ひとこと

  •  ポケモンGOの仕様が大きく変わって戸惑ってます。たぶん改良されたのだろうと思うのだけれど、どう楽しめば良いのか、正直戸惑っています。年寄りは変化が苦手なんだよねえ。ああ、以前のゲームシステムが懐かしい…。
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2015年4月の記事

2015年4月30日 (木)

やっと花粉症が収まりました[2015年4月の落ち穂拾い]

 ああ、やっと4月が終わります。花粉症とも、これでしばらくお別れです。ああ、うれしいうれしい。私はこの日がやってくるのを、千年一日の思いで待ち望んでおりました。

成功するプロミュージシャンの条件

 私が思うに、たぶんプロとして満足に稼げる人の条件って…

1)美形である
2)愛嬌がある
3)時間に正確
4)サービス精神が旺盛
5)目下の人にやさしい
6)ファンを大切にする

 …かな? たぶん、演奏が上手い事って、大した条件じゃないと思います。だって、みんな上手いもの。コンクールの順位とか卒業大学とか留学経験の有無も、特に関係ないと思います。むしろ、どれだけ音楽以外の部分で勝負ができるかが、プロとして生きていけるかという条件になるんじゃないかな?

 プロの活動って、とにかく興行ですから、興行主に気に入られる事は大切だし、事務所や同僚と良い関係を作れないといけないし、目下の人たちに好かれないといけません。そして何よりも顧客に気に入ってもらえる事。これらがとても大切だと思います。

 だって、職業音楽家って、個人事業主だもん。人気と人脈で商売する人だもの。上手い事よりも、愛される事。それが次の仕事につながっていくんだと思います。

フルーティストの呼吸音は、なぜうるさいのか

 フルートの演奏を間近で聞いていると、呼吸音が聞こえて“うるさい”と感じる事が多いです。これはプロ・アマ問わずだったりします。

 なぜ、そんな事が起こるのか。単純にノドが閉じていて、口腔内の容量が少ないからです。それでは、息を吸う時に風切音をたててしまうわけだし、実はそれだけでなく、口腔内の容量が少ないために、フルートの音色そのものが悪くなります。ですからフルートの音色の美しい奏者は、概して呼吸音が静かなのは納得です。

 つまり、フルートを良い音色で吹きたければ、口腔内の容量を最大にしないといけません。つまり、ノドは開けっ放しですね。だから、腹式呼吸をしないと、音が鳴らないのです。

 もっとも、腹式呼吸と言われて、お腹を固くするとか、丹田に力を入れるのは、今どきのやり方ではありません。

 腹式呼吸でお腹を固くするのは、いわゆる『ドイツ式発声』と言われる発声(呼吸)方法で、ちょっと前までの日本の音大では主流だった発声方法ですが、現在ではほぼ廃れてしまい、ドイツ人歌手ですら、もうやっていません。丹田に力を入れるやり方は、日本の武道の呼吸法であって、そもそも音楽の演奏法とは無関係な呼吸法です。

 今の腹式呼吸では、お腹は柔らかさを保ち、動き続けていないといけないのです。問題は、どの方向に、どれだけのエネルギーで、どう動かし続けていくのかって事なんです。
 テクニックというのは、どんな世界であれ、日進月歩であって、それゆえに新世代は旧世代をどんどん越えていくわけですから、いくら人間が古いからとは言え、古いテクニックにしがみついたままでは、上達なんてするわけないのです。いつも、気持ちだけでも若くないと、何事もうまくはいかないのです。

声楽では、チューナーを使うの?

 器楽の練習ではチューナーは必需品です。しかし、声楽ではどうでしょうか?

 私、声楽(ってか、合唱)の練習でチューナーを使っている人を知っていますが、少数派ですね。声楽の場合、音程は、伴奏と合っているか、共演者とハモっているかで判断します。

 これはソロだけでなく合唱でもそうなんですが、チューナーで計測した正解な音よりも、もっと気持ちいい音程があって、本当にうまい人は、その気持ちいい音程を縫うように歌っていくので、1オクターブを12音ではなく、もっと細かく分割した音程で歌います。なので声楽では、チューナーを使わない事が多いです。

 もちろん、そんな話は上手い人たちの話で、私などはチューナーに合わせられるほど精密な音程で歌えないので、もそっとアバウトな音程で歌っているのが事実です。それにチューナーを見ながら歌うと、音程を合わせることに一生懸命になってしまい、肝心の発声だとか感情移入だとか芝居だとかが、疎かになってしまうので、チューナーを見るのが難しいという理由もあります。

 それに、やっぱり私も歌手の端くれなので、無意識に正しい音よりも気持ちのいい音程で歌おうとしちゃいます。これは器楽だと、ヴァイオリンなどの弦の人も同じような感覚だろうと思います。でないと、合わせていて気持ち悪いんですね。

 フルートでも、室内楽をやると、たぶん感じられる感覚だと思いますよん。

今月のお気に入り スドー トロピカルレッド 15W

 少し前から水草の調子が悪くなっていたんですよ。なんか、きちんと育たないと言うか、一部分枯れちゃうとか…。「インターネットで購入した水草は質が悪いなあ…」とか勝手に思っていたのですが、そうこうしているうちに、水槽の灯がつかなくなりました。蛍光灯に寿命が来たようです(笑)。

 で、ほんと、久しぶりに蛍光灯を買い替えました。購入してきた蛍光灯がこれなんです。

 いわゆる“観賞魚用”の蛍光灯って奴ですね。観賞魚用と言っても色々な種類の蛍光灯があるわけですが、私が購入してきたのは“赤い魚がより赤く見える”タイプであり“水草が元気に繁茂する”タイプである蛍光灯です。具体的に言えば、全体の光量はちょっと不足気味だけれど、水草が元気に育って、金魚がよりキレイに見えるってタイプの蛍光灯です(まんまでごめん)。ちなみに、普通に明るい蛍光灯だと、金魚って安っぽく見えるんですよね(笑)。

 我が家は45cm水槽なので15wの蛍光灯を購入しましたが、60cm水槽だと18w(20形)、90cm水槽だと32wがちょうどよいそうです。

 それと蛍光灯って、結構寿命が長くて、何年も使えるそうですが、使えると言っても、光量的にはドンドン下がっていくのだそうです。実際、我が家でも蛍光灯を取り替えた直後は、水槽がまぶしくてまぶしてく…つまりそれくらい、切れる直前の蛍光灯の光量って少なかったんだなって思いました。あれだけ暗ければ、そりゃあ水草も枯れるって(笑)。ですから、蛍光灯は、まだまだ使用できていても、適当な間隔(1年ぐらいでしょうか)で買い換えていくのが(水草に取って)良いのだそうです。水草は植物ですからね。水草にとっての光は、金魚にとっての餌のようなものです。たっぷり浴びせないといけません。そういう意味で、水槽の照明は大切ですね。

 まあもっとも、今どき、いくら金魚水槽だからと言って、蛍光灯使用というのはオールドスタイルなのかもしれません。今どきはやはりLEDなんでしょうね。でも我が家は頑固に蛍光灯なんです。理由は…買い換えるのが面倒だから(大笑)です。

今月の金魚

2015年3月31日 ミカン、入院する。
2015年4月1日 ミドリとミカン、一緒に退院する
2015年4月4日 ホノカ、星になる

 あと、せっかく19匹購入したメダカもドンドン数が減って、今では10匹前後しかいません。ああ、残念。

今月のひとこと

 桜が満開ですね。よく見てみると、桜もソメイヨシノばかりでなく、色々な種類の桜が咲いています。花色も薄いピンクのモノもあれば、濃いピンクもあるし、ほぼ真っ赤な花もあれば、逆に真っ白な花もあります。たいていの花は一色だけれど、たまに紅白入り混じった花もあり、なんかめでたい気分になります。春は花粉症の季節だからイヤだけれど、桜が咲いている季節だと思うと、なぜか気分がほっこりします。(2015年3月30~31日)

 本日(3/31)は失礼しました。ココログの自動記事アップ機能がうまく働かなかったようです。たまにあるんですよね、これ。まあ、ソフトウェアのやる事なので、怒っても仕方ないですが、毎朝、楽しみにしていた方には、ほんと、申し訳ないです。ごめんね。(2015年3月31日~4月1日)

 本日は4月1日です。いわゆるエイプリルフールです。今日はきっと、ネットのあちこちで嘘つきブログが大量発生すると思いますが、どうなんでしょうね。私は、4月1日であろうがなかろうが、嘘はいけないと思ってます。エイプリルフールに許されているのは、あくまでもジョークであって、嘘ではないと思います。エイプリルフールが導入された当時の日本では、ジョークの概念がなくて、だから「エイプリルフールは嘘をついて他人を騙しても良い日」なんて勘違いされて、それが今日まで続いているのですが、本来のエイプリルフールって、そんなもんじゃないと私は思ってます。エイプリルフールは、互いにジョークを飛ばし合って、一日愉快に過ごしましょう…って日だと思ってますが、私は何か間違ってますか?(2015年4月1~2日)

 残念だなあ…桜が終わってしまう。今年は忙しくて、花見に行けなかったよ(涙)。(2015年4月2~4日)

 うーん、それにしても、またまた失礼しました。本日分の記事(4月4日)がアップされていなかったようです。予約アップの予定で、予約のコマンドは正しく入力されていたのですが、どうもうまくいきませんでした。4/1の時と同様です。4月になってから、ココログのシステムはうまく作動していないのかもしれません。ちょっと心配です。それはともかく、記事を楽しみにしていた方には、ほんと、申し訳なく思ってます。かんにんね。(2015年4月4~6日)

 どうもうまくいきません。本日(4/6)も自動アップに失敗したようで、アップロードの時刻が遅くなってしまいました。申し訳ないです。実は、4/5も失敗したのですが、私がアップロードの時刻にパソコン画面に向かっていたので、その場で対応して、事なきを得たのですが…本日はそうもいかず、こんな事になってしまいました。どうしてしまったのだろうか、ココログ? それはともかく、皆さんにはご迷惑をおかけして申し訳ないです。(2015年4月6~7日)

 本日(4/7)の記事のアップロードは、うまくいったようです。やはり、昨日ココログに現状を伝えた(クレームをつけた!?)からかな? 何はともあれ、システム側が気を使ってくれるとうまくいくなら、それで良いのです。何が起こっていたのかは分かりませんが、現状がOKなら私はそれでいいんです。大切な事は、きちんとシステムが動き、きちんと記事がアップロードされる事ですから。明日以降もこれが続いていくことを願っています。お騒がせしました。(2015年4月7~9日)

 ここ数日、安定して記事がアップできています。どうやら、ココログにクレームを入れて以来、予約アップロード機能がうまく作動しているようです。ほんと、よかった。これで私も安心できます。ただ、ココログから、なぜ4月に入ってから予約アップロードがうまく機能しなくなったのか、説明が何もないのが、ちょっぴり残念です。(2015年4月9~13日)

 お寺に油をまくという犯罪が横行しているようですね。ぜひ、犯人を捕まえて欲しいと願います。そして、犯人の国籍を公表して欲しいと思います。日本人の犯罪ならば、情けなくて泣きたくなりますが、外国人の犯罪ならば怒りに震えることになるでしょう。ぜひ、犯人の国籍を公表してもらいたいものです。(2015年4月13~18日)

 AIIB(アジアインフラ投資銀行)が設立されるようで、現在のところ、アメリカと日本は不参加のようです。それに対して、国内外から「日本も早く参加しろ」「今参加しないと、バスに乗り遅れる事になるぞ」とかの大合唱なんだとか? まあ、AIIBのホスト国である中国からすれば、日本に参加してもらわないと、資金的に厳しいだろうから、参加しろしろと言うのは分かるけれど、日本人の中からも参加しろしろという人がいるのは、大疑問。だって、AIIBの参加って、日本にとって、どれだけ益するモノなの? ここに集まったお金は、中国共産党の思惑だけで自由に使えちゃうわけです。いわば中国の国益に沿った使い方をされてしまうわけで、当然だけれど、中国の国益は往々にして日本にとっての不利益なんだから、こんなところに出資しちゃダメでしょ。インフラ建設と称して、中国の国内の軍事施設建設に使われるのは当然としても、北朝鮮の軍事施設建設にだって使われちゃうわけだよ。日本の税金を使って、日本人を殺すために日本に向けて発射しちゃうミサイルだって作っちゃうよ。いいの、それで? もっとも、AIIBの資金の90%以上は、軍事施設建設に使われるよりも前に、中国共産党幹部のポケットに入っちゃうだろうけれどね。どっちにしても、日本にとって仇なすわけだから、AIIBに入れと言っている人って、中国のスパイか工作員のどちらかであって、反日な人なんだよね。全く、もう…。(2015年4月18~25日)

 最近、色々な人から「あなたの歌声は素敵ですね」と誉められるようになりました。お世辞かもしれませんが、キング先生に習っていた頃は、間違っても、そんな事を言われた事はないので、なんか嬉しいです。Y先生に教えてもらうようになり、高音偏愛主義を改め、中低音の声を磨くようになったので、その成果が少しずつ出始めてきたのかもしれません。ま、歌なんて、95%の中低音と5%あるかないかの高音で成り立っているんだから、高音が少々アレでも、中低音がしっかり歌えるなら、それでOKなんだって思えるようになりました。そのせいか、歌声は誉められても、歌そのものは、まだ誉められてません(苦笑)。声はいいけど、歌唱に難アリって事なのかもしれません。(2015年2月25~27日)

 久しぶりに、江ノ島に遊びに行きました。久しぶりに行った江ノ島は、あれこれとお店が入れ替わっていて、面白かったです。数年前と較べて、あちらこちらが整備されていて、昭和の香りがドンドン失われていくのは、残念な反面、健全だなあって思いました。そうそう、潮だまりでアメフラシを見つけました。連れて帰りたくなって困りましたが、エサのアオサを定期入手できる自信がないので、諦めましたが、実に可愛らしい仕草でした。ほんと、連れて帰りたかったんです。帰りに岩屋で江ノ島の生物の展示をしていましたが、そこにもアメフラシ君がいましたが“ウミウシ”として紹介されていました…が、アメフラシとウミウシは、全然違う生き物だからねー。しっかり紹介してくださいねー。お願いしますだよぉー。(2015年2月27~29日)

 今月は以上です。よろしくお願いします。

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2015年4月29日 (水)

レチタティーヴォって、かなり危険です

 声楽のレッスンの続きです。次は、ドニゼッティ作曲の「愛の妙薬」にある二重唱「Caro Elisir! Sei Mio!/素晴らしい妙薬」のレッスンをしました。

 こちらの曲のレッスンは、いわゆる仕上げのレッスンでして、細かな発声や音程やリズムの修正をしました。また妻との合わせも、ズレているところを重点的に合わせてみました。なので、だいぶマシになりました。

 心配として残るのは、カデンツァ部分の合わせでしょうか? ここはフリーテンポになるのですが、ここで妻と息が合わない(笑)。息が合えば簡単なのですが、合わないのだから、難しいです。本来なら、指揮者が助けてくれる箇所なのかもしれないけれど、私達の発表会には指揮者はいないので、自分たちでどうにかしないといけません。

 まあ、心配事はいくつか残っていますが、ドニゼッティはモーツァルトほど難しくはないので、後は勢いと度胸で乗り切るしかないですね。たとえ失敗をしても、それを後に引きずらずに、すぐに立ち直れば、なんとかなるっしょ。

 音程的に気になるのは、高音の“ラ”の部分です。“ラ”はまだまだ不安定で、音程的にきちんと届いていない事もありますが、そこでむりやり“ラ”をひねり出そうとすると、その後に差し支えが生じることもあるので“ラ”は、むりやりひねり出さずに届かなければ届かないままで良しにすることにしました(でも、もちろん、きちんと届いた方が良いので、むりやりではなく、自然に届くようには歌いたいです)。

 とりあえず心配事として残ったのは“ラ”ですね。その下の“ソ”はかなり気を抜いて、ヘラヘラしていても、無造作に歌えるようになりました。もう“ソ”で心配することはないですね。妻からも「上達したね」と言われるほどです(エヘン)。

 それにしても今回の仕上げのレッスンで思った事は、レチタティーヴォの部分って、ほとんどアカペラだね。つまり、無伴奏で歌うところばかりだという事です。もちろん、ところどころに、ジャーンって感じでピアノ(ってか、本当はチェンバロ)が和音が鳴るには鳴るけれど、その間の数小節は無伴奏で、ペラペラと歌わないといけません。無伴奏で歌っているうちに、音を外したり、下がったりしたら、次にピアノがジャーンって和音を弾いた時に、ズレてしまってカッコ悪いのです。だから、レチタティーヴォは、無伴奏が続きますが、それでも頑張ってピッチを下げずに歌い続けないといけません。

 これは絶対音感を持っている人だと、そんなに難しくないそうですが、相対音感の持ち主だと、かなり危険なんだそうです。と言うのも、人間というのは、同じ音を出しているつもりでも、無意識にピッチが下がるのが自然現象なんだそうです。だから、無伴奏で基準とする音がない状態で歌い続けていると、相対音感の人はピッチがドンドン低くなってしまって難しいのだそうです。

 で、私ですが…私は、もちろん絶対音感など持ち合わせていないし、相対音感も持っていませんので、無伴奏だから音が下がってしまうという事はありません。その代わりに、音を一つでも間違えると、そのままどこか別の世界に飛んでいってしまいます。まあ、いわゆる“大体音感”しか持っていないので、無伴奏だと、歌の基盤がかなり脆弱になってしまうわけです。ああ、危ない危ない。

 さて、本日のレッスンでは、それぞれの歌の時間計測を行いました。どうやら、現在のところ、持ち時間を1分ほど余らせて終了となる予定です。で、その1分を余らせたまま終了とするか、カットした部分を(全部は無理でも部分的に)復活させて、時間いっぱいまで歌うかを相談しました。

 結論は…今回は欲張らずに、余らせたままいきましょうとなりました。カットした部分を復活させて歌うのは、秋のクラシックコンサートで行う事にしました。もちろん、秋のクラシックコンサートでも時間制限があるので、二重唱を全部丸々歌うのは無理でしょうが、伝統的なカットなら可能なので、秋はそれで歌うことにして、全曲カット無しで歌うのは、冬の勉強会で歌うことにしました。つまり、この曲とは、一年かけてお付き合いしていく事に決めたわけです。そう思えば、気持ちはだいぶ楽になりました。うん、今年はこの曲で頑張るよ。

 さて、発表会本番も近づいたというわけで、先生から当日のプログラムを頂きました。

 発表会の期日は、2015年5月23日の土曜日、13時開場、13時半開演です。場所は、かなっくホールで、JR東神奈川または京急仲木戸から、ともに徒歩1分の、とても便利なホールで行います。もちろん入場無料です。全部で15人25曲。休憩を入れて、2時間半程度のプログラムになっています。私は11番でモーツァルトを、19番でドニゼッティの二重唱を歌います。

 今回の発表会の特徴は、F先生(ソプラノ)とゲストの(もちろんプロ歌手の)テノール歌手さんが大活躍って感じでしょうか? とにかく今回の発表会では二重唱が多くて、25曲中12曲(ほとんど半分ですね)が二重唱となっています。そのうち、F先生が二重唱のお相手を務めるのが4曲、ゲストテノールさんが務めるのが6曲となっています。生徒同士の二重唱は(私達を含めて)たった2曲だけってわけですね。ちなみに、Y先生は出番がないので、しっかりと裏方さんをやるようで、今回の発表会では、お客さんが姿を見ることはできなさそうです。ちょっと残念ですね。

 今回の発表会は、オペラアリアや二重唱がメインとなりますが、日本歌曲やフランス歌曲、オペレッタや古楽まで幅広い演目となっております。ここの門下では、私はペーペーで、実力的には下位グループに属します。皆さん、なかなかお上手なんですよ。ですから、私同様、見知らぬ人の発表会を見るのが趣味だという方には、なかなか美味しい発表会になっていると思いますよ。ぜひ、ご賞味あれ。

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2015年4月28日 (火)

発表会…このままではヤバイです

 声楽のレッスンに行きました。実はもうすぐ発表会なんですよね。いわゆる『学びとしてのレッスン』は今回で終了で、次回のレッスンは本番ピアニストさんを交えての“ピアノ合わせ”となっております。いやあ、自分、大丈夫か?

 さて、レッスンは発声練習から始まりました。今回も自分の欠点と向き合いました。

 声を出す時、音が高くなるにつれて天井を上げていきます。ポジションを高くすると言っても良いし、軟口蓋を上げていくと言ってもいいわけですが、とにかく音程の上昇とともに、これらを上げていくわけです。でも、そういう経験というのは、日常生活の中にはないわけだし、キング先生に習っていた時は、このような動きは禁忌でした(キング先生の理想は、能面のような表情で歌うことで、上アゴから上の部分は絶対に動かさないのです)から、私、これが苦手だし、すぐに疲れてしまうわけです。

 ですから、せっかく天井を上げていても、少し時間が経つと天井そのものが下がってきてしまうわけです。これはダメなんです。

 さらに、天井をドンドン上げていって、高音の限界に達するあたりで、本来なら、それを気にせずに天井を限界まで上げたままにしておくと、声が天井にぶつかって、自然に曲がっていくので、わざわざ意図的に声を曲げる(ジラーレって奴ですね)必要はないそうです。しかし、私の場合は、限界近くになると、天井がだんだん下がってしまって、ジラーレどころの騒ぎではないのだそうです。なぜそうなるのか…それはノドのちからで声を出そうとしているからなんだそうです。

 ノドに力が入ると、天井は下がってしまうのだそうです。逆に言えば、ノドの力で歌うなら、天井なんて一切上げる必要はないわけですね(キング式発声方法は、ノドの力で歌う発声法ってわけです)。でも、ノドの力で歌える人は…天才ぐらいしかいないのかもしれません。私もかなりノドには力がある方ですが、それでもキング先生に習っていた末期の頃は、いつもノドから血の味がしていたものでした。Y先生は「ノドで歌っていると、やがてノドから血が出ますよ」と脅しますが、私にとってそれは脅しではなく、過去の自分の姿と重なるわけで、少なくとも私にはノドの力で歌うのは無理なんだと思ってます。

 で、分かっちゃいるけれど、カラダは慣れたやり方をしたがるわけで、高音の限界に近づくと、声がジラーレするのではなく、ノドに力が入って、音程が(むしろ)下がり、そのまま上にいけなくなるわけです。

 私の大きな欠点の一つなんです。それを解消するためのレッスンを受けたわけですが、時間をかけて身につけた悪癖は、簡単には取れないわけです。ああ、情けない…。

 で、モーツァルト作曲「コジ・ファン・トゥッテ」のテノールアリア「Un'aura amorosa/恋のそよ風」のレッスンに入りました。

 とにかく天井を上げて歌う…これ一点張りで歌ってみました。しかし、曲の真ん中あたりで、疲れてしまって、天井が下がってしまい、後半はノドで歌い出してしまって、すべてがパーになってしまいました。もうすぐ発表会だと言うのに、これじゃあ、ダメじゃん。

 とにかくこの曲は、天井をあげて歌い続けないと歌えません。そのためには、まず、クチを大きく開ける事が必要です。そのためには、アゴ関節をカクンと外さないといけません…ってか、基本的に、アゴ関節を外したまま歌う(ここ、ポイントです)のです。で、アゴ関節を外したまま歌うと、よほどの天才で無い限り、ノドが鳴らせなくなります。ノドが鳴らせない…つまりノドで歌えなくなるので、その代わりにどこで歌うのかと言えば、腹筋で歌う事になります。腹筋で息をたくさん強く吐いて歌います。腹筋で息をたくさん強く吐くには、お腹の支えが重要になります。だから、歌う時に、お腹の支えが必要になるわけだし、私が散々注意されるのも、こういった一連の流れの中での注意なのです。

 アゴ関節を外してしまうと、ノドが鳴らせなく鳴るわけです。そこで絶対にやってはいけないのが、天井を下げる事です。私は無意識のうちに、ノドが鳴らせなくなる状況になると、アゴを戻して、ノドに力を入れて、キング式の発声をしようとしてしまいますが、その誘惑に打ち勝って、天井を高いままキープしないといけないのです。

 Y先生曰く「長く歌い続けたいなら、ノドを鳴らして高音を歌っては、絶対にいけません」だそうです。だから、あえてノドが鳴らないところで高音を歌う癖をつけないと、高音は出せないし、ノドを壊してしまうので注意というわけです。でも、ノドが鳴らないポイントで高音を出すと、気持ち悪い感じがします。この気持ち悪さを克服すると言うか、慣れてしまわないと、歌を歌えるようにはならないわけだし、モーツァルトを歌い切る事ができないわけです。

 いやあ、モーツァルト難しい。ほんと、難しい。このままでは、発表会で撃沈…ではなく、曲が進むにつれて、ゆっくりゆっくりと沈んでしまいそう…。まるで、大型船の沈没だよぉ。いやあ、やばいやばい。

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2015年4月27日 (月)

合唱の声、独唱の声

 先日、またも“見知らぬ人の発表会”に行ってきました。今回は、どこかの先生の門下の発表会ではなく、某合唱団主催の発表会でした。もっとも、その某合唱団とは、アマチュア団体さんなんですが、演奏会のチケットはプロ並の価格設定という、マジで合唱をやっている団体さんなんです。そんな合唱団主催の、そこの団員さんたちによる発表会ですから、期待しちゃうじゃないですか? ですから『普段はガチで合唱をしているけれど、今日だけ特別に独唱してみました』ってノリの発表会だったわけです。

 いやあ、なんとも雰囲気が独特でしたね。いわゆる声楽の発表会とは違っていて、トップバッターの方からオペラアリアを歌ってました…ってか、皆さん、ほぼオペラアリアを歌ってました。普通、発表会って、イタリア歌曲から始まって、途中ドイツ・リートと日本歌曲をはさみながら、終わりの方にオペラアリアの人を配置して…というパターンが多いのですが、ここはいきなりクライマックスでした。

 まあ、アマチュアの人たちですし、オペラアリアって、そんなに簡単ではないので、演奏自体は…まあ色々ありましたが、それはご愛嬌って事で、私的には(もっとレベルの高い歌が聞けると思っていたので)エラくガッカリしたわけですが、それにしても、なんか普通の声楽発表会とは、あれこれ違ってました。

 私が感じた違和感をいくつか書きます。

 まず、歌える人とそうでない人の差が激しいんです。歌える人は、そんちょそこらのプロに負けないほどの歌唱力があるのですが、そうでない人は本当にそうでないのです…ってか、あれだけの合唱団体ですから、ここまで歌えない人がたくさんいて、そんな人たちが発表会に出場すること自体が、私には驚きだったわけです。

 また、これだけの多人数が参加する発表会だと、歌えるにせよ、そうでないにせよ、色々な段階の人がいて、それはそれでおもしろいのですが、ここははっきり二極化されていました。それがまず最初の違和感です。

 次に、歌えていない人が下手かと言うと、それは違うんです。そこがまた違和感なんです。

 よく聞いてみると、歌えないように思える人の歌でも、皆さん、音程はドンピシャでヘマはないのです。だから実は、下手とは違うんです。でも、音程が合っていれば、それで歌えると言えるのかと言うと『むむむ…』って感じになるんですよ。

 どこが『むむむ…』を感じさせるのかと言うと、まずはリズムが甘いんです。リズムが甘いと言うか、なんかフニャフニャ、フラフラしているんです。きちんと歌っているのですが、でもその歌に『歌おう』という意思が感じられないほどにフニャフニャ歌っているんですよ。そこが違和感の最初です。

 次は、声です。皆さん、一応に、奥に籠もった感じの声なんです。「それじゃあ、そば鳴りだろ」って私は思って聞いていたのですが、合唱大好きな妻に言わせると「丸くて良い声」なんだそうです。確かに尖った感じは全くしない優しい声なんですが、そういう声が良い声? やっぱり違和感あるなあ…。

 それと皆さん、一生懸命に歌っているのに、声量の不足を強く感じました。よく声楽の発表会で、声の小さな人がいますが、あれって大抵、恥ずかしくて声が出せないか、未熟すぎて声が出せないかのどちらかなんですが、ここの人たちは、どうもそうではなく、これが精一杯のようなんです。別に恥ずかしいわけでもなければ、未熟ってわけでもなく、あのスタイルで歌うと、このくらいの声量がせいぜいのようなんです。なんか不思議な感じがしました。

 で「ああ、これが合唱の声なのか…」と思った次第です。つまり、声を磨く優先順位が、独唱と合唱では違うわけです。

 まず合唱で大切なのが、音程の正しさ。そして周囲の声とよく融け合う音色。この2つは最優先事項です。そう思って聞いてみると、この二点に関しては、どなたもクリアしていました。

 でも、あればいいけれど、無くても良い(つまり、優先順位が低い)のは、カッチリしたリズム感と声量。だって、リズムの方は指揮者の指示通りに歌えばいいのだから、個人として意思を持ってカッチリ歌う必要はないし、声量だって仲間と一緒に歌うんだから、一人ひとりがバズーカ砲のような音量を持っている必要はないわけだ。そう考えれば、彼らの歌唱スタイルも納得納得です。

 実は独唱曲だけでなく、重唱曲も少しばかりあったけれど、どの曲も大きな破綻もなくて、声の割には出来が良かったのですよ。おそらく、アンサンブル能力が極めて高いんだろうなあって思いました。丁々発止ではなく、手と手を取り合って…って感じなんですよ。

 で、そんな彼らの歌唱を、妻は好意的に捕らえていたようですが、私はそうではありませんでした。ああ、私も昔は合唱大好きで、あの頃の私だったら、彼らの声が素敵と思えたのかもしれませんが、今の私は、そこからだいぶ遠くに来ちゃったみたいです。

 音程とかリズムとかは(正確な事に越したことはないけれど)少々甘くてもいいのです。それよりも、歌に強い意思と感情を込めて欲しいし、なによりも美声で歌って欲しいし、圧倒するほどの声量で歌って欲しいのです。そういう歌声が聞きたいのです、私は。

 「それって独唱の話だよね。合唱じゃあ、そんな声で歌われても、うるさいだけだからねえ…」

 そうなんだよねえ。確かにその通りなんだよね。

 だから、合唱も独唱も、発声の基本部分は同じなんだろうけれど、修得する際に、優先する順番が違うので、合唱を主にやっている人と、独唱を主にやっている人では、声が違ってくるんだと思います。

 もっとも、それは(私を含めた)未熟な人々の話で、本当に上手い人は、合唱であろうと独唱であろうと、リズムも音程もバッチリだろうし、意志的に感情込めて歌えるし、周りによく溶ける優しい声でバズーカ砲のような声量で歌えるんだろうし…。

 歌を一つのヤマに例えるなら、出発地点と目指す頂上は同じなんだろうけれど、その途中で通る登山道が違う…って感じなのかなって思いました。その登山道の違いが、合唱の声とか、独唱の声とか、言われるのかなって思ったわけです。

 だって、その発表会で歌った“歌える人たち”だって、普段は合唱をしているわけですからね。合唱歌いも上達してくると、上手なソリストと同じになっちゃうってわけですね。

 つまり、本当は合唱の声とか独唱の声とか、そんなものは存在しないのかもしれませんが、進化の途中形態として、合唱用に訓練されている声と、独唱のために磨いている声というものがあるのかもしれません。

 そんな事を思った私でした。

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2015年4月26日 (日)

たぶん格差は無くならないし、格差のない社会は目指すべきではない[2015年4月第4週・通算11週]

体重:105.0kg[-0.2kg:-9.8kg]
体脂肪率:29.2%[-0.7%:-4.2%]
BMI:33.1[-0.1:-3.3]
体脂肪質量:30.7kg[-0.8kg:-7.7kg]
腹囲:103.5cm[-0.8cm:-2.5cm]
     [前回との差:2015年当初との差]

 最近、格差社会という言葉を耳にするようになりました。もちろん、悪い意味で使われている言葉の一つです。格差社会とは“貧富の差のある社会”というわけで、昨今の政治スローガンの一つとして「格差社会の是正」とか「格差社会を無くそう」とか大声で叫んでいる方々が目立つようになってきたわけです。

 日本には言論の自由があるわけですから、何を叫ぼうと、その方の自由ですので良いと言えば良いのですが、この言葉を真に受けちゃう人がいると困るなあ…って思ったので、記事にしてみました。

 格差社会って…あって当たり前だし、無いと困るんじゃないんですか!

 格差の無い社会、つまり“貧富の差のない社会”…それはどれだけ熱心に働いても、あるい怠けていて全く働かなくても、手にする収入は全く同じって事でしょ? もちろん、私有財産なんて格差の原因の一つだから、全く認められない社会の事でしょ!

 すべての財産が没収され、いくら働いても収入には反映せず、年金のように毎月決まった額を手にするだけ。でもそれって、共産主義じゃん(笑)。格差の無い社会って、ずばり、共産主義の社会って事ですよ。そんな世の中を、本気で目指すんですか?

 共産主義の社会って…北朝鮮ですよ。あるいは人民服を着ていた頃の中国ですよ。あるいは、アメリカと和解する前のキューバであり、ベルリンの壁が崩壊する前のロシアだったり東欧だったりするわけです。

 つまり、共産主義の社会って、不自然で間違った社会なんです。それは歴史が証明しているじゃないですか!

 共産主義って、確かに格差を無くそうと努力をする社会であり、一般庶民レベルにおいては、確かに格差がなりなります。ただしこれは、格差が無くなって、みんなが豊かに暮らせればいいのですが、現実は、人々の勤労意欲が喪失し、国の経済力が減退するので、みんなが等しく貧しくなっちゃいます。で、みんなが等しく貧しくなる事で、結果的に格差が無くなり、格差社会は是正されたけれど、その代わり、国中の人たちが飢えて苦しむ社会が出来上がるわけです。

 つまり、国民の生活レベルを高いレベルで合わせるのは無理なので、低いレベルで合わせちゃうわけです。もちろん、国民の生活レベルを低いレベルに合わせると、国内で財が余るわけです。で、余った財を国民に還元すると、格差が生じてしまうので、それを一部の特権階級が独占する事で、格差のない社会を実現するわけです。

 そんな社会が本当にいいの? 本当にいいと思っているなら、別に日本で「格差社会を無くしましょう!」なんて叫ばずとも、裸一貫で北朝鮮に行けば、すぐにでも叶えられる願いじゃないですか(笑)。

 共産主義社会に対立するのが、現在の日本やアメリカやヨーロッパ諸国が属する自由主義社会って奴です。

 自由主義社会は、努力した人が報われる社会です。当然、より多く努力した人が多くを得る社会ですから、格差なんてあって当たり前です。成功をおさめる人もいれば、失敗してしまう人もいるでしょう。自由主義社会とは、勝者と敗者がはっきりと分かれる社会でもあります。そこから階層や階級が生まれ、やがて貴族社会に変わります。それでいいんです。世の中には、セレブもいれば、下層貧民もいるのです。それが健全な社会なんです。

 だから、格差はあっていいんです。働いたら働いた分だけ報酬がもらえる方がいいじゃん。格差上等。格差社会、ウェルカムなんです。

 問題は、格差の存在ではないのです。問題は、下層貧民であっても、きちんとそれなりの安定した生活が営め、きちんと教育を受ける事ができ、毎日小さな幸せを感じられる生活が過ごせれば、それでいいし、それが大切なんです。

 そのために必要なのは、富の再配分ではなく、雇用の促進です。“働かざるもの食うべからず”、これが自由主義の基礎基本。だから、誰もが食うに困らないだけの収入が得られるような職が与えられるべきなのです。

 社会から格差をなくそうとすれば、すべての国民を貧しくするしか方法がありません。これは歴史が証明しています。すべての国民を貧しくすると、富が余るわけで、その余った富は一部の権力者たちが独占するわけです。北朝鮮がいい例です。これが共産主義の実態なんです。

 政治家って、実は頭がいいんですよね。だから「格差社会を無くそう」なんて叫んでいる人たちの正体って、国民から富を吸い上げて独占しようとしている権力者か、共産主義者の残党か、その手の国と濃ゆい関係を持っている人だと見ていいと思いますよ。簡単に言えば、反日政治家ですよん。騙されちゃいけません。

 雇用を増やすためには、景気回復が必要不可欠なんです。景気を回復させるためには、経済を微妙にインフレにして、日銀がお札をバンバン刷り増す事が必要なんです。そのためには、みんなでバンバンお金を使わないといけないのです。お金をバンバン使って、経済を回す事が必要なんです。もちろん、国内でお金を使わないといけないんですよ。海外で買い物をしたり、外国資本の会社を儲けさせても、あまり効果はありません。国内で国内資本の会社にお金を使わないといけないのです。

 アジアのインフラを整備をする金があったら、東北地方のインフラを整備をするべきだし、東京オリンピックに向けて、バンバン箱モノを作ったり、道路を作ったり、新幹線を通したり、空港を整備した方が、絶対に景気は良くなるんですよ。

 みなさん、分かってますか?

 かつて民主党が政権を奪取した時に「コンクリートから人へ」という政策を実行し、多くの土建業を廃業させましたが、あれこそは国内でのインフラ整備を邪魔する政策であって、日本の景気を未来永劫に悪いままにさせようとした政策だったわけです。

 インフラは常に常に作り続け、整備し続けていかないといけないのです。そして、それが日本経済の下支えになんていたわけです。土建業を廃業に追い込んで、日本経済をダメにしようとした民主党は、本当に反日政党であると思いますよ。

 普天間基地移設問題をこじらせ、福島の原発事故を引き起こし、宮崎の口蹄疫事件を悪化させ、デフレを進行させ、株価を下げ、日本国と日本人の経済力を削ぎに削いだのが民主党なのです。

 怒りのあまり、筆が滑ってしまった…。閑話休題。とりあえず、必要なインフラ整備をバンバンやって、雇用を増やす必要があると私は思います。ひとまず、日本中にある電信柱をすべて廃止して、電線の類をすべて地下に埋設する工事をするのは、いかがでしょう! これをするだけでも、日本は再び絶好調になる…と思いますが。

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2015年4月25日 (土)

本当に、ミカンとミドリは小さいんです

 今、我が家の水槽は、オタキサンとヤヨイとミカンとミドリの四匹体制です。

 オタキサンは、ちょっと前から我が家にいる子ですが、ヤヨイとミカンとミドリは、ごく最近、我が家にやってきた子です。同じお店から、わずか数週間の違いで我が家にやってきたわけです。店にいた時は、三匹とも、同じように小さかったのですが、わずかに早く我が家にやってきたヤヨイと、後からやってきたミカンとミドリに、大きな差が生じております。これが、実に不思議なんですね。

 我が家にやってきた当初のヤヨイは、本当に小さかったんですね。で、ミカンとミドリが後からやってきた時も、やっぱり小さかったんですが、ミカンとミドリがやってきて以来、なんかグングンと巨大化し、あれから一ヶ月ほどで、もうオタキサンと肩を並べるほどの大きさに成長してしまいました。

 金魚って、あっという間に巨大化するのは、今までの子を見ていたので、分かりますが、それでもちょっと早くない?

 一方、ミカンとミドリは、相変わらず、小さいままです。水槽の中にはドジョウたちのためのオブジェがあって、それらはどれも小さくて金魚だと入れない大きさですが、その小さなオブジェの中に、ミカンとミドリはまだ自由に出入りできるほどに、小さいのです。

 我が家にやってきて、グングン大きくなったヤヨイと、いつまでも小さなままのミカンとミドリ。飼い主的には、小さなミカンとミドリの方がかわいいし、おそらく、体調的にもゆっくりと育った子の方が丈夫なので、ミカンとミドリは良いのです。短期間でグングン大きくなったヤヨイは、ちょっと心配です。あれかしらねえ~、やっぱり(ウチの水槽的に)後輩が入ってきたので、先輩の威厳を見せてやろうと、ヤヨイはがんばって無理して巨大化しているのかもね。そんな必要はないのに…と思う飼い主だったりします。

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2015年4月24日 (金)

音大卒業生は多くても、音楽の先生は、ちっとばかり不足しているんだそうです

 フルートのレッスンに行ってきました。ちなみに、次回は職場の都合でレッスンはお休みせざるをえなくて、その次は先生の都合でレッスンがありません。ですから、次のレッスンは三週間後というわけで、今回は、久しぶりのレッスンであるって事も加わって、結構マジマジな気持ちでレッスンを受けてきたりしたわけです。

 ロングトーン練習から気合入りまくりです。でも、音楽って奴は、気合が入ったからと言って、それで良しではなかったりします。でも、久しぶりに気を抜かずに(おいおい)ロングトーン練習をしちゃいました。よくやったね>自分。

 先生に「連休はお休みですか?」と尋ねられたので「ええ、久しぶりに休みなんですよ」と、うっかり真面目に答えたら「じゃあ、練習、たっぷりできますね」と念押しされちゃいました。…(汗)…ははは、連休中はストレス発散優先で遊びまくるので、笛の練習できません…とは言えないよなあ。

 GWは悩んだけれど、やっぱり今年もラ・フォル・ジュルネに出かけるつもりだし…。しかし、ラ・フォル・ジュルネも一時期の沸き立つようなエネルギーが無くなって、すっかりワクワク感が無くなってしまったんだよね。やってくるミュージシャンも、ちょっとばかり小粒になってしまったような気もするしね。だから、今年はやめちゃおうか…とも思ったけれど、なんとなく行くことにしました。なんとなくで申し訳ないけれど、とにかく行けば、新しい音楽との出会いもあるだろうしね。そんな事をちょっぴり期待しているのですが…どうなんでしょうか。

 さて、閑話休題。エルステ・ユーブンゲンは9番と10番です。ロクに練習していませんから、こんな簡単な曲でも、うっかり間違えちゃうわけです。しかし、吹く度に思いますが、真剣に練習できたら、あっという間に暗記できそうな曲ですね。でも、ロクに練習ていないので、全く覚えていません。ダメだな。例によって「音はいいよ。音色は素晴らしい」と誉められました。ま、音が良いのは、私の手柄というよりも、使っているフルートがアルタスだからだよなあ。全く、アルタス様々ですよ。

 プチ・エチュードは10番です。前回までは装飾音符抜きで吹いてましたが、今回は装飾音符を入れて吹いてみました。そしたら途端に迷子になりました。

 一応書いておくと、装飾音符抜きなら、なんとかサマになる程度には吹けるようになったにも関わらず、装飾音符を入れた途端にガタガタになっちゃいました。自分でも笑っちゃうほどです。特にヒドいのは、装飾音符を入れた途端にリズム感…というか、拍感がなくなって、リズム的に曲を見失ってしまう事です。この曲は、八分音符と符点八分音符と三連符が混在して、リズム的に厄介な曲なんですが、そこにたくさんの装飾音符が加わるものだから、拍的に迷子になってしまいました。

 なので、今回は装飾音符を入れた状態で、先生と一緒に譜読みをしました(情けない…)。いやあ、あれこれ間違えてますね…。でも、ひとまず、先生と一緒に譜読みをしたので、あれこれ間違えていた所がチェックできたのは良かったです。

 この曲も音色の良さだけ誉められました。全く音色以外に誉めるところがない私です。次のレッスンまでには、音色以外の所を褒めてもらえるように頑張ってきます。

 さて、今回の雑談は「音楽の先生は不足気味です」って話です。

 日本の学校には、小中高大と音楽の授業があって、それぞれに専任教師が担当しています。日本全国津々浦々に学校はありますから、全国津々浦々で音楽の先生が必要とされているわけです。そこで働く音楽の先生を養成するため音楽大学というものがあるわけです。

 はい、私は、音大という学校は、演奏家を育てるための学校ではなく、学校の“音楽の先生”を養成するための大学だと認識しているわけです。それに実際、日本中の学校の音楽の先生方は、ほぼ皆さん、音大か、総合大学の教育学部音楽科をご卒業されているわけですから、私の言っている事も、そんなに大きく間違っていないと思います。

 とにかく、日本中に音大があって、毎年のように大量の卒業生を輩出しているわけです。いくら、全国津々浦々に学校の音楽の先生のポストがあるとは言え、どの学校には専任教師は1~2名いれば足りるのが現状です。ポストの数と、毎年卒業する音大生の数を比較すると、正直、どう考えても過剰に養成しているとしか思えないのですが…実際は、音楽の先生は不足気味のようなんですね。

 それはなぜかというと、つまり、音大を卒業しても、音楽の先生になる人が少ないので、先生が不足している…みたいなんです。

 その理由は、やはり音大を卒業すると…演奏家になりたがる人が多く、なかなか学校の先生になってくれないからなんだそうです。

 そう言えば、私の知っている音楽の先生方も、大学卒業してすぐに先生になった人もいるけれど、結構多くの人が、中年以降、演奏家としての限界を感じて、学校の先生に落ち着く…という路線の人がいます。やはり、音大を卒業した以上、先生になるよりも、演奏家として生きていきたいんでしょうね。

 H先生が、ある地方都市でコンサートを行った時の話です。コンサートが終わって、打ち上げの時に、近隣の村の村長さんがやってきて「ウチの村には音楽の先生が一人もいないので、ぜひ来てくれないか」と、かなり真剣にスカウトされたんだそうです。きちんと正規雇用をして、給料もかなりの高額を出しますよ…と言われたそうです。条件的には悪くなかったものの、演奏家としてバリバリ活躍しているH先生が、そんな地方の村に引っ込んで学校の先生なんてやるはずもないので、即効で断ったわけだけれど、それでも村長さんは引き下がらず、H先生がダメなら、誰かお弟子さんを紹介して欲しいと頼まれたんだそうです。

 その熱意に打たれて、お弟子さんのうち、全然音楽で食えず、芽も出そうもない子たちに、声をかけたんだそうです。君の場合、いくら頑張ってもプロになれそうもないんだから、ここらで踏ん切りつけて、堅い商売に替えなさい…って言ったわけです。

 結局、誰も、その村には行かなかったんだそうです。皆さん「今はまだダメかもしれないけれど、あきらめられないのです。まだ勉強を続けたいんです」と言って、せっかくの就職口を断ったんだそうです。

 そりゃあそうだよね。青春を音楽にささげて、ヨーロッパまで行って勉強してきたのに、地方の村の学校で先生になれ…じゃあ、あまりに酷かもね。

 たとえ学校の先生であっても、首都圏の学校で時間講師として働くなら、先生業と演奏活動との両立も可能だろうけれど、地方都市(ってか村)で、正規雇用されてフルタイムの学校の先生になったら、演奏活動はやめざるをえないものね。夢を追いかけている人には…そりゃあ、ツライよねえ。

 そんなわけで、音大卒業生は多くても、音楽の先生は、ちっとばかり不足しているんだそうです、特に地方では。なんとも、そうだったわけですね。

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2015年4月23日 (木)

ヴォイス・トレーニングって…何?

 最近、よく耳にするヴォイス・トレーニングって何でしょうか?

 ヴォイス・トレーニングとは、ヴォイスをトレーニングする事ですよね(笑)。つまり“声の訓練”ってやつを、カタカナで書いただけの話です。まあ、具体的に言えば、いわゆる発声練習を中心とする学びです。では、その発声練習で何が得られるのでしょうか?

 そこは実は、曖昧模糊としていますよね。

 そう言えば、私の前の声楽の先生であるキング先生の講座名は、実は“歌”でも“声楽”でもなく“ヴォイス・トレーニング”だったんですよ。

 当時の私は歌(合唱に必要な基本的なテクニック…当時は合唱をしたかった私なんです)を学びたかったのですが、そういう先生が見つからず、やっと見つけたのがヴォイス・トレーニングの先生で、この先生がクラシック音楽出身の方だったので、もしかすると、私の要望に答えて、歌“も”教えてくださるのではないかしらと思って、扉を叩いたという経緯があります。

 それくらい、ヴォイス・トレーニングって、何だか分からないですよね。

 実際、私がキング先生のところで学んでいた時(最初はグループレッスンだったんです)も、色々な志望動機の方が門を叩きました(そして、すぐに逃げ出しました:笑)。

 例えば“歌がうまく歌えるようになりたい”とか“カラオケを上達したい”とかなどは、まだ良い方で“滑舌が悪いのでハキハキ話せるようになりたい”とか“声が小さいので、もっと大きな声を出せるようになりたい”とか“ミュージカル女優になりたいんです”とか言う人もいました。そういう方は、ヴォイス・トレーニングよりも、話し方教室や劇団の門を叩いた方が良いんじゃないかって思います…が、そういう方も扉を叩いちゃうのが、ヴォイス・トレーニングという看板なんです。

 そのうち“声優になりたいんです”とか“アナウンサーになりたいんです”なんて子もやってくるんじゃないかと、当時は密かに楽しみにしていました(少なくとも、私が在籍していた当時は、そういう方は現れませんでした)。

 結局、キング先生はクラシック声楽の人ですから、扉を叩いて入会しても、残ったのはクラシック声楽を習いたいという人だけで、その他の人たちは、最初のお試し期間が終わると、みな姿を消したものです。かく言う私も、最初こそは「合唱に必要な歌のテクニックを教えて下さい」だったわけだけれど、やがてソロ(クラシック声楽)の魅力にはまり、今では合唱など“どーでもいい”状態になり、ソロ一辺倒になったわけだから、人間、何がどう影響するか分かったものではありません。

 そんなわけで、結局、クラシック声楽の人しか残らないのだから、最初から“クラシック声楽”を看板に掲げればいいのに…と思って、先生にそう言った事もありますが、この看板は先生のご意思ではなく、事務方の強い希望なので仕方ないのですという答えをいただいた事を覚えています。

 おそらく、事務方からすれば、最初からクラシック声楽という看板にしちゃうと、本当にクラシック声楽を希望する人しか集まらないけれど、ヴォイス・トレーニングという看板を掲げていれば、元々はクラシック声楽を希望していなかった人も、まちがえて参加しちゃうかもしれないし、そうやって間違えた人の中から、うっかりクラシック声楽の魅力に目覚めて、そのまま学び続けるようになるかもしれない…とそう期待していたようです(私はまさにソレです:笑)。

 つまり、歌関係の教室だと明記すると、生徒が集まらないので、そのあたりをカモフラージュしていた…わけです。ま、これは商売上の方便って奴ですわ。実際、私自身、クラシック声楽という看板が出ていたら、キング先生に習っていたかは…微妙かもしれません(日本で合唱をやっている人は、意味なく、ソリストを嫌う傾向がありますからね)。そういう意味では、事務方の判断は正しいのかもしれません。少なくとも、初心者とか未経験者を相手にするなら、曖昧模糊とした看板の方が良いのかもしれません。

 でも、曖昧模糊とした看板による弊害もあるわけです。

 私がつらつらと見てみると、ヴォイス・トレーニングと名乗っている教室の大半は、やっぱり歌関係の教室が多いです。たまに演劇関係の教室もありますが、多くは歌関係です。ただし、歌と言っても、クラシック声楽もあるけれど、ポピュラー系のお教室もあれば、カラオケ系のお教室もあります。ですから、看板は一緒でも、中身は結構違うわけです。

 私はたまたまクラシック志向が強かったから、キング先生の教室で良かったけれど、そうでなければ、どうなっていたのか? あるいは、話し方とかお芝居のためのヴォイス・トレーニングを求めていたら、キング先生のところだと、どうなっていたのか?

 私が思うに、たぶん、話声のトレーニングと、歌声のトレーニングは違うし、舞台声のトレーニングと生活で使う声(ってか話し方)のトレーニングは違うんじゃないかな? 自分が目的としているものと違うものが出てきたら、やっぱりビックリするよね。

 例えば、見知らぬ街で、ラーメンが食べたくなって“麺どころ○○”みたいな屋号の店に入ったと思ってください。地元民なら、その店が何を出す店か知っているでしょうが、ふらっと通りかかった程度だと、それも分からないわけで、ラーメン食べたい時は、クチの中がラーメンになっているわけだし、頭の中もラーメンになっているから“麺どころ○○”という看板を見たら、勝手にラーメン屋だと思って、店に入っちゃうかもしれない。

 で、その店がラーメン屋だったら良いのです。ラーメン屋でなく、つけ麺屋さんでも、まあ勘弁できるかもしれない。でも実は、そば屋さんやうどん屋さんだったら、ちょっとビックリだよね。スパゲッティ屋だったら、ビックリ程度じゃすまないかもしれない。焼きビーフン専門店だったら…まあ、そんな事はまずないか?

 うっかりそば屋さんに入って、天ぷらそばを頼んで、それが美味しくて、それ以来、そのそば屋の常連になる事もあるかもしれないけれど、ラーメン食べたくて店に入ったのに、ラーメンがなくて、それでガッカリして、何も注文せずに帰ってしまうしまう人もいるわけです。

 だまされたわけではないけれど、なんかだまされたような気がします。それって商売的には、どーなんでしょーね。

 商売として間口が広いのは良い事だろうけれど、せっかくやって来た顧客をがっかりさせてしまうのは、マイナスではないかしらと…商売の事はよく分からない私だけれど、なんかそんな感じがするんですね。

 ヴォイス・トレーニング教室に、話し方教室を求めている人もいるでしょう。そんな人は、うっかり入会しても、居場所の無さを感じて辞めてしまうと思います。

 ヴォイス・トレーニングという看板を見て入会手続きをする生徒さんは、みんながみんな歌が好きってわけじゃないでしょ。実際、キング先生のところも、せっかく入会しても、歌のレッスンになったら辞めちゃた人も多いし…。

 それでも世の中には、ヴォイス・トレーニングの教室はたくさんあって、それなりに繁盛しているわけです。商売のやり方としては、これで正しい…のかもしれません。なんか、気分がモヤッとしたままです。

 蛇足 実はキング先生のところでは、入会希望者が来る度に、通常レッスンを止めて、入会者用の体験特別レッスン(内容は毎回同じ)に切り替わるのが常でした。レッスンは月に2回しかなかったので、入会希望者が続くと、ほぼ通常のレッスンが止まるんですね。発表会が近かろうが関係なく…ね。でも、新規の人はたいてい続かないわけで、だったら、新規の人が来ようが何しようが、通常のレッスンをやってくれよーって、当時は思っていました。だからグループレッスンから抜け出せた時は、なんかうれしかったですよ。

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2015年4月22日 (水)

音楽における加齢の影響

 人は老います。老化します。年を取ると、若い時と比べ、カラダのあちこちに変化が生じます。いわゆる、加齢による影響が出てきます。今回の記事は、某音楽家の方と、加齢による影響について雑談をしたので、そこで出た興味深い話を書いてみます。

 ちなみに今回、私と雑談してくださった方は、私と同年輩のオルガニストさんです。

 やはり年を取って感じるのは、若い時ほどは指が動かなくなるそうです。もちろん、曲が弾けなくなるほど衰えるわけではないそうだけれど、動きに余裕が無くなってくるんそうです。まあ、これは素人でも、なんとなく想像できます。

 面白いのは、指の動きは鈍るそうだけれど、足(オルガンは足も演奏に使います)は、それほど鈍るようには感じていないそうです。まあ、元々、足は指ほどスピーディーな使い方はしないので、まだ感じていないだけなのかも…と言われてました。

 視力が弱まって、楽譜が見えづらくなるとも言ってました。特にオルガンの場合は、他の楽器と違って、演奏する場所がだいたい暗いんだそうで、元々楽譜は見えづらい傾向があるんだそうだけれど、年を取ると、それがますます顕著になってきたんだそうです。対抗策としては、楽譜の拡大コピーで乗り切っているんだそうです。

 衰えるのは視力だけでなく、暗記力も衰え、暗譜するのがドンドン面倒になってくるんだそうです。暗譜に困難を感じ始めると、それに伴って、新しい曲にチャレンジするのが、ますます億劫になってくるんだそうです。若い時は、レパートリーの拡大に努めていたそうだけれど、今はレパートリーを増やすよりも、レパートリーを深めていく事を重点的に行っているそうです。まあ、実際の話、コンサートなどでは、限られた曲しか演奏しないので、レパートリーが増えなくても、職業的にはあまり問題ではないんだそうです。それに我々の年代だと人生経験も豊富ですから、同じ曲でも、若い時とはまた違った味わいになるので、レパートリーを深めていくというのも、それもまた良しなんだそうですよ。

 時折、自分が老いた事を忘れて、うっかり若い時と同じような感覚で、思わぬ失敗をしてしまうのだそうです。感覚は若い時のままでも、カラダはすでにご老体って事なんですね。

 意外に思ったのが、老化とともに、絶対音感が狂い始めてきたんだそうです。聞こえてくる音と認識する音にズレが生じるようになったのだそうです。ですから、そこを常に知的に修正していかないとマズくなったんだそうです。ちなみに彼女の場合、若い時と較べて、音が半音高く聞こえる(ってか認識してしまう)ようになったのだそうです。だから、耳で聞こえた音を頭の中で半音低く変換して処理しないと、色々とヘマるようになったんだそうです。

 元々絶対音感なんて持っていない私には、理解できない世界の話でした。

 あと、年を取るに従って、なんとなくリズムのキレが悪くなってきたなあと自覚するようになったんだそうです。速いテンポの曲に対応するのが面倒になる…と言うか、遅いテンポの曲を好むようになってきたんだそうです。

 そして何より、年を取って、人も古びるけれど、楽器も古びるようになって、自宅の(練習用の)オルガンも頻繁に修理するようになり、自分と一緒に楽器も年取っていくんだなあって思うんだそうです。

 音楽家ってカラダを使う商売ですからね。ある意味、老化というものを、我々一般人よりも強く意識する職業なのかもしれないなあって思いました。

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2015年4月21日 (火)

歌なんて簡単です…なんて、誰が言ったの?

 先日、私の趣味である“見知らぬ人の発表会に行く”を決行しました。それも1日で2門下の発表会をハシゴです。いやあ、ほんと、素人さんの歌が好きな私です。

 両門下の発表会とも、実に興味深くて楽しかったですよ。

 最初に行った発表会の先生は、声楽家ではなくピアニストさんでした。ピアニストさんが声楽教室を開いていて、そこで声楽を習うのって、どうなの?って思いました。だって、先生ご自身は歌えるわけでもないし、発声指導できるわけ無いし、模範歌唱もできないし、どうなっているんだろう?って思ったわけです。

 でも聞きに行って、この門下もアリだなって思いました。発表会のピアノは、当然の事ですが、ピアニストである先生自ら演奏されていたわけですが、考えてみれば、この門下の生徒さんたちは、いつもこの先生のピアノで歌っているわけです。つまり、普段の練習の時から本番ピアニストさんと合わせているわけですよ。

 これ、すごいアドヴァンテージですよね。おまけに、歌っていた曲目がなかなか面白かったです。他所の声楽発表会では、なかなか聞けないような名曲がたくさんありました。そりゃあそうですよ、伴奏ピアノが難しくて、なかなかレッスンしてもらえないような曲も、先生がピアニストなら楽勝ですものね。選曲に幅があって当たり前っもんです。

 私もいずれ自分の発声が完成した暁には、ピアニストさんが先生をやっている声楽教室に通って、音楽としての歌を学び、レパートリーの幅を広げるのも悪くないかなって思いました。

 その後に行ったところは、手広くやっている先生のところの発表会で、60組6時間の規模の発表会でした。すごいなあ…。まあ、私は最初からではなく、途中から聞いたわけで、60組すべての演奏を聞いたわけではありませんが…。キング先生のところ(40組4時間)もスゴイけれど、それ以上の規模の発表会でした。それだけ大勢の生徒さんがいると、すべてがクラシック声楽と言うわけにはいかず、ミュージカルもJ-POPもありましたけれど、まあ、選曲に幅があって楽しかったですよ。

 どちらの発表会も出演者の皆さんが一生懸命に歌っていて好感が持てましたし、私自身も色々と勉強になりましたし、チャンスがあったら歌ってみたい曲も数曲見つけました。それにここんところ、仕事が忙しくて心が参っていましたが、ちょっと元気を取り戻せました。

 それにしても、アマチュアの、とりわけオトナの趣味人たちの発表会に行って思う事は『歌なんて簡単です』と、うそぶく人たちの無責任さです。

 実際に、ネットでは、そんなふうに言っている人たちを、よく見かけます。私は、そんなふうに言う人達には、三種類の人間がいると思ってます。それは、1)天才 2)商売人 3)嘘つき です。

 世の中には天才と呼ばれる人がいます。クラシック声楽の世界にも天才はいます。私の前の先生であるキング先生も、よくご自分の事を天才だと言ってましたし、実際に豊かな才能の持ち主だと私も思います。あれだけの才能を持っていれば、歌なんて簡単なんだと思います。だから、天才が「歌なんて簡単です」と言っても、それはある意味、正直な発言なんですが、我々凡才に対する想像力と配慮に欠ける発言と言えます。

 商売人も「歌なんて簡単です」と言います。もちろん、この場合の商売は、声楽教師という商売ですね。だって「クラシック声楽は難しいです。オトナになって始めたって、そうそう簡単に歌えるようにはなりません。数年もの間、真面目に練習しつづけないと上達の兆しさえ見えないでしょう。そういう意味では、気軽に始められるモノではないかもしれません」なんて正直に言ったら、多くの人が習おうとする前に諦めてしまうでしょう。それでは、せっかくのビジネスチャンスを不意にしてしまうわけですから「歌なんて簡単です」と言うしかありません。商売上の方便って奴ですね。この場合は、ビジネストークと見抜けずに、真に受ける方が馬鹿なのかもしれません。

 三番目の嘘つきは、人として論外です。

 ほんと、オトナの趣味人にとって、歌は難しいですよ。今回は、それを強烈に思わされました。だって、この日だけで、30人以上のアマチュア歌手たちの歌を聞きましたが、当然の事ですが、どなたの歌唱も熱心だけれど、たいていどこかにキズがありました。CDのように歌える人なんて、せいぜい片手程度しかいませんでした。それって、絶対に「歌って簡単なんです」って言えるレベルの話じゃないよね。

 ほんと、歌って難しいんだなあって思いました。でも、どんなに難しくても、練習をし続けていれば、少しずつは上達していく…と思いました。だから、私も頑張ろうって思ったわけです。

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2015年4月20日 (月)

ままよ、ままよ

 先日、ネットを徘徊していたら『アナと雪の女王』の『Let it go』の古文訳バージョンを見つけました。私が見つけたのはオリジナル(?)のもので、歌詞を英語から古文に訳された石敢當さんご自身が歌っているモノでした。

 いやあ、衝撃でしたよ。今どきの歌を、それも洋楽を古文に訳して歌っちゃうんですから。

 まあ、訳された歌詞が学術的に正しいかどうかは別として、その心意気が素晴らしいと思いました。もっとも、歌詞の正否もそうだけれど、平安時代と現代では、日本語の音韻が相当違うわけだから、現代語風の発音で歌ってしまっては、実はそれは厳密には違うのだけれど、まあ、そんな事はどうでもいいじゃない。古文(文語)で歌っているのが素晴らしいんです。

 そして、実際に歌われている石敢當さんの歌唱力も実に素晴らしいです。それだけでも聞く価値ありなんです。

 ただ、残念なのは、この方、男性なんですよ。だから男声で歌われているんですね。でもやはり、この曲は女性の歌で聞きたいじゃないですか。

 探しましたよ、女性が歌っている古文バージョンをね。

 そうしたら、見つけました。それがこれです。この画像は女性が歌っている上に、歌詞(古文&その現代語訳)が付いているので、なかなかよいですね。難点を言えば、歌唱力は、まあまあなんですが、録音があまり良くない(ってか、エコーの掛け過ぎ)のが残念かなって思いました。でもやはりスゴイよね。

 ちなみに、歌われている歌詞はこんな感じです。

雪深み山の夜は
跡だに分かず

ひとりゆく我こそ
新山守(にいやまもり)よ

山おろし漏る木(こ)の下風は
神にはえ隠さじ

なさせそ、な見えそ
つねには用意すべし
ふたぎて、隠しね
いかでか

ままよ、ままよ
さもあればあれ
ままよ、ままよ
置きて門鎖(かどさ)せ
いさや
人は言へ
風よ吹け
などかは寒かるべき

漕ぎ出でて見れば
やすげなり
心の鬼も
消えにけり

今こそ見るべけれ
えなさぬことなし
ほだしなく思いの
ままに

さこそ、あらめ
風となり空に
ままよ、ままよ
さらに泣くまじ

我は
ここなり
風よ吹け

ちはやぶる神のいはばしる
水もこほりて千々に降りそそく

あはれ垂氷(たるひ)も珠(たま)のごと

ゆめ帰るまじ、悔ゆるものかは

ままよ、ままよ
春はあけぼの

ままよ、ままよ
谷の底なれ

蓮(はちす)はたふとからずや
風よ吹け

などかは寒かるべき

 この古文は、英語詩から訳したそうなので、我々が知っている日本語詩とは一部内容が違いますが、まあ、それは大した問題ではありません。それにしても、やはり古文って、歌に合いますね。現代語は冗漫で歌詞向きではないと常日頃から思ってましたが、こうやって古文(ってか文語)の歌詞を見ると、それを強く思います。しかし、耳で聞いて意味が取れないのではダメですから、今や文語の歌詞の歌が絶滅してしまっても仕方ないのですけれどね。

 それにしてもネットって、おかしなものが転がっているんですね(笑)。

 で、こういう変化球な歌を聞くと、本物が聞きたくなるものです。で、おクチ直し用に、本物(笑)も貼りけておきますね。

 いやあ、やっぱり、英語で歌うイディナ・メンゼルよりも、こっちの方が絶対に良いよね。

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2015年4月19日 (日)

どこから湘南? どこまで湘南?[2015年4月第3週・通算10週]

体重:105.2kg[-0.6kg:-9.6kg]
体脂肪率:29.9%[+-0.0%:-3.5%]
BMI:33.2[-0.2:-3.2]
体脂肪質量:31.5kg[-0.1kg:-6.9kg]
腹囲:104.3cm[-0.7cm:-11.7cm]
     [前回との差:2015年当初との差]

 湘南って、一体、どこにあるんでしょうね?

 湘南という地名は有名ですが、実は地図に載っている地名…ってわけじゃないんです。もちろん、湘南○○という地名とか法人名とかならあるんですが、ずばり“湘南”という地方自治体があるわけじゃないんです。あくまでも湘南とは地方名であって、それも行政的な地方とはあまり関係のない地方名なんです。つまり、俗称っぽい地方名なんです。

 まあ、車のナンバープレートに、湘南ナンバーがあって、公的な“湘南”って、これくらいじゃないかな? でもまあ、これだって、元々あった相模ナンバーを人口増加のために二つに分ける事にして、その人数が半々になるように地域割りをした結果、生まれたナンバーであって、別に地域性を加味して作ったわけじゃないから「湘南ナンバーの地域だから湘南」とは言えないし、そんな湘南は、あんまりアテにはできないね。

 そんなわけで、どこからどこまでが湘南なのか、規定されていないわけで、それゆえに、とても広い範囲の人たちが「自分たちが住んでいる地域が湘南である」と言い張っている現状があるわけです。

 まあ、私もその手のクチの一人なんだけれど…ね(笑)。

 湘南…元々の話をすると、大磯の海浜地域の風景が、中国の湘南地方に似ているので、あのあたりを“湘南”と呼び始めたと聞いたことがあります。でも、まあ、これは“そもそも論”であって、今の大磯は一般的には湘南ではなく、西湘と呼ばれる事が多いです。西湘…つまり、湘南の西隣の地域…って事です。

 じゃあ、今の湘南ってどこ?って話ですが、どこでしょうね?

 湘南のイメージというと、海と砂浜と…江ノ島かな? おそらく、江ノ島とその対岸地域は湘南と呼んでも間違いないと思います。じゃあ、その対岸地域って、どこなんですか?って話にもなりますが、海と砂浜…で考えるなら、湘南砂丘がそれなんじゃないかなって思います。

 湘南砂丘? それって美味しいの?

 いやいや、別に美味しくはないし、有名でもないけれど、そういう砂丘があるんですよ。ローカルな地名で説明すると、片瀬山のふもとから相模川の河口までの海岸地域が湘南砂丘となります。もっと具体的な地名で言えば、片瀬とか鵠沼とか辻堂とか小和田とか菱沼とか南湖とか、まあそのあたり。柳島とか中島は、昔は本当に島(ってか中洲)だったので、湘南砂丘には含めるかどうかは微妙かもしれません。

 もう少し全国の皆さんに分かりやすく説明すると、神奈川県の藤沢市と茅ヶ崎市の、東海道(国道1号)以南の海岸地域と言えば、地図で確認できると思います。たぶん、ここが、コアな湘南なんだと思います。

 じゃあ、そこ以外は湘南ではないのかと言えば、私は「それはちょっと違うんじゃないの?」って思います。と言うのも、湘南って、一種のファンタジーだと思うんですよ。「みんなの心の中に、湘南はある!」ってなもんですよ。だから「ここは湘南だ!」と思うなら、それでいいんじゃないかって思うわけです。

 とは言え、一応、神奈川県限定だよね…という制限はあると思いますよ。でも、逆に言ったら、神奈川県内で「ここは湘南です」と思う地域があるなら、そこは湘南って事でOKという事にしましょう。つまり、神奈川県であって、横浜でなく、川崎でなく、鎌倉でなく、逗子でも葉山でもなく、横須賀でなく、小田原でなく、箱根でない地域は、どこでも湘南でいいじゃん。湘南って、神奈川県みんなの共有財産って事でいいでしょ。

 だってね、神奈川県には、横浜とか、川崎とか、鎌倉とか、逗子とか、葉山とか、横須賀とか、小田原とか、箱根とかの、全国レベルで有名なブランドの地名がわんさかとあるわけで、それ以外の地域を湘南ってひとくくりにしちゃえばいいじゃん。

 元々、神奈川県なんて、ちっこい県なんだし、それらの有名ブランドを除けば、ほんとすずめの涙程度の広さしか残らないんだから、全部湘南でいいと思うわけですよ。海から少々距離があっても、潮風の香りなんて全くしなくても、そこに住んでいる人たちが「ここは湘南」と思うなら、そこは湘南でいいじゃない。

 つまり、湘南とは『“神奈川県内にある、さほど有名ではない地域”全般を言う』って事で、どーすか!

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2015年4月18日 (土)

オタキサンを怒らせたのがマズかったと思うわけです

 先日…ってか、話は約一ヶ月ほど前に戻ります。

 ある日、水槽でメダカの死体を発見しました。まあ、命あるものは必ず死ぬわけだし、元々、ホノカが帰ってきたら(まだこの時は、ホノカは健在で病気だったけれど元気でした)、彼女の生き餌になる予定の子たちなので、あまり悲しがっても仕方がないと思い、きわめて事務的に処理しようとしました。

 ところが、そのメダカの死体を水から引き上げてみると…なんと、頭部がありません。よく見ると、カラダにちぎられたような跡があります。

 どうも、頭からパクっとかじられて、ポイっと吐き出されたようです。となると、犯人は…メダカの頭部を丸かじりできるほどの大きなクチの持ち主と言えば…オタキサンしかいません。

 「いやあ、オタキサンのクチにメダカが入るんだ~」 ビックリです。

 でも、よく見ると、頭だけ食いちぎって、吐き出しているんですね。生き物で一番美味しいのは、腹部なんです。だから、腹部だけ食いちぎって、残りは吐き出す…というのなら分かるんですが、今回は美味しい腹部はしっかり残っているので、エサとして食われたわけではないと思われます。

 …となると、食べたくて食いついたのではなく、脅しとしてかじった…のかもしれません。そう思って、水槽を見てみると、それまでオタキサンにはたくさんのメダカがまとわりついていましたが、それらが一匹もいません。それどころか、水槽が明らかに分かれています。右側(デレビ側)に金魚がいて、左側(餌場付近)にメダカが群れで固まっています。ついこの前まで、群れを作ることなく、てんでバラバラに好き勝手に泳いでいたメダカたちが、群れて固まっているんです。

 もちろん、その群れの中にオタキサンが泳いでいこうものなら、メダカたちはサーと分かれて逃げ出します。どうも、メダカが金魚を恐れているようです。

 オタキサンは、普段は温厚な子なのですが、その温厚な子が切れたんでしょう、その切れ方がとても怖かったんでしょうね。なので、ノーテンキなメダカたちも、その怖さに恐れいったのかもしれません。

 まあ、あの時は、脅しとしてメダカをかじったのかもしれません。やはりやる時にやらないと、小物になめられるって事ですな。まるで、どこかの国の話みたい(笑)。

 しかし、あれから一月ほど過ぎ、よく水槽を見てみると、どうもメダカの数が減っているような気がします。本来はまだ18匹いるはずのメダカなんですが、ちょこまか動くので、きちんと数えられないのですが、どうも18匹はいないみたいなんです。7~8匹程度かな? まあ、メダカもあっちこっちに姿を隠すようになったので、もう少しはいるみたいなんですが、それでも18匹はいそうもありません。

 最初は脅しでメダカをかじったのでしょうが、それが契機となってメダカの味を覚えてしまい、今ではたまにご馳走として食べている…のかもしれません。

 まあ、元々、ホノカに食べさせるため(?)に買ってきたメダカですから、オタキサンが食べてしまっても構わないのですが、金魚とメダカの混泳水槽が好きな私ですから、メダカの全滅は、なんとか避けたいと願ってます。

 メダカたちもオタキサンにちょっかいを出してしまったのが敗因だよね。それまで、金魚たちは誰もメダカの味を知らず、食べようとはしていなかったんだから。オタキサンにしつこくまとわりつき、からかったから、オタキサンが切れて、メダカを脅したんだろうけれど、それで味を覚えてしまい、小腹がすくたびにパクパク食べるようになってしまったんだろうって事です。

 まあ、たとえ水槽の中とは言え、弱肉強食ですからね。ちなみに、タニシも数がとても減ってしまいましたが、こっちは主にドジョウたちが食べているようなんです。

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2015年4月17日 (金)

フルートに“ご機嫌”ってあるのでしょうか?

 フルートのレッスンに行って…来れませんでした。いやあ、やっぱり、今の時期は自宅練習もできなきゃ、レッスンに通うのも無理ですね。去年もそうだったけれど、今年もどうやら無理みたい…。先生は「練習しなくてもいいからレッスンにいらっしゃい」とはおっしゃってくれるけれど、レッスンの時間はまだ職場でバリバリ働いているから、無理無理(涙)。まあ、以前のように、自分のペースで働けるなら、時間なんて何とでもなるけれど、今は部下に任せる仕事も多く、部下が一生懸命に働いているのに、それを見捨ててレッスンに行くわけにもいかないので、彼ら彼女らの仕事が一段落するまでは、私もそれに付き合わなきゃいけないわけで…ううむ、部下にやらせるよりも、自分一人でやった方が、仕事なんて、よっぽど速いし確実だけれど、部下を育てるのも私の大切な仕事だから、今日も忍耐忍耐なのでした。ふう~。

 と言うわけで、今週もフルートエッセイでお茶を濁すことにします。

 よく、ネットを見ていて見つけるのは「最近、フルートの調子が悪くて、音が冴えないのだけれど、フルート/頭部管を買い換えたらいいのかしら?」とかいう愚痴(笑)。まあ、気持ちは分かります。私も以前は似たような気持ちになる事、多かったです。「アゲハ(私のフルートの名前です)は、ほんとツンデレで吹くのが難しくて、最近は良い音で鳴ってくれない事も多いなあ…。いっそ、頭部管を買い替えちゃおうかな~」なんてね。あるいは「今日はアゲハのごきげんが悪いみたいだなあ。うまく鳴らないや」とか…ね。

 問題は、本当にフルートの調子が悪いのかどうかですね。

 実はフルートの調子なんて、どうでも良くて、単純に新しいフルート/頭部管が欲しいだけだったりする時もあります。でも、ちょっと躊躇する気持ち(だって安くないもん)があったりして、それで自分に「フルート/頭部管の調子が悪い」と言い訳をしているだけなのかもしれません。

 オトナなんですから、フルートを買い替えたければ、四の五の言わずに買い換えればいいんです。言い訳はいりません。必要なのは軍資金だけ(笑)。軍資金が用意できるなら、さっさと買い換えちゃうのが吉です。それは頭部管だって同じ事です。別に今使っているフルートの調子うんぬんなんて言い訳をしては、今のフルートに申し訳ないし、関係ないでしょ? 趣味のモノなんて、欲しい時が買い時。自分に言い訳は不要です。特にフルート関係は高額商品が多いですから、バンバン購入して、日本経済に貢献しましょう。

 次は、物欲が原因ではなく、本当にフルートの調子が悪い…と感じている時の対処方法です。

 まず、一度冷静に、ご自分のフルートの音を聞いてみましょう。吹きながらでもいいし、録音をしてもいいし、ご自分の代わりにご友人に吹いてもらってもいいでしょう。冷静になって、第三者的な気分でご自分のフルートの音を聞いてみることが大切かもしれません。

 そうしてみると、色々と分かる事があります。

 まず、メカの調整はきちんとしていますか? メカの調整がうまく行ってないと、フルートは音が不揃いになり、それで調子悪く感じる事があります。もしも、あなたが毎日フルートを吹いているなら、調整は半年ごとに行うのが良いと思います。毎日でなく、たまに思い出したように吹く程度でも1年ごとの調整は必要だと思います。フルートって、購入すれば、それでお終いといったタイプの楽器ではなく、半年~1年ごとにプロの職人さんによるメンテナンスが必要な、繊細…と言うか、面倒くさい楽器なんですよ(笑)。調整を怠っていると…そりゃあ調子が悪くなっても仕方ないです。

 次。本当はフルートの調子が悪いのではなく、ご自分のフルートの音に飽きてしまった…と言う事はありませんか? あるいは、現在のフルートの音が、ご自分が理想とする音とは、かなり違うという事はありませんか? もしそうならば、それはフルートの調子が悪いのではありません。フルートの音色を見直す必要があるだけです。

 こういう時はどうしたら良いか? あなたが初心者か、まだそのレベルの奏者だったら、フルートを買い換えちゃうというのが、一番手っ取り早い方法かもしれません。フルートは、メーカーごとに、モデルごとに、それぞれ違いがあり、音色もそれぞれに(微妙に)違うので、フルートそのものを買い換える事が良いかもしれません。

 しかし、あなたが中級者以上なら、フルートを買い替えても、音色に関しては、あまり意味はないかもしれません。と言うのも、中級レベル以上の方だと、どのフルートを使っても、たぶんフルートから出てくる音は同じになっているからです。つまり、フルートそのものが持っている音色よりも、奏者自身が持っている音色の方が支配力が強くなり、結果として、どのメーカーのどのモデルを吹いても、同じような音しか出なくなります。ですから、中級者以上の方がフルートを買い替えても、その音色が劇的に変化することはありません。

 ではどうするべきか? 簡単な話です。音作りに励みましょう。それだけです。

 音が不揃いなわけでもなく、音色に飽きたわけでもなく、でも、ほんと、日によって出てくる音が違うのです…という場合は、本当に楽器のご機嫌を伺いたくなりますよね。以前の私がそうでしたので、その気持ちはよく分かります。でも待ってください。楽器って、フルートって、無機物ですよね。無生物ですよね。そんな無機物で無生物であるフルートに、ご機嫌なんて、あるわけないです。

 フルートは楽器です。もう少しはっきり言えば、ただの道具です。音楽を演奏する時に使う道具なんです。道具にご機嫌なんて、そんなものあるわけないです。そこにあるのは、その道具を使いこなせない自分がいるだけなんです。

 フルートのご機嫌が悪くなる時って、どんな時でしょうか? ちょっとフルートを吹かなかった時期があった…とか、違う楽器に浮気していた…とか、まあそんなところじゃないでしょうか? それって、実はフルートのせいではなく、ご自分のせいなんですよ、知ってましたか? しばらくの間、フルートを吹かなかったので、フルートの吹き方を忘れてしまったとか、フルートを吹く大切なポイントのいくつかを省いてしまったとか、フルートを吹くのに必要な筋力が落ちてしまったとか…まあ、そんな感じでしょうね。

 そんな時は、原因は自分にあるわけですから、まずは落ち着いて、きちんと練習を再開すればいいだけです。先生に見てもらうのもよいでしょう。そうすれば、やがて元通りにフルートが吹けるようになります。

 複数のフルートを吹いている人は注意しましょう。フルートって、それぞれに癖があります。同じような吹き方ををしていたら、この楽器はOKだけれど、こっちはダメとなりかねません。初心者のうちは、複数の楽器に手を出すのは控えるべきでしょうね。演奏技術に余裕を感じるようになったら、楽器の複数所持も面白いかもしれません。フルートを複数持っている人は、そのフルートごとに吹き方を変えていく必要があります。それができれば、どのフルートもきちんときれいな音で鳴ってくれるようになると思いますよ。

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2015年4月16日 (木)

なぜ我々は音楽を習うのでしょうか?

 いい年したオトナが、時間とお金を使って、音楽の習い事をする。本来、オトナと言うのは忙しい存在なわけで、趣味なんかしている暇はないのが普通で、ましてやコンスタントに練習が必要な音楽を学ぶなんて、ありえないわけです。

 でも我々は、そこを乗り越えて、オトナの趣味人として音楽の習い事に勤しんでいたりするわけです。でも、なぜそんな事をしているのでしょうか?

 私自身、自分に問いかけてみたところ、答えは簡単には得られませんでした。

 まあ、根幹には「音楽が上達したい」と言う気持ちはあります。「歌をうまく歌えるようになりたい」とか「かっこよくフルートを吹いてみたい」とかもありますが、それだけの事で音楽を学んでいるわけではないですね。

 私の場合は“老後の備え”というのがあるかな? 長生きをして、仕事をリタイアした後も、健康で元気なら、その隠居生活をどうやって彩ったらいいか…と言うことを、現役である今から考えて、音楽を学んでいるという部分は、正直あります。

 私は元々音楽好きだし、聞くのも好きだけれど、演奏するのも好きです。音楽を聞くだけなら、自分なりに音楽を聞いて楽しめばいいわけで、特別な訓練はいらなく、音楽ファンとしての経験さえ積めば、結構楽しめるようになれるだろうけれど、演奏する方は、やはり、きちんと演奏のための訓練をして、ある程度の腕前にならないと楽しめないという事は分かります。

 では、隠居後から演奏の訓練を始めて、演奏を楽しめるようになれるか…と考えたわけです。別に楽しめるようになれないわけではないだろうけれど、隠居後は、今よりもずっと老いているわけで、カラダも気持ちも老いている事は容易に想像できました。目も見えなくなっているだろうし、耳も聞こえなくなっているでしょう。ボケも入るかもしれないし、何よりも色々な事に対する反応が鈍くなっているだろうし、記憶力だって弱まっているはずです。

 そこからだって音楽を始める事は可能だけれど、そんな年を取った状態で、ゼロから音楽を始めるのは…ちょっと厳しいかもしれない…と思いました。だって、訓練と言うのものは何であれ、体力的にも精神的に負荷がかかるわけで、隠居後の私にそれができるかどうか…ちょっぴり不安になりました。そこで、現役のうちから音楽を始めて、まだ多少なりとも若さの残っているうちに、最初の苦しい時代を乗り越えてしまえば、隠居後は、それなりに楽しく音楽で遊べるんじゃないかって考えたわけです。

 だから、今のうち、歌にせよ、フルートにせよ、ある程度上達してしまって、隠居後は、それらで遊ぶ事を目指したいと考えたわけです。

 なので今、毎日が忙しくても頑張って音楽を学んでいるわけです。私の場合は、こんな感じでしょう。

 妻も音楽を上達したいという気持ちはあるでしょうが、それに加えて、夫婦で一緒に遊びたいという気持ちがあるようです。ある意味、けなげですね。夫が歌を習っているなら、自分も一緒に歌を習って楽しみましょうってわけです。

 ちなみに彼女は、歌は一緒に歌ってくれますが、楽器は一緒にやってくれません。私がフルートを学んでいるからと言って、別に一緒にフルートをやってくれなくてもいいのですが、ピアノでも習ってくれると、二人で合わせられて良いのですが、そこまで手を広げられないようです。まあ、ピアノは難しいですからね。

 私の友人たちを見ていても、音楽を上達したいというだけでなく、その他にも様々な動機を抱えて、音楽を習っている人が、多いですね。

 例えば…“自分探し”とか“自分磨き”。比較的若い女性に多い動機です。“お友達作り”は、おばちゃん世代に多いように見受けられます。“ボケ防止”とか“リハビリを兼ねて”は、年配世代に多いように見受けられます。

 “カラオケ上達”を目的に歌を習い始める人って、すごく多いのですが、その理由で長続きをしている人って、私は知りません。私の知らない所にはいるのかもしれませんが、少なくとも私の周囲には「カラオケを上達したいので、クラシック声楽を学んでいます」という人はいませんねえ…。まあ、カラオケで歌う歌とクラシック声楽では、歌のジャンルが違うので、その違いに気づいた時点でヤメテしまうのかもしれませんが、バレエがすべのダンスの基礎であるように、クラシック声楽はポピュラー音楽の基礎であるので、習い続けていても面白いだろうにと私は思うのですが、やはり結果とダイレクトにつながらないので、辞めちゃうんでしょうね。

 個人レッスン中心の習い事だとこんな感じでしょうが、市民合唱団とか市民吹奏楽団とかだと、また違った理由でやっている人もいらっしゃるでしょうね。まあ、そっち方面に関しては、また稿を改めて書く…かもしれません(笑)。

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2015年4月15日 (水)

とりあえず、二重唱はカットの方向で

 さて、声楽のレッスンの続きです。

 二重唱はレチの部分が終わったところで、疲れてしまったので、妻と交代し、しばしの休息を取ってから、今度は、モーツァルト作曲の「コジ・ファン・トゥッテ」のテノールアリア「Un'aura amorosa/恋のそよ風」の練習に入りました。二人でレッスンを受けていると、こうやってレッスン中に休めるのが、良い点かもしれません。なにしろ、職場から直接レッスン教室にやってきているので、本当、クタクタのグロッキー状態でレッスンを受けているわけですから、声は大丈夫でもカラダがついていけません。休憩は大事です。

 さて、モーツァルトです。この曲に関しては、私の場合、実に出来不出来の差が多いです。と言うのも、この曲に関して言えば、やるべき事をきちんとやれば、ちゃんと歌える所まで仕上げてきました(おおっ)。問題は、常に「やるべき事をきちんとやれているか」って点ですね。

 それくらい、モーツァルトはテクニカルなんです。ノリで歌える曲じゃないんです。ですから、気分とか体調とかには関係なく、必要な事を正しい手順でグッドなタイミングで行えているかどうか…ただ、それだけなんです。で、私はノリで歌っちゃう人であって、テクニカルな人ではないので、そんな“必要な事を正しい手順でグッドなタイミングで行う”のが難しいと言うか、ついつい感情にまかせて、なおざりになってしまうのです。

 ほんと、ダメだな(涙)。

 高音に関しては、最近は数少ない自宅練習(笑)では決められる事も増えましたが、レッスンではダメでした。レッスンでも、きちんと決められないと、本番では無理でしょうね。うむ、まだまだな私です。先生がおっしゃるには、高音ラは別に失敗しても良いとの事です。それよりも大切なのは、その失敗を、その後にひきづらない事だそうです。なので、高音ラが低くなっても、その後をきちんと歌えるなら、特に問題ではない…との事です。

 要は、その後にひきづらないような失敗の仕方をしないといけない…っ事です。そのためにも、高音ラの前に、しっかりとクチ(奥ですね)を開ける事、しっかりと息を支える事、しっかりと声を回す事。これらが出来ていれば、高音ラが失敗しても、その後には影響がないわけですが、それらがうまく出来ないまま高音ラを失敗すると…その後、ボロボロになるわけです。

 逆に言うと、これらがきちんと出来ていれば、高音ラをきちんと歌わなくても良いわけです。で、きちんと歌わないとは、気合を込めて歌いあげるのではなくて、どちらかと言うと、投げやりに歌う? 投げ出して歌う? なんかそんな感じで「えいやっ!」と歌っちゃうのが良いみたいです。つまり「高音ラだからと言って、意識したら負け」って事ですね。でも私はいつも「次は高音ラだ、やってやるぜー」って感じで臨むので、ダメらしいです。

 とにかく、歌は気合で歌っちゃダメなんですね。そんな歌い方をされると、聞いていてウザいと言うのもありますが、全編入魂で、最初から最後までクライマックスな歌い方をしていると、疲れちゃうわけです。疲れちゃうと、やるべき事が全く出来なくなってしまうわけです。歌は常に余裕を持って、ヘラヘラと歌う事が肝心で、決め所だけをきちんと歌えば、それで良いし、聞いている方も、そういう歌の方が好感を持てるわけです。

 暑苦しいのはダメって事です…ああ、どーしましょ。

 音がうまく取れていなかった箇所が数箇所あったので、その部分だけ、1オクターブ下げて練習しました。いやあ、1オクターブ下げて歌うのって、難しいです。先生は歌いながら、1オクターブの移動を何気なくやられますが、私には難しいし、1オクターブ下げて歌うと、曲が全く別物に感じますが…確かにこうやって音程を確認しながら歌うのは、良いやり方なのかもしれません。

 で、モーツァルトが一段落ついたところで、再び二重唱です。今度は妻とのデュエット部分の練習をしました。

 妻とのデュエット部分は、普通に歌なので、アリアっぽく歌えば良いので、歌い方に関しては特に注意はありませんでした。ただ、ハモる箇所が数箇所あるので、音程に関しては、一人で歌う時よりも、ずっとシビアに歌わないといけません。

 後は、二人で息を合わせて歌う部分のテンポやらブレスのタイミングやらの確認ですね。夫婦だからと言って、いつも一緒に練習できるわけじゃない…ってか、まず練習を一緒にするわけではありません。それぞれが練習できる時間帯は違うわけだし、二人で合わせるのも大切だけれど、とにかく一人できちんと歌えるようになるのが先決ですからね。

 この曲はカデンツァがあって、今回はごく普通に歌われるカデンツァを採用しましたが、このカデンツァを歌うテンポの打ち合わせがまだまだなので、妻とは全く合いませんでした。ただでさえ難しいのに、フリーテンポで歌うわけで、まあ、妻のほうが歌うのが大変なので、彼女のテンポで歌いたいと思ってますが、どうも彼女がどう歌いたいのか、今ひとつ私には分かりかねるので、そこのところの打ち合わせをピッチリしないといけないのですが…どうもその時間が取れなくて、グダグダになってしまいました。なんかねえ。次のレッスンまでには、なんとかしないといけないだろうなあ…。

 とにかく、歌がきちんと歌えないと、演技が付けられませんから、さっさと歌を歌えるようにしないといけませんな。ああ、それにしては、仕事が忙しくて、プライベートに時間が割けないのが、悲しい悲しい(本末転倒ですな)。

 そうそう、この二重唱は、後ろの1/3をカットする事が決定しました。やはり、発表会では時間が足りないのです。なので、日を改めて、場所を変えて、この歌のノーカット版を歌う事にしました。さあ、では一体、どこでノーカット版を歌いましょうか(笑)。

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2015年4月14日 (火)

レチタティーヴォが楽しくなってきました

 声楽のレッスンに行ってきました。

 最初は発声練習からです。発声は、軽く軽く、なるべくノドを鳴らさないで歌うように言われました。また、通常、発声練習では“低 -> 高”の順番で歌うものですが、今回は逆に“高 -> 低”の順番で歌ってみました。おそらく、低いところから歌い始めると、声のポジションが低くなりがちで、それが原因で声が不当に重くなりがちなので、そこに注意を向けさせようとされたのではないかと思われます。確かに、高い音から歌い始めた方がポジションは高めでキープできるし、別にいきなり高い音から歌い始めることができないわけじゃないし…。

 なるべく、発声のポジションは、高めをキープするように注意されました。しかし、だからと言って、高い響きだけで歌ってはいけないのです。それが許されるのは、同じ高音歌手と言っても、ソプラノだけであって、テノールの場合は、いくら音が高くても、高い響きだけでなく、しっかりと低い響きも声に加えないといけません。感覚的に言えば、ノドを上にばかり開くのではなく、下にもきちんと開かないといけません。

 もっとも、ノドを下に開こうとして、声が下に落ちてはテノールではありません。下を開きつつ、上の響きで歌うのがテノール独特の発声なのですが…これが私にはまだまだ難しく、どうしても、上の響き主体(つまりソプラノっぽい発声)で歌ってしまったり、下を開きすぎてしまったり(つまりバリトンっぽい発声)で歌ってしまいます。

 正しい音程で歌うことも大切ですが、正しい音色で歌うことも、歌手にとっては大切な事なんです。

 発声練習はほどほどにして、発表会で歌う、ドニゼッティ作曲の「愛の妙薬」の二重唱「Caro Elisir! Sei Mio!/素晴らしい妙薬」のレチタティーヴォの部分の練習を始めました。

 レチは難しいですね。レチは楽譜どおりに歌いながらも、イタリア語のニュアンスを生かして歌わないといけません。私がイタリア語を話せるならば問題ないのかもしれませんが、私、イタリア語は全くダメですから(おいおい:汗)、そこが難しかったりします。まあ、歌100%ではなく、そこに朗読の要素(ってか、セリフ劇の要素)を加えながら歌わないといけないわけで、そういう点では、レチはアリアよりも細かな心遣いが必要なのかもしれません。楽譜どおりに歌いながらも、楽譜では表現しきれない細やかな表現を加えながら歌うわけです。ううむ、実に難しい。

 難しいのですが、なんか面白くなってきました。アリアのような開放感はありませんが、レチにはレチ独特の高揚感があります。今回の二重唱も、前半1/3はレチなんですが、歌っていて、結構楽しくなってきました。後は、聞いている人が私のレチで楽しめると良いのですが…。

 レチでは、音符の部分はイタリア語のニュアンスを加えながら歌うのですが、休符にも注意してくださいと言われました。休符の歌い分けは、レチではとても大切なんです。休符の違いは、感情の違いなんです。また休符に気をつけるのと同様に、符点音符も感情が表現されているので、符点にも気をつけるように言われました。

 レッスンそのものは、ちょっと歌っては指導され、さらに歌っては注意され…の連続で、実に地味なレッスンでしたが、こういう細かい所を指導される事で、歌全体のクオリティーが高まっていくんだろうと思います。

 それにしても、発表会まであとわずかに一ヶ月ちょっとですが…未だに音が取れていない箇所が数箇所あるんだよね。大丈夫なのか、私。

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2015年4月13日 (月)

音痴は指導者の責任です

 音痴とは、歌う際に、音程がうまく取れない人の事を指します。

 音痴の人は現実にいます。

 脳の病気による音痴の人もいますが、それは音痴の中ではごくごく少数で、音痴の大部分は健康で音楽好きな人ばかりです。

 彼らが音痴である原因は、どこにあるのでしょうか? 

 よく言われる「音感の無さ」ではありません。少なくとも、音楽ファンであって、音楽を楽しんでいる人なら、音楽を聞き分ける能力があるわけです。音楽を聞き分ける能力があるのに「音感はありません」なんて、おかしいでしょ? もちろん、音感と呼ばれる感覚には、人によって鋭敏さが異なるわけだけれど、普通に音楽が楽しめる人ならば、少なくともインプット系の音痴ではないわけです。

 それなのに、歌うと音痴であるという人は、少なからず存在します。そういう人は、音楽が楽しめるのに、歌うとダメなのですから、アウトプット系の音痴であると言えるし、現実社会で音痴のレッテルを貼られている人って、このアウトプット系の音痴の人です。つまり「分かっちゃいるけれど、正しい音程で歌えない」ってパターンの人が大多数なんです。

 そもそも、インプットもアウトプットもダメという、ジャイアンのような音痴の人って、音痴の自覚が無いので、自分が音痴だって悩むことすらないものねえ(笑)。

 さて「分かっちゃいるけれど、正しい音程で歌えない」のは、何故でしょうか?

 世の中の多くの人は、音が分かれば正しい音程で歌えるようです。簡単に言っちゃえば、耳コピが出来るのが、普通なんです。流行歌なんて、いちいち楽譜を見て、音を取らないと歌えない…なんて人はいませんよね。たいてい、曲を耳で聞きかじって覚えて、それでカラオケに行って歌う…で全然普通に歌えるわけです。

 でも、何割かの人は、音が分かっていても、その通りには歌えません。曲を耳コピする事ができません。流行歌を楽しむ事はできるのに、それをカラオケで歌う事ができません。
 そういう人って、はっきり言っちゃえば、不器用なんです。それが音痴の正体です。歌に限らず、世の中には不器用な人ってのは、それなりにいるわけですから、そういう意味では、別に音痴って珍しい存在ではないのです。

 音痴の人は、不器用であっても、未熟とは違います。未熟な人ならば、曲を聞きかじれば、声そのものは何とも薄っぺらで、発声そのものは稚拙であっても、正しい音程で歌えます。よく楽器経験はあっても声楽経験の無い人の歌う歌をイメージしてもらえば簡単に想像できます。そして未熟な人ならば、経験を積み重ねて熟していけば、やがてきちんときれいな声で歌えるようになります。

 でも不器用な人は、ただ漠然と経験を積み重ねても、それらが整理されず、単純に不器用さを固定させるだけになってしまう事もあります。つまり、熱心に練習をしても、下手さを強調し、その下手さをしっかりと身につけて、却って余計に下手になってしまう事すらありえます。結果、ますます音痴に拍車がかかってしまうわけです。

 だから独学、あるいは師事する指導者のいない人が音痴なのは、仕方ないのです。

 問題は、指導者の元で学んでいるにも関わらず、音痴な人…いますよね。声楽の発表会などで、声楽を習っているにも関わらず、最初っから最後まで音程外しっぱなしで歌っている人。こういう人って、実にかわいそうだと私は思います。と言うのも、これって本人の責任ではなく、ほぼ100%、指導者の責任だと私は思ってます。

 実は音痴って、簡単に改善できます。それなのに、それが改善されていないと言うのは、その人が学んでいる指導者が、単純に無能であるというだけの話です。その人にとっては、お金をドブに捨てているのと同じような事なんです。

 と言うのも、音痴って、発声方法が間違っているだけなんです。だから、正しい発声方法を身に付ければ、音痴は簡単に治ります。音痴に音感なんて、全然関係ないですし、聴音やソルフェージュを学んだからと言って、音痴が治るわけではないのです。音痴に効くのは、正しい発声法の習得だけです。

 だって、いわゆる音痴って、アウトプット系の音痴が大半なんです。アウトプットに問題があるなら、そのアウトプットの部分を正せばいいだけなんです。つまり、音痴な人は、正しい発声方法を習得すれば済むだけの話なんです。

 その正しい発声方法を生徒に教えるのが指導者の本務なわけです。だから、門下生/生徒/教え子の中に音痴がいたなら、その指導者が単純に無能なだけなんです。あるいは、能力があるけれど、不誠実な指導者だというだけの話なんです。

 歌なんて、最初は誰でも下手なんです。下手だから習いにいくわけです。だから、発表会などで歌の下手な人が歌っているのは、別に問題ありません。ただ、発表会なんて毎年のようにやっているのが普通ですが、何年だっても下手くそで進歩の見られない生徒さんを多く抱えている先生は、おそらく無能です。あるいは不誠実な人です。

 あるいは、数年に渡って歌を習い続けているのに、一向に上達した感覚が得られないなら、やはりその人を指導している先生に問題があると思います。

 人は未熟であっても、正しい発声方法で歌っている限り、その人が持っている音域の範囲内ならば、音痴になりようがありません。だって、音痴ってのは、歌っている本人にとっても不快な状態ですからね。きちんとした発声方法が身についていれば、無意識に快適な音程で歌い直しますから、音痴になりようがないのです。

 なので、音痴で悩んでいる人がいるならば、その人は音感訓練をするのではなく、正しい発声方法をきちんと指導してくれる先生に代えることが急務です。人生は短いのです。無能な先生の元で学んで、人生を無駄にしてはいけないのです。

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2015年4月12日 (日)

声帯切除って、本当に大変そうです[2015年4月第2週・通算9週]

体重:105.8kg[+-0.0kg:-9.0kg]
体脂肪率:29.9%[+-0.0%:-3.5%]
BMI:33.4[-0.1:-3.0]
体脂肪質量:31.6kg[+-0.0kg:-6.8kg]
腹囲:105.0cm[-0.5cm:-11.0cm]
     [前回との差:2015年当初との差]

 止まりました…そうです、ダイエットのペースが止まりました。やっている事は以前と同じラマダンなんですが、ピタリと体重減少が止まりました。いわゆる“停滞期”に入ったんだと思う。…ってか、カラダが一日二食に慣れたって事ですね。経験から言えば、ここから約一ヶ月ほど、体重減らずに横ばいが続くはずです。そこで気持ちが折れずにダイエットを継続できれば、また体重が減り始めるはずです。いわば、ここが踏ん張りどころ? まあ、ユルユルと継続していきます。

 さて、先日、つんく♂さんが声帯を切除された事が世間の話題になりました。歌手が声帯を失う…これは我々一般人が考えるよりもつらい事だったろうなあって想像します。歌手にとって、歌声とは“自分自身”以外の何者でもなく、いわばアイデンティティーの根幹となっているモノのはずだからです。

 おそらく、忌野清志郎さんの事が念頭にあったのかもしれませんね。彼は声帯を残し、歌声を残したので、最期まで歌えたけれど、その代わり、最期がすぐにやってきてしまったわけです。つんく♂さんは、歌声を放棄することで、最期を少しでも先送りにしようと決心したのでしょう。歌手としては忌野清志郎さんの方が立派かもしれませんが、でも、つんく♂さんには幼い子どもさんがいるわけで、子どものために自分自身の長生きを願うのは父親としては当然でしょうね、誰も責められないと思います。

 それはさておき、声帯を切除してしまうと、一体どうなるのか、ちょっと調べてみました。

 声帯を切除すると…当然、声は出なくなります。しゃべれなくなるし、歌えなくなります。でも、実はそれだけではなさそうです。

 声帯切除手術を受けると、その結果、気道と食道が完全に分離されてしまうのだそうです。そして、クチと鼻は食道につながったまま保存され、気道は食道と合流せずに、声帯があった付近(首の中央部)を切開して、直接外界に開口するようになるんだそうです。つまり、ノドの真ん中に穴が開いて、そこで呼吸をするようになるわけです。

 だから、声帯切除をした人たちは、首を隠すようなファッションをするわけです。だって、ノドの真ん中に穴が開いているのが丸見えだったら、それでひいてしまう人もいるわけで、ちょっとした他人に対する配慮なんでしょうね。つんく♂さんも、近大に登場した時はマフラーをしていたのは、そういう事なんでしょうね。

 さて、食道と気道が分離し、それぞれが別の開口部を持つようになると、どんな利点欠点が生じるでしょうか?

 まず、気道がクチ鼻と分離することで、しゃべることは出来なくなりますが、それだけでなく、クチや鼻から息を吐けなくなる事で、実は管楽器の演奏も不可能となります。つまり、声帯を失うと、歌だけでなくフルートも吹けなくなるんです。おぉ、怖っ!

 呼吸はできますが、クチのように任意に開口部の開閉ができない(常時開けっ放し状態です…でないと窒息しちゃいますからね)ので、思わぬモノが気道に入らないように注意しないといけません。ゴミもホコリも細菌もウィルスも、当然、入りやすくなります。健康な人よりも、首まわりの衛生に注意しないといけません。また、熱風も冷たい外気も直接肺に入り込みますので、カラダにはシンドイでしょうね。また乾燥もしやすいと思いますが、乾燥したからと言って、水を飲んでも、クチと違って、すぐには乾燥は解決しません。

 とりわけ、入浴は要注意だろうと思います。湯船に入っても、首の開口部にお湯が入ったらエライ事になりかねません。シャワーも同様に注意が必要でしょうね。となると、入浴は常に半身浴…って事になるでしょうね。ううむ、健康的だ。首より上の部分を洗う時は、本当に注意が必要になるでしょう。そう考えると、入浴は、命がけなのかもしれません。

 一方、食道は従来どおりクチとつながっていますので、食べることはできますが、気道とつながっていないので、飲み込むことは出来ても、吸い込む事ができません。だから、麺類をすすって食べるのは無理です。ちょっとイキじゃないですね。

 吸い込む事だけでなく、息が吐けないので、咳が出なくなります。

 鼻も食道としかつながっていないので、当然、息の出入りはありません。ですから、くしゃみは出なくなります。鼻もかめなくなります。イビキもかけなくなります(これは利点かも)。しかし、鼻の中での空気の動きが停滞しますので、ニオイにも鈍感にならざるをえません。ニオイに鈍感になると、味にも鈍感になります。これはかなりつらいかも。

 あと、誤嚥は物理的になくなりますね。その代わり、タンはクチではなく、ノドの開口部から吐き出す事になります。

 こうして考えていくと、やっぱり声帯を切除するって、大変な事ですね。それでも、人間、命あっての物種ですから、仕方ないだろうし、私も「命を選びますか、声を選びますか」と選択を迫られれば、やっぱり命を選ぶだろうなあって思います。

 やはり、人間のカラダって、過不足無く出来上がっているわけだから゛たとえ病気だからと言って、カラダの一部を切除してしまうと、とてもとても不自由になるようです。

 言い古されたことですが、健康第一です。

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2015年4月11日 (土)

ホノカが星になりました

 ホノカが入院三ヶ月を経て、星になりました。

 ホノカは、2013年8月に我が家にやってきていますから、2年弱、我が家で暮らしていた事になります。

 皆さんもご存知のように、今年のお正月明けからホノカは入院していました。入院歴三ヶ月という、おそらく我が家の入院最長不倒記録を打ち立てました。いやあ、実際の話、金魚って入院させると、すぐに良くなるか、星になってしまうかの二択だし、ホノカの場合は、極悪的に病状は悪かったので、当然、すぐに星になってしまうものと覚悟を決めて入院させたにも関わらず、三ヶ月も入院していたわけです。

 後から入院して先立ってしまったサクラのように、入院なんて、せいぜい長くて二週間ってのが、普通のケースなんです。

 そこにいくと、ホノカは三ヶ月もの入院生活を送りました。しぶといと言うか何と言うか…。入院中は「それだけ長く入院できるくらいなら、さっさと良くなってくれよ」とホノカに向かって言ったものでした。

 病は気から。ホノカは我が家に来た時から、何かしらの病気をかかえて、いつも病気と戦っていましたが、ほんと、病気には負けない子でした。いつもいつも病気を乗り越えていました。とにかく、この子からはメンタルの強さを感じました。何があっても、生き抜いてやるという強い意思の力を感じます。

 最後のホノカの病状は、かなり悪かったです。マツカサ病が悪化して、とても金魚の姿には見えません。一応、魚類ではありますが、金魚とは全く違う種類の魚のように見えるくらいに、外見が変わってしまいました。それでも、最後の最後まで元気でした。

 おそらく、その元気も、空元気なんだろうとは思いますが。

 それでも、全然、諦めた感じはなくて、どうにかして生き延びてやろうと思っているようでした。

 これまでも色々な病気にかかり、その度にダメかと思ったホノカですが、それでもなんとか病気を克服してきました。今回もそれを期待しているのですが、病気そのものは進行し続けました。

 先に星になってしまったサクラと同じ病気なのですが、サクラはここまでひどくなる前に星になってしまいましたし、他の子も同様です。ホノカほどひどい状態になった子はいません。

 ここまでのタフガイならば、これだけひどい病状となっても、なんとかしそうな気がしていましたが、やはり病気には勝てませんでした。飼い主的には、奇跡の復活を願っていますが、それは叶いませんでした。

 さようなら、ホノカさん。

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2015年4月10日 (金)

技術とは一見矛盾しているように感じるもの

 今回は、例によって仕事が忙しかったので、フルートのレッスンには行けませんでした。で、またまた、フルートエッセイでお茶を濁しますので、よろしくお願いします。

 さて、フルートの教則本には、有名なモノ、あまり知られていないけれどベストセラーなモノ、消えてはすぐ消える泡のよう存在のモノなど、実に様々な種類の教則本が発行されています。楽譜屋さんに行くと、その手の本が棚にズラ~と並んでいて、なんとも一種独特のプレッシャーを感じる事があります。

 それくらい、教則本って、需要があって売れているって事なんでしょうね。

 その点、声楽なんて清々しいもので、声楽には教則本なんて、あって無きがごとしですからね(笑)。もちろん、教材(コールユーブンゲンとかコンコーネとか)は売ってるし、発声のコツを書いたような理論書やエッセイ本の類は売ってますが、いわゆる教則本なんて、まず見かけません。ポピュラー音楽のコーナーに行くと、たまにヴォーカル関係の教則本を見かける事がありますが、しばらくすると棚から消えてなくなります。クラシック声楽の方じゃあ、まず皆無です。

 そんな状況を知っていますから、フルートのコーナーの教則本の充実ぶりには、驚きと感激を感じる私なんです。

 しかし、それだけたくさんの教則本があるというのは、結論から言えば、決定版が無いからでしょう。決定版と言うのは、教則本としての決定版という意味でもそうですが、フルートの演奏技術的にも決定版のようなものがなく、百花繚乱的な状況なんだと思います。つまり、ガチっとした本家さんがいるのではなく、分派独立状態が激しいって事です。
 それはネット上の情報においても同じで、フルートの演奏初期におけるテクニックって、なんか色々な説があるみたいですね。

 例えば、フルート初心者さんなら誰もが悩む(私もちょっと悩んだ)アンブシュアについて、教則本も百花繚乱だし、ネット情報も百花繚乱で、実に面白いです(不謹慎でごめん)。

 アンブシュア…フルートにクチビルをどう当てるか…って事で、フルート初心者なら、まず最初に悩む事なんですが、こいつのやり方一つとっても、実に色々なやり方があるみたいです。

 例えば『クチビルを横に引っ張って、できるだけクチビルを薄くするのが良い』と書かれている教則本があるかと思えば、逆に『クチビルは横に引くと言うよりも、おちょぼ口にして先を尖らせるのが良い』と書かれているモノもあります。また『笑顔で吹く(クチビルの口角を上げる?)のが良い』とか『(笑顔はダメで)しかめっ面で吹く方が良い』とか『下唇をめくるのが良い』とか『上唇をかぶせるようにするのが良い』とか書かれている教則本もあるわけで、そりゃあもう色々あるわけです。

 アンブシュア一つ取っても、こんな状態だから、そりゃあフルートの教則本なんて、たくさん出来ちゃうのも合点です。

 で、アンブシュアの話だけれど、どれが正解かと言えば…たぶん、全部正解。間違いは一つもないと思います。ただし、書かれている事はそれぞれに違うし、矛盾することがもありますから、併用は無理ですね(笑)。

 つまり、正解は、教則本の数だけあって、どんなやり方であっても、きちんと無理なくフルートが鳴りさえすれば正解なんです。

 「なんじゃい。それなら、正解なんて無いに等しいし、教則本なんて役立たないじゃないか」ってもんです。

 でも、そこが違うんだと思います。学校の勉強なら正解は一つと決まってますが、世の中って、案外、正解はたくさんあるものです。だから、フルートのアンブシュア一つとっても、正解は一つでなく、正しい答えはいくつもあるんです。

 ただし、間違った答えもあります。それは『音が出ないアンブシュアは間違い』だと言う事です。分かりやすく言えば、笑顔のアンブシュアで吹いて、きれいな音で鳴れば正解だけれど、音が出なければ間違いって事になります。

 では、その正解と間違いの違いは、どこにあるのかと言うと…笑顔以外の部分にあるわけです。例えば、クチビルの緊張度の違いとか、クチビルの柔らかさの違い、脱力の違いもあれば、元々のクチビルの厚みの違いも関係するだろうし、、腹圧のかけ方の違いとか、息のスピートの違い、息の太さの違い、吐き出す息の方向の違い、口腔内の容量の差、クチビルとフルートの歌口までの距離・角度の違い…そういう様々な違いによって、たとえクチビルの形が同じであっても、結果が違うわけで、結果が違えば、笑顔のアンブシュアも正解であったり間違いであったりするわけです。

 要するに、テクニックとか技術とかって、表面に見える部分だけで分かるような、そんな薄っぺらなモノじゃないって事です。教則本に書かれている事は、すべて正解だけれど、その正解をきちんと実行できるかどうかは、これまた別の話なんです。

 フルートを演奏するって、学校の勉強のように、正解だけを追い求めているようじゃダメなんだと思います。時には、回り道に見えるような事や正解以外の事にも意識を配り、周辺事項にまできちんとやらないといけないわけで、知識で言えば、雑学とか教養とかが試されている…ような感じになります。

 教則本が教科書のようなものなら、世間を渡るには教科書だけでは不足で、しっかり社会に出て、世間様にもまれていかないと一人前になれないのと同じような事なのかもしれません。

 そういう点では、声楽は教則本がないですから、いきなり社会に放り出されていくような感じです。

 例えて言えば、英会話教室で英語を習うのがフルートならば、いきなりアメリカ人だらけのシェアハウスで生活を始めちゃうのが声楽なのかもしれません。どっちのやり方にも一長一短があって、それぞれに欠けているモノがあります。欠けているものは後から補えばいいわけです。それを怠ってしまうと、いつまでも成長が促されないんだろうなあって思います。

 ちなみに、アンブシュアの件で言えば、私の正解は『何も気にしない』です。何も考えずに、ただフルートをクチビルに当てるのが、一番良い音が出ます。下手に何かをすると、音が濁りますし、音が出づらくなります。だから、何も気にせずに、フルートをクチビルにつけるのが一番良いんです。

 しかし『何も気にしない』なんて、たぶん難しいですよね。初心者の方なら戸惑ってしまうでしょうし、そんな事が書かれている教則本なんて、たぶん売れません。だから、私は教則本の著者には全く向いていないと思いますよ(当然ですね)。

 おそらく私が『何も気にしない』まま、フルートが吹けるのは、フルート演奏に適したクチビルとかアゴとかを持っているからなんだと思います。だから何も気にせずにフルートが吹けるんだろうと思います。これも一種の才能…と言えるのかもしれません。

 しかしプロのフルーティストさんたちを見ていると、私同様に『何も気にしない』で演奏しているように見える人もいる反面、とても個性的なアンブシュアをしている人も少なからずいます。そういう方は、フルートに適したクチビルとかアゴとかを持っていなかったんだろうと思いますが、そこを努力と才能で乗り越えてきたんだろうと思います。ですから、プロとして活躍する事と、フルート向きのクチビルやアゴを持っている事は、あまり関係ないって思います。要は、きれいな音を鳴らす事ができるかどうかなんだと思います。

 そうそう、最近の私は、アンブシュアではなく、むしろ腹式呼吸に迷いを感じます。腹式呼吸にも、実は色々なやり方があるんですよ。どれが正解だろ? 私に合った腹式呼吸はどれだろうかと、最近は日々悩んでいるんですよ。つまり、腹式呼吸に関しては、特別な才能など持ち合わせていない私なんです。

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2015年4月 9日 (木)

ソロは名誉職。稼ぐなら合唱

 先日、声楽のレッスンでY先生と雑談をしていて、おもしろい話になったので、そこを取り出して、一本の記事にしたいと思います。

 オペラの舞台って、歌手の皆さんが大勢関わるわけで、主役の方もいれば脇役の方もいるし、モブ役の合唱の方もいます。作品にもよりますが、ホント、大勢の歌手の方々がご出演なさるわけです。

 で、素人考えだと、主役が一番ギャラが高くて、次が脇役の皆さん。モブ役の合唱の皆さんは薄給なんだろうなあって思うわけだし、通常のオペラ以外の舞台だと、そんな感じになるんですが、実はオペラの世界は違うんだそうです。

 オペラの出演者で、一番ギャラが高いのは、実はモブの合唱の皆さんなんだそうです。で、次が脇役で、一番ギャラが安いのが主役クラスの方々なんだって。意外ですね。

 理由は簡単で、主役にせよ脇役にせよ、ソロを歌うと言うのは、誰もがやりたい仕事であり、名誉な事であり、名前を売る行為なので、ここはギャラは安めでいいんだそうです。特に主役なんて「ぜひ歌いたいです」って売り込んでくる人も大勢いるくらい、歌う人に事欠かないんだそうです。その一方(オペラの舞台の)合唱は、プロなら誰もやりたくない仕事だし、実際にやる人もあんまりいないので、ギャラを高く設定しないと人が集まらないんだそうです。

 だって合唱じゃあ、名前は売れませんからね。

 実は、オペラの舞台に立つ合唱の方って、合唱専門の方ではなくて、実は皆さん、本来はソリストなんですよ。ソリストだから、合唱はやりたくないんです。やっぱり舞台で歌うなら、ソロを歌いたいわけで、好んで合唱なんて歌いたくないんです。おまけにソロ曲ならレパートリーに入っていても、合唱なんて普段勉強していないわけで、公演のために、わざわざ合唱パートを勉強しないといけないわけで面倒だし、合唱は周囲と合わせないといけないので、練習などで拘束される時間も多いくて面倒だし、合唱の経験を重ねても、自分のキャリアにもならなければ、次の仕事にもつながらないわけです。

 だから、誰も合唱は歌いだがらないわけで、誰もやりたくないけれど、必要なパートなので、結果としてギャラは高めになるんだそうです。で、ギャラで釣って「誰かやる人、いませんか?」と声をかけるんだそうです。

 だから、合唱って(Y先生曰く)今すぐにお金が必要な人しかやらない…んだそうです。

 逆に、ソロ、とりわけ主役は、オペラの舞台公演では、全然お金にはならないそうです。主役は、ギャラが低いばかりでなく、チケットもたくさん抱えないといけないので、金銭的には、持ち出しも多くて、折り合いが全くつかないのだそうです。

 でも、主役を歌えば、名前は売れるわけです。で、名前が売れれば、リサイタルも開けるし、講演会にも呼ばれるし、学校からセンセのクチが紹介されたり、生徒もたくさんやってきたりするわけだし、テレビ・ラジオなどのマスコミ仕事が舞い込む事だってあるんだそうです。とにかくオペラの舞台で名前を売っておけば、オペラ以外の仕事の声が色々とかかるようになるんだそうです。

 だから、オペラの舞台出演では金銭的に折り合いがつかなくても、ソロを歌い続けていけば、他の仕事で稼げるようになるので、合唱をやるよりも、ずっと良いそうだし、音楽事務所も頑張ってソロの仕事を探してくるわけです。

 そんなソロを歌う歌手の皆さんにとって、特に美味しいのが年末なんだそうです。

 年末になると、クラシック音楽の世界では、第九の演奏会ばかりになるわけで、他の曲の演奏は、バタリと無くなるんだそうです。当然、合唱ばかり歌っている人は暇になります。そりゃあそうですよね、第九には合唱パートはあっても、第九の合唱は、ほとんどがアマチュアさんたちが歌うわけで、プロの歌手さんたちの出番はないので、プロの合唱の方々は、年末は暇になるんだそうです。

 一方、ソリストさんたちは忙しいんだそうです。年末は毎日のようにお座敷がかかるんだそうです。有名な方だと、毎日どころか、週末は昼間と夜と二回歌う事もあるんだそうです。それくらいにソリストさんたちはお忙しいんです。

 (失礼な言い方だけれど)Y先生ですら、12月はあっちこっちの舞台で第九を歌いまくるんだそうです。先生は毎年、日本の各地で10回程度の本番があるそうです。それぞれの本番でギャラは違うし、先生の場合は事務所を経由するので、ギャラのすべてが手元に入るわけではないそうだけれど、それでも第九は本番1回のギャラが10~50万円なんだそうです。で、これが10回あれば…第九はよいボーナスになるわけです。

 第九以外にもソロを歌う歌手さんの場合は、色々と特典があるわけです。だから歌手の皆さんは、合唱はやりたがらないわけだし、だから合唱を歌う人のギャラは高めに設定されるんだそうです。おもしろいですね。

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2015年4月 8日 (水)

カラオケ採点機が感知するのは、1000Hzまで

 …なんだそうですよ。皆さん知ってましたか?

 いきなり“1000Hz”と言われてもピンと来ないので、もう少し分かりやすい言葉に翻訳してみます。

 ピアノの「中央ド」と呼ばれる音は、261.63HZなんですね。だから、そこから2オクターブ上のド(いわゆる女声にとってのHi-C)が、1046.5Hzとなるわけです。

 ですから、歌の音程的には、男声は女声の1オクターブ低い音となりますから、カラオケ採点機の感知能力の上限が1000Hzであっても全く問題ないし、女声でもHi-Cまでの音程なら全く問題なく、カラオケ採点機が感知できるわけです。

 女声でHi-Cを越える音程を使う曲なんて、ポップスではほぼ皆無でしょ? クラシック声楽でも、歌曲だとほぼありません。ですから、この辺りに音程感知の上限があっても、問題ないのです。

 だってここよりも上の音って、一部のコロラトゥーラ・ソプラノ向けのオペラアリアぐらいです。もっとも、その手のジャンルの曲になると、Hi-C超えの曲も結構あるわけです。例えば、夜の女王のアリアのような超高音を駆使する曲はもちろんですが、普通のプリマドンナオペラのアリアにも、決めの音はHi-Cよりも高かったりします。「椿姫」の第一幕のアリアなんて、最後はHi-Esとかですから、カラオケ採点機の感知するところではないけれど、元々オペラアリアをカラオケで歌う人なんて少数だから、そこらへんは問題ないんでしょうね。

 つまり、1000Hzまで音程の正否の判断ができれば、カラオケ採点機としては必要十分条件を満たしているといえるわけです。

 1000Hz、これがカラオケ採点機の感知能力の上限であり、そのために、音程の正否は問題なく判断できるでしょう。しかし、これでは歌声が美しいかどうかの判定は出来ないって事になります。

 歌声の美しさの基準には色々とあるようですが、最近有名なのは“シンギング・フォルマント”の有無です。シンギング・フォルマントがたっぷり現れる声は美しく、そうでない声はそれなり…というのが、最近の学説の一つです。

 で、このシンギング・フォルマントってのが、3000Hz前後あたりにあるんだそうです。つまり、カラオケ採点機では、シンギング・フォルマントが感知できないので、声の美醜の判断は出来ないって事になります。

 まあ、でもそれができないのも、ここ数年だけかもしれませんね。機械の進歩って、時として人間の想像を越える部分がありますから。今よりも高速なCPUがより安価に出回るようになれば、やがてカラオケ採点機でシンギング・フォルマントの有無も測定できるようになるかもしれません。

 だって、カラオケって、ほんと、進化してますよね。私は、歌詞本を見ながら、8トラックに伴奏音源の入ったカラオケの時代から歌っていますが、それと比べると、今の通信カラオケって、全く違いますって。ほんと、別物です。それを考えると、カラオケって、どこまで進化するんでしょうね。楽しみでもあり、恐ろしくもあります。

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2015年4月 7日 (火)

良い師匠の条件

 芸事における、良い師匠の条件というのは、色々あります。

 たぶん、一番大切な条件は『天才ではない』って事じゃないかなって思います。芸術家の中には、いわゆる“天才”がいますが、天才と呼ばれる種類の人って、凡人が努力して、やっと手に入れた事を、生まれながらに持っていたりして、それらを使って勝手に成長してきたので、誰に教えられるでもなく、一流になれた人たちなんです。ある意味、神様に特別に愛された人と言えるでしょう。

 そんな人たちは、芸術家の中でも一部の別格です。多くの職業芸術家さんたちは、みな天才ではなく、血と汗と努力で今の地位に辿り着いた人がほとんどでしょう。師匠にするなら、天才ではなく、こちらの“血と汗と努力”の人の方が良いと思います。つまり、さほど豊かな才能は持っていなくても、努力と切磋琢磨で駆け上がった人の方が良いのです。

 こういう人は、上達するために、多くの事を学んでいますから、教える立場になった時も、教えるためのノウハウをたくさん持っているからです。

 つまり、師匠にするなら、天才よりも苦労人の方が良いのです。

 あと、声楽だと、声が分かる事が大切です。たまにいるんですよ、生徒の声種を間違える先生って。技術がない人は論外ですが、技術があっても、自分の演奏にしか興味のないナルシス系の人は、自分の事しか分かりませんからね。そういう先生だと、自分のところに来た生徒は、何でもかんでも自分と同じ声種に聞こえちゃうみたいです。そういう人の耳は、あまりアテになりません。当然、師匠には向きません。逆に言うと、自分の事はもとより、他人の事に気を配れるような、調整型の人の方が師匠としては良いんだろうなあって思います。

 次は音楽に限らないけれど、レッスンプロよりも、演奏で食べている人の方が良いかな? もちろん、例外はあります。子どものピアノの先生を探すなら、演奏で食べている人よりも、レッスンプロの方が良いでしょう。と言うのも、子ども向けの先生って、演奏家であるよりも、保育者としての資質の方が多く問われるからです。で、演奏家と保育者って、ある意味、適性が真逆ですから、演奏家として成功しながら、子ども向けのピアノの先生が出来る人って、まあ有り得ませんからね。

 でも、生徒が大人ならば、レッスンプロよりも演奏家の方が師匠としては良いと思います。理由は簡単で、生徒がそれを望んでいるからです。ま、実際、アマチュアを教える程度なら、教える方が、プロの演奏家として活動していようといなかろうと関係ないんです。

 でも、大人の生徒って厳しいんです。師匠を尊敬したいんですよ。そんな時、自分の師匠がプロの演奏家なら簡単に尊敬できますが、自分の師匠がレッスンプロであり、演奏会もせいせい年に2~3回程度しか行えないレベルだと、生徒として、ちょっとばかり肩身が狭かったりするんです。ましてや、数年に渡って演奏活動をしていなくて、発表会などでも模範演奏をしてくれない先生だと、ほんと、がっかりするものです。

 演奏活動をしているかいないかなんて、先生としての能力とは、全く関係ないかもしれませんが、生徒が尊敬できたり、自慢できるタイプの先生の方がいいに決まっています。

 あと、演奏家としての職歴の豊かさとか、人脈の広さなどは、良い先生として大切な事だと思います。コネの力は馬鹿にできません。先生の人脈の広さのおかげで、多くのことを学べるチャンスがあるかもしれないじゃないですか。

 後は、現実な問題として、近所でお教室を開催している事とか、お月謝が自分にとって適正であるかどうかという点も大切です。

 逆にどうでもいい事としては、先生の出身大学とか、年齢あたりかな?

 そして、実は、一番大切な条件は、自分と相性が良い事があげられます。やはり、先生と気が合う事は大切な事ですし、たとえ技術的に劣る先生であっても、人間的な相性が良い方が習っていて楽しいですからね。大人の習い事は、効率よりも楽しいことの方が大切です。厳しくて人間的に合わない先生に習って上達する方が良いか、上達するのは遅々たるものだけれど、毎回毎回レッスンが楽しくて、趣味人生がバラ色の方と、どちらが良いかって事です。

 そういう点では、生徒とよく遊んでくれる先生って、最高の先生なのかもしれません。

 …と条件を上げると、今のY先生よりも、前のキング先生の方が私にとっては良い先生だったという結論になるかもしれません。ええ、そうなの? 実際、キング先生はよく生徒と遊んでくれますからね。

 でも私は、基本的に真面目だしハングリーなので、楽しい先生よりも、上達させてくれる先生の方が、やっぱり良いなあ。

 自分で良い先生の条件を上げといて、最後にちゃぶ台返しもなんなんだけれど、やっぱり、楽しい先生は最高だけれど、自分を上達させてくれる先生には敵わないって思います。

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2015年4月 6日 (月)

ヴィットリオ・グリゴーロのコンサートに行ってきました

 標題の通りでございます。いやあ、よかったよかった。幸せ幸せ。

 舞台のグリゴーロは、スーパースターであると同時に、気のいいアンちゃんでした。イタリア人らしくキザであると同時に気さくであり、サービス精神にあふれた素晴らしいエンタティナーでした。

 私、もう彼に夢中ですわ。完璧にファンになりました。

 まず歌手としてのグリゴーロは、実に素晴らしい。会場は、東京オペラシティのコンサートホールでして、2500名ほど入る、いわゆる“大ホール”ってホールです。で、私の座った席は…彼の来日に気付くのが遅かったせいもあって、かなり悪い席(2階で、かなり後部のバルコニー席)だったにも関わらず、彼の歌声はビンビンに響いていました。さすがに、巨大歌劇場であるメトで主役を張れるだけあります。なんとも、超人的な声量でした。ちなみに歌声はビンビンに響きましたが、彼のMCは、ほぼ聞こえませんでした。英語でMCをしていただけに、残念だなあ…。

 パヴァロッティの再来…と言われているようですが、パヴァロッティとは、だいぶタイプの異なるテノールですね。私がグリゴーロの歌声を聞いて、真っ先に思い浮かべたのが、ロベルト・アラーニャです。声種的にはアラーニャとほぼ同じだろうと思われます。つまりテノールとして“王道的な主役声”ってことですね。

 美声であることや、テクニックが完璧な事は言うまでもありませんが、ファルセットの使い方が実に上手だったのが印象に残ってます。ファルセットって、下手に使うと下手くそに聞こえるのですが、あくまでも声楽的テクニックの一つとしてファルセットを使ってました。いやあ、感服しました。

 当日のセットリストは、こんな感じでした。

 第一部
  ベッリーニ作曲)フィッリデの悲しげな姿よ
  ベッリーニ作曲)お行き、幸せなバラよ
  ベッリーニ作曲)マリンコニーア
  ベッリーニ作曲)お願いだ、私の美しき理想の人よ
  ロッシーニ作曲)踊り
  ドニゼッティ作曲)歌劇「アルバ公爵」より 清く美しい天使よ
  ヴェルディ作曲)歌劇「海賊」より そうだ、お前たちの言う通りだ~全てが微笑んでいるようだった

 第二部
  トスティ作曲)別れの歌
  トスティ作曲)くちづけ
  トスティ作曲)理想の女
  トスティ作曲)可愛い口元
  トスティ作曲)最後の歌
  ガスタルトン作曲)禁じられた音楽
  レオンカヴァッロ作曲)マッティナータ
  クリティス作曲)世界でただひとり君を愛す
  ダンニバーレ作曲)太陽の土地

 アンコール
  ドニゼッティ作曲)人知れぬ涙
  プッチーニ作曲)星は光りぬ
  シューベルト作曲)アヴェ・マリア
  カプア作曲)オ・ソレ・ミオ

 いやあ、私が歌ってみたい曲ばかりをセレクトして歌ってみました…みたいな感じのセットリストで、私、ワクワクしながら聞いてました。

 どの曲も、ドラマを感じさせるような歌い方でした。それはおそらく彼がイタリア人で、イタリアの歌を中心に歌ってくれたからこそだろうと思いました。やはり、歌手にとって、イタリア語が堪能である事って大切なんだなって思いました。

 オペラアリアは役に入り込んで歌ってくれたのは当然として、例えば「踊り」ではロボットダンスを随所に加えながら歌ってみたり、「禁じられた音楽」ではオーバーアクションを加えながら歌ってみたり、その他の曲でも、ワルツのステップを踏んでみたり、床を踏み鳴らしたり、観客席に花を投げ入れたり、客席に降りてきたり…それはもう過剰なまでのサービス精神を披露していました。歌うだけでも十分なのに、なんたるエンタティーナーなんだろう…と思ったわけです。だいたい、アンコールを四曲もやってくれる歌手なんて、そうそういませんよ。

 いやはや、本当に楽しいステージでした。あんまり楽しかったので、私、しっかりサイン会に参加して、サインをいただいてきました(笑)。プログラムの表紙と、中の写真の二箇所にサインをいただきました。家宝にしたろ。

 蛇足  この日のグリゴーロのコンサートは、実に貴重な体験でしたけれど、それ以外にも貴重な体験をしました。それは行きの中央線の事です。ある目を見張るばかりにお太りになった男性が電車の座席に座っていたと思ってください。そして、電車は混雑しているにも関わらず、彼の周りだけ広々と開けていたと思ってください。そこに私が乗り込みました。彼の隣の座席がガラ空きじゃありませんか? ラッキーと思って座ってみて、しばらくしたら、もう、いてもたってもいられなくなりました。そのお太りになった方の体臭が、なんともかんともスゴかったんです。私、御茶ノ水で彼の隣に座ったのですが、四谷に着く直前に電車を降りるフリをして隣の車両に逃げました。その様子を見ていた妻が、私がいつ逃げ出すか、遠くから興味深く見ていたそうです。それでも私がひと駅分は我慢していたので感心したそうです。まあ、それくらいに激しく臭っていた彼でした。いやあ、それにしても、今思い出すだけでも気分が悪くなります。人って、あそこまで臭くなれるんだなあ。あんな臭い人、人生で始めて出会いましたし、おそらく二度と出会わないでしょう。それくらい貴重な体験でした。

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2015年4月 5日 (日)

私とドラマ[2015年4月第1週・通算8週]

体重:105.9kg[+0.3kg:-9.0kg]
体脂肪率:29.9%[-0.3%:-3.5%]
BMI:33.5[+0.2:-2.9]
体脂肪質量:31.6kg[-0.3kg:-6.8kg]
腹囲:105.5cm[-1.5cm:-10.5cm]
     [前回との差:2015年当初との差]

 ううむ、太っちまった(涙)。年度末~年度頭とあって、歓送迎会やら納会やらが目白押しの宴会三昧だったし、仕事そのものが忙しくて生命の危機をマジで感じていたこともあって、ラマダンも中途半端になりがちだったので、この結果は仕方ないにせよ、ちょっぴり残念です。でも「太るぐらいなんだー! 過労死するよりは全然マシさ」と自分を慰めています(それくらい危機的状況だったんですよぉ)。

 さて、今週のエッセイです。

 私はあまりテレビドラマを見ません。別にドラマがキライなのではなく、テレビドラマには当たり外れがあって、外れのドラマを見て時間(つまり私の人生)を浪費するのがイヤなんですね。

 だから、私が見るドラマは、ある程度面白さが保証されているモノばかりです。例えば、話題になった海外ドラマは見ます。と言うのも、日本に入ってくる海外ドラマって、面白いから入ってくるわけだし、どの程度面白いのかは、本国での評判をネットなどで調べれば、そのドラマがどちらの方面で面白いかどうか、ある程度判断できるでしょ? だから安心して見られるわけです。

 日本のドラマの場合は、再放送が基本かな? 再放送が待ちきれない時は、DVDで追っかけて見る事もあります。でも、多くの作品は、わざわざお金を出してDVDを借りてくるのも億劫なので、やっぱり再放送待ちが多いです。

 最近、再放送で楽しんでいるのが「カーネーション」です。NHKの朝の連ドラって奴ですね。これの再放送を楽しんでいます。

 朝の連ドラって、毎日15分ずつ、月~土までの週6回放送するんですよ。単純に計算すると、90分/週ですが、これはNHKでCMが入らないからの計算であって、民放でCM込みの放送時間で考えると、毎週2時間ドラマを1本ずつ見ているぐらいの分量となります。これが半年続くわけだから、ドラマの総時間的には、45分/週で1年かけて放送するNHKの大河ドラマに匹敵するわけです。長いなあ…。最近の民放のドラマだと、1時間×12回が標準ですから、朝ドラや大河の1/4程度なんですね。それを考えると、朝ドラって、やっぱり長いですわ。

 「おしん」も再放送で見ましたが、あれは放送期間が1年間だったから、最近の朝ドラや大河ドラマの倍の放送時間があったわけです。うひゃ~長い長い。すごいんだなあ…。

 そう言えば、昔の民放では、30分ドラマがありましたね。主に子ども向けだったと思いますが、いわゆる「ケンちゃんシリーズ」とか「コメットさん」とか「刑事犬カール」とかです。今思うと、よく30分でドラマをまとめられたなあって思います。

 30分の放送時間と言うと、アニメがそうです。アニメは未だに標準の放送時間が30分です。「アニメって30分の放送時間が標準なんだ、短いなあ…」と思うと間違いのような気がします。と言うのも、アニメとドラマでは、映像の演出方法が、だいぶ違うんですね。実は30分アニメと、1時間のドラマで、だいたい台本の分量的には同じなんだそうです。つまり、アニメの方が、一回の放送時間は短くても、ドラマよりも場面転換が多くて、ストーリー展開が速く、セリフの分量も多いため、放送時間が半分でも内容的には倍つめ込まれているので、結果として台本の分量が同じくらいになってしまうのだそうです。

 この違い、実は“間”の演出の違いなんだろうと思います。

 ドラマでは役者たちによる“タメの芝居”ってのがありますし、いわゆる“目で芝居をする”などのように、役者の演技力を時間をかけて見せる演出もあります。また、状況説明のための風景シーンと言うのもあります。しかしアニメでは、メディアの特性上、止まったら負けなんですよ。だから登場人物の動きにせよ、セリフにせよ、何にせよ、常に画面の何処かが動いていないとダメなんです。一瞬たりとも止まることを許されないのがアニメなんです。もしも数秒間、何も止まったままで動かなかったら、それは“放送事故”なんですね。

 昔のアニメ映画で「セーラームーンR」というのがあって、あのアニメの劇場版では、18秒も画面のどこも動かさないという演出があったのですが…あれって劇場版だから許された演出であって、もしもテレビ放送版で、画面が無音のまま18秒も動かなかったら…絶対にダメでしょう(笑)。

 でも、ドラマだと、18秒は長いけれど、5秒や10秒ぐらいなら、カメラが動かずに、役者も特にしゃべるわけでもなく動くわけでもなく、ただただ目で芝居をするだけの役者を映し続けるなんて、よくある演出です。アニメでは放送事故になる事も、ドラマでは普通に行われているって事なんです。

 それくらい、アニメとドラマでは時間の使い方が違うわけで、アニメの方がどうしてもドラマと比べると、時間を圧縮せざるをえないのです。

 で、話は戻しますが、昔たくさんあった30分ドラマですが、やはり色々と無理があって、廃れたんだろうなあって思います。今じゃあ、30分のドラマなんて、特撮モノぐらいしかありません。

 30分のドラマを作るのって、時間が短すぎて、ストーリーを時間内に収めるのが、ほんと大変だと思います。でも子ども向けドラマなら、集中力の問題もあるから、やっぱり30分程度が良いと思います。

 そう言えば、ドラマにせよ、アニメにせよ、子ども向けの作品って、減りましたねえ。絶滅したとは言わないけれど、ほんと、少なくなりました。昔は、夕方6~8時までの2時間のテレビ放送は、子どものための番組ばかりだったのに…。今は、ニュースをやったり、バラエティを放送していたり、決して子ども向けとは言えないものばかりになってしまいました。

 これも少子化の影響なんでしょうね。少子化で子どもの数が減り、子ども向けの商売が成り立たなくなってた…んでしょうね。なんか、ちょっと残念です。

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2015年4月 4日 (土)

ミカンとミドリが入院して、退院しました

 先日、水槽を観察していたら、漆黒のミドリのカラダになにやら水玉模様がついていました。こりゃあ可愛いねえ…じゃなく、これは“白点病”じゃん!

 いやあ、ビックリしました。だって、白点病なんて、ここ数年、我が家では見たこと無かったもの。いやあ、ビックリ、ビックリ。おそらく、最近我が家にやってた、ヤヨイ、ミドリ、ミカンの誰かが我が家に持ち込んだ…んでしょうね。だって、三匹とも総合ペットショップの子だからね。お店での飼育状況は…専門店と比べると、そりゃあ、誉められた状態じゃないからね。ああいうお店に行くと、売り場の金魚水槽の全部の金魚が病気だったりする事もあったりして、本当にビックリしちゃいます(まあ、一般の人は金魚の病気なんて分からないから気づかないのかもしれないけれど、店の人も気づかないのかな?)。一応、三匹とも健康そうな子を選んで買ってきて、我が家の水槽に入れる時も、少し時間を長めに検疫していたのですが、まさか白点病を持っているとは予想していなかったので、そっち方面の検疫はしていなかったんだよなあ…。いやあ、盲点突かれました。

 とにかく、白点病にはメチレンブルーです。さくっと入院水槽にメチレンブルーを入れて、ミドリを入院させました。

 翌日、ミドリを退院させようかと思いましたが、まだ少し白点が残っていたので、もう一泊と決めたところで、メイン水槽を見てみると、今度はミカンに点々が! あちゃー、コイツも白点病かい。さっそく、ミカンもミドリと同じメチレンブルーの水槽に入れました。

 で、翌日。二匹ともキレイになったので、一緒にも退院です。いやあ、良かった良かった。

 となると、次はヤヨイがヤバイかも…、でもヤヨイは透明ウロコだから、白点病になっても見えないんだよなあ(困った)。一応、気をつけて観察していますが、今のところは病気の兆候はありません。ちなみにオタキサンは…全く白点病とは無縁な顔して泳いでますよ(笑)。

 しかし、白点病か。まるで金魚初心者のような病気だな。

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2015年4月 3日 (金)

フルートで音大に入るのは難しいのでしょうか?

 仕事が忙しいのだけれど、頑張って、練習不足&ヘロヘロの状態で、フルートのレッスンに行ってきました。先生は「練習してなくても、レッスンには休まず通えば、まずはそれでいいですよ」と言ってくださいますが…レッスン、よく休むんだよなあ。

 実は今回も遅刻したんです。たぶん、先生、私が来るとは思っていなかったらしく、私がお教室に到着した時、先生は近所のお店に買い物に出かけておりました。で、買い物が終わって、るんるん気分でお教室に戻ってきた時に、私が来ていると聞いて、びっくりしたようです。すいませんねえ…連絡もせずに遅刻してしまって。なので、そこからレッスンを開始しました。

 私、本当に練習していないんですよ。フルートに触ってもいなかったんです。だから、久しぶりに構えるフルートが、重い重い。ほんと、ずっしりキました。おまけに、ロングトーンもなんか微妙に違った感じがして、違和感バリバリでした。やはり、練習も嘘をつかないけれど、怠けも正直モノですね。

 エルステ・ユーブンゲンは9番です。「暗譜してきたの?」と先生に尋ねられましたが、暗譜どころか練習すらしていません。なので、簡単な曲なんですが、ちょこっと間違えちゃいました(汗)。「簡単な曲なんだから、間違えないでよ(笑)」って言われちゃいました。申し訳ない。

 続けて10番も楽譜をガン見して吹きました。こちらもやっぱり、ちょこっと間違えちゃいました。どちらの曲も、メロディーに規則性があるので、気合を入れて暗譜すれば、簡単に暗譜できそうですが、なかなか気合を入れて練習する事ができないので…ううむ、頑張らないとなあ…。

 エルステ・ユーブンゲンですらミスブローしてしまう私ですから、プチ・エチュードの10番は、そりゃあ大変な事になってました。装飾音符は最初から諦めて、それらを外して吹いたのですが、それでもミスブローの嵐でした。いやあ、#が3つもあると、やっぱり指が難しいね。おまけにリズムが、八分音符と十六分音符と符点音符と三連符が混在しておりまして、なかなかにスリリングだし、アーティキュレーションが個性的で、これはきちんと練習しないと吹けるようにはならないぞ。

 メゾ・スタッカートの奏法が違っていると指摘されました。メゾ・スタッカートは、あくまでもスラーの一部なので、通常のスタッカートのように、歯切れよく吹いてはいけないんですね。息は常に流しっぱなし(スラーですから…)で、音は切らずに舌をつくだけなんだそうです。で、先生がやって見せてくれましたが、なかなか一発で真似られるモンではなく、何度も試行錯誤を繰り返してしまいましたが、とりあえず最後は出来るようになりました(でなければ先生は私を開放してくれません:涙)。後は、自宅練習でも同じ事が出来るようにする事ですが…その前に、自宅練習そのものをしないとね。

 装飾音符をつける前に、しっかり譜読みをして、正しいアーティキュレーションで吹けるようにしましょうと言われていますので、焦らずにじっくりと取り組んでいきたいと思ってます。

 とにかく、フルート演奏で1番大切なのは“音作り”で、2番目が“アーティキュレーション”なんだそうです。とにかく、今はその二つに注意していれば良いと言われました。「指の練習なんてしちゃダメだよ。そんなのは後でいいよ。今は、音作りとアーティキュレーションに気をつけてさえいればいいよ」との事でした。もちろん、指の練習はいらない…と言われても、この10番をミス無く吹ける程度の指練習は必要なのはもちろんですが(笑)。

 今回の雑談は…フルートで音大に入るのは難しいでしょうか?という話です。

 先生の答えは「以前は、音大のフルートの定員が少なかったから難しいかったけれど、今はフルートも人気が出て、色々な大学でフルートの定員を増やして、有象無象まで取るようになったから、難しいとは言えなくなったよねえ」との事でした。ちなみに、先生のおっしゃる“有象無象”とは定員20名程度の話です(定員20名で有象無象呼ばわりとは…ほんと、厳しいねえ)。

 「音大はゴールじゃないからね」と先生はおっしゃいます。音大に入るために勉強する事は大切だけれど、だからと言って、音大に入ればいいってモンじゃないそうです。問題は音大に入ってから、どれだけ勉強して、プロ奏者として生活できるようになれるかって事らしいです。

 と言うのも、一部の音大(フルートの定員が4~5名程度の学校)は別として、有象無象まで入れちゃうような音大の場合、大学でトップを取るような生徒は、きちんとフルートが吹けるようになるんだそうですが、トップを取れなかった子は…そうでもないんだそうです。

 なぜ、そんな事が起こるのかと言うと、トップの子には、大学の先生たちも、寄ってたかって、本気になって、真剣に教えるからだそうです。だから、トップで卒業した子は、どんな大学であっても、かなり吹けるようになるんだそうです。

 …って事は、定員の少ない、元々才能豊かな学生ばかりがいる音大は別として、(先生のおっしゃる)有象無象までいるような定員の多い大学の場合は、トップを取れなかった子は…フルートを吹けるようになって卒業するわけじゃないって事…のようです。

 教育には“デキない子をデキるように教える”教育もありますが、一方で“デキる子を更に高みに導く”教育もあります。これはどちらが正しくて、どちらが間違っているとかいう話ではなく、教育の目的が違うわけです。で、どうやら音大は“デキる子を更に高みに導く”ための教育を施す種類の教育機関のようです。

 まあ、プロのフルーティストなんて、国内国外問わず、そんなに需要があるわけじゃないからね。粗製乱造するよりも、優秀な一品物を作る方が現実的なんでしょうね。

 だいたい、音大ってところは、基本的にピアノ科と声楽科の生徒がその大半を占めているわけです。ピアノ科と声楽科…別にこれらの学科では、ピアニストと歌手を養成しているわけではなく、音楽の先生を養成しているわけです。音楽の先生なら、ピアノが弾けて歌が歌えることが大切ですからね。別にフルートは吹けなくてもいいわけです。だから、フルートで音大に入るって事は、学校の先生ではなく、演奏家の道を目指すわけだから、そりゃあ一品物の製造にならざるをえないよね。

 ちなみに、入学時の力だけで考えると、ある大学を受験してビリの成績の子も、別の大学を受けるとトップ合格になってしまうほど、音大における受験生の力の差って、大きいんだそうです。でも、これはあくまでも入学時の力の差であって、これがイコールで卒業時の力の差ではないんだそうです。

 音大教育の話って、一般大学の世界とは違って、色々と考えさせられる事が多いです。

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2015年4月 2日 (木)

クビを絞めずに跳躍音程を歌え!

 さて、声楽のレッスンの続きです。二重唱のレチタティーヴォに、一区切りをつけた所で、アリアの練習に入りました。モーツァルト作曲の歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」のテノールアリアである「Un'aura amorosa/恋のそよ風」です。

 この曲は、ある一つの発声テクニックさえ身につけていたら、歌うのは楽なアリア…なんだそうです。そのテクニックとは『楽に跳躍音程を歌えるテクニック』です。

 このアリアの肝は、高音への跳躍なんです。これがこの曲の音楽的なテーマであり、聞かせどころなんです。だから、跳躍音程が楽に歌える人には、楽なアリアであり、跳躍音程が苦手な人にとっては、地獄のようなアリアなんです。

 はい、跳躍音程、苦手です(涙)。

 跳躍音程が苦手と言っても、中低音での跳躍音程は、どってことないんです。問題は中音域から高音域への跳躍。具体的に言えば、ド~ソとか、ミ~ラとかの跳躍(上行)音程ね。

 何が難しいのかと言うと、このくらいの跳躍だと、ついついノドに力が入って、ノドが塞がってしまうからです。いわゆる、根性とか気合とかを、ついつい使ってしまうのです。根性とか気合とかを発声で使うと…たいてい失敗します。

 根性とか気合を使わずに、では一体何を使って発声すればいいのかと言うと、腹筋です。声の支えです。

 でも、だからと言って、声をしっかり支えて、狙った音を目指して、一直線に発声するは、ダメなんです。先生曰く「馬鹿なテノールは、みんなそういう歌い方をするんだけれど、そんな歌い方ができるのは40歳まで。だから、若い時に活躍していたテノールが年を取ると歌えなくなるのは、そういう理由なんです」と厳しいひと言。先生がおっしゃるには、元々大した声を持っていなくて、そのために若い時には芽が出なくて、散々発声に苦労して、勉強を重ねて、やっと声が出るようになって歌えるようになったテノールの方が、年齢を重ねても歌い続けられるんだそうです。

 つまり、高音は、若い時は若さだけで歌えるけれど、ある程度の年齢になって若さを失ってしまったならば、テクニックを使わないと発声できないけれど、若さだけで歌ってきた人はテクニックがないので、歌えなくなってしまうって事を言いたいようです。

 私が若ければ、若さで高音を歌っちゃうことも(ひとまず)可能だろうけれど、もはやすでに完璧に若くないので、きちんとテクニックを身につけないと、高音発声は難しいって事です。

 「レチタティーヴォの箇所で、高音を克服したような事を言ってなかったっけ?」

 レチタティーヴォで使う高音と、アリアで使う高音は(私が思うに)ちょっと違います。レチタティーヴォでは高音はあくまで結果であって、聴き手に高音を意識させないように歌わないといけないけれど、アリアでの高音は聴かせどころであって、聴き手に「はい、高音入りました!」と分かるように歌わないといけないのです。

 だからと言って、気合や根性は、もちろんご法度です。

 じゃあ、どーするのか? そこでテクニックを使うのです。

 若いテノールのように、目的とする高音を狙ってスパンと出すのは、なぜいけないのか? それはそんな事をすると、ノドが絞まるからです。クビが絞まると言ってもよいかもしれません。絞まるクビに抗うには体力が入ります。若ければ体力は無尽蔵にありますから、なんとでもなりますが、年寄りは体力がありませんからね。絞まるクビに抗うと、あっという間に体力を消耗して、歌えなくなってしまいます。だから、クビが絞まらないように歌わないといけないのです。だから、高音を狙ってスパンと出しちゃいけないのです。

 では、クビを絞めないように高音を出すには、どーするのか? 答えは『恐る恐る安全を確認しながら高音を出す』んです(笑)。いやあ、年を取ったら、慎重この上ない態度で高音に臨まないといけませんって事です。具体的に言えば、直接目標をスパンと狙うのではなく、迂回路を取って目標にたどり着けばいいんです。俗に言う『声を後ろにまわして出す』って奴です。

 その迂回路を取るのに使われるのが、ポルタメントです。跳躍音程をデジタル信号のように、スパンと目標に向かって一直線に、周囲の音を飛び越えて、ショートカットして歌うからノドが絞まるんです。目標までに存在するすべての音を経由してグルンと遠回りしながら歌うと、ノドが絞まらずに歌えるのです。さらに言えば、一つ一つの音を経由して着地点を探りながら発声していくので、着地間違いも無くなります。もちろん、体力的な問題があって、目標に届かなかったという事はあるでしょうが、そうでなければ、目標にしっかり届かせればいいだけの話になります。だから、目標とする音もしっかりと正しい音程で出すことができるわけです。

 年を取ったら、迂回路を通って慎重に歌う…これが私が取るべき高音ストラテジーってわけです。

 しかし、今まで“年寄りの冷や水”で、狙った高音を気合と根性で歌ってきた(そして撃沈してきた)私にとって、迂回路を通って歌うのは、実に難しいです。慣れない事をやれば、疲れます。なので、今はやはり、迂回路を使っても、このアリアを最後まで歌い切る事は難しいですね。

 本番である発表会当日までに、なんとか迂回路に慣れてしまえば、きちんと歌い切ることもできるんでしょうが…長年身につけた癖を治すのって、大変なんです。

 ですから、今回のレッスンでも、声を迂回路に回す事を重点的にやりました。もう、ヘトヘトですよ。でも、多少はレッスンの効果はあったかな?

 と言うのも、モーツァルトを歌った後で、もう一度、二重唱の練習をしたんですが、モーツァルトで散々迂回路を通ったせいか、二重唱を歌うと、すっご~く楽に歌えたからです。いやあ、迂回路サマサマです。

 今回、モーツァルトを本番曲として、発表会で歌う私ですが、この曲、エチュードとしてもかなりいい感じじゃないかなって思いました。

 蛇足 この日のレッスンはとても身体的にハードだったようで、レッスン直後は全然平気だったのですが、翌日は枕から頭が上がらないほど疲れきっていました。体幹がひどく疲れていて、とてもシンドかったです。

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2015年4月 1日 (水)

高音は、自然体で歌えば、必ず出るもの

 声楽のレッスンに行ってきました。今回のレッスンは、いつも一緒にレッスンに行っている妻が野暮用のため欠席。なので、私一人でみっちりとレッスンを受けたわけです。

 いつものようにタクシーを飛ばしてレッスンに行ったわけですが、今回は途中で妻をピックアップするというミッションが無かったためか、レッスン時刻よりもだいぶ早く先生のお宅に到着してしまいました。まあ、早めに先生のお宅に行っても良かったのですが、あまりにも早すぎたので、ちょっと近所を散歩してみました。まあ、散歩と言っても、周囲は田んぼしかないんですけれどね(笑)。

 で、ぐるりと周囲を一回りしてからお教室に行きました。

 まずレッスンの最初に、色々と連絡事項を受けました。ピアノ合わせの日時の確認とか、発表会当日の動きとか、そんな感じです。ちなみにピアノ合わせは2回行うのですが、それぞれが普段のレッスン時間程度もあるので、単なるピアノ合わせと言うよりも、ピアニストを交えた最終確認レッスンって感じになるんだろうと思います。場所はいつものお宅ではなく、横浜の本宅の方のレッスン室で行います。

 発表会当日は、本番リハーサルがあるのは当然として、今回は声出し部屋も用意されるようなんですが…声出し部屋なんて、どうやって使えばいいんだろ? まあ、本番直前の二重唱の掛け合いのチェックぐらいはできるかな? まあ、少し考えておくことにします。

 連絡事項が済んだら、さっそくレッスンです。今回は、発声練習はそこそこに、すぐにレチタティーヴォの練習に入りました。レチタティーヴォ…そうです、ドニゼッティ作曲の「愛の妙薬」の二重唱「Caro Elisir! Sei Mio!/素晴らしい妙薬」の前半部にたっぷりあるレチタティーヴォの部分です。あそこ、難しいんですよ。

 もちろん、難しいと言って、手をこまねいている私ではありません。歌詞をリズム読みするなどの練習は、それなりにしてあります。まずは読めないと話になりませんからね。

 レッスンの内容は…おかしな所を一つ一つ潰していく…それだけの地味なレッスンでした。イタリア語としておかしな所、音楽的におかしな所、それらを一つ一つ丁寧にチェックして潰していったのです。

 今回、特に力を入れてチェックしたのは、発声のおかしな所。高音に跳躍する時の発声が、私の場合、大抵ダメなので、そこらへんを集中的に手直しされました。

 レチタティーヴォは歌だけれど語りなんです。だから、聞いていて自然な口調で歌われなければいけません。しかし、音楽だから音程があるわけだし、その音程も結構高いところまで使われています。そんな高い音程のところを、音が高いからと言って、苦しげに歌ったり、声を張り上げて歌ってはいけません。そこが高音のソであれ、ラであれ、自然に発声しないとレチタティーヴォにならないわけです。

 じゃあどーするのか? そこで発声テクニックがチェックされるわけです。苦しげでなく、他の中音域の声と同じような感じで高音域を歌わないといけないのです。そのためには、まず高音であっても、高音と意識しちゃいけないのです。歌い手が「ああ、次は高音だ」と意識してしまうと、それが声に現れて、聴き手に悟られます。そうであってはいけないので、高音であっても高音と意識せずに/させずに、サラっと歌わないといけないのです。

 気合とか根性とかとは、真逆ですね。自然体で、平常心で高音を出すわけです。

 とにかく、何も特別な事はしないで、中低音を発声するのと、全く同じ要領で、高音を出すわけです。これって、勇気が入りますよね。

 結局、これができるかどうかは、その人のノドにかかっているわけです。ノドにかかっている…と言っても、性能が良いとか、才能があるとか、そういう意味ではなく、その音域にふさわしいノドを持っているかどうかって事です。つまり、バリトンのノドを持っている人だと、何をどうやろうとできませんが、テノールのノドを持っている人なら、いとも簡単にできる…とか、そういう事なわけです。

 うひゃー。つまり、努力ではなく、持って生まれたノドで勝負ってわけです。

 で、やってみました。できました(笑)。いやむしろ、気合とか根性とかで高音を出そうとするよりも、簡単かもしれません(大笑)。

 結局、高音なんて、出せば出るんです。それがテノールなんです。それなのに、気合とか根性とか、そういうものを介在させると、却って出せなくなるんです。

 気合とか根性とかを使うと、ノドがフタされます。ノドがフタされたら、歌えませんし、しゃべれません。私たち人間は、自然にしていたら、ノドにフタされるような事態にはなりません。だから、歌う時に、気合とか根性とかを使ってはいけないのです。むしろ、自然にのびのびとした状態で歌えばいいんです。そうすると、ノドにフタはされません。

 いや、ノドにフタされない…だけでは足りないのです。きちんとノドが開いたまま、そこに息と声が通らないといけません。それが出来ると、楽に高音が出せるわけです。問題があるとすると、ある一定以上の高音を出そうとすると、ファルセットになりがちだという事です。ファルセットでも良い箇所はファルセットで歌ってもいいのだけれど、そうでないところは、ファルセットにせずに実声のまま高音を発声しないといけません。それはそれでテクニックがいるのだけれど、そのテクニックは少なくとも、気合とか根性とは別次元のテクニックなんです。

 ひとまず、高音であっても、高音と意識せずに、中低音と同じ発声方法を用いる事で、レチタティーヴォで使われる高音の発声を無事にクリアした私でした。

 めでたし、めでたし。

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