ひとこと

  •  ポケモンGOの話。先日、アップデートがあって、新しいポケモンが増えたり、ワザの強さが変わったり、若干ルールが変更になったり…今までのゲームのやり方を多少見直さないといけない状態となり、なんか新しいゲームに取り組んでいるような気がします。うまいなあ、こうやって客を飽きさせないように運営側が気を使っているわけだ。さあ、さっさとラッキーを育てて、ハピナスにしないとな。
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2017年2月22日 (水)

波に乗っかって歌う…私の考える和音感

 先日、音感の記事を書いた時、コメントで音感にからめて和音感についての話も出てきました。確かに、音感を持っている人にとっては、和音って音の集まりだから音感の話になるのだろうけれど、私のように音感が全滅している人にとっては、和音感ってのは、音感とは、また別のモノなんだよね。また(これもどなたかのコメントにありましたが)絶対音感を持っているからと言って、必ずしも和音を分析的に聞けるわけでもないようです。そうなると、やっぱり和音感は音感とは別物…って事になるんだろうと思います。

 和音は“音の塊”なのか、それとも“音の集合体”なのか? 人それぞれ感じ方が違うのかもしれませんが、ここから先は、和音を“音の塊”として感じる私の主観に基いて書きます(失礼)。

 私が和音を音の塊として感じるのは、もちろん、和音を「分析的に聞けないから」というのが一番大きな理由ですが、それ以外にも、単音と和音に大きな違いを感じないからです。

 例えばドソという和音(パワーコードと言って、一番単純な形の和音です)と、単音のド。ピアノの鍵盤を叩いてみて感じる印象は(私にとっては)ほぼ同じなんです(笑)。特にドソの和音のドを強く、ソを添えるように鳴らすと、私の中では“瓜二つ”になるんです。もちろん、全く同じじゃないです(そこまで耳が悪いわけじゃないです)。あえて言うと、単音のドは痩せていて、ドソの和音は太っているんです。そう感じるんです。そして、単音のドもドソの和音も体格に違いはあっても、同じ音に感じます。

 このように、和音ってのは、単音を太らせたもの…と私は感じるんです。だから、単なる音の集合体とは違うのね。“足し算”と言うよりも“掛け算”みたいに感じるわけです。で、元となる音に加えていく音の組み合わせ方を変えることで、音の太り方を変えていく…それが和音なんだと思うのです。

 和音の話をすると、協和音と不協和音の話がよく出ます。協和音ってのは、音階の中の任意の音に対して、三度と五度の音を重ねたものを言います。ドミソとかファラドとかソシレとかね。クラシック音楽で主に使うのは、この協和音です。時代が下がるにつれ、不協和音も使うようになりますが、日本人の多くがイメージするクラシック音楽だと、この協和音を機能的に使った曲が大半だったりします(ここでするべき和音進行については割愛します)。

 不協和音と言うのは、この協和音に対して、余計な音を足したものを言います。例えば、ドミソにシを足してドミソシとか、さらにレを足してドミソシレとか、さらにファを足してドミソシレファとか、あるいはラを足してドミソラとかね。それぞれ、コードネームで書けば、C7であったり、C9であったり、C11であったり、Am7であったりします。

 また、協和音のある音をちょっと動かしたものも、不協和音って呼びます。ドミソのソを半音上げてドミソ#にしたり、逆に半音下げてドミソ♭にしたり、ミを半音あげてドファソにしたりね。それぞれコードネームで書けば、Caugだったり、C♭5だったり、Csus4だったりするわけなんだけれどね。

 これら不協和音は、ポピュラー音楽では普通に使う(だからコードネームが存在するわけだ)けれど、クラシック音楽では近現代曲(日本人が好まないクラシック音楽です)ぐらいしか使わなかったりします。

 そもそも、協和音不協和音という言葉自体、クラシック系の用語であって、和音を『協』と『不協』に分けちゃう発想自体がすごいと思います。私に言わせれば、それぞれ音の太らせ方が違うだけで、みんな美しい和音であって、決して不協な和音じゃないんだけれどなあ…。

 おそらくクラシック音楽って、美の基準が“高い”と言うか“狭い”と言うか、とにかく一本スジが通っているんだと思います。一方、ポピュラー音楽は、基本的に“なんでもアリ”と言うか、間口が広いと言うか、美の基準がユルイのかもしれません。それは、和音に関する美意識の違いにも現れているんだろうなあ。

 じゃあ、和音の美しい美しくないは、どこで分けるのか? それは和音をどう捉えるかで変わるのかもしれません。

 私にとって、音は波なんです。つまり、音波ね。だから和音も波です。波動だね。その波動のうねりが心地よければ、美しい和音であり、うねりがなっちゃないのがダメな和音なんです。

 だから、ハモるってのは、どういう事なのかと言えば、ある波に別の波をかぶせた時に、最初の波と次の波が互いに呼応しあうのがハモるって事であって、互いに打ち消し合ってしまうのがハモっていない状態だと感じています。

 で、色々な音が混ざって波がグチャグチャになっているのがノイズです。すべての音域でグチャグチャになっているのがホワイトノイズで、中低音域がグチャグチャなのがピンクノイズね。

 ちなみに、音色も波動の違いだと感じています。きれいな音色は波も美しく、汚い音は波がグチャグチャなんです。そこは単音であっても和音であっても同じ事です。

 ええと、ここで使っている“波”という言葉は比喩表現ではなくて、本当に音波の“波”を表しています。だって私には、音というのは“波”なんだもの。

 以前「すとんさんはピアノに合わせて歌えるから音感がある」とのコメントをいただきましたが、別に私には音感はありませんが、ピアノが出す波に対して、自分の声がうまく呼応するように歌っているから、ピアノと声が合っているだけで、別に音感があるわけじゃないのです。

 だから、私にとって、歌とか合奏とかって、波乗りみたいなモノなんだよね。

 その証拠に私、アカペラで歌うとヒドイですよ。もう、なんじゃソレ?ってくらいに、フリーダムな音楽になってしまいますが、伴奏があれば、その伴奏音の波に乗せて声を出していくので、まあまあな歌になるわけです。音感があれば、伴奏の有無に関わらず、正しい音程で歌えるはずだものね。

 まあ、サーファーは波があってナンボでしょ。波がなければ、ただの丘サーファーってわけで…かっこ悪いじゃん。ですから、私には音感はないけれど、和音感はあるんだろうなあって思ってます。

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2017年2月21日 (火)

リズム感は複合的で統合的な感覚でありんす

 昨日は音感について考えました。結局、音感とは記憶力の事であると結論づけた私ですが、今回はリズム感について考えてみたいと思います。

 私は、そんなにリズム感は悪くないつもりです。まあ、普通? いつもいつも正確無比とは言い難いけれど、そんなにデタラメじゃないつもりです。少なくとも、音楽にノッてダンスを踊れるくらいのリズム感はあります。四拍子だけでなく、三拍子や六拍子だって平気です。これが九拍子とか七拍子とか五拍子とかになると、ちょっと苦労します。つまり、ポリリズムはちょっと苦手って感じかな? でもまあ、普通の人はそんなモンでしょう。でも、音楽をやる人としては…もう少しきっちりしていた方が良いかな…とは思います。

 まあ、私のリズム感については、それくらいにして、リズム感の実態について考えてみたいと思います。

 リズム感ってのは、音感とは違って、それほど単純ではないかな…って思います。と言うのも、音感って基本的にインプットの問題だと思うのです。今聞いた音は何の音なのか?…という感覚です。アウトプットの話は、歌唱力とか演奏力とかの別の話になります。

 しかし、リズム感って奴は、インプットとアウトプットの両方にまたがる問題でしょ? 聞いて分かる事と、うまく表現できる事。この2つが揃ってのリズム感覚なわけで、その分、話は簡単には進まないのです。

 まず、インプット方面で考えるならば、必要なのは時間感覚かなって思います。結局リズムって、時間の長短でしょ? この時間の長短がきちんと分かる能力がリズム感なのかなって思います。

 アウトプット的に必要なのは…運動神経? いわゆる『自分が意図したとおりの動きをし続けられる事』ですね。例えば、手を叩くでも、ちょっとの時間だけ手を叩くのは、、誰でも出来ますが、これをある程度の時間(一曲分だとしたら3分程度?)やり続けるのは大変です。また、動く速度にしても、タラタラしか動けないのではダメで、ある程度はシャープな動きができないと細かいリズムを表現できません。お手本に合わせて手を叩くだけにしたって、運動神経が必要です。

 そしてインプットとアウトプットの間にある、いわば情報処理の部分もリズム感と関係します。具体的に言えば、楽譜を見てリズムを自分で生成するって部分です。これが音感ならば、楽譜に書かれた音程を思い浮かべればいいので簡単ですが、リズムはそんなに簡単じゃあないのです。

 リズムの生成方法には、大きく分けて2つあると、私は考えます。一つはクラシック的なリズム。もう一つはポピュラー音楽的なリズムです。

 クラシック音楽的なリズムとは、足し算のリズムです。つまり、楽譜にかかれている音符(この場合、音符の時間的な長さにだけ注目ですね)を次々に表現していくリズムです。具体的に言えば「タンタンタタタン」というリズムを手拍子で表現するなら、まず一発手を叩いた後、四分音符(に相当する時間)をあけて、次の手を叩き、また四分音符あけたら、次を叩く。今度は八分音符あけて、叩いて、また八分音符あける。で最後の音を叩いて四分音符あいたら音を止める。これで「タンタンタタタン」というリズムができるわけです。

 クラシックの場合は、音楽の横の流れを大切にするので「タンタンタタタン」なら“四分音符-四分音符-八分音符-八分音符-四分音符”と順に、それぞれの音符の長さに応じて、手を叩けばいいのです。

 細かい話をすると、これらの音符、四分音符なら四分音符で、八分音符なら八分音符で、だいたい同じ長さだけれど、厳密に同じでなくて良いわけです。音楽の流れによっては、ちょっと長めにしたり、ちょっと短めでも良い…ってか、そういう緩急をつけて演奏するのがクラシック音楽の特徴なので、合奏などの場合は、微妙に異なる長さの音符をピシっと合わせるために、指揮者が必要になってくるわけです。

 もう1つのポピュラー音楽的なリズムは、割り算だと私は考えています。ポピュラー音楽には指揮者はいません。その代わり、ビート(強拍)という基準音が存在します。音楽がどんな流れであっても、ビートは全員で合わせます。逆に言えば、ビートからズレている音は割といい加減なのです。譜面上は等間隔に指定されているリズムも奏者の気分や個性で符点っぽく演奏されたり、連符のように演奏されたりと色々です。細かいところは自由に、ビートの部分はパシッと合わせるわけです。

 例えば「タンタンタタタン」というリズムを一般的な4ビートで手拍子するなら3つある「タン」と「タタ」の最初の「タ」はビートに合わせて、きっちりと手を叩かないといけませんが、「タタ」の後ろの「タ」は、少々ルーズでも可なのです。8ビートで手拍子するなら、すべての音符をきちっと叩かないといけませんが、2ビートで手拍子するなら、最初の「タン」と「タタ」の最初の「タ」だけ、ばっちり叩けば、後はノリでどうぞって感じになります。

 こういうバラついた感じがポピュラー音楽の特徴であり、これをビートに関係なく、リズムのバラつきを抑えて、すべてを正確に表現する(つまり、32ビートとか、64ビートとか、128ビートにすればいいわけです)と、いわゆるハウスとかテクノというジャンルになります(これはこれでポピュラー音楽なんですけれどね)。

 ああ、リズムについて考え始めると、アタマがワヤワヤになってしまいます。ほんと、リズム感って、複雑な感覚なんだなあって思います。

 「音程の音痴は訓練次第で治るけれど、リズムの音痴はなかなか治らない」と言いますが、それはリズム感ってのが、複合的で統合的な感覚だからなのだと思います。

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2017年2月20日 (月)

音感とは記憶力の事である

 私には音感がありません。絶対音感はもちろん、相対音感ですら危ないです。だからと言って、音楽が楽しめないわけではないし、フルートが吹けないわけでも、歌が歌えないわけでもありません。でも、音感はほぼ全くと言って良いほどありません。

 ポーンとピアノのキイを叩いて出た音が、何の音なのか分からないし、ポンポーンと二つのキイを叩いて出た音が、どれくらい離れているかも分かりません。

 しかし、どれくらい離れているは分からなくても、音が上がったのか下がったのかは、2度以上なら、さすがに分かりますが、1度の違い(って事は実質半音だね)だと(だらし無い話だけれど)だと、たまに間違えます。

 でもね、音の違いは分からなくても、ポンと叩かれた音と同じ音を発声する事はできます。でも、同じ音をフルートでは吹けません。だって、何の音なのかが分からないんたもの。だから、知らないメロディーであっても、聞けば歌えますが、何度聞いても聞くだけではフルートは吹けません。フルートは楽譜がないと、お手上げなのです。つまり歌だと耳コピできますが、笛だと耳コピできません。そんな程度の人間なのです。

 では、なぜ、私はその程度の人間なのかと考えてみました。

 まあ『才能が無いから』とか『幼少時にまともの音楽教育を受けなかったから』とか『人間としての程度が知れてるから』とか『馬鹿だから』とか…そういうのは、ちょっと横に置いてみました。でないと話が進まないからね。

 自分の無能力さに関する事柄を抜きにして考えてみました。一体、何が原因となって、私には音感が無いのだろうか? そもそも音感っで何なんだろう?

 うーん、うーん、うーんと唸って出た答えは、音感って、実は記憶力じゃないのかな?って思いました。音程に関する記憶力の事を“音感”って言うんじゃないのかな?

 そうであるならば、よく「絶対音感は幼少時でなければ身につかない」と言われるのも解せます。幼児の記憶力って、爆発的にすごいんだよね。彼らはなんでもかんでも暗記できちゃうんだもの、あの記憶力があって始めて絶対音感という、音の印象を個別に暗記する事ができるわけです。

 記憶力は年を取るに従って衰えていきます。一説には小学校高学年を境に、後はズルズルズルズルと能力が低下していくだけなんだそうですね。記憶力が衰えてくれば、個々の音の印象を覚えることができなくなっても当然です。個々の音についての記憶は無理であっても、音と音の関係性の印象は覚える事ができるようです。これが相対音感って奴でしょう。この相対音感は、一般的には、大人になっても身につけることができるんだそうです。

 一般的には…ですね(涙)。

 実は私、子どもの頃から、記憶力ってダメなんですよ。特に言語的な記憶力と言うか、分析的な記憶力って奴が壊滅的にダメなんですよ。

 私が得意なのは、目で見た風景をまるまる覚える事。いわゆる“フォトメモリ”って奴で、例えば英単語を暗記するなら、普通の人は、英単語をブツブツ言いながら覚えたり(聴覚的に言葉として覚えるわけです)、何度も何度も書きながら覚えたり(運動をしてカラダに覚えさせるわけです)しますが、私は全然違っていて、ただぼーっと単語帳を眺めて、単語帳のページを丸々暗記します。そこに何が書かれているとかは、全く関係ありません。ただただ単語帳のページを風景として暗記します。テストの時などは、頭の中にある単語帳をめくって該当箇所を読んで答えるわけです。全く理解せずに暗記しちゃう人なんですね。

 実は今でもそうで、エルステユーブンゲンの暗譜は、音とか指とかでなく、楽譜を丸々暗譜して、頭の中でその楽譜をガン見して吹いているんですよん(笑)。

 楽譜は見えるので暗譜できますが、音は…見えません。私、見えないものって、なかなか覚えられないんです。

 でも時間をかければ、丸暗記はできますので、曲としての音楽は覚えられるし楽しめるのですが、あくまでも全体を丸暗記ですから「途中から…」とか「部分的に…」とかだと、かなり苦戦します。

 まあ、私の事はさておいて、音感って奴は『音に関する印象の記憶力』の事だと思います。それが個々の音に関する情報まで記憶できれば『絶対音感』となり、個々は無理でも、音と音の相互関係に関して記憶できれば『相対音感』になるのだと思います。

 となると、私の場合は、絶対音感も相対音感も、身につけるのは、まずは無理だな。私にできるのは丸暗記だけなので、音楽も丸暗記するしかないわけです。で、問題は、私はすでに若くないって事です。昨日食べた食事すら思い出せないほどに、記憶力が低下している現在、音楽を丸暗記するのも、結構苦労しているわけです。

 まあ、出来ない事を恨んでも仕方ないし、衰えてしまった事は受け入れるしかありません。ただ、今できる事を全力で行う…それだけです。

 でもね、やっぱり、音感を持っている人って、羨ましいです。

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2017年2月19日 (日)

そう言えば、街の商店が無くなってきましたね

 先日、ふと気づいたのですが、街に点在していた一般商店が、私が子どもだった頃と較べると、だいぶ少なくなってきました。かつてはにぎやかだった商店街も、今では閑古鳥が鳴いているところも多く、ウチの近所の商店街も、今や通りには商店よりも(商店を廃業した)一般住宅の方が数が多いくらいです。

 例えば、ウチの近所にあった八百屋と魚屋と肉屋と酒屋と乾物屋と電気屋が集まっていた小さな商店街の場合だと、今でも商売を続けているのは、八百屋だけ、それも数年前に商売替えをして、今では八百屋ではなくコンビニだったりします。でもやっているだけ立派なもので、他の商店は廃業してしまって、普通の民家になりました。

 街を見渡すと、かつての商店街はほぼ壊滅状態で、地域住民の買い物は、コンビニやスーパーマーケットがその役を担っているように見えます。ですから、地域住民的には、商店街に通っていたのが、コンビニやスーパーマーケットに行き先を変えただけで、特に不自由はない…ってか、むしろ品数豊富で良いサービスを受けられるようになったわけです。

 一見、めでたしめでたしのような気もしますが、なんか寂しいですね。

 実は、ウチの実家は某地方都市でお菓子屋を営んでいました。ええ、お菓子屋です。駄菓子やスナック菓子から、煎餅やまんじゅうのような和菓子と、ちょっとしたパンやケーキも取り扱った、総合菓子店だったわけですが、その店を祖父の代までは頑張って営んでいたわけですが、祖父の死後、父はその店を継ぎませんでした。

 場所的に都市の一等地にあるので、父は家を建て替えて、一階部分を貸店舗に、二階部分を自分たちの住居にしました。最初は某電話会社さんにテナントとして入ってもらってホクホクだったのですが、しばらくして出ていってしまったので、今は医療機関に入ってもらってます。

 そんなわけで、ウチは今でも(貸店舗ですが)商売をやってますが、隣の八百屋は廃業してしまってシャッターを下ろしたままだし、その先の電気店は古道具屋に商売替えをしましたが…どうなんでしょうね。商店街自身もお店が減り、一般住宅になってしまった店もあれば、シャッターを下ろしたままのところも目立ちます。

 実はすぐそばにスーパーがあったので、みんな、近くのスーパーに客を取られた…と思っていたら、そのスーパー自体も先日潰れてしまって、今では跡地が駐車場になっています。と言うのも、そのスーパー自体はそこそこ流行っていたようですが、親会社が経営不振だったので、整理されてしまったようです。地元の人間は、潰れてしまったスーパーの更に奥に、別のスーパーができたので、今はそちらに行っているようですが、新しいスーパーは山の上の方にあるので、お年寄りなどは通うのに大変みたいです。

 栄枯盛衰、夢の跡…でございます。

 大手のコンビニやスーパーが地元に進出してくると、その土地に暮らす人々の生活は便利になりますし、雇用も増える…かもしれませんが、昔から商売をやっていたところは大変になりますし、大手は大手の事情があって、地元の都合とは関係なく店舗を撤退してしまう事もあるわけで、もしもスーパーがやってきて、そのた地元の商店街が無くなって、その後にそのスーパーが撤退して、その後何もやってこなかったら…街そのものが滅びかねないなあ…なんて、想像してしまいました。

 昔ながらの街の商店街は素晴らしい…とは思いません(これはこれであれこれ大変だし不便なのです)が、大手資本の大型店ばかりになって、地元に密着した商店がないと、まさかの時に現代人としての最低限の生活が崩壊してしまうので、商店街は商店街として頑張ってほしいなあ…と思ってます

 ですから、どこで買っても同じものなら、なるべく地元のお店で買いましょう。私はなるべくウチの近所(徒歩1分)の、元酒屋のコンビニ(笑)であれこれ色々と買うようにしています。だって、そのコンビニが無くなったら、私困るもん。

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2017年2月18日 (土)

金魚と冬眠

 金魚は魚類です。つまり変温動物です。変温動物であれば、冬になれば…冬眠します。実際、戸外で飼われている金魚は冬眠します。

 なぜ冬眠するのか…と言えば、冬眠するしかないからです。と言うのも、彼らは変温動物ですから、外気温が低くなれば水温も低くなって、当然体温も低くなるわけで、体温がある程度低くなれば活動が鈍くなり、あるところを越えてしまうと活動が出来なくなります。で、冬眠せざるを得ないわけです。まあ、一種のコールドスリープ状態になるわけです。

 我々人間は恒温動物で冬眠はしないので、この冬眠するという感覚は、なかなか分かりづらいのですが、彼ら変温動物は冬眠するわけです。

 戸外で飼われるという事は、水盆とか池とかで飼われているのだろうけれど、冬の池って凍るよ。戸外で飼われる金魚は、その凍った水の下の0度近い水の中で、じっと動かずに、エサも食べずに、冬眠をするわけです。

 と言う訳で、金魚も冬眠をする生き物なのですが、屋内で飼われていると、少々事情が異なってきます。

 我が家の金魚の場合は、屋内水槽飼いなので、少々面白い事になっています。

 まず平日の昼間は、我が家は留守がちになので、水槽が置かれている居間の暖房が切られている事が多いので、室温が低くなり、それに伴って水温も下って、金魚たちは動きづらくなるようです。いわば、金縛り状態となり、水槽の底でじっとしている事が多いです。おそらく寝ている…それも熟睡しているようです。

 夕方になって人間たちが帰宅していると、居間にも暖房が入り、徐々に室温水温が上がっていきますと、金魚たちも少しずつ動きが活溌になり、人間の就寝時刻のあたりには、元気ハツラツでお祭り状態になります。

 人間が寝てしまい、居間の暖房が切られる夜から早朝にかけては、室温水温が少しずつ下ってきて、朝になると、金魚の動きはだいぶ緩慢になるようですが…朝は一日一回のエサの時間があるので、その時は、満身の力を込めて、力強く泳ぎ回ります。

 朝はもちろん暖房を入れますが、時間的には短時間だし、すぐに人間たちは出払ってしまうので、たぶん、水温はそれほど上がらずに、やがて長い平日の昼間になると、さらにさらに室温が下がって、金魚たちは金縛り状態になるようです。

 面白いですね。

 ちなみに、休日は朝から晩まで人間がいて、ずっと暖房が入っている事が多いので、金魚たちは一日中、元気ハツラツで大騒ぎしています。

 変温動物の暮らしも、なかなか楽じゃないみたいです。

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2017年2月17日 (金)

フルートは素材で音が変わるのか

 この話題は、アマチュア笛吹きにとって永遠の課題かもしれません。時が経つにつれ、私も多少なりとも考え方が変わってきていますので、2017年現在の私の考え方を書いておきたいと思います。

 まずフルートは素材で音が変わるのか? 私が思うところをはっきり書いてしまえば“フルートは素材じゃ音が変わらない”と私は思ってます。つまり、洋銀もゴールドも、音色の違いはごく僅差であって、ほぼ同じだと思います。ああ、身も蓋もない。

 素材が音色にあたえる影響はゼロではないかもしれませんが、それ以外の要素の影響が大きすぎて、結果として、素材でフルートの音は変わらない…と思うようになりました。

 まず、フルートはエアリードの楽器です。クラリネットやオーボエのようにリードで原音を作ったり、トランペットのようにクチビルが震えて原音を作っているわけではなく、頭部管に息を吹き込む事で空気の振動が作られ、その空気の振動が管体の中を行き来することで音が作られているのです。

 空気が振動して音を作っているわけで、その空気が洋銀の管の中にあろうが、ゴールドの管の中にあろうが、空気は空気なのであって、そこで作られる振動(つまり音)は、基本的に同じだからです。

 ですから、管体の素材は音に影響をほとんど与えないのです。特に金属管に関しては、その影響力は皆無じゃないでしょうか? もし管体が音に影響を与えるならば、それは素材の違いより、管体の体積とか長さとか重さとか硬さとかの方だと思います。体積や長さが変われば、空気の振動自体が変わって音程や音色に影響が出ますし、重さが変われば音量が変わってきます。硬さが変われば音の立ち上がりが変わってきます。

 「初心者の頃は洋銀フルートを使ってきましたが、先生から『そろそろあなたもシルバーの楽器がいいわね』と言われましたが、あれは一体どういう事なんでしょうか?」

 それこそ楽器の重さの問題だと思います。

 音とは振動です。振動だから、発信源には、その振動エネルギーに負けないほどに位置エネルギーが強いものが良いのです。つまり、音を出すモノは重い方が良いって事です。これ、オーディオの基本ね。

 今までは、楽器に吹き込む息も弱く、楽器を鳴らす力も小さかったので、軽い洋銀の楽器で十分だったけれど、楽器に吹き込む息も強くなり、より大きな音で演奏出来るようになったので、より重いシルバーの楽器の方が良い…って事なんだろうと思います。位置エネルギーの強い楽器の方が、弱音から強音まで無理なく美しく発音できるというものです。

 「そうは言っても、実際のところ、洋銀フルートとゴールドフルートは音が違うじゃん」

 それは素材の違いではなく、造りの違いでしょう。特にフルートの場合、楽器の値段で、頭部管の造りが違うので、その影響だと思います。

 頭部管の造りの違いは、音に与える影響が大きいと思います。フルートは空気が振動して音を作る楽器ですが、頭部管は、その空気の最初の振動を作り出す部分ですから、頭部管の造りの違いは、その音に大きな影響を与えます。実際、頭部管を取り替えると、ガラッと楽器の音が変わるでしょ?

 なので、ゴールドフルートの頭部管を洋銀フルートに差し込んで吹いてみたら、ゴールドフルートのような音がする…はずです。まあ、私はゴールドフルートを持っていないので、試してないのですが、総銀フルートに洋銀フルートの頭部管を実際に差した時には、総銀フルートから洋銀フルートのような音が出ました。ちなみに逆を試そうとしたら…頭部管が入らずに断念した記憶があります(笑)。

 なので、頭部管銀のフルートって、なかなかコストパフォーマンスが良い楽器なのかもしれません。

 「でもプロはたいていゴールドフルートじゃん」

 H先生もゴールドフルートですよ。それも今時珍しい厚管のゴールドです。とにかくすごいよ。

 プロ奏者がゴールドフルートを所持する理由は2つです。一つは営業上の必要から、も一つが演奏上の必要からです。

 営業上の必要とは、見るからに高級で高価な楽器を使うことで、プロとしてお客に夢を与えられる事、尊敬を集められる事、プロとしての立ち位置を明確にする事でしょう。つまり「プロなんだから、見るからに良い楽器(高価な楽器)を使って当然」って事です。

 演奏上の必要とは…H先生がよく言うのですが「ゴールドフルートは音が飛ぶからね。オケはゴールドでないと」なんだそうです。つまり、ゴールドフルートは重くて位置エネルギーが大きいので、オーケストラの演奏の中でも、フルートの音がホールの隅々までよく届くって事です。

 「楽器屋に行けば、ゴールドを勧められるけれど、あれってどうなの?」

 もちろん商売だからですが、それだけでもないと思います。実際、価格の高いフルートは、より丁寧に作られ、道具としての使い勝手もグンと良くなっています。で、フルートは価格が高くなるにつれ、素材が変わってきますので、結果としてゴールドフルートとか総銀フルートは高級フルートって事になり、腕が上達してきたら、ぜひそういうフルートを使った方が良いって事になるわけです。

 私個人も、今は総銀フルートで満足していますが、もしも、もっともっと腕が上達してきたら、将来は高級フルートとして、ゴールドフルートを購入するかもしれません…っと言うわけで、別に私はゴールドフルートを否定しているわけではないのです(念のため)。

 おそらく、フルートの音に与える影響は、その素材なんかよりも、頭部管の造りと、奏者自身の身体の方が大きい…と私は思います。特にフルートの場合“奏者自身の音”が、何と言っても影響が大きいです。ある程度の腕前になると、どのフルートを吹いても同じ音しかしなくなるのが、その証拠です。私程度の腕前でも、ちゃんと“私の音”ってのがあって、自分で聞いていても、楽器による音の差はかなり小さいです。他人が聞くと、ほぼ一緒に聞こえるようです。なので、昔は楽しかった、楽器店をまわってフルートの試奏をするのだって、今は、昔ほどメーカーごとの、フルートのモデルごとの差を感じなくなって、どれ吹いても自分の音になってしまうので、つまらなくなって、試奏をするのを止めてしまったわけです。

 逆に言うなら、素材の違いで音色が大きく変わってしまううちは、まだまだなのかもしれません。しかし、ゴールドフルートは、その造りの丁寧さや道具としてのレベルの高さがありますので、素材云々は抜きにして、ぜひ手元に置いておきたい楽器です。音色の変化を楽器に求めるのなら、フルートの素材に注目するよりも、頭部管の造りに注目して選んだほうが良いと思います。あと、日々の練習で、自分自身の音をブラッシュアップする事かな?

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2017年2月16日 (木)

生演奏と録音

 本来、生演奏と録音された演奏では、その音も雰囲気も感動も段違いですが、その事を現代で暮らす我々は忘れてしまったフシが見受けられます。

 まあ、現代人である我々にとって“音楽を聞く”という行為は、その大半が録音された演奏を聞く…と言っても過言じゃないですからね。CDで音楽を聞く、iPodやiPhoneで音楽を聞く、配信された音楽を携帯で聞く、YouTubeにアップされた音楽を聞く、テレビで放送された音楽を聞く、車の中でラジオから音楽を聞く、商店街でBGMとして流されている音楽を聞く…ほら、我々の日常生活で耳にする音楽って、ほぼ録音された演奏を聞いているわけです。

 むしろ、現代人にとって、音楽を生演奏で聞く…というチャンスは、どれぐらいあるものでしょうか? 積極的にコンサートやリサイタルに行く人は別として、普通に暮らす人々が生演奏に接する機会と言えば、子どものピアノの発表会? 中学校の文化祭で演奏する吹奏楽部? 街角で歌うストリートミュージシャンたちの演奏? こんなものだよね。

 さらにこの生演奏を『生楽器による生演奏』に限ってしまうと、ポップス系のコンサートやストリートミュージシャンの生演奏すら除外されてしまいます。おそらく、普通に暮らす現代人が『生楽器による生演奏』を聞く機会なんて、ほとんど無いのかもしれません。

 録音が今ほど普及する前の人たちは、当然、音楽を生演奏で聞いていたわけです。当時はポピュラー音楽ですら、ジャズやラテン音楽の時代ですから、当然、生楽器による生演奏だったわけです。だって電気がさほど普及していなかったから、電子楽器やP.A.がまだまだだったからです。それゆえに『生楽器による生演奏』ばかりを聞いていました。

 人々が耳にする音楽が“生楽器による生演奏”から“録音された演奏”へと変わっていったのは、つい先日の話であり、それは唐突にガラっと切り替わったようです。

 その切り替わりの時代の代表的な音楽家である、指揮者のフルトヴェングラーは録音された音楽を「音楽の缶詰」と言って嫌っていたのは有名ですが、録音された音楽を「音楽の缶詰」と評したのは、蓋し名言だと私は思います。

 生演奏も録音された音楽も、その両方を聞いていた世代の人たちは、その違いが分かるが故でしょうか? 録音された音楽の再生音を、いかに生演奏に近づけられるものかと苦心したものです。これをオーディオ趣味と呼び、その人たちをオーディオ・マニアと呼んだわけです。

 そもそも録音された音楽には、あれこれ“欠け”があります。マイクロフォンはすべての音情報を拾えるわけではありません。レコーディング機材…大昔はSP盤、そこからアナログテープ、デジタルテープ、現代のハードディスクへと変わりましたが、それでもすべての音情報が記録できるわけではありません。またそれを再生するスピーカーも、すべての情報を音として再現できるわけではありません。そうやって、生演奏と録音された演奏がかけ離れていってしまうのです。

 昔の人は、その違いを知っていたからこそ、オーディオ趣味に走る人々がいたのですが、今の時代、どれくらいの人がオーディオ趣味に走るのでしょうか? 以前は電気店でも大きな面積を占めていたオーディオコーナーは、いまや規模縮小が当たり前、オーディオコーナーそのものが無くなってしまった店すらあります。

 生まれた時から録音された演奏ばかりを聞いて育った人たちは、生楽器による生演奏が、録音された演奏とは、かなり違うモノであることを知らないままでオトナになってしまったのではないでしょうか? それゆえ、録音された演奏を生演奏に近づけて聞きたい…という欲求が薄いのかもしれません。

 音楽が録音され、人々がそれを楽しめるようになった事は、大変良いことだと思います。自宅にいながら、世界中の音楽を楽しめるわけだし、同時代の演奏はもとより、昔の名演奏すら聞けるわけですからね。その代償として、生演奏から見れば劣化した音楽で我慢せざるをえないわけです。

 私はこれって、音楽をラーメンに例えて考えると分かりやすいのかなって思っています。

 ラーメンって、本来は中華料理の一つのメニューであり、本物を食するには、本場中国に行って食するとか、あるいは日本各地にある中華街などで中国人シェフたちが調理したものを食するとかしないと、本来はダメなわけです。

 これは、クラシック音楽ならばヨーロッパで、ジャズならアメリカで聞く、本場の本物の演奏に相当します。また彼らが来日して演奏するのは、中華街で中国人シェフのラーメンを食べるようなものかもしれません。

 やがて、日本人シェフが本場に渡って料理修行をしたり、それらの本場で修行してきた人に次の世代の人たちが弟子入りをして、日本の街のあちこちにラーメン屋が開店しはじめました。これら街のラーメン屋さんのラーメンは、本場の味を踏まえながらも、日本人の好みに合わせて、ラーメンの味を調整し、より美味しいものに仕上げてきます。

 留学帰りの演奏家や、留学帰りの演奏家に弟子入りをした演奏家さんたちは、街のラーメン屋みたいなもので、本物のテイストを残しながらも、我々日本人の好みに応じた演目をチョイスし、我々に分かりやすく、解説をしたり説明をしたり工夫をしながら演奏してくれるわけです。

 一方、袋入のインスタントラーメンやカップラーメン、スーパーで売っている生ラーメン等は、録音された音楽に相当するのかな?って思います。

 名店の店主が監修したカップラーメンって、あるでしょ? あれって実に美味しいけれど、やっぱり実際にお店で提供されるラーメンとは、どこか違うわけで、その違いが、店屋物とインスタントの違いかなって思うわけです。

 生演奏と録音の演奏の違いは、ざっと聞いた分はほぼ同じなんだけれど、細かな魅力や輝きや響きって部分が違うわけで、そのちょっとの違い(しかし大きな魅力の差)は、ラーメンにおける店屋物とインスタントとの違いみたいなものかなって思うわけです。

 で、ラーメンと言えば、現代では、お店だけでなく、家庭でも普通に食べる料理であり、家庭で食べるラーメンは、当然、スーパーなどで入手できるモノであるので、インスタントが主流となるわけです。子どもの時代に食べるラーメンなんて、それこそ、カップ麺だったり、母親が作る袋入りのインスタントラーメンか、スーパーの生ラーメンを母親が調理してくれるものであって、子どもたちは、それがラーメンだと思い込むわけです。

 実は私がそうでした。だから、オトナになって、お店でラーメンを食べた時は「これはラーメンみたいだけれど、ラーメンじゃない!」って思ったものです(笑)。

 まあ、録音が普及したことで、我々の音楽鑑賞ライフは充実したわけだけれど、やはり録音は生演奏とは違うわけで、ある意味、生演奏にはかなわないわけで、生を聴かずに、その音楽なり、演奏家なりを判断しては、かわいそうだなって思う私なのでありました。

 それって、一度もその名店に足を運んだこともないのに、その店が監修したカップラーメンを食べて、それでその店の味を批評したら…おかしいでしょ? それと同じ事ね。

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2017年2月15日 (水)

アゴを全開して声帯を伸ばそう

 さらに声楽のレッスンの続きです。今度はアリアです。ヴェルディ作曲「椿姫」のテールのアリア「De'miei Bollenti spiriti/燃える心を」です。

 まだ、歌い込みが全然足りないので、部分的にリズムがいい加減だったり、音程が怪しかったりする箇所があるので、それらを間違えずに一発で歌えるように、音を取りながら、しっかりと歌い込んでこないといけません。

 さて、この曲はレチタティーヴォから始まるわけですが、先生曰く「なぜ、この曲は、こんなに軽く歌えるのか!」とビックリしていました。なにしろ私、無自覚に歌うと、バリトンよりも重い声で歌ってしまい(汗)、毎回のように注意されている人なのに、この曲に関して言えば、無自覚に歌い始めても、かなり軽めの声で歌っているのだそうです。

 良い事なんだけれど、それが無自覚って部分が残念なわけで、しっかり自覚をもって軽い声でいつも歌うことが必要なわけです。それにしても、なぜこの曲だけ軽い声で歌えるのでしょうね。本人にも分かりません(そこが私のダメなところなのです)。

 “scordo ne'gaudi suoi”の“suoi”がE♭-A♭という上行跳躍音形なのですが、このA♭でいつも失敗する私です。ちなみに、他の箇所のA♭はまあまあ歌えるわけだから、A♭が出ないわけじゃないのです。単純に出し方が悪いのでしょう。

 結論から言えば、E♭-A♭という4度の跳躍で、跳んだ距離が4度に届いていないってだけです。だから、4度に届くような跳び方をすればいいだけの話です。

 私の音程跳躍力が4度に足りないのなら、飛び跳ねる前に足を溜めて跳べばいいのです。

 足を溜める…と言っても、リアルに息を溜めてしまっては力づくになってしまうのでダメです。では何を溜めるのか? 音を上に飛ばすわけですから、単純に考えるとノドを上に引っ張り上げることで実現できますが、それをするための溜めですから、ノドを下に引っ張る事が必要となってきます。“scordo ne'gaudi suoi”というフレーズは上行音程なのですが、ノドは逆方向に下に引っ張って歌い“suoi”の“suo”まで思いっきり下に引っ張って、そこから“i”で、下に引っ張ったノドはそのまま下に溜めたままで、そこから思い切って上に引っ張り上げるのです。そうしないと、跳躍の箇所は歌えません。音は上行させながら、ノドは下降させていくのって、案外むずかしいものです。もちろん、ノドを上に引っ張り上げる時には、腹筋は嫌になるほど体内にめりこむように押し込みます。順番的には…

 1)ノドを下に引っ張る
 2)腹筋を体内にめり込ませる
 3)ノドを上に引っ張る
 4)実際にA♭の音を発声する

 …って感じです。こういう難しい箇所ほどテクニカルに歌うことが大切だし、もしもテクニカルに歌おうとして歌えなくても、それはあきらめるしかないのです。

 私は本来あきらめが悪い人間なので、失敗しそうになると、なんとかしようとしてしまいがちです。例えば、この箇所にしても、テクニックで上手に歌える時は良いのですが、うっかり音が届かない時も、諦めきれないので、力づくで何とかしようとしてしまいがちですが…それは絶対にやってはダメと先生に念を押されました。

 力づくの苦しげな声で歌う癖が付いてしまった人よりも、失敗は失敗のままにできる人の方が、早く上達するのだそうです。そして、同じ失敗なら、力づくで歌うのではなく、声がひっくり返ってしまった方が、まだ未来は明るいのだそうです。

 とにかく『その“力づくの声”は使うなよ』って事です。反省です。

 さらに言うと、高音を出す時は、クチを全開にしないといけません。私はめったにクチを全開にしないのですが、そこがダメなんだそうです。高音を歌う時は、しっかりとアゴの関節を外して、頬に縦筋が現れるほどに極端にクチを開かないといけないのです。

 そう、アゴの関節を外さなきゃダメなんですよ。アゴの関節を外すと言っても、完全に本当に外してはいけません。実は、アゴの関節って、二段階で外れるんですよ。クチって大きく開くと、普通はあるところまでしか開きません。多くの人がその状態です。これが普通で健康な状態です。しかしアゴは、そこからもう一段階、カクって感じがして、さらに大きく開きます。これは出来る人と出来ない人がいるし、できるけれどアゴに痛みが走る人もいます。そういう人は無理をするべきではありません。

 私の場合は、痛みこそがありませんが、違和感がありました。ですが、これを違和感なく、スムーズにできるようにしないと高音が出ないとY先生に言われて、時間をかけて、なんとかスムーズにできるようにしましたが、やはり以前の癖が残っていて、ガクってなる前まででアゴの開きをやめてしまうわけです。せっかくできるようになったのだから、アゴは全開で歌いなさいって言うわけです。

 アゴを全開にして、クチを大きく開く動作は、声帯を思いっきり引っ張る事とつながるのだそうです。クチの開きが中途半端な人間は、声帯の引っ張りも中途半端なのです。それじゃあダメなんです。それにアゴを極限まで開いてしまうと、ノドに力が入らないので、お腹で歌わざるをえないわけです。そうやって、しっかりアゴを大開にして声帯伸ばして腹筋を使って歌えるようになれば、Hi-Cも夢ではないわけです。

 後半のアリア部分は…メタメタでした。全然歌い込みが足りないので、本当にあっちこっち穴だらけです。特にアリアの後半になってくると、疲れてしまって、あっちこっちがダメになり、支えも無くなって、力任せな歌になってしまいます。

 後半は高いA♭が連発しますが、そこを楽に歌わないと、ドンドンHPを削られてしまって、カデンツァまで声が持ちません。声が疲れてくると、ドンドン音程がぶら下がっていきます。もちろん、そこで力づくになってはいけません。では何か出来るのか?

 対処療法的には“軟口蓋を上げる”事で音程のぶら下がりに対応できます。軟口蓋を上げて歌えば、音程が多少あがりますので、音がぶら下がり気味になってきた時は、意識的に軟口蓋を上げていくことで対応できます。それでも対応しきれない時は…どうにもなりません。ですから、そういう事態を招かないように、事前の対応が大切なのです。

 事前の対応とは、脱力して楽に歌っていく事です。ついついノドを始めとするカラダの各所に力を入れて歌ってしまうから疲れるわけで、疲れるのは腹筋だけにしておかないと、声が長持ちしないのです。

 音がぶら下がる…キング先生に師事していた時に、さんざん言われた事です。キング先生からは「耳が悪いから音が下がるんだ」と言われて、音叉の持ち歩きを命じられたり、ピアノの音当てを散々やらされました。確かにキング先生のおっしゃるとおり、耳の悪い人は正しい音程では歌えません。しかし、だからと言って、そういう人は常に音が下がるわけではなく、耳が悪ければ、音がとっぱずれるだけなので、常に音程がぶら下がる場合は、耳の良し悪しとは無関係です。

 音のぶら下がりは…Y先生に言わせると、ノドに無駄な力が入って、ノドが硬直する事で起こるのだそうです。ノドが硬直すると、声帯ってちょっと縮むんだそうです。その縮んだ分だけ、音が下がるわけです。だから、音のぶら下がりを解消するためには、縮んだ声帯を伸ばせばよいので、対処療法的には軟口蓋を上げるのが良いわけですが…それ以前に、ノドが硬直して収縮しないようにすれば、なお良いわけです。

 対処療法よりも根治療法の方が良いわけで…そういう意味でも、無駄な力みを加えないように歌わないといけませんね。

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2017年2月14日 (火)

歌はテクニカルに歌わないといけない

 声楽のレッスンの続きです。曲の練習に入りました。まずは、トスティ作曲の「Penso!/僕は思っている」です。

 この曲に数回出てくる高音は、ネチっと歌うのではなく、投げ捨てるように息を吐き出して歌うこと。私の歌い方は、いつまでも音を握ったまま抱えているような発声なので、そうではなくポーンと投げ出すように歌うわけです。

 逆に後半の“Ma tu,…tu l'ai scordato”から始まる箇所は、テンポも遅くなるので、ねちっこくネバネバと歌って、前半部との雰囲気の違いを表現するのが吉です。

 “come in quel di beato”のフレーズは“beato”の“a”が最高音のG♯になります。私はこの箇所を、フレーズに入ったあたりから声をかぶせ始めて歌っているそうなのです(無自覚です:汗)が、それはダメなんだそうです。と言うのも、確かに声をかぶせると高音が出しやすくなるのだけれど、かぶせた箇所からせいぜい1~2音程度までしか高くならないのだそうです。だから、声をかぶせるのは早すぎてはダメなのです。ぎりぎりまで待ってからかぶせるの効果的…というわけで、フレーズに入った箇所からではなく、単語(beato)に入ったところから声をかぶせましょうという事で、そうやって歌ってみました。つまり“di”でかぶせる準備を始め“be”でかぶせ始めて“a”できちんとかぶせて“to”で声を戻すわけです。ほんの一瞬だけ、ヒョイとかぶせておしまいなのです。

 無意識に勢いで声を出すのでなく、こんな感じで意図的にテクニカルに発声する事は大切なのです。それに勢いで出した声は聞き苦しいしね。

 “Ah!”もC♯-Eという音型なのだけれど、これを馬鹿丁寧にC♯を歌ってEにつなげて歌うのではなく、C♯を歌ったら、そのまま何も変えずにC♯に声をかぶせてEにして歌う方が、よりレガートに聞こえるわけだし、何より声が楽で休まるのです。こういう所もテクニカルに歌うと良いわけです。

 さて、この曲は今回で終了となりました。ご苦労様です。次回からは何を歌いましょうか…というわけで、たまたま妻がイタリア古典歌曲の楽譜を持っていたので、その中から“ある曲”を歌いたいと先生に申し出たところ、その曲は難しすぎてレッスンには適さないというわけで却下となりました。いずれそのうち歌うことにして、再度イタリア古典歌曲から選び直すことにしました。

 先生の感覚では、私はイタリア古典歌曲(のうち学ぶべき曲はすでに)学び終えている段階なんだそうです。だから、そういう人のためにイタリア古典歌曲から選曲するのは、なかなか難しい…とこぼしておられたので「私、あんまりイタリア古典歌曲を学んでいませんよ」と言いました。実際、私、そんなに多くのイタリア古典歌曲をやっていないんですね。なにしろ、キング先生のレッスンって、レッスン回数は多いのですが、一つの曲をいつまでもいつまでもねちねちやっていくパターンなので、数多くの曲の勉強は出来ないんですね。せいぜい年に4~6曲学ぶ感じです。ですから、キング先生に師事していた時は、もっとたくさんのイタリア古典歌曲を学びたいと直訴して…軽く無視された記憶があります(笑)。とにかくそんなわけで、初歩の段階で学んでいないといけない曲も抜けていたりするのが私なんですね。

 とにかく、まだやっていない曲はどれなのか教えて欲しいとおっしゃるので「まず、1番のアマリッリはやってないです。2番は…やったなあ…、3番もまだで…」と言い始めたら「じゃあ(1番の)アマリッリをやろう」って事になりました。まあ、そりゃあそうだよね。アマリッリって、割りと早い段階で学ぶ曲だよね。まだやっていない事がビックリなんだと思います。

 と言う訳で、次回からは「アマリッリ/Amarilli」です。この曲を知らない人のために音源を貼っておきます。

 歌っているのはカウンターテナーのフィリップ・ジャルスキーです。たぶん、この曲はこういう形態(男声が女声音域で歌う+ギター伴奏)で歌うのが正しいのだと思います。

 と言うのも、この曲は、歌詞の内容から考えれば男性の曲なのですが、元々マドリガーレ(つまり歌曲)として作曲されているし、メロディの音型を考えると、男声よりも女声の方が適していると思われるし、実際、今では多くの女性歌手たちに歌われています。メロディの音型に加え、この曲が作曲された時期(ルネサンス期)という事も考え合わせてみると、たぶん、この曲は本来、プロ歌手であるカストラートが歌うことを念頭に置いて作曲されたんじゃないかなって思います。ならば、男性向けの歌詞の曲が女声の音質用に書かれているのも納得です。でも、現在はカストラートなんていません。また、時代背景を考えると、ピアノはまだ無いし、通奏低音による伴奏ならば、リュートが一般的だった時代なわけです。となると、現在ならば、クラシックギターによる伴奏でカウンターテナーが歌うのが、最善って事になるわけです。で、この音源を選んでみました。

 この曲がカストラート(女声)向けの曲ならば、この音源での歌唱のように、極めて軽く軽く歌う必要があります。そういう意味では、私が苦手とするタイプの曲なわけで…良い勉強になりそうだなあ(汗)。

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2017年2月13日 (月)

自分の癖を知って、その癖を無くしましょう

 声楽のレッスンに行ってきました。

 まずはハミング練習からです。今回はしっかりお腹を使うことを目的に行いました。とにかく、外見からでも分かるほどにしっかりお腹を動かす事をやりました…が、私のお腹の動き方が、どうも先生が納得できるほど動いているわけではありませんでした。それもまた無理のない事で、実は私、100%の力でお腹を動かしてはいなかったのです。

 と言うのも、満身の力を込めてお腹を動かすと、ノドが痛くなるんですよ。だから、ノドが痛くなる手前までの力でしかお腹を動かしていないのです…と答えたところ「それは、お腹以外にも力が入っているからでしょう」と言われました。で、先生が観察したところ、私の場合、お腹を動かすと、カラダのあっちこっちに力が入るのだけれど、特に胸の筋肉にかなり力が入っているみたいなのです。発声する時は「ノドは脱力、胸も脱力」を心がける事となりました。

 また腹筋の動かし方にも注意が入りました。私の場合、最初の一撃でかなり力が入ってしまうのだけれど、これはあまり良い動かし方ではないそうです。お腹は徐々に徐々にフワッとした感じで緩やかに動くのが良いそうです。腹筋がゆっくりと入っていって、ゆっくりと抜けていく感じがベストなんだそうです。

 さて、発声練習です。腹筋での息の支えに重点を置いた練習をしました。

 腹筋を上げる際、抵抗を感じないまま、グイっと上げるのは良くないのだそうです。腹筋に重さ(抵抗)を感じながら、動かすのが良いのです。ゆっくりゆっくり重みを感じながら腹筋を動かしていくわけです。

 自分の癖を知る事は大切です。私が高音へ行く時の癖を書くと…

 1)高音の直前で息が切れる/引っ込む
 2)クチが上下に少し閉じる
 3)クチが横に少し開く

 これはすべて悪い癖です。1)の高音の直前で息が切れるのは、本当に無自覚なのですが、おそらく高音に向けて“息を溜めている”のかもしれません。一瞬、息を止めて、次の瞬間に発射するわけですが、これは勢いで声を出すやり方ですね。歌は常にレガートが大切ですから、高音だろうと低音だろうと、常に前の音とは息がつながっていないといけません。

 2)と3)も無自覚なのですが、要するに、高音を意識すると、クチが縦開きから横開きに変わってしまうって事です。声が平たくなる…とも言えます。もしかすると、無意識に声を平たく出そうとしているのかもしれません。クラシック声楽では、高音でも低音でも、平たい声で歌っては美しくないので、この私の癖は悪い癖なのです。

 とにかく、声は縦開きに。決して息を溜めずにレガートで歌う。なかなか難しいですが、意識しない事には改善されませんから、まずは自分の悪い癖を見つめて矯正していきましょう。

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