、出生率を上げて日本人の数を増やしていく方法だけれど、そのためには、女性に限らず、若い人たちが恋愛をして結婚をして出産子育てを気軽にできるような社会体制を作らないといけません。そのために、まずすべき事は…労働時間の短縮じゃないかなと私は思います。

 現在日本では、労働時間が長すぎると思います。ワーカホリックの仕事人間たちには、今の労働環境でも何の問題はないのでしょうが、普通の感覚の人には、労働時間が長すぎると思います。

 家と職場の往復だけで1日を使ってしまっては、恋愛する暇なんてないでしょう。せっかくの休日だって、カラダを休めるためだけに使っては、異性との出会いなんて無理です。なんとか異性と巡りあっても、時間がなければ、恋愛を継続していくも難しいでしょうし、恋愛から結婚へとつなげたとしても、ディンクスならともかく、普通に出産子育ての事を考えたら、簡単には踏み切れないでしょう。

 時間って貴重なんですよ。時間が不足すると、やりたい事もできないし、やるべき事も後回しになるものです。特に女性は賢いですから、そのあたりを本能的に感じ取っているのだろうと思います。それで恋愛を、結婚を、出産を、無意識に回避しているのかもしれません。

 ちなみに日本の年間中絶数は約20万件だそうです。世界トップレベルの多さだそうです。この数は、社会やら生活環境やらが許せば、生まれていたかもしれない人数なんだろなあって思います。

 それでも中絶数自体は、10年程前までは年30万件が普通だったわけだから、確実に中絶数は減っています。でも、それって単純にピルの普及で妊娠そのものの数が減っただけの話で、中絶数が減ったからと言っても、子どもの出生数は減少しつづけているわけで、やはり本来ならば生まれていたかもしれない人数は、中絶数よりも多かったかもしれない…って事になります。

 避妊やら中絶やらの是非については、私はここで語るつもりはないけれど、妊娠したら産んで育てたくなるのが、生き物としての本能だと思ってます。誰も好き好んで中絶なんてする人はいない…と信じてます。そして、子どもを生み育てる事が許されずに、中絶をせざるをえない状況にいる事は、やはり不幸なんだと思いますし、そうせざるをない社会は、良い社会とは言えないと思います。

 閑話休題。労働時間が長いと、職場に拘束される時間が長いわけで、それは家庭ですごせる時間が相対的に少なくなることを意味するわけです。そうなると、育児に時間が割けない事は自明です。自分自身も十分に家事に時間を使えないけれど、夫も労働時間が長ければ、家事にせよ子育てにせよ、夫にも頼れないわけです。大家族ならともかく、昨今は核家族だから、家事や子育てに、親のサポートも期待できません。

 これは大問題でしょう。

 「じゃあ、女が働かなきゃいいじゃん。結婚したら、家庭に入れば、それで済むじゃん」

 実際、そう願う人々もいるでしょうが、現実問題として、それはなかなか難しいのが21世紀の日本です。

 と言うのも、現代女性はみな男性並に高学歴化しています。せっかく男性と同じ教育を受け、能力だって男性並かそれ以上のモノがあるのだから、それらの能力を社会に還元していきたいと考えるのは、当然の事です。そのためには働きたいが、働くとなると、長い長い労働時間が待っていて、とても人間的な暮らしができそうもない…となると、色々と躊躇してしまうわけです。

 定時に仕事が始まって定時に仕事が終わる。一部のブルーカラーと地方公務員ならできる事かもしれませんが、ホワイトカラーや国家公務員だと無縁な話です。それにたとえ周りが定時で帰宅しても、キャリアを積み重ねていくことを考えると、自分は簡単には定時で帰宅できないと思っても不思議はありません。

 また、出産育児によるキャリアの中断も不安でしょう。一度ならともかく、二度三度と産休や育休を取ってしまうと、せっかく積み上げたキャリアが無に帰してしまうのではないかと恐れてしまう事も想像に難くありません。

 で、一生懸命に働いて、キャリアを積み重ねて、ふと我にかえると、すでに出産適齢期を過ぎ、恋愛市場に参加できない年齢になっていたりするわけです。

 男性だって、女性ほどではないけれど、やはり労働時間の長さが原因で、色々と大変だと思います。

 結局、日本人は働き過ぎ…なんだと思います。

 なぜ日本人は働き過ぎてしまうのでしょうか…それはおそらく真面目だから。もっと、いい加減な性質で、労働は苦役であると考えるなら、おそらく定時までしか働かないのが普通になる(ヨーロッパ人がそうですね)けれど、真面目な性格で、上昇志向が強く、労働は喜びだと思っているなら、定時を越えて、ある一定の成果なりカタチなりが見えるまで、ついつい働き過ぎてしまうの普通のスタイルで、それが長時間労働につながっているのだと思います。

 でも、そんな生活は、私生活を投げうった行いでしかないのだけれどね。

 二十代前半で結婚して家庭を持ち、男は外で働き、女は家で働く…そんな昭和っぽい生き方なら、人口も減らずに済むのだろうけれど、今は男も女も、昔の男のように外で働く時代だから、女性が家で働くなんて無理です。だから、女性は男性化せざるをえず、結婚したり、出産したりという、普通の女性としての生活をあきらめざるをえないわけだ。

 それが回り回って、未婚率の上昇と出生率の低下につながって、人口減少へとつながり、国力のだだ下がりの原因となっていくのだと思います。

 人々が真面目で働き者だから、国力が衰えていくなんて、変な話ですね。

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2016年2月13日 (土)

金魚には満腹感なんて無い!

 金魚には満腹感というものが無いと言うのは、知る人ぞ知る有名な話で、そもそも金魚には胃袋というものが無いんだそうです。

 我々が満腹を感じるための条件には二つあって、一つは血糖値の上昇であり、もう一つが胃袋が満たされる事です。この二つが同時に成り立った時に、始めて満腹を感じるわけです。

 ですから、お菓子を食べると血糖値は大幅に上昇しますが、胃袋を満足させるほど大量に食べるわけではないので、お菓子で満腹感は感じづらく、そのためダラダラと食べ続けてしまい、お菓子で胃袋を満たすほど食べてしまった時は、明らかなカロリーオーバーとなり、人によっては、血糖値が上がりすぎてしまう可能性すらありえます。お菓子って怖いですね。

 また逆に、こんにゃくダイエットとか、キャベツダイエットなどの、糖分や炭水化物の極端に少ない食材を大量に食べて胃袋を満たしてダイエットするという方法もありますが、これらが失敗しがちなのは、胃袋を満たしただけでは、満腹感を感じる事ができず、たくさん食べた割に、やはり何となく食べ足りなさを感じてしまい、やがて他の料理を食べてしまって、結局ダイエットに失敗してましうという事があるのも、そんなわけです。

 血糖値を適度に上げ、胃袋を満たして、充実した満腹感を得られるわけで、そのどちらか片方だけではダメなんです。

 で、金魚です。金魚には胃袋がありません。エサを食べたら、食べたそばから腸に送られて、やがて消化されて排泄されてしまいます。胃袋がないので、胃袋を満たす事ができず、満腹感がありません。その結果、金魚の食欲は、それこそ底無しの食欲なのです。

 ですから金魚ってヤツは、エサを与えたら与えただけ食べてしまいます。満腹感が無いので、いつでも、いつまでもエサをねだりつづけて、食べ続けます。エサをねだる、その姿に負けてエサを与え続けると、過食状態になってしまいます。

 過食状態になると、人間なら肥満体になりますが、魚類の場合は巨大化します。魚体は一度大きくなると、小さくなることはありません。つまり、魚の世界にはダイエットというモノがないのです。一度大きくなった魚体を維持できるほどのエサがなくなれば、もちろん多少は痩せますが、それにも限度はあるので、割と簡単に餓死してしまいます。

 また過食状態になって、一度に大量のエサを体内に取り込むと、消化が間に合わず、それが原因で腸閉塞とか腸捻転などになって死んでしまいます。

 どちらにせよ、エサのやり過ぎは金魚の寿命を縮めるわけです。

 金魚は自分たちで食欲をコントロールできるタイプの生き物ではないので、そこのところは飼い主がきちんとコントロールしてやらないといけません。

 でも、金魚にエサをあげるのって楽しいんだよね。特にエサをねだられると、うれしいんだよね。で、ついついエサをあげちゃうわけだけれど、それがいけないんですよ

 ウチもエサやり係を私がやっていた時は、みんなみんな巨大化してしまって大変でしたが、最近は妻がエサやり係をやるようになりました。妻はきちんとエサを管理しながら与えているので、今の子たちの巨大化へのスピードがゆっくりとしています。まあ、それでも、巨大化そのものはしているわけです。だって金魚たちって、人間がエサを与えなくても、勝手に水草とかタニシとかエビとか食べているからね。

 本当は、金魚水槽に金魚のエサになるようなものは入れてはいけないのかもしれませんが…私はさすがにそこまでは踏み切れないんです。

 でもでも、金魚には満腹感が無いし、過食させてしまうと寿命が縮みますので、飼い主的には、エサやりは心を鬼にして、常に少なめにしないといけないのです。

 妻よ、頑張って金魚たちを巨大化させないでおくれ…よ。

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2016年2月12日 (金)

歌手と笛吹き、気質の違い

 よく、演奏する楽器によって性格が違う…なんてのは“オーケストラあるある”の一つです。確かに担当している楽器ごとに奏者の性格の違いってあると思います。それは「なぜその楽器を学ぼうと思ったのか」あるいは「なぜその楽器に惹かれたのか」という命題と関係するからです。

 例えば、ヴァイオリン奏者は積極性と繊細さを併せ持つ性格であるとか、コントラバス奏者は平和主義者で健全な人柄であるとか、オーボエ奏者は神経質で目立ちたがり屋さんであるとか…ね。ちなみにフルート奏者は、外面はいいが腹の中で何を考えているか分からないとか、なんかエラそうな態度をとりがちだとか、ヒステリックで独善的だとか…あれ、私、フルーティストの事をディスってる?

 とまあ、何はさておき、とりあえず話を進めます。

 同じ器楽同士でも奏者の性格に違いがあるならば、声楽と器楽の違い、つまり、歌手と器楽奏者の違いって、かなり大きいのではないかしらと思ったわけです。まあ、器楽と言っても、私は楽器全般に通じているわけではないので、歌手と笛吹きの気質の違いで考えてみたいと思いました。

 まず、両者の違いを考える前に、共通点を確認しておきたいと思います。

 歌手も笛吹きも、原則的にはメロディーを担当します。良くも悪くも目立ちたがり屋さんで、押しの強いタイプの人が多いと思います。よく言えば、リーダー体質なのかもしれません。逆に言えば、目立たざるをえないポジションですから、目立つ事に耐えられないといけない事は事実ですし、目立つ人間は何かと叩かれますから、メンタルだって弱くては勤まりません。押しだって強くなりますし、そうなれば、自然とリーダーシップだって取らざるを得なくなるわけです。

 また、男女比で言っても、両者ともに圧倒的に女性が多いです。押しが強くて目立ちたがり屋さんと言えば、お姫様タイプですわな。そういうお姫様タイプの方が、歌手と笛吹きには共通して多いと思います。

 それと両者ともに、呼吸を使って楽器を鳴らすせいでしょうか? 声がデカイというイメージがあります。あと、むやみに元気なイメージ…と言うか、快活なイメージがあります。

 そんな共通点があると思います。

 違いは…と言うと、まずは体型かな(笑)。笛吹きは細身の人が割りと多いイメージです。オーケストラは舞台にせよオーケストラピットにせよ狭いですからね。その狭いところに団体さんで参加するわけですし、フルートはオーケストラの真ん中辺りで演奏するわけで、どうしても場所的には手狭なところにいる事になります。そこで太っていたら…居心地悪くて、身の痩せる思いをする事でしょう。一方、歌手は太めの人が多いイメージです。

 また、趣味のアマチュア人で考えるなら、笛吹きは若い人のイメージがあります。学校出たての20代の人がブイブイ活動しているって感じです。一方、アマチュア歌手と言うと、白髪のお姉さま方が中心ですわな。いや、プロでも、実年齢はともかくとして、笛吹きさんは若々しいイメージがありますよね。

 一方、いつもドレスを着ていてゴージャスな感じがするのが歌手であって、笛吹きさんは地味とは言えませんが、ゴージャス感に関しては歌手に負けてしまうと思います。

 そして一番の違いは、真面目さ…かな? とにかく、笛吹きさんは、ほんと、真面目だと思いますよ。練習の虫が多いと思います。それこそ、黙ってコツコツと練習をしているってイメージあります。プロはもちろん、アマチュアの人だって、時間が許す限り、コツコツと笛吹いて練習ばかりしている…でしょ?

 だって、フルートに限らず、器楽って、練習すればするほど上達するし、練習すればするほど難曲の演奏が可能になるわけだからね。それを肌で知っているから、欲があればあるほど、コツコツと練習に励んでしまうわけです。

 一方、歌手は…と言うと…練習しないねえ(笑)。歌の場合は、練習すればするほど上達するわけじゃないし、練習したからと言って、難曲の歌唱が可能になるわけではないからね。出来る事は、ちょっとさらえばすぐに出来るようになるし、出来ないものは、いくら頑張っても無理は無理。器楽と違って、技術の向上ってやつには時間がかかります。今日明日頑張ったからと言って、何も変わらない事ぐらい知っています。だからと言って、サボってばかりいるなら、あっという間に下手くそになってしまうわけですから、ひとまず最低限の練習はするとしても、笛吹きさんのように、年がら年中練習の虫にはなれないわけです。

 歌手の場合、練習し過ぎると、楽器を壊すからね。練習も大切だけれど、休息も大切なのが歌手です。そこが技術向上の際のネックになるわけです。

 さらに言えば、普通の世界では「努力にまさる才能はなし」と言いますが、歌の世界では「才能にまさる努力はなし」という世界なので、そんなにハングリーにはなれないわけです。「他人と較べても仕方がないよね~」と言うのが歌の世界なわけです。だって、誰もが生まれた時に神様から与えられた声という楽器で勝負しないといけないのが歌手の世界なわけです。

 カネさえあれば、いくらでも良い楽器に乗り換えて、どんどん高みを目指していける器楽の人とは、そこが根本的に違うんだと思います。

 歌を歌っていると、カネさえ出せば、いくらでも良い楽器に乗り換えられる器楽の人って、ほんと、うらやましいです。それがしたくても出来ないのが歌手ですからね。ですから、ある意味、歌手の人って、色々と諦めていたり、受け入れていたりするわけで、そんなにギスギスしていないし、ハングリーでもなかったり、マイペースだったりするのは、そんなわけなんだろうと思います。

 でも、実はいつも歌の事ばかり考えているのも、歌手なんだよね。

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2016年2月11日 (木)

押した声で歌わない

 よく声楽のレッスンでは「押した声で歌わない事」あるいは「声を押さないで」と注意されると思います。私の場合、キング先生の元で学んでいた時は、そういう注意を受けなかったけれど、Y先生に変わったばかりの頃は、よく注意されていました。

 注意されて思う事は「声を押すって、どういう事?」です。声って物じゃないから、押すに押せないよね。

 もちろん「声を押す」というのは比喩表現であり、一種のオカルト表現ですが、声楽界では割と普通に使う言葉のようです。そこで、私が注意された状況などを踏まえながら、その内容について考えてみました。

 私の場合、だいたい注意されるのは、高音を歌っている時とか、高音へ行こうとしている時です。そういう時の私の状態を考えてみると…ノドに力が入っている事が多いです。それも多少の力ではなく、過度の力が入って、声がやや割れている事もあります。つまり、ノドに力が入りすぎて、その結果、過度にノドが閉じてしまい、閉じたところから呼気の勢いで無理やりに出した声(苦しげな声に聞こえます)の時に「声を押している」と言われるのだと思います。

 また、吐く息が多すぎたり、強すぎたりして、力づくになっていて、ノドが息に負けている時も、声が割れてしまい「声を押している」と言われがちです。

 声が強いのは良い事ですが、強い事ばかりが目立ち、響きの感じられない直進的な声を出している時も「声を押している」と言われます。

 あと、呼吸が浅い人っているじゃないですか? そういう人が歌うと、やっぱり「声を押している」ように感じます。本人は一生懸命歌っているのですが、呼吸が浅いために、どこか発声に無理があって、そんな感じに聞こえるんだと思います。

 呼吸が浅いと言うのは、カラダの上半身のさらに上の方の部分を重点的に使って行う発声で、いわゆる胸式発声とかそれに類する発声がそうなんだと思います。そういう発声で歌われちゃうと、実に聞いていて苦しげに感じます。

 まあつまり、押した声と言うのは、美しくないわけです。で、美しくない方向が『苦しげ』であったり『乱暴』であったり『割れた声』であったりすると、押していると言われるようです。

 逆に、押していない時の声は…私の場合は必ずしも“美しい声”というわけではないのかもしれませんが、それでもノドが息の流れを邪魔せずに、息が軽々と声に変換されて、楽々と歌っているように聞こえる時の声です。

 ふーむ、なるほど。楽に声を出しているから押さずに済んでいるのか、あるいは押しているから楽な声には聞こえないのか…その因果関係はよく分かりませんが、押した声は発声する側にすればシンドい発声であり、聞いている方からすれば気合が入った声(で不快に感じる声)って事になります。

 となると、高音を出そうとして出しきれずに、怒鳴り声になってしまう人(アマチュア合唱団のテノールに割といるタイプですね)も、声を押している人って事になるだろうし、歌の経験の少ない初心者の方が胸式発声で歌うのも、みんなみんな、押した声で歌う人って事になるのかもしれませんね。

 私の場合は、会場が広かったり、デッドの会場で反響が無かったり、野外だったりすると、たいてい、声を押してしまうようです。また、伴奏にボディのデカいグランドピアノが用いられていたり、腕の良いピアニストさんが伴奏してくれたりと、ピアノの音量が大きめな時、ピアノに負けないように無意識に頑張って、声を押してしまう事もあるようです。

 体調が悪い時、とりわけ、ノド風邪をひいている時も、声を押してしまいます。

 逆に、声を押さないで歌っている時はどんな時なのかと考えてみると…モーツァルトを歌っている時でしょうね。とにかく、押すどころか、ちょっとでも過度にノドに力が入った途端に、歌えなくなるのがモーツァルトですから(笑)。そういう意味では、私がモーツァルトを学ぶ理由というのは、大いにあるのだと思います。

 なるべく、声は押さずに、流れるように歌いたいものです。

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2016年2月10日 (水)

頭の中は、日本、イタリア、ドイツ、アメリカ?

 何の話かと言うと、音名の話です。ほんと、音の名前って呼び方がたくさんあって面倒くさいです。

 まずは我々日本人が日常的に普通に使っているのは、たぶんイタリア語の音名ですね。いわゆる“ドレミ”ってヤツです。

 「ああ、ドレミね。なるほど」と思った人は、まだまだ甘いです。と言うのも、いわゆる“ドレミ”には“固定ド”と“移動ド”があって、我々が普段使っているのは“固定ド”の方です。

 じゃあ“移動ド”って何かと言うと、学校の音楽の時間では“階名”として習ったアレですよ。まあ、ハ長調やイ短調の時は、音名=階名となるので、特に問題はありません。

 しかし、いつも音名と階名が一致しているわけではありません。階名は調性によって変化し、移動するんです。だから“移動ド”なのです。

 例えばヘ長調の場合で考えてみましょう。ヘ長調って“固定ド”のファをドとみなして、ファの音から「ドレミファ~」と読んでいきます。いわゆる階名読みって奴ですね。

 この“移動ド”は学校の音楽の時間だけでなく、クラシック音楽でも、合唱ではよく使われているし、ポピュラーの世界でもよく使われています。と言うのも、相対音感の持ち主にとっては、この“移動ド”と言うのは、感覚的にとてもピッタリと来るらしいのです。ちなみに、絶対音感を持っている人にとっては、固定ドじゃないと混乱するそうですが…。

 今、ヘ長調と何気に書きましたが、このヘ長調の“へ”は日本語です。音名をイロハで表しているわけです。“ドレミファソラシド”は、日本語では“ハニホヘトイロハ”になりますので、ハがドで、へはファに当たります。昔々は、結構よく使われたそうですが、現代では調性を表す時に使われるくらいです。

 現在、日本のクラシック音楽業界で一番多く使われているのは、ドイツ語でしょう。C(ツェー)がドになります。ですから、ドイツ語でドレミを順に書けば、C(ツェー)、D(デー)、E(エー)、F(エフ)、G(ゲー)、A(アー)、H(ハー)となります。ちなみにB(ベー)はシ♭になります。

 一方、ポピュラー音楽業界でよく使われているのが英語です。英語でドレミを順に書けば、C(シー)、D(ディー)、E(イー)、F(エフ)、G(ジー)、A(エー)、B(ビー)となります。パッと見で、英語はドイツ語とほとんど同じに見えますが、英語とドイツ語ではBの指す音程が違っています。また表記は同じでも「エー」は英語ではAですが、ドイツ語ではEにあります。案外、ややこしいのです。また、英語では、音名表記とコード表記が基本一緒ですから、Cと書いた時に、ドという音程を表しているか、それともドレミという和音を表しているかは、文脈で判断しないといけません。

 なんか、あれこれあって、面倒くさいです。私的には、すべてを固定ドで表現したいのですが、臨時記号(♯や♭)が付いた時の呼び方が、固定ドでは、もたもたしているので、クラシックの方々がドイツ語を使ってしまうのも理解します。

 じゃあ、ドイツ語で統一すれば…と思っても、ドイツ語の日本語におけるシェアって、そんなに多くないんですよね。おそらく、ドレミのイタリア語に追いつかないのはもちろん、英語にも負けちゃうんじゃないかな? やっぱ英語は強い言語だからね。

 そんなわけで、我がブログでの音名表記は、これらの言語による表記がゴッチャゴッチャになっているのは、そんなわけだからです。

 失礼しました。

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2016年2月 9日 (火)

メトのライブビューイングで「真珠採り」を見てきました

 先日、ビゼーが作曲したマイナーオペラ(笑)である「真珠採り」を、メトロポリタン歌劇場のライブビューイング上映で見てきました。

 ビゼーのオペラというと「カルメン」が有名です。あまりに「カルメン」ばかりが有名で、ビゼーの事を“「カルメン」だけの一発屋作曲家”だと誤解している人も少なからずいるようですが、そもそもを言えば、ビゼーはオペラ作曲家なのです。ですから、当然「カルメン」以外にも、オペラやオペレッタは書いているわけだし、カタログ的には「カルメン」以外にも「真珠採り」とか「美しきパースの娘」などが彼の代表作として上げられています。さらに言えば「アルルの女」のような劇付随音楽(今で言う“サントラ”です)も書いてます。ビゼーって、実になかなかな作曲家なのです。

 しかし、やっぱりビゼーは「カルメン」なんですよ。この「カルメン」があまりに名作過ぎて、この作品ばかりが上演され、その他のオペラ作品が実際の歌劇場で上演される事は、めったにないのです。

 実際「真珠採り」というオペラは、オペラ作品として歌劇場で上演される事は、めったにありませんが、アリアや二重唱は、オペラ歌手のコンサートなどではよく取り上げられるし、アリア集等の楽譜でも、このオペラのアリアはよく収録されるほどに有名ではあります。とりわけ、テノールアリアである「耳に残るは君の歌声」は「真珠採りのタンゴ」としてポピュラーソングとしてリメイクされているくらいに有名なアリアです。

 つまりビゼーの「真珠採り」は、アリアや二重唱は有名だけれど、オペラ全曲の上演は滅多にしないというタイプのオペラです。似たようなタイプのオペラに、チレア作曲の「アルルの女」とか、マスカーニ作曲の「友人フリッツ」などがあげられます。「アルルの女」はテノールアリアである「フェデリコの嘆き」ばかりが歌われますし、「友人フリッツ」は「さくらんぼの二重唱」ばかりが歌われます。

 そんな、滅多にオペラ上演されない「真珠採り」をメトが上演し、それをライブビューイングで流すというのですから、コレを見に行かないと言う手はありえないわけです。

 実際、メトでは、このオペラ、100年ぶりの上演なんだそうです。いやあ、ほんと、久しぶりなんですね。ちなみに、前回のテノールは、エンリコ・カルーソーだったそうで…もはや伝説の領域だよなあ。

 で、そのメトの「真珠採り」の上演ですが、これがなかなか良かったんですよ。さすがはビゼーと言うべきでしょう、ほぼ捨て曲無し! どの場面で切り取っても、素敵な音楽なんだな、これが。演出もなかなかに手が込んでいて、素晴らしかったです。本来の時代設定はいつだか知らないけれど、今回の上演版では、時代は現代で、ズルガのオフィスには、普通にテレビや冷蔵庫にパソコンがありました。

 あえて言えば、ストーリーは陳腐と言うか、まあオペラ台本にありそうな、テノールとバリトンの恋の鞘当て物語で、良くもなければ悪くもなしというわけで、なぜこの作品が100年もの間、お蔵に入っていたのかを考えた場合、少なくとも、陳腐な脚本のせいではないだろうと思ったくらいに、平凡なストーリーだったわけです。

 じゃあ、100年にも渡るお蔵入りとなった原因はどこにあるのか…と言えば、私が思うに原因は2つ。“歌唱の難易度”と“舞台装置”じゃないかって思います。

 まず最初の“歌唱の難易度”だけれど、この「真珠採り」で歌われる数々の歌は、実にメロディアスで美しい反面、私のような素人が聞いても「こりゃあ、歌うのが大変だなあ」と看破できるほどに、分かりやすい難曲揃いなんですよ。特にソプラノとテノールは大変だと思います。ソプラノは、椿姫を歌い切るような、パワーのあるコロラトゥーラじゃないと厳しいし、テノールは、ドニゼッティやベッリーニを歌えるような超高音を持った歌手じゃないと厳しいです。今の時代だから、そういったソプラノやテノールも揃えられるけれど、ちょっと前までのオペラ界では、そういった声種の歌手は極めて少なかったわけで、そりゃあ、なかなか歌劇場での上演に至らなかったというのも分かります。

 また、舞台装置の難しさだけれど、とにかく他のオペラと共通点がなさすぎるのが、まず問題でしょう。オリジナルの設定に合わせるならば、オペラの舞台となる場所はセイロン島。つまり、現在のスリランカの港町というわけで、いわゆるインド文化圏なんだけれど、普通のオペラ劇場には、インドっぽい大道具とかインドっぽい衣装とか皆無でしょ? このオペラを上演するためだけに、これらのインドっぽいモノを揃えないといけないとするなら、そりゃあ、かなりの負担になるわけです。

 それと、第二幕の終結部の嵐をどう表現するかは、演出上の難問でしょうね。まさか舞台上に強風を吹かせて、大道具をふっとばすわけにはいかないわけだし、この嵐は、ズルガの心情を表現しているわけだから、省くわけにはいかないし…メトではプロジェクションマッピングを効果的に用いて、嵐の場面を表現していたけれど、やはりこの手の近代装置を使わないと、この場面の演出は難しいかもしれません。

 と言うわけで、21世紀になって、色々な環境が揃ってきたおかげで、上演可能なオペラ作品として復活してきた「真珠採り」だったわけです。

 出演者たちに触れましょう。

 主人公の“真珠採り”である、バリトンのズルガを歌ったのはマリウシュ・グヴィエチェンでした。物語の要を担う役であり、歌手としての力量はもちろん、俳優としての力もためされる役です。だいたい、ストーリー自体が陳腐なので、ズルガ役の演技次第で、このオペラが物語として鑑賞に耐えられるものになるかが決まってくるので、そう言った意味で、とても大切な役でしたが、見事にズルガを演じていたと思います。

 ソプラノのレイラを歌ったのがディアナ・ダムラウで、この人がメトの支配人であるピーター・ゲルブに“「真珠採り」を歌いたい”と持ちかけて、今回の復活公演にまでこぎつけさせた張本人だったそうです。つまり、ダムラウがいたから「真珠採り」が復活できたわけで、それもあったせいか、実に役にハマった演技をしていました。

 ナディールを歌ったテノールのマシュー・ポレンザーニは、歌は良かったのですが、気になったのは、彼の両腕の刺青。あれはナディールという役だから付けている特殊メイクなのか、ポレンザーニ自身の刺青なのか…ですが、別にナディールという役は、刺青がなければならないという役ではなく(ってか、ナディールに刺青を入れる理由が分かりません)、序曲の潜水場面で、海中で真珠を採るナディール(つまりポレンザーニの代役)をやったバレエダンサーも同じ刺青を入れていたので、役柄として入れている刺青なのかもしれませんが、本当に目障りな刺青で、ナディールが出てくるたびに、私の視線と気持ちはナディールの刺青に集中してしまい、ロクに歌も聞けなければ、芝居も見ることができませんでした。

 あの刺青が特殊メイクなのだとしたら、演出家の意図が分かりません。

 まあ、それはさておき、100年お蔵入りしていたオペラだから、どれくらいヒドイオペラかと期待して見に行った私ですが、見終わった感想は、そんなに悪くなかったですよ。オペラとしての出来は上々だし、また見に行ってもいいくらいには満足しました。うん、悪くないですよ。さすがはビゼーだなって思いました。

 でも「カルメン」とどっちが素晴らしい作品かと言えば、「カルメン」の完勝だな。それは「真珠採り」がダメな作品というよりも「カルメン」が素晴らしすぎる作品だから…という事になります。ですから、劇場が「何かビゼーの作品を上演しよう…」と考えれば、どうしても「真珠採り」ではなく「カルメン」になってしまうのは、仕方のない事です。

 でもね、ドニゼッティやベッリーニのオペラを楽しめる人なら、きっと「真珠採り」も楽しめる作品だと思いますよ。そのくらいには、面白いと思います。

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2016年2月 8日 (月)

歌声で話すとは(なぜ歌手は話し声が美しいのか)

 歌を習い始め頃、当時の先生(このブログによく登場するキング先生ではありませんよ:念のため)に言われたのは「普段から、歌声で話しましょう」って事です。ほんと、どの先生も判で押したように、そう言うんですよね。

 でも言われた方としては「歌声で話すって…どういう事?」と、疑問しか浮かびません。

 それでもなんとか「歌声で話す」というイメージをアレコレ頭の中で思い浮かべると…アリアを歌い上げている歌手の歌声で話す? 「うわーっ!」って大声張り上げて歌っているイメージ? この声で話すわけ? でも、そんな人いないし、そんな事できるわけないし…となると、どう考えても雄叫びをあげながら話すのが「歌声で話す」という事ではないよね。

 ならば、世間で言うところの“オペラ声”で話す事かな? オペラ声と言うのは、張りがあるけれど、ちょっとクチの中にこもった感じの声? でも滑舌は割と良いんだけれど、何となく、日本語とは違う感じの発声をする声の事を言う…で合っていると思うのだけれど、まあ、これは全くのハズレではないだろうけれど、アタリとも言えないような気がします。だいたい、これをそのまま行ったら、かなり変だよね。あまりに、日常っぽくない話し方になります。まるで、舞台演劇の役者さんそのものだよね。あれは舞台だから許容されるわけで、常日頃からあんなしゃべり方する人、当の役者さんですらしないじゃん。

 あれこれあれこれ、色々と考えた挙句、私がたどり着いた「歌声で話す」というのは、『しっかりと声を息で支えて、口腔内を大きく広げて、母音をクチビルでなく舌で構音して』話す事ではないかという事です。つまり、発声のメカニズムを歌声のそれと同じにして話す事が「歌声で話す」事ではないのかってわけです。

 たぶん、大きく外れていない答えなのではないかと思います。

 この発声方法でしゃべると、普通の話し声と較べて、やや声の通りが良くなり、やや滑舌が良くなり、ややうるさい声になる程度で、もちろん、その人の普段の話し声とは変わってしまいますが、だからと言って、話し声としては違和感はあまりなく「こんな声の人もいるよな」程度の声になると思います。

 「歌声で話す」ために気をつけないといけないのは…まずは声を支えるために、普段から腹筋を入れて生活していく事かな? インナーマッスルが強い人なら、別にそんなことは日常茶飯だから何とも無いでしょうが、私のような体幹の弱めの方は、腹筋を入れて生きていくなんて、ほんとシンドイです。ここが最初の鬼門になるかな?

 普段から腹筋を入れているだけで、だいぶ歌声っぽい感じの話し声になると思いますが、さらに歌声っぽくするなら、常に気分は“高貴な感じ”でいる事が大切かもしれません。女性ならお姫様気分で、男性なら執事長(あれ、高貴じゃない!)にでもなった感じで、落ち着きながらも、ちょっと甲高い声で、他人を教え諭す…と言うか、上から目線で指図するような…と言うか、いかにも慇懃無礼な…と言うか、なんかそんな感じ(笑)で話すと、自然と口腔内が広くなると思いますよ。あくまでも、お姫様気分で話すのは、口腔内を広く保つためであって、実際に“上から目線な”態度で他人と接すると嫌われてしまうので注意が必要です。大切なのは、話し方とか発声方法だけ“上から目線”で話す事です。何はともあれ、『声のポジションを高く保つ』であったり『声を上から出す』と、口腔内が広がり、歌声っぽく聞こえるかもしれません。

 母音をクチビルでなく舌で構音するためにイメージするのは、腹話術です。腹話術師にでもなった気分で話すといいのかもしれません。となると…高貴な腹話術師気分って感じでしょうか!

 腹話術での話し方は、クチビルをほとんど使わずに、たいていの音を舌だけで構音するやり方です。ですから、腹話術では子音も舌で構音しますが、歌うように話すためには、母音を舌で構音する必要はありますが、子音はそこまでやる必要はないので、普通にクチビル等を使用して構音すればいいと思います。

 で、歌手の皆さんは普段から歌っていて、声を息で支えるとか、口腔内を大きく広げるとか、母音を舌で構音するとかの行為が身についているので、話し声も美しく、セリフ入のオペラであっても、歌だけでなく、セリフ部分も美しい声で語れるのだろうと思います。

 私は声が美しくない人なので、本当は日頃から歌うように話すことで、少しでも美声にたどり着けるように努力すべきなんだろうなあと思います…が、体幹が弱くて、すぐに弱音を吐いてしまうので、なかなか歌うように話すことが身につかないのでした。

 チャンチャン。

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2016年2月 7日 (日)

続・あなたの“おふくろの味”って何ですか?

 先々週、私の“おふくろの味”である『しらす飯』について書きましたが、それを書き終えてから「そう言えば、しらす飯ほどではないけれど、郷愁をそそられる“おふくろの味”が、まだあるなあ…」と思いつきましたので、今回は、それらについて、簡単に触れてみたいと思います。

 しらす飯ほどではないけれど、それでも我が家の食卓にやたらと登場し、いまでも懐かしく感じるものに『いなり寿司』があります。母が甘辛く煮込んだ油揚げに、ただの酢飯を詰め込んだだけの、やたらとシンプルで安価な食事です。たぶん、これも給料日前のメニューの一つだったと思いますが、しらす飯ほどピンチではない時に出されたんだと思います。だって、油揚げって、しらすよりもずっとずっと高価だからね。

 まあ、子どもの頃は、家計なんて考えもしないから、いくらビンボー飯でも全然平気でした。それに私、酢飯って大好きだったから、いなり寿司が出てくると嬉しかったです。

 それと、いなり寿司の時には、必ず、付け合せがあって、トリの手羽の(唐揚げじゃなくて)素揚げが添えられました。“酢飯+油揚げ肉”なんて、最強のメニューだよね。ほんと、私、大好きでしたよ。

 逆に、しらす飯も食べられないほどピンチだったんだと思うのですが、今考えると、びっくりするようなメニューも普通に食べていて、なんか今では懐かしく感じます。

 たとえば、醤油飯(笑)。いやほんと、母が「今日のおかずは塩と醤油とどっちがいい?」と尋ねると、私は決まって「醤油!」と答えていました。それくらい、子どもの頃は醤油が好きだったわけですね。醤油飯と言うのは、料理としては、これ以上はないくらいシンプルな料理で、炊きたてのご飯に醤油をぶっかけるだけ。これがまた美味しいんだよね。

 結婚して、ある日、一人で醤油飯を食べてたら「カラダを壊すから、やめて!」と、妻に叱られました。別に私はモノゴゴロが付く前から日常的に食べているので、全然平気なんだけれど(笑)。まあ、それ以来、醤油飯は妻の目を盗んで食べるようになりましたので…その味は別格だったりします(笑)。

 醤油飯って、醤油の味をシンプルに楽しめる、なかなかの料理なんですよ。ちなみ、うどんに汁ではなく、醤油だけをぶっかけた“醤油うどん”も大好きな私です。(ラーメンや日本そばは、醤油をぶっかけただけでは美味くなりません:笑)

 あと『揚げパン』も大好きだったなあ。母の揚げパンはスティック状で、砂糖がこれでもかと、まぶしてあって、実に美味かったです。ちなみに、なぜスティック状なのかと言うと、材料が“パンの耳”だったからです。

 子供の頃、母が私に「○○屋さんに行って、パンの耳をもらっておいで!」と命じると、私はヒョコヒョコと出かけて、パンの耳をもらってきたので、よく覚えてます。○○屋さんとは、サンドイッチを売っているようなパン屋さんね。おそらく、パンの耳ってのは、サンドイッチを作る過程で出てくる“産業廃棄物”の一種で、パン屋にとってはゴミだったんでしょうね。なので「ください」と言えば、いくらでもタダでもらえましたが、たぶん子どもを使いに出させたところを見るに、さすがの母も、タダでもらってくるのは恥ずかしかったのかもしれません。

 そうそう、当時の商店って、結構タダで色々なものをくれましたね。パン屋のパンの耳もそうでしたが、豆腐屋に行けばオカラがもらえたし、八百屋に行くナッパの切れ端がもらえたし、魚屋に行くとブリのアラとか血合いとかもらえたし、魚の中骨とかも、もらえたよ。家計がピンチになると、結構、あっちこっちのお店からのいただきもので生活してました…今考えると、ほんと、我が家って貧乏だったんだなあって思います。

 食生活とは少し離れますが、なにしろ私、子どもの頃はほぼ裸で生活してました。我が家には、子どもに服を買ってやる余裕もなかったのかもしれません。夏場なんか、学校にもランニングシャツ一枚で通ってましたからね。そんなガキは、昭和と言えども、さすがに私だけでしたけれど(笑)。

 そんなに貧乏なのに、子どもにひもじい思いをさせずに育ててくれたんだから、母はなかなか立派な親だったんだなって思います。もう、死んじゃったけれどね。

蛇足  時々テレビに出てくる「貧乏生活をほめたたえる」タイプの意識高い系のコメンテーターを見ると、ぶん殴りたくなります。貧乏生活が楽しいわけないじゃん。貧乏ってのは、人生が壁だらけなんだよ。どこにも行けず、何も出来ず、毎日が閉塞感の中で生きていくんだよ。そんな生活をほめたたえる意識高い系のコメンテーターってヤツを見ると、ほんと、ぶん殴りたくなります。貧乏生活に良いことなんて、一つもないです。断言できますよ。おそらく、世界中の貧乏人が同じことを思っているでしょうね、ぷんぷん。

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2016年2月 6日 (土)

なんか違う。どうにも違う。

 今、我が家の水槽にいる子たちは、全員、我が家で冬を越すのが始めてです。

 金魚って、頭の弱い生き物のように思えますし、実際、さほど賢い生き物でもないのですが、それでも先輩がいれば、先輩金魚からその水槽でのお作法やら行動パターンやらを学ぶというスタイルがあって、今までも金魚のメンバーは変われど、水槽内の流儀とかルールとかは同じでした。

 それが可能だったのは、今までも、何度でも、水槽の中で金魚たちは入れ替わってきましたが、それでも必ず誰かが残っていて、残っていた先輩金魚たちが、新入りたちから一目置かれて、水槽のボスになり、我が家の水槽の伝統のようなものを、次の世代の子たちに伝えてきた…という事実があります。

 それが我が家の水槽の特徴になっていたんです。でも、その風潮も少し変わってきたようで、我が家の水槽の伝統が、どうやら昨年で途絶えてしまったようなんですね。

 と言うのも、昨年水槽のメンバーが大規模な入れ替えがあり、昨年のお正月にいた子たちは、今年のお正月に誰もいませんでした。それも徐々にではなく、短期間でいきなりの交代だったのです。

 前の子たちは、昨年の春までにはオタキサンを除いて続けて星になり、そこで一気にメンバーチェンジが行われました。前の世代の唯一の生き残りであるオタキサンが、前の子たちと今の子たちを繋ぐ役割を果たすことになりましたが…いきなり、大幅メンバーチェンジがあったためか、新しい子たちが新しい子たちだけで結束し、本来は王様になるはずだったオタキサンが、どうやら新しい子たちの集団からハブられ、そのためでしょうか、結局、半年ほどで他の子たちの後を追ってしまいました。

 それゆえ、オタキサンを経由して伝えられるはずだった、我が家の水槽の伝統が、そこで途切れる事になりました。

 ですから、今の水槽の子たちの活動を見ていると、今までにはなかった行動パターンが満載で、それはそれで面白いですよ。エサのねだり方も違うし、玉座も存在しないし、巨大魚もいないし、金魚たちに上下関係がないみたいだし…。

 ここのところの観察で面白いなあと思っているのは、冬場で水温が下がっているという事もありますが、金魚たちの活動が不活性になり、夜間はみんな水底に沈んで寝ているんです。

 魚類って、哺乳類と違って、寝なくても平気だし、寝るにしても、我々的に言えば“うたた寝”で十分なんです。ですから、普通は活動しながら(つまり泳ぎながら)寝るものなのです。それが普通の魚類の生き方です。だから哺乳類のように熟睡する子というのは、体調が悪くて、起きていられない子だけ…と言うのが、今までの子たちの生活パターンでした。ところが、今の子たちは、なんなんでしょう、そういう魚類としての生き方をあっさり捨てて、素直に夜は熟睡しているんですよ。

 おそらく、魚類は、寝なくても平気なんでしょうが、低水温には抗い難く、活動が不活発になる生き物で、水温が下がると、冬眠に近い状態になるもの…と理解しますが、我が家の水槽が、冬眠するほど水温が低いわけないじゃん。

 その証拠に、金魚は熟睡しても、メダカは元気よく、ビュービュー泳ぎまくってますよ。だから、金魚たちが熟睡するのは、低水温だけが原因ではないのです。

 おそらくは、根性の問題じゃないかと私は思ってます。今までの子たちは、低水温で活動が不活発になっても、根性出して、泳ぎながら寝ていたんだと思います。で、体調不良で根性出せない子だけが水底で熟睡モードに突入していたのだと思います。しかし、今の子たちは、元気な子まで、夜になると「おやすみなさい」ってな感じで、一斉に水底で熟睡モードに突入します。

 それもだいたい、夜10時ぐらいに一斉に寝ます。で、だいたい朝の4時過ぎに目覚めるようです。これは、水槽が置いてある居間に人間がいてもいなくも、だいたい同じパターンです。つまり人間の生活に金魚が合わせて活動しているのではなく、自分たちルールで生活しているって事です。金魚のくせに、なんかやたらと、生活リズムがきちんとしているんですよ、今の子たちは!

 今までは、水底で熟睡する子なんて、少ししかいなくて、みんな泳ぎ寝をしていたし、人間が居間にいる時は、みんな冬でも活発に活動していて、人間が居間からいなくなると、不寝番をたてて、順番に休息をとっていたそのですが、今は人間がいようがいなかろうが関係なく、時間になれば、みんな一斉に就寝して、だれも不寝番をやらないんですよ。

 なんか違う。どうにも違う。そんな事を思う私でした。

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2016年2月 5日 (金)

臨時記号に迷う年頃です

 三週間ぶりに、フルートのレッスンに行ってきました。先生の都合(入院&手術)で1回、私の本業が忙しすぎて1回って休んでしまったので、久しぶりのレッスンです。

 それにしても、最近は、ほんと、本業が忙しくて、なかなかフルートのレッスンにも行けないし、自宅での練習もままなりません。先日、私のフルートを見ていたら、フルート管体に変な曇り方(サビです)がある事に気づきました。放置する事が多くて、愛情をそそいでやれなかったので、サビちゃったみたいです。銀のサビには「白サビ」と「黒サビ」がありますが、私が見つけたのは、黄色っぽいサビです。茶色に近い黄色でテカテカした感じのサビです。全体がこのサビで覆われたら、ゴールドフルートみたいでカッコいいなあ…なんて思ってしまいました(笑)。

 それはさておき、三週間ぶりで、極端な練習不足でしたが、ロングトーン練習はかなり上手に出来ました。やっぱり、色々積み上げてきたものは、少々休んでも何とかなるみたいです。

 さて、エルステ・ユーブンゲンは14番です。音階をベースとしたメロディなので、曖昧な暗譜でも何とかなるかも…と期待しましたが、やっぱり甘かったです。やはり、ところどころ記憶にモヤがかかっていて…、まあ次回にご期待です。15番は当然、暗譜なんてしておりません。

 プチ・エチュードは13番ですが、実にたどたどしい演奏しかできませんでした。譜読みがまだきちんと出来ていなくて、臨時記号がやたらと出てくるのですが、そこがなんともうまくいきません。h-molなので、ただでさえややこしいのに、B#とかE#とかA#とかが、ナチュラルな音と混ざって出てくるんだから、演奏しながら迷子になってしまいます。譜読みをきちんとして、よくよく吹き込んでくれば、間違えずに済むのでしょうが、とにかく練習が決定的に不足しているので、あっちこっちで演奏が止まって、先生に叱られどうしでした。

 いい年したオトナだけど、あんまり出来なくて、不甲斐なくて、泣いちゃいそうになりました。もちろん、オジサンが泣いても見苦しいだけなので、実際には泣きませんが、もしも私が可憐な乙女だったら、ポロポロ泣いていただろうなあ…。それぐらい、追い込まれました(自業自得だけどな)。

 譜読みもダメでしたが、前打音をもっと鋭く短く演奏する事も注意されどうしでした。いやあ、つらかった。

 さて、雑談です。今、世間ではボツボツと入試のシーズンとなりました。受験生の皆さんは、これから本番を迎える方も大勢いらっしゃっていると思います。

 で、大学受験の話から「日本には音大の数が多すぎませんか? 毎年毎年、そんなにたくさんの卒業生を出して、どーするんですか」という話になりました。結論はいつものように「経営のためには、たくさん生徒を入学させなきゃならなくて、たくさん入学させたら、たくさん卒業させなきゃならない」という、身も蓋もない結論になりました。

 「どこの学校でも、首席の子ぐらいしかプロになれないのに…。分かっているのに、あんなにたくさん入学させて…ほんと、罪だよね」って話になりました。とにかく、あまりに音大卒業生の数が多すぎて、実力もロクにないのに『音大卒』の資格を持っている人が多いのです。

 音大出ているだけで、自分の専攻楽器ですら、きちんと演奏できない人も大勢いるわけだし、演奏は出来ても他人を指導することはできない人も大勢いるわけで、音大卒と言えども、どうにも音楽の世界では、生きていかれない人がたくさんいるのだそうですし、他業種へ転向して就職と言っても、なかなかツブシがきかないのが音大卒なんだそうです。

 そのため、音大を卒業して、音楽家として、ちゃんとした実力を持っている人でも、音大卒者の圧倒的な数の中に埋もれてしまって、なかなかチャンスもつかめず(力がありながら)音楽の道で食べていけない人が出てしまっているのも、現状なんだそうです。

 「ドイツのように、音楽家も免許制にして、演奏するにも免許が必要にして、教えるにも免許が必要にしちゃえばいいだ」とかいう話になるわけです。まあ、確かに法学部を卒業したら全員が法曹界で働けるわけではなく、医学部を卒業したからと言って全員が医者になれるわけではないのです。きちんと司法試験なり医師国家試験なりを合格して資格を得てから、さらに修行を重ねて、その道のプロになっていくわけです。音楽家も、同じように免許制にして、音大を卒業したら、免許を取得して、きちんとした実力のある人だけに、音楽の仕事のチャンスが与えられるようになれば、ロクでもない子がプロぶる事もできず、もっと仕事を効率よく回していけるんじゃないかって事になりました。

 でもね、この話も、一見良さそうですが、実は全然現実味がないんですよね。と言うのも、これをやっちゃうと、実力が不足していても、なんとか頑張っている人たちが露頭に迷ってしまうわけで、それはちょっと罪深い事なのかもしれません。20代の若者ならともかく、40代ぐらいになって、自分の教室をビジネス的に成功させている人に「あなたは音楽演奏の実力がないので、免許発行できませんから、廃業してください」とは言えませんからね。それはきびしいです。それにだいたい、演奏家としての能力と、ビジネスマンとしの能力は、全然別だしね。

 それに現実的には、音大卒という資格が、音楽家としての免許みたいなモノになっているのが、我が国の通例だしね。

 まあ、音楽家としての腕前がダメダメでも、それで誰かを殺すわけでもなければ、傷つけるわけでもない。そこは医者や弁護士とは違うわけです。音楽家の資格を国家資格なんかできちんとしなくても、世間には悪影響は与えませんからね。やっぱりわざわざ免許制度にするのは、大変だと思います。

 でも、それはそうとして、専門教育をきちんと受けて、専門家としての力を身につけて、本人もその世界で働くことを希望しているのに、その職業につけない現実があるのだとしたら、専門家の養成方法や、若手を業界に迎える方法に、問題がある事は、言えるんでしょうね。

 結論は、日本には音大の数が多すぎる事が問題なのかもしれないね…って、話が振り出しに戻っちゃいましたね。

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2016年2月 4日 (木)

勉強会が終わりました

 先日、声楽Y門下の新年会兼勉強会が行われました。非公開の催しだったので、こちらでは特別なアナウンスはしませんでした。

 今年のピアニストさんは、いつものピアニストさんではない…という事で、私が歌う曲は事前にピアニストさんに渡しておいたのですが、そのピアニストさんが急にお体の具合を悪くされたと言う事で、急遽ピアニストさんが交代することになり、色々と都合をつけられて、いつものピアニストさんに落ち着いたのですが…私の歌う曲は2曲ともポピュラー曲であるという理由で、ちょっとピアニストさんの手には負えない(純クラシック系の伴奏ピアニストさんなんです)かもしれないという事で、急遽、ソプラノのF先生がじっくりと練習をして伴奏してくださる事になりました。ありがたい事です。

 F先生もピアノはかなりお上手な方なのですが、やはりクラシックピアノの人なので、初見ではポピュラーには対応できない…というので、じっくり練習してくださるという事なのですが、私の歌う曲なんて、楽譜を見ると、結構スカスカで簡単そうに見えますが、やはり音楽ジャンルが違うと、色々と厳しいようで、同じピアノと言っても、クラシックとポピュラーって、相当に違うみたいなので、そんな感じになりました。

 今回の勉強会の会場は、40席しかありませんが、きれいで立派な音楽ホールでした。ピアノもスタンウェイなんですよ。音の響きもなかなか良くて、とても歌いやすいのです。

  勉強会は午後からだったので、朝はゆっくりと起きて、昼ごろ、ノコノコと会場に出向きました。今回の私はソロ曲だけを歌います。本来なら、妻と二重唱をするのですが、今回は同日の別場所(横浜みなとみらいホールなんだな、これが)で息子くんが合唱で歌うので、両親ともに欠席というのはマズかろうと言うので、妻がそちらに向かう事にしたところ、勉強会の一週間ほど前から、ノドを腫らしてゲホゲホし始めたので、もしも息子くんの件がなくても、勉強会では歌えなかったと思います。まあ、それって不幸中の幸いって奴かもね。

 さて、会場について、本日の参加者(自由参加なんです)が集まったところで、歌う順番をくじ引きで決めます。一人2曲ずつですから、順番が2周するわけで、私の1周目の出番は1番目、つまり切り込み隊長をやり、2周目の出番は四番目という真ん中あたり(今回の参加者は9名です)という、まあまあの順番でした。

 なお、このブログの愛読者さんでもあるgenkinogenは私と同門なのですが、当日は見学だけで歌うつもりはなかったようですが、そこは皆さんがプレッシャーをかけて、2周目の私の後に1曲だけ歌うことにしました。

 さて、私の最初の曲は、映画『マイ・フェア・レディ』の中の、有名なテノールのソングの「On The Street Where You Live/君住む街角」です。作曲はフレデリック・ロウです。本来ならば、間奏が入る位置やリピートする場所とかを、色々と考えて歌いたいものですが、この勉強会には事前のピアノ合わせがありませんので、そこは単純明快に楽譜に書いてあるとおりに歌う事にしました(ポピュラーの世界では、楽譜通りに歌うのは誉められた事ではありません)。直前に色々と言って、トラブルを招くのは避けなければなりませんからね。で、どんな感じになったのかと言えば、こんな感じになりました。

 テンポは「映画のテンポで!」という指示で始めたら、F先生のテンポの軽快な事軽快な事、あまりに軽快な出だしだったので、歌の入りでドジりました(分かるかな?)。おまけに、2番の後半では肝心な箇所で歌詞噛んでいるし…。まあ、そういうところはご愛嬌って感じで許してください。私にとっては、ちょっと低い調なので、楽に歌えるのはいいのですが、終始、声がピアノに負け続けているのが、ちょっぴり悔しいです(笑)。

 勉強会は発表会と違って、事前のピアノ合わせは無し、服装は平服、楽譜のガン見あり、というカジュアルな雰囲気の発表会で、何を歌ってもいいという事になっていますので、私はレッスンには持っていけないようなポピュラー・ソングを、今回歌ってみたわけです。他の皆さんは、だいたい、レッスンで歌ったことのある曲を持ち寄ってきた(勉強会の趣旨的にはそっちの方が正しいかも)わけですが、いやあ、みなさん、大曲を持ってきますね。もちろん、当日、現地入りしてから選曲していた人もいましたが…。それくらいカジュアルって事です。

 今回の2曲目は、モリコーネ作曲の「Nella Fantasia/ネッラ・ファンタジア」です。

 この曲は、1986年に公開された映画『ミッション』の中で印象的に使われていたオーボエ曲「ガブリエルのオーボエ」に感動したサラ・ブライトマンが、作曲家を口説き落として歌曲化し、1998年に自身のアルバムで発表した曲です。ですから、オリジナル歌手はサラ・ブライトマンとなりますが、ソプラノ歌手がオリジナル歌手であるにも関わらず、歌曲化以降、この曲はテノール歌手たちによって歌われてきました。21世紀になって以来、テノール歌手たちが吹き込む、クラシック・クロスオーバー系のアルバムには、必ず収録されると言っていいほどの定番曲となりました。

 そんな有名曲を歌ってみました。

 「On The Street Where You Live/君住む街角」と較べて難しい曲なので、歌っている時も終始気が張っているので、目立ったミスをせずに歌えたと思いますが、やはり事前のピアノ合わせがなかったためか、あっちこっちで歌とピアノがズレていますね。私的には、すごく気持ち悪いのですが、皆さんが聞いた感じでは、どうでしょうか? ピアノの件は横に置いたとしても、ミスが無きゃ良い歌なのかと言えば、当然違うんだけれどね。はあ~。

 ああ、それにしても、歌い足りない! 妻の都合が良ければ二重唱を歌いたかったし、私の持ち時間はまだ余裕があるので、本当ならもう一曲チャレンジしてみたかったなあ…。まあ、わがままだけれどね。

 あああああ~、私の次に歌ったgenkinogenさんの声の美しい事…。なんかもう、悔しいを通り越して、うらやましいです。いいなあ、あんなに丸い声が出せて…。私はただの露払いじゃん、前座じゃん。

 ちなみにgenkinogenさんへ。私の後に歌われたから、連続して録音したので音源ありますよ。もしよかったら、ご連絡ください。

 とりあえず、今年の勉強会はこんな感じでした。来年の勉強会では、何を歌いましょうか? いやいや、その前に発表会の事を考え始めないとね。今年の発表会は会場が押さえられないため未定ですが、夏~秋あたりになりそうですから、ぼちぼちと考えておかないといけませんね。

 頑張りますよ。

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2016年2月 3日 (水)

ひとまず、モーツァルト終了!

 声楽のレッスンの続きです。

 まずは新曲となるレオンカヴァッロ作曲「Mattinata/マッティナータ(朝の歌)」からです。

 先生がおもむろに弾き始めたピアノに合わせて歌い出したら…いやあ、ピアノが速い速い。とてもじゃないけれど、追いつけなかったので、先生に「もう少し、ゆっくりでお願いします」と言っちゃいました。

 いやあ、ほんと、歌っている時は、先生のピアノが速く感じたんですよ。でも、後で録音を聞いてみたら、先生の最初のテンポが正解で、私がリクエストしたテンポでは、あまりに遅すぎました。先生曰く「このテンポでは、まるでセレナータですよ。朝の歌ですから、もっとテンポよく行きましょう」と言われましたので、頑張って、テンポアップして歌うことにしました。

 歌い込みが足りていないので、クチがあれこれ回らずに苦労しましたが、歌そのものには、さほど苦労はしませんでした。まあ、ひとまず楽譜通りには歌えるって感じです。

 でもね、楽譜通りに歌えるだけじゃ、音楽にはならないんですよね。そこに人間として、色々と気持ちとか感情とかをブチ込まないとダメなんですよ。先生はそこに関して「“何か”ください!」と言ってきます。それも、1フレーズごと、にね。ちょっと歌っては「“何か”ください」「そこにも“何か”ください」とおねだりしてきます(笑)。とにかく、事あるごとに“何か”を出しなさいと言ってきます。

 テノールがテノール用の曲を歌っているのだから、ある意味、当然と言えば当然のご所望なわけです。テノールって、歌手として花形だし、花形だからこそ“華”のある歌を歌わなきゃダメですからね。

 特に曲の最後の最後に出てくる“l'amor”に関しては、ありったけの“何か”をぶち込みなさいってわけです。

 それとブレスは、楽譜に“v”と書かれているモノよりも“(v)”で書かれている方で歌うように言われました。つまり、標準位置に置かれたブレス記号ではなく、ちょっと変則的に置かれた記号で歌いましょうって事です。と言うのも、歌詞から考えると標準位置に置かれたブレスが正しいのだけれど、大勢の歌手たちが、歌詞を無視して(v)の位置でブレスを取っているわけで、それが慣習的な歌い方だからです…というのも、そう歌った方が、楽なんだそうです。いやはや…。

 いやあ、これ、今回始めてレッスンに持ってきた曲ですよ。クチもまだ十分に回っていない段階で、表現にまでは気がまわりませんって。

 先生からは、この曲は歌えているので、もう終わりにして、次の曲にしてもいいけれど…と言われましたが、まだ歌い込みが足りないと自覚している事と、まだまだクチも回っていないし、何モノもぶちこめていないままなので、そのあたりを改善させて、もう一回レッスンに持って行きたいと思ってます。

 つまり「Mattinata/マッティナータ(朝の歌)」は次で終わる予定なので、次回は次の曲を決めるために楽譜を持ってこないといけません。次は…またトスティでも歌いたいなあ。

 さて、オペラアリアの時間です。モーツァルト作曲「ドン・ジョヴァンニ」の「Dalla sua pace la mia dipende/彼女こそ私の宝」です。いやあ、この曲は、涙が出ちゃうくらいに難しい曲なんですよ。

 それにしても、このアリア、自宅で練習している時は、どうにもならないくらいに難しいのですが、レッスンで先生のピアノで歌うと、不思議となんとか歌えちゃうんですね。自宅ではパソコンによるカラオケで歌っていますが、レッスンは人間がピアノを弾いているわけで、その違いが、歌いやすさに大きく影響しているんだなあと思いました。

 まあ、前回に引き続き、今回も、それなりに安定して歌えるようになり、先生的にも「ここで教えようと思っていたテクニックに関しては、きちんと行っている」ので、まだまだ納得できるだけの出来ではないけれど、もっと高みを目指して、この曲のレッスンを続けるか、ひとまずこの曲はお終いにして、次の曲に取り掛かりましょうかと尋ねられたので、即答で「次の曲、お願いします」と言っちゃいました。

 だって、この曲、辛いんだもん。難しいんだもの。もっと歌い込むにしても、もう少し時間を置いてから再チャレンジしたいと言うのが本音です。

 で、次に何を歌いたいですかと尋ねられたので、ヴェルディ作曲の「リゴレット」の伯爵のアリア「Quests o quella/あれかこれか」はどうですか?と言ってみました。

 先生は、しばらく考えましたが「テノールなら歌いたいでしょうね」という事で、最高音はB♭(笑)だけれど…やたらとA♭のロングトーンも出てくる(笑)けれど…私の実用音域はGまで(涙)だけれど…頑張って伯爵のアリアに取り組む事にしました。もちろん、カデンツァも歌います。いやあ、どうなる事やら。

 この曲をよく知らない人のために、例によって音源を貼っておきますね。

 ロランド・ヴィラゾンのプロモーションビデオですが、今っぽい映像で、こういうのも面白いですね。ああ、それにしても、いい曲だけれど、難しいそうだな(汗)。

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2016年2月 2日 (火)

声を掘ってはいけません

 声楽のレッスンに行きました。

 まずはいつものように、ハミングの練習をしました。今回は、声の響きが口内ではなく、最初からもっと上に行ってくれたので、ハミングをしていても、すごく気持ち良かったです。自然体で無理なくハミングしたのが良かったのかもしれません。とにかく、歌っていて楽だったし、気持よかったのは本当です。つまり、ハミングも無理やり鳴らそうとすると良くないみたいです。だからと言って、脱力しすぎて、声にならないのも良くないわけで、なるべくノドを閉めずに、腹筋の力で息を押し上げていってハミングするのが、良いみたいです。

 さて、発声練習です。今回は、声を掘らない練習をしました。

 声を掘ると言うのは、ノドの奥を開ける際に、舌根を下げ、下咽頭部を広げる方向で、口腔内の体積を広げる事です。もちろん、舌根を下げる事は大切だし、下咽頭部の容量を用いて発声する事は大切だけれど、こればかりじゃダメだし、これがメインになってはダメなんです。

 クチよりも下の部分ばかり使わずに、クチよりも上の部分もちゃんと使いましょうってことです。

 声を掘らないためには、声を引く方向に気をつける事が大切です。声を掘る人(私ですね)は、声を下に引っ張りがちなんだそうです。実際、私の意識もそんな感じです。以前先生から「下を開ければ、自動的に上も開きます」と言われた言葉を信じて、意識的に下を開くようにしていたわけですが、どうも私の場合は、下を開けても、自動的に上は開かないみたいで、下を開けると、下ばかりが開いて、声が掘られてしまうという事になりがちだったようです。

 声って、掘ると太く重くなってしまうんですね。ですから、バリトンである先生と一緒に歌っても、私の方が声を掘っている分、太くて重い声になってしまって、どちらがバリトンか分からない状態なので、テノールはテノールらしてく歌いましょうって事で、声を掘らない練習を始めたわけです。

 では、声を掘らないために、声を下ではなく、どこに引っ張るのかと言えば…後ろです。声を後ろに引っ張る感覚があると、ノドが上に開いていくのだそうです。具体的に言えば、口蓋垂が持ち上がります。だったら、最初から「口蓋垂を上げて歌いましょう」と言えば良いんだけれど、口蓋垂が持ち上がったかどうかなんて、歌手自身には見えないし分からない事なので「声を後ろに引っ張る」という感覚で、口蓋垂を持ち上げていくわけです。

 でもね、口蓋垂なんて、見えないし感じられないんだよね。でも頑張ってやってみました。

 レッスンの録音を聞いても、声を掘ってしまうと、かなりの偽バリトンボイスになってしまいます。私がバリトンならば、それもアリかもしれませんが、元々テノールですから、得意な音域ではないし、ノドにも負担がかかります。それに(先生曰く、掘った声のままでは)高音も上手く発声できないんだそうです。ああ、頑張らなくちゃ。

 声を掘らない練習の次は、ブレスの全量を使い切る練習をしました…ってか、むやみに長いフレーズを一息で歌ってヘトヘトになる訓練をしました。いやあ、辛かった。久しぶりに酸欠を感じましたよ。でも、そういう自分の限界ギリギリまで追い詰める練習をしないと、成長できない部分もあるわけで、こういう訓練系の練習もやらないとダメだよねって事です。

 たかが発声練習ですが、まだまだ多くのことを学ばないと行けないみたいです。

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2016年2月 1日 (月)

日本語で歌うのは難しい

 私はクラシック系の日本語の歌、つまり、日本歌曲って、歌うのが難しい歌だと思っています。

 その理由として、まずは日本語できちんと歌を歌うこと自体が、相当に難しいです。もちろん、話し言葉の延長として、ポピュラー歌謡のような歌い方をして良いなら、そんなに悩まなくてもいいのかもしれませんが、クラシック系の歌曲って、マイクの助けがないので、発声発語をきちんとして歌わないと全然わけわからんちんになってしまいがちです。ですが、日本語の発声発語って、クラシック声楽のそれとは、かなり違うし親和性も低いので、日本語をクラシック声楽の発声に載せて、きちんと歌うのって、本当に難しいと思います。

 クラシック声楽の発声に載せて歌うためには、まず母音子音ともに、クリアに発声できないと、ちょっと厳しいと思います。ところが、日本語をクリアに発声するのって、物理的には特に難しいものではないと思います。所詮、人間が話す言語ですから。だから物理的には、他言語と同じ程度に難しいにすぎないのでしょうが、知的にクリアに発声するとなると、これが案外難しいんですよ。

 と言うのも、日本語ってカナ表記をするじゃないですか? あるいは漢字表記だったとしても、その漢字は、頭の中でカナに変換されてから発音されるわけでしょ? 問題は、このカナの歌い方なんですよ。

 カナって1文字で1音を表現している、とてもクレバーの表記だと思います。ほんと、我々の生活感覚にぴったりマッチしている、素晴らしい表記だと思います。

 しかし、実際の1音ってのは、我々が1音と感じていても、実は“子音+母音”の組み合わせで成り立っているわけでしょ? いや音によっては“子音+子音+母音”だったり、逆に“母音のみ”だったり…。いやいや、同じ“子音+母音”の組み合わせなのに、子音と母音の発音時間違いで区別したり、全く違う発音の音列を関連づけて誤解を生じさせたり、同じ表記なのに違う音だったり、違う表記なのに同じ音だったり、休符だったり…。私たち日本人は、そんな面倒くさい事を、カナと言う便利の表記を使って飲み込んで、先祖代々無意識にやっていたので、今更それらをきちんとやりなさいと言われても、色々厄介なわけです。

 具体的に考えてみます。

 “子音+母音”ってのは、普通の音の事で「か」とか「わ」とかの類です。“子音+子音+母音”ってのは、いわゆる拗音の事で「きゃ」とか「にゃ」とかの類です。まあ、二番目の子音は、大抵半母音だったりするわけだけれどね。“母音のみ”ってのはア行音で「あ」とか「い」です。まあ、この辺は特に問題ないと思います。

 『同じ“子音+母音”の組み合わせなのに、子音と母音の発音時間違いで区別したり』ってのは、ほんと意識の薄い人も多いのだけれど、有声音と無声音の違いであり、清音と濁音の区別です。具体的に言えば「た」と「だ」の違いです。

 「た」と「だ」って、実は同じ子音なんですよ、知ってましたか? ただ違うのは、子音を発声してから母音を発声すると清音の「た」になり、子音の発声と同時が、それよりも早く母音を発声すると濁音の「だ」になります。そんだけの違いです。

 『全く違う発音の音列を関連づけて誤解を生じさせたり』と言うのは、ハ行音とパ行音とバ行音の事です。まあ、バ行音が濁音ってのは分かると思うけれど、じゃあ「そのバ行に関連している清音って何?」って尋ねると、多くの人はハ行音って答えると思うけれど、それって実は間違いです。実際に発音してみれば分かるけれど、バ行音を清音化してみると、実はハ行音にはならず、パ行音になります。つまりパ行音って清音なんですね。「じゃあハ行音って何?」って事になるわけだけれど、いやあハ行音ってのはなかなかの曲者なんですよ。つまり、少なくともハ行音と、パ行音バ行音は、特に関係のない音列なんです。

 ハ行音と同様に曲者なのがサ行音です。たとえば「さ」と「し」の子音は違うのに、同じサ行音としてくくられているわけで、ほんと厄介。

 『違う表記なのに同じ音だったり』の有名な例は「す」や「が」ですね。文中の「す」と文末の「す」は違う音ですし、語頭の「が」と語中の「が」は違う音です。「す」は文中では“子音+母音”ですが、文末だと“子音のみ”になります。「が」は語頭では濁音(子音+母音)ですが、語中では鼻濁音(子音+子音+母音)という別の濁音になります。厳密に言えば別の音なのに、表記が同じなんですよ。

 “子音のみ”の音というと「ん」もそうですね。「ん」の場合は、その前後に付く音で、実は発音が違っているのですが、これもご存知ですか?『さんま』『でんぱ』『さんおう』の「ん」の発音は全部違います。実際「ん」の発音には8種類あるといわれるほど、前後の音のつながりで「ん」の発音って違います。ああ、面倒くさい。

 『違う表記なのに同じ音だったり』は「お」と「を」とか「じ」と「ぢ」とかですね。まあ、場合によっては、これらのカナの発音をし分ける事もありますが、でも現実的にはこれらのカナは同じ音を表している事の方が多いです。“休符”ってのは促音、つまり「っ」で、このカナの時って、実は我々、発音しないで息を止めているんです。つまり、「っ」って発音をしない事を表記しているわけで、いわば休符なんですね。

 日本語って、こんなにタイプの違う発音の音が多数あるのに、それらをカナという表記方法で細かな違いを飲み込んで、ザックリと表記されるために、案外我々は発音の仕組みの違いに無頓着のまま、日常生活を送っているわけです。日常会話なら無頓着でもいいわけです。だって、きちんと発音出来なくっても、適当に間違っていても、前後の脈絡から色々と類推できるので、特に困ることはないのです。しかし、歌としてきちんとした発音で歌うとなると、案外難しいのです。なにしろ、我々日本人は日常生活では、無意識に適当に発音していて、それで平気なんです。それを歌の時だけちゃんとしろというのは無茶ぶり過ぎるのです。

 ですから、それを回避するために、楽譜の歌詞をかな漢字で表記するのではなく、ローマ字表記で歌詞を表記してみるというやり方もありますが、ローマ字表記はカナ表記よりはマシとは言え、ローマ字表記で対応できるほど、日本語の発音って簡単ではなく…って考えちゃうので、日本語を歌うのって、難しいなあ…って私は思ってます。

 以上は、子音と母音の組み合わせの話でしたが、日本語歌唱は、母音単体で考えても、厄介だと思います。

 まず、日本語のナチュラルな母音って、クラシック歌唱には載りづらいと思います。その理由は、日本語の母音はヨーロッパ語(イタリア語だと思って下さい)と比べると、圧倒的に浅くて平たいのです。ほぼ響きがありません。

 なぜ日本語の母音に響きがないのかと言えば、おそらく生活環境の中に響きがないからでしょう。日本人の生活環境では、音ってのは“周囲に筒抜け”がデフォルトです。音が壁や天井に“跳ね返ってきて響く”のではなく、壁や天井から音が“漏れたり逃げたり抜けたりして戻ってこない”のです。日本では、音は直進しなければ届かないのです。その極端な発声法が、民謡発声であったり、市場の行商人の発声であったり、詩吟や義太夫や講談の発声法なのです。クラシック歌唱の発声法とは、ある意味真逆の、ノドを締め付ける系の声です。この方向が日本語のデフォルトな発声なのですから、日本語とヨーロッパ語の母音って、本当に違うのだなあと思います。

 とは言え、日本人の生活環境もだいぶ欧米化され、今は昔の家屋ほど、音が筒抜けにはなっていないので、少しずつ日本人の発声も変わってきていると思いますが、やはり先祖代々受け継いできたものは、おいそれとは変わりません。日本語の母音は、歌にのりづらい母音だと思います。

 あと、日本歌曲が、その誕生期において模範としたのがドイツ歌曲だったせいもあって、歌詞が真面目で難しくて文学寄りで、いかにも芸術歌曲である点も、簡単には歌えない理由だと思います。いやあ、表現が難しいのですよ。イタリアとかイギリスとかの、歌詞よりも音楽に重きを置くタイプの歌曲を模範にしていれば、歌い飛ばしていればいいので、かなり違ったと思うのですが、お手本にしたのがドイツ歌曲ですから、ほんと、表現が難しいんです。人生に風格がないヤツが歌うと、薄っぺらになって困るんですよ。

 では結論です。日本歌曲は…

1)きちんと意図的に発声発音をするのが難しい
2)そもそも母音がクラシック発声向きではない
3)真面目な歌詞が多くて表現そのものが難しい

 という訳で、歌うのが難しい歌曲であると、個人的に思っています。

 どうでしょうか?

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