ひとこと

  •  ポケモンGOの仕様が大きく変わって戸惑ってます。たぶん改良されたのだろうと思うのだけれど、どう楽しめば良いのか、正直戸惑っています。年寄りは変化が苦手なんだよねえ。ああ、以前のゲームシステムが懐かしい…。
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2017年6月27日 (火)

ノド声だって捨てたモノじゃない? その2

 前回の記事で、ノド声と響きで歌う事は、連続していて、要は程度の問題であると私は書きました。

 ですから、一方的にノド声が悪くて、響きで歌うことは手放しで素晴らしいのかと言えば、必ずしもそうとも言えないのかもしれません。なにしろ、両者は本質的に同じモノですから。

 さて、今回はノド声と、響きで歌う事の、それぞれの長所と欠点について考えてみましょう。

 まずは、分かりやすく、ノド声の欠点から参りましょう。

 ノド声にはたくさんの欠点があります。基本的に大きな音量では歌えないし、高い音も低い音も出づらいです。また美しくもありません。それを無理に大きな音量で歌おうとしたり、高い音や低い音を出そうとすると、ノドに過剰な負担がかかります。長く続けると、ノドが壊れて、歌えなくなってしまうかもしれません。だから、一般的にノド声歌唱は良くない歌唱法であるとされます。

 でもね、歌の発声法としては、かなりダメなノド声歌唱ですが、このダメな歌唱で歌っている人もそこそこいます。そういう人って、ノド声で歌い続けることで、ノドを強くしてしまった人であり、この人が響きのテクニックを体得したら、かなりの音量で歌えるようになるし、高い音も低い音も歌えるようになります。ノド声発声は、健康的な発声方法ではありませんし、一般的には薦められない歌唱法ですが、これができる人って、実はかなりの才能の持ち主かもしれませんね(笑)。

 あと、感情豊かに歌おうとすると、どうしてもノド声の要素を強めにする必要があります。人の感情って、キレイゴトばかりじゃないですからね。時にはノドをふりしぼったり、ノドを締め付けたりなどの悪声で歌わないと表現できない感情もあるわけです。

 人間だもの、いろいろあるよね。

 と言うわけで、響きで歌う事の欠点として、響き中心の歌声では、これら人間的な感情を込めづらい発声であるという事になります。

 これは一方、感情抜きの歌…宗教歌などにふさわしい発声法と言えます。響きを中心にした発声は、世俗を離れた天使のような声になるわけで、教会などでは、この手の声こそが音楽にふさわしいと言えます。そして逆説的に言えば、響きを中心とした歌い方が是とされてきた理由の一つに、歌というものが教会音楽として発展してきた事があげられます。響きを中心にした唱法は、神を賛美する唱法と言えるわけです。

 さて、響きで歌う事の長所はたくさんあります。まずはカラダに負担の少ない発声方法であり、健康的な発声方法であるという事です。発声方法を正しい正しくないで区別するなら、響きで歌う唱法は、正しい歌唱法であると言えると思います。

 そもそも持ち声がさほど豊かでない人であっても、響きを中心に歌うことができれば、人並みの声で歌えるでしょうし、逆に言えば、響きを中心に据えた歌い方で歌わなければ、声に恵まれていない人は歌うことが出来ないとも言えます。

 結論から言えば、長所短所を色々考え合わせてみるならば、ノド声で歌うよりも、響き豊かに歌った方が絶対に良いし、それが正しい歌い方であると言えます。

 しかし、だからと言って、今現在ノド声で歌っている人は、落ち込む必要はありません。なぜなら、これから響きで歌う事をマスターすれば、かなり豊かで恵まれた歌声をゲットできるからです。

 逆に、今現在、響きで歌っている人は、自分が正しい発声をしていると安心していると、やがて表現で壁にぶち当たるようになるかもしれません。その時に、発声方法は崩さずに、いかに声に感情を込めていけるかを考えていかないといけません。

 なんか、話がうまくまとまらなかったけれど…勘弁してください。

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2017年6月26日 (月)

ノド声だって捨てたモノじゃない? その1

 声楽をやっていると“ノド声歌唱”は悪者扱いされがちですが、そんなにノド声歌唱って悪い事なのでしょうか?

 人間はノドを使って声を出します。これには例外がありません。普通の人は声帯を使って声を出し、声帯を切除した人でも下咽頭部を駆使して声を出します。つまり、あなたが人間である限り、ノド声で発声している事は、間違いのない事実です。

 そもそも、すべての人の声はノド声なのです。

 ではなぜ「ノド声で歌ってはいけない」とか「響きで歌いなさい」とか言うのでしょうか?

 仮に、音叉で考えてみましょう。音叉を叩くと音が出ます。でも、あまり大きな音ではありません。しかし、その音叉を机に付けると、机が鳴り出して、音叉の音が大きく聞こえます。ヴァイオリンとかギターなどの楽器に付けると、ビックリするほど大きな音で鳴り出します。あるいは顔面の骨の部分に付けると、顔中から大きな音で音叉が聞こえます。

 声も似たようなモノなんだろうと思います。

 ノドで作る声は、音叉を叩いただけの音のようなもので、そこから出てくる声は、本来はあまり立派でもなければ、大きくもなく、美しくもありません。歌の素人さんの歌声が、たいてい貧弱で小さくて不安定なのは、割りと生に近い声だからです。

 いわゆる、我々がよく言う“ノド声”というのは、本来小さな音量でしかない生のノドの声を、筋力と呼気圧と根性で無理やり大きな音にした声を言います。まあ、発声のメカニズム的には、怒鳴り声や叫び声と似たような感じでしょう。ですから、努力と才能次第では、大きくて立派な声にはなるけれど、あまり美しくはありませんし、無理に大きな声にしていますので、あっちこっちで破綻しています。

 一方“響きで歌う”と言うのは、音叉を顔面の骨(つまり頭蓋骨)に付けた時のような感じでしょう。音叉を頭蓋骨に付ける事で、音叉が頭蓋骨を共鳴共振させるように、声を生のまま出すのではなく、頭蓋骨の随所でノド声を共鳴共振させる事で、生のノド声に共鳴共振させた声をミックスする事で、大きな音量の声を出すのです。この方法ならば、ノドに大きな負担がかからないので、楽に声が出せますし、無理をしていないので、声の美しさもキープできます。

 つまり“ノド声歌唱”と“響きで歌う事”は、元を正せば同じ声帯からのノド声を用いて歌っているわけで、それを頭蓋骨でどの程度響かせているかで違っているくわけで、いわばこれらの二つは連続した声であると言えます。

 だから、すべての声は、ノド声なのです。

 この生のノド声を生のまま拡声したような声を“ノド声”と呼び、生のノド声を頭蓋骨で共鳴共振した声が主に聞こえる声を“響きで歌う”と呼んでいるにすぎないのです。

 我々人間は機械ではありませんから、ゼロかイチかの行動はできません。ノド声と言っても、多少なりとも頭蓋骨の共鳴共振は加わるでしょうし、響きで歌っていても、ノドの声が全く聞こえないわけじゃないのです。要は程度の問題です。

 そう考えてみると、ノド声だからと言って、そう捨てたものではないのかもしれません。

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2017年6月25日 (日)

ネトパヨの特徴と対策について

 ネトパヨとは、私が今作った造語です(笑)。ネットに大勢いらっしゃる愛国主義者の方々を、その反対陣営(反日&売国主義)の方々が“ネトウヨ”と呼んでいるので、ならばそう呼んでいる方々でネットを主戦場としている人々を、ネットパヨク、略してネトパヨと呼んじゃえばいいじゃん…という発想です。

 私は自分の事をネトウヨだとは全く思っていません。だいたい、考え方が愛国主義と言うには、あれこれヌルすぎます。それ以前に、私自身、思想的には中立でありたいといつも考えていますので、思想的には盤石とはとても言えない状況で、何事にしても足元だってグラグラな感じで、すぐに他人の影響をウケまくるし、日和るし、弱気なので、とてもネトウヨと呼べないし、仮にネトウヨだとしたら、まだまだ序の口程度の、かなり弱っちい存在であり、やはりどう考えても、私はネトウヨの範疇には入らないと思っています。あえて言えば“小市民”あるいは“雰囲気に流されるヤツ”ぐらいかなあと自覚していますが、それでも“日本大嫌い”な人々の視点で私を見ると、こんな私でもネトウヨに見えるらしく、あれこれちょっかいを出してくる人がいないわけではありません。

 私がバリバリのネトウヨなら、それはそれでバトル歓迎に思うかもしれませんが、誤解された上で噛みつかれるなんて、誤爆もいいところです。まあ、あれもこれも一種の有名税なのかな…なんて思ってます。

 そんなわけで、少なからぬネトパヨの方々に関わらせていただいたので、私なりに彼らの特徴と、そんな彼らにどう対処したら良いかって事を記事にしておきます。

 この記事が何かのお役にたてれば幸いです。

ネトパヨの特徴

 一番大きな特徴は『自分の主義主張を声高に発言するが、相手からの反論は聞かない』という点かな? 彼らが何を考えていても、それはそれで良いと思いますが、はっきり言って、この姿勢はダメです。独善的です。だから、議論にはなりません。それなのに、こちらにはしっかりイチャモンつけてきます。

 イチャモンに対して、きちんと対応して、真摯に議論を持ちかけると、話題を巧妙にはぐらかして、自分の主義主張を再度声高に発言してきます。まるで、壊れたレコードのようにね。

 また、彼らの主張って、そのベースにある事柄のすべてが事実ってわけでもなく、事実だったり事実でなかったりする事を根拠に、あれこれ言ってくるわけです。

 で、その事実でなかったりする事…はっきり言っちゃえばデマなんですが、そのデマを巧みに織り込んでくるのも彼らの特徴です。これが厄介なんですね。

 さらに言えば、デマを話の根幹の部分ではなく、周辺事実? 枝葉の部分に巧みに織り込んでくるんです。そこを軽視したり、無視して議論を進めてしまうと、そのデマが否定されなかったという事を以て事実認定し、次の議論の前提条件になってしまう事もあります。かと言って、反論すると、反論することでデマが強調されます。おそらく、これが彼の狙いなんだろうと思います。つまり、話の中にデマを混ぜて、それに触れられなければ、デマを事実化して自分たちに有利に話を進め、デマが否定されるなら、こんどはそのデマについて話しだし、話題を巧妙に自分たちに有利なモノへとすり替えていくんですね。

 ここで言い負かされてしまうと、相手の勝ち(?)になってしまいますが、そもそもデマはデマであり、虚偽ですから、きちんと筋立てて反論すれば、容易に論破できますし、論破できれば、相手も窮地に追い込まれますので、彼らのデマに関しては、一つ一つ簡潔に完璧に論破していく必要があります。

 またネトパヨの方々の発言には、マニュアルでもあるのでしょうか? よく「のび太のくせに生意気だ」的な論調でこちらを攻めてくる事があります。もちろん、本当に“のび太”と言っているわけでなく、この“のび太”の部分には、こちらが反論できないような事実を入れてくるわけです。その事実は無茶でも何でも良いし、一見、攻撃をしているの?と思われるようなへんちくりんな事でもいいのです。

 例えば「ジジイは黙ってろ」とか「ハゲのくせに生意気だ」とか「デブはデブらしく飯でも食ってろ!」とかね。この手の類の、話にもならないような暴言を浴びせてきます。「なんかもう~」と思うこともありますが、おそらくリアル場面なら、大声出して怒鳴り散らして、その場の空気を支配するという手法をネットでやっていんだろうなあって思います。

 とにかく、何でも良いんですよ。彼らにとって大切なのは、攻める事。攻め続ける事なのです。なにしろ、攻撃は最大の防御ですから。彼らは、とにかく攻撃する事で、相手を防御(つまり反論)に専念させて、話題をすり替えていくのが目的ですから、ちょっとでも自分が不利になったら「のび太のくせに生意気だ」と叫び出すんです。

 正直、彼らのこのやり方には、心理的に引いてしまう私(非論理的な人間、つまりバカが嫌いなんです)ですが、そこで一歩も引かずに、防御しつつ、チクリチクリと相手を攻めていければいいのです。ボクシングに例えて言うなら、ガードを固めながら、時折ジャブを打つわけです。ジャブも数当たれば、それなりのダメージになります。

 また、彼らは絶対に謝りません。「しまった! 失敗した!」と思っても、まず謝りません。彼ら的には、謝ったら負けなのです。謝ったら、相手方の言い分を丸呑みしなければいけないと思いこんでいるようなので、絶対に謝りません。それでも追い込んでいくと、先程の「のび太のくせに生意気だ」発言をしてきたりします。それが通用しないとわかると、今度は攻撃の矛先を変えて、周囲に悪口を撒き散らしたり、こちらの身内とか友人とかを攻撃し始めます。

 卑怯なやり方ですが、ネトパヨって、基本的に卑怯な連中なんです。ですから、卑怯な手法を取ることに、なんの躊躇もないんです。困った事です。

 またネトパヨの方々は、複数のハンドル、アカウント、IDを使用するのが常態です。たまにそれらを駆使して、自作自演をしたり、マッチポンプをやったりします。ただし、そんなに頭がよろしくない方も多いので、複数の人格を演じるのが下手くそで、すぐに馬脚を現しますので、お話になりません。

 とにかく、汚い手でも卑怯な手でも、勝てばそれで良いと思っているのが、彼らネトパヨの特徴です。

ネトパヨ対策

 彼らに対処する時の姿勢の基本の基本として、話題の変更やはぐらかしなどを許さないようにしましょう。彼らは自分たちが不利になると、簡単に話題をはぐらかして、自分たちの土俵に話を持ち込んでいきますので、それを拒絶して、最初から最後まで、何について話しているのかを明らかにして、話題をそらさせないようにします。それだけでも、かなり効果的です。

 彼らの垂れ流す小さなデマや嘘に対しても、一つ一つはっきりと「それは嘘です」と否定し、相手が嘘つきである事を周囲に印象づけるのも効果的です。さらには、彼らが無茶な事やデタラメを言い出したら、一つ一つ「それはおかしい」と否定し、相手が論理的な人間ではない事を周囲に印象づけるのも手です。

 相手が攻めてきても、こちらは最低限の防御だけをするよう心がけましょう。過剰に反応すれば、相手の思うつぼだし、相手を攻める事は同じ土俵に上がることになるので、それは避けましょう。最低限の防御をしているだけでも、そもそもがデマによる攻撃なのですから、相手は勝手に自滅します。

 よく相手に謝らせる事にこだわる人がいますが、彼らは絶対に謝りませんかから、そこにこだわるのは不毛なことです。むしろ、謝るチャンスを与えつつも、彼らが謝らない事を逆手にとって「この人間は謝ることの出来ない狭量な人間である」と周囲に印象づける方が効果的だと言えるでしょう。

 ネトパヨの方々は、すぐに相手の言質を取りたがります。ですから、彼らと議論をする際には、失言はもちろん軽口にも注意を払う必要があります。決して揚げ足を取られないように注意深くなることが肝心です。

 ネトパヨの方々は、とてもとてもメンツを大切にするので、彼らをやっつけたければ、彼らのメンツをつぶせば良いのです。嘘つき、卑怯者、愚か者と行った扱いをしてあげれば、それだけで相手は火病ります。実際に、あるネトパヨの方を卑怯者扱いをしてあげたら、それが原因で、リアルに血圧があがって入院騒動になってしまった事もあります。私には全く理解できませんが、彼らにとってメンツって、それくらいに大切なようなのです。

 なので、ネトパヨに勝ちたければ、基本的に彼らは卑怯者なのですから、彼らを卑怯者扱いをすればいいのです。彼らは卑怯者のくせに、何より卑怯者と言われることを恐れていますからね。だったら卑怯な事をしなければいいじゃん…と私は思うのですが、行動と思想信条が一致しないのも、ネトパヨの特徴ですから仕方ありません。

 つまりネトパヨ相手なら、論理的に勝てなくても問題ないのです。相手を卑怯者だと印象付ければ、それでネトパヨ対策として、十分です。

 一番良いのは、彼らに絡まれない事です。しかし、こちらがいくら気をつけていても、噛み付いてくる時は噛み付いてきます。それがネトパヨです。そうなったら、交通事故にでもあったとでも思って諦めて、ネトパヨの駆除に励んでください。

 私は思想信条の自由を信じています。他の人々が、個人的にどんな事を考えて、どんな人や団体を支持していようと、それはそれで自由です。私は何も文句言いませんし、誰にも文句を言ってほしくないです。

 でもね、自分の思想信条が尊重されるのと同様に、他人の思想信条も尊重しないといけないという市民社会における基本的合意事項を理解できないのが、ネトパヨの方々なのです。彼らネトパヨの方々は、基本的に独裁主義者のようで、自分と異なる意見の人間の存在を許しません。それこそ、言論封鎖であり、ファッショなのですが、そこに気づいていないのもネトパヨの特徴なんだと思います。

 自分と異なる意見の人間とも、一緒に笑って暮らせる社会が、成熟した市民社会だと私は信じています。まだまだ日本社会もネット社会も、成熟からは程遠い社会なんだなあって思います。

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2017年6月24日 (土)

戦々恐々の夏が来る

 皆さん、夏が好きですか? 私は大嫌いです。

 もちろん、夏は暑くて、暑いのが嫌いな私は、そもそも夏が嫌いなのですが、それ以上に、夏が嫌いな理由があります。

 それは、夏は金魚を殺すからです。

 金魚は熱帯魚じゃありません。金魚が生育する適温は、ずばり17度です。もちろん、生き物ですから、そこから多少の上下には対応します。それでも金魚にとって、水温の変化は影響が大きく、彼らは変温動物ですから、水温=体温なわけで、夏のあつい水温は、体温が熱くなり、いわば熱を持っているにも等しい状態になります。

 金魚の一般的な生息可能な水温の上限は28度だと言われています。つまり30度は、ちょっと金魚には高すぎる…って事です。高すぎる水温は、金魚を元気にさせすぎます。食欲は旺盛になり、活動的になり、一見、すごく元気に見えますが、その実態は、躁鬱の躁状態になっているようなモノなのです。無駄に心拍数が増え、血圧が上がります。それが彼らの健康と体力を奪います。

 そして、夏の終わりまでには体力を消耗しつくして、弱い子から順番に星になります。

 水槽の水温の上昇を防ぐには、二つの方法があります。一つは、水槽のある部屋のエアコンを夏の間じゅう、つけっぱなしにする事です。もう一つは、水槽を大型のモノに変える事です。どちらも経済的な理由もあって、妻からストップが言い渡されているので、我が家では実行できません。

 なので、我が家の水槽は、夏の間は、かなりの温度になります。30度はもちろん、35度を越える事もないわけじゃないです。とにかく、暑いのよ。

 夏は金魚にとって、地獄の季節です。そして、秋はお別れの季節なのです。

 だから私は夏は嫌いです。

 ちなみに、水槽の水温は、金魚にとって、低い分には特に問題ありません。彼らは水が冷たくなれば、冬眠するだけです。つまり、休息モードに入ります。たとえ水面に氷が張るような状態になって、その下の冷たい水でじっとしているだけなのです。だから、金魚にとって真冬は決して敵ではありません。

 むしろ、強制的に元気にされて、無駄に体力を消耗させられる夏こそが危険なのです。

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2017年6月23日 (金)

棒吹きを改善する方法

 アマチュア笛吹きさんたちに共通する大きな悩みの一つとして“棒吹き”というのがあります。どんなモノかと言えば、何も考えずに(あるいは、余裕なく)吹いているだけの状態です。楽譜に書かれている音符をちゃんと吹いているのだけれど、ただそれだけで、特に音楽的に感じるものはあまり無い…演奏です。初学者や若い学生さんに多く見られる演奏です。

 正しいか間違っているのかと言えば、ひとまず正しい演奏なんでしょうが、面白い演奏なのかと言われれば、極めてつまらない演奏です。

 音符をただ音にして並べているだけで、そこには奏者の感情が入っていなくて、それでは面白みってモノが感じられないのです。

 「だったら、感情を込めて演奏すればいいじゃん」と言うでしょうが、それがなかなか難しいわけです。

 では、どうすれば棒吹きから脱却し、感情豊かな演奏ができるようになるのでしょうか?

 私が思うに、歌を参考にしてみると良いと思いますよ。

 フルートを吹く前に、音符を歌ってみると良いと思いますし、その際に階名で歌うのではなく、でたらめでもいいから歌詞をつけて歌ってみると良いと思います。もちろん、原曲が歌ならば、正式な歌詞でも良いです。とにかく、歌詞をつけて歌ってみると良いです。歌詞をつけた段階で、その歌はすでに棒吹きではなくなっているはずです。それが言葉の力という奴です。

 何度か歌ってみて、歌の様子が分かったら、今度はフルートで歌ってみる。フルートを吹くのではなく、フルートで歌ってみる。そうすると、棒吹きから卒業できると思います。

 歌う歌はなんでも良いです。好きな歌が良いでしょうね。できれば感情の起伏の激しいタイプの曲が良いです。絶唱系の歌なんていいですね。演歌も捨てたものではないですよ。一般的には洋楽よりも日本語の歌の方が、歌詞の意味がダイレクトに分かるので、この練習には向いていると思います。

 そうやって歌心を手に入れれば、二度と棒吹きにはならないと思います。お試しあれ。

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2017年6月22日 (木)

最初の先生選びは大切なんだけれど…

 別に音楽に限らないのだけれど、最初に師事する先生の選択って、とても大切だと思います。だって、最初の先生からは、基礎の基礎を習うわけだし、その後に続く音楽人生の根本的な事を学ぶわけです。ここで間違った事を教わったり、方向違いの事を学んでは、無駄足どころか、才能や興味ややる気を潰されかねません。そういう意味でも、最初の先生選びって、とても大切だと思います。

 でも現実は、先生を選べるほど贅沢な環境にいる人って…そんなにいませんよね。大都会とか、高級住宅地周辺部なら音楽関係の先生もゴッチャリいるでしょう。あるいは、子どものピアノ教室ぐらいなら、かなりの地方にでも行かない限り、ご町内に数名程度はいるでしょう。また、ちょっとした繁華街がある町なら、大手楽器店主催の音楽教室だってありますから、選択肢に限りはあると言えども、なんとか先生を選ぶ事ができるでしょう。

 問題は、地方都市とか、もっと地方都市とか、もっともっと地方都市に住んでいたり、あるいは声楽を含んだマイナー楽器(フルートなんぞはここに入るでしょう)を習いたいと思った時です。特に現役世代の男性だと、時間もままならぬ事が多いので、更に輪をかけて、先生を見つけにくいという現実があります。

 いや、それ以前に、先生そのものが選ぶどころでなく、ご近所には一人もいなかったりする事だってあります。そうなると、思いっきり遠距離の先生に師事せざるをえないわけで、実際、私の知り合いでも、電車に片道1時間乗ってフルートを習いに行っている方がいたり、新幹線に乗って声楽の先生のところに通っている方もいらっしゃいます。その姿勢には頭が下がります。

 レッスン代よりも交通費の方にお金がかかるといったケースだって、稀ではないと思うのです。

 音楽の先生を見つけるのって、特に最初の先生を見つけるって、こちらにツテがない事もあるけれど、本当に難しいです。とても選ぶどころの話ではありません。

 それにだいたい、音楽関係の先生たちって、看板を出さず、電話帳にも乗せず、ネットにすら情報を出さずに営業している人もたくさんいるわけじゃないですか? その世界に数年いれば、そういう先生たちの存在も知り、連絡を取ることも可能だけれど、全くの初心者の頃は、連絡すら取れないわけで、本当に先生探しに苦労します。

 そうやって、見つけ出した先生が、良い先生ならば、その人は恵まれた人であると言えます。最初の先生が、たいした人でなかったり、自分の学習目標とは合わなかったり、人間的に合わなかったりしたら、ダメダメですもの。

 せめて、町の音楽の先生が免許制で、どの先生も最低限の演奏能力と教授能力を有している事が保証されていれば良いのですが、現実はそうではなく、演奏はできても、他人に教える事ができない人だったり、演奏能力そのものに問題があったり…なんて人も、町の音楽の先生をやっていたりするんだから、困ったものです。

 よく「音楽を学ぼうと思ったら、複数の先生に師事することが大切だよ」と言われます。これは同時に複数の先生から学ぶ…と言うのではなく、一人の先生にある程度習ったら、ドンドン積極的に先生を変えていく事が大切だという意味です。

 先生にも得手不得手があるわけだから、その先生の良い部分を学んだら、次の先生に足りない部分を補ってもらう…という事もありますが、先生を変える事を前提に考えれば、最初にハズレの先生に付いたとしても、次の先生で挽回してもらうという事も可能になります。そういう意味で、先生を変えていくのは大切ですし、いずれ先生を変えていく…という前提があれば、最初の先生選びも、それほど深刻になる必要がなくなるかもしれません。「この先生、合わないかも…」と思ったら、次の先生に移動すればいいわけです。

 でも私達は人間だもの、情がわくんだよね。ダメな先生かも…と思っていても、なかなか縁を切れないのが、普通に人の感覚ですから、そんなに簡単に先生を変えられないのも現実だったりします。

 ああ、やっぱり最初の先生選びって難しいなあ。

 私個人の話をすると…最初の声楽T先生は、はっきり言って失敗だったなあ。指導力があまりなくて、教えることもありきたりで、おまけに人間的に相性が良くなかったと思います。あれこれあって放逐されて、その後20年近く音楽から遠ざかってしまったのも、その先生のおかげですから(汗)。

 二番目のキング先生は、音楽の楽しさを教えてくれた先生で、よく遊んでくれました。その点については感謝しています。でも教える方はカラッキシで、ちゃんとした歌い方を教えてもらった覚えはなく、声楽テクニック否定派の先生で、テノールの声帯を持っている私を伸ばす事ができず、偽バリトンにしようとしていたくらいの人です。もう少し長く習っていたら、ノドを潰していた事でしょう。危ない所でした。

 三番目のY先生は、キング先生とは真逆で、あまり遊んでくれません。その代わり、みっちり教えくださる方で、声楽テクニック皆無だった私に、筋道立てて、声楽テクニックとその論理を教えてくださってます。おかげさまで、この先生について、私は始めて歌が上達している事を実感しています。

 フルートの最初の先生は、ジャズの笛先生で、この先生には、本当によくしてもらいました。基礎をきちんと教えていただきましたし、音楽は生き物である事を教えてもらいました。一方、私が未熟だったこともあるけれど、大雑把に仕上がっていれば良しとしてくださっていたので、私のフルートには緻密さが欠落していたわけです。

 今のH先生には、音楽演奏における緻密さを仕込まれている最中です。また、演奏以外にも多くのことを教えて下さいます。そういう意味では、いかにも先生先生した先生です。音大教授の前歴もあるため、お弟子さんも星の数ほどいるわけで、いかにも教え慣れている先生で、フルートを習っていても、なんか安心して学べる、安定さを感じています。ただ、最近、引退を考えているような事をおっしゃってますので、いつまでH先生に習い続けられるか、ちょっと心配だったりします。

 ヴァイオリンは、一人の先生にしか習えませんでしたが、これは私のわがまま(さすがに声楽とフルートとヴァイオリンの3つを習い続けるのは、時間的に無理でした)で辞めてしまったので、今でも申し訳無さを感じています。教え方も型どおりではなく、私の必要と実力を見極めて教えてくださっていたので、この先生にある程度習えていたら、私のヴァイオリンももいっぱしになっていたかもしれません。そういう意味ではとても残念だったりします。

 ひとまず私の場合、今習っている、声楽の先生もフルートの先生も、良い人で良かったですし、お二人に習っていて、私が上達している事を私自身が実感できている事が何よりです。

 楽しく遊んでくれるのも嬉しいのですが、やはり上達しなきゃ、何のために謝礼をお支払して学んでいるのか、分かりませんからね。

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2017年6月21日 (水)

なぜ、優勝と聴衆賞は異なるのか?

 音楽コンクールの話です。

 これから夏本番を迎えると、各地で様々な音楽コンクールが開催されます。

 音楽コンクールにも色々なレベルのものがあり、その審査対象となる音楽家にもいろいろなタイプがあり、コンテスト参加者はそれぞれに真剣で、その姿勢に関して、私は到底チャチャを入れる気持ちにはなりません。熱心さは、誰であれ、見ていて胸熱となるのです。

 で、そんな胸熱となるコンクールが大小様々開催され、そのうちのわずかなモノぐらいしか私は見るチャンスがないのですが、音楽コンクールを見させてもらって、いつも不思議に思うことがあります。

 それは『なぜ、優勝と聴衆賞は異なるのか?』って事です。

 コンクールである以上、参加者たちには順位が付けられます。その是非についても語りたいことはありますが、今回はそれはパス。それについては、いずれまた稿を改めて書くかもしれません。とにかく、コンクールですから、順位が付けられ、1位、2位、3位とか、優勝、準優勝とか、金賞、銀賞、銅賞とか、呼び方は色々あっても、順位が付けられ、格付けがされる事には違いありません。

 この順位を付ける人は、審査員と呼ばれる人で、大抵のコンクールでは、その道のプロの方々が審査員をやります。高名な演奏家たちが審査員を務める場合もあれば、(学校主催のコンクールだと)教授や先生と呼ばれる人たちが審査員を務める場合もあります。

 一方、大抵のコンクールでは、聴衆賞とかオーディエンス賞とか観客賞とか呼んで、そのコンクール本番にやってきた観客たちに「本日,一番良かった演奏者は誰ですか?」などと言った内容のアンケートを取り、それらを集計して、いわゆる聴衆賞を決めます。

 で、たいていのコンクールで、優勝者と、聴衆賞を受賞した音楽家が一致しないんですよね。まず一致しません。まあ、まれに優勝者と聴衆賞を同時に受賞する音楽家もいますが、そんな事はよっぽどの事がない限り、まあまあ、無いです。皆無です。面白いぐらいにダブりません。

 なんででしょうか?

 音楽コンクールには「優勝者は聴衆賞の対象から外す」という取り決めでもあるのでしょうか? それならば私にも理解できますが…そんな取り決めって、有るのかな? もしもそうならば、観客が人気投票をする用紙に一言「聴衆賞は優勝者以外から選ばれます」とかの文言が必要だと思うし、その文言がない以上、それは考えづらいです。

 となると、考えられる事は一つ。プロの目線で素晴らしいと思った音楽家と、観客目線で素晴らしいと思った音楽家は、異なる…って事です。

 プロの目線は(私はプロの音楽家ではないので、あくまでも推測ですが)、演奏の巧拙とか、表現力の豊かさとか、その演奏者の将来性(年齢とか美醜とか師匠筋とか…)とか、そう言ったモノで順位を付けているんじゃないかしら? いわば、その音楽家がコンクール当日までに積み上げてきたものを評価しているわけです。

 一方、聴衆賞は、その日、一番観客を喜ばせてくれた音楽家が獲得します。その音楽家がどれほど巧みな技術を持っているかとか、素晴らしい師匠たちに学んできた事とか、そういったモノではなく、当日の演奏にどれだけ熱を込めることが出来たのかとか、美しい容姿や派手なファッションに加え、オーバーアクションによる演奏をしたとか、なにはともあれ、モノによっては、あざとい部分もあるかもしれないけれど、それでも観客の心をつかんで離さなかった人を観客は評価し“この人がこの日の一番!”って書いていくわけです。

 音楽家を学生であると考え、音楽コンクールが、学校の卒業試験のようなものなら、専門家の先生方による評価で十分であると考えます。しかし、音楽家をエンターテイナーと考え、音楽コンクールをエンタメ界へ送り出す新人発掘の場であると考えるなら、むしろ聴衆に支持された音楽家を高く評価するべきであり、聴衆賞ではなく、むしろそちらを優勝にするべきではないのかしら? なんて、思ったりもするわけです(ケホケホ)。

 違うかな?

 音楽家って、狭い狭い音楽家たちの互助会的な世界の中で生きていくのではなく、我々素人の耳目を大いに集めて、我々に一時の享楽を音楽によって与えるのが生業なんじゃないのかしら? 音楽家は、芸術家であると同時に芸能の人であり、エンターティナーなんじゃないかしら?

 だから私は、コンクール等で、優勝と聴衆賞を異なる音楽家が受賞する事に、強い違和感を感じるわけなのです。

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2017年6月20日 (火)

声楽人が合唱団に入って失う5つのモノ

 昨日は「声楽人が合唱団に入って得る5つのモノ」を書きましたが、声楽人が合唱団に入って合唱を始める事で失うものだって幾つかあります。今回は、そんな“失うモノ”について書いてみたいと思います。

 1)自由に歌うこと

 声楽は自分の個性を前面に押し出して、自分を表現していきます。一方、合唱では大勢いる歌手たちがそれぞれに自分を押し出して行ったら…当然、音楽はバラバラになってしまいます。声楽では音楽は歌手のモノですが、合唱では必ずしも音楽は歌手のモノではありません。では誰のモノかと言えば…それは指揮者のモノです。合唱では指揮者が絶対的な存在なのです。

 ですから、合唱を歌うと言う事は、指揮者に従い、指揮者の楽器となって歌う事を意味します。あくまでも指揮者の意図を表現するために歌います。決して自分の個性を生かした歌い方ではダメです。そういう点では、合唱では歌手に音楽的な自由はないのです。そこを我慢できるか…と言うよりも、そこに喜びを見いだせるかどうかが問題となります。個性の強い人、自己表現をしたい人には合唱は向いていないのかもしれません。

2)自由な時間

 (いわゆるアマチュアの)合唱団の練習は、押しなべて長時間に渡ります。声楽人は、声が減る事を恐れて、長時間の練習はしないのモノですが、合唱は違います。合唱では、一回の練習時間が2時間ってのはザラで、これが3時間とか4時間とかいう団も決して少なくないです。また、回数も頻繁にあって、週に1回の練習という団が多いとは言え、週2回という団も少なからずあります。つまり、合唱団に入団すると、趣味生活の時間の大半を合唱に費やさざるをえなくなる事もありうるわけです。

 それに加えて、自宅での練習ってのもあるわけで、ほんと合唱を始めると、合唱に時間がみるみると吸い取られていくわけで、その他の事をする自由な時間って奴が無くなってしまいます。

 だからと言って、合唱はチームですから、自分だけサボったり怠けたりってわけには行かないのが辛いですね。声楽ならば、所詮は自分ごとですから、そこは自分のペースで練習できるのと較べると、ほんと雲泥の差です。

3)自由な選曲

 当然の話ですが、本番等での選曲は、指揮者と団の代表者さんたちの話し合いで決まることがほとんどです。一般団員の意見を聞いて選曲される事って…普通はありません。その合唱団に所属している限りは、次の本番で歌う曲が、たとえ自分の趣味に合わない曲であっても、選曲されれば、それを歌うしかないのです。

 気に入らない曲を歌うほどの忍耐力があなたにはありますでしょうか?って話です。

4)スポットライト

 実はここが一番切実な問題だったりします(笑)。

 声楽は歌手が主役です。しかし合唱は指揮者が主役であって、歌手たちは合唱という楽器の一部で合唱は指揮者の楽器でしかなく、合唱団員はその楽器の一部でしかありません。たとえ演奏が大成功であっても、スポットライトを浴びて賞賛を受けるのは指揮者であって、合唱団ではないわけだし、ましてや合唱団員の一人ひとりにスポットライトが当たることは、決して無いのです。

 「注目なんて浴びなくてもいいのよ」という人ならば全然問題ないだろうが、「それではイヤ」という人が…声楽人には少なからずいるような気がします。自分が歌ったのだから、きちんと注目を浴びたいし、ちやほやされたい…そう思う人もいるでしょう。実は私はそのタイプの人です。別にちやほやされたいとまでは思わないけれど、努力に見合う正当な評価と賞賛は欲しいと思ってます。そこをスルーされるのは、なんか納得いかない人です。でも、そういう人って、私以外にもいるでしょ?

5)人を信じる心

 声楽人が合唱団に入った場合、嫌な思いをする人は大勢います。ちょっとした嫌がらせから始まり、イジメにまで発展する事すらあります。人間不信になる人もいるし、合唱嫌い、音楽嫌いになる人もいます。

 原則的に、合唱人は声楽人が気になります。それが好意という形で興味を持ってくれる人がいるなら、その場合はそれはそれで良いのですが、排除という形で攻撃してくる人も大勢います。これが問題です。

 集団原理として、異物を排除するというのは、ごく自然の行いなのかもしれませんが、その結果として、声楽人が合唱を始めると、嫌がらせを受けて、イジメられて、やがて人を信じる心が失われていきます。悲しい事ですが、現実です。

 でもきっと、声楽人を快く受け入れてくれる合唱団も、きっとこの世には一つや二つあるはずだと私は信じています。ただ、そんな団体と出会った事はありません。だからでしょうね。合唱から声楽に転向してくる人はわんさかといますが、その逆はあまりいません。

 なんとも残念な話です。

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2017年6月19日 (月)

声楽人が合唱団に入って得る5つのモノ

 以前、「合唱人が声楽を学んで得られる5つの利点」「合唱人が声楽を学んで失う6つの事」という二つの記事を書きましたが、今回はその反転版、もともと声楽だけを学んでいた人が合唱団に入ったらどうだろうか…という事を考えて記事にしてみました。

 実際の話、多くのアマチュア歌手さんは、最初は合唱団に入り、色々とあって声楽に転向、あるいは合唱をしつつ並行して声楽を学ぶ…という二つの道をたどるケースが圧倒的に多く、その逆である“声楽から合唱へ”というのは、おそらく、レアケースであり、今回の記事は単なる思考実験の域からは出ないと思うけれど、考えてみることは楽しい事なので、頑張って記事を書いてみました。

 で、今回は声楽人(声楽をやっているアマチュアの人をこう表現してみました。合唱人という言葉は、たまに見かけますが、声楽人と言う言葉は…私見かけたことないですが、勘弁してください)が声楽を辞めて合唱団に入ると、声楽だけを学んでいた時と較べて、いくつかのモノを得ることができます。あ、声楽と言うのは、クラシック声楽のことであり、独唱とほぼ同義であると理解してください。

1)仲間

 …いわずもがな…ですね。何しろ声楽は基本的に一人で学ぶものです。私は妻と二人で連れだって習ってますが、これはレアケースであり、基本は一人で先生と対峙しながら学ぶものです。ある意味、孤独な学習…かもしれません。

 そこへ行くと、合唱は一人じゃできません。必ず、人の集団の中に入らないとできません。人の集団に入れば、おのずと仲間ができます。それも音楽という趣味を共通にした仲間です。楽しいですよ。

 普段の練習も楽しいけれど、夏とか本番直前とかに行われる合宿なんかは、めっちゃ楽しいよ。

2)アンサンブル経験

 声楽は独唱のみならず、二重唱なども歌うわけで、全くアンサンブルが無い…とは言えないけれど、やはり合唱とは違って、アンサンブル経験は圧倒的に少ないわけです。だって基本的に独唱だからね。それに、二重唱などのアンサンブルと、合唱はまた別モノだしね。良い経験になると思いますし、面白いと思います。

3)オーケストラとの共演

 すべての合唱団では得られるわけではないけれど、オーケストラとの共演を前提として活躍する合唱団がいくつかあります。そういう団体に入ると、オーケストラをバックに歌うことができます。声楽でオーケストラ伴奏なんて、アマチュアじゃまず無いですからね。オーケストラの伴奏で歌えるだけでも、良い経験だと思います。

4)コストパフォーマンス

 合唱は声楽と較べて、圧倒的に安価です。声楽一回分のレッスン代で、合唱団なら何ヶ月もの団費がまかなえます。本番の衣装だって、ゼロが一つ二つ違いますし、本番出演費だって違います。趣味として継続していくための必要経費が、合唱は本当に少なくて済みます。コストパフォーマンスが良いのです。コストパフォーマンスが良いなら、その分の費用を別のことに回せますし、趣味に費やす金銭が減るので、生活が多少なりとも豊かになります。

5)喜びや達成感を共有できる

 「悲しみは分け合うと半分に、喜びは分け合うと二倍に増える」という言葉がありますが、これは真実だと思います。同じ目標を掲げて頑張ってきた仲間との喜びや達成感は、声楽ではなかなか得られない事だと思います。

 …と書いていくと、合唱をやっていくと、良いことばかりのような気がしますし、実際、良いことばかりを経験する方も大勢います。合唱をやる事で、声楽では得られない楽しみや喜びが得られることは事実ですから、合唱をやった事のない声楽人の方は(っていないだろうけれど)一度合唱を経験してみるのも良いと思いますよ。

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2017年6月18日 (日)

人生の残り時間について考える

 先日、ねんきん定期便が届きました。私が将来受給できるねんきんは…まあ、暮らせないほど少なくはないけれど、趣味三昧な生活は到底できない額だという事を改めて認識しました。現役引退後は、趣味に没頭して暮らしたいと思ってましたが、世の中そんなに甘くはないってわけです。

 それよりも、年金受給開始年齢は65歳なので、いったい何年、年金生活をするのだろうかと思いたち、私は(推定で)あと何年生きていられるのかな?と平均余命を調べてみました。

 このページで、平均余命を見ることができます。平均余命とは、その年令の人が平均して、あと何年生きていられるかって統計なので、平均寿命よりも実用的な統計数値です。ちなみに、いわゆる平均寿命と言うのは、0歳時の平均余命の事で、大人はそこから数年生き延びていますから、大抵の人は、平均寿命よりも長く生きることになります。

 私の場合、すでに平均余命は30年を切っています。もうあと30年も生きられないのか。人生の中間点を折り返したどころか、復路真っ只中じゃあないっすか。

 まあ、あとせいぜい30年、悔いなく楽しく生活していきたいものです。ちなみに、年金受給開始年齢である65歳での平均余命は20年間です。つまり、年金暮らしも20年ってわけです。まあ、悪くはないよね。

 この年金暮らしが20年間とは言え、20年間ずっと健康で元気で暮らせるわけじゃあありません。健康寿命ってのがあるわけです。健康寿命と言うのは、健康的に生活できる年齢の上限を言います。それは、こちらのページで見る事ができます。

 これによると、男性は71歳までは健康らしいです。つまり、年金をもらって6年間は生活をエンジョイできるわけです。その後、こちらのページによれば、10年ばかり不健康な生活…ってか、平均余命で考えると15年前後は不健康な生活を送るようになるみたいです。で、この不健康な生活ってヤツが、場合によっては寝たきりも含む…なわけで、その寝たきり期間を終えたら、ようやくお迎えが来るわけです。不健康な生活をしたくなければ、70歳前後で死んじゃえばいいわけです…が、人生、なかなかそうはいきません。

 私の場合、平均余命は30年弱ですが、そのうち最後の10~15年は寝たきりになる予定なので、元気で遊んで暮らせるのも、あと15~20年。歌ったり、笛を吹いたりできるのも、長く見積もっても、あと20年。そう考えると、ガンガン歌って、レパートリー増やして、フルートもガンガン吹いて、あれこれ色んな曲を吹き飛ばしていきたいと切に思うようになりました。

 20年なんて、あっという間だよね。そう考えると、私の人生の残り時間も、あとわずか、あっという間の時間しか残されていないんだよね…統計的には。

 まあ、統計はあくまでも平均値で、それよりも早く死んでしまったり、不健康になる事もあるわけだから「あと20年は健康でいられる」と思うこと自体が思い上がりなんだろうけれど、それが思い上がりであっても、そんなに長くない事を改めて認識し、受け入れる私でありました。

 思えば、若い時は、時間なんて無限にあって、人生なんて永遠に続くモノだと思ってましたよ。

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