ひとこと

  •  平昌オリンピックが2月8日から25日の日程で行われています。で、その最中の2月15日から17日の3日間がソルラル(春節・旧正月)になります。韓国人はお正月を、我々日本人とは異なり、中国人たちと同日程のソルラルで祝います。ソルラル中は2/3以上の韓国人が故郷に帰省するそうです。つまり、この時期、韓国では民族大移動が行われるわけです。当然、交通機関は麻痺状態です。お店の大半が休業なんだそうです。なんで、そんな時期にオリンピックを開催しているんでしょ? 日本風に言えば、オリンピックを年始年末休みに行うようなものです。オリンピックを見に行った多くの外国人たちが、ソルラルの事を知らずに、泣きをみているそうです。可哀想に…。
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2018年2月21日 (水)

『グレーテスト・ショーマン』を見てきました

 ヒュー・ジャックマン主演のミュージカル映画だというので見てきました。ヒュー・ジャックマンと言えば、一般的には“ウルヴァリン”でしょうが、音楽ファン的には「レ・ミゼ」の“ジャン・バルジャン”なわけで、そりゃあ見に行くしかないでしょう。

 公式ホームページはこちらです。

 で、見てきました。さすがに『ラ・ラ・ランド』後のミュージカルというわけで、実に音楽と演技が見事にシンクロしていました。歌も芝居の一部であって、そういう点では21世紀の新しいミュージカルだなって思いました。歌と芝居と演出が高いレベルで関連していました。良いね。

 曲は、どの曲もとても良かったですよ。捨て曲無しです。おそらく、キラーソングは“This is me”だろうけれど、実にパワフルな曲です。いいよ、いいよ。

 何度も繰り返して見たくなるミュージカルです。なかなか良質なミュージカルだと思いました。

 もっとも、だからと言って、手放しで賞賛できるタイプのミュージカルなのかと言えば、ちょっと違います。音楽は良いんだけれど、その他の部分で、物足りなさを感じちゃいます。

 まずは、ストーリー。主人公バーナムの立身出世物語(と挫折)を中心に、それに各種差別問題を絡めているんだけれど、ドラマ的には、そんなに深くないです。「ミュージカルのストーリーなんて、そんなもの」と言えば、それで終わりなんだけれど、だったら、もっと脳天気なストーリーでいいと思うわけです。素材的には、もっと深みのあるストーリーだって作れるだろうに…と思うと、ストーリー的に残念です。

 主人公のバーナムという人は、アメリカではとても有名な実在のビジネスマンらしいし、バーナム以外の登場人物たちも、みな実在の人物で、バーナム同様に有名人らしいのですが、どれもこれも我々日本人には馴染みの薄い人物です。どうやら「みんな知っているよね」というのが前提にあり、あれこれ説明不足の掘り下げ不足なのです。たくさんのエピソードがストーリーに組み込まれていますが、その多くは見ていて「?」となってしまうのですが、おそらくそれはアメリカ人にとっては既知の話であり、細かい説明が省かれているのだろうと思うのだけれど、そういう部分が、我々日本人には、ちょっと不親切な作りになっているようです。

 つまり、ストーリー的には楽しめないし、共感もしづらい話です。でも、それを補って余るほどに、音楽は良いです。

 『グレーテスト・ショーマン』の音楽は、上質な、今時のロック風味のポピュラー音楽です。そこは1950年代のロジャースのミュージカルや1990年代のロイド・ウェーバーの音楽とは違うわけです。

 ミュージカルがこの世に生まれて、約百年くらいでしょうか? そもそもは19世紀末のオペラが、あまりに重厚に規模も大きくなってしまったアンチテーゼとして生まれた、軽妙で洒脱なオペレッタが、20世紀になって、アメリカに渡り、様々な現代的な音楽を吸収して出来上がったのが、現代のミュージカルなわけです。ほぼ20世紀初頭に死滅してしまったオペラにとって変わるように、20世紀初頭に生まれたミュージカルですが、今やオペラとはだいぶ違う地平の上に成り立っているようです。その最極限が『ラ・ラ・ランド』だったんだろうと思いますが、この『グレーテスト・ショーマン』も音楽的には、かなり先端に近いところにいるのだろうと思います。少なくとも、ロイド・ウェーバーの音楽よりも、だいぶ尖っています。

 今のアメリカ人は、こういう歌芝居を好むのかな…って思いました。

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2018年2月20日 (火)

歌曲は原調で歌うべきか?

 つまり、歌曲は作曲家が作曲したオリジナルの調性のまま歌うべきか、それとも歌手の声に合わせて自由に移調して歌うべきか…という命題でございます。

 一般的な解答としては「歌曲は自由に移調して歌って良し」です。

 でも、本当にそれでいいのかな?と私は思うわけです。

 確かに、歌手本位で考えるならば、その歌手が一番良いパフォーマンスを発揮できる音域というのは、歌手毎に決まっているわけだから、どんな曲であれ、その音域の範囲に納めて歌った方が良い結果が出るに決まってます。

 だから歌曲を移調して、歌い手の得意な音域に納めて歌うのは、一見、理にかなっているように見えます。実際、歌手本位ならば、それで正解です。

 でも、何か釈然としないのです。

 まず1つ目の釈然としない理由は、これは歌曲のみに適用され、オペラアリアには適用されないって事です。

 歌曲は歌手の音域に合わせて、自由に移調されて歌われるのに対して、オペラアリアは作曲家が書いたオリジナルの調性のまま歌わないといけないのです。その理由として、歌曲は単独で歌われる事が多いけれど、オペラアリアはオペラ全体の中の一部として歌われるから、他の曲とのバランスを考えると、移調して歌うのはふさわしくない…って言うわけです。

 でも、これ、ごまかしだよね。

 確かに、オペラ上演の最中、一部の曲だけ移調して歌うと、不自然な感じがしないわけでもないから、オペラ上演の中では、アリアの移調は禁止…は分かります。でも、コンサートなどで、そのアリアだけ取り出して歌う時も、移調禁止は…分かりません。歌手本位で考えるなら、その歌手の音域に合わせて、オペラアリアも移調して歌っても、何の不都合もないからです。

 私は実際、素人さんの発表会で、オペラアリアを移調して歌われたのを聞いた事があります。有名なテノールのアリアを、低く移調してバリトンの方が歌われていました。破綻なく、見事な歌唱でしたたよ。特に、歌としての不都合はありませんでした。この歌唱を聞いて以来、歌曲が移調されて歌われるのと同様に、オペラアリアも移調して歌っても、まあ、アリかもしれないなあって思いました。

 歌としての不都合はないのに、オペラアリアの移調はダメで、歌曲の移調はアリってのが、私が釈然としない理由の1つです。

 理由はもう1つあります。やはり、その低く移調されたオペラアリアを聞いた時に感じた事です。

 オペラアリアを低く移調して歌われても、確かに歌としての不都合はありませんでした。不都合は無かったのですが…違和感はありました。移調されていても、同じ歌は歌なのですが、なんか違うんですよ。具体的に書けば「歌を聞いた後にカタルシスが解放されない」と言うと…分かるかな? なんか、聞いていて不完全燃焼だったのですよ。

 テノールのアリアって、たいてい最後に聞かせどころの高音があって、そこをアクロバチックに歌うことで、聞き手のカタルシスは解放されるように作られています。バリトン用に移調された時も、全く同じように歌われ、高音部分も移調されて歌われたのですが、テノールが原調で歌った時に感じたカタルシスの解放が、バリトンが移調して歌うと、特に感じられずに、普通の歌として聞こえちゃったんですよ。

 テノールのオペラアリアの高音って、絶妙に作曲されています。テノール歌手のギリギリの音域で、破綻直前の危うい音程で、見事に歌えるように作られています。それを低くしてバリトン歌手が歌うと、バリトン歌手にとっては、破綻寸前の危うい高音であっても聞く側からすると、テノールでの歌唱ほどのヤバさは感じられず、普通の高音にしか聞こえないのです。

 歌の音程と歌手の声質って、関係あると思うのです。で、作曲家はそこを考えて、調性を決めて作曲していると思うのです。それを考えると、オペラアリアを移調して歌っちゃダメという理屈に納得しちゃう私なんですよ。

 で、オペラアリアはダメなのに、なんで歌曲は良いの? って思ってしまうわけで、なんかモヤモヤが残るわけです。

 「君と旅立とう」という歌曲があります。オリジナルはイタリア語の曲で「Con Te Partirò」というタイトルで、アンドレア・ボチェッリというテノール歌手のために書かれ、実際、彼のシングルレコードとして発売され、ヒットしています。

 この曲は、後に、歌詞の一部を英語にして、英語のタイトル「Time To Say Goodbye」に付け替えられて、ソプラノ歌手のサラ・ブライトマンによって歌われ、大ヒット曲となりました。

 この曲は、男女の二人の歌手によって歌われています。同じ調性で歌われていて、移調されているわけではないのですが、実は歌っている歌手の男女の差もあって、実質的には1オクターブほど音程が違っています。実際の音程が違うので、同じ調性でも、歌の印象が少し違います。私が特に違和感を感じるのは、最後の聞かせどころの高音部分です。

 ボチェッリの、音域ギリギリで歌う高音に対して、ブライトマンの楽々歌う威風堂々たる高音は、曲の印象を大きく変えます。

 これは私の好みですが、ブライトマンが美しい声で楽々と歌うバージョンよりも、ボチェッリが朴訥でギリギリに歌うバージョンの方が好きですし、この曲は、そもそもがボチェッリの持ち歌という事も考えれば、作曲家はこの危うさを出したくても、この音域で曲を作曲したんだと思われます。でも、ソプラノであるブライトマンにとって、この音域は楽勝なんだと思います。楽勝すぎて、高音が安心で安定してしまうのです。

 歌手本位で考えれば、ブライトマンの歌もアリだろうけれど(だから大ヒットしたわけです)、作曲家本位で考えると、ブライトマンの歌唱は、本来の意図とは違うんじゃないかなって思うわけです。オペラアリアを違う声種の歌手が歌うと違和感を感じられるように、歌曲だって本来対象にした声種以外の歌手が歌うと、やっぱり違和感を感じる…んだと思います。

 そして、昔の作曲家の歌曲は、皆さん、結構自由に移調して歌われているけれど、現代作曲家のソングは、移調して歌われたり歌われなかったり、そもそも移調された楽譜が販売されていなかったり…。

 ああ、考えれば考えるほど、頭が混乱する。

 移調問題については、歌手本位で考えるのと、作曲家の意図を汲み取って考えるのと、結果が異なってしまいます。これは、ある意味、立場の違いだけであって、どちらも正解と言えるし、どちらも不適切とも言えます。

 ああ、分からん。私的には、作曲家の意図を最大限に尊重しつつ、時には移調された楽譜で歌うって事になるんだろうなあ。少なくとも、私が楽譜を選ぶ時は、なるべく移調譜ではなく、原調の譜面を利用したいなあって思うわけです。また女声用に作曲された曲はなるべく避けて、男性用に作曲された曲をなるべく歌うように心がけているわけです。ただし、それを他人に強要する事はしないけれどね。

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2018年2月19日 (月)

メトのライブビューイングで「トスカ」を見てきました

 私はメトのライブビューイング上映のすべてを見ているわけではありません。基本的に、見たことのないオペラ(で、なおかつ興味をそそられるオペラ)を上演する時と、新演出のオペラ(で、なおかつ興味をそそられるオペラ)を上演する時に見ると決めています。

 本当はすべての上演作品を見たいのだけれど、お金と時間に制限があるものでね…。

 で、今回は「トスカ」を見てきました。私、「トスカ」は色々な上演を何度も見ていますが、今回の上演がメトの“新演出”になるそうなので、改めて見る事にしたわけです。

 実はメトの「トスカ」は2009年に演出が変更されたばかりで、10年と経たずに演出が変更されたというわけです。

 どうも、2009年のボンディの演出がダメだったようです。アメリカの観客たちには、あの演出には、かなりご不満だったようで、それで今回の演出変更につながったようです。ちなみに、私は2009年版の演出をアンコール上映で2011年に見ているので、なおさらすぐに変更されたような気になっていたようです。その時の感想記事はこちらです。

 以前の記事を見ても分かる通り、私は個人的にはボンディの演出は好きでした。歌だけでは分かりづらい、ストーリーの説明やキャラの性格の掘り下げも芝居と演出の力で補っていたし、別に不満など、特になかったのですが、アメリカのオペラ好きな方々には、えらく不評だったようです。

 まあ、確かに、ボンディの演出とそれ以前のゼッフィレッリの演出とは、だいぶ違うものね。ボンディの演出は2009年当時から、アメリカでは賛否両論だったそうだしね。

 で、今回のマクヴィガーの演出なんだけれど、振り子が振り戻るかのように、現代演出の要素も残しながら、伝統的な定番の演出に戻ってしまいました。まあ、安心して見られると言えば、その通りなんだけれど、なんかアクが抜けちゃったなあ…って感じです。

 それは演出だけでなく、主演のソニア・ヨンチェヴァとヴィットーリオ・グリゴーロの歌唱のせいもあるかなって思います。二人とも、声が軽いんだよねえ…。なんか、オペラのお話が絵空事のようで、現実っぽさが希薄なんです。まあ、オペラって、基本的に絵空事だし、ファンタジーだし、それに現実っぽさなんて加えるのは、野暮ってもんなんだろうと思うんだけれど、それにしても、ボンディの演出の後だと、なんともアクの無い、優等生向きの演出になっちゃったなあ…って感じです。

 まあ、地元アメリカのファンは、これを望んでいるのなら、仕方ないよね。アメリカ人って、案外保守的なんだよね。

 とは言え、別に私はマクヴィガーの演出がダメとは言いません。これはこれでアリです。ただ、私の好みは、以前のボンディ演出の方だったってだけの話です。

 今回の演出では、トスカは若い娘…ってか、小娘に設定されているそうです。演じる歌手が大御所ソプラノ(つまりオバサン)が多いせいか、ついついトスカって成熟された女性だと思いがちだけれど、今回の小娘設定で物語を見てみると、色々とストーリーに合点がゆくし、何よりトスカのキャラに整合性が出てきます。いやあ、これには今まで気づきませんでした。

 となると、実はスカルピアも若いんじゃないかなって思うようになりました。

 ここから先は、私の妄想です。

 スカルピアって、だいたい爺さんバリトンであったり、若いバリトンでも老けメイクをして演じるので、年寄りのイメージがあるんだけれど、実は思うほど年寄りではなく、せいぜい中年のオッサン程度なんじゃないかって思いました。中年のオッサンって、まだまだギラギラしているものね。ならば、トスカのカラダを求めるのも分からないでもないのです。本当の爺さんは、小娘のカラダなんて欲しがりませんからね。スカルピアは、せいぜい中年の、精力ギンギンのオッサンなんですよ。

 となると、カヴァラドッシの年齢設定にも疑問が生じます。

 カヴァラドッシって、アンジェロッティの親友なんですよね。で、アンジェロッティって、逃亡中の政治犯なんだけれど、彼って、ローマ共和国の高官って設定なんですよ。つまり、とてもエラい政治家様で、そんな立場の人が、そんなに若いはずはないんです。少なくとも、青年ではありません。せいぜい中年、下手すると爺さんの可能性すらあります。そんな人と親友なんだから、カヴァラドッシも、あまり若くはないはずです。もしかすると…中年のオッサン? でも、カヴァラドッシが中年のオッサンなら、スカルピアと対等なクチを聞いちゃうのも分かるし、スカルピアの部下たちを、若造たちを見下すような態度で接するのも分からないでもないです。

 カヴァラドッシが中年オヤジならば、トスカに対する甘々な態度も分かりますし、トスカが嫉妬ぶかい娘なのも分かります。だって、相手はオトナだし、騎士様(つまり貴族だよ)だし、人生経験だって豊かだろうし、お金持ちだろうし…、一方のトスカは、世間知らずの小娘だし、歌姫(ナポレオン時代の歌手なんて、使用人に毛の生えた程度の扱いの職業です)だし、自分に自信がなくて、ついつい嫉妬しちゃうんだろうなあって思うわけです。

 かわいいね、トスカちゃん。

 そんな風に(私が勝手なイメージで年齢設定を変更して)このオペラを見てみると、なんとも新しい世界が広がるわけです。「トスカ」って“オッサン二人が政治争いをしていて、それに小娘が巻き込まれて、あたふたしている話”になるわけです。いやあ、面白い。

 最後に出演者の事を書きます。

 グリゴーロは…カヴァラドッシを歌うのは、まだ早かったんじゃないかな? 上手いんだけれど、この役に必要な声の重さに欠けると思います。演技は熱いんだけれど、声の熱量はちょっと足りないような気がしました。あと、10年ぐらいすると、良い感じになるかもしれませんが…今はまだ声が若すぎるような気がします。

 ヨンチェヴァは…上手いねえ。そもそも演出家が、トスカを小娘に設定しているのだから、これくらい(従来のソプラノさんと比べると)軽めの声のソプラノで良いのだろうね。演出が伝統に回帰しても、歌手の声までは、昔のような大ソプラノの声を求めなかった…って事だわな。昔風のトスカなら、声は重量級のソプラノだものね。でもね、声はともかく、演技力は昔の大ソプラノレベルだったのは…どうなんでしょ?

 ルチッチのスカルピアは…歌も演技も薄味…かな? スカルピアって、悪人のはずなんだけれど、ルチッチが演じると、案外、紳士に見えるんだよね。だからかな、2幕のトスカとスカルピアの対決シーンが、なんとも物足りなく感じてしまいました。当初予定のブリン・ターフェルが歌っていたら、もっとねっとりした悪役になっていたんじゃないかしらって思います。

 そうそう、名前は知らないのだけれど、スポレッタを歌っていた脇役テノールさんの演技が良かったなあって思います。スポレッタなんて、ただの端役なのに、なんか妙に心に残るんだよねえ…。でもこの役、そんなに存在感があっちゃダメな役だとも思うんだけど(笑)。

 それにしても、今回の「トスカ」は、いかにもメトのオペラって感じでした。メトって、保守的なんだよね。保守的だからこそ、子どもや初心者にも安心して勧められるんだよね。「最初にオペラを見るなら、メトの上演版」というのが私の口癖なんだけれど、最近のメトは、ちょっと冒険しすぎて初心者に優しくなかったのですが、今回の演出でメトの「トスカ」は、そんな昔の初心者に優しいオペラに戻ったわけです。

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2018年2月18日 (日)

そもそも“立ち読み”が窃盗であるという自覚がないのが原因だろう

 日本漫画家協会という団体が“海賊版サイトについての見解”という記事をアップしました。詳しくは、直接、そちらの記事を読んでいただければ良いのだけれど、かいつまんで書けば「違法サイトでマンガを読んで済ませないで、ちゃんとマンガを購入して読んで欲しい」って事です。

 マンガは本ではなく、コンテンツです。だから、本であろうと、データであろうと、読者にとっては、マンガが読めれば、それでOKなのです。だから、実際のマンガ本で読もうが、電子書籍で読もうが、違法サイトで読もうが、読めれば、それで用が足りてしまいます。

 違法サイトでマンガを読んだ読者は、読み終えたマンガのマンガ本を購入するでしょうか? まあ、コレクター習癖のある人は別として、普通の感覚の人なら、一度読んだマンガを改めて本屋で買うことは無いでしょう。だって、マンガはコンテンツであって本では無いからです。一度違法サイト等でマンガを読んでしまえば、そのコンテンツを楽しんだ事になり、改めてマンガ本を購入する必要がなくなります。つまり、マンガ本を購入してコンテンツを楽しむはずだったのに、違法サイト等でコンテンツをを楽しんでしまい、結果的にマンガ本を購入しなくなれば、それはマンガ本を買わずにそのコンテンツだけを盗んだにも等しい行為とも考えられます。つまり、違法サイト等でマンガを読む事は、ある意味、マンガ本を窃盗しているようなモノなのです。

 実際、違法マンガサイトが隆盛を極める中、マンガ本の売上は、ドンドン減っているそうです。ま、目の前のマンガ本は動きませんから、マンガ本の売上減としか考えられませんし、この二つの現象を直接結びつけて考えるのは、ちょっと乱暴かもしれませんが、それでも、本来ならばマンガ本を購入していたはずの人が、違法サイトでマンガを読んでしまったために、購入せずに済ませているならば、それはマンガ本を盗んだにも等しい行為だし、そんな人が増えていけば、自然とマンガ本の売上も下がる事でしょう。

 マンガ本の売上が下がって困るのは誰でしょうか? 出版社でしょうか? 確かに、会社も困るだろうけれど、どんな会社もリスクヘッジは考えているわけで、マンガが売れなくなっても、会社自体は、あれこれ頑張って、なんとかしようとするものです。マンガが売れなきゃ、別の違うモノを売るだけです。マンガが売れなきゃ困ることは事実だけれど、マンガが売れなきゃ売れないで、何とか対応できるのが会社です。

 やはり一番困るのは、マンガを書いている漫画家さんと、その愛読者の皆さんでしょうね。マンガ本が売れなければ、漫画家さんはマンガ執筆で生活が出来なくなります。連載を取りやめたり、連載の間隔が開いたり、掲載雑誌が廃刊になったり、単行本が販売されなくなったりするでしょう。もしかすると、生活のために漫画家を廃業せざるを得なくなるかもしれません。そうなると、その漫画家さんは困ります。また、その漫画家さんの作品を楽しみにしていた愛読者の方々は、その漫画家さんの作品が読めなくなるわけで、こちらも困ります。

 才能が無くて、続けていけなくなった人は、自然淘汰だから、ある意味、漫画家廃業も仕方がないかもしれません。でも、才能があっても、その才能を支えられるだけの金銭的な報酬がなければ、その才能を発揮する事はできません。それが一人二人ではなく、もっと大きな数の才能の集団が、その才能を発揮する事ができなくなれば、文化の衰退が始まります。

 まあ、話はかなり大げさになってしまいましたが、要は「商品は購入してから楽しみましょう。盗んで楽しんではいけません」って事です。

 とは言え、違法サイトを読んでいる人は、自分の行為が窃盗であるとは、全然思っていないだろうと思います。

 と言うのも、日本には、昔から、マンガに限らず、本屋の店先で無料で本を読む“立ち読み”という習慣があるからです。おそらく、違法サイトでマンガを読んでいる人は、本屋の店先でマンガを立ち読みしているのと、そう変わらない感覚でマンガを読んでいるのだろうと思います。

 問題なのは、マンガ本一冊の内容を、丸々違法サイトで読めてしまう事です。さらに考えてみれば、立ち読みだって、実は同じ事なのです。

 文字の本なら、本を一冊丸々、本屋の店先で読み終えるなんて事はありえません。だから、店先で、立ち読みをして、気に入らなければ買わないだろうし、気に入れば、その本を購入したものてす。

 しかしマンガ本は違います。マンガ本の一冊なんて、ほんの数分あれば読み終えられます。立ち読みで、マンガ本1冊…どころか、2冊3冊と読んでしまう人もいます。で、読んだマンガを買うかと言えば、まあそれはありません。

 これは、先程から何度も書いてますが、対価を支払わずにコンテンツを楽しんだのだから、いわば、窃盗に当たるわけですが、別に立ち読みした人には、そんな感覚はないし、マンガ本を売っている本屋にしても、立ち読みは本が汚れて困ったものだと思っているだろうけれど、だからと言って、それが立ち読みが窃盗であるとは思わないわけだし、現在の刑法では、物体としての本が盗まれているわけではないから、立ち読みを窃盗扱いできないわけです。これはコンテンツとかソフトパワーの保護について、法整備が遅れているゆえで、現実に法律が追いついていない事の1つの現れですが、コンテンツを無断で無理で楽しんだ(=盗んだ)という事実を重んじれば、立ち読みは窃盗とほぼ同義となります。

 まあ、窃盗扱いせずとも、昨今の本屋では、マンガ本は立ち読み防止として、一冊一冊ビニールで包むようですが…その手間もおそらくバカにならないでしょうね。

 悪気がないのが、一番手に負えないわけですが、マンガの違法サイトなんて、潰しても潰しても、すぐに次のサイトが出てくるわけです。で、マンガ違法サイトがあり、日本に立ち読みという習慣がある以上、おそらく、法律でどうにかしなければ、きっとどうにもならないと思います。

 マンガぐらい、カネ出して買えよ…とオジサンは思うんだけれど、世間の人達は、そう思っていないから、違法サイトがブイブイ言わせるわけだよねえ。で、マンガ本を買わずに浮かしたオカネは何に使っているのか…と言えば、おそらくスマホ代だよね。毎月毎月スマホ代を支払っているために、金銭的な余力がなくなって、マンガも買わずに違法サイトで済ませている…だろうと、別に根拠はないけれど、そんな感じがします。

 スマホの普及で、マンガ本に限らず、多くの商売やサービスが危機に面しています。時代が変わるって、こういう事なんだなあと思います。

 まあ、マンガ本に関して言えば、違法マンガサイトも問題ですが、それ以前に、新古書店や図書館の問題。再販制度の問題。音楽で言えばJASRACに相当する著作権管理団体が無い事など、問題は山積みで、違法マンガサイトさえ片付ければ、それで万々歳とはならないんだよね。

 どちらにせよ、一番弱い立場なのが、作者であって、彼らを守り、彼らの生活を保障してあげれらないと、いずれ日本のマンガ文化も衰退をせざるをえないってわけで、その遠因が、我々消費者の好ましくない消費活動にある…って言えるのかもしれません。

 という訳で、今回は問題を投げっぱなしで終わりにします。

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2018年2月17日 (土)

ヒョウと申します、ミゾレと申します

 全滅した真ドジョウ2匹の代わりに、新たに真ドジョウを4匹、我が家に迎え入れた話をしました。

 で、その4匹のうち、2匹に名前を付けたので、ご紹介します。ヒョウとミゾレです。ですから、現在、我が家のドジョウラインナップは、以下の通りになります。

 ラズ(緋ドジョウ・最古参)
 マッチ(緋ドジョウ)
 クロ(真ドジョウ・行方不明)
 ヒョウ(真ドジョウ・新入り)
 ミゾレ(真ドジョウ・新入り)
 名無し1(真ドジョウ・新入り)
 名無し2(真ドジョウ・新入り)

 ヒョウは、色の濃い体色のマドジョウです。色が濃いだけでなく、模様(ドジョウは体表に細かな水玉模様があります)の一つ一つがかなり大きく、通常は模様が入らない頭部や腹部にまで水玉模様があります。いや、その模様の大きさから、水玉模様と言うよりも、もはやヒョウ柄と言って良いくらいなので、ヒョウ(豹)と名付けました。

 ミゾレは、逆に体色の薄い子です。かなり白に近いグレーで、水玉模様もかなり薄めの子です。全体的に、白ボケしているような体色なので、ミゾレ(霙)と名付けました。イメージは『みぞれ味のかき氷』です(笑)。

 ちなみに、ヒョウもミゾレもあまり大きなドジョウではありません。

 残りの2匹は、何の特徴もない、普通の真ドジョウなので、まだ個体識別が出来てません。個体識別ができると命名されるのが、我が家のルールなので、この2匹の命名は、きっと、まだまだ先の話だろなあ…と思っていたら、先日、そのうちの一匹が星になってしまいました。これで真ドジョウは、ヒョウとミゾレと名無しになりました。ああ、結果的に個体識別ができるようになってしまいました。いずれは、名無しにも名前をつけてやらないとなあ…。

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2018年2月16日 (金)

メカは偉大だ

 メカとは、フルートなどに載っている、あのメカの事を指しています。

 あのメカのおかげで、フルートは、本来複雑な運指を必要とするモノでも、割と簡便な運指に置き換えて吹くことができます。あのメカのおかげで、複雑な調性の曲でも(比較的)楽に演奏できるわけです。

 さらに言えば、人間の通常の手の大きさでは演奏しづらい、小型楽器や大型楽器の演奏をラクにしてくれます。

 私は先日、ファイフを吹いていました。ファイフは、ほぼピッコロと、楽器の大きさや音域が一致しています。まあ、簡易版ピッコロと言っても良い感じの教育楽器なのですが、ファイフには当然、メカは搭載されていません。指で直接トーンホールを塞ぐわけですが、これが結構大変なのです。なにしろ、私の手はファイフよりもだいぶ大きいので、上手くホールを塞ぐのに難航しちゃうわけです。ファイフにもピッコロ同様に、メカが搭載されていてたら、指の置き場はメカでしっかり確保されるわけで、それだけでだいぶ吹きやすくなるんだろうなあと思いました。また、面倒な運指も、メカの使用で簡略化できれば、複雑の調性の曲もファイフで吹けるようになるでしょう。とにかくファイフは変化音が苦手ですから、そんなに複雑な調性の曲は吹けません。吹けるのは、C管という事もあって、ハ長調にヘ長調にト長調ぐらいかな? ニ長調や変ロ長調は頑張ればどうにかなるかもしれないけれど、イ長調とか変ホ長調はあまり頑張りたくないし、それ以上はちょっと無理でしょう。でも、メカがあれば、それも楽になるはずです。

 ちなみにファイフは、かなり音痴な楽器なので、標準的な運指はありますが、より正しい音程で演奏するためには、自分で試行錯誤して運指を工夫した方が良いです。

 さて、指の置き場と言えば、逆のパターンもあって、知り合いの女性でリコーダーが得意な方がいるのですが、彼女は、ソプラノ、ソプラニーノ、アルト、バスのリコーダーを吹きます。テノールだけは吹きません。なぜかと尋ねたら「テナーだけ、指が届かない」んだそうです。

 リコーダーはフルート同様に笛なのですが、基本的にメカが搭載されていません。例外的に、バスリコーダーとコントラバスリコーダーにはメカが搭載されています。実はテナーリコーダーにも部分的にメカが搭載されていますが、メカが搭載されていない部分もあって、その部分のホールとホールの間隔が広すぎて、指が届かないのだそうです。

 ね、メカは偉大でしょ。

 ちなみに私はテナーリコーダーはジャストサイズなので、とても吹きやすいです(笑)。

 もしもフルートにメカが搭載されていなかったら…とは、想像せずとも経験できます。フラウト・トラベルソを吹いてみれば、メカのありがたさを実感できるでしょう。フルート・トラベルソは、古楽器版のフルートと言って良い楽器で、色々と素朴に作られています。メカが使われていない事も特徴の一つです。プラスチック製のモノが、リコーダーメーカーのアウロスから比較的安価で販売されています。私は所有していませんが、色々なイベントで、このプラ製フラウト・トラベルソを吹いた事がありますが、面白い楽器です。私は、この楽器を吹いた時に、ああメカって有り難いなあって思いました。

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2018年2月15日 (木)

あいうべ体操をやってみた

 皆さんは「あいうべ体操」というのを知っていますか? 知らない方は、こちらのページをご覧ください。クチ周りの筋肉を鍛えて、鼻呼吸が出来るカラダに鍛えて、健康になりましょうって趣旨の体操です。

 私、ある時、テレビの健康番組で、この「あいうべ体操」を紹介しているのも見て、さっそくマネてみましたが…私、この「あいうべ体操」が出来ない人だという事に気が付きました。どうやら、私だけがそうってわけではなく、その時のテレビの出演者の中にも、私同様に、うまく「あいうべ体操」ができない人がいたからです。

 「あいうべ体操」は、順に「あ」「い」「う」「べー」と発音していくだけの簡単な体操なのですが、問題は「い」なんです。

 世間一般の方は「い」の時に、クチビルを思いっきり横に引っ張るようです。横に引っ張ってから「いー」と発音するんだそうです。しかし、私は違います。むしろクチビルは前に突き出します。実はクチビルのカタチだけで言うなら「い」と「う」は、ほぼ一緒です。違いがあるとすると「う」の方が「い」よりも、幾分突き出し量が多めかなってぐらいです。結構「い」の時は、クチビルを丸めて前に突き出して発音します。なので「い」も「う」もクチビルのカタチはほぼ一緒なので「あいうべ体操」では、十分にクチ周りの筋肉が鍛えられないという事になってしまいます。

 どうやら私、普段から母音は、クチビルのカタチよりも、舌の動きで作っているようなんです。なので、意識すれば、ほとんどクチビルを動かさずに母音発音が出来ます。なので、腹話術はやらないけれど、もしもやったら、なかなかスジが良いのではないかと、勝手に思っているくらいです。

 実は、母音をクチビルのカタチではなく、舌の動きで作るのは、声楽的には望ましい事のようです。と言うのも、声楽では、クチビルはラッパの朝顔部分に当たるわけで、ここで音を拡声しているわけですから、クチビルを使わないと発音できない幾つかの子音はともかく、そうでない限りは、クチビルは構音には関わりなく、大きく開いていた方が、声楽的に有利なわけです。

 なので、自覚はないのですが、おそらく私がクチビルを使わずに母音の発音をしているのは、そもそもそういう傾向があった上に、声楽を学び始めた事でより顕著になったのではないかと思われます。

 思わぬ事で、自分の癖を見つめ直した私でした。

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2018年2月14日 (水)

大きな声で歌えばいいというものではない

 声楽レッスンは、まだ続きます。

 まずは、昨日紹介できなかった二曲の音源を貼ります。

 最初の曲は「Vanne, o rosa fortunata/お行き、幸せなバラよ」です。これはパヴァロッティがレヴァインのピアノで歌っている音源をアップしておきます。いつもながら、素晴らしい歌唱だと思います。

 次の「Ma rendi pur contento/喜ばせてあげて」を歌っているのは、メゾソプラノのバルトリです。この人、カストラートの役を歌うことが多い人ですが、普通に歌曲を歌っても、やっぱり上手ですね。でも、やっぱり声は、少年っぽいと言われれば、たしかに少年っぽい声ですわな。、

 さて、武満が終わる事で、しばらく日本歌曲からは距離を置きます。いやあ、日本歌曲って難しかったなあ。次に日本歌曲を歌うとしたら…林リリ子先生つながりで、林光氏のソングかな?(説明しないよ)

 さて、レッスンは、ドナウディ作曲の「Amorosi miei giorni/私の愛の日々」です。

 先生から最初に言われたのは「すとんさんは、すべての音を観客に聞こえるように歌っていますか?」です。もちろん、そりゃあそうなんですが、そういう気持ちでは、この曲は歌わない方が良いと言われました。

 だいたい、曲の出だしがppなんだし、いきなりの1オクターブの跳躍という事は、最初の一声は、観客の耳にしっかり届かなくても良い…と言うか、観客の方が耳をそばだてて聞くくらいで、ちょうどよいと言うのです。

 確かに、人って、大きな声で話されたからと言って相手の話をよく聞いているわけではなく(むしろ、うるさいなあと思って、耳を塞いだりするじゃん)、むしろ小声でひそひそ話した時の方が、その人の言葉が気になるものなのです。

 だから、歌もすべてがすべて、大声でしっかりはっきりくっきりと歌う必要はなく、時にささやき、時にはつぶやく事も大切なのです。で、この曲は、ささやきともつぶやきとも言えぬ、小さなppで歌い出されるわけです。この音をしっかり歌っては、むしろダメなんです。

 懸案事項の Lento の箇所は、だいぶ速いテンポで歌ってみました。前後のフレーズよりも、速度がゆっくりになっていれば良し…くらいの気持ちです。実際に歌ってみたテンポは、かなり速かったと思います。そんな感じで、かなり早めのテンポで歌ってみて、ようやくギリギリOKって感じになりました。気を抜いて、ゆっくりなテンポで歌ってしまうと、かなり歌が破綻してしまいます。ああ、難しいね。

 そんなこんなで、色々とありましたが、これでようやく、この曲も終了です。お疲れさまでした。次回は、同じドナウディの「Vaghissima sembianza/かぎりなく美しい絵姿」となります。これが終わると、次もまだドナウディを歌うつもりです。

 というわけで、次回からしばらく、ベッリーニとドナウディに、どっぷり浸かる私となります。それにしても、次のレッスンまでに、4曲準備しないといけないのだけれど、そんな時間が、私にあるかしら。ちょっときびしいぞ。

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2018年2月13日 (火)

限りなくジャズっぽい曲でした

 声楽のレッスンの続きです。曲の練習に入りました。まずは、武満徹作曲の「うたうだけ」です。

 この曲は歌ってみて分かったのですが…ジャズだね。ジャズソングを忠実に五線譜に書いてみました…って感じの曲です。もちろん、クラシック的アプローチで演奏するなら、譜面に忠実に歌っていけばいいわけですが、譜面に忠実であろうとすればするほど、ジャズに近づいていきます。

 これ、純粋クラシックの人には、とてつもなく歌いづらいだろうなあ…。

 リズムが難しい事に加え、和音が難しくて、クラシック音楽的には変化音が多用され、クラシック音楽的な和声進行に慣れていると、メロディーの音程が取れないと思います。なにしろ、和音は、7thや9thがバンバン使われているし、先生が「ここの音は、とても取りづらいと思います」と指摘された箇所は、楽譜上は7thだけれど、実際は13thの和音なわけで(ハ長調で表現すれば)C13なんて、ジャズの実際の演奏現場ではDm/Cとして演奏するわけで、そんなのジャズでは日常茶飯事だから、私なんぞは、そんな和音はカラダに入っているので、別に取りづらいも取りづらくないも無いわけです。でも、純粋クラシックの人には、C13はC13であって、そのままC13であって、Dm/Cにして演奏するわけもないから、ただの不協和音になってしまい、だから、音を取りづらく感じるんだろうなあ…。

 私は、この曲を自宅で練習している時に、何度も何度もジャズフルートの笛先生、ジャズピアノのヒイロ先生に習った事を思い出しちゃいましたよ。ああ、「こういうリズムの時は、こんなふうにカウントすると良いんだっけ」「跳ねる時は、一瞬のタメがかっこいいんだっけ」「スイングする時は、体全体でスイングするとノレルんだよな」とか…ね。伴奏のピアノも、明らかにジャズピアノ風だったので、これ、ヒイロ先生の伴奏で歌ったら、絶対に気持ちいいだろうなあ…なんて思ったものです。なにしろ、この曲のピアノ伴奏は、部分的に空白で、その部分はピアニストさんのアドリブで演奏する事になっているのですが、ヒイロ先生なら、きっと、オシャレなアドリブをぶち込んでくれると思うし…ね。

 とにかく、ジャズ色の濃い曲なのです。

 先日のコンサートで、武満を歌ったY先生でしたが、この曲も実は演奏候補に上がっていたそうなのです。最終的には、人前で歌われなかったのですが、それはどこまでジャズに寄って歌うべきかで悩まれたからなんだそうです。

 Y先生は、もちろん、純粋クラシックの歌手です。器用な方ですから、ジャズ風に歌うこともできるのですが、クラシック歌手として歌う場合は、それが悩みどころで、どこまでジャズに近寄り、どこまでクラシックに留まって歌うか…それが問題だったそうです。プロは悩むところが我々と違います。

 私は、その点、何も悩まず(笑)、何も考えずに、クラシックアプローチで歌いました。私の場合、クラシックアプローチで歌っても、ジャズっぽいのがにじみ出ちゃいますので、にじみ出ちゃったモノは仕方がないとあきらめて(笑)しまうわけです。

 不自然に歌うよりも、自然な感じで歌うべきだし、その結果、ジャズっぽくなっても、それは仕方ないよねって立場です。

 たった一回のレッスンでしたが(得意ジャンルの曲なので)この曲は今回で終わりになりました。次からは、いよいよベッリーニの『6つのアリエッタ』となります。で、学習順番ですが、以前原調で歌った事のある1番の「Malinconia, Ninfa gentile/マリンコニーア」、2番の「Vanne, o rosa fortunata/お行き、幸せなバラよ」、6番の「Ma rendi pur contento/喜ばせてあげて」を、まずは練習してくる事になりました。できたら、この三曲は次回のレッスンで上げてゆきたいものです。で、これらが終わったら、腰を据えて、3番以降の曲に取り組みます。

 と言う訳で、今回はこれらの曲をよく知らない人のために、例によって音源を貼っておきます。

 歌っているのは、ロランド・ヴィラゾンです。いつもながら、素晴らしい演奏ですね。伴奏がオーケストラってのも珍しいですね。ちなみに、最後のフレーズに変奏を加えて歌っているので、楽譜通りの歌唱じゃないと言えば、そのとおりだけれど、まあ、これくらいの変奏は許されるんじゃないかな?

 残りの曲の音源は、明日紹介します。

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2018年2月12日 (月)

コペルニクスだよ、こりゃきっと

 声楽のレッスンに行ってきました。

 まずは、ハミング練習からです。いつもの注意を受けました。響きを高く、クチの中は縦に広げて、クチの上部を上に引っ張り上げて、息をしっかりと通す。それだけの事です。それだけの事が、いつもいつもうまく出来なくて注意を受けちゃうわけです。

 発声練習です。音程をテクニカルに取っていきましょう、ってか、テクニカルに歌えば、自然と音程は気持ち良いところに収まっていきます。詰まるところ、1)息の通り道がしっかり確保されている。2)ノドが楽に発声できている。これらが十分に成されていれば、音程は気持ち良いところに収まるし、テクニック的にうまく行っていなければ、音程はフラットしてしまうわけです。

 発声をする際に気をつけるのは、きちんとテクニカルに歌えているかどうかです。テクニカルに歌えば、音程は気にしなくても良いのです。(音程が正しくても、必ずしもテクニカルに歌えているわけではないので、音程の正しさではなくテクニカルに歌えているかどうかに気をつけるべきなのです。必ずしも“逆は真成らず”なのです。)

 で、テクニック的にOKで、音程がちゃんとしているようになってから、次の段階を考えるべきなのです。次の段階とは、声の音色であったり、表現であったりと言った事柄です。テクニック的に不足したままで、表現に走ってしまうと、間違いなく音程に破綻が来るそうなのです。だから、まずはテクニック。そして音程がしっかりしてから、声の音色の幅を広げ、その後に表現が来ます。

 コペルニクスだね、こりゃ。

 私はキング先生に習っていた時から、まずは“表現を”一番にするように心がけてきました。それはこのブログの古い読者さんなら分かってくださると思います。多少、音程が甘くても、表現がちゃんとしていたら、お客さんは聞いてくれると言われ続けてきましたし、私自身もその言葉を信じてやってきました。実際、音程は正しくても表現力に乏しい歌唱よりも、多少音程に難が有っても、鬼気迫る表現力を伴って歌われた歌の方が、私自身、好きだったしね。

 とにかく、表現力だったんですよ。で、更に歌に“テクニックは要らない”とも言われていました。私が自宅練習であれこれ工夫してくると、即座に否定され「小賢しい事はするな。歌にはテクニックなど必要ない。必要なのは反復練習だ!」と言われたものです。10回歌ってできなければ100回歌え、100回歌ってできなければ1000回歌え、1000回歌ってできなければ…というノリなのです。ここもキング先生とY先生の違いで、Y先生はむしろ反復練習を嫌うんですよね。

 と言うのも、上手に歌えているなら、反復練習は声を減らすだけなので必要ないし、上手に歌えていないなら、反復練習をする事で、失敗経験ばかりを増やして、下手くそが固定化されてしまうので、反復練習を嫌っているのです。

 先生によって、良しとする方法論が違うわけです。まいったね、こりゃ。

 とにかく、表現は横に置いて、まずはテクニック、それも息や声のテクニックに気をつけて、音程正しい歌が歌えるようにがんばります。

 Y先生曰く「出ない音は、何をどうやっても出ないのだから、出ない音を出そうなんて苦労をしてはいけない。それよりも、今、出せる音を、もっときちんと、もっと美しく出せるように努力しないといけない」ってわけです。今まで、出ない音をどうやって出そうかと必死こいていた私からすれば、これもコペルニクスなわけです。

 ああ、目からウロコがポロポロ落ちる落ちる…。

 そして、テクニカルに歌うためには、自分のカラダを自由にコントロールできなきゃいけないのだから、まずはフィジカルを鍛えないといけません。必要な筋肉や神経を鍛えていかなければいけません。だから、テクニカルに歌うためにも、筋トレが必要なのです。動かない部位を意識的に動かせるようにする必要があるのです。

 腹筋は、まだまだ不十分ですが、以前と較べると、だいぶ動くようになりました。次は軟口蓋&口蓋垂です。私の口蓋垂は、ほんと、動きが悪いです。もっと意識的に、もっと俊敏に動かせないといけません。腹筋も難しいけれど、軟口蓋&口蓋垂は、自分じゃ見えない場所だから、これを意識的に動かすのは、なかなか容易なことではありません。頑張らないと…ね。

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